顕浄土真実教行証文類 (親鸞 作)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝 謹写


顕浄土真実教行証文類序

 ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。
しかればすなはち浄邦縁熟して、調達(提婆達多)、闍世(阿闍世)をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。
ゆゑに知んぬ、円融至徳の嘉号は悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。
 しかれば凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。
ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
 ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、ことに如来の恩徳の深きことを知んぬ。ここをもつて聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。
大無量寿経[真実の教]
     [浄土真宗]
真実の教を顕す 一
真実の行を顕す 二
真実の信を顕す 三
真実の証を顕す 四
真仏土を顕す  五
化身土を顕す  六


顕浄土真実教文類一
愚禿釈親鸞集

【1】つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。
【2】それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。
ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。
 なにをもつてか出世の大事なりと知ることを得るとならば、
【3】『大無量寿経』(上)にのたまはく、「〈今日世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔巍巍とましますこと、あきらかなる鏡の浄き影、表裏に暢るがごとし。威容顕曜にして超絶したまへること無量なり。いまだかつて瞻覩せず、殊妙なること今のごとくましますをば。
ややしかなり。大聖、わが心に念言すらく、今日世尊、奇特の法に住したまへり。今日世雄、仏の所住に住したまへり。今日世眼、導師の行に住したまへり。今日世英、最勝の道に住したまへり。今日天尊、如来の徳を行じたまへり。
去・来・現の仏、仏と仏とあひ念じたまへり。いまの仏も諸仏を念じたまふことなきことを得んや。なんがゆゑぞ威神の光、光いまししかる〉と。
ここに世尊、阿難に告げてのたまはく、〈諸天のなんぢを教へて来して仏に問はしむるや、みづから慧見をもつて威顔を問へるや〉と。阿難、仏にまうさく、〈諸天の来りてわれを教ふるものあることなけん。みづから所見をもつてこの義を問ひたてまつるならくのみ〉と。
 仏ののたまはく、〈善いかな阿難、問へるところはなはだ快し。深き智慧、真妙の弁才を発して、衆生を愍念せんとしてこの慧義を問へり。
如来無蓋の大悲をもつて三界を矜哀したまふ。世に出興するゆゑは、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。無量億劫に値ひがたく見たてまつりがたきこと、なほし霊瑞華の時ありて時にいまし出づるがごとし。
いま問へるところは饒益するところ多し、一切の諸天・人民を開化す。阿難まさに知るべし、如来の正覚は、その智量りがたくして、導御したまふところ多し。慧見無碍にしてよく遏絶することなし〉」と。{以上}
【4】『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「阿難、仏にまうしてまうさく、〈世尊、われ如来の光瑞希有なるを見たてまつるがゆゑにこの念を発せり。天等によるにあらず〉と。仏、阿難に告げたまはく、〈善いかな善いかな、なんぢいま快く問へり。よく微妙の弁才を観察して、よく如来に如是の義を問ひたてまつれり。
なんぢ一切如来・応・正等覚および大悲に安住して群生を利益せんがために、優曇華の希有なるがごとくして大士世間に出現したまへり。ゆゑにこの義を問ひたてまつる。またもろもろの有情を哀愍し利楽せんがためのゆゑに、よく如来に如是の義を問ひたてまつれり〉」と。{以上}
【5】『平等覚経』(一)にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈世間に優曇鉢樹あり、ただ実ありて華あることなし。天下に仏まします、いまし華の出づるがごとしならくのみ。世間に仏ましませどもはなはだ値ふことを得ること難し。いまわれ仏になりて天下に出でたり。
なんぢ大徳ありて、聡明善心にして、あらかじめ仏意を知る。なんぢ忘れずして仏辺にありて仏に侍へたてまつるなり。なんぢいま問へるところ、よく聴き、あきらかに聴け〉」と。{以上}
【6】憬興師のいはく(述文賛)、「〈今日世尊住奇特法〉といふは、[神通輪によりて現じたまふところの相なり。ただつねに異なるのみにあらず。また等しきものなきがゆゑに。]〈今日世雄住仏所住〉といふは、[普等三昧に住して、よく衆魔雄健天を制するがゆゑに。]〈今日世眼住導師行〉といふは、[五眼を導師の行と名づく。衆生を引導するに過上なきがゆゑに。]
〈今日世英住最勝道〉といふは、[仏、四智に住したまふ。独り秀でたまへること、匹しきことなきがゆゑに。]〈今日天尊行如来徳〉といふは、[すなはち第一義天なり。仏性不空の義をもつてのゆゑに。]
〈阿難当知如来正覚〉といふは、[すなはち奇特の法なり。]〈慧見無碍〉といふは、[最勝の道を述するなり。]〈無能遏絶〉といふは、[すなはち如来の徳なり」と。]{以上}
【7】しかればすなはち、これ真実の教を顕す明証なり。まことにこれ、如来興世の正説、奇特最勝の妙典、一乗究竟の極説、速疾円融の金言、十方称讃の誠言、時機純熟の真教なりと、知るべしと。

顕浄土真実教文類一

諸仏称名の願[浄土真実の行]
      [選択本願の行]

