蓮如上人御一代記聞書

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝 謹写


蓮如上人御一代記聞書本


(1)

一、勧修寺村の道徳、明応二年正月一日に御前へまゐりたるに、蓮如上人仰せられ候ふ。道徳はいくつになるぞ、道徳念仏申さるべし。

自力の念仏といふは、念仏おほく申して仏にまゐらせ、この申したる功徳にて仏のたすけたまはんずるやうにおもうてとなふるなり。他力といふは、弥陀をたのむ一念のおこるとき、やがて御たすけにあづかるなり。そののち念仏申すは、御たすけありたるありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すばかりなり。されば他力とは他のちからといふこころなり。この一念、臨終までとほりて往生するなりと仰せ候ふなり。

一、勧修寺村(かじゅうじむら=現京都市山科区勧修寺東北出町)の道徳(人名)という人が、明応二年(1493)正月一日に、蓮如上人の御前へ、年賀の挨拶にうかがったら、上人が言われた。「道徳はこの正月で何歳になられた。年賀の挨拶も大切だが、念仏を申されよ。」

自力の念仏というのは、数多く念仏を申して仏の方へ振り向け、この申した功徳によって、仏が助けて下さるように思って称えるものである。他力は、阿弥陀仏にまかせる一念のおこるとき、直ちにお助けにあずかる。それ以後も念仏を申すのは、お助けいただくありがたさを思う心を喜んで、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すばかりである。だから、他力とは、他の力という意味である。この一念を、臨終まで通して往生するのだとおっしゃった。

(2)

一、あさの御つとめに「いつつの不思議をとくなかに」(高僧和讃・三三)より「尽十方の無碍光は 無明のやみをてらしつつ 一念歓喜するひとを かならず滅度にいたらしむ」(高僧和讃・三八)と候ふ段のこころを御法談のとき、「光明遍照十方世界」(観経)の文のこころと、また「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむるひとのこころにぞすむ」とある歌をひきよせ御法談候ふ。なかなかありがたさ申すばかりなく候ふ。

上様(蓮如)御立ちの御あとにて、北殿様(実如)の仰せに、夜前の御法談、今夜の御法談とをひきあはせて仰せ候ふ。ありがたさありがたさ是非におよばずと御掟候ひて、御落涙の御こと、かぎりなき御ことに候ふ。

(3)

一、御つとめのとき順讃御わすれあり。南殿へ御かへりありて、仰せに、聖人(親鸞)御すすめの『和讃』、あまりにあまりに殊勝にて、あげばをわすれたりと仰せ候ひき。ありがたき御すすめを信じて往生するひとすくなしと御述懐なり。

(4)

一、念声是一といふことしらずと申し候ふとき、仰せに、おもひ内にあればいろ外にあらはるるとあり。されば信をえたる体はすなはち南無阿弥陀仏なりとこころうれば、口も心もひとつなり。

  ある人が、念声是一(ねんしょうぜいち)という法然上人の教説の意味が分からないと言ったとき、蓮如上人のおっしゃるには、「思いが内にあれば、それが表に現れるという。同様に、信心を得た体が南無阿弥陀仏だと心得れば、口で称えるのも心に念ずるのもひとつなのだ」ということだった。

(5)

一、蓮如上人仰せられ候ふ。本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれと、対句に仰せられ候ふ。

(6)

一、仰せに、南無といふは帰命なり、帰命といふは弥陀を一念たのみまゐらするこころなり。また発願回向といふは、たのむ機にやがて大善・大功徳をあたへたまふなり、その体すなはち南無阿弥陀仏なりと仰せ候ひき。

(7)

一、加賀の願生と覚善又四郎とに対して、信心といふは弥陀を一念御たすけ候へとたのむとき、やがて御たすけあるすがたを南無阿弥陀仏と申すなり。総じて罪はいかほどあるとも、一念の信力にて消しうしなひたまふなり。されば「無始以来輪転六道の妄業、一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生の妙願力にほろぼされて、涅槃畢竟の真因はじめてきざすところをさすなり」(真要鈔・本)といふ御ことばを引きたまひて仰せ候ひき。さればこのこころを御かけ字にあそばされて、願生にくだされけり。

(8)

一、三河の教賢、伊勢の空賢とに対して、仰せに、南無といふは帰命、このこころは御たすけ候へとたのむなり。この帰命のこころやがて発願回向のこころを感ずるなりと仰せられ候ふなり。

(9)

一、「他力の願行をひさしく身にたもちながら、よしなき自力の執心にほだされて、むなしく流転しけるなり」(安心決定鈔)と候ふを、え存ぜず候ふよし申しあげ候ふところに、仰せに、ききわけてえ信ぜぬもののことなりと仰せられ候ひき。

(10)

一、「弥陀の大悲、かの常没の衆生のむねのうちにみちみちたる」(安心決定鈔・本意)といへること不審に候ふと、福田寺申しあげられ候ふ。仰せに、仏心の蓮華はむねにこそひらくべけれ、はらにあるべきや。「弥陀の身心の功徳、法界衆生の身のうちこころのそこに入りみつ」(同)ともあり。しかればただ領解の心中をさしてのことなりと仰せ候ひき。ありがたきよし候ふなり。

