親鸞聖人 ご消息(手紙)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝 謹写


十九

 諸仏称名の願(第十七願)と申し、諸仏咨嗟の願(同)と申し候ふなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめん料ときこえて候ふ。『弥陀経』の十方諸仏の証誠のやうにてきこえたり。詮ずるところは、方便の御誓願と信じまゐらせ候ふ。

念仏往生の願(第十八願)は如来の往相回向の正業・正因なりとみえて候ふ。まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒とひとしければ、如来とひとしとも、諸仏のほめさせたまひたりとこそ、きこえて候へ。

また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(源空)の仰せにて候へ。かやうに義の候ふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえて候ふ。

また他力と申すは、仏智不思議にて候ふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ。しかれば、義なきを義とすと候ふなり。義と申すことは自力のひとのはからひを申すなり。他力には、しかれば、義なきを義とすと候ふなり。このひとびとの仰せのやうは、これにはつやつやとしらぬことにて候へば、とかく申すべきにあらず候ふ。

また「来」の字は、衆生利益のためには、きたると申す、方便なり。さとりをひらきては、かへると申す。ときにしたがひて、きたるともかへるとも申すとみえて候ふ。なにごともなにごとも、またまた申すべく候ふ。
  二月九日       親鸞
 慶西御坊 御返事

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