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顕浄土真実行文類二
愚禿釈親鸞集

【1】つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。
しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。
【2】諸仏称名の願『大経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。{以上}
【3】またのたまはく(同・上)、「われ仏道を成らんに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞ゆるところなくは、誓ふ、正覚を成らじと。衆のために宝蔵を開きて、広く功徳の宝を施せん。つねに大衆のなかにして、説法獅子吼せん」と。{抄要}
【4】願(第十七願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまふ」と。{以上}
【5】またのたまはく(同・下)、「無量寿仏の威神極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、かれを称嘆せざるはなし」と。{以上}
【6】またのたまはく(同・下)、「その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に至りて、おのづから不退転に至る」と。{以上}
【7】『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「いま如来に対して弘誓を発せり。まさに無上菩提の因を証(証の字、験なり)すべし。もしもろもろの上願を満足せずは、十力無等尊を取らじと。心、あるいは常行に堪へざらんものに施せん。広く貧窮を済ひてもろもろの苦を免れしめ、世間を利益して安楽ならしめんと。{乃至}
 最勝丈夫修行しをはりて、かの貧窮において伏蔵とならん。善法を円満して等倫なけん。大衆のなかにして獅子吼せん」と。{以上抄出}
【8】またのたまはく(如来会・下)、「阿難、この義利をもつてのゆゑに、無量無数不可思議無有等等無辺世界の諸仏如来、みなともに無量寿仏の所有の功徳を称讃したまふ」と。{以上}
【9】『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(上)[『大阿弥陀経』といふ、『二十四願経』といふ]にのたまはく、「第四に願ずらく、〈それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。
みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。
諸天・人民・_飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉」と。{以上}
【10】『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「〈われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ〉と。
〈われ作仏せんとき、他方仏国の人民、前世に悪のためにわが名字を聞き、およびまさしく道のためにわが国に来生せんと欲はん。寿終へてみなまた三悪道に更らざらしめて、すなはちわが国に生れんこと、心の所願にあらん。しからずはわれ作仏せじ〉と。
阿闍世王太子および五百の長者子、無量清浄仏の二十四願を聞きて、みな大きに歓喜し踊躍して、心中にともに願じていはまく、〈われらまた作仏せんとき、みな無量清浄仏のごとくならしめん〉と。仏すなはちこれを知ろしめして、もろもろの比丘僧に告げたまはく、〈この阿闍世王太子および五百の長者子、のち無央数劫を却りて、みなまさに作仏して無量清浄仏のごとくなるべし〉と。
仏ののたまはく、〈この阿闍世王太子・五百の長者子、菩薩の道をなしてこのかた、無央数劫に、みなおのおの四百億仏を供養しをはりて、いままた来りてわれを供養せり。この阿闍世王太子および五百人等、みな前世に迦葉仏のとき、わがために弟子となれりき。いまみなまた会してこれともにあひ値へるなり〉と。すなはちもろもろの比丘僧、仏の言を聞きて、みな心踊躍して歓喜せざるものなけんと。{乃至}
〈かくのごときの人、仏の名を聞きて、快く安穏にして大利を得ん。われらが類この徳を得ん。もろもろのこの刹に好きところを獲ん。無量覚その決を授けん。《われ前世に本願あり。一切の人、法を説くを聞かば、みなことごとくわが国に来生せん。わが願ずるところみな具足せん。もろもろの国より来生せんもの、みなことごとくこの間に来到して、一生に不退転を得ん》と。すみやかに疾く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無数の仏を供養せん。
この功徳あるにあらざる人は、この経の名を聞くことを得ず。ただ清浄に戒を有てるもの、いまし還りてこの正法を聞く。悪と_慢と弊と懈怠のものは、もつてこの法を信ずること難し。宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽んで世尊の教を聴聞せん。
人の命まれに得べし。仏、世にましませどもはなはだ値ひがたし。信慧ありて致るべからず。もし聞見せば精進して求めよ。この法を聞きて忘れず、すなはち見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親厚なり。これをもつてのゆゑに道意を発せよ。たとひ世界に満てらん火にも、このなかを過ぎて法を聞くことを得ば、かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし〉」と。{以上}
【11】『悲華経』の「大施品」の二巻にのたまはく、[曇無讖三蔵の訳]「願はくは、われ阿耨多羅三藐三菩提を成りをはらんに、無量無辺阿僧祇の余仏の世界の所有の衆生、わが名を聞かんもの、もろもろの善本を修してわが界に生ぜんと欲はん。願はくは、それ命を捨ててのち、必定して生を得しめん。ただ五逆と聖人を誹謗せんと、正法を廃壊せんとを除かん」と。{以上}
【12】しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。
【13】『十住毘婆沙論』(入初地品)にいはく、「ある人のいはく、〈般舟三昧および大悲を諸仏の家と名づく。この二法よりもろもろの如来を生ず〉と。このなかに般舟三昧を父とす、また大悲を母とす。また次に般舟三昧はこれ父なり、無生法忍はこれ母なり。『助菩提』のなかに説くがごとし。〈般舟三昧の父、大悲無生の母、一切のもろもろの如来、この二法より生ず〉と。
家に過咎なければ家清浄なり。ゆゑに清浄とは六波羅蜜・四功徳処なり。方便・般若波羅蜜は善慧なり。般舟三昧・大悲・諸忍、この諸法清浄にして過あることなし。ゆゑに家清浄と名づく。この菩薩、この諸法をもつて家とするがゆゑに、過咎あることなし。
世間道を転じて出世上道に入るものなり。世間道をすなはちこれ凡夫所行の道と名づく。転じて休息と名づく。凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたはず、つねに生死に往来す。これを凡夫道と名づく。出世間は、この道によりて三界を出づることを得るがゆゑに、出世間道と名づく。上は妙なるがゆゑに名づけて上とす。入はまさしく道を行ずるがゆゑに名づけて入とす。この心をもつて初地に入るを歓喜地と名づくと。
 問うていはく、初地なんがゆゑぞ名づけて歓喜とするやと。
 答へていはく、〈初果の究竟して涅槃に至ることを得るがごとし。菩薩この地を得れば、心つねに歓喜多し。自然に諸仏如来の種を増長することを得。このゆゑにかくのごときの人を、賢善者と名づくることを得〉と。
初果を得るがごとしといふは、人の須陀_道を得るがごとし。よく三悪道の門を閉づ。法を見て法に入り、法を得て堅牢の法に住して傾動すべからず、究竟して涅槃に至る。見諦所断の法を断ずるがゆゑに、心大いに歓喜す。たとひ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。
一毛をもつて百分となして、一分の毛をもつて大海の水を分ち取るがごときは、二三_の苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余のいまだ滅せざるもののごとし。二三_のごとき心、大きに歓喜せん。
菩薩もかくのごとし、初地を得をはるを如来の家に生ずと名づく。一切天・竜・夜叉・乾闥婆、{乃至}声聞・辟支等、ともに供養し恭敬するところなり。なにをもつてのゆゑに、この家過咎あることなし。ゆゑに世間道を転じて出世間道に入る。ただ仏を楽敬すれば、四功徳処を得、六波羅蜜の果報を得ん。滋味もろもろの仏種を断たざるがゆゑに、心大きに歓喜す。
この菩薩所有の余の苦は二三の水_のごとし。百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提を得といへども、無始生死の苦においては二三の水_のごとし。滅すべきところの苦は大海の水のごとし。このゆゑにこの地を名づけて歓喜とす」と。
 (地相品)「問うていはく、初歓喜地の菩薩、この地のなかにありて多歓喜と名づく。もろもろの功徳を得ることをなすがゆゑに歓喜を地とす。法を歓喜すべし。なにをもつて歓喜するやと。
 答へていはく、〈つねに諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して希有の行なり。このゆゑに歓喜多し〉と。
かくのごときらの歓喜の因縁のゆゑに、菩薩、初地のなかにありて心に歓喜多し。
諸仏を念ずといふは、燃灯等の過去の諸仏、阿弥陀等の現在の諸仏、弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり。つねにかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前にましますがごとし。三界第一にしてよく勝れたるひとましまさず。このゆゑに歓喜多し。
諸仏の大法を念ぜば、略して諸仏の四十不共法を説かんと。一つには自在の飛行、意に随ふ、二つには自在の変化、辺なし、三つには自在の所聞、無碍なり、四つには自在に無量種門をもつて一切衆生の心を知ろしめすと。{乃至}
念必定のもろもろの菩薩は、もし菩薩、阿耨多羅三藐三菩提の記を得つれば、法位に入り無生忍を得るなり。千万億数の魔の軍衆、壊乱することあたはず。大悲心を得て大人法を成ず。{乃至}これを念必定の菩薩と名づく。
希有の行を念ずといふは、必定の菩薩、第一希有の行を念ずるなり。心に歓喜せしむ。一切凡夫の及ぶことあたはざるところなり。一切の声聞・辟支仏の行ずることあたはざるところなり。仏法無碍解脱および薩婆若智を開示す。また十地のもろもろの所行の法を念ずれば、名づけて心多歓喜とす。このゆゑに菩薩初地に入ることを得れば、名づけて歓喜とすと。
 問うていはく、凡夫人のいまだ無上道心を発せざるあり、あるいは発心するものあり、いまだ歓喜地を得ざらん、この人、諸仏および諸仏の大法を念ぜんと、必定の菩薩および希有の行を念じてまた歓喜を得んと。初地を得ん菩薩の歓喜とこの人と、なんの差別かあるやと。
 答へていはく、〈菩薩初地を得ば、その心歓喜多し。諸仏無量の徳、われまたさだめてまさに得べし〉と。
初地を得ん必定の菩薩は、諸仏を念ずるに無量の功徳います。われまさにかならずかくのごときの事を得べし。なにをもつてのゆゑに。われすでにこの初地を得、必定のなかに入れり。余はこの心あることなけん。このゆゑに初地の菩薩多く歓喜を生ず。余はしからず。なにをもつてのゆゑに。余は諸仏を念ずといへども、この念をなすことあたはず、われかならずまさに作仏すべしと。
たとへば転輪聖子の、転輪王の家に生れて、転輪王の相を成就して、過去の転輪王の功徳尊貴を念じて、この念をなさん。われいままたこの相あり。またまさにこの豪富尊貴を得べし。心大きに歓喜せん。もし転輪王の相なければ、かくのごときの喜びなからんがごとし。
必定の菩薩、もし諸仏および諸仏の大功徳・威儀・尊貴を念ずれば、われこの相あり。かならずまさに作仏すべし、すなはち大きに歓喜せん。余はこの事あることなけん。定心は深く仏法に入りて心動ずべからず」と。
【14】またいはく(浄地品)、「信力増上はいかん。聞見するところありてかならず受けて疑なければ増上と名づく、殊勝と名づくと。
問うていはく、二種の増上あり。一つには多、二つには勝なり。いまの説なにものぞやと。
 答へていはく、このなかの二事ともに説かん。菩薩初地に入ればもろもろの功徳の味はひを得るがゆゑに、信力転増す。この信力をもつて諸仏の功徳無量深妙なるを籌量してよく信受す。このゆゑにこの心また多なり、また勝なり。
深く大悲を行ずとは、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆゑに名づけて深とす。一切衆生のために仏道を求むるがゆゑに名づけて大とす。慈心はつねに利事を求めて衆生を安穏す。慈に三種あり」と。{乃至}
【15】またいはく(易行品)、「仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。{乃至}
〈もし人疾く不退転地に至らんと欲はば、恭敬の心をもつて執持して名号を称すべし〉。もし菩薩、この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲はば、まさにこの十方諸仏を念ずべし。名号を称すること『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」のなかに説くがごとしと。{乃至}
〈西方に善世界の仏を無量明と号す。身光智慧あきらかにして、照らすところ辺際なし。それ名を聞くことあるものは、すなはち不退転を得と。{乃至}
過去無数劫に仏まします。海徳と号す。このもろもろの現在の仏、みなかれに従つて願を発せり。寿命量りあることなし。光明照らして極まりなし。国土はなはだ清浄なり。名を聞きてさだめて仏にならんと〉。{乃至}
 問うていはく、ただこの十仏の名号を聞きて執持して心に在けば、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を退せざることを得。また余仏・余菩薩の名ましまして、阿惟越致に至ることを得とやせんと。
 答へていはく、〈阿弥陀等の仏および諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得ることかくのごとし〉と。阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし。
いままさにつぶさに無量寿仏を説くべし。世自在王仏[乃至その余の仏まします]この諸仏世尊、現在十方の清浄世界に、みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。もし人、われを念じ名を称しておのづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得、このゆゑにつねに憶念すべしと。
偈をもつて称讃せん。〈無量光明慧、身は真金の山のごとし。われいま身口意をして、合掌し稽首し礼したてまつると。{乃至}人よくこの仏の無量力功徳を念ずれば、即のときに必定に入る。このゆゑにわれつねに念じたてまつる。{乃至}
もし人、仏にならんと願じて、心に阿弥陀を念じたてまつれば、時に応じてために身を現じたまはん。このゆゑにわれ、かの仏の本願力を帰命す。十方のもろもろの菩薩も、来りて供養し法を聴く。このゆゑにわれ稽首したてまつると。{乃至}
もし人、善根を種ゑて疑へば、すなはち華開けず。信心清浄なるものは、華開けてすなはち仏を見たてまつる。十方現在の仏、種種の因縁をもつて、かの仏の功徳を嘆じたまふ。われいま帰命し礼したてまつると。{乃至}
かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。みづから度し、またかれを度せん。われ自在人を礼したてまつる。諸仏無量劫にその功徳を讃揚せんに、なほ尽すことあたはじ。清浄人を帰命したてまつる。われいままたかくのごとし。無量の徳を称讃す。この福の因縁をもつて、願はくは仏つねにわれを念じたまへ〉」と。{抄出}
【16】『浄土論』にいはく、「われ修多羅真実功徳相によりて、願偈総持を説きて仏教と相応せりと。仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」と。
【17】またいはく(同)、「菩薩は四種の門に入りて自利の行成就したまへりと、知るべし。菩薩は第五門に出でて回向利益他の行成就したまへりと、知るべし。菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他してすみやかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまへるがゆゑに」と。{抄出}
【18】『論の註』(上)にいはく、「つつしんで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるにいはく、〈菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。
難行道とは、いはく、五濁の世、無仏の時において阿毘跋致を求むるを難とす。この難にいまし多くの途あり。ほぼ五三をいひてもつて義の意を示さん。一つには外道の相善は菩薩の法を乱る。二つには声聞は自利にして大慈悲を障ふ。三つには無顧の悪人、他の勝徳を破す。四つには顛倒の善果、よく梵行を壊す。五つにはただこれ自力にして他力の持つなし。これらのごときの事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。
易行道とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ず。仏願力に乗じてすなはちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持してすなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路に船に乗じてすなはち楽しきがごとし〉と。
この『無量寿経優婆提舎』は、けだし上衍の極致、不退の風航なるものなり。無量寿はこれ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏、王舎城および舎衛国にましまして、大衆のなかにして無量寿仏の荘厳功徳を説きたまふ。すなはち仏の名号をもつて経の体とす。後の聖者婆薮槃頭菩薩(天親)、如来大悲の教を服膺して、経に傍へて願生の偈を作れり」と。{以上}
【19】またいはく(論註・上)、「また所願軽からず。もし如来威神を加せずは、まさになにをもつてか達せん。神力を乞加す。このゆゑに仰いで告げたまへり。〈我一心〉とは天親菩薩の自督(督の字、勧なり、率なり、正なり)の詞なり。いふこころは無碍光如来を念じて安楽に生ぜんと願ず。心心相続して他想間雑することなし。{乃至}
〈帰命尽十方無碍光如来〉とは、〈帰命〉はすなはちこれ礼拝門なり、〈尽十方無碍光如来〉はすなはちこれ讃嘆門なり。
なにをもつてか知らん、帰命はこれ礼拝なりとは。龍樹菩薩、阿弥陀如来の『讃』(易行品)を造れるなかに、あるいは〈稽首礼〉といひ、あるいは〈我帰命〉といひ、あるいは〈帰命礼〉といへり。この『論』(浄土論)の長行のなかにまた五念門を修すといへり。五念門のなかに礼拝はこれ一つなり。天親菩薩すでに往生を願ず、あに礼せざるべけんや。ゆゑに知んぬ、帰命はすなはちこれ礼拝なりと。
しかるに礼拝はただこれ恭敬にして、かならずしも帰命ならず。帰命はこれ礼拝なり。もしこれをもつて推するに、帰命は重とす。偈は己心を申ぶ、よろしく帰命(命の字、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり)といふべし。『論』に偈義を解するに、汎く礼拝を談ず。彼此あひ成ず、義においていよいよ顕れたり。
なにをもつてか知らん、尽十方無碍光如来はこれ讃嘆門なりとは。下の長行のなかにいはく、〈いかんが讃嘆する、いはく、かの如来の名を称(称の字、軽重を知るなり。『説文』にいはく、銓なり、是なり、等なり、俗に秤に作る、斤両を正すをいふなり)す。かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく、修行し相応せんと欲ふがゆゑに〉と。{乃至}
天親、いま〈尽十方無碍光如来〉とのたまへり。すなはちこれかの如来の名によりて、かの如来の光明智相のごとく讃嘆するがゆゑに、知んぬ、この句はこれ讃嘆門なりとは。〈願生安楽国〉とは、この一句はこれ作願門なり、天親菩薩帰命の意なり。{乃至}
 問うていはく、大乗経論のなかに、処処に〈衆生畢竟無生にして虚空のごとし〉と説きたまへり。いかんぞ天親菩薩〈願生〉とのたまふやと。
 答へていはく、〈衆生無生にして虚空のごとし〉と説くに二種あり。一つには、凡夫の実の衆生と謂ふところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じてあらゆることなけん、亀毛のごとし、虚空のごとしと。
二つには、いはく、諸法は因縁生のゆゑに、すなはちこれ不生にして、あらゆることなきこと虚空のごとしと。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆゑに仮に生と名づく。凡夫の実の衆生、実の生死ありと謂ふがごときにはあらざるなりと。
 問うていはく、なんの義によりて往生と説くぞやと。
 答へていはく、この間の仮名の人のなかにおいて五念門を修せしむ。前念と後念と因となる。穢土の仮名の人、浄土の仮名の人、決定して一を得ず、決定して異を得ず。前心・後心またかくのごとし。
なにをもつてのゆゑに、もし一ならばすなはち因果なけん、もし異ならばすなはち相続にあらず。この義一異を観ずる門なり、論のなかに委曲なり。第一行の三念門を釈しをはんぬと。{乃至}
 〈我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応〉とのたまへりと。{乃至}いづれの所にか依る、なんのゆゑにか依る、いかんが依ると。いづれの所にか依るとならば、修多羅に依るなり。なんのゆゑにか依るとならば、如来すなはち真実功徳の相なるをもつてのゆゑに。いかんが依るとならば、五念門を修して相応せるがゆゑにと。{乃至}
修多羅は十二部経のなかに直説のものを修多羅と名づく。いはく、四阿含・三蔵等のほかの大乗の諸経をまた修多羅と名づく。このなかに〈依修多羅〉といふは、これ三蔵のほかの大乗修多羅なり、『阿含』等の経にはあらざるなり。
〈真実功徳相〉とは、二種の功徳あり。一つには有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫、人・天の諸善、人・天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。
二つには菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入れり。この法顛倒せず、虚偽ならず、真実の功徳と名づく。いかんが顛倒せざる、法性により二諦に順ずるがゆゑに。いかんが虚偽ならざる、衆生を摂して畢竟浄に入るるがゆゑなり。
〈説願偈総持与仏教相応〉とは、〈持〉は不散不失に名づく、〈総〉は少をもつて多を摂するに名づく。{乃至}〈願〉は欲楽往生に名づく。{乃至}〈与仏教相応〉とは、たとへば函蓋相称するがごとしと。{乃至}
 (論註・下)〈いかんが回向する、一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに〉とのたまへり。回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相とは、おのれが功徳をもつて一切衆生に回施して、作願してともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまへるなり」と。{抄出}
【20】『安楽集』(上)にいはく、「『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳、真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。
父の王、仏にまうさく、《念仏の功、その状いかんぞ》と。仏、父の王に告げたまはく、《伊蘭林の方四十由旬ならんに、一科の牛頭栴檀あり。根芽ありといへどもなほいまだ土を出でざるに、その伊蘭林ただ臭くして香ばしきことなし。もしその華菓を_することあらば、狂を発して死せん。後の時に栴檀の根芽やうやく生長して、わづかに樹にならんとす。香気昌盛にして、つひによくこの林を改変して、あまねくみな香美ならしむ。衆生見るものみな希有の心を生ぜんがごとし》と。
仏、父の王に告げたまはく、《一切衆生、生死のなかにありて念仏の心もまたかくのごとし。ただよく念を繋けて止まざれば、さだめて仏前に生ぜん。ひとたび往生を得れば、すなはちよく一切の諸悪を改変して大慈悲を成ぜんこと、かの香樹の伊蘭林を改むるがごとし》と。
いふところの伊蘭林とは、衆生の身の内の三毒・三障、無辺の重罪に喩ふ。栴檀といふは、衆生の念仏の心に喩ふ。わづかに樹とならんとすといふは、いはく、一切衆生ただよく念を積みて断えざれば業道成弁するなり。
 問うていはく、一衆生の念仏の功を計りてまた一切を知るべし。なにによりてか一念の功力よく一切の諸障を断ずること、一つの香樹の四十由旬の伊蘭林を改めて、ことごとく香美ならしむるがごとくならんやと。
 答へていはく、諸部の大乗によりて念仏三昧の功能の不可思議なるを顕さんとなり。いかんとならば『華厳経』にいふがごとし。〈たとへば人ありて、獅子の筋を用ゐて、もつて琴の絃とせんに、音声一たび奏するに、一切の余の絃ことごとくみな断壊するがごとし。もし人、菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の煩悩、一切の諸障、ことごとくみな断滅すと。
また人ありて、牛・羊・驢馬一切のもろもろの乳を搆し取りて、一器のなかに置かんに、もし獅子の乳一_をもつてこれを投ぐるに、ただちに過ぎて難なし、一切の諸乳ことごとくみな破壊して変じて清水となるがごとし。もし人、ただよく菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の悪魔・諸障ただちに過ぐるに難なし〉と。
またかの『経』(華厳経)にいはく、〈たとへば人ありて、翳身薬をもつて処処に遊行するに、一切の余行この人を見ざるがごとし。もしよく菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の悪神、一切の諸障、この人を見ず。もろもろの処処に随ひてよく遮障することなきなり。
なんがゆゑぞとならば、よくこの念仏三昧を念ずるは、すなはちこれ一切三昧のなかの王なるがゆゑなり〉」と。
【21】またいはく(安楽集・下)、「『摩訶衍』のなかに説きていふがごとし。〈諸余の三昧は三昧ならざるにはあらず。なにをもつてのゆゑに、あるいは三昧あり、ただよく貪を除いて瞋・痴を除くことあたはず。あるいは三昧あり、ただよく瞋を除いて痴・貪を除くことあたはず。あるいは三昧あり、ただよく痴を除いて瞋を除くことあたはず。あるいは三昧あり、ただよく現在の障を除いて過去・未来の一切諸障を除くことあたはず。もしよくつねに念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来の一切諸障を問ふことなくみな除くなり〉」と。
【22】またいはく(同・下)、「『大経の讃』(讃阿弥陀仏偈)にいはく、〈もし阿弥陀の徳号を聞きて歓喜讃仰し、心帰依すれば、下一念に至るまで大利を得。すなはち功徳の宝を具足すとす。たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞かばまた退せず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる〉」と。
【23】またいはく(安楽集・上)、「また『目連所問経』のごとし。〈仏、目連に告げたまはく、《たとへば万川長流に草木ありて、前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず、すべて大海に会するがごとし。世間もまたしかなり。豪貴富楽自在なることありといへども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず。ただ仏経を信ぜざるによりて、後世に人となつて、さらにはなはだ困劇して千仏の国土に生ずることを得ることあたはず。
このゆゑにわれ説かく、“無量寿仏国は往き易く取り易くして、人、修行して往生することあたはず、かへつて九十五種の邪道に事ふ”と。われこの人を説きて眼なき人と名づく、耳なき人と名づく》〉と。経教すでにしかなり。なんぞ難を捨てて易行道によらざらん」と。{以上}
【24】光明寺の和尚(善導)のいはく(礼讃)、「また『文殊般若』にいふがごとし。〈一行三昧を明かさんと欲ふ。ただ勧めて、独り空閑に処してもろもろの乱意を捨てて、心を一仏に係けて相貌を観ぜず、もつぱら名字を称すれば、すなはち念のなかにおいて、かの阿弥陀仏および一切の仏等を見ることを得〉といへり。
 問うていはく、なんがゆゑぞ観をなさしめずして、ただちにもつぱら名字を称せしむるは、なんの意かあるやと。
 答へていはく、いまし衆生障重くして、境は細なり心は粗なり。識_り、神飛びて、観成就しがたきによりてなり。ここをもつて大聖(釈尊)悲憐して、ただちに勧めてもつぱら名字を称せしむ。まさしく称名易きに由(由の字、行なり、経なり、従なり、用なり)るがゆゑに、相続してすなはち生ずと。
 問うていはく、すでにもつぱら一仏を称せしむるに、なんがゆゑぞ境現ずることすなはち多き。これあに邪正あひ交はり、一多雑現するにあらずやと。
 答へていはく、仏と仏と斉しく証して形二の別なし。たとひ一を念じて多を見ること、なんの大道理にか乖かんや。
また『観経』にいふがごとし。〈勧めて座観・礼念等を行ぜしむ。みなすべからく面を西方に向かふは最勝なるべし〉と。樹の先より傾けるが倒るるに、かならず曲れるに随ふがごとし。ゆゑにかならず事の碍ありて西方に向かふに及ばずは、ただ西に向かふ想をなす、また得たりと。
 問うていはく、一切諸仏、三身おなじく証し、悲智果円にしてまた無二なるべし。方にしたがひて一仏を礼念し課称せんに、また生ずることを得べし。なんがゆゑぞ、ひとへに西方を嘆じてもつぱら礼念等を勧むる、なんの義かあるやと。
 答へていはく、諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもつて来し取むるに因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をして求念せしむれば、上一形を尽し、下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて往生を得易し。
このゆゑに釈迦および諸仏、勧めて西方に向かふるを別異とすならくのみ。またこれ余仏を称念して障を除き、罪を滅することあたはざるにはあらざるなりと、知るべし。
もしよく上のごとく念念相続して、畢命を期とするものは、十即十生、百即百生なり。なにをもつてのゆゑに、外の雑縁なし、正念を得たるがゆゑに、仏の本願と相応することを得るがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順するがゆゑなり」と。{以上}
【25】またいはく(礼讃)、「ただ念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てざるがゆゑに、阿弥陀と名づく」と。{以上}
【26】またいはく(礼讃)、「弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到る。たとひ大千に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃ずれば、みなまさにかしこに生ずることを得べし。万年に三宝滅せんに、この経住すること百年せん。そのとき聞きて一念せん。みなまさにかしこに生ずることを得べし」と。{抄要}
【27】またいはく(同)、「現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪廻せり。苦しみいふべからず。いま善知識に遇ひて弥陀本願の名号を聞くことを得たり。一心に称念して往生を求願せよ。願はくは仏の慈悲、本弘誓願を捨てたまはざれば、弟子を摂受したまへり」と。{以上}
【28】またいはく(同)、「問うていはく、阿弥陀仏を称念し礼観して、現世にいかなる功徳利益かあるやと。
 答へていはく、もし阿弥陀仏を称すること一声するに、すなはちよく八十億劫の生死の重罪を除滅す。礼念以下もまたかくのごとし。
『十往生経』にいはく、〈もし衆生ありて阿弥陀仏を念じて往生を願ずれば、かの仏すなはち二十五菩薩を遣はして、行者を擁護して、もしは行もしは座、もしは住もしは臥、もしは昼もしは夜、一切時・一切処に、悪鬼・悪神をしてその便りを得しめざるなり〉と。
また『観経』にいふがごとし。〈もし阿弥陀仏を称し礼念してかの国に往生せんと願へば、かの仏すなはち無数の化仏、無数の化観音・勢至菩薩を遣はして、行者を護念したまふ。また前の二十五菩薩等と百重千重行者を囲繞して、行住座臥、一切時処、もしは昼、もしは夜を問はず、つねに行者を離れたまはず〉と。
いますでにこの勝益まします、憑むべし。願はくはもろもろの行者、おのおの至心を須ゐて往くことを求めよ。
また『無量寿経』にいふがごとし。〈もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ〉と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得と。
また『弥陀経』にいふがごとし。〈もし衆生ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、すなはち名号を執持すべし。もしは一日、もしは二日、乃至七日、一心に仏を称して乱れざれ。命終らんとするとき、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らんとき、心顛倒せず。すなはちかの国に往生することを得ん〉と。
仏、舎利弗に告げたまはく、〈われこの利を見るがゆゑにこの言を説く。もし衆生ありてこの説を聞かんものは、まさに願を発し、かの国に生ぜんと願ずべし〉と。
次下に説きていはく、〈東方の如恒河沙等の諸仏、南西北方および上下一一の方に恒河沙等の諸仏のごとき、おのおの本国にしてその舌相を出して、あまねく三千大千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、《なんだち衆生、みなこの一切諸仏の護念したまふところの経を信ずべし》と。
いかんが護念と名づくると。もし衆生ありて、阿弥陀仏を称念せんこと、もしは七日、一日、下至一声、乃至十声一念等に及ぶまで、かならず往生を得と。この事を証誠せるがゆゑに護念経と名づく〉と。次下の文にいはく、〈もし仏を称して往生するものは、つねに六方恒河沙等の諸仏のために護念せらる。ゆゑに護念経と名づく〉と。
いますでにこの増上の誓願います、憑むべし。もろもろの仏子等、なんぞ意を励まして去かざらんや」と。[智昇法師の『集諸経礼懺儀』の下巻は善導和尚の『礼讃』なり。これによる。]
【29】またいはく(玄義分)、「弘願といふは『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗(乗の字、駕なり、勝なり、登なり、守なり、覆なり)じて増上縁とせざるはなし」と。
【30】またいはく(玄義分)、「南無といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得」と。
【31】またいはく(観念法門)、「摂生増上縁といふは、『無量寿経』の四十八願のなかに説くがごとし。〈仏ののたまはく、《もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること下十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生れずは正覚を取らじ》〉と。これすなはちこれ往生を願ずる行人、命終らんとするとき、願力摂して往生を得しむ。ゆゑに摂生増上縁と名づく」と。
【32】またいはく(同)、「善悪の凡夫、回心し起行して、ことごとく往生を得しめんと欲す。これまたこれ証生増上縁なり」と。{以上}
【32】またいはく(同)、「善悪の凡夫、回心し起行して、ことごとく往生を得しめんと欲す。これまたこれ証生増上縁なり」と。{以上}
【33】またいはく(般舟讃)、「門門不同にして八万四なり。無明と果と業因とを滅せんための利剣は、すなはちこれ弥陀の号なり。一声称念するに罪みな除こると。微塵の故業と随智と滅す。覚へざるに真如の門に転入す。娑婆長劫の難を免るることを得ることは、ことに知識釈迦の恩を蒙れり。種種の思量巧方便をもつて、選びて弥陀弘誓の門を得しめたまへり」と。{以上抄要}
【34】しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]
ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。
必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』(大経)には「即得」といへり、『釈』(易行品)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。
【35】『浄土五会念仏略法事儀讃』にいはく、「それ如来、教を設けたまふに、広略、根に随ふ。つひに実相に帰せしめんとなり。真の無生を得んものには、たれかよくこれを与へんや。
しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王四十八願の名号をもつて、焉に仏、願力を事として衆生を度したまふ。{乃至}
如来つねに三昧海のなかにして、網綿の手を挙げたまひて、父の王にいうてのたまはく、〈王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや〉と。{乃至}
それ大いなるかな、至理の真法、一如にして物を化し、人を利す。弘誓各別なるがゆゑに、わが釈迦、濁世に応生し、阿弥陀、浄土に出現したまふ。方は穢浄両殊なりといへども利益斉一なり。
もし修し易く証し易きは、まことにただ浄土の教門なり。しかるにかの西方は殊妙にしてその国土に比びがたし。また厳るに百宝の蓮をもつてす。九品に敷いてもつて人を収むること、それ仏の名号なりと。{乃至}
 『称讃浄土経』による。[釈法照]〈如来の尊号は、はなはだ分明なり。十方世界にあまねく流行せしむ。ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。観音・勢至おのづから来り迎へたまふ。
弥陀の本願ことに超殊せり。慈悲方便して凡夫を引く。一切衆生みな度脱す。名を称すればすなはち罪消除することを得。凡夫もし西方に到ることを得れば、曠劫塵沙の罪消亡す。六神通を具し自在を得。永く老病を除き無常を離る〉。
 『仏本行経』による。[法照]〈なにものをかこれを名づけて正法とする。もし道理によらばこれ真宗なり。好悪今の時すべからく決択すべし。一一に子細朦朧することなかれ。
正法よく世間を超出す。持戒・座禅を正法と名づく。念仏成仏はこれ真宗なり。仏言を取らざるをば外道と名づく。因果を撥無する見を空とす。正法よく世間を超出す。禅・律いかんぞこれ正法ならん。念仏三昧これ真宗なり。性を見、心を了るはすなはちこれ仏なり。いかんが道理相応せざらん〉。{略抄}
 『阿弥陀経』による。〈西方は道に進むこと娑婆に勝れたり。五欲および邪魔なきによつてなり。成仏にもろもろの善業を労しくせず。華台に端座して弥陀を念じたてまつる。五濁の修行は多く退転す。念仏して西方に往くにはしかず。かしこに到れば自然に正覚を成る。苦界に還来りて津梁とならん。