(11)

一、十月二十八日の逮夜にのたまはく、「正信偈」・『和讃』をよみて、仏にも聖人(親鸞)にもまゐらせんとおもふか、あさましや。他宗にはつとめをもして回向するなり、御一流には他力信心をよくしれとおぼしめして、聖人の『和讃』にそのこころをあそばされたり。ことに七高祖の御ねんごろなる御釈のこころを、『和讃』にききつくるやうにあそばされて、その恩をよくよく存知して、あらたふとやと念仏するは、仏恩の御ことを聖人の御前にてよろこびまうすこころなりと、くれぐれ仰せられ候ひき。

(12)

一、聖教をよくおぼえたりとも、他力の安心をしかと決定なくはいたづらごとなり。弥陀をたのむところにて往生決定と信じて、ふたごころなく臨終までとほり候はば往生すべきなり。

(13)

一、明応三年十一月、報恩講の二十四日あかつき八時において、聖人の御前〔に〕参拝まうして候ふに、すこしねぶり候ふうちに、ゆめともうつつともわかず、空善拝みまうし候ふやうは、御厨子のうしろよりわたをつみひろげたるやうなるうちより、上様(蓮如)あらはれ御出であると拝みまうすところに、御相好、開山聖人(親鸞)にてぞおはします。

あら不思議やとおもひ、やがて御厨子のうちを拝みまうせば、聖人御座なし、さては開山聖人、上様に現じましまして、御一流を御再興にて御座候ふと申しいだすべきと存ずるところに、慶聞坊の讃嘆に、聖人の御流儀、「たとへば木石の縁をまちて火を生じ、瓦礫の_をすりて玉をなすがごとし」と、『御式』(報恩講私記)のうへを讃嘆あるとおぼえて夢さめて候ふ。さては開山聖人の御再誕と、それより信仰申すことに候ひき。

(14)

一、教化するひと、まづ信心をよく決定して、そのうへにて聖教をよみかたらば、きくひとも信をとるべし。

(15)

一、仰せに、弥陀をたのみて御たすけを決定して、御たすけのありがたさよとよろこぶこころあれば、そのうれしさに念仏申すばかりなり、すなはち仏恩報謝なり。

(16)

一、大津近松殿に対しましまして仰せられ候ふ。信心をよく決定して、ひとにもとらせよと仰せられ候ひき。

(17)

一、十二月六日に富田殿へ御下向にて候ふあひだ、五日の夜は大勢御前へまゐり候ふに、仰せに、今夜はなにごとに人おほくきたりたるぞと。順誓申され候ふは、まことにこのあひだの御聴聞申し、ありがたさの御礼のため、また明日御下向にて御座候ふ。御目にかかりまうすべしかのあひだ、歳末の御礼のためならんと申しあげられけり。そのとき仰せに、無益の歳末の礼かな、歳末の礼には信心をとりて礼にせよと仰せ候ひき。

(18)

一、仰せに、ときどき懈怠することあるとき、往生すまじきかと疑ひなげくものあるべし。しかれども、もはや弥陀如来をひとたびたのみまゐらせて往生決定ののちなれば、懈怠おほくなることのあさましや、かかる懈怠おほくなるものなれども、御たすけは治定なり、ありがたやありがたやとよろこぶこころを、他力大行の催促なりと申すと仰せられ候ふなり。

(19)

一、御たすけありたることのありがたさよと念仏申すべく候ふや、また御たすけあらうずることのありがたさよと念仏申すべく候ふやと、申しあげ候ふとき、仰せに、いづれもよし、ただし正定聚のかたは御たすけありたるとよろこぶこころ、滅度のさとりのかたは御たすけあらうずることのありがたさよと申すこころなり。いづれも仏に成ることをよろこぶこころ、よしと仰せ候ふなり。

(20)

一、明応五年正月二十三日に富田殿より御上洛ありて、仰せに、当年よりいよいよ信心なき人には御あひあるまじきと、かたく仰せ候ふなり。安心のとほりいよいよ仰せきかせられて、また誓願寺に能をさせられけり。二月十七日にやがて富田殿へ御下向ありて、三月二十七日に堺殿より御上洛ありて、二十八日に仰せられ候ふ。「自信教人信」(礼讃)のこころを仰せきかせられんがために、上り下り辛労なれども御出であるところは、信をとりよろこぶよし申すほどに、うれしくてまたのぼりたりと仰せられ候ひき。

(21)

一、四月九日に仰せられ候ふ。安心をとりてものをいはばよし、用ないことをばいふまじきなり、一心のところをばよく人にもいへと、空善に御掟なり。

(22)

一、同じき十二日に堺殿へ御下向あり。

(23)

