親鸞聖人 ご消息(手紙)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝 謹写


三十七

 なによりも聖教のをしへをもしらず、また浄土宗のまことのそこをもしらずして、不可思議の放逸無慚のものどものなかに、悪はおもふさまにふるまふべしと仰せられ候ふなるこそ、かへすがへすあるべくも候はず。北の郡にありし善証房といひしものに、つひにあひむつるることなくてやみにしをばみざりけるにや。

凡夫なればとて、なにごともおもふさまならば、ぬすみをもし、人をもころしなんどすべきかは。もとぬすみごころあらん人も、極楽をねがひ念仏を申すほどのことになりなば、もとひがうたるこころをもおもひなほしてこそあるべきに、そのしるしもなからんひとびとに、悪くるしからずといふこと、ゆめゆめあるべからず候ふ。

煩悩にくるはされて、おもはざるほかにすまじきことをもふるまひ、いふまじきことをもいひ、おもふまじきことをもおもふにてこそあれ。さはらぬことなればとて、ひとのためにもはらぐろく、すまじきことをもし、いふまじきことをもいはば、煩悩にくるはされたる儀にはあらで、わざとすまじきことをもせば、かへすがへすあるまじきことなり。

 鹿島・行方のひとびとのあしからんことをばいひとどめ、その辺の人人の、ことにひがみたることをば制したまはばこそ、この辺より出できたるしるしにては候はめ。ふるまひはなにともこころにまかせよといひつると候ふらん、あさましきことに候ふ。この世のわろきをもすて、あさましきことをもせざらんこそ、世をいとひ念仏申すことにては候へ。としごろ念仏するひとなんどの、ひとのためにあしきことをし、またいひもせば、世をいとふしるしもなし。

 されば善導の御をしへには、「悪をこのむ人をばつつしんでとほざかれ」(散善義・意)とこそ、至誠心のなかにはをしへおかせおはしまして候へ。いつかわがこころのわろきにまかせてふるまへとは候ふ。おほかた経釈をもしらず、如来の御ことをもしらぬ身に、ゆめゆめその沙汰あるべくも候はず。あなかしこ、あなかしこ。
  十一月二十四日    親鸞

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