万行のなかに急要とす。迅速なること浄土門に過ぎたるはなし。ただ本師金口の説のみにあらず。十方諸仏ともに伝へ証したまふ。この界に一人、仏の名を念ずれば、西方にすなはち一つの蓮ありて生ず。ただ一生つねにして不退ならしむれば、一つの華この間に還り到つて迎へたまふと〉。{略抄}
 『般舟三昧経』による。[慈愍和尚]〈今日道場の諸衆等、恒沙曠劫よりすべて経来れり。この人身を度るに値遇しがたし。たとへば優曇華のはじめて開くがごとし。
まさしくまれに浄土の教を聞くに値へり。まさしく念仏の法門の開けるに値へり。まさしく弥陀の弘誓の喚ばひたまふに値へり。まさしく大衆の信心ありて回するに値へり。まさしく今日経によりて讃ずるに値へり。まさしく契を上華台に結ぶに値へり。まさしく道場に魔事なきに値へり。まさしく無病にしてすべてよく来れるに値へり。まさしく七日の功成就するに値へり。四十八願かならずあひ携ふ。
あまねく道場の同行のひとを勧む。ゆめゆめ回心して帰去来。借問ふ、家郷はいづれの処にかある。極楽の池のうち七宝の台なり。
かの仏の因中に弘誓を立てたまへり。名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へ来らしめん。貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、多聞と浄戒を持てるとを簡ばず、破戒と罪根の深きとを簡ばず。ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ。
語を現前の大衆等に寄す。同縁去らんひとはやくあひ尋ねん。借問ふ、いづれの処をあひ尋ねてか去かんと。報へていはく、弥陀浄土のうちへ。借問ふ、なにによりてかかしこに生ずることを得ん。報へていはく、念仏おのづから功を成ず。
借問ふ、今生の罪障多し、いかんぞ浄土にあへてあひ容らんや。報へていはく、名を称すれば罪消滅す、たとへば明灯の闇中に入るがごとし。借問ふ、凡夫生ずることを得やいなや、いかんぞ一念に闇中あきらかならんや。報へていはく、疑を除きて多く念仏すれば、弥陀決定しておのづから親近したまふと。{抄要}
 『新無量寿観経』による。[法照]〈十悪・五逆至れる愚人、永劫に沈淪して久塵にあり。一念弥陀の号を称得して、かしこに至れば、還りて法性身に同ず〉」と。{以上}
【36】憬興師のいはく(述文賛)、「如来の広説に二つあり。初めには広く如来浄土の因果、すなはち所行・所成を説きたまへり。後には広く衆生往生の因果、すなはち所摂・所益を顕したまへるなり」と。
【37】またいはく、「『悲華経』の〈諸菩薩本授記品〉にいはく、〈そのときに宝蔵如来、転輪王を讃めていはく、《善いかな善いかな、{乃至}大王、なんぢ西方を見るに百千万億の仏土を過ぎて世界あり、尊善無垢と名づく。かの界に仏まします、尊音王如来と名づく。{乃至}いま現在にもろもろの菩薩のために正法を説く。{乃至}
純一大乗清浄にして雑はることなし。そのなかの衆生、等一に化生す。また女人およびその名字なし。かの仏世界の所有の功徳、清浄の荘厳なり。ことごとく大王の所願のごとくして異なけん。{乃至}いまなんぢが字をあらためて無量清浄とす》〉と。{以上}
 『無量寿如来会』(上)にいはく、〈広くかくのごとき大弘誓願を発して、みなすでに成就したまへり。世間に希有なり。この願を発しをはりて、実のごとく安住して、種種の功徳具足して、威徳広大清浄の仏土を荘厳したまへり〉」と。{以上}
【38】またいはく(述文賛)、「福智の二厳成就したまへるがゆゑに、つぶさに等しく衆生に行を施したまへるなり。おのれが所修をもつて、衆生を利したまふがゆゑに、功徳成ぜしめたまへり」と。
【39】またいはく(同)、「久遠の因によりて、仏に値ひ、法を聞きて慶喜すべきがゆゑに」と。
【40】またいはく(同)、「人聖に、国妙なり。たれか力を尽さざらん。善をなして生を願ぜよ、善によりてすでに成じたまへる、おのづから果を獲ざらんや。ゆゑに自然といふ。貴賎を簡ばず、みな往生を得しむ。ゆゑに著無上下といふ」と。
【41】またいはく(述文賛)、「〈易往而無人 其国不逆違 自然之所牽〉(大経・下)と。因を修すればすなはち往く。修することなければ生ずること尠なし。因を修して来生するに、つひに違逆せず。すなはち易往なり」と。
【42】またいはく(同)、「本願力故といふは、[すなはち往くこと誓願の力なり。]満足願故といふは、[願として欠くることなきがゆゑに。]明了願故といふは、[これを求むるにむなしからざるがゆゑに。]堅固願故といふは、[縁として壊ることあたはざるがゆゑに。]究竟願故といふは、[かならず果し遂ぐるがゆゑに]」と。
【43】またいはく(同)、「総じてこれをいはば、凡小をして欲往生の意を増さしめんと欲ふがゆゑに、すべからくかの土の勝れたることを顕すべし」と。
【44】またいはく(同)、「すでに〈この土にして菩薩の行を修す〉とのたまへり。すなはち知んぬ、無諍王この方にましますことを。宝海もまたしかなり」と。
【45】またいはく(述文賛)、「仏の威徳広大を聞くがゆゑに、不退転を得るなり」と。{以上}
【46】『楽邦文類』にいはく、「総管の張_いはく、〈仏号はなはだ持ち易し、浄土はなはだ往き易し。八万四千の法門、この捷径にしくなし。ただよく清晨俛仰の暇を輟めて、つひに永劫不壊の資をなすべし。これすなはち力を用ゐることは、はなはだ微にして、功を収むることいまし尽くることあることなけん。衆生またなんの苦しみあればか、みづから棄ててせざらんや。
ああ、夢幻にして真にあらず。寿夭にして保ちがたし。呼吸のあひだにすなはちこれ来生なり。ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず。このとき悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまはん。願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれと。浄楽の居士張_縁を勧む〉」と。{以上}
【47】台教(天台)の祖師山陰[慶文法師]のいはく、「まことに仏名は真応の身よりして建立せるがゆゑに、慈悲海よりして建立せるがゆゑに、誓願海よりして建立せるがゆゑに、智慧海よりして建立せるがゆゑに、法門海よりして建立せるによるがゆゑに、もしただもつぱら一仏の名号を称するは、すなはちこれつぶさに諸仏の名号を称するなり。功徳無量なればよく罪障を滅す。よく浄土に生ず。なんぞかならず疑を生ぜんや」と。{以上}
【48】律宗の祖師、元照のいはく(観経義疏)、「いはんやわが仏大慈、浄土を開示して慇懃にあまねく諸大乗を勧属したまへり。目に見、耳に聞きてことに疑謗を生じて、みづから甘く沈溺して超昇を慕はず。如来説きて憐憫すべきもののためにしたまへり。まことにこの法の特り常途に異なることを知らざるによりてなり。賢愚を択ばず、緇素を簡ばず、修行の久近を論ぜず、造罪の重軽を問はず、ただ決定の信心すなはちこれ往生の因種ならしむ」と。{以上}
【49】またいはく(同)、「いま浄土の諸経にならびに魔をいはず。すなはち知んぬ、この法に魔なきことあきらけしと。山陰の慶文法師の『正信法門』にこれを弁ずること、はなはだ詳らかなり。いまためにつぶさにかの問を引きていはく、〈あるいは人ありていはく、《臨終に仏・菩薩の光を放ち、台を持したまへるを見たてまつり。天楽異香来迎往生す。ならびにこれ魔事なり》と。この説いかんぞや。
答へていはく、『首楞厳』によりて三昧を修習することあり。あるいは陰魔を発動す。『摩訶衍論』によりて三昧を修習することあり、あるいは外魔(天魔をいふなり)を発動す。『止観論』によりて三昧を修習することあり、あるいは時魅を発動す。
これらならびにこれ禅定を修する人、その自力に約してまづ魔種あり、さだめて撃発を被るがゆゑにこの事を現ず。もしよくあきらかに識りておのおの対治を用ゐれば、すなはちよく除遣せしむ。もし聖の解をなせばみな魔障を被るなりと。[上にこの方の入道を明かす、すなはち魔事を発す。]
いま所修の念仏三昧に約するに、いまし仏力を憑む。帝王に近づけばあへて犯すものなきがごとし。けだし阿弥陀仏、大慈悲力・大誓願力・大智慧力・大三昧力・大威神力・大摧邪力・大降魔力・天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力・光明遍照摂取衆生力ましますによりてなり。かくのごときらの不可思議功徳の力まします。あに念仏の人を護持して、臨終のときに至るまで障碍なからしむることあたはざらんや。
もし護持をなさずは、すなはち慈悲力なんぞましまさん。もし魔障を除くことあたはずは、智慧力・三昧力・威神力・摧邪力・降魔力、またなんぞましまさんや。もし鑑察することあたはずして、魔、障をなすことを被らば、天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力、またなんぞましまさんや。
『経』(観経)にいはく、《阿弥陀仏の相好の光明あまねく十方世界を照らす。念仏の衆生をば摂取して捨てたまはず》(意)と。もし念仏して臨終に魔障を被るといはば、光明遍照摂取衆生力、またなんぞましまさんや。
いはんや念仏の人の臨終の感相、衆経より出でたり。みなこれ仏の言なり。なんぞ貶して魔境とすることを得んや。いまために邪疑を決破す。まさに正信を生ずべし〉」と。{以上彼文}
【50】また[元照律師の『弥陀経義』の文]いはく、「一乗の極唱、終帰をことごとく楽邦を指す。万行の円修、最勝を独り果号に推る。まことにもつて因より願を建つ。志を秉り行を窮め、塵点劫を歴て済衆の仁を懐けり。芥子の地も捨身のところにあらざることなし。悲智六度摂化してもつて遺すことなし。内外の両財、求むるに随うてかならず応ず。機と縁と熟し、行満じ功成り、一時に円かに三身を証す。万徳すべて四字に彰る」と。{以上}
【51】またいはく(同)、「いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり」と。{以上}
【52】またいはく(阿弥陀経義疏)、「正念のなかに、凡人の臨終は識神主なし。善悪の業種発現せざることなし。あるいは悪念を起し、あるいは邪見を起し、あるいは繋恋を生じ、あるいは猖狂悪相を発せん。もつぱらみな顛倒の因と名づくるにあらずや。前に仏を誦して罪滅し、障除こり、浄業内に薫じ、慈光外に摂して、苦を脱れ楽を得ること一刹那のあひだなり。下の文に生を勧む、その利ここにあり」と。{以上}
【53】(元照観経義疏)「慈雲法師[天竺寺の遵式]のいはく、〈ただ安養の浄業捷真なり、修すべし。もし四衆ありて、またすみやかに無明を破し、永く五逆・十悪重軽等の罪を滅せんと欲はば、まさにこの法を修すべし。大小の戒体、遠くまた清浄なることを得しめ、念仏三昧を得しめ、菩薩の諸波羅蜜を成就せんと欲はば、まさにこの法を学すべし。
臨終にもろもろの怖畏を離れしめ、身心安快にして衆聖現前し、授手接引せらるることを得、はじめて塵労を離れてすなはち不退に至り、長劫を歴ず、すなはち無生を得んと欲はば、まさにこの法等を学すべし〉と。古賢の法語によく従ふことなからんや。
以上五門、綱要を略標す。自余は尽さず、くはしく釈文にあり。『開元の蔵録』を案ずるに、この『経』におほよそ両訳あり。前本はすでに亡じぬ。いまの本はすなはち_良耶舎の訳なり。『僧伝』にいはく、〈_良耶舎はここには時称といふ。宋の元嘉の初めに、京邑に建めたり。文帝のとき〉」と。
【54】慈雲[遵式なり]の讃にいはく(元照観経義疏)、「了義のなかの了義なり。円頓のなかの円頓なり」と。{以上}
【55】大智[元照律師なり]唱へていはく(同)、「円頓一乗なり。純一にして雑なし」と。{以上}
【56】律宗の戒度[元照の弟子なり]のいはく(正観記)、「仏名はすなはちこれ劫を積んで薫修し、その万徳を攬る。すべて四字に彰る。このゆゑにこれを称するに益を獲ること、浅きにあらず」と。{以上}
【57】律宗の用欽[元照の弟子なり]のいはく、「いまもしわが心口をもつて一仏の嘉号を称念すれば、すなはち因より果に至るまで、無量の功徳具足せざることなし」と。{以上}
【58】またいはく、「一切諸仏、微塵劫を歴て実相を了悟して、一切を得ざるがゆゑに、無相の大願を発して、修するに妙行に住することなし。証するに菩提を得ることなし。住するに国土を荘厳するにあらず。現ずるに神通の神通なきがゆゑに、舌相を大千にあまねくして無説の説を示す。ゆゑにこの経を勧信せしむ。あに心に思ひ、口に議るべけんや。
わたくしにいはく、諸仏の不思議の功徳、須臾に弥陀の二報荘厳に収む。持名の行法はかの諸仏のなかに、またすべからく弥陀を収むべきなり」と。{以上}
【59】三論の祖師、嘉祥のいはく(観経義疏)、「問ふ。〈念仏三昧はなにによりてか、よくかくのごとき多罪を滅することを得るや〉と。解していはく、〈仏に無量の功徳います。仏の無量の功徳を念ずるがゆゑに、無量の罪を滅することを得しむ〉」と。{以上}
【60】法相の祖師、法位のいはく(大経義疏)、「諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし。称名往生これなんの惑ひかあらんや」と。{以上}
【61】禅宗の飛錫のいはく(念仏三昧宝王論)、「念仏三昧の善、これ最上なり。万行の元首なるがゆゑに、三昧王といふ」と。{以上}
【62】『往生要集』(下)にいはく、「『双巻経』(大経・下)の三輩の業、浅深ありといへども、しかるに通じてみな〈一向専念無量寿仏〉といへり。三つに四十八願のなかに、念仏門において別して一つの願を発してのたまはく、〈乃至十念若不生者不取正覚〉と。四つに『観経』には〈極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得〉」と。{以上}
【63】またいはく(往生要集・上)、「『心地観経』の六種の功徳によるべし。一つには無上大功徳田、二つには無上大恩徳、三つには無足・二足および多足衆生のなかの尊なり。四つにはきはめて値遇しがたきこと、優曇華のごとし。五つには独り三千大千界に出でたまふ。六つには世・出世間の功徳円満せり。義つぶさにかくのごときらの六種の功徳による。つねによく一切衆生を利益したまふ」と。{以上}
【64】この六種の功徳によりて信和尚(源信)のいはく(同・上)、「一つには念ずべし、一称南無仏皆已成仏道のゆゑに、われ無上功徳田を帰命し礼したてまつる。二つには念ずべし、慈眼をもつて衆生を視そなはすこと、平等にして一子のごとし。ゆゑにわれ極大慈悲母を帰命し礼したてまつる。三つには念ずべし、十方の諸大士、弥陀尊を恭敬したてまつるがゆゑに、われ無上両足尊を帰命し礼したてまつる。
四つには念ずべし、ひとたび仏名を聞くことを得ること、優曇華よりも過ぎたり。ゆゑにわれ極難値遇者を帰命し礼したてまつる。五つには念ずべし、一百倶胝界には二尊並んで出でたまはず。ゆゑにわれ希有大法王を帰命し礼したてまつる。六つには念ずべし、仏法衆徳海は三世同じく一体なり。ゆゑにわれ円融万徳尊を帰命し礼したてまつる」と。{以上}
【65】またいはく(往生要集・上)、「波利質多樹の華、一日衣に薫ずるに、瞻蔔華・波師迦華、千歳薫ずといへども、及ぶことあたはざるところなり」と。{以上}
【66】またいはく(同・下)、「一斤の石汁、よく千斤の銅を変じて金となす。雪山に草あり、名づけて忍辱とす。牛もし食すればすなはち醍醐を得。尸利沙昴星を見ればすなはち菓実を出すがごとし」と。{以上}
【67】『選択本願念仏集』[源空集]にいはく、「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。
【68】またいはく(同)、「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と。{以上}
【69】あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。
【70】ここをもつて『論の註』(下)にいはく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」とのたまへり。{以上}
【71】しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。
ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。
【72】まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。
ゆゑに宗師(善導)は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」(礼讃)とのたまへり。また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)といへり。また「真宗遇ひがたし」(散善義)といへるをや、知るべしと。
【73】おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。
【74】ゆゑに『大本』(大経・下)にのたまはく、「仏弥勒に語りたまはく、〈それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり〉」と。{以上}
【75】光明寺の和尚(善導)は「下至一念」(散善義・意)といへり。また「一声一念」(礼讃)といへり。また「専心専念」(散善義・意)といへり。{以上}
【76】智昇師の『集諸経礼懺儀』の下巻にいはく、「深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく」と。{以上}
【77】『経』(大経)に「乃至」といひ、釈(散善義)に「下至」といへり。乃下その言異なりといへども、その意これ一つなり。また乃至とは一多包容の言なり。
大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。
釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。
いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声はすなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。
【78】しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。
【79】『安楽集』(上)にいはく、「十念相続とは、これ聖者の一つの数の名ならくのみ。すなはちよく念を積み、思を凝らして他事を縁ぜざれば、業道成弁せしめてすなはち罷みぬ。また労しくこれが頭数を記せざれと。またいはく、〈もし久行の人の念は、多くこれによるべし。もし始行の人の念は、数を記する、またよし。これまた聖教によるなり〉」と。{以上}
【80】これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。
【81】他力といふは如来の本願力なり。
【82】『論』(論註・下)にいはく、「本願力といふは、大菩薩、法身のなかにして、つねに三昧にましまして、種種の身、種種の神通、種種の説法を現じたまふことを示す。みな本願力より起るをもつてなり。たとへば、阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、しかも音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳相と名づく。{乃至}
 〈菩薩は四種の門に入りて、自利の行成就したまへりと、知るべし〉と。〈成就〉とは、いはく自利満足せるなり。〈応知〉といふは、いはく自利によるがゆゑにすなはちよく利他す。これ自利にあたはずしてよく利他するにはあらざるなりと知るべし。
 〈菩薩は第五門に出でて回向利益他の行成就したまへりと、知るべし〉と。〈成就〉とは、いはく回向の因をもつて教化地の果を証す。もしは因もしは果、一事として利他にあたはざることあることなきなり。〈応知〉といふは、いはく利他によるがゆゑにすなはちよく自利す、これ利他にあたはずしてよく自利するにはあらざるなりと知るべし。
 〈菩薩はかくのごとき五門の行を修して、自利利他して、すみやかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまへるがゆゑに〉と。仏の所得の法を、名づけて阿耨多羅三藐三菩提とす。この菩提を得たまへるをもつてのゆゑに、名づけて仏とす。いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。
〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく〈菩提〉をば道に名づく、統ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。
無上は、いふこころは、この道、理を窮め、性を尽すこと、さらに過ぎたるひとなけん。なにをもつてかこれをいはば、正をもつてのゆゑに。正は聖智なり。法相のごとくして知るがゆゑに、称して正智とす。法性は相なきゆゑに聖智無知なり。遍に二種あり。一つには聖心、あまねく一切の法を知ろしめす。二つには法身、あまねく法界に満てり。もしは身、もしは心、遍せざることなきなり。
道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、〈十方の無碍人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。かくのごときらの入不二の法門は無碍の相なり。
 問うていはく、なんの因縁ありてか〈速得成就阿耨多羅三藐三菩提〉といへるやと。
 答へていはく、『論』(浄土論)に〈五門の行を修してもつて自利利他成就したまへるがゆゑに〉といへり。しかるにまことにその本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。
他利と利他と、談ずるに左右あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ。まさに知るべし、この意なり。
おほよそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の起すところの諸行は、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑに。なにをもつてこれをいはば、もし仏力にあらずは、四十八願すなはちこれいたづらに設けたまへらん。いま的しく三願を取りて、もつて義の意を証せん。
 願(第十八願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く〉と。仏願力によるがゆゑに十念念仏してすなはち往生を得。往生を得るがゆゑに、すなはち三界輪転の事を勉る。輪転なきがゆゑに、このゆゑにすみやかなることを得る一つの証なり。
 願(第十一願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ〉と。仏願力によるがゆゑに正定聚に住せん。正定聚に住せるがゆゑにかならず滅度に至らん。もろもろの回伏の難なし、このゆゑにすみやかなることを得る二つの証なり。
 願(第二十二願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らしめん。
その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱して諸仏の国に遊び、菩薩の行を修して十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは正覚を取らじ〉と。
仏願力によるがゆゑに、常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。常倫に超出し、諸地の行現前するをもつてのゆゑに、このゆゑにすみやかなることを得る三つの証なり。これをもつて他力を推するに増上縁とす。しからざることを得んやと。
 まさにまた例を引きて自力・他力の相を示すべし。人、三塗を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。禅定を修すをもつてのゆゑに神通を修習す。神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。かくのごときらを名づけて自力とす。
また劣夫の驢に跨つて上らざれども、転輪王の行くに従へば、すなはち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障碍するところなきがごとし。かくのごときらを名づけて他力とす。愚かなるかな後の学者、他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし。みづから局分(局の字、せばし、ちかし、かぎる)することなかれ」と。{以上}
【83】元照律師のいはく(観経義疏)、「あるいはこの方にして惑を破し真を証すれば、すなはち自力を運ぶがゆゑに、大小の諸経に談ず。あるいは他方に往きて法を聞き道を悟るは、すべからく他力を憑むべきがゆゑに、往生浄土を説く。彼此異なりといへども方便にあらざることなし。自心を悟らしめんとなり」と。{以上}
【84】「一乗海」といふは、「一乗」は大乗なり。大乗は仏乗なり。一乗を得るは阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。阿耨菩提はすなはちこれ涅槃界なり。涅槃界はすなはちこれ究竟法身なり。究竟法身を得るはすなはち一乗を究竟するなり。異の如来ましまさず。異の法身ましまさず。如来はすなはち法身なり。一乗を究竟するはすなはちこれ無辺不断なり。
大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。
【85】『涅槃経』(聖行品)にのたまはく、「善男子、実諦は名づけて大乗といふ。大乗にあらざるは実諦と名づけず。善男子、実諦はこれ仏の所説なり。魔の所説にあらず。もしこれ魔説は仏説にあらざれば、実諦と名づけず。善男子、実諦は一道清浄にして二つあることなし」と。{以上}
【86】またのたまはく、(徳王品)「いかんが菩薩、一実に信順する。菩薩は一切衆生をしてみな一道に帰せしむと了知するなり。一道はいはく大乗なり。諸仏・菩薩、衆生のためのゆゑに、これを分ちて三つとす。このゆゑに菩薩、不逆に信順す」と。{以上}
【87】またのたまはく(涅槃経・師子吼品)、「善男子、畢竟に二種あり。一つには荘厳畢竟、二つには究竟畢竟なり。一つには世間畢竟、二つには出世畢竟なり。
荘厳畢竟は六波羅蜜なり。究竟畢竟は一切衆生得るところの一乗なり。一乗は名づけて仏性とす。この義をもつてのゆゑに、われ一切衆生悉有仏性と説くなり。一切衆生ことごとく一乗あり。無明覆へるをもつてのゆゑに、見ることを得ることあたはず」と。{以上}
【88】またのたまはく(同)、「いかんが一とする、一切衆生ことごとく一乗なるがゆゑに。いかんが非一なる、三乗を説くがゆゑに。いかんが非一・非非一なる、無数の法なるがゆゑなり」と。{以上}
【89】『華厳経』(明難品・晋訳)にのたまはく、「文殊の法はつねにしかなり。法王はただ一法なり。一切の無碍人、一道より生死を出でたまへり。一切諸仏の身、ただこれ一法身なり。一心一智慧なり。力・無畏もまたしかなり」と。{以上}
【90】しかれば、これらの覚悟はみなもつて安養浄刹の大利、仏願難思の至徳なり。
【91】「海」といふは、久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、『経』に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」とのたまへるがごとし。{以上}
 願海は二乗雑善の中・下の死骸を宿さず。いかにいはんや人・天の虚仮・邪偽の善業、雑毒雑心の死骸を宿さんや。
【92】ゆゑに『大本』(大経・下)にのたまはく、「声聞あるいは菩薩、よく聖心を究むることなし。たとへば生れてより盲ひたるものの、行いて人を開導せんと欲はんがごとし。如来の智慧海は深広にして涯底なし。二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり」と。{以上}
【93】『浄土論』(論註・下)にいはく、「〈なにものか荘厳不虚作住持功徳成就、偈に、《仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ》といへるがゆゑに〉とのたまへり。
 〈不虚作住持功徳成就〉とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。いままさに略して虚作の相の住持にあたはざるを示して、もつてかの不虚作住持の義を顕す。{乃至}
いふところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力とによる。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力願あひ符うて畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ」と。
【94】またいはく(論註・上)、「〈海〉とは、いふこころは、仏の一切種智深広にして涯なし、二乗雑善の中・下の死骸を宿さず、これを海のごとしと喩ふ。このゆゑに、〈天人不動衆清浄智海生〉(願生偈)といへり。〈不動〉とは、いふこころは、かの天・人、大乗根を成就して傾動すべからざるなり」と。{以上}
【95】光明師(善導)のいはく(玄義分)、「われ菩薩蔵、頓教と一乗海とによる」と。
【96】またいはく(般舟讃)、「『瓔珞経』のなかには漸教を説けり。万劫に功を修して不退を証す。『観経』・『弥陀経』等の説は、すなはちこれ頓教なり、菩提蔵なり」と。{以上}
【97】『楽邦文類』にいはく、「宗釈禅師のいはく、〈還丹の一粒は鉄を変じて金と成す。真理の一言は悪業を転じて善業と成す〉」と。{以上}
【98】しかるに教について念仏諸善比校対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。この義かくのごとし。しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教なり。
【99】また機について対論するに、信疑対、善悪対、正邪対、是非対、実虚対、真偽対、浄穢対、利鈍対、奢促対、豪賎対、明闇対あり。この義かくのごとし。しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし。
【100】敬つて一切往生人等にまうさく、弘誓一乗海は、無碍無辺最勝深妙不可説不可称不可思議の至徳を成就したまへり。なにをもつてのゆゑに。誓願不可思議なるがゆゑに。
悲願はたとへば太虚空のごとし、もろもろの妙功徳広無辺なるがゆゑに。なほ大車のごとし、あまねくよくもろもろの凡聖を運載するがゆゑに。なほ妙蓮華のごとし、一切世間の法に染せられざるがゆゑに。
善見薬王のごとし、よく一切煩悩の病を破するがゆゑに。なほ利剣のごとし、よく一切_慢の鎧を断つがゆゑに。勇将幢のごとし、よく一切のもろもろの魔軍を伏するがゆゑに。なほ利鋸のごとし、よく一切無明の樹を截るがゆゑに。なほ利斧のごとし、よく一切諸苦の枝を伐るがゆゑに。
善知識のごとし、一切生死の縛を解くがゆゑに。なほ導師のごとし、よく凡夫出要の道を知らしむるがゆゑに。なほ涌泉のごとし、智慧の水を出して窮尽することなきがゆゑに。なほ蓮華のごとし、一切のもろもろの罪垢に染せられざるがゆゑに。なほ疾風のごとし、よく一切諸障の霧を散ずるがゆゑに。なほ好蜜のごとし、一切功徳の味はひを円満せるがゆゑに。
なほ正道のごとし、もろもろの群生をして智城に入らしむるがゆゑに。なほ磁石のごとし、本願の因を吸ふがゆゑに。閻浮檀金のごとし、一切有為の善を映奪するがゆゑに。なほ伏蔵のごとし、よく一切諸仏の法を摂するがゆゑに。なほ大地のごとし、三世十方一切如来出生するがゆゑに。日輪の光のごとし、一切凡愚の痴闇を破して信楽を出生するがゆゑに。
なほ君王のごとし、一切上乗人に勝出せるがゆゑに。なほ厳父のごとし、一切もろもろの凡聖を訓導するがゆゑに。なほ悲母のごとし、一切凡聖の報土真実の因を長生するがゆゑに。なほ乳母のごとし、一切善悪の往生人を養育し守護したまふがゆゑに。
なほ大地のごとし、よく一切の往生を持つがゆゑに。なほ大水のごとし、よく一切煩悩の垢を滌ぐがゆゑに。なほ大火のごとし、よく一切諸見の薪を焼くがゆゑに。なほ大風のごとし、あまねく世間に行ぜしめて碍ふるところなきがゆゑに。
よく三有繋縛の城を出して、よく二十五有の門を閉づ。よく真実報土を得しめ、よく邪正の道路を弁ず。よく愚痴海を竭かして、よく願海に流入せしむ。一切智船に乗ぜしめて、もろもろの群生海に浮ぶ。福智蔵を円満し、方便蔵を開顕せしむ。まことに奉持すべし、ことに頂戴すべきなり。
【101】おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。
 ここをもつて知恩報徳のために宗師(曇鸞)の釈(論註・上)を披きたるにのたまはく、「それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静おのれにあらず、出没かならず由あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理よろしくまづ啓すべし。また所願軽からず。もし如来、威神を加したまはずは、まさになにをもつてか達せんとする。神力を乞加す、このゆゑに仰いで告ぐ」とのたまへり。{以上}
 しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく、
【102】無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。
法蔵菩薩の因位のとき、世自在王仏の所にましまして、
諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞えんと。
あまねく無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、
清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、
超日月光を放ちて塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る。
本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願(第十八願)を因とす。
等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(第十一願)成就なり。
如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり。
五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。
よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。
凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし。
摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、
貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。
たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。
信を獲て見て敬ひ大きに慶喜すれば、すなはち横に五悪趣を超截す。
一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、
仏、広大勝解のひととのたまへり。この人を分陀利華と名づく。
弥陀仏の本願念仏は、邪見・_慢の悪衆生、
信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。
印度西天の論家、中夏(中国)・日域(日本)の高僧、
大聖(釈尊)興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす。
釈迦如来、楞伽山にして、衆のために告命したまはく、
南天竺(南印度)に龍樹大士世に出でて、ことごとくよく有無の見を摧破せん。
大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して安楽に生ぜんと。
難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。
弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即のとき必定に入る。
ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。
天親菩薩、『論』(浄土論)を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる。
修多羅によりて真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。
広く本願力の回向によりて、群生を度せんがために一心を彰す。
功徳大宝海に帰入すれば、かならず大会衆の数に入ることを獲。
蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなはち真如法性の身を証せしむと。
煩悩の林に遊んで神通を現じ、生死の園に入りて応化を示すといへり。
本師曇鸞は、梁の天子、つねに鸞の処に向かひて菩薩と礼したてまつる。
三蔵流支、浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまひき。
天親菩薩の『論』(同)を註解して、報土の因果誓願に顕す。
往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。
惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。
かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり。
道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。
万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。
三不三信の誨、慇懃にして、像末法滅同じく悲引す。
一生悪を造れども、弘誓に値ひぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむといへり。
善導独り仏の正意をあきらかにせり。定散と逆悪とを矜哀して、
光明・名号因縁を顕す。本願の大智海に開入すれば、
行者まさしく金剛心を受けしめ、慶喜の一念相応してのち、
韋提と等しく三忍を獲、すなはち法性の常楽を証せしむといへり。
源信広く一代の教を開きて、ひとへに安養に帰して一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり。
極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、
煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふといへり。
本師源空は、仏教にあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
真宗の教証、片州に興す。選択本願悪世に弘む。
生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。
弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまふ。
道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。
 六十行すでに畢りぬ。一百二十句なり。

