親鸞聖人 ご消息(手紙)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝 謹写


三十九

 御たづね候ふことは、弥陀他力の回向の誓願にあひたてまつりて、真実の信心をたまはりてよろこぶこころの定まるとき、摂取して捨てられまゐらせざるゆゑに、金剛心になるときを正定聚の位に住すとも申す。弥勒菩薩とおなじ位になるとも説かれて候ふめり。弥勒とひとつ位になるゆゑに、信心まことなるひとを、仏にひとしとも申す。

 また諸仏の真実信心をえてよろこぶをば、まことによろこびて、われとひとしきものなりと説かせたまひて候ふなり。『大経』(下)には、釈尊のみことばに「見敬得大慶則我善親友」とよろこばせたまひ候へば、信心をえたるひとは諸仏とひとしと説かれて候ふめり。

また弥勒をば、すでに仏に成らせたまはんことあるべきにならせたまひて候へばとて、弥勒仏と申すなり。しかればすでに他力の信をえたるひとをも、仏とひとしと申すべしとみえたり。御疑あるべからず候ふ。

 御同行の「臨終を期して」と仰せられ候ふらんは、ちからおよばぬことなり。信心まことにならせたまひて候ふひとは、誓願の利益にて候ふうへに、摂取して捨てずと候へば、来迎臨終を期せさせたまふべからずとこそおぼえ候へ。いまだ信心定まらざらんひとは、臨終をも期し来迎をもまたせたまふべし。

 この御文主の御名は随信房と仰せられ候はば、めでたく候ふべし。この御文の書きやうめでたく候ふ。御同行の仰せられやうはこころえず候ふ。それをばちからおよばず候ふ。あなかしこ、あなかしこ。
  十一月二十六日    親鸞
 随信御房

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