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夏越し (なごし) 今度のは長い。 上忍が出立してから、アカデミーの桜は散りこいのぼりが揚がって降りた。 そして長雨が続いている。 上忍の不在をこれほど長いと感じたことはなかったかもしれない。 彼ほどの手練れともなれば半年一年近い任務も稀ではない。今までそれを長いと思ったことなどなかった。ただ日々の仕事をこつこつとこなすことで待っていた。 それが今、何故これほどまでに長いと感じるのか。 雨のせいだ。イルカは勝手に考える。 空気の一粒一粒が湿気を含んで重い。その湿気が熱を帯びて、それがイルカのからだにぺっとりと纏わりついてくるのだ。 振り払っても振り払ってもアメーバーのようにぺたぺたじとじと絡みついてくる。真夏の陽光なら影の中に逃げれば追いかけてはこない。けれどこれはどこに行ってもついてくる。 だからこうして、ひとりぼーっと庭先を眺めて座っているとその重さが耐えがたくなる。 さっきまで降っていた雨音がいつの間にかやんでいる。 ぽつり・・ぽつり・・軒先から名残の水が落ちてくる音だけが、やけに大きく聞こえる。 それ以外は、なにもない。 イルカはひとり。 体温のようなジェリーに包まれて、イルカは動けないでいる。重くて暑い、ジェリー。 時々首の後ろをにゅるにゅると何かが這い降りていく。くくった髪の中から、ゆっくりとうなじを降りていく。 手を伸ばしたくてもイルカの手は動かない。ジェリーをかき分ける力が出ない。 ―― カカシさん・・・どこに居るの? 目を凝らす紫陽花の葉の上に、にゅるりにゅるりと這いずるものがひとつ。二つの眼を時々交互に引っ込めながら、それはゆっくりと這っていく。銀色の粘液を引きずりながら、ずるりずるり、ずるり・・ずるり・・・葉の裏からもう一匹、そして隣の葉にもう一匹、その茎にもう一匹その上にもう一匹花の中にもう一匹もう一匹もう一匹もう一匹・・・。 首の後ろをにゅるにゅると、何かが這い降りていく。ぺったりとしたヒダの足がうねって、一匹また一匹、ずるりずるりと降りていく。葉の上の眼たちが、引っ込みながら出っ張りながら一斉にイルカを見つめる。うなじから背中にゆっくりと降りてくる。ノドをまわって胸の中に這いこんでくる。うにゅうにゅとぺたぺたと・・・ イルカは、動けない。 ―― カカシさん・・・助け・・て・・! 上忍の姿は無く、暑いジェリーの中でイルカはひとりもがく。身体中をヒダヒダの足が這いずりまわっている。脇の下も座った太股の間にも下履きの中にさえも、ぬらぬらとした粘液が蠢く。 蠢き這いずるジェリーの中で熱が上がっていく。ねばねばが眼をふさぎ、耳の中に入りこんで音はすべてぼわーっと霞む。口の中に這いこむものに必死で抗ったけれど唇の間からずるりと入られた。ノドの奥に引っかかる。息が詰まる。 イルカはもう、感じる事をやめようとしていた。 ―― さん? 遠くで誰かが呼んでいる。ここではないどこか? ―― イルカさん? 確かに誰かが呼んでいる。行かなくては・・・イルカの意識だけがもがく。 「イルカさん! しっかりしてください!」 懐かしい上忍の声。 ―― カカシ・・さん? ひゃぁっ! いきなりうなじに冷たいものを押し付けられてイルカは悲鳴をあげる。 「そうです、オレですよ。イルカさん、ぼーっとして、大丈夫ですか?」 太い指で瞼を覆うねばねばが拭き取られ、ひたいにもう一度冷たい何かが乗せられた。 イルカがびくっと震える。暑いジェリーがそこだけ溶けていく。 目のなかに優しい上忍の笑顔が広がる。 「それ、何ですか?」 「これはねぇ、東の国のお菓子ですよ。」 笹の葉のような大きな葉をカカシがさらさらと開いていく。中には三角形のお菓子が四つ。 ぷるんとした半透明な四角の上にあんこの粒々が広げられ、三角半分に切ってある。白いのと黒っぽいのがひとつずつ。 「これは夏越しの厄落としのお菓子なんですって。夏の始めにこれを食べるとひと夏元気に暮らせるそうですよ。」 カカシの手が、竹の小さな小さなナイフで白い三角の端を切り取って、そっと口に押し込んでくる。 くにゃっとした舌触りと甘い味が口いっぱいに広がって、ノドの奥でつっかえていたものが一緒に落ちていった。 「カカシ・・さん・・・ お帰りなさい・・」 目から熱いものが零れ落ちる。カカシの指がそれを拭き取ってゆっくりと抱きすくめる。 「ただいまイルカさん。寂しかったですか?」 「カカシさん・・動けないんです。暑くて重くてひとりでは動けないんです。何かが這いずっているんです。」 カカシはふわりと立ちあがるとパタパタと台所に走ってガラスのコップを持って戻ってきた。唇に冷たい水が流れこんでくる。 カカシの手がノドをのけぞらせ、首筋を冷たい舌先がなぞっていく。あの、銀の粘液が舐め取られていく。 いきなり、うなじに冷たいコップが押し付けられた。 「あうっ・・・」 上忍の目が笑っている。胸元を開かれ、舌先が這い降りてくる。袖口から冷たい指が忍び込み脇の下までつつーっと走る。 「くぅ・・ あ・・ カカシ・・さん・・」 這いまわるヒダヒダの足が消えていく。重いジェリーも舐め取られていく。身体の感覚が蘇ってくる。 「カカシさん・・あいつらが、溶けていく・・・」 「オレが全部消してあげます。これがイルカさんの、夏越しですよ。」 カカシの舌と指先が、足跡だらけのイルカを取り返すように身体中をなぞり始めた。
2004.07.05 下研部 希(Shimotobe Nozomi)
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