顕浄土真実行文類二

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顕浄土真実信文類序
愚禿釈親鸞集

 それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。
 しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。
 ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出す。まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥ぢず。浄邦を欣ふ徒衆、穢域を厭ふ庶類、取捨を加ふといへども毀謗を生ずることなかれとなり。

至心信楽の願[正定聚の機]

顕浄土真実信文類三
愚禿釈親鸞集

【1】つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。
この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。
しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。
たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。
【2】至心信楽の本願(第十八願)の文、『大経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法を除く」と。{以上}
【3】『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「もしわれ無上覚を証得せんとき、余仏の刹のうちのもろもろの有情類、わが名を聞き、おのれが所有の善根、心心に回向せしむ。わが国に生ぜんと願じて、乃至十念せん。もし生ぜずは菩提を取らじと。ただ無間の悪業を造り、正法およびもろもろの聖人を誹謗せんをば除く」と。{以上}
【4】本願成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。{以上}
【5】『無量寿如来会』(下)にのたまはく、[菩提流志訳]「他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く」と。{以上}
【6】またのたまはく(大経・下)、「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり。このゆゑにまさに意を発すべし」と。{以上}
【7】またのたまはく(如来会・下)、「かくのごときらの類は大威徳のひとなり。よく広大仏法の異門に生ぜん」と。{以上}
【8】またのたまはく(同・下)、「如来の功徳は仏のみみづから知ろしめせり。ただ世尊ましましてよく開示したまふ。天・竜・夜叉及ばざるところなり。二乗おのづから名言を絶つ。もしもろもろの有情まさに作仏して、行、普賢に超え、彼岸に登つて、一仏の功徳を敷演せん。時、多劫の不思議を逾えん。この中間において身は滅度すとも、仏の勝慧はよく量ることなけん。
このゆゑに信・聞およびもろもろの善友の摂受を具足して、かくのごときの深妙の法を聞くことを得ば、まさにもろもろの聖尊に重愛せらるることを獲べし。
如来の勝智、遍虚空の所説の義言は、ただ仏のみ悟りたまへり。このゆゑに博く諸智土を聞きて、わが教、如実の言を信ずべし。人趣の身得ることはなはだ難し。如来の出世遇ふことまた難し。信慧多きときまさにいまし獲ん。
このゆゑに修せんもの精進すべし。かくのごときの妙法すでに聴聞せば、つねに諸仏をして喜びを生ぜしめたてまつるなり」と。{抄出}
【9】『論の註』(下)にいはく、「〈かの如来の名を称し、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲ふがゆゑに〉(浄土論)といへり。
〈称彼如来名〉といふは、いはく無碍光如来の名を称するなり。
〈如彼如来光明智相〉といふは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界を照らすに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く。日月珠光のただ室穴のうちの闇を破するがごときにはあらざるなり。
〈如彼名義欲如実修行相応〉といふは、かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。しかるに称名憶念することあれども、無明なほ存じて所願を満てざるはいかんとならば、実のごとく修行せざると、名義と相応せざるによるがゆゑなり。
いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。いはく、如来はこれ実相の身なり、これ物のための身なりと知らざるなり。
また三種の不相応あり。一つには信心淳(淳の字、音純なり、また厚朴なり。朴の字、音卜なり。薬の名なり。諄の字、至なり。誠懇の貌なり。上の字に同じ)からず、存ぜるがごとし亡ぜるがごときのゆゑに。二つには信心一ならず、決定なきがゆゑに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆゑに。
この三句展転してあひ成ず。信心淳からざるをもつてのゆゑに決定なし。決定なきがゆゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信を得ず、決定の信を得ざるがゆゑに心淳からざるべし。これと相違せるを如実修行相応と名づく。このゆゑに論主(天親)、建めに〈我一心〉とのたまへり」と。{以上}
【10】『讃阿弥陀仏偈』にいはく、[曇鸞和尚の造なり]「あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、いまし一念におよぶまでせん。至心のひと回向したまへり。生ぜんと願ずればみな往くことを得しむ。ただ五逆と謗正法とをば除く。ゆゑにわれ頂礼して往生を願ず」と。{以上}
【11】光明寺(善導)の『観経義』(定善義)にいはく、「如意といふは二種あり。一つには衆生の意のごとし、かの心念に随ひてみなこれを度すべし。二つには弥陀の意のごとし、五眼円かに照らし六通自在にして、機の度すべきものを観そなはして、一念のうちに前なく後なく身心等しく赴き、三輪開悟しておのおの益すること同じからざるなり」と。{以上}
【12】またいはく(序分義)、「この五濁・五苦等は六道に通じて受けて、いまだなきものはあらず。つねにこれに逼悩す。もしこの苦を受けざるものは、すなはち凡数の摂にあらざるなり」と。{抄出}
【13】またいはく(散善義)、「〈何等為三〉より下〈必生彼国〉に至るまでこのかたは、まさしく三心を弁定して、もつて正因とすることを明かす。すなはちそれ二つあり。一つには世尊、機に随ひて益を顕すこと、意密にして知りがたし、仏みづから問うてみづから徴したまふにあらずは、解を得るに由なきを明かす。二つに如来還りてみづから前の三心の数を答へたまふことを明かす。
 『経』(観経)にのたまはく、〈一者至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。
もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。
また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。{乃至}不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。
 〈二者深心〉。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。
また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信するなり。
また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。
また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。
仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり。
もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説この義不如是〉とのたまふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。
もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。
このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれと。{乃至}
釈迦一切の凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後、さだめてかの国に生るれば、すなはち十方諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。なにをもつてのゆゑに、同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。
すなはち『弥陀経』のなかに説かく、〈釈迦極楽の種種の荘厳を讃嘆したまふ。また一切の凡夫を勧めて一日七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、さだめて往生を得しめたまふ〉と。
次下の文にのたまはく、〈十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛りなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励せしめて、称念すればかならず往生を得と讃じたまふ〉と、すなはちその証なり。
また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんをおそれて、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、〈なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。
このゆゑに一仏の所説をば、すなはち一切仏同じくその事を証誠したまふなり。これを人について信を立つと名づくるなり。{乃至}
またこの正のなかについてまた二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念念に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼・誦等によらば、すなはち名づけて助業とす。この正・助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。{乃至}すべて疎雑の行と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。
 〈三者回向発願心〉。{乃至}また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ。この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。
ただこれ決定して、一心に捉つて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなはち進退の心ありて怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちてすなはち往生の大益を失するなり。
 問うていはく、もし解行不同の邪雑の人等ありて、来りてあひ惑乱して、あるいは種種の疑難を説きて〈往生を得じ〉といひ、あるいはいはん、〈なんだち衆生、曠劫よりこのかた、および今生の身口意業に、一切凡聖の身の上において、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、いまだ除尽することあたはず。しかるにこれらの罪は三界悪道に繋属す。いかんぞ一生の修福念仏をして、すなはちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや〉と。
 答へていはく、諸仏の教行数塵沙に越えたり。識を稟くる機縁、情に随ひて一つにあらず。たとへば世間の人、眼に見るべく信ずべきがごときは、明のよく闇を破し、空のよく有を含み、地のよく載養し、水のよく生潤し、火のよく成壊するがごとし。これらのごときの事、ことごとく待対の法と名づく。すなはち目に見つべし、千差万別なり。
いかにいはんや仏法不思議の力、あに種種の益なからんや。随ひて一門を出づるは、すなはち一煩悩の門を出づるなり。随ひて一門に入るは、すなはち一解脱智慧の門に入るなり。ここを為(為の字、定なり、用なり、彼なり、作なり、是なり、相なり)つて縁に随ひて行を起して、おのおの解脱を求めよ。
なんぢなにをもつてか、いまし有縁の要行にあらざるをもつて、われを障惑する。しかるにわが所愛はすなはちこれわが有縁の行なり、すなはちなんぢが所求にあらず。なんぢが所愛はすなはちこれなんぢが有縁の行なり、またわれの所求にあらず。このゆゑにおのおの所楽に随ひてその行を修するは、かならず疾く解脱を得るなり。
行者まさに知るべし、もし解を学ばんと欲はば、凡より聖に至るまで、乃至仏果まで一切碍なし、みな学ぶことを得よ。もし行を学ばんと欲はば、かならず有縁の法によれ。少しき功労を用ゐるに、多く益を得ればなりと。
 また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩(喩の字、さとす)を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。なにものかこれや。
たとへば人ありて、西に向かひて行かんとするに、百千の里ならん。忽然として中路に見れば二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。
まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。
この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす。
死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。
まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸漸に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉と。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。
すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。
この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。
この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。
この人、喚ばふ声を聞くといへども、また顧みず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩(喩の字、をしへなり)へなり。
 次に喩へを合せば、〈東の岸〉といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。〈西の岸〉といふは、すなはち極楽宝国に喩ふ。〈群賊・悪獣詐り親しむ〉といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。〈無人空迥の沢〉といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。
〈水火の二河〉といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩ふ。〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。いまし貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心、微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。
また〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。
〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらず、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ、すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。
〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、妄りに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。
〈須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ〉といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念念に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらんと喩ふるなり。
 また一切の行者、行住座臥に三業の所修、昼夜時節を問ふことなく、つねにこの解をなし、つねにこの想をなすがゆゑに、回向発願心と名づく。また回向といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入して衆生を教化する、また回向と名づくるなり。
 三心すでに具すれば、行として成ぜざるなし。願行すでに成じて、もし生ぜずは、この処あることなしとなり。またこの三心、また定善の義を通摂すと、知るべし」と。{以上}
【14】またいはく(般舟讃)、「敬ひて一切往生の知識等にまうさく、大きにすべからく慚愧すべし。釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり。種種の方便をして、われらが無上の信心を発起せしめたまへり」と。{以上}
【15】『貞元の新定釈教の目録』巻第十一にいはく、「『集諸経礼懺儀』[上下]大唐西崇福寺の沙門智昇の撰なり。貞元十五年十月二十三日の勅に准じて編入す」と云云。『懺儀』の上巻は、智昇、諸経によりて『懺儀』を造るなかに、『観経』によりて善導の『礼懺』(往生礼讃)の日中のときの礼を引けり。下巻は「比丘善導の集記」と云云。
かの『懺儀』によりて要文を鈔していはく、「二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づくと。{乃至}
 〈それかの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜して一心を至せば、みなまさにかしこに生ずることを得べし〉」と。{抄出}
【16】『往生要集』(上)にいはく、「〈入法界品〉にのたまはく、〈たとへば人ありて不可壊の薬を得れば、一切の怨敵その便りを得ざるがごとし。菩薩摩訶薩もまたまたかくのごとし。菩提心不可壊の法薬を得れば、一切の煩悩、諸魔怨敵、壊することあたはざるところなり。
たとへば人ありて住水宝珠を得て、その身に瓔珞とすれば、深き水中に入りて没溺せざるがごとし。菩提心の住水宝珠を得れば、生死海に入りて沈没せず。
たとへば金剛は百千劫において水中に処して爛壊し、また異変なきがごとし。菩提の心もまたまたかくのごとし。無量劫において生死のなか、もろもろの煩悩の業に処するに、断滅することあたはず、また損減なし〉」と。{以上}
【17】またいはく(往生要集・中)、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつるにあたはずといへども、大悲、倦きことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と。{以上}
【18】しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。
【19】問ふ。如来の本願(第十八願)、すでに至心・信楽・欲生の誓を発したまへり。なにをもつてのゆゑに、論主(天親)一心といふや。
 答ふ。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもつてす。このゆゑに論主(天親)三を合して一とせるか。
【20】わたくしに三心の字訓を_ふに、三すなはち一なるべし。その意いかんとなれば、至心といふは、至とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり。心とはすなはちこれ種なり、実なり。
信楽といふは、信とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり、満なり、極なり、成なり、用なり、重なり、審なり、験なり、宣なり、忠なり。楽とはすなはちこれ欲なり、願なり、愛なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり。
欲生といふは、欲とはすなはちこれ願なり、楽なり、覚なり、知なり。生とはすなはちこれ成なり、作(作の字、為なり、起なり、行なり、役なり、始なり、生なり)なり、為なり、興なり。
あきらかに知んぬ、至心は、すなはちこれ真実誠種の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。信楽は、すなはちこれ真実誠満の心なり、極成用重の心なり、審験宣忠の心なり、欲願愛悦の心なり、歓喜賀慶の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。欲生は、すなはちこれ願楽覚知の心なり、成作為興の心なり。大悲回向の心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなきなり。
いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑はることなし、正直の心にして邪偽雑はることなし。まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。このゆゑに論主(天親)、建めに「一心」といへるなりと、知るべし。
【21】また問ふ。字訓のごとき、論主(天親)の意、三をもつて一とせる義、その理しかるべしといへども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来すでに三心の願を発したまへり。いかんが思念せんや。
 答ふ。仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
【22】ここをもつて『大経』(上)にのたまはく、「欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味の法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。
三昧常寂にして智慧無碍なり。虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語にして意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦きことなし。もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利しき。三宝を恭敬し、師長に奉事しき。大荘厳をもつて衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしむとのたまへり」と。{以上}
【23】『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈かの法処比丘(法蔵菩薩)、世間自在王如来(世自在王仏)および諸天・人・魔・梵・沙門・婆羅門等の前にして、広くかくのごとき大弘誓を発しき。みなすでに成就したまへり。世間に希有にしてこの願を発し、すでに実のごとく安住す。種種の功徳具足して、威徳広大清浄仏土を荘厳せり。
かくのごとき菩薩の行を修習せること、時、無量無数不可思議無有等等億那由他百千劫を経る。内にはじめていまだかつて貪・瞋および痴、欲・害・恚の想を起さず、色・声・香・味・触の想を起さず、もろもろの衆生において、つねに愛敬を楽ふことなほ親属のごとし。{乃至}
その性、調順にして暴悪あることなし。もろもろの有情において、つねに慈忍の心を懐いて詐諂せず、また懈怠なし。善言策進して、もろもろの白法を求めしめ、あまねく群生のために勇猛にして退することなく、世間を利益せしめ、大願円満したまへり〉」と。{略出}
【24】光明寺の和尚(善導)のいはく(散善義)、「この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲ふは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行ぜしとき、乃至一念一刹那も三業の所修みなこれ真実心のなかになしたまへるによりてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。
また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なりと。{乃至}不善の三業をば、かならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに、至誠心と名づく」と。{抄要}
【25】しかれば大聖(釈尊)の真言、宗師(善導)の釈義、まことに知んぬ、この心すなはちこれ不可思議不可称不可説一乗大智願海、回向利益他の真実心なり。これを至心と名づく。
【26】すでに「真実」といへり。真実といふは、
 『涅槃経』(聖行品)にのたまはく、「実諦は一道清浄にして二あることなきなり。真実といふはすなはちこれ如来なり。如来はすなはちこれ真実なり。真実はすなはちこれ虚空なり。虚空はすなはちこれ真実なり。真実はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ真実なり」と。{以上}
【27】釈(散善義)に「不簡内外明闇」といへり。
 「内外」とは、「内」はすなはちこれ出世なり、「外」はすなはちこれ世間なり。「明闇」とは、「明」はすなはちこれ出世なり、「闇」はすなはちこれ世間なり。また「明」はすなはち智明なり、「闇」はすなはち無明なり。
 『涅槃経』(聖行品)にのたまはく、「闇はすなはち世間なり、明はすなはち出世なり。闇はすなはち無明なり、明はすなはち智明なり」と。{以上}
【28】次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。
しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。
この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。
【29】本願信心の願(第十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん」と。{以上}
【30】またのたまはく(如来会・下)、「他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せん」と。{以上}
【31】『涅槃経』(師子吼品)にのたまはく、「善男子、大慈大悲を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、大慈大悲はつねに菩薩に随ふこと、影の形に随ふがごとし。一切衆生、つひにさだめてまさに大慈大悲を得べし。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は名づけて如来とす。
大喜大捨を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つるにあたはず、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を得ることあたはず。もろもろの衆生、つひにまさに得べきをもつてのゆゑなり。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といへるなり。大喜大捨はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。
仏性は大信心と名づく。なにをもつてのゆゑに、信心をもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩はすなはちよく檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足せり。一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大信心はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。
仏性は一子地と名づく。なにをもつてのゆゑに、一子地の因縁をもつてのゆゑに、菩薩はすなはち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は、つひにさだめてまさに一子地を得べきがゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。一子地はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり」と。{以上}
【32】またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「あるいは阿耨多羅三藐三菩提を説くに、信心を因とす。これ菩提の因、また無量なりといへども、もし信心を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ」と。{以上}
【33】またのたまはく(同・迦葉品)、「信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜず。このゆゑに名づけて信不具足とす。また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん。これを名づけて信不具足とす」と。{以上抄出}
【34】『華厳経』(入法界品・晋訳)にのたまはく、「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」となり。
【35】またのたまはく(同・入法界品・唐訳)、「如来、よく永く一切衆生の疑を断たしむ。その心の所楽に随ひて、あまねくみな満足せしむ」となり。
【36】またのたまはく(華厳経・賢首品・唐訳)、「信は道の元とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法を長養す。疑網を断除して愛流を出で、涅槃無上道を開示せしむ。
信は垢濁の心なし。清浄にして_慢を滅除す。恭敬の本なり。また法蔵第一の財とす。清浄の手として衆行を受く。信はよく恵施して心に悋しむことなし。信はよく歓喜して仏法に入る。信はよく智功徳を増長す。信はよくかならず如来地に到る。
信は諸根をして浄明利ならしむ。信力堅固なればよく壊することなし。信はよく永く煩悩の本を滅す。信はよくもつぱら仏の功徳に向かへしむ。信は境界において所着なし。諸難を遠離して無難を得しむ。信はよく衆魔の路を超出し、無上解脱道を示現せしむ。
信は功徳のために種を壊らず。信はよく菩提の樹を生長す。信はよく最勝智を増益す。信はよく一切仏を示現せしむ。このゆゑに行によりて次第を説く。信楽、最勝にしてはなはだ得ること難し。{乃至}
もしつねに諸仏に信奉すれば、すなはちよく大供養を興集す。もしよく大供養を興集すれば、かの人、仏の不思議を信ず。もしつねに尊法に信奉すれば、すなはち仏法を聞くに厭足なし。もし仏法を聞くに厭足なければ、かの人、法の不思議を信ず。
もしつねに清浄僧に信奉すれば、すなはち信心退転せざることを得。もし信心不退転を得れば、かの人の信力よく動くことなし。
もし信力を得てよく動くことなければ、すなはち諸根浄明利を得ん。もし諸根浄明利を得れば、すなはち善知識に親近することを得。すなはち善知識に親近することを得れば、すなはちよく広大の善を修集す。もしよく広大の善を修集すれば、かの人、大因力を成就す。もし人、大因力を成就すれば、すなはち殊勝決定の解を得。もし殊勝決定の解を得れば、すなはち諸仏の為に護念せらる。
もし諸仏の為に護念せらるれば、すなはちよく菩提心を発起す。もしよく菩提心を発起すれば、すなはちよく仏の功徳を勤修せしむ。もしよく仏の功徳を勤修すれば、すなはちよく生れて如来の家にあらん。もし生れて如来の家にあることを得れば、すなはち善をして巧方便を修行せん。もし善をして巧方便を修行すれば、すなはち信楽の心、清浄なることを得。もし信楽の心、清浄なることを得れば、すなはち増上の最勝心を得。
もし増上の最勝心を得れば、すなはちつねに波羅蜜を修習せん。もしつねに波羅蜜を修習すれば、すなはちよく摩訶衍を具足せん。もしよく摩訶衍を具足すれば、すなはちよく法のごとく仏を供養せん。もしよく法のごとく仏を供養すれば、すなはちよく念仏の心、動ぜず。もしよく念仏の心、動ぜざれば、すなはちつねに無量仏を覩見せん。
もしつねに無量仏を覩見すれば、すなはち如来の体、常住を見ん。もし如来の体、常住を見れば、すなはちよく法の永く不滅なることを知らん。もしよく法の永く不滅なるを知れば、弁才を得、無障碍を得ん。もし弁才、無障碍を得れば、すなはちよく無辺の法を開演せん。もしよく無辺の法を開演せば、すなはちよく慈愍して衆生を度せん。もしよく衆生を慈愍し度すれば、すなはち堅固の大悲心を得ん。
もし堅固の大悲心を得れば、すなはちよく甚深の法を愛楽せん。もしよく甚深の法を愛楽すれば、すなはちよく有為の過を捨離せん。もしよく有為の過を捨離すれば、すなはち_慢および放逸を離る。もし_慢および放逸を離るれば、すなはちよく一切衆を兼利せん。もしよく一切衆を兼利すれば、すなはち生死に処して疲厭なけん」となり。{略抄}
【37】『論の註』(下)にいはく、「如実修行相応と名づく。このゆゑに論主(天親)、建めに〈我一心〉(浄土論)とのたまへり」と。{以上}
【38】またいはく(論註・下)、「経の始めに如是と称することは、信を彰して能入とす」と。{以上}
【39】次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。まことにこれ大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向と名づくるなり。
しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。
このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。
欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
【40】ここをもつて本願の欲生心成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「至心回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住すと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。{以上}
【41】またのたまはく(如来会・下)、「所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ずれば、願に随ひてみな生ぜしめ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間・誹謗正法および謗聖者を除く」と。{以上}
【42】『浄土論』(論註・下)にいはく、「〈いかんが回向したまへる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。