一、七月二十日御上洛にて、その日仰せられ候ふ。「五濁悪世のわれらこそ 金剛の信心ばかりにて ながく生死をすてはてて 自然の浄土にいたるなれ」(高僧和讃・七六)。このつぎをも御法談ありて、この二首の讃のこころをいひてきかせんとてのぼりたりと仰せ候ふなり。さて自然の浄土にいたるなり、ながく生死をへだてける、さてさてあらおもしろやおもしろやと、くれぐれ御掟ありけり。

(24)

一、のたまはく、「南无」の字は聖人(親鸞)の御流義にかぎりてあそばしけり。「南无阿弥陀仏」を泥にて写させられて、御座敷に掛けさせられて仰せられけるは、不可思議光仏、無碍光仏もこの南無阿弥陀仏をほめたまふ徳号なり、しかれば南無阿弥陀仏を本とすべしと仰せられ候ふなり。

(25)

一、「十方無量の諸仏の 証誠護念のみことにて 自力の大菩提心の かなはぬほどはしりぬべし」(正像末和讃・四四)。御讃のこころを聴聞申したきと順誓申しあげられけり。仰せに、諸仏の弥陀に帰せらるるを能としたまへり。「世のなかにあまのこころをすてよかし 妻うしのつのはさもあらばあれ」と。これは御開山(親鸞)の御歌なり。さればかたちはいらぬこと、一心を本とすべしとなり。世にも「かうべをそるといへども心をそらず」といふことがあると仰せられ候ふ。

(26)

一、「鳥部野をおもひやるこそあはれなれ ゆかりの人のあととおもへば」。これも聖人の御歌なり。

(27)

一、明応五年九月二十日、御開山(親鸞)の御影(ごえい)様、空善に御免あり、なかなかありがたさ申すにかぎりなきことなり。

(28)

一、同じき十一月報恩講の二十五日に御開山の御伝(御伝鈔)を聖人(親鸞)〔の〕御前にて上様(蓮如)あそばされて、いろいろ御法談候ふ。なかなかありがたさ申すばかりなく候ふ。

(29)

一、明応六年四月十六日御上洛にて、その日御開山聖人の御影の正本、あつがみ一枚につつませ、みづからの御筆にて御座候ふとて、上様御手に御ひろげ候ひて、皆に拝ませたまへり。この正本、まことに宿善なくては拝見申さぬことなりと仰せられ候ふ。

(30)

一、のたまはく、「諸仏三業荘厳(さんごうしょうごん)して 畢竟(ひっきょう)平等なることは 衆生虚誑の身口意を 治せんがためとのべたまふ」(高僧和讃・四四)といふは、諸仏の弥陀に帰して衆生をたすけらるることよと仰せられ候ふ。

(31)

一、一念の信心をえてのちの相続といふは、さらに別のことにあらず、はじめ発起するところの安心を相続せられてたふとくなる一念のこころのとほるを、「憶念の心つねに」とも「仏恩報謝」ともいふなり。いよいよ帰命の一念、発起(ほっき)すること肝要なりと仰せ候ふなり。

(32)

一、のたまはく、朝夕、「正信偈」・『和讃』にて念仏申すは、往生のたねになるべきかなるまじきかと、おのおの坊主に御たづねあり。皆申されけるは、往生のたねになるべしと申したる人もあり、往生のたねにはなるまじきといふ人もありけるとき、仰せに、いづれもわろし、「正信偈」・『和讃』は、衆生の弥陀如来を一念にたのみまゐらせて、後生たすかりまうせとのことわりをあそばされたり。よくききわけて信をとりて、ありがたやありがたやと聖人(親鸞)の御前にてよろこぶことなりと、くれぐれ仰せ候ふなり。

(33)

一、南無阿弥陀仏の六字を他宗には大善・大功徳にてあるあひだ、となへてこの功徳を諸仏・菩薩・諸天にまゐらせて、その功徳をわがものがほにするなり。一流にはさなし。この六字の名号わがものにてありてこそ、となへて仏・菩薩にまゐらすべけれ、一念一心に後生たすけたまへとたのめば、やがて御たすけにあづかることのありがたさありがたさと申すばかりなりと仰せ候ふなり。

(34)

一、三河の国浅井の後室、御いとまごひにとてまゐり候ふに、富田殿へ御下向のあしたのことなれば、ことのほかの御取りみだしにて御座候ふに、仰せに、名号をただとなへて仏にまゐらするこころにてはゆめゆめなし。弥陀をしかと御たすけ候へとたのみまゐらすれば、やがて仏の御たすけにあづかるを南無阿弥陀仏と申すなり。しかれば御たすけにあづかりたることのありがたさよありがたさよと、こころにおもひまゐらするを、口に出して南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申すを、仏恩を報ずるとは申すことなりと仰せ候ひき。

(35)

一、順誓申しあげられ候ふ。一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退の位に定まると、『御文』にあそばされたり。しかるに罪はいのちのあるあひだ、罪もあるべしと仰せ候ふ。『御文』と別にきこえまうし候ふやと、申しあげ候ふとき、仰せに、一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、去れば無き分なり、命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり。順誓は、はや悟りて罪はなきかや、聖教には「一念のところにて罪消えて」とあるなりと仰せられ候ふ。

罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず、ただ信心肝要なりと、くれぐれ仰せられ候ふなり。

(36)

一、「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」(正像末和讃・三九)といふは、弥陀のかたより、たのむこころもたふとやありがたやと念仏申すこころも、みなあたへたまふゆゑに、とやせんかくやせんとはからうて念仏申すは、自力なればきらふなりと仰せ候ふなり。

(37)

一、無生の生とは、極楽の生は三界をへめぐるこころにてあらざれば、極楽の生は無生の生といふなり。

(38)

一、回向といふは、弥陀如来の、衆生を御たすけをいふなりと仰せられ候ふなり。

(39)

一、仰せに、一念発起の義、往生は決定なり。罪消して助けたまはんとも、罪消さずしてたすけたまはんとも、弥陀如来の御はからひなり。罪の沙汰無益なり。たのむ衆生を本とたすけたまふことなりと仰せられ候ふなり。

(40)

一、仰せに、身をすてておのおのと同座するをば、聖人(親鸞)の仰せにも、四海の信心の人はみな兄弟と仰せられたれば、われもその御ことばのごとくなり。また同座をもしてあらば、不審なることをも問へかし、信をよくとれかしとねがふばかりなりと仰せられ候ふなり。

(41)

一、「愛欲の広海に沈没し名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまず」(信巻・末)と申す沙汰に、不審のあつかひどもにて、往生せんずるか、すまじきなんどとたがひに申しあひけるを、ものごしにきこしめされて、愛欲も名利もみな煩悩なり、されば機のあつかひをするは雑修なりと仰せ候ふなり。ただ信ずるほかは別のことなしと仰せられ候ふ。

(42)

一、ゆふさり案内をも申さず、ひとびとおほくまゐりたるを、美濃殿、まかりいで候へと、あらあらと御申しのところに、仰せに、さやうにいはんことばにて、一念のことをいひてきかせて帰せかしと。東西を走りまはりていひたきことなりと仰せられ候ふとき、慶聞房涙を流しあやまりて候ふとて讃嘆ありけり。皆皆落涙申すことかぎりなかりけり。

 夕暮れ時に、取り次ぎも頼まずに大勢の門徒衆が大勢やって来たので、慶聞坊が、ご退出下さいと荒々しく申されていたところ、蓮如上人は、そのような言葉の代わりに、阿弥陀仏にまかせる一念のこころについて言い聞かせて、帰してやっておくれと、おっしゃいました。東へ西へ、走り回って言いたいことなのだからと、おっしゃったとき、慶聞坊は涙を流して謝って、弥陀にまかせる一念について語りました。居合わせた門徒衆も、皆、とめどなく涙を落としました。

(43)

一、明応六年十一月報恩講に御上洛なく候ふあひだ、法慶坊御使ひとして、当年は御在国にて御座候ふあひだ、御講をなにと御沙汰あるべきやと、たづね御申し候ふに、当年よりは夕の六つどき、朝の六つどきをかぎりに、みな退散あるべしとの『御文』をつくらせて、かくのごとくめさるべきよし御掟あり。御堂の夜の宿衆もその日の頭人ばかりと御掟なり。また上様(蓮如)は七日の御講のうちを富田殿にて三日御つとめありて、二十四日には大坂殿へ御下向にて御勤行なり。

(44)

一、同じき七年の夏よりまた御違例にて御座候ふあひだ、五月七日に御いとまごひに聖人へ御まゐりありたきと仰せられて、御上洛にて、やがて仰せに、信心なきひとにはあふまじきぞ、信をうるものには召してもみたく候ふ、逢ふべしと仰せなりと云云。

(45)

一、今の人は古をたづぬべし。また古き人は古をよくつたふべし。物語は失するものなり。書したるものは失せず候ふ。

(46)

一、赤尾の道宗申され候ふ。一日のたしなみには朝つとめにかかさじとたしなむべし。一月のたしなみにはちかきところ御開山様(親鸞)の御座候ふところへまゐるべしとたしなめ、一年のたしなみには御本寺へまゐるべしとたしなむべしと云云。これを円如様きこしめしおよばれ、よく申したると仰せられ候ふ。

(47)

一、わが心にまかせずして心を責めよ、仏法は心のつまる物かとおもへば、信心に御なぐさみ候ふと仰せられ候ふ。

(48)

一、法敬坊九十まで存命候ふ。この歳まで聴聞申し候へども、これまでと存知たることなし、あきたりもなきことなりと申され候ふ。

(49)

一、山科にて御法談の御座候ふとき、あまりにありがたき御掟どもなりとて、これを忘れまうしてはと存じ、御座敷をたち御堂へ六人よりて談合候へば、面面にききかへられ候ふ。そのうちに四人はちがひ候ふ。大事のことにて候ふと申すことなり。聞きまどひあるものなり。

(50)

