親鸞聖人 ご消息(手紙)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝 謹写


四十一

 護念坊のたよりに、教忍御坊より銭二百文、御こころざしのものたまはりて候ふ。さきに念仏のすすめのもの、かたがたの御中よりとて、たしかにたまはりて候ひき。ひとびとによろこび申させたまふべく候ふ。この御返事にて、おなじ御こころに申させたまふべく候ふ。

 さてはこの御たづね候ふことは、まことによき御疑どもにて候ふべし。まづ一念にて往生の業因はたれりと申し候ふは、まことにさるべきことにて候ふべし。さればとて、一念のほかに念仏を申すまじきことには候はず。そのやうは『唯信鈔』にくはしく候ふ。よくよく御覧候ふべし。

一念のほかにあまるところの念仏は、十方の衆生に回向すべしと候ふも、さるべきことにて候ふべし。十方の衆生に回向すればとて、二念・三念せんは往生にあしきこととおぼしめされ候はば、ひがことにて候ふべし。念仏往生の本願とこそ仰せられて候へば、おほく申さんも、一念・一称も、往生すべしとこそうけたまはりて候へ。かならず一念ばかりにて往生すといひて、多念をせんは往生すまじきと申すことは、ゆめゆめあるまじきことなり。『唯信鈔』をよくよく御覧候ふべし。

 また有念・無念と申すことは、他力の法文にはあらぬことにて候ふ。聖道門に申すことにて候ふなり。みな自力聖道の法文なり。阿弥陀如来の選択本願念仏は、有念の義にもあらず、無念の義にもあらずと申し候ふなり。いかなるひと申し候ふとも、ゆめゆめもちゐさせたまふべからず候ふ。聖道に申すことを、あしざまにききなして、浄土宗に申すにてぞ候ふらん。さらさらゆめゆめ、もちゐさせたまふまじく候ふ。

また慶喜と申し候ふことは、他力の信心をえて往生を一定してんずとよろこぶこころを申すなり。常陸国中の念仏者のなかに有念・無念の念仏沙汰のきこえ候ふは、ひがことに候ふと申し候ひにき。

ただ詮ずるところは、他力のやうは行者のはからひにてはあらず候へば、有念にあらず、無念にあらずと申すことを、あしうききなして、有念・無念なんど申し候ひけるとおぼえ候ふ。弥陀の選択本願は行者のはからひの候はねばこそ、ひとへに他力とは申すことにて候へ。一念こそよけれ、多念こそよけれなんど申すことも、ゆめゆめあるべからず候ふ。

なほなほ一念のほかにあまるところの御念仏を法界衆生に回向すと候ふは、釈迦・弥陀如来の御恩を報じまゐらせんとて、十方衆生に回向せられ候ふらんは、さるべく候へども、二念・三念申して往生せんひとを、ひがこととは候ふべからず。よくよく『唯信鈔』を御覧候ふべし。念仏往生の御ちかひなれば、一念・十念も往生はひがことにあらずとおぼしめすべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
  十二月二十六日    親鸞
 教忍御坊御返事

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