回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相とは、おのれが功徳をもつて一切衆生に回施したまひて、作願してともにかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまふなり。還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他毘婆舎那方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向らしめたまふなり。
もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて生死海を渡せんがためにしたまへり。このゆゑに〈回向為首得成就大悲心故〉とのたまへり」と。{以上}
【43】またいはく(同・下)、「浄入願心とは、『論』(浄土論)にいはく、〈また向に観察荘厳仏土功徳成就・荘厳仏功徳成就・荘厳菩薩功徳成就を説きつ。この三種の成就は願心の荘厳したまへるなりと知るべし〉といへりと。
知るべしとは、この三種の荘厳成就はもと四十八願等の清浄の願心の荘厳したまふところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり、因なくして他の因のあるにはあらざるなりと知るべしとなり」と。{以上}
【44】また『論』(論註・下)にいはく、「〈出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく〉(浄土論)とのたまへり」と。{以上}
【45】光明寺の和尚(善導)のいはく(散善義)、「また回向発願して生るるものは、かならず決定真実心のなかに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ。この心深く信ぜること金剛のごとくなるによつて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。
ただこれ決定して一心に捉つて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなはち進退の心ありて怯弱を生じ、回顧すれば、道に落ちてすなはち往生の大益を失するなり」と。{以上}
【46】まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」(散善義)といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。
道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。
「能生清浄願心」(散善義)といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。
【47】『観経義』(玄義分)に、「道俗時衆等、おのおの無上の心を発せども、生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし。ともに金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。まさしく金剛心を受けて、一念に相応してのち、果、涅槃を得んひと」といへり。{抄要}
【48】またいはく(序分義)、「真心徹到して苦の娑婆を厭ひ、楽の無為を欣ひて、永く常楽に帰すべし。ただし無為の境、軽爾としてすなはち階ふべからず、苦悩の娑婆輒然として離るることを得るに由なし。金剛の志を発すにあらずよりは、永く生死の元を絶たんや。もし親り慈尊に従ひたてまつらずは、なんぞよくこの長き歎きを勉れん」と。
【49】またいはく(定善義)、「金剛といふは、すなはちこれ無漏の体なり」と。{以上}
【50】まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。
真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建めに「我一心」(浄土論)とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」(同)とのたまへり。
【51】おほよそ大信海を案ずれば、貴賎緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。
たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり。
【52】しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。
また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといへども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。
【53】『論の註』(下)にいはく、「王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生のなかに行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発せざるはなし。
この無上菩提心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなはちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり。
もし人、無上菩提心を発せずして、ただかの国土の受楽間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ぜんと願ぜん、またまさに往生を得ざるべきなり。このゆゑにいふこころは、自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲ふがゆゑにと。
住持楽とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて受楽間なきなり。おほよそ回向の名義を釈せば、いはく、おのれが所集の一切の功徳をもつて一切衆生に施与したまひて、ともに仏道に向かへしめたまふなり」と。{抄出}
【54】元照律師のいはく(阿弥陀経義疏)、「他のなすことあたはざるがゆゑに甚難なり。世挙つていまだ見たてまつらざるがゆゑに希有なり」と。
【55】またいはく(同)、「念仏法門は、愚智豪賎を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり」と。
【56】またいはく(同)、「この悪世にして修行成仏するを難とするなり。もろもろの衆生のために、この法門を説くを二つの難とするなり。前の二難を承けて、すなはち諸仏所讃の虚しからざる意を彰す。衆生聞きて信受せしめよとなり」と。{以上}
【57】律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。
【58】『聞持記』にいはく、「〈愚智を簡ばず〉といふは、[性に利鈍あり。]〈豪賎を択ばず〉といふは、[報に強弱あり。]〈久近を論ぜず〉といふは、[功に浅深あり。]〈善悪を選ばず〉といふは、[行に好醜あり。]〈決誓猛信を取れば臨終悪相なれども〉といふは、[すなはち『観経』下品中生に地獄の衆火、一時にともに至ると等いへり。]
〈具縛の凡愚〉といふは、[二惑まつたくあるがゆゑに。]〈屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。一切世間甚難信といふべきなり〉といふは、[屠はいはく、殺を宰る。沽はすなはち_売。かくのごとき悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得、あに難信にあらずや。]
 阿弥陀如来は真実明・平等覚・難思議・畢竟依・大応供・大安慰・無等等・不可思議光と号したてまつるなり」と。{以上}
【59】『楽邦文類』の後序にいはく、「浄土を修するものつねに多けれども、その門を得てただちに造るものいくばくもなし。浄土を論ずるものつねに多けれども、その要を得てただちに指ふるものあるいは寡なし。
かつていまだ聞かず、自障自蔽をもつて説をなすことあるもの。得るによりてもつてこれをいふ。それ自障は愛にしくなし、自蔽は疑にしくなし。ただ疑・愛の二心つひに障碍なからしむるは、すなはち浄土の一門なり。いまだはじめて間隔せず。弥陀の洪願つねにおのづから摂持したまふ。必然の理なり」と。{以上}
【60】それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を顕すなり。
【61】ここをもつて『大経』(下)にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と。
【62】また(如来会・下)、「他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せん」とのたまへり。
 また(大経・下)、「その仏の本願の力、名を聞きて往生せんと欲はん」とのたまへり。
 また(如来会・下)、「仏の聖徳の名を聞く」とのたまへり。{以上}
【63】『涅槃経』(迦葉品)にのたまはく、「いかなるをか名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経なり。ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず、このゆゑに名づけて聞不具足とす。
またこの六部の経を受持すといへども、読誦にあたはずして他のために解説すれば、利益するところなけん。このゆゑに名づけて聞不具足とす。
またこの六部の経を受けをはりて、論議のためのゆゑに、勝他のためのゆゑに、利養のためのゆゑに、諸有のためのゆゑに、持読誦説せん。このゆゑに名づけて聞不具足とす」とのたまへり。{以上}
【64】光明寺の和尚(善導)は「一心専念」(散善義)といひ、また「専心専念」(同・意)といへり。{以上}
【65】しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「歓喜」といふは、身心の悦予を形すの貌なり。
「乃至」といふは、多少を摂するの言なり。「一念」といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ。これを一心と名づく。一心はすなはち清浄報土の真因なり。
金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。
【66】宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。
しかれば願成就(第十八願成就文)の「一念」はすなはちこれ専心なり。専心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ深信なり。深信はすなはちこれ堅固深信なり。堅固深信はすなはちこれ決定心なり。決定心はすなはちこれ無上上心なり。無上上心はすなはちこれ真心なり。真心はすなはちこれ相続心なり。
相続心はすなはちこれ淳心なり。淳心はすなはちこれ憶念なり。憶念はすなはちこれ真実の一心なり。真実の一心はすなはちこれ大慶喜心なり。大慶喜心はすなはちこれ真実信心なり。
真実信心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。
この心すなはちこれ大菩提心なり。この心すなはちこれ大慈悲心なり。この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに。願海平等なるがゆゑに発心等し。発心等しきがゆゑに道等し。道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに。
【67】『論の註』(下)にいはく、「かの安楽浄土に生れんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり」とのたまへり。
【68】またいはく(同・上)、「〈是心作仏〉(観経)とは、いふこころは、心よく作仏するなり。〈是心是仏〉(同)とは、心のほかに仏ましまさずとなり。たとへば火、木より出でて、火、木を離るることを得ざるなり。木を離れざるをもつてのゆゑに、すなはちよく木を焼く。木、火のために焼かれて、木すなはち火となるがごときなり」とのたまへり。
【69】光明(善導)のいはく(定善義)、「この心作仏す、この心これ仏なり、この心のほかに異仏ましまさず」(意)とのたまへり。{以上}
【70】ゆゑに知んぬ、一心これを如実修行相応と名づく。すなはちこれ正教なり、これ正義なり、これ正行なり、これ正解なり、これ正業なり、これ正智なり。
【71】三心すなはち一心なり、一心すなはち金剛真心の義、答へをはんぬ、知るべしと。
【72】『止観』の一にいはく、「菩提とは天竺(印度)の語、ここには道と称す。質多とは天竺の音なり、この方には心といふ。心とはすなはち慮知なり」と。{以上}
【73】横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。
大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。
【74】『大本』(大経・上)にのたまはく、「無上殊勝の願を超発す」と。
【75】またのたまはく(同・上)、「われ超世の願を建つ。かならず無上道に至らんと。名声十方に超えて、究竟して聞ゆるところなくは、誓ふ、正覚を成らじ」と。
【76】またのたまはく(同・下)、「かならず超絶して去つることを得て、安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢん。道に昇るに窮極なし。往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり」と。{以上}
【77】『大阿弥陀経』(下)[支謙三蔵の訳]にのたまはく、「超絶して去つることを得べし。阿弥陀仏国に往生すれば、横に五悪道を截りて自然に閉塞す。道に昇るにこれ極まりなし。往き易くして人あることなし。その国土逆違せず、自然の牽くところなり」と。{以上}
【78】断といふは、往相の一心を発起するがゆゑに、生としてまさに受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。ゆゑにすなはち頓に三有の生死を断絶す。ゆゑに断といふなり。四流とはすなはち四暴流なり。また生・老・病・死なり。
【79】『大本』(大経・下)にのたまはく、「かならずまさに仏道を成りて、広く生死の流を度すべし」と。
【80】またのたまはく(平等覚経・二)、「かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし」と。{以上}
【81】『涅槃経』(師子吼品)にのたまはく、「また涅槃は名づけて洲渚とす。なにをもつてのゆゑに、四大の暴河に漂ふことあたはざるがゆゑに。なんらをか四つとする。一つには欲暴、二つには有暴、三つには見暴、四つには無明暴なり。このゆゑに涅槃を名づけて洲渚とす」と。{以上}
【82】光明寺の和尚(善導)のいはく(般舟讃)、「もろもろの行者にまうさく、凡夫の生死貪じて厭はざるべからず。弥陀の浄土軽めて欣はざるべからず。厭へばすなはち娑婆永く隔つ、欣へばすなはち浄土につねに居せり。隔つればすなはち六道の因亡じ、輪廻の果おのづから滅す。因果すでに亡じてすなはち形と名と頓に絶えぬるをや」と。
【83】またいはく(礼讃)、「仰ぎ願はくは一切往生人等、よくみづからおのれが能を思量せよ。今身にかの国に生ぜんと願はんものは、行住座臥にかならずすべからく心を励ましおのれに剋して、昼夜に廃することなかるべし。
畢命を期として、上一形にあるは、少しき苦しきに似たれども、前念に命終して後念にすなはちかの国に生じて、長時永劫につねに無為の法楽を受く。乃至成仏までに生死を経ず。あに快しみにあらずや、知るべし」と。{以上}
【84】真の仏弟子といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。弟子とは釈迦諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり。この信行によりてかならず大涅槃を超証すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。
【85】『大本』(大経・上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りてその身に触るるもの、身心柔軟にして人・天に超過せん。もししからずは正覚を取らじと。
 たとひわれ仏を得たらんに、十方無量不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の無生法忍、もろもろの深総持を得ずは、正覚を取らじ」と。{以上}
【86】『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「もしわれ成仏せんに、周遍十方無量無辺不可思議無等界の有情の輩、仏の威光を蒙りて照触せらるるもの、身心安楽にして人・天に超過せん。もししからずは菩提を取らじ」と。{以上}
【87】また(大経・下)、「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり」とのたまへり。
【88】またのたまはく(同・下)、「それ至心ありて安楽国に生ぜんと願ずれば、智慧あきらかに達し、功徳殊勝なることを得べし」と。
【89】また(如来会・下)、「広大勝解者」とのたまへり。
【90】また(如来会・下)、「かくのごときらの類、大威徳のひと、よく広大異門に生る」とのたまへり。
【91】またのたまはく(観経)、「もし念仏するひとは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり」と。{以上}
【92】『安楽集』にいはく、「諸部の大乗によりて説聴の方軌を明かさば、『大集経』にのたまはく、〈説法のひとにおいては、医王の想をなせ、抜苦の想をなせ。所説の法をば甘露の想をなせ、醍醐の想をなせ。それ聴法のひとは、増長勝解の想をなせ、愈病の想をなせ。もしよくかくのごとき説者・聴者は、みな仏法を紹隆するに堪へたり。つねに仏前に生ぜん〉と。(上){乃至}
『涅槃経』によるに、仏ののたまはく、〈もし人、ただよく心を至してつねに念仏三昧を修すれば、十方諸仏つねにこの人を見そなはすこと、現に前にましますがごとし〉と。
このゆゑに『涅槃経』にのたまはく、〈仏、迦葉菩薩に告げたまはく、《もし善男子・善女人ありて、つねによく心を至し、もつぱら念仏するひとは、もしは山林にもあれ、もしは聚落にもあれ、もしは昼、もしは夜、もしは座、もしは臥に、諸仏世尊つねにこの人を見そなはすこと目の前に現ぜるがごとし。つねにこの人のためにして受施をなさん》〉と。{乃至}
『大智度論』によるに、三番の解釈あり。第一には、仏はこれ無上法王なり、菩薩は法臣とす。尊ぶところ重くするところ、ただ仏世尊なり。このゆゑに、まさにつねに念仏すべきなり。
第二に、もろもろの菩薩ありてみづからいはく、〈われ曠劫よりこのかた、世尊われらが法身・智身・大慈悲身を長養したまふことを蒙ることを得たりき。禅定・智慧、無量の行願、仏によりて成ずることを得たり。報恩のためのゆゑに、つねに仏に近づかんことを願ず。また大臣の、王の恩寵を蒙りてつねにその王を念ふがごとし〉と。
第三に、もろもろの菩薩ありて、またこの言をなさく、〈われ因地にして悪知識に遇ひて、波若を誹謗して悪道に堕しき。無量劫を経て余行を修すといへども、いまだ出づることあたはず。後に一時において善知識の辺によりしに、われを教へて念仏三昧を行ぜしむ。そのときにすなはちよくしかしながらもろもろの障、まさに解脱することを得しめたり。この大益あるがゆゑに、願じて仏を離れず〉と。(下){乃至}
『大経』(下)にのたまはく、〈おほよそ浄土に往生せんと欲はば、かならず発菩提心を須ゐるを源とす。いかんとなれば、菩提はすなはちこれ無上仏道の名なり。もし発心作仏せんと欲はば、この心広大にして法界に周遍せん、この心長遠にして未来際を尽す。この心あまねくつぶさに二乗の障を離る。もしよくひとたび発心すれば、無始生死の有輪を傾く〉(意)と。(上){乃至}
『大悲経』にのたまはく、〈いかんが名づけて大悲とする。もしもつぱら念仏相続して断えざれば、その命終に随ひてさだめて安楽に生ぜん。もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ぜしむるは、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく〉(下)」と。{以上抄出}
【93】光明師(善導)のいはく(般舟讃)、「ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。浄土対面してあひ忤はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。意専心にして回すると回せざるとにあり。{乃至}
あるいはいはく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いづれの時いづれの劫にか娑婆を出でんと。{乃至}いかんが今日宝国に至ることを期せん。まことにこれ娑婆本師の力なり。もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土いかんしてか入らん」と。
【94】またいはく(礼讃)、「仏世はなはだ値ひがたし。人、信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまたもつとも難しとす。みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きがなかにうたたまた難し。大悲弘くあまねく化する。まことに仏恩を報ずるになる」と。
【95】またいはく(礼讃)、「弥陀の身色は金山のごとし。相好の光明は十方を照らす。ただ念仏するもののみありて光摂を蒙る。まさに知るべし、本願もつとも強しとす。十方の如来、舌を舒べて証したまふ。もつぱら名号を称して西方に至る。かの華台に到つて妙法を聞く。十地の願行、自然に彰る」と。
【96】またいはく(観念法門)、「ただ阿弥陀仏を専念する衆生のみありて、かの仏心の光、つねにこの人を照らして摂護して捨てたまはず。すべて余の雑業の行者を照らし摂むと論ぜず。これまたこれ現生護念増上縁なり」と。{以上}
【97】またいはく(序分義)、「心歓喜得忍といふは、これは阿弥陀仏国の清浄の光明、たちまちに眼の前に現ぜん、なんぞ踊躍に勝へん。この喜びによるがゆゑに、すなはち無生の忍を得ることを明かす。また喜忍と名づく、また悟忍と名づく、また信忍と名づく。
これすなはちはるかに談ずるに、いまだ得処を標さず、夫人をして等しく心にこの益を_はしめんと欲ふ。勇猛専精にして心に見んと想ふときに、まさに忍を悟るべし。これ多くこれ十信のなかの忍なり、解行以上の忍にはあらざるなり」と。
【98】またいはく(散善義)、「〈若念仏者〉より下〈生諸仏家〉に至るまでこのかたは、まさしく念仏三昧の功能超絶して、まことに雑善をして比類とすることを得るにあらざることを顕す。すなはちそれに五つあり。
一つには、弥陀仏の名を専念することを明かす。二つには、能念の人を指讃することを明かす。三つには、もしよく相続して念仏するひと、この人はなはだ希有なりとす、さらに物としてもつてこれを方ぶべきことなきことを明かす。ゆゑに分陀利を引きて喩へとす。
分陀利といふは、人中の好華と名づく、また希有華と名づく、また人中の上上華と名づく、また人中の妙好華と名づく。この華あひ伝へて蔡華と名づくるこれなり。もし念仏のひとはすなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。
四つには、弥陀の名を専念すれば、すなはち観音・勢至つねに随ひて影護したまふこと、また親友知識のごとくなることを明かす。五つには、今生にすでにこの益を蒙れり、命を捨ててすなはち諸仏の家に入らん、すなはち浄土これなり。かしこに到りて長時に法を聞き、歴事供養せん。因円かに果満ず、道場の座あにはるかならんやといふことを明かす」と。{以上}
【99】王日休がいはく(龍舒浄土文)、「われ『無量寿経』を聞くに、〈衆生、この仏名を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す〉と。
不退転は梵語にはこれを阿惟越致といふ。『法華経』にはいはく、〈弥勒菩薩の所得の報地なり〉と。一念往生、すなはち弥勒に同じ。仏語虚しからず、この『経』はまことに往生の径術、脱苦の神方なり。みな信受すべし」と。{以上}
【100】『大経』(下)にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この世界より六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一一の菩薩は、すでにむかし無数の諸仏を供養せりき、次いで弥勒のごとし〉」と。
【101】またのたまはく(如来会・下)、「仏、弥勒に告げたまはく、〈この仏土のなかに七十二億の菩薩あり。かれは無量億那由他百千の仏の所にして、もろもろの善根を種ゑて、不退転を成ぜるなり。まさにかの国に生ずべし〉」と。{抄出}
【102】律宗の用欽師のいはく、「至れること、華厳の極唱、法華の妙談にしかんや。かつはいまだ普授あることを見ず。衆生一生にみな阿耨多羅三藐三菩提の記を得ることは、まことにいふところの不可思議功徳の利なり」と。{以上}
【103】まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋提と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち往相回向の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。
【104】禅宗の智覚、念仏の行者を讃めていはく(楽邦文類)、「奇なるかな、仏力難思なれば、古今もいまだあらず」と。
【105】律宗の元照師のいはく(同)、「ああ教観にあきらかなること、たれか智者(智_)にしかんや。終りに臨んで『観経』を挙し、浄土を讃じて長く逝きき。法界に達せること、たれか杜順にしかんや。四衆を勧め仏陀を念じて、勝相を感じて西に邁きき。
禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。業儒、才ある、たれか劉・雷・柳子厚・白楽天にしかんや。しかるにみな筆を秉りて、誠を書して、かの土に生ぜんと願じき」と。{以上}
【106】仮といふは、すなはちこれ聖道の諸機、浄土の定散の機なり。
【107】ゆゑに光明師(善導)のいはく(般舟讃)、「仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機、不同なるがためなり」と。
【108】またいはく(法事讃・下)、「方便の仮門、等しくして殊なることなし」と。
【109】またいはく(般舟讃)、「門門不同なるを漸教と名づく。万劫苦行して無生を証す」と。{以上}
【110】偽といふは、すなはち六十二見・九十五種の邪道これなり。
【111】『涅槃経』(大衆所聞品)にのたまはく、「世尊つねに説きたまはく、〈一切の外は九十五種を学ひて、みな悪道に趣く〉」と。{以上}
【112】光明師(善導)のいはく(法事讃・下)、「九十五種みな世を汚す。ただ仏の一道のみ独り清閑なり」と。{以上}
【113】まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。
【114】それ仏、難治の機を説きて、『涅槃経』(現病品)にのたまはく、「迦葉、世に三人あり、その病治しがたし。一つには謗大乗、二つには五逆罪、三つには一闡提なり。
かくのごときの三病、世のなかに極重なり。ことごとく声聞・縁覚・菩薩のよく治するところにあらず。善男子、たとへば病あればかならず死するに、治することなからんに、もし瞻病随意の医薬あらんがごとし。もし瞻病随意の医薬なからん、かくのごときの病、さだめて治すべからず。まさに知るべし、この人かならず死せんこと疑はずと。
善男子、この三種の人またまたかくのごとし。仏・菩薩に従ひて聞治を得をはりて、すなはちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発せん。もし声聞・縁覚・菩薩ありて、あるいは法を説き、あるいは法を説かざるあらん、それをして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむることあたはず」と。{以上}
【115】またのたまはく(涅槃経・梵行品)、「そのときに、王舎大城に阿闍世王あり。その性、弊悪にしてよく殺戮を行ず。口の四悪、貪・恚・愚痴を具してその心熾盛なり。{乃至}しかるに眷属のために現世の五欲の楽に貪着するがゆゑに、父の王辜なきに、横に逆害を加す。
父を害するによりて、おのれが心に悔熱を生ず。{乃至}心悔熱するがゆゑに、遍体に瘡を生ず。その瘡臭穢にして付近すべからず。すなはちみづから念言すらく、〈われいまこの身にすでに華報を受けたり、地獄の果報、まさに近づきて遠からずとす〉と。
そのときに、その母韋提希后、種種の薬をもつてためにこれを塗る。その瘡つひに増すれども降損あることなし。王すなはち母にまうさく、〈かくのごときの瘡は心よりして生ぜり。四大より起れるにあらず。もし衆生よく治することありといはば、この処あることなけん〉と。
 ときに大臣あり、名づけて月称といふ。王の所に往至して、一面にありて立ちてまうしてまうさく、〈大王なんがゆゑぞ愁悴して顔容悦ばざる。身痛むとやせん、心痛むとやせん〉と。
王、臣に答へていはまく、〈われいま身心あに痛まざることを得んや。わが父辜なきに横に逆害を加す。われ智者に従ひて、かつてこの義を聞きき。《世に五人あり、地獄を脱れずと。いはく五逆罪なり》と。われいますでに無量無辺阿僧祇の罪あり。いかんぞ身心をして痛まざることを得ん。また良医のわが身心を治せんものなけん〉と。
臣、大王にまうさく、〈大きに愁苦することなかれと。すなはち偈を説きていはく、《もしつねに愁苦せば、愁へつひに増長せん。人眠りを喜めば、眠りすなはち滋く多きがごとし。婬を貪じ酒を嗜むも、またまたかくのごとし》と。王ののたまふところのごとし、《世に五人あり、地獄を脱れず》とは、たれか行きてこれを見て、来りて王に語るや。地獄といふは、ただちにこれ世間に多く智者説かく、王ののたまふところのごとし、《世に良医の身心を治するものなけん》と。
いま大医あり、富蘭那と名づく。一切知見して自在を得て、さだめて畢竟じて清浄梵行を修習して、つねに無量無辺の衆生のために、無上涅槃の道を演説す。もろもろの弟子のために、かくのごときの法を説けり。《黒業あることなければ、黒業の報なし。白業あることなければ、白業の報なし。黒白業なければ、黒白の業報なし。上業および下業のあることなし》と。
この師いま王舎城のうちにいます。やや願はくは大王、屈駕してかしこに行け。この師をして身心を療治せしむべし〉と。ときに王答へていはまく、〈あきらかによくかくのごときわが罪を滅除せば、われまさに帰依すべし〉と。
 またひとりの臣あり、名づけて蔵徳といふ。また王の所に行きてこの言をなさく、〈大王、なんがゆゑぞ面貌憔悴して、脣口乾燥し、音声微細なるや。{乃至}なんの苦しむところあつてか、身痛むとやせん、心痛むとやせん〉と。
王すなはち答へていはく、〈われいま身心いかんぞ痛まざらん。われ痴盲にして慧目あることなし。もろもろの悪友に近づきて、これよく提婆達多悪人の言に随ひて、正法の王に横に逆害を加す。われ昔かつて智人の偈説せしを聞きき。《もし父母、仏および弟子において、不善の心を生じ悪業を起さん。かくのごときの果報、阿鼻獄にあり》と。この事をもつてのゆゑに、われ心怖して大苦悩を生ぜしむ。また良医の救療を見ることなけん〉と。
 大臣またいはく、〈やや願はくは大王、しばらく愁怖することなかれ。法に二種あり。一つには出家、二つには王法なり。王法といふは、いはく、その父を害して、すなはち国土に王たるなり。これ逆なりといふといへども、実に罪あることなけん。迦羅羅虫のかならず母の腹を壊りて、しかしてのちいまし生ずるがごとし。生の法かくのごとし。母の身を壊るといへども実にまた罪なし。騾腹の懐妊等またまたかくのごとし。治国の法、法としてかくのごとくなるべし。父兄を殺すといへども、実に罪あることなけん。出家の法は、乃至蚊蟻を殺す、また罪あり。{乃至}王ののたまふところのごとし、《世に良医の身心を治するものなけん》と。
いま大師あり、末伽梨拘_梨子と名づく。一切知見して衆生を憐愍すること、赤子のごとし。すでに煩悩を離れて、よく衆生三毒の利箭を抜く。{乃至}この師いま王舎大城にいます。やや願はくは大王、その所に往至して、王もし見ば衆罪消滅せん〉と。ときに王答へていはく、〈あきらかによく、かくのごときわが罪を滅除せば、われまさに帰依すべし〉と。
 またひとりの臣あり、名づけて実徳といふ。また王の所に到りて、すなはち偈を説きていはく、〈大王、なんがゆゑぞ身の瓔珞を脱ぎ、首の髪蓬乱せる。乃至かくのごときなるや。{乃至}これ心痛むとやせん、身痛むとやせん〉と。
王すなはち答へていはく、〈われいま身心あに痛まざることを得んや。わが父先王、慈愛仁惻して、ことに見て矜念せり。実に過咎なきに、往きて相師に問ふ。相師答へてまうさく、《この児生れをはりて、さだめてまさに父を害すべし》と。この語を聞くといへども、なほ見て瞻養す。むかし智者の、かくのごときの言をなししを聞きき。《もし人、母と通じ、および比丘尼を汚し、僧祇物を偸み、無上菩提心を発せるひとを殺し、およびその父を殺さん。かくのごときの人は必定してまさに阿鼻地獄に堕すべし》と。われいま身心あに痛まざることを得んや〉と。
大臣またいはく、〈やや願はくは大王、また愁苦することなかれ。{乃至}一切衆生みな余業あり。業縁をもつてのゆゑにしばしば生死を受く。もし先王に余業あらしめば、王いまこれを殺さんに、つひになんの罪かあらん。やや願はくは大王、意を寛かにして愁ふることなかれ。なにをもつてのゆゑに、《もしつねに愁苦すれば、愁へつひに増長す。人眠りを喜めば、眠りすなはち滋く多きがごとし。婬を貪じ酒を嗜むも、またまたかくのごとし》〉と。{乃至}刪闍耶毘羅胝子。
 またひとりの臣あり、悉知義と名づく。すなはち王の所に至りて、かくのごときの言をなさく。{乃至}
王すなはち答へていはまく、〈われいま身心あに痛みなきことを得んや。{乃至}先王辜なきに、横に逆害を興ず。われまたむかし智者の説きていひしを聞きき。《もし父を害することあれば、まさに無量阿僧祇劫にして大苦悩を受くべし》と。われいま久しからずしてかならず地獄に堕せん。また良医のわが罪を救療することなけん〉と。
大臣すなはちまうさく、〈やや、願はくは大王、愁苦を放捨せよ。王聞かずや、昔王ありき、名づけて羅摩といひき。その父を害しをはりて王位を紹ぐことを得たりき。跋提大王・毘楼真王・那_沙王・迦帝迦王・毘舎_王・月光明王・日光明王・愛王・持多人王、かくのごときらの王、みなその父を害して王位を紹ぐことを得たりき。しかるに、ひとりとして王の地獄に入るものなし。いま現在に毘瑠璃王・優陀邪王・悪性王・鼠王・蓮華王、かくのごときらの王、みなその父を害せりき。ことごとくひとりとして王の愁悩を生ずるものなし。地獄・餓鬼・天中といふといへども、たれか見るものあるや。
大王、ただ二つの有あり。一つには人道、二つには畜生なり。この二つありといへども、因縁生にあらず、因縁死にあらず。もし因縁にあらずは、なにものか善悪あらん。やや願はくは大王、愁怖を懐くことなかれ。なにをもつてのゆゑに、《もしつねに愁苦すれば、愁へつひに増長す。人眠りを喜めば、眠りすなはち滋く多きがごとし。婬を貪じ酒を嗜むも、またまたかくのごとし》〉と。{乃至}阿耆多翅舎欽婆羅。{乃至}
 また大臣あり、名づけて吉徳といふ。{乃至}〈地獄といふは、なんの義ありとかせん。臣まさにこれを説くべし。地は地に名づく、獄は破に名づく。地獄を破せん、罪報あることなけん。これを地獄と名づく。また地は人に名づく、獄は天に名づく。その父を害するをもつてのゆゑに人・天に到らん。この義をもつてのゆゑに、婆蘇仙人唱へていはく、《羊を殺して人・天の楽を得》と。これを地獄と名づく。また地は命に名づく、獄は長に名づく。殺生をもつてのゆゑに寿命の長きを得。ゆゑに地獄と名づく。大王このゆゑにまさに知るべし、実に地獄なけんと。大王、麦を種ゑて麦を得、稲を種ゑて稲を得るがごとし。地獄を殺しては、還りて地獄を得ん。人を殺害しては、還りて人を得べし。
大王いままさに臣(吉徳)の所説を聴くに、実に殺害なかるべし。もし有我ならば実にまた害なし。もし無我ならばまた害するところなけん。なにをもつてのゆゑに。もし有我ならばつねに変易なし、常住をもつてのゆゑに殺害すべからず。不破・不壊、不繋・不縛、不瞋・不喜はなほ虚空のごとし。いかんぞまさに殺害の罪あるべき。もし無我ならば諸法無常なり。無常をもつてのゆゑに念念に壊滅す。念念に滅するがゆゑに殺者・死者みな念念に滅す。もし念念に滅せば、たれかまさに罪あるべきや。