一、蓮如上人の御とき、こころざしの衆も御前におほく候ふとき、このうちに信をえたるものいくたりあるべきぞ、一人か二人かあるべきか、など御掟候ふとき、おのおの肝をつぶし候ふと申され候ふよしに候ふ。

(51)

一、法慶申され候ふ。讃嘆のときなにもおなじやうにきかで、聴聞はかどをきけと申され候ふ。詮あるところをきけとなり。

(52)

一、「憶念称名いさみありて」(報恩講私記)とは、称名はいさみの念仏なり、信のうへはうれしくいさみて申す念仏なり。

(53)

一、『御文』のこと、聖教はよみちがへもあり、こころえもゆかぬところもあり、『御文』はよみちがへもあるまじきと仰せられ候ふ。御慈悲のきはまりなり。これをききながらこころえのゆかぬは無宿善の機なり。

(54)

一、御一流の御こと、このとしまで聴聞申し候うて、御ことばをうけたまはり候へども、ただ心が御ことばのごとくならずと、法慶申され候ふ。

(55)

一、実如上人、さいさい仰せられ候ふ。仏法のこと、わがこころにまかせずたしなめと御掟なり。こころにまかせては、さてなり。すなはちこころにまかせずたしなむ心は他力なり。

(56)

一、御一流の義を承りわけたるひとはあれども、聞きうる人はまれなりといへり。信をうる機まれなりといへる意なり。

(57)

一、蓮如上人の御掟には、仏法のことをいふに、世間のことにとりなす人のみなり、それを退屈せずして、また仏法のことにとりなせと仰せられ候ふなり。

(58)

一、たれの輩も、われはわろきとおもふもの、一人としてもあるべからず。これしかしながら聖人(親鸞)の御罰をかうぶりたるすがたなり。これによりて一人づつも心中をひるがへさずは、ながき世〔は〕泥梨にふかく沈むべきものなり。これといふもなにごとぞなれば、真実に仏法のそこをしらざるゆゑなり。

(59)

一、「皆ひとのまことの信はさらになし ものしりがほの風情にてこそ」。近松殿の堺へ御下向のとき、なげしにおしておかせられ候ふ。あとにてこのこころをおもひだし候へと御掟なり。光応寺殿の御不審なり。「ものしりがほ」とは、われはこころえたりとおもふがこのこころなり。

(60)

一、法慶坊、安心のとほりばかり讃嘆するひとなり。「言南無者」(玄義分)の釈をば、いつもはづさず引く人なり。それさへ、さしよせて申せと、蓮如上人御掟候ふなり。ことばすくなに安心のとほり申せと御掟なり。

(61)

一、善宗申され候ふ。こころざし申し候ふとき、わがものがほにもちてまゐるははづかしきよし申され候ふ。なにとしたることにて候ふやと申し候へば、これはみな御用のものにてあるを、わがもののやうにもちてまゐると申され候ふ。ただ上様(蓮如)のもの、とりつぎ候ふことにて候ふを、わがものがほに存ずるかと申され候ふ。

(62)

一、津国郡家の主計と申す人あり。ひまなく念仏申すあひだ、ひげを剃るとき切らぬことなし。わすれて念仏申すなり。人は口はたらかねば念仏もすこしのあひだも申されぬかと、こころもとなきよしに候ふ。

(63)

一、仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり、ただわかきときたしなめと候ふ。

(64)

一、衆生をしつらひたまふ。「しつらふ」といふは、衆生のこころをそのままおきて、よきこころを御くはへ候ひて、よくめされ候ふ。衆生のこころをみなとりかへて、仏智ばかりにて、別に御みたて候ふことにてはなく候ふ。

(65)

一、わが妻子ほど不便なることなし、それを勧化せぬはあさましきことなり。宿善なくはちからなし。わが身をひとつ勧化せぬものがあるべきか。

(66)

一、慶聞坊のいはれ候ふ。信はなくてまぎれまはると、日に日に地獄がちかくなる、まぎれまはるがあらはれば地獄がちかくなるなり。うちみは信・不信みえず候ふ。とほく命をもたずして、今日ばかりと思へと、古きこころざしのひと申され候ふ。

(67)

一、一度のちかひが一期のちかひなり。一度のたしなみが一期のたしなみなり。そのゆゑは、そのまま命をはれば一期のちかひになるによりてなり。

(68)

一、「今日ばかりおもふこころを忘るなよ さなきはいとどのぞみおほきに」[覚如様御歌]

(69)

一、他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり。

(70)

一、御本寺北殿にて、法敬坊に対して蓮如上人仰せられ候ふ。われはなにごとをも当機をかがみおぼしめし、十あるものを一つにするやうに、かろがろと理のやがて叶ふやうに御沙汰候ふ。これを人が考へぬと仰せられ候ふ。『御文』等をも近年は御ことばすくなにあそばされ候ふ。いまはものを聞くうちにも退屈し、物を聞きおとすあひだ、肝要のことをやがてしり候ふやうにあそばされ候ふのよし仰せられ候ふ。

(71)

