親鸞聖人 ご消息(手紙)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝 謹写


二十七

 まづよろづの仏・菩薩をかろしめまゐらせ、よろづの神祇・冥道をあなづりすてたてまつると申すこと、この事ゆめゆめなきことなり。世世生生に無量無辺の諸仏・菩薩の利益によりて、よろづの善を修行せしかども、自力にては生死を出でずありしゆゑに、曠劫多生のあひだ、諸仏・菩薩の御すすめによりて、いままうあひがたき弥陀の御ちかひにあひまゐらせて候ふ御恩をしらずして、よろづの仏・菩薩をあだに申さんは、ふかき御恩をしらず候ふべし。

仏法をふかく信ずるひとをば、天地におはしますよろづの神は、かげのかたちに添へるがごとくして、まもらせたまふことにて候へば、念仏を信じたる身にて、天地の神をすてまうさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり。神祇等だにもすてられたまはず、いかにいはんや、よろづの仏・菩薩をあだにも申し、おろかにおもひまゐらせ候ふべしや。よろづの仏をおろかに申さば、念仏を信ぜず、弥陀の御名をとなへぬ身にてこそ候はんずれ。

詮ずるところは、そらごとを申し、ひがことをことにふれて、念仏のひとびとに仰せられつけて、念仏をとどめんとするところの領家・地頭・名主の御はからひどもの候ふらんこと、よくよくやうあるべきことなり。そのゆゑは、釈迦如来のみことには念仏するひとをそしるものをば「名無眼人」と説き、「名無耳人」と仰せおかれたることに候ふ。善導和尚は、「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」(法事讃・下)とたしかに釈しおかせたまひたり。

この世のならひにて念仏をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主のやうあることにてこそ候はめ、とかく申すべきにあらず。念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろに申して、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひとは申され候ひしか。よくよく御たづねあるべきことなり。

 つぎに、念仏せさせたまふひとびとのこと、弥陀の御ちかひは煩悩具足のひとのためなりと信ぜられ候ふは、めでたきやうなり。ただしわるきもののためなりとて、ことさらにひがことをこころにもおもひ、身にも口にも申すべしとは、浄土宗に申すことならねば、ひとびとにもかたること候はず。

おほかたは、煩悩具足の身にて、こころをもとどめがたく候ひながら、往生を疑はずせんとおぼしめすべしとこそ、師も善知識も申すことにて候ふに、かかるわるき身なれば、ひがことをことさらに好みて、念仏のひとびとのさはりとなり、師のためにも善知識のためにも、とがとなさせたまふべしと申すことは、ゆめゆめなきことなり。

弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、仏恩を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、かへすがへすこころえず候ふ。あさましきことに候ふ。ひとびとのひがさまに御こころえどもの候ふゆゑ、あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。

ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。よくよく御はからひども候ふべし。なほなほ念仏せさせたまふひとびと、よくよくこの文を御覧じ説かせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。
  九月二日       親鸞
 念仏の人人御中へ

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