大王、火、木を焼くに、火すなはち罪なきがごとし。斧、樹を斫るに、斧また罪なきがごとし。鎌、草を刈るに、鎌、実に罪なきがごとし。刀、人を殺すに、刀、実に人にあらず、刀すでに罪なきがごとし。人いかんぞ罪あらんや。毒、人を殺すに、毒、実に人にあらず、毒薬、罪人にあらざるがごとし。いかんぞ罪あらんや。一切万物みなまたかくのごとし。実に殺害なけん。いかんぞ罪あらんや。やや願はくは大王、愁苦を生ずることなかれ。なにをもつてのゆゑに、《もしつねに愁苦せば、愁へつひに増長せん。人眠りを喜めば、眠りすなはち滋く多きがごとし。婬を貪じ酒を嗜むも、またまたかくのごとし》と。いま大師あり、迦羅鳩駄迦旃延と名づく〉と。
 またひとりの臣あり、無所畏と名づく。〈いま大師あり、尼乾陀若提子と名づく〉と。{乃至}
 そのときに大医あり、名づけて耆婆といふ。王の所に往至してまうしてまうさく、〈大王、いづくんぞ眠ることを得んや、いなや〉と。
王、偈をもつて答へていはまく、{乃至}〈耆婆、われいま病重し。正法の王において悪逆害を興す。一切の良医・妙薬・呪術・善巧瞻病の治することあたはざるところなり。なにをもつてのゆゑに、わが父法王、法のごとく国を治む、実に辜咎なし。横に逆害を加す、魚の陸に処するがごとし。{乃至}われ昔かつて智者の説きていひしことを聞きき。《身口意業、もし清浄ならずは、まさに知るべし、この人かならず地獄に堕せん》と。われまたかくのごとし。いかんぞまさに安穏に眠ることを得べきや。いまわれまた無上の大医なし、法薬を演説せんに、わが病苦を除きてんや〉と。
耆婆答へていはく、〈善いかな善いかな、王罪をなすといへども、心に重悔を生じて慚愧を懐けり。大王、諸仏世尊つねにこの言を説きたまはく、二つの白法あり、よく衆生を救く。一つには慚、二つには愧なり。慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。慚愧あるがゆゑに、すなはちよく父母・師長を恭敬す。慚愧あるがゆゑに、父母・兄弟・姉妹あることを説く。善きかな大王、つぶさに慚愧あり。{乃至}
王ののたまふところのごとし。よく治するものなけん。大王まさに知るべし、迦毘羅城に浄飯王の子、姓は瞿曇氏、悉達多と字く。師なくして自然に覚悟して阿耨多羅三藐三菩提を得たまへり。{乃至}これ仏世尊なり。金剛智ましまして、よく衆生の一切悪罪を破せしむること、もしあたはずといはば、この処あることなけん。{乃至}
大王、如来に弟提婆達多あり。衆僧を破壊し、仏身より血を出し、蓮華比丘尼を害す。三逆罪を作れり。如来、ために種種の法要を説きたまふに、その重罪をしてすなはち微薄なることを得しめたまふ。このゆゑに如来を大良医とす。六師にはあらざるなり〉と。{乃至}
〈大王、一逆を作れば、すなはちつぶさにかくのごときの一罪を受く。もし二逆罪を造らば、すなはち二倍ならん。五逆つぶさならば、罪もまた五倍ならん。大王いまさだめて知んぬ、王の悪業かならず勉るることを得じ。やや願はくは大王、すみやかに仏の所に往づべし。仏世尊を除きて余は、よく救くることなけん。われいまなんぢを愍れむがゆゑに、あひ勧めて導くなり〉と。
そのときに大王、この語を聞きをはりて、心に怖懼を懐けり。身を挙げて戦慄す。五体掉動して芭蕉樹のごとし。仰ぎて答へていはく、〈天これたれとかせん、色像を現ぜずしてただ声のみあることは〉と。〈大王、われはこれなんぢが父頻婆沙羅なり。なんぢいままさに耆婆の所説に随ふべし。邪見六臣の言に随ふことなかれ〉と。
ときに聞きをはりて悶絶躄地す。身の瘡、増劇して臭穢なること前よりも倍れり。もつて冷薬をして塗り、瘡を治療すといへども、瘡蒸はし。毒熱ただ増せども損ずることなし」と。{以上略出}
大臣、名づけて月称といふ
蔵徳
一の臣あり、名づけて実徳といふ
一の臣あり、悉知義と名づく
大臣、名づけて吉徳といふ
無所畏
   富蘭那と名づく
   末伽梨拘_梨子と名づく
   刪闍耶毘羅胝子と名づく
   阿耆多翅舎欽婆羅と名づく
   迦羅鳩駄迦旃延
   尼乾陀若提子と名づく
【116】またのたまはく(涅槃経・梵行品)、「〈善男子、わがいふところのごとし、阿闍世王の為に涅槃に入らず。かくのごときの密義、なんぢいまだ解くことあたはず。なにをもつてのゆゑに、われ《為》といふは一切凡夫、《阿闍世王》とはあまねくおよび一切五逆を造るものなり。
また《為》とはすなはちこれ一切有為の衆生なり。われつひに無為の衆生のためにして世に住せず。なにをもつてのゆゑに、それ無為は衆生にあらざるなり。《阿闍世》とはすなはちこれ煩悩等を具足せるものなり。
また《為》とはすなはちこれ仏性を見ざる衆生なり。もし仏性を見んものには、われつひにために久しく世に住せず。なにをもつてのゆゑに、仏性を見るものは衆生にあらざるなり。《阿闍世》とはすなはちこれ一切いまだ阿耨多羅三藐三菩提心を発せざるものなり。{乃至}
また《為》とは名づけて仏性とす。《阿闍》は名づけて不生とす、《世》は怨に名づく。仏性を生ぜざるをもつてのゆゑに、すなはち煩悩の怨生ず。煩悩の怨生ずるがゆゑに、仏性を見ざるなり。煩悩を生ぜざるをもつてのゆゑに、すなはち仏性を見る。仏性を見るをもつてのゆゑに、すなはち大般涅槃に安住することを得。これを不生と名づく。このゆゑに名づけて阿闍世とす。
善男子、《阿闍》は不生に名づく、不生は涅槃と名づく。《世》は世法に名づく。《為》とは不汚に名づく。世の八法をもつて汚さざるところなるがゆゑに、無量無辺阿僧祇劫に涅槃に入らず。このゆゑにわれ《阿闍世の為に無量億劫に涅槃に入らず》とのたまへり。善男子、如来の密語不可思議なり。仏法衆僧また不可思議なり。菩薩摩訶薩また不可思議なり。『大涅槃経』また不可思議なり〉と。
 そのときに世尊大悲導師、阿闍世王のために月愛三昧に入れり。三昧に入りをはりて大光明を放つ。その光清涼にして、往きて王の身を照らしたまふに、身の瘡すなはち愈えぬ。{乃至}
王、耆婆にいはまく、〈かれは天中の天なり。なんの因縁をもつてこの光明を放ちたまふぞや〉と。〈大王、いまこの瑞相は、および王のためにするにあひ似たり。まづいはまく、世に良医の身心を療治するものなきがゆゑに、この光を放ちてまづ王の身を治す。しかうしてのちに心に及ぶ〉と。
王の耆婆にいはまく、〈如来世尊また見たてまつらんと念ふをや〉と。耆婆答へていはく、〈たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。もろもろの衆生において平等ならざるにあらざれども、しかるに罪者において心すなはちひとへに重し。放逸のものにおいて仏すなはち慈念したまふ。
不放逸のものは心すなはち放捨す。なんらをか名づけて不放逸のものとすると。いはく、六住の菩薩なりと。
大王、諸仏世尊、もろもろの衆生において、種姓・老少・中年・貧富・時節・日月星宿・工巧・下賎・僮僕・婢使を観そなはさず、ただ衆生の善心あるものを観そなはす。もし善心あればすなはち慈念したまふ。
大王まさに知るべし、かくのごときの瑞相は、すなはちこれ如来、月愛三昧に入りて放つところの光明なり〉と。王すなはち問うていはまく、〈なんらをか名づけて月愛三昧とする〉と。耆婆答へていはまく、〈たとへば月の光よく一切の優鉢羅華をして開敷し鮮明ならしむるがごとし。月愛三昧もまたまたかくのごとし。よく衆生をして善心開敷せしむ。このゆゑに名づけて月愛三昧とす。
大王、たとへば月の光よく一切、路を行く人の心に歓喜を生ぜしむるがごとし。月愛三昧もまたまたかくのごとし。よく涅槃道を修習せんものの心に歓喜を生ぜしむ。このゆゑにまた月愛三昧と名づく。{乃至}諸善のなかの王なり。甘露味とす。一切衆生の愛楽するところなり。このゆゑにまた月愛三昧と名づく〉と。{乃至}
 そのときに仏、もろもろの大衆に告げてのたまはく、〈一切衆生、阿耨多羅三藐三菩提に近づく因縁のためには、善友を先とするにはしかず。なにをもつてのゆゑに、阿闍世王、もし耆婆の語に随順せずは、来月の七日に必定して命終して阿鼻獄に堕せん。このゆゑに日に近づきにたり、善友にしくことなし〉と。
阿闍世王また前路において聞く、〈舎婆提に毘瑠璃王、船に乗じて海辺に入りて火に遇ふ、しかうして死ぬ。瞿伽離比丘、生身に地に入りて阿鼻獄に至れり。須那刹多は種種の悪を作りしかども、仏所に到りて衆罪消滅しぬ〉と。
この語を聞きをはりて、耆婆に語りていはまく、〈われいまかくのごときの二つの語を聞くといへども、なほいまだあきらかならず。さだめてなんぢ来れり、耆婆、われなんぢと同じく一象に載らんと欲ふ。たとひわれまさに阿鼻地獄に入るべくとも、冀はくは、なんぢ捉持してわれをして堕さしめざれ。なにをもつてのゆゑに、われ昔かつて聞きき、《得道の人は地獄に入らず》〉と。{乃至}
〈いかんぞ説きてさだめて地獄に入らんといはん。大王、一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。大王、心に念ひ口に説きて、身になさざれば、得るところの報、軽なり。大王、むかし口に殺せと勅せず、ただ足を削れといへりき。大王、もし侍臣に勅せましかば、たちどころに王の首を斬らまし。坐のときにすなはち斬るとも、なほ罪を得じ。いはんや王勅せず、いかんぞ罪を得ん。
王もし罪を得ば、諸仏世尊もまた罪を得たまふべし。なにをもつてのゆゑに。なんぢが父、先王頻婆沙羅、つねに諸仏においてもろもろの善根を種ゑたりき。このゆゑに今日、王位に居することを得たり。
諸仏もしその供養を受けたまはざらましかば、すなはち王たらざらまし。もし王たらざらましかば、なんぢすなはち国のために害を生ずることを得ざらまし。もしなんぢ父を殺してまさに罪あるべくは、われら諸仏また罪ましますべし。もし諸仏世尊、罪を得たまふことなくは、なんぢ独りいかんぞ罪を得んや。
 大王、頻婆沙羅むかし悪心ありて、毘富羅山にして遊行し、鹿を射猟して曠野に周遍しき。ことごとく得るところなし。ただひとりの仙の五通具足せるを見る。見をはりてすなはち瞋恚悪心を生じき。《われいま遊猟す。得ざるゆゑんは、まさしくこの人の駆逐して去らしむるに坐る》と。すなはち左右に勅してこれを殺さしむ。
その人終りに臨んで瞋を生ず。悪心あつて神通を退失して誓言をなさく、《われ実に辜なし。なんぢ心口をもつて横に戮害を加す。われ来世において、またまさにかくのごとく還つて心口をもつてして、なんぢを害すべし》と。ときに王、聞きをはりて、すなはち悔心を生じて死屍を供養しき。
先王かくのごとくなほ軽く受くることを得て、地獄に堕ちず。いはんや王しからずして、まさに地獄の果報を受くべけんや。先王みづから作りて、還つてみづからこれを受く。いかんぞ王をして殺罪を得しめん。王のいふところのごとし。父の王辜なくは、大王いかんぞ、失なきに罪ありといはば、すなはち罪報あらん。悪業なくはすなはち罪報なけん。なんぢが父先王、もし辜罪なくは、いかんぞ報あらん。
頻婆沙羅現世のなかにおいて、また善果および悪果を得たり。このゆゑに先王またまた不定なり。不定なるをもつてのゆゑに殺もまた不定なり。殺不定ならば、いかんしてかさだめて地獄に入らんといはん。
 大王、衆生の狂惑におほよそ四種あり。一つには貪狂、二つには薬狂、三つには呪狂、四つには本業縁狂なり。大王、わが弟子のなかに、この四狂あり。多く悪を作るといへども、われつひにこの人、戒を犯せりと記せず。この人の所作三悪に至らず。もし還つて心を得ば、また犯といはず。
王もと国を貪じてこの父の王を逆害す。貪狂の心をもつてためになせり。いかんぞ罪を得ん。大王、人の耽酔してその母を逆害せん、すでに醒悟しをはりて、心に悔恨を生ぜんがごとし。まさに知るべし、この業また報を得じ。王いま貪酔せり。本心のなせるにあらず。もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや。
 大王、たとへば幻師の四衢道の頭にして、種種の男女・象・馬・瓔珞・衣服を幻作するがごとし。愚痴の人は謂うて真実とす。有智の人は真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、たとへば山谷の響きの声のごとし。愚痴の人はこれを実の声と謂へり、有智の人はそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人の怨あるが、詐り来りて親付するがごとし。愚痴の人は謂うてまことに親しむとす、智者は了達してすなはちそれ虚しく詐れりと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、人鏡を執りてみづから面像を見るがごとし。愚痴の人は謂うて真の面とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、熱のときの炎のごとし。愚痴の人はこれはこれ水と謂はん、智者は了達してそれ水にあらずと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂はん、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、乾闥婆城のごとし。愚痴の人は謂うて真実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと了知したまへり。大王、人の夢のうちに五欲の楽を受くるがごとし。愚痴の人はこれを謂うて実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。
大王、殺法・殺業・殺者・殺果および解脱、われみなこれを了れり、すなはち罪あることなけん。王、殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。大王、たとへば人主ありて酒を典れりと知れども、もしそれ飲まざれば、すなはちまた酔はざるがごとし。また火と知るといへども焼燃せず。王もまたかくのごとし。また殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。
大王、もろもろの衆生ありて、日の出づるときにおいて種種の罪を作る、月の出づるときにおいてまた劫盗を行ぜん。日月出でざるにすなはち罪を作らず。日月によりて、それ罪を作らしむといへども、しかるにこの日月実に罪を得ず。殺もまたかくのごとし。{乃至}
 大王、たとへば涅槃は有にあらず、無にあらずしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといへども、慚愧の人はすなはち有にあらずとす。無慚愧のものはすなはち無にあらずとす。果報を受くるもの、これを名づけて有とす。
空見の人はすなはち有にあらずとす。有見の人はすなはち無にあらずとす。有有見のものはまた名づけて有とす。なにをもつてのゆゑに、有有見のものは果報を得るがゆゑに。無有見のものはすなはち果報なし。
常見の人はすなはち非有とす。無常見のものはすなはち非無とす。常常見のものは無とすることを得ず。なにをもつてのゆゑに、常常見のものは悪業の果あるがゆゑに、このゆゑに常常見のものは無とすることを得ず。
この義をもつてのゆゑに、非有・非無なりといへども、しかもまたこれ有なり。大王、それ衆生は出入の息に名づく。出入の息を断つ、ゆゑに名づけて殺とす。諸仏、俗に随ひて、また説きて殺とす〉。{乃至}
 〈世尊、われ世間を見るに、伊蘭子より伊蘭樹を生ず。伊蘭より栴檀樹を生ずるをば見ず。われいまはじめて伊蘭子より栴檀樹を生ずるを見る。伊蘭子はわが身これなり。栴檀樹はすなはちこれわが心、無根の信なり。無根とは、われはじめて如来を恭敬せんことを知らず、法僧を信ぜず、これを無根と名づく。
世尊、われもし如来世尊に遇はずは、まさに無量阿僧祇劫において、大地獄にありて無量の苦を受くべし。われいま仏を見たてまつる。ここをもつて仏の得たまふところの功徳を見たてまつり、衆生の煩悩悪心を破壊せしむ〉と。
仏ののたまはく、〈大王、善いかな善いかな、われいまなんぢかならずよく衆生の悪心を破壊することを知れり〉と。〈世尊、もしわれあきらかによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、われつねに阿鼻地獄にありて、無量劫のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もつて苦とせず〉と。
そのときに摩伽陀国の無量の人民、ことごとく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。かくのごときらの無量の人民、大心を発するをもつてのゆゑに、阿闍世王所有の重罪すなはち微薄なることを得しむ。王および夫人、後宮、采女、ことごとくみな同じく阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。
そのときに阿闍世王、耆婆に語りていはまく、〈耆婆、われいまいまだ死せずしてすでに天身を得たり。命短きを捨てて長命を得、無常の身を捨てて常身を得たり。もろもろの衆生をして阿耨多羅三藐三菩提心を発せしむ〉と。{乃至}
諸仏の弟子、この語を説きをはりて、すなはち種種の宝幢をもつて、{乃至}また偈頌をもつて、しかうして讃嘆してまうさく、〈実語はなはだ微妙なり。善巧、句義において、甚深秘密の蔵なり。衆のためのゆゑに、所有広博の言を顕示す。衆のためのゆゑに略して説かく、かくのごときの語を具足して、よく衆生を療す。
もしもろもろの衆生ありて、この語を聞くことを得るものは、もしは信および不信、さだめてこの仏説を知らん。諸仏つねに軟語をもつて、衆のためのゆゑに粗を説きたまふ。粗語および軟語、みな第一義に帰せん。このゆゑにわれいま、世尊に帰依したてまつる。
如来の言一味なること、なほ大海の水のごとし。これを第一諦と名づく。ゆゑに無無義の言にして、如来いま説きたまふところの、種種無量の法、男女大小聞きて、同じく第一義を獲しめん。無因また無果なり。無生また無滅なり。これを大涅槃と名づく。聞くもの諸結を破す。
如来一切のために、つねに慈父母となりたまへり。まさに知るべし、もろもろの衆生は、みなこれ如来の子なり。世尊大慈悲は、衆のために苦行を修したまふこと、人の鬼魅に着はされて、狂乱して所為多きがごとし。
われいま仏を見たてまつることを得たり。得るところの三業の善、願はくはこの功徳をもつて、無上道に回向せん。われいま供養するところの、仏・法および衆僧、願はくはこの功徳をもつて、三宝つねに世にましまさん。われいままさに獲べきところの、種種のもろもろの功徳、願はくはこれをもつて、衆生の四種の魔を破壊せん。
われ悪知識に遇うて、三世の罪を造作せり。いま仏前にして悔ゆ。願はくは後にまた造ることなからん。願はくはもろもろの衆生、等しくことごとく菩提心を発せしめん。心を繋けてつねに、十方一切仏を思念せん。また願はくはもろもろの衆生、永くもろもろの煩悩を破し、了了に仏性を見ること、なほ妙徳のごとくして等しからん〉と。
 そのときに世尊、阿闍世王を讃めたまはく、〈善いかな善いかな、もし人ありてよく菩提心を発せん。まさに知るべし、この人はすなはち諸仏大衆を荘厳すとす。
大王、なんぢ昔すでに毘婆尸仏のみもとにして、はじめて阿耨多羅三藐三菩提心を発しき。これよりこのかた、わが出世に至るまで、その中間においていまだかつてまた地獄に堕して苦を受けず。大王、まさに知るべし、菩提の心、いましかくのごとき無量の果報あり。
大王今より以往に、つねにまさにねんごろに菩提の心を修すべし。なにをもつてのゆゑに、この因縁に従つてまさに無量の悪を消滅することを得べきがゆゑなり〉と。そのときに阿闍世王および摩伽陀国の人民挙つて座よりして起ちて、仏を繞ること三匝して、辞退して宮に還りにき」と。{以上抄出}
【117】またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「善男子、羅閲祇の王頻婆沙羅、その王の太子(阿闍世)名づけて善見といふ。業因縁のゆゑに悪逆の心を生じて、その父を害せんとするに、しかるに便りを得ず。
そのときに悪人提婆達多、また過去の業因縁によるがゆゑに、またわが所において不善の心を生じて、われを害せんとす。すなはち五通を修して、久しからずして善見太子とともに親厚たることを獲得せり。
 太子のためのゆゑに、種種の神通の事を現作す。門にあらざるより出でて門よりして入りて、門よりして出でて門にあらざるよりして入る。あるときは象・馬・牛・羊・男・女の身を示現す。善見太子見をはりて、すなはち愛心・喜心・敬信の心を生ず。これを本とするがゆゑに、種種の供養の具を厳設しこれを供養す。
またまうしてまうさく、〈大師聖人、われいま曼陀羅華を見んと欲ふ〉と。ときに提婆達多、すなはち往きて三十三天に至りて、かの天人に従ひてこれを求索するに、その福尽くるがゆゑにすべて与ふるものなし。すでに華を得ず。この思惟をなさく、〈曼陀羅樹は我・我所なし、もしみづから取らんにまさになんの罪かあるべき〉と。すなはち前んで取らんとするに、すなはち神通を失へり。還りて己身を見れば、王舎城にあり。心に慚愧を生じ、また善見太子(阿闍世)を見ることあたはず。
またこの念をなさく、〈われいままさに如来の所に往至して大衆を求索すべし。仏もし聴さば、われまさに意に随ひて教へて、すなはち舎利弗等に詔勅すべし〉と。
そのときに提婆達多、すなはちわが所に来りてかくのごときの言をなさく、〈やや願はくは如来、この大衆をもつてわれに付属せよ。われまさに種種に法を説きて教化してそれをして調伏せしむべし〉と。われ痴人にいはく、〈舎利弗等、大智を聴聞して世に信伏するところなり。われなほ大衆をもつて付属せじ。いはんやなんぢ痴人、唾を食らふものをや〉と。
ときに提婆達多、またわが所においてますます悪心を生じて、かくのごときの言をなさく、〈瞿曇、なんぢいままた大衆を調伏すといへども、勢ひまた久しからじ。まさに見るに磨滅すべし〉と。
この語をなしをはるに、大地即時に六反震動す。提婆達多、すなはちのときに地に躄れて、その身の辺より大暴風を出して、もろもろの塵土を吹きてこれを汚_す。提婆達多、悪相を見をはりて、またこの言をなさく、〈もしわれこの身、現世にかならず阿鼻地獄に入らば、わが悪まさにかくのごときの大悪を報ふべし〉と。
ときに提婆達多、すなはち起ちて善見太子(阿闍世)の所に往至す。善見、見をはりてすなはち聖人(提婆達多)に問はく、〈なんがゆゑぞ顔容憔悴して憂の色あるや〉と。提婆達多いはく、〈われつねにかくのごとし。なんぢ知らずや〉と。
善見答へていはく、〈願はくはその意を説くべし、なんの因縁あつてか、しかる〉と。提婆達のいはく、〈われいまなんぢがために、きはめて親愛をなす。外人なんぢを罵りて、もつて非理とす。われこの事を聞くに、あに憂へざることを得んや〉と。
善見太子またこの言をなさく、〈国の人いかんぞわれを罵辱する〉と。提婆達のいはく、〈国の人なんぢを罵りて未生怨とす〉と。善見またいはく、〈なんがゆゑぞわれを名づけて未生怨とする。たれかこの名をなす〉と。
提婆達のいはく、〈なんぢいまだ生れざりしとき、一切の相師みなこの言をなさく、《この児生れをはりて、まさにその父を殺すべし》と。このゆゑに外人みなことごとくなんぢを号して未生怨とす。一切内の人、なんぢが心を護るがゆゑに、いうて善見とす。毘提夫人(韋提希)この語を聞きをはりて、すでになんぢを生んとして、身を高楼の上よりこれを地に棄てしに、なんぢが一つの指を壊れり。この因縁をもつて、人またなんぢを号して婆羅留枝とす。
われこれを聞きをはりて心に愁憤を生じて、またなんぢに向かひてこれを説くことあたはず〉と。提婆達多、かくのごときらの種種の悪事をもつて、教へて父を殺さしむ。〈もしなんぢが父死せば、われまたよく瞿曇沙門を殺さん〉と。
善見太子(阿闍世)ひとりの大臣に問はく、名づけて雨行といふ。〈大王、なんがゆゑぞわが字を立てんとするに、未生怨と作るや〉と。大臣すなはちためにその本末を説く。提婆達の所説のごとくして異なけん。善見聞きをはりて、すなはち大臣とともにその父の王を収つて、これを城の外に閉ぢ、四種の兵をもつて、しかうしてこれを守衛せしむ。
毘提夫人(韋提希)、この事を聞きをはりてすなはち王の所に至る。ときに王を守りて、人をして遮りて入ることを聴さず。そのときに夫人、瞋恚の心を生じてすなはちこれを呵罵す。
ときにもろもろの守人、すなはち太子に告ぐらく、〈大王の夫人、父の王を見んと欲ふをば、いぶかし、聴してんやいなや〉と。善見、聞きをはりてまた瞋嫌を生じて、すなはち母の所に往きて、前んで母の髪を牽きて、刀を抜きて斫らんとす。
そのときに耆婆まうして大王にいはく、〈国を有つてよりこのかた、罪きはめて重しといへども、女人に及ばず。いはんや所生の母をや〉と。善見太子(阿闍世)、この語を聞きをはりて、耆婆のためのゆゑにすなはち放捨して、遮りて大王の衣服・臥具・飲食・湯薬を断つ。七日を過ぎをはるに、王の命すなはち終りぬと。
善見太子、父の喪を見をはりて、まさに悔心を生ず。雨行大臣、また種種の悪邪の法をもつて、しかうしてためにこれを説く。〈大王、一切の業行すべて罪あることなし。なんがゆゑぞ、いま悔心を生ずるや〉と。
耆婆またいはく、〈大王まさに知るべし、かくのごときの業は罪業二重なり。一つには父の王を殺さん、二つには須陀_を殺せり。かくのごときの罪は、仏を除きてさらによく除滅したまふひとましまさず〉と。善見王いはく、〈如来は清浄にして穢濁ましますことなし。われら罪人いかんしてか、見たてまつることを得ん〉と。
 善男子、われこの事を知らんと。阿難に告げたまはく、〈三月を過ぎをはりて、われまさに涅槃すべきがゆゑに〉と。善見聞きをはりて、すなはちわが所に来れり。われために法を説きて、重罪をして薄きことを得しめき、無根の信を獲しむ。
 善男子、わがもろもろの弟子、この説を聞きをはりてわが意を解らざるがゆゑに、この言をなさく、〈如来さだめて畢竟涅槃を説きたまへり〉と。
善男子、菩薩に二種あり。一つには実義、二つには仮名なり。仮名の菩薩、われ三月あつてまさに涅槃に入るべしと聞きて、みな退心を生じてこの言をなさく、〈もしそれ如来、無常にして住したまはずは、われらいかがせん。この事のためのゆゑに、無量世のうちに大苦悩を受けき。如来世尊は無量の功徳を成就し具足したまひて、なほ壊することあたはず。かくのごときの死魔をや。いはんやわれらが輩、まさによく壊すべけんや〉と。
善男子、このゆゑに、われかくのごときの菩薩のためにして、この言をなさく、〈如来は常住にして変易あることなし〉と。わがもろもろの弟子、この説を聞きをはりて、わが意を解らざれば、さだめていはく、〈如来はつひに畢竟じて涅槃に入りたまはず〉」と。{以上抄出}
【118】ここをもつて、いま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀して治す、これを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし。
【120】報へていはく、『論の註』(上)にいはく、「問うていはく、『無量寿経』(下)にのたまはく、〈往生を願ぜんもの、みな往生を得しむ。ただ五逆と誹謗正法とを除く〉(意)と。『観無量寿経』に、〈五逆・十悪もろもろの不善を具せるもの、また往生を得〉といへり。この二経、いかんが会せんやと。
 答へていはく、一経(大経)には二種の重罪を具するをもつてなり。一つには五逆、二つには誹謗正法なり。この二種の罪をもつてのゆゑに、このゆゑに往生を得ず、一経(観経)にはただ十悪・五逆等の罪を作るというて、正法を誹謗すといはず。正法を謗ぜざるをもつてのゆゑに、このゆゑに生を得しむと。
 問うていはく、たとひ一人は五逆罪を具して正法を誹謗せざれば、経に得生を許す。また一人ありてただ正法を誹謗して、五逆もろもろの罪なきもの往生を願ぜば、生を得るやいなやと。
 答へていはく、ただ正法を誹謗せしめて、さらに余の罪なしといへども、かならず生ずることを得じ。なにをもつてこれをいふとならば、『経』にいはく、〈五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕して、つぶさに一劫の重罪を受く。誹謗正法の人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽くれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄を経〉と。
仏、出づることを得る時節を記したまはず。誹謗正法の罪、極重なるをもつてのゆゑなり。また正法はすなはちこれ仏法なり。この愚痴の人、すでに誹謗を生ず、いづくんぞ仏土に願生するの理あらんや。たとひただかの安楽に生ぜんことを貪じて生を願ぜんは、また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし。あに得る理あらんやと。
 問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
 答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。
 問うていはく、かくのごときらの計はただこれおのれが事なり。衆生においてなんの苦悩あればか、五逆の重罪に踰えんやと。
 答へていはく、もし諸仏・菩薩、世間・出世間の善道を説きて衆生を教化するひとましまさずは、あに仁・義・礼・智・信あることを知らんや。かくのごとき世間の一切善法みな断じ、出世間の一切賢聖みな滅しなん。なんぢただ五逆罪の重たることを知りて、五逆罪の正法なきより生ずることを知らず。このゆゑに謗正法の人はその罪最重なりと。
 問うていはく、業道経にいはく、〈業道は秤のごとし、重きものまづ牽く〉と。
『観無量寿経』にいふがごとし。〈人ありて五逆・十悪を造り、もろもろの不善を具せらん。悪道に堕して多劫を経歴して無量の苦を受くべし。命終のときに臨んで、善知識の教へて南無無量寿仏を称せしむるに遇はん。かくのごとき心を至して、声をして絶えざらしめて十念を具足すれば、すなはち安楽浄土に往生することを得て、すなはち大乗正定の聚に入りて、畢竟じて不退ならん。三塗のもろもろの苦と永く隔つ〉と。
まづ牽くの義、理においていかんぞ。また曠劫よりこのかたつぶさにもろもろの行を造れり、有漏の法は三界に繋属せり。ただ十念をもつて阿弥陀仏を念じてすなはち三界を出でば、繋業の義またいかんがせんとするやと。
 答へていはく、なんぢ五逆・十悪・繋業等を重とし、下下品の人の十念をもつて軽として、罪のために牽かれてまづ地獄に堕して三界に繋在すべしといはば、いままさに義をもつて軽重の義を校量すべし。心に在り、縁に在り、決定に在り。時節の久近・多少に在るにはあらざるなり。
いかんが心に在ると。かの罪を造る人は、みづから虚妄顛倒の見に依止して生ず。この十念は、善知識の方便安慰して実相の法を聞かしむるによりて生ず。一つは実、一つは虚なり。あにあひ比ぶることを得んや。たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至れば、すなはち明朗なるがごとし。闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。これを在心と名づく。
いかんが縁に在ると。かの罪を造る人は、みづから妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報の衆生によりて生ず。この十念は無上の信心に依止し、阿弥陀如来の方便荘厳真実清浄無量功徳の名号によりて生ず。
たとへば人ありて毒の箭を被りて、中るところ筋を截り、骨を破るに、滅除薬の鼓を聞けば、すなはち箭出け、毒除こるがごとし。『首楞厳経』にいはく、〈たとへば薬あり、名づけて滅除といふ。もし闘戦のときにもつて鼓に塗るに、鼓の声を聞くもの、箭出け、毒除こるがごとし。菩薩摩訶薩も、またまたかくのごとし。首楞厳三昧に住してその名を聞くもの、三毒の箭、自然に抜出す〉と。あにかの箭深く、毒_しからんと、鼓の音声聞くとも、箭を抜き毒を去ることあたはじといふことを得べけんや。これを在縁と名づく。
いかんが決定に在ると。かの罪を造る人は有後心・有間心に依止して生ず。この十念は無後心・無間心に依止して生ず。これを決定と名づく。三つの義を校量するに、十念は重なり。重きものまづ牽きて、よく三有を出づ。両経一義なるならくのみと。
 問うていはく、いくばくの時をか名づけて一念とするやと。
 答へていはく、百一の生滅を一刹那と名づく。六十の刹那を名づけて一念とす。このなかに念といふは、この時節を取らざるなり。ただ阿弥陀仏を憶念して、もしは総相もしは別相、所観の縁に随ひて心に他想なくして十念相続するを名づけて十念とすといふなり。ただ名号を称することもまたまたかくのごとしと。
 問うていはく、心もし他縁せば、これを摂して還らしめて念の多少を知るべし。ただし多少を知らば、また間なきにあらず。もし心を凝らし想を注めば、またなにによりてか念の多少を記することを得べきやと。
 答へていはく、『経』(観経)に十念といふは、業事成弁を明かすならくのみ。かならずしも、すべからく頭数を知るべからざるなり。〈_蛄春秋を識らず、伊虫あに朱陽の節を知らんや〉といふがごとし。知るものこれをいふならくのみ。十念業成とは、これまた神に通ずるものこれをいふならくのみ。ただ念を積み相続して他事を縁ぜざれば、すなはち罷みぬ。またなんぞ、仮に念の頭数を知ることを須ゐんや。もしかならず知ることを須ゐば、また方便あり。かならず口授を須ゐよ、これを筆点に題することを得ざれ」と。{以上}
【121】光明寺の和尚(善導)いはく(散善義)、「問うていはく、四十八願のなかのごときは、ただ五逆と誹謗正法とを除きて、往生を得しめず。いまこの『観経』の下品下生のなかには、誹謗を簡ひて五逆を摂せるは、なんの意かあるやと。
 答へていはく、この義、仰いで抑止門のなかについて解す。四十八願のなかのごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、ただちに阿鼻に入りて歴劫周章して、出づべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて〈往生を得ず〉とのたまへり。またこれ摂せざるにはあらざるなり。
また下品下生のなかに五逆を取りて謗法を除くとは、それ五逆はすでに作れり、捨てて流転せしむべからず。還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪は、いまだ為らざれば、また止めて〈もし謗法を起さば、すなはち生ずることを得じ〉とのたまふ。これは未造業について解するなり。もし造らば、還りて摂して生ずることを得しめん。
かしこに生ずることを得といへども、華合して多劫を経ん。これらの罪人、華の内にあるとき三種の障あり。一つには仏およびもろもろの聖聚を見ることを得じ、二つには正法を聴聞することを得じ、三つには歴事供養を得じ。これを除きて以外は、さらにもろもろの苦なけん。
『経』にいはく、〈なほ比丘の三禅の楽に入るがごときなり〉と、知るべし。華のなかにありて多劫開けずといふとも、阿鼻地獄のなかにして長時永劫にもろもろの苦痛を受けんに勝れざるべけんや。この義、抑止門につきて解しをはりぬ」と。{以上}
【122】またいはく(法事讃・上)、「永く譏嫌を絶ち、等しくして憂悩なし。人天善悪みな往くことを得。かしこに到りて殊なることなし、斉同不退なり。なにの意かしかるとならば、いまし弥陀の因地にして世饒王仏の所にして、位を捨てて家を出づ、すなはち悲智の心を起して広く四十八願を弘めたまふによりてなり。仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く」と。{抄出}
【123】五逆といふは(往生十因)、「もし_州によるに五逆に二つあり。一つには三乗の五逆なり。いはく、〈一つにはことさらに思うて父を殺す、二つにはことさらに思うて母を殺す、三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、四つには倒見して和合僧を破す、五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて逆とす。この逆を執するものは、身壊れ命終へて、必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を受けん、無間業と名づく〉と。
また『倶舎論』のなかに、五無間の同類の業あり。かの頌にいはく、〈母・無学の尼を汚す、[母を殺す罪の同類。]住定の菩薩、[父を殺す罪の同類。]および有学・無学を殺す、[羅漢を殺す同類。]僧の和合縁を奪ふ、[僧を破する罪の同類。]卒都波を破壊する、[仏身より血を出す]〉と。
 二つには大乗の五逆なり。『薩遮尼乾子経』に説くがごとし。〈一つには塔を破壊し経蔵を焚焼する、および三宝の財物を盗用する。二つには三乗の法を謗りて聖教にあらずというて、障破留難し隠蔽覆蔵する。三つには一切出家の人、もしは戒・無戒・破戒のものを打罵し呵責して、過を説き禁閉し還俗せしめ、駈使債調し断命せしむる。
四つには父を殺し、母を害し、仏身より血を出し、和合僧を破し、阿羅漢を殺す。五つには謗じて因果なく、長夜につねに十不善業を行ずるなり〉と。{以上}
かの『経』(十輪経)にいはく、〈一つには不善心を起して独覚を殺害する、これ殺生なり。二つには羅漢の尼を婬する、これを邪行といふなり。三つには所施の三宝物を侵損する、これ不与取なり。四つには倒見して和合僧衆を破する、これ虚誑語なり〉」と。{略出}