一、法印兼縁、幼少のとき、二俣にてあまた小名号を申し入れ候ふとき、信心やある、おのおのと仰せられ候ふ。信心は〔その〕体名号にて候ふ、いま思ひあはせ候ふとの義に候ふ。

(72)

一、蓮如上人仰せられ候ふ。堺の日向屋は三拾万貫を持ちたれども、死にたるが仏には成り候ふまじ。大和の了妙は帷一つをも着かね候へども、このたび仏に成るべきよと、仰せられ候ふよしに候ふ。

(73)

一、蓮如上人へ久宝寺の法性申され候ふは、一念に後生御たすけ候へと弥陀をたのみたてまつり候ふばかりにて往生一定と存じ候ふ、かやうにて御入り候ふかと申され候へば、ある人わきより、それはいつものことにて候ふ、別のこと、不審なることなど申され候はでと申され候へば、蓮如上人仰せられ候ふ。それぞとよ、わろきとは、めづらしきことを聞きたくおもひしりたく思ふなり。信のうへにてはいくたびも心中のおもむき、かやうに申さるべきことなるよし仰せられ候ふ。

(74)

一、蓮如上人仰せられ候ふ。一向に不信のよし申さるる人はよく候ふ。ことばにて安心のとほり申し候ひて、口にはおなじごとくにて、まぎれて空しくなるべき人を悲しく覚え候ふよし仰せられ候ふなり。

(75)

一、聖人(親鸞)の御一流は阿弥陀如来の御掟なり。されば『御文』(四の九)には「阿弥陀如来の仰せられけるやうは」とあそばされ候ふ。

(76)

一、蓮如上人、法敬に対せられ仰せられ候ふ。いまこの弥陀をたのめといふことを御教へ候ふ人をしりたるかと仰せられ候ふ。順誓、存ぜずと申され候ふ。いま御をしへ候ふ人をいふべし。鍛冶・番匠なども物ををしふるに物を出すものなり。一大事のことなり、なんぞものをまゐらせよ、いふべきと仰せられ候ふとき、順誓、なかなかなにたるものなりとも進上いたすべきと申され候ふ。蓮如上人仰せられ候ふ。このことををしふる人は阿弥陀如来にて候ふ。阿弥陀如来のわれをたのめとの御をしへにて候ふよし仰せられ候ふ。

(77)

一、法敬坊、蓮如上人へ申され候ふ。あそばされ候ふ御名号焼けまうし候ふが、六体の仏になりまうし候ふ、不思議なることと申され候へば、前前住上人(蓮如)そのとき仰せられ候ふ。それは不思議にてもなきなり。仏の仏に御成り候ふは不思議にてもなく候ふ。悪凡夫の弥陀をたのむ一念にて仏に成るこそ不思議よと仰せられ候ふなり。

(78)

一、朝夕は如来・聖人(親鸞)の御用にて候ふあひだ、冥加のかたをふかく存ずべきよし、折折前前住上人(蓮如)仰せられ候ふよしに候ふ。

(79)

一、前前住上人仰せられ候ふ。「噛むとはしるとも、呑むとしらすな」といふことがあるぞ、妻子を帯し魚鳥を服し、罪障の身なりといひて、さのみ思ひのままにはあるまじきよし仰せられ候ふ。

(80)

一、仏法には無我と仰せられ候ふ。われと思ふことはいささかあるまじきことなり。われはわろしとおもふ人なし、これ聖人(親鸞)の御罰なりと、御詞候ふ。他力の御すすめにて候ふ。ゆめゆめわれといふことはあるまじく候ふ。無我といふこと、前住上人(実如)もたびたび仰せられ候ふ。

(81)

一、日ごろしれるところを善知識にあひて問へば徳分あるなり。しれるところを問へば徳分あるといへるが殊勝のことばなりと、蓮如上人仰せられ候ふ。知らざるところを問はばいかほど殊勝なることあるべきと仰せられ候ふ。

(82)

一、聴聞を申すも大略わがためとはおもはず、ややもすれば法文の一つをもききおぼえて、人にうりごころあるとの仰せごとにて候ふ。

(83)

一、一心にたのみたてまつる機は如来のよくしろしめすなり。弥陀のただしろしめすやうに心中をもつべし。冥加をおそろしく存ずべきことにて候ふとの義に候ふ。

(84)

一、前住上人(実如)仰せられ候ふ。前前住(蓮如)より御相続の義は別義なきなり。ただ弥陀たのむ一念の義よりほかは別義なく候ふ。これよりほか御存知なく候ふ。いかやうの御誓言もあるべきよし仰せられ候ふ。

(85)

一、おなじく仰せられ候ふ。凡夫往生ただたのむ一念にて仏に成らぬことあらば、いかなる御誓言をも仰せらるべき。証拠は南無阿弥陀仏なり。十方の諸仏、証人にて候ふ。

(86)

一、蓮如上人仰せられ候ふ。物をいへいへと仰せられ候ふ。物を申さぬものはおそろしきと仰せられ候ふ。信・不信ともに、ただ物をいへと仰せられ候ふ。物を申せば心底もきこえ、また人にも直さるるなり。ただ物を申せと仰せられ候ふ。