顕浄土真実信文類三

必至滅度の願
難思議往生

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顕浄土真実証文類四
愚禿釈親鸞集

【1】つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。
しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。
かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。
【2】必至滅度の願文、『大経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」と。{以上}
【3】『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「もしわれ成仏せんに、国のうちの有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せずは、菩提を取らじ」と。{以上}
【4】願(第十一願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「それ衆生ありて、かの国に生るれば、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑんはいかん。かの仏国のうちにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり」と。
【5】またのたまはく(同・上)、「かの仏国土は、清浄安穏にして、微妙快楽なり。無為泥_の道に次し。それもろもろの声聞・菩薩・天・人、智慧高明にして、神通洞達せり。ことごとく同じく一類にして、形異状なし。ただ余方に因順するがゆゑに、人・天の名あり。顔貌端正にして世に超えて希有なり。容色微妙にして天にあらず、人にあらず。みな自然虚無の身、無極の体を受けたるなり」と。
【6】またのたまはく(如来会・下)、「かの国の衆生、もしまさに生れんもの、みなことごとく無上菩提を究竟し、涅槃の処に到らしめん。なにをもつてのゆゑに。もし邪定聚および不定聚は、かの因を建立せることを了知することあたはざるがゆゑなり」と。{以上抄要}
【7】『浄土論』(論註・下)にいはく、「〈荘厳妙声功徳成就とは、偈に、《梵声悟深遠微妙聞十方》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。これいかんぞ不思議なるや。『経』にのたまはく、〈もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る〉と。これはこれ国土の名字仏事をなす。いづくんぞ思議すべきやと。
 〈荘厳主功徳成就とは、偈に、《正覚阿弥陀法王善住持》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。これいかんが不思議なるや。正覚の阿弥陀、不可思議にまします。かの安楽浄土は正覚阿弥陀の善力のために住持せられたり。いかんが思議することを得べきや。
〈住〉は不異不滅に名づく、〈持〉は不散不失に名づく。不朽薬をもつて種子に塗りて、水に在くに瀾れず、火に在くに_れず。因縁を得てすなはち生ずるがごとし。なにをもつてのゆゑに。不朽薬の力なるがゆゑなり。
もし人、ひとたび安楽浄土に生ずれば、後のときに意に三界に生れて衆生を教化せんと願じて、浄土の命を捨てて願に随ひて生を得て、三界雑生の火のなかに生るといへども、無上菩提の種子、畢竟じて朽ちず。なにをもつてのゆゑに、正覚阿弥陀のよく住持を経るをもつてのゆゑにと。
 〈荘厳眷属功徳成就とは、偈に、《如来浄華衆正覚華化生》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。これいかんぞ不思議なるや。おほよそこれ雑生の世界には、もしは胎、もしは卵、もしは湿、もしは化、眷属そこばくなり。苦楽万品なり。雑業をもつてのゆゑに。
かの安楽国土はこれ阿弥陀如来正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに。遠く通ずるに、それ四海のうちみな兄弟とするなり。眷属無量なり。いづくんぞ思議すべきや」と。
【8】またいはく(論註・下)、「往生を願ふもの、本はすなはち三三の品なれども、いまは一二の殊なし。また__の一味なるがごとし。いづくんぞ思議すべきや」と。
【9】また『論』(同・下)にいはく、「〈荘厳清浄功徳成就とは、偈に、《観彼世界相勝過三界道》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることを得れば、三界の繋業、畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いづくんぞ思議すべきや」と。{以上抄要}
【10】『安楽集』(下)にいはく、「しかるに二仏の神力また斉等なるべし。ただし釈迦如来おのれが能を申べずして、ことさらにかの長ぜるを顕したまふことは、一切衆生をして斉しく帰せざることなからしめんと欲してなり。このゆゑに、釈迦、処処に嘆帰せしめたまへり。すべからくこの意を知るべしとなり。
このゆゑに、曇鸞法師の正意、西に帰するがゆゑに、『大経』に傍へて奉讃していはく(讃阿弥陀仏偈)、〈安楽の声聞・菩薩衆・人・天、智慧ことごとく洞達せり。身相荘厳殊異なし。ただ他方に順ずるがゆゑに名を列ぬ。顔容端正にして比ぶべきなし。精微妙躯にして人・天にあらず。虚無の身、無極の体なり。このゆゑに平等力を頂礼したてまつる〉」と。{以上}
【11】光明寺(善導)の『疏』(玄義分)にいはく、「弘願といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせざることなしとなり。
また仏の密意弘深なれば、教門をして暁りがたし。三賢・十聖測りて_ふところにあらず。いはんやわれ信外の軽毛なり。あへて旨趣を知らんや。仰いでおもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎す。かしこに喚びここに遣はす。あに去かざるべけんや。ただねんごろに法に奉へて、畢命を期として、この穢身を捨てて、すなはちかの法性の常楽を証すべし」と。
【12】またいはく(定善義)、「西方寂静無為の楽には、畢竟逍遥して有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること、等しくして殊なることなし。あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余に入る。変現の荘厳、意に随ひて出づ。群生見るもの罪みな除こると。
また讃じていはく、帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到る処に余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢へてのち、かの涅槃の城に入らん」と。{以上}
【13】それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。ゆゑに、もしは因、もしは果、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまへるところにあらざることあることなし。因、浄なるがゆゑに果また浄なり。知るべしとなり。
【14】二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。すなはちこれ必至補処の願(第二十二願)より出でたり。また一生補処の願と名づく。また還相回向の願と名づくべきなり。『註論』(論註)に顕れたり。ゆゑに願文を出さず。『論の註』を披くべし。
【15】『浄土論』にいはく、「出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示す。生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯して教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく」と。{以上}
【16】『論註』(下)にいはく、「還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他・毘婆舎那・方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしむるなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて生死海を度せんがためなり。このゆゑに、〈回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり」と。
【17】またいはく(同・下)、「〈すなはちかの仏を見たてまつれば、未証浄心の菩薩、畢竟じて平等法身を得証す。浄心の菩薩と、上地のもろもろの菩薩と、畢竟じて同じく寂滅平等を得るがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。
平等法身とは、八地以上法性生身の菩薩なり。寂滅平等とは、すなはちこの法身の菩薩の所証の寂滅平等の法なり。この寂滅平等の法を得るをもつてのゆゑに、名づけて平等法身とす。平等法身の菩薩の所得なるをもつてのゆゑに、名づけて寂滅平等の法とするなり。
この菩薩は報生三昧を得。三昧神力をもつて、よく一処・一念・一時に、十方世界に遍して、種種に一切諸仏および諸仏大会衆海を供養す。よく無量世界に仏・法・僧ましまさぬ処にして、種種に示現し、種種に一切衆生を教化し度脱して、つねに仏事をなす。初めに往来の想、供養の想、度脱の想なし。このゆゑにこの身を名づけて平等法身とす。この法を名づけて寂滅平等の法とす。
未証浄心の菩薩とは、初地以上七地以還のもろもろの菩薩なり。この菩薩、またよく身を現ずること、もしは百もしは千、もしは万もしは億、もしは百千万億、無仏の国土にして仏事を施作す。かならず心を作して三昧に入りて、いましよく作心せざるにあらず。作心をもつてのゆゑに、名づけて未証浄心とす。
この菩薩、安楽浄土に生じてすなはち阿弥陀仏を見んと願ず。阿弥陀仏を見るとき、上地のもろもろの菩薩と畢竟じて身等しく法等しと。龍樹菩薩・婆薮槃頭菩薩(天親)の輩、かしこに生ぜんと願ずるは、まさにこのためなるべしならくのみと。
 問うていはく、『十地経』を案ずるに、菩薩の進趣階級、やうやく無量の功勲あり。多くの劫数を経。しかうしてのち、いましこれを得。いかんぞ阿弥陀仏を見たてまつるとき、畢竟じて上地のもろもろの菩薩と身等しく法等しきやと。
 答へていはく、畢竟はいまだすなはち等しといふにはあらずとなりと。畢竟じてこの等しきことを失せざるがゆゑに、等しといふならくのみと。
 問うていはく、もしすなはち等しからずは、またなんぞ菩薩といふことを得ん。ただ初地に登れば、もつてやうやく増進して、自然にまさに仏と等しかるべし。なんぞ仮に上地の菩薩と等しといふやと。
 答へていはく、菩薩、七地のなかにして大寂滅を得れば、上に諸仏の求むべきを見ず、下に衆生の度すべきを見ず。仏道を捨てて実際を証せんと欲す。そのときにもし十方諸仏の神力加勧を得ずは、すなはち滅度して二乗と異なけん。菩薩もし安楽に往生して阿弥陀仏を見たてまつるに、すなはちこの難なけん。このゆゑにすべからく畢竟平等といふべし。
また次に『無量寿経』(上)のなかに、阿弥陀如来の本願(第二十二願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生して究竟じてかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは正覚を取らじ〉と。
この『経』を案じて、かの国の菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至らざるべし。十地の階次といふは、これ釈迦如来、閻浮提にして一つの応化道ならくのみと。他方の浄土は、なんぞかならずしもかくのごとくせん。五種の不思議のなかに、仏法もつとも不可思議なり。もし菩薩かならず一地より一地に至りて、超越の理なしといはば、いまだあへて詳らかならざるなり。
たとへば樹あり、名づけて好堅といふ。この樹、地より生じて百歳ならん。いましつぶさに一日に長高くなること百丈なるがごとし。日日にかくのごとし。百歳の長を計るに、あに脩松に類せんや。松の生長するを見るに、日に寸を過ぎず。かの好堅を聞きて、なんぞよく即日を疑はざらん。
人ありて、釈迦如来、羅漢を一聴に証し、無生を終朝に制すとのたまへるを聞きて、これ接誘の言にして称実の説にあらずと謂へり。この論事を聞きて、またまさに信ぜざるべし。それ非常の言は、常人の耳に入らず。これをしからずと謂へり。またそれ宜しかるべきなりと。
 〈略して八句を説きて、如来の自利利他の功徳荘厳、次第に成就したまへるを示現したまへるなりと、知るべし〉(浄土論)と。これはいかんが次第なるとならば、前の十七句は、これ荘厳国土の功徳成就なり。すでに国土の相を知んぬ、国土の主を知るべし。
このゆゑに次に仏荘厳功徳を観ず。かの仏もし荘厳をなして、いづれの処にしてか座すると。このゆゑにまづ座を観ずべし。すでに座を知んぬ、すでによろしく座主を知るべし。このゆゑに次に仏の身業を荘厳したまへるを観ず。
すでに身業を知んぬ、いかなる声名かましますと知るべし。このゆゑに次に仏の口業を荘厳したまへるを観ず。すでに名聞を知んぬ、よろしく得名のゆゑを知るべし。このゆゑに次に仏の心業を荘厳したまへるを観ず。
すでに三業具足したまへるを知んぬ、人・天の大師となつて化を受くるに堪へたるひとは、これたれぞと知るべし。このゆゑに次に大衆の功徳を観ず。すでに大衆無量の功徳いますことを知んぬ、よろしく上首はたれぞと知るべし。このゆゑに次に上首を観ず。上首はこれ仏なり。
すでに上首を知んぬ、おそらくは長幼に同じことを。このゆゑに次に主を観ず。すでにこの主を知んぬ、主いかなる増上かましますと。このゆゑに次に荘厳不虚作住持を観ず。八句の次第成ぜるなり。
 菩薩を観ぜば、〈いかんが菩薩の荘厳功徳成就を観察する。菩薩の荘厳功徳成就を観察せば、かの菩薩を観ずるに、四種の正修行功徳成就したまへることありと、知るべし〉(浄土論)と。真如はこれ諸法の正体なり。体、如にして行ずればすなはちこれ不行なり。不行にして行ずるを如実修行と名づく。体はただ一如にして義をして分ちて四つとす。このゆゑに四行、一をもつてまさしくこれを統ぬ。
 〈なにものをか四つとする。一つには、一仏土において身、動揺せずして十方に遍す、種種に応化して実のごとく修行してつねに仏事をなす。偈に、《安楽国は清浄にして、つねに無垢輪を転ず、化仏・菩薩は、日の須弥に住持するがごとし》といへるがゆゑに。もろもろの衆生の淤泥華を開くがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。
八地以上の菩薩は、つねに三昧にありて、三昧力をもつて身本処を動ぜずして、よくあまねく十方に至りて、諸仏を供養し、衆生を教化す。
〈無垢輪〉は仏地の功徳なり。仏地の功徳は習気・煩悩の垢ましまさず。仏、もろもろの菩薩のためにつねにこの法輪を転ず。もろもろの大菩薩、またよくこの法輪をもつて、一切を開導して暫時も休息なけん。ゆゑに〈常転〉といふ。
法身は日のごとくして、応化身の光もろもろの世界に遍するなり。〈日〉といはばいまだもつて不動を明かすに足らざれば、また〈如須弥住持〉といふなり。
〈淤泥華〉とは、『経』(維摩経)にのたまはく、〈高原の陸地には蓮華を生ぜず。卑湿の淤泥にいまし蓮華を生ず〉と。これは凡夫、煩悩の泥のなかにありて、菩薩のために開導せられて、よく仏の正覚の華を生ずるに喩ふ。まことにそれ三宝を紹隆して、つねに絶えざらしむと。
 〈二つには、かの応化身、一切のとき、前ならず後ならず、一心一念に大光明を放ちて、ことごとくよくあまねく十方世界に至りて、衆生を教化す。種種に方便し、修行所作して、一切衆生の苦を滅除するがゆゑに。偈に、《無垢荘厳の光、一念および一時に、あまねく諸仏の会を照らして、もろもろの群生を利益す》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。
上に〈不動にして至る〉といへり。あるいは至るに前後あるべし。このゆゑに、また〈一念一時無前無後〉とのたまへるなり。
 〈三つには、かれ一切の世界において、余なくもろもろの仏会を照らす。大衆余なく、広大無量にして、諸仏如来の功徳を供養し、恭敬し、讃嘆す。偈に、《天の楽・華・衣・妙香等を雨りて、諸仏の功徳を供養し讃ずるに、分別の心あることなし》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。
〈余なく〉とは、あまねく一切世界、一切諸仏の大会に至りて、一世界・一仏会として至らざることあることなきことを明かすなり。肇公のいはく、〈法身は像なくして形を殊にす。ならびに至韻に応ず。言なくして玄籍いよいよ布き、冥権謀なくして動じて事と会す〉と。けだしこの意なり。
 〈四つには、かれ十方一切の世界に三宝ましまさぬ処において、仏法僧宝功徳大海を住持し荘厳して、あまねく示して如実の修行を解らしむ。偈に、《なんらの世界にか、仏法功徳宝ましまさざらん。われ願はくはみな往生して、仏法を示して仏のごとくせん》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。
上の三句は、あまねく至るといふといへども、みなこれ有仏の国土なり。もしこの句なくは、すなはちこれ法身、所として法ならざることあらん。上善、所として善ならざることあらん。観行の体相は竟りぬ。
 以下はこれ、解義のなかの第四重なり。名づけて浄入願心とす。浄入願心とは、〈また向に観察荘厳仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就とを説きつ。この三種の成就は願心の荘厳したまへるなりと、知るべし〉(浄土論)といへり。
〈応知〉とは、この三種の荘厳成就は、もと四十八願等の清浄の願心の荘厳せるところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり。因なくして他の因のあるにはあらずと知るべしとなり。
 〈略して入一法句を説くがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。上の国土の荘厳十七句と、如来の荘厳八句と、菩薩の荘厳四句とを広とす。入一法句は略とす。
なんがゆゑぞ広略相入を示現するとならば、諸仏菩薩に二種の法身あり。一つには法性法身、二つには方便法身なり。法性法身によりて方便法身を生ず。方便法身によりて法性法身を出す。この二の法身は異にして分つべからず。一にして同じかるべからず。このゆゑに広略相入して、統ぬるに法の名をもつてす。菩薩、もし広略相入を知らざれば、すなはち自利利他するにあたはず。
 〈一法句とは、いはく清浄句なり。清浄句とは、いはく真実の智慧、無為法身なるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。この三句は展転してあひ入る。なんの義によりてかこれを名づけて法とする、清浄をもつてのゆゑに。なんの義によりてか名づけて清浄とする、真実の智慧無為法身をもつてのゆゑなり。
真実の智慧は実相の智慧なり。実相は無相なるがゆゑに、真智は無知なり。無為法身は法性身なり。法性寂滅なるがゆゑに法身は無相なり。無相のゆゑによく相ならざることなし。このゆゑに相好荘厳すなはち法身なり。無知のゆゑによく知らざることなし。このゆゑに一切種智すなはち真実の智慧なり。
真実をもつてして智慧に目くることは、智慧は作にあらず非作にあらざることを明かすなり。無為をもつてして法身を樹つることは、法身は色にあらず非色にあらざることを明かすなり。
非にあらざれば、あに非のよく是なるにあらざらんや。けだし非なき、これを是といふなり。おのづから是にして、また是にあらざることを待つことなきなり。是にあらず非にあらず、百非の喩へざるところなり。このゆゑに清浄句といへり。清浄句とは、いはく真実の智慧無為法身なり。
 〈この清浄に二種あり、知るべし〉といへり。上の転入句のなかに、一法に通じて清浄に入る。清浄に通じて法身に入る。いままさに清浄を別ちて二種を出すがゆゑなり。ゆゑに知るべしといへり。
 〈なんらか二種、一つには器世間清浄、二つには衆生世間清浄なり。器世間清浄とは、向に説くがごときの十七種の荘厳仏土功徳成就、これを器世間清浄と名づく。衆生世間清浄とは、向に説くがごときの八種の荘厳仏功徳成就と、四種の荘厳菩薩功徳成就と、これを衆生世間清浄と名づく。かくのごときの一法句に二種の清浄の義を摂すと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。
それ衆生は別報の体とす。国土は共報の用とす。体用一ならず。このゆゑに知るべし。しかるに諸法は心をして無余の境界を成ず。衆生および器、また異にして一ならざることを得ず。すなはち義をして分つに異ならず。同じく清浄なり。器は用なり。いはくかの浄土は、これかの清浄の衆生の受用するところなるがゆゑに、名づけて器とす。
浄食に不浄の器を用ゐれば、器不浄なるをもつてのゆゑに、食また不浄なり。不浄の食に浄器を用ゐれば、食不浄なるがゆゑに、器また不浄なるがごとし。かならず二つともに潔くして、いまし浄と称することを得しむ。ここをもつて一つの清浄の名、かならず二種を摂す。
 問うていはく、衆生清浄といへるは、すなはちこれ仏と菩薩となり。かのもろもろの人・天、この清浄の数に入ることを得んや、いなやと。
 答へていはく、清浄と名づくることを得るは、実の清浄にあらず。たとへば出家の聖人は、煩悩の賊を殺すをもつてのゆゑに名づけて比丘とす、凡夫の出家のものをまた比丘と名づくるがごとし。また灌頂王子初生のとき、三十二相を具して、すなはち七宝のために属せらる。いまだ転輪王の事をなすことあたはずといへども、また転輪王と名づくるがごとし。それかならず転輪王たるべきをもつてのゆゑに。
かのもろもろの人・天もまたまたかくのごとし。みな大乗正定の聚に入りて、畢竟じてまさに清浄法身を得べし。まさに得べきをもつてのゆゑに、清浄と名づくることを得るなりと。
 善巧摂化とは、〈かくのごときの菩薩は、奢摩他・毘婆舎那、広略修行成就して柔軟心なり〉(浄土論)とのたまへり。〈柔軟心〉とは、いはく広略の止観、相順して修行して、不二の心を成ぜるなり。たとへば水をもつて影を取るに、清と静とあひ資けて成就するがごとしとなり。
 〈実のごとく広略の諸法を知る〉(浄土論)とのたまへり。〈如実知〉といふは、実相のごとくして知るなり。広のなかの二十九句、略のなかの一句、実相にあらざることなきなり。
 〈かくのごとき巧方便回向を成就したまへり〉(浄土論)とのたまへり。〈かくのごとき〉といふは、前後の広略みな実相なるがごときなり。実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知るなり。衆生の虚妄を知れば、すなはち真実の慈悲を生ずるなり。真実の法身を知るは、すなはち真実の帰依を起すなり。慈悲と帰依と巧方便とは、下にあり。
 〈なにものか菩薩の巧方便回向。菩薩の巧方便回向とは、いはく、礼拝等の五種の修行を説く、所集の一切の功徳善根は、自身住持の楽を求めず。一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆゑに、作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。これを菩薩の巧方便回向成就と名づく〉(浄土論)とのたまへり。
王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生のなかに、行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発せざるはなけん。この無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなはちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑに、かの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり。
もし人、無上菩提心を発せずして、ただかの国土の受楽無間なるを聞きて、楽のためのゆゑに生ぜんと願ずるは、またまさに往生を得ざるべきなり。このゆゑに、〈自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆゑに〉とのたまへり。
〈住持楽〉とは、いはく、かの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間なきなり。おほよそ〈回向〉の名義を釈せば、いはく、おのれが所集の一切の功徳をもつて、一切衆生に施与して、ともに仏道に向かへしめたまふなりと。
〈巧方便〉とは、いはく、菩薩願ずらく、〈おのれが智慧の火をもつて一切衆生の煩悩の草木を焼かんと、もし一衆生として成仏せざることあらば、われ仏に成らじ〉と。
しかるに衆生いまだことごとく成仏せざるに、菩薩すでにみづから成仏せんは、たとへば火_して、一切の草木を_(_の字、排ひ除くなり)んで焼きて尽さしめんと欲するに、草木いまだ尽きざるに、火_すでに尽きんがごとし。その身を後にして身を先にするをもつてのゆゑに、巧方便と名づく。
このなかに〈方便〉といふは、いはく作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり。
 障菩提門とは、〈菩薩かくのごとくよく回向成就したまへるを知れば、すなはちよく三種の菩提門相違の法を遠離するなり。なんらか三種。一つには智慧門によりて、自楽を求めず、わが心自身に貪着するを遠離せるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。進むを知りて退くを守るを〈智〉といふ。空・無我を知るを〈慧〉といふ。智によるがゆゑに自楽を求めず、慧によるがゆゑにわが心自身に貪着するを遠離せり。
 〈二つには慈悲門によれり。一切衆生の苦を抜いて、無安衆生心を遠離せるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。苦を抜くを〈慈〉といふ。楽を与ふるを〈悲〉といふ。慈によるがゆゑに一切衆生の苦を抜く。悲によるがゆゑに無安衆生心を遠離せり。
 〈三つには方便門によれり。一切衆生を憐愍したまふ心なり。自身を供養し恭敬する心を遠離せるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。正直を〈方〉といふ。おのれを外にするを〈便〉といふ。正直によるがゆゑに一切衆生を憐愍する心を生ず。おのれを外にするによるがゆゑに自身を供養し恭敬する心を遠離せり。〈これを三種の菩提門相違の法を遠離すと名づく〉(浄土論)と。
 順菩提門とは、〈菩薩はかくのごとき三種の菩提門相違の法を遠離して、三種の随順菩提門の法、満足することを得たまへるがゆゑに。なんらか三種。一つには無染清浄心。自身のためにもろもろの楽を求めざるをもつてのゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。菩提はこれ無染清浄の処なり。もし身のために楽を求めば、すなはち菩提に違しなん。このゆゑに無染清浄心は、これ菩提門に順ずるなり。
 〈二つには安清浄心。一切衆生の苦を抜くをもつてのゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。菩提はこれ一切衆生を安穏する清浄の処なり。もし作心して一切衆生を抜きて生死の苦を離れしめずは、すなはち菩提に違しなん。このゆゑに一切衆生の苦を抜くは、これ菩提門に順ずるなりと。
 〈三つには楽清浄心。一切衆生をして大菩提を得しむるをもつてのゆゑに、衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもつてのゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。菩提はこれ畢竟常楽の処なり。もし一切衆生をして畢竟常楽を得しめずは、すなはち菩提に違しなん。この畢竟常楽はなにによりてか得る、大乗門によるなり。大乗門とは、いはくかの安楽仏国土これなり。
このゆゑにまた〈衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるをもつてのゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。〈これを三種の随順菩提門の法、満足せりと名づくと、知るべし〉(浄土論)と。
 名義摂対とは、〈向に智慧・慈悲・方便の三種の門は般若を摂取す。般若方便を摂取すと説きつ、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。
〈般若〉とは如に達するの慧の名なり。〈方便〉とは権に通ずるの智の称なり。如に達すればすなはち心行寂滅なり。権に通ずれば、すなはちつぶさに衆機に省く。機に省くの智、つぶさに応じて無知なり。寂滅の慧、また無知にしてつぶさに省く。
しかればすなはち智慧と方便と、あひ縁じて動じ、あひ縁じて静なり。動、静を失せざることは、智慧の功なり。静、動を廃せざることは方便の力なり。このゆゑに智慧と慈悲と方便と、般若を摂取す。般若、方便を摂取す。
〈知るべし〉とは、いはく、智慧と方便はこれ菩薩の父母なり。もし智慧と方便とによらずは、菩薩の法則成就せざることを知るべし。なにをもつてのゆゑに。もし智慧なくして衆生のためにするときには、すなはち顛倒に堕せん。もし方便なくして法性を観ずるときには、すなはち実際を証せん。このゆゑに知るべしと。
 〈向に遠離我心貪着自身・遠離無安衆生心・遠離供養恭敬自身心を説きつ。この三種の法は、障菩提心を遠離するなりと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。
諸法におのおの障碍の相あり。風はよく静を障ふ。土はよく水を障ふ。湿はよく火を障ふ。五黒・十悪は人・天を障ふ。四顛倒は声聞の果を障ふるがごとし。このなかの三種は菩提を障ふる心を遠離せずと。〈知るべし〉とは、もし無障を得んと欲はば、まさにこの三種の障碍を遠離すべきなり。
 〈向に無染清浄心・安清浄心・楽清浄心を説きつ。この三種の心は略して一処にして、妙楽勝真心を成就したまへりと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。
楽に三種あり。一つには外楽、いはく五識所生の楽なり。二つには内楽、いはく初禅・二禅・三禅の意識所生の楽なり。三つには法楽楽、いはく智慧所生の楽なり。この智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起れり。
これは遠離我心と遠離無安衆生心と遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす。妙の言はそれ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもつてのゆゑに。勝の言は三界のうちの楽に勝出せり。真の言は虚偽ならず、顛倒せざるなり。
 願事成就とは、〈かくのごとき菩薩は智慧心・方便心・無障心・勝真心をもつて、よく清浄仏国土に生ぜしめたまへりと、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。〈知るべし〉とは、いはく、この四種の清浄の功徳、よくかの清浄仏国土に生ずることを得しむ。これ他縁をして生ずるにはあらずと知るべしとなり。
 〈これを菩薩摩訶薩、五種の法門に随順して、所作意に随ひて自在に成就したまへりと名づく。向の所説のごとき身業・口業・意業・智業・方便智業、法門に随順せるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。
〈随意自在〉とは、いふこころは、この五種の功徳力、よく清浄仏土に生ぜしめて、出没自在なるなり。〈身業〉とは礼拝なり。〈口業〉とは讃嘆なり。〈意業〉とは作願なり。〈智業〉とは観察なり。〈方便智業〉とは回向なり。この五種の業和合せり、すなはちこれ往生浄土の法門に随順して、自在の業成就したまへりとのたまへりと。
 利行満足とは、〈また五種の門ありて、漸次に五種の功徳を成就したまへりと、知るべし。なにものか五門。一つには近門、二つには大会衆門、三つには宅門、四つには屋門、五つには園林遊戯地門なり〉(浄土論)とのたまへり。
この五種は、入出の次第の相を示現せしむ。入相のなかに、初めに浄土に至るは、これ近相なり。いはく大乗正定聚に入るは、阿耨多羅三藐三菩提に近づくなり。浄土に入りをはるは、すなはち如来の大会衆の数に入るなり。
衆の数に入りをはりぬれば、まさに修行安心の宅に至るべし。宅に入りをはれば、まさに修行所居の屋宇に至るべし。修行成就しをはりぬれば、まさに教化地に至るべし。教化地はすなはちこれ菩薩の自娯楽の地なり。このゆゑに出門を園林遊戯地門と称すと。
 〈この五種の門は、初めの四種の門は入の功徳を成就したまへり。第五門は出の功徳を成就したまへり〉(浄土論)とのたまへり。この入出の功徳は、なにものかこれや。
 釈すらく、〈入第一門といふは、阿弥陀仏を礼拝してかの国に生ぜしめんがためにするをもつてのゆゑに、安楽世界に生ずることを得しむ。これを第一門と名づく〉とのたまへり。仏を礼して仏国に生ぜんと願ずるは、これ初めの功徳の相なりと。
 〈入第二門とは、阿弥陀仏を讃嘆し、名義に随順して如来の名を称せしめ、如来の光明智相によりて修行せるをもつてのゆゑに、大会衆の数に入ることを得しむ。これを入第二門と名づく〉(浄土論)とのたまへり。如来の名義によりて讃嘆する、これ第二の功徳の相なりと。
 〈入第三門とは、一心に専念し作願して、かしこに生じて奢摩他寂静三昧の行を修するをもつてのゆゑに、蓮華蔵世界に入ることを得しむ。これを入第三門と名づく〉(浄土論)。寂静止を修せんためのゆゑに、一心にかの国に生ぜんと願ずる、これ第三の功徳の相なりと。
 〈入第四門とは、かの妙荘厳を専念し観察して、毘婆舎那を修せしむるをもつてのゆゑに、かの所に到ることを得て、種種の法味の楽を受用せしむ。これを入第四門と名づく〉(浄土論)とのたまへり。
〈種種の法味の楽〉とは、毘婆舎那のなかに、観仏国土清浄味・摂受衆生大乗味・畢竟住持不虚作味・類事起行願取仏土味あり。かくのごときらの無量の荘厳仏道の味あるがゆゑに、種種とのたまへり。これ第四の功徳の相なりと。
 〈出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯し、教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく〉(浄土論)とのたまへり。
〈応化身を示す〉といふは、『法華経』の普門示現の類のごときなり。〈遊戯〉に二つの義あり。一つには自在の義。菩薩衆生を度す。たとへば獅子の鹿を搏つに、所為はばからざるがごときは、遊戯するがごとし。二つには度無所度の義なり。菩薩衆生を観ずるに、畢竟じてあらゆるところなし。無量の衆生を度すといへども、実に一衆生として滅度を得るものなし。衆生を度すと示すこと遊戯するがごとし。
〈本願力〉といふは、大菩薩、法身のなかにおいて、つねに三昧にましまして、種種の身、種種の神通、種種の説法を現ずることを示すこと、みな本願力より起るをもつてなり。たとへば阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、しかも音曲自然なるがごとし。これを教化地の第五の功徳の相と名づくとのたまへり」と。{以上抄出}
【18】しかれば大聖(釈尊)の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。還相の利益は利他の正意を顕すなり。ここをもつて論主(天親)は広大無碍の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍の群萌を開化す。宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。
顕浄土真実証文類四