(87)

一、蓮如上人仰せられ候ふ。仏法はつとめの節はかせもしらでよくすると思ふなり、つとめの節わろきよしを仰せられ、慶聞坊をいつもとりつめ仰せられつるよしに候ふ。それにつきて蓮如上人仰せられ候ふ。一向にわろき人は違ひなどといふこともなし、ただわろきまでなり、わろしとも仰せごともなきなり。法義をもこころにかけ、ちとこころえもあるうへの違ひが、ことのほかの違ひなりと仰せられ候ふよしに候ふ。

(88)

一、人のこころえのとほり申されけるに、わがこころはただ篭に水を入れ候ふやうに、仏法の御座敷にてはありがたくもたふとくも存じ候ふが、やがてもとの心中になされ候ふと、申され候ふところに、前前住上人(蓮如)仰せられ候ふ。その篭を水につけよ、わが身をば法にひてておくべきよし仰せられ候ふよしに候ふ。万事信なきによりてわろきなり。善知識のわろきと仰せらるるは、信のなきことをくせごとと仰せられ候ふことに候ふ。

(89)

一、聖教を拝見申すも、うかうかと拝みまうすはその詮なし。蓮如上人は、ただ聖教をばくれくれと仰せられ候ふ。また百遍これをみれば義理おのづから得ると申すこともあれば、心をとどむべきことなり。聖教は句面のごとくこころうべし、そのうへにて師伝・口業はあるべきなり、私にして会釈することしかるべからざることなり。

(90)

一、前前住上人(蓮如)仰せられ候ふ。他力信心他力信心とみればあやまりなきよし仰せられ候ふ。

(91)

一、わればかりと思ひ、独覚心なること、あさましきことなり。信あらば仏の慈悲をうけとりまうすうへは、わればかりと思ふことはあるまじく候ふ。触光柔軟の願(第三十三願)候ふときは、心もやはらぐべきことなり。されば縁覚は独覚のさとりなるがゆゑに、仏に成らざるなり。

(92)

一、一句一言も申すものは、われと思ひて物を申すなり。信のうへはわれはわろしと思ひ、また報謝と思ひ、ありがたさのあまりを人にも申すことなるべし。

(93)

一、信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり、人承引あるべからずと、前住上人(蓮如)申さると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼讃)と候ふときは、まづわが信心決定して、人にも教へて仏恩になるとのことに候ふ。自身の安心決定して教ふるは、すなはち「大悲伝普化」(同)の道理なるよし、おなじく仰せられ候ふ。

(94)

一、蓮如上人仰せられ候ふ。聖教よみの聖教よまずあり、聖教よまずの聖教よみあり。一文字をもしらねども、人に聖教をよませ聴聞させて信をとらするは、聖教よまずの聖教よみなり。聖教をばよめども、真実によみもせず法義もなきは、聖教よみの聖教よまずなりと仰せられ候ふ。自信教人信の道理なりと仰せられ候ふこと。

(95)

一、聖教よみの仏法を申したてたることはなく候ふ。尼入道のたぐひのたふとやありがたやと申され候ふをききては、人が信をとると、前前住上人(蓮如)仰せられ候ふよしに候ふ。なにもしらねども、仏の加備力のゆゑに尼入道などのよろこばるるをききては、人も信をとるなり。聖教をよめども名聞がさきにたちて心には法なきゆゑに、人の信用なきなり。

(96)

一、蓮如上人仰せられ候ふ。当流には総体世間機わろし、仏法のうへよりなにごともあひはたらくべきことなるよし仰せられ候ふと云云。

(97)

一、おなじく仰せられ候ふ。世間にて時宜しかるべきはよき人なりといへども、信なくは心をおくべきなり、便りにもならぬなり。たとひ片目つぶれ腰をひき候ふやうなるものなりとも、信心あらん人をばたのもしく思ふべきなりと仰せられ候ふ。

(98)

一、君を思ふはわれを思ふなり。善知識の仰せに随ひ信をとれば、極楽へまゐるものなり。

(99)

一、久遠劫(くおんごう)より久しき仏は阿弥陀仏なり。仮に果後の方便によりて誓願をまうけたまふことなり。

(100)

一、前前住上人(蓮如)仰せられ候ふ。弥陀をたのめる人は、南無阿弥陀仏に身をばまるめたることなりと仰せられ候ふと云云。いよいよ冥加を存ずべきのよしに候ふ。

(101)

一、丹後法眼[蓮応]衣装ととのへられ、前前住上人の御前に伺候候ひしとき、仰せられ候ふ。衣のえりを御たたきありて、南無阿弥陀仏よと仰せられ候ふ。また前住上人(実如)は御たたみをたたかれ、南無阿弥陀仏にもたれたるよし仰せられ候ひき。南無阿弥陀仏に身をばまるめたると仰せられ候ふと符合申し候ふ。

(102)

一、前前住上人(蓮如)仰せられ候ふ。仏法のうへには事ごとにつきて空おそろしきことと存じ候ふべく候ふ。ただよろづにつきて油断あるまじきことと存じ候へのよし、折折に仰せられ候ふと云云。仏法には明日と申すことあるまじく候ふ。仏法のことはいそげいそげと仰せられ候ふなり。

(103)

一、おなじく仰せに、今日の日はあるまじきと思へと仰せられ候ふ。なにごともかきいそぎて物を御沙汰候ふよしに候ふ。ながながしたることを御嫌ひのよしに候ふ。仏法のうへには、明日のことを今日するやうにいそぎたること、賞翫なり。

(104)

一、おなじく仰せにいはく、聖人(親鸞)の御影を申すは大事のことなり。昔は御本尊よりほかは御座なきことなり。信なくはかならず御罰を蒙るべきよし仰せられ候ふ。

(105)

一、時節到来といふこと、用心をもしてそのうへに事の出でき候ふを、時節到来とはいふべし、無用心にて出でき候ふを時節到来とはいはぬことなり。聴聞を心がけてのうへの宿善・無宿善ともいふことなり。ただ信心はきくにきはまることなるよし仰せのよし候ふ。

(106)

一、前前住上人(蓮如)法敬に対して仰せられ候ふ。まきたてといふもの知りたるかと。法敬御返事に、まきたてと申すは一度たねを播きて手をささぬものに候ふと申され候ふ。仰せにいはく、それぞ、まきたてわろきなり、人に直されまじきと思ふ心なり。心中をば申しいだして人に直され候はでは心得の直ることあるべからず、まきたてにては信をとることあるべからずと仰せられ候ふ云云。

(107)

一、何ともして人に直され候ふやうに心中を持つべし。わが心中をば同行のなかへ打ちいだしておくべし。下としたる人のいふことをば用ゐずしてかならず腹立するなり、あさましきことなり。ただ人に直さるるやうに心中を持つべき義に候ふ。

(108)

一、人の、前前住上人(蓮如)へ申され候ふ。一念の処決定にて候ふ。ややもすれば善知識の御ことばをおろそかに存じ候ふよし申され候へば、仰せられ候ふは、もつとも信のうへは崇仰の心あるべきなり、さりながら凡夫の心にては、かやうの心中のおこらんときは勿体なきこととおもひすつべしと仰せられしと云云。

(109)

一、蓮如上人、兼縁に対せられ仰せられ候ふ。たとひ木の皮をきるいろめなりとも、なわびそ、ただ弥陀をたのむ一念をよろこぶべきよし仰せられ候ふ。

(110)

一、前前住上人仰せられ候ふ。上下老若によらず、後生は油断にてしそんずべきのよし仰せられ候ふ。

(111)

一、前前住上人(蓮如)御口のうち御煩ひ候ふに、をりふし御目をふさがれ、ああ、と仰せられ候ふ。人の信なきことを思ふことは、身をきりさくやうにかなしきよと仰せられ候ふよしに候ふ。

(112)

一、おなじく仰せに、われは人の機をかがみ人にしたがひて仏法を御聞かせ候ふよし仰せられ候ふ。いかにも人のすきたることなど申させられ、うれしやと存じ候ふところに、また仏法のことを仰せられ候ふ。いろいろ御方便にて人に法を御聞かせ候ひつるよしに候ふ。

(113)

一、前前住上人仰せられ候ふ。人人の仏法を信じてわれによろこばせんと思へり、それはわろし、信をとれば自身の勝徳なり、さりながら信をとらば恩にも御うけあるべきと仰せられ候ふ。また、聞きたくもなきことなりともまことに信をとるべきならば、きこしめすべきよし仰せられ候ふ。

(114)

一、おなじく仰せに、まことに一人なりとも信をとるべきならば、身を捨てよ。それはすたらぬと仰せられ候ふ。

(115)

一、あるとき仰せられ候ふ。御門徒の心得を直すときこしめして、老の皺をのべ候ふと仰せられ候ふ。

(116)

一、ある御門徒衆に御尋ね候ふ。そなたの坊主、心得の直りたるをうれしく存ずるかと御尋ね候へば、申され候ふ。まことに心得を直され法義を心にかけられ候ふ、一段ありがたくうれしく存じ候ふよし申され候ふ。そのとき仰せられ候ふ。われはなほうれしく思ふよと仰せられ候ふ。

(117)

一、をかしき事態をもさせられ、仏法に退屈仕り候ふものの心をもくつろげ、その気をも失はして、またあたらしく法を仰せられ候ふ。まことに善巧方便、ありがたきことなり。

(118)

一、天王寺土塔会、前前住上人(蓮如)御覧候ひて仰せられ候ふ。あれほどのおほき人ども地獄へおつべしと、不便に思し召し候ふよし仰せられ候ふ。またそのなかに御門徒の人は仏に成るべしと仰せられ候ふ。これまたありがたき仰せにて候ふ。


蓮如上人御一代聞書本


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