光明無量の願
寿命無量の願

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顕浄土真仏土文類五
愚禿釈親鸞集

【1】つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち大悲の誓願に酬報するがゆゑに、真の報仏土といふなり。すでにして願います、すなはち光明・寿命の願(第十二・十三願)これなり。
【2】『大経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ」と。
【3】また願(第十三願)にのたまはく(同・上)、「たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下百千億那由他の劫に至らば、正覚を取らじ」と。
【4】願(第十二・十三願)成就の文にのたまはく(同・上)、「仏、阿難に告げたまはく、〈無量寿仏の威神光明、最尊第一にして、諸仏の光明の及ぶことあたはざるところなり。{乃至}
このゆゑに無量寿仏をば無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍し善心生ず。もし三塗勤苦の処にありて、この光明を見れば、みな休息を得てまた苦悩なけん。寿終へてののち、みな解脱を蒙る。
無量寿仏の光明顕赫にして、十方諸仏の国土を照耀して聞えざることなし。ただわれいまその光明を称するのみにあらず、一切の諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとくともに嘆誉すること、またまたかくのごとし。
もし衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説し、心を至して断えざれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得て、もろもろの菩薩・声聞大衆のために、ともにその功徳を嘆誉し称せられん。それしかうしてのち仏道を得るときに至りて、あまねく十方の諸仏・菩薩のために、その光明を嘆ぜられんこと、またいまのごときならん〉と。
仏ののたまはく、〈われ無量寿仏の光明威神、巍巍殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すともなほいまだ尽すことあたはじ〉と。
 仏、阿難に語りたまはく、〈無量寿仏は寿命長久にして、勝計すべからず。なんぢむしろ知らんや。たとひ十方世界の無量の衆生、みな人身を得て、ことごとく声聞・縁覚を成就せしめて、すべてともに集会して、思をもつぱらにし心を一つにして、その智力を竭して、百千万劫においてことごとくともに推算して、その寿命の長遠の数を計へんに、窮尽してその限極を知ることあたはじ〉」と。{抄出}
【5】『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「阿難、この義をもつてのゆゑに、無量寿仏にまた異名まします。いはく、無量光・無辺光・無着光・無碍光・光照王・端厳光・愛光・喜光・可観光・不可思議光・無等光・不可称量光・暎蔽日光・暎蔽月光・掩奪日月光なり。かの光明清浄広大にして、あまねく衆生をして身心悦楽せしむ。また一切余の仏刹のうちの天・竜・夜叉・阿修羅等みな歓悦を得しむ」と。{以上}
【6】『無量清浄平等覚経』(二)[帛延の訳]にのたまはく、「速疾に超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無数の仏を供養す」と。{以上}
【7】『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(上)[支謙の訳]にのたまはく、「仏ののたまはく、〈阿弥陀仏の光明は最尊第一にして比びなし。諸仏の光明みな及ばざるところなり。
八方上下、無央数の諸仏のなかに、仏の頂中の光明、七丈を照らすあり。仏の頂中の光明、一里を照らすあり。{乃至}仏の頂中の光明、二百万仏国を照らすあり〉と。仏ののたまはく、〈もろもろの八方上下、無央数の仏の頂中の光明の炎照するところ、みなかくのごとくなり。阿弥陀仏の頂中の光明の炎照するところ、千万仏国なり。
諸仏の光明の照らすところに近遠あるゆゑはいかんとなれば、もとそれ前世の宿命に、道を求めて菩薩たりしとき、所願功徳おのおのおのづから大小あり。それしかうしてのち仏になるときに至りて、おのおのみづからこれを得たり。このゆゑに光明うたた同等ならざらしむ。諸仏の威神同等なるならくのみと。自在の意の所欲、作為してあらかじめ計らず。阿弥陀仏の光明の照らすところ最大なり。諸仏の光明みな及ぶことあたはざるところなり〉と。
仏、阿弥陀仏の光明の極善なることを称誉したまふ。〈阿弥陀仏の光明は極善にして、善のなかの明好なり。それ快きこと比びなし、絶殊無極なり。阿弥陀仏の光明は清潔にして瑕穢なく欠減なきなり。阿弥陀仏の光明は殊好なること、日月の明よりも勝れたること、百千億万倍なり。諸仏の光明のなかの極明なり、光明のなかの極好なり、光明のなかの極雄傑なり、光明のなかの快善なり、諸仏のなかの王なり、光明のなかの極尊なり、光明のなかの最明無極なり。
もろもろの無数天下の幽冥の処を炎照するに、みなつねに大明なり。諸有の人民・_飛・蠕動の類、阿弥陀仏の光明を見ざることなきなり。見たてまつるもの慈心歓喜せざるものなけん。
世間の諸有の婬_・瞋怒・愚痴のもの、阿弥陀仏の光明を見たてまつりて、善をなさざるはなきなり。もろもろの泥梨・_狩・辟茘・考掠、勤苦の処にありて、阿弥陀仏の光明を見たてまつれば、至りてみな休止して、また治することを得ざれども、死してのち、憂苦を解脱することを得ざるものはなきなり。
阿弥陀仏の光明と名とは、八方上下、無窮無極無央数の諸仏の国に聞かしめたまふ。諸天・人民、聞知せざることなし。聞知せんもの、度脱せざるはなきなり〉と。
仏ののたまはく、〈独りわれ、阿弥陀仏の光明を称誉するのみにあらざるなり。八方上下、無央数の仏・辟支仏・菩薩・阿羅漢、称誉するところみなかくのごとし〉と。仏ののたまはく、〈それ人民、善男子・善女人ありて阿弥陀仏の声を聞きて、光明を称誉して、朝暮につねにその光好を称誉して、心を至して断絶せざれば、心の所願にありて、阿弥陀仏国に往生す〉」と。{以上}
【8】『不空羂索神変真言経』にのたまはく、「なんぢ当生の処は、これ阿弥陀仏の清浄報土なり。蓮華より化生して、つねに諸仏を見たてまつる。もろもろの法忍を証せん。寿命無量百千劫数ならん。ただちに阿耨多羅三藐三菩提に至る、また退転せず。われつねに祐護す」と。{以上}
【9】『涅槃経』(四相品)にのたまはく、「〈また解脱は名づけて虚無といふ。虚無はすなはちこれ解脱なり、解脱はすなはちこれ如来なり、如来はすなはちこれ虚無なり、非作の所作なり。{乃至}
真解脱は不生不滅なり、このゆゑに解脱はすなはちこれ如来なり。如来またしかなり。不生不滅、不老不死、不破不壊にして有為の法にあらず。この義をもつてのゆゑに、名づけて如来入大涅槃といふ。{乃至}
また解脱は無上上と名づく。{乃至}無上上はすなはち真解脱なり、真解脱はすなはちこれ如来なり。{乃至}もし阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得をはりて、無愛無疑なり。無愛無疑はすなはち真解脱なり、真解脱はすなはちこれ如来なり。{乃至}
如来はすなはちこれ涅槃なり、涅槃はすなはちこれ無尽なり、無尽はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ決定なり、決定はすなはちこれ阿耨多羅三藐三菩提なり〉と。
 迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、もし涅槃と仏性と決定と如来と、これ一義名ならば、いかんぞ説きて三帰依ありとのたまへるや〉と。仏、迦葉に告げたまはく、〈善男子、一切衆生、生死を怖畏するがゆゑに三帰を求む。三帰をもつてのゆゑに、すなはち仏性と決定と涅槃とを知るなり。
善男子、法の名一義異なるあり、法の名義倶異なるあり。名一義異とは、仏の常、法の常、比丘僧の常なり。涅槃・虚空みなまたこれ常なり。これを名一義異と名づく。名義倶異とは、仏を名づけて覚とす、法を不覚と名づく、僧を和合と名づく、涅槃を解脱と名づく、虚空を非善と名づく、また無碍と名づく。これを名義倶異とす。善男子、三帰依とはまたまたかくのごとし〉」と。{略出}
【10】またのたまはく(涅槃経・四依品)、「光明は不羸劣に名づく。不羸劣とは名づけて如来といふ。また光明は名づけて智慧とす」と。{以上}
【11】またのたまはく(同・聖行品)、「善男子、一切有為はみなこれ無常なり。虚空は無為なり、このゆゑに常とす。仏性は無為なり、このゆゑに常とす。虚空はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり、如来はすなはちこれ無為なり、無為はすなはちこれ常なり、常はすなはちこれ法なり、法はすなはちこれ僧なり、僧はすなはち無為なり、無為はすなはちこれ常なり」と。{乃至}
 「善男子、たとへば牛より乳を出す、乳より酪を出す、酪より生蘇を出す、生蘇より熟蘇を出す、熟蘇より醍醐を出す。醍醐最上なり。もし服することあるものは、衆病みな除こる。所有のもろもろの薬、ことごとくそのなかに入るがごとし。
善男子、仏もまたかくのごとし。仏より十二部経を出す、十二部経より修多羅を出す、修多羅より方等経を出す、方等経より般若波羅蜜を出す、般若波羅蜜より大涅槃を出す。なほし醍醐のごとし。醍醐といふは仏性に喩ふ。仏性はすなはちこれ如来なり。善男子、かくのごときの義のゆゑに、説きて〈如来所有の功徳、無量無辺不可称計〉とのたまへり」と。{抄出}
【12】またのたまはく(涅槃経・梵行品)、「善男子、道に二種あり。一つには常、二つには無常なり。菩提の相にまた二種あり。一つには常、二つには無常なり。涅槃もまたしかなり。外道の道を名づけて無常とす、内道の道はこれを名づけて常とす。声聞・縁覚所有の菩提を名づけて無常とす、菩薩・諸仏の所有の菩提、これを名づけて常とす。外の解脱は名づけて無常とす。内の解脱はこれを名づけて常とすと。
善男子、道と菩提および涅槃と、ことごとく名づけて常とす。一切衆生は、つねに無量の煩悩のために覆はれて、慧眼なきがゆゑに、見ることを得ることあたはず。しかしてもろもろの衆生、見んと欲ふがために戒・定・慧を修す。修行をもつてのゆゑに、道と菩提とおよび涅槃とを見る。これを菩薩の得道菩提涅槃と名づく。
道の性相、実に不生滅なり。この義をもつてのゆゑに捉持すべからず。{乃至}道は色像なしといへども見つべし、称量して知んぬべし、しかるに実に用ありと。{乃至}衆生の心のごときは、これ色にあらず、長にあらず短にあらず、粗にあらず細にあらず、縛にあらず解にあらず、見にあらずといへども、法としてまたこれ有なり」と。{抄出}
【13】またのたまはく(涅槃経・徳王品)、「善男子、大楽あるがゆゑに大涅槃と名づく。涅槃は無楽なり。四楽をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。なんらをか四つとする。
一つには諸楽を断ずるがゆゑに。楽を断ぜざるは、すなはち名づけて苦とす。もし苦あらば大楽と名づけず。楽を断ずるをもつてのゆゑに、すなはち苦あることなけん。無苦無楽をいまし大楽と名づく。涅槃の性は無苦無楽なり。このゆゑに涅槃を名づけて大楽とす。この義をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。
また次に善男子、楽に二種あり、一つには凡夫、二つには諸仏なり。凡夫の楽は無常敗壊なり、このゆゑに無楽なり。諸仏は常楽なり、変易あることなきがゆゑに大楽と名づく。また次に善男子、三種の受あり。一つには苦受、二つには楽受、三つには不苦不楽受なり。不苦不楽これまた苦とす。涅槃も不苦不楽に同じといへども、しかるに大楽と名づく。大楽をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。
二つには大寂静のゆゑに名づけて大楽とす。涅槃の性これ大寂静なり。なにをもつてのゆゑに、一切_閙の法を遠離せるゆゑに。大寂をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。
三つには一切智のゆゑに名づけて大楽とす。一切智にあらざるをば大楽と名づけず。諸仏如来は、一切智のゆゑに名づけて大楽とす。大楽をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。
四つには身不壊のゆゑに名づけて大楽とす。身もし壊すべきは、すなはち楽と名づけず。如来の身は金剛にして壊なし。煩悩の身、無常の身にあらざるがゆゑに大楽と名づく。大楽をもつてのゆゑに大涅槃と名づく」と。{以上}
【14】またのたまはく(涅槃経・徳王品)、「不可称量不可思議なるがゆゑに、名づけて大般涅槃とすることを得。純浄をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。いかんが純浄なる。浄に四種あり。なんらをか四つとする。
一つには二十五有を名づけて不浄とす。よく永く断ずるがゆゑに、名づけて浄とすることを得。浄はすなはち涅槃なり。かくのごときの涅槃、また有にしてこれ涅槃と名づくることを得。実にこれ有にあらず。諸仏如来、世俗に随ふがゆゑに涅槃有なりと説きたまへり。
たとへば世人の、父にあらざるを父といひ、母にあらざるを母といふ、実に父母にあらずして父母といふがごとし。涅槃もまたしかなり。世俗に随ふがゆゑに、説きて諸仏有にして大涅槃なりとのたまへり。
二つには業清浄のゆゑに。一切凡夫の業は、不清浄のゆゑに涅槃なし。諸仏如来は業清浄のゆゑに、ゆゑに大浄と名づく。大浄をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。
三つには身清浄のゆゑに。身もし無常なるをすなはち不浄と名づく。如来の身は常なるがゆゑに大浄と名づく。大浄をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。四つには心清浄のゆゑに。心もし有漏なるを名づけて不浄といふ。仏心は無漏なるがゆゑに大浄と名づく。大浄をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。善男子、これを善男子・善女人と名づく」と。{抄出}
【15】またのたまはく(涅槃経・徳王品)、「善男子、諸仏如来は煩悩起らず、これを涅槃と名づく。所有の智慧、法において無碍なり、これを如来とす。如来はこれ凡夫・声聞・縁覚・菩薩にあらず、これを仏性と名づく。如来は身心智慧、無量無辺阿僧祇の土に遍満したまふに、障碍するところなし、これを虚空と名づく。如来は常住にして変易あることなければ、名づけて実相といふ。この義をもつてのゆゑに、如来は実に畢竟涅槃にあらざる、これを菩薩と名づく」と。{以上}
【16】またのたまはく(同・迦葉品)、「迦葉菩薩まうさく、〈世尊、仏性は常なり、なほ虚空のごとし。なんがゆゑぞ如来説きて未来とのたまふやと。如来、もし一闡提の輩、善法なしとのたまはば、一闡提の輩、それ同学・同師・父母・親族・妻子において、あにまさに愛念の心を生ぜざるべきや。もしそれ生ぜば、これ善にあらずや〉と。
仏ののたまはく、〈善いかな善いかな、善男子、快くこの問を発せり。仏性はなほ虚空のごとし。過去にあらず、未来にあらず、現在にあらず。一切衆生に三種の身あり、いはゆる過去・未来・現在なり。衆生、未来に荘厳清浄の身を具足して、仏性を見ることを得ん。このゆゑにわれ仏性未来といへり。
善男子、あるいは衆生のために、あるときは因を説きて果とす、あるときは果を説きて因とす。このゆゑに『経』のなかに命を説きて食とす、色を見て触と名づく。未来の身浄なるがゆゑに仏性と説く〉と。
〈世尊、仏の所説の義のごとし。かくのごときのもの、なんがゆゑぞ説きて一切衆生悉有仏性とのたまへるや〉と。
〈善男子、衆生の仏性は現在に無なりといへども、無といふべからず。虚空のごとし。性は無なりといへども、現在に無といふことを得ず。一切衆生また無常なりといへども、しかもこれ仏性は常住にして変なし。このゆゑにわれこの『経』のなかにおいて、《衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし》と説く。
非内非外にして、それ虚空のごとくして有なり。内外は虚空なれども、名づけて一とし、常とせず。また一切処有といふことを得ず。虚空はまた非内非外なりといへども、しかれどももろもろの衆生ことごとくみなこれあり。衆生の仏性もまたまたかくのごとし。
なんぢいふところの一闡提の輩のごとし、もし身業・口業・意業・取業・求業・施業・解業、かくのごときらの業あれども、ことごとくこれ邪業なり。なにをもつてのゆゑに、因果を求めざるがゆゑなり。善男子、訶梨勒の果、根・茎・枝・葉・華・実、ことごとく苦きがごとし。一闡提の業もまたまたかくのごとし〉」と。{以上}
【17】またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「〈善男子、如来は知諸根力を具足したまへり。このゆゑによく衆生の上・中・下の根を解り分別して、よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。
このゆゑにまさに知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。善男子、このゆゑに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり〉と。
迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、如来は知諸根力を具足して、さだめて善星まさに善根を断ずべしと知ろしめさん。なんの因縁をもつてその出家を聴したまふ〉と。
仏ののたまはく、〈善男子、われ往昔の初において出家のとき、わが弟難陀、従弟阿難・提婆達多、子羅_羅、かくのごときらの輩、みなことごとくわれに随ひて家を出で道を修しき。われもし善星が出家を聴さずは、その人次にまさに王位を紹ぐことを得べし。その力自在にして、まさに仏法を壊すべし。この因縁をもつて、われすなはちその出家修道を聴す。
善男子、善星比丘もし出家せずは、また善根を断ぜん。無量世においてすべて利益なけん。いま出家しをはりて善根を断ずといへども、よく戒を受持して、耆旧・長宿・有徳の人を供養し恭敬せん。初禅乃至四禅を修習せん。これを善因と名づく。かくのごときの善因、よく善法を生む。善法すでに生ぜば、よく道を修習せん。すでに道を修習せば、まさに阿耨多羅三藐三菩提を得べし。このゆゑにわれ善星が出家を聴せり。
善男子、もしわれ善星比丘が出家を聴し戒を受けしめずは、すなはちわれを称して如来具足十力とすることを得ざらんと。{乃至}善男子、如来よく衆生のかくのごとき上・中・下の根と知ろしめす。このゆゑに仏は具知根力と称せしむ〉と。
迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、如来はこの知根力を具足したまへり。このゆゑによく一切衆生上・中・下の根、利鈍の差別を知ろしめして、人に随ひ、意に随ひ、時に随ふがゆゑに、如来知諸根力と名づけたてまつると。{乃至}あるいは説きて犯四重禁、作五逆罪、一闡提等、みな仏性ありといふことあり〉と。{乃至}
 〈如来世尊、国土のためのゆゑに、時節のためのゆゑに、他語のためのゆゑに、人のためのゆゑに、衆根のためのゆゑに、一法のなかにおいて二種の説をなす。一名の法において無量の名を説く、一義のなかにおいて無量の名を説く、無量の義において無量の名を説く。
いかんが一名に無量の名を説くや。なほし涅槃のごとし。また涅槃と名づく、また無生と名づく、また無出と名づく、また無作と名づく、また無為と名づく、また帰依と名づく、また窟宅と名づく、また解脱と名づく、また光明と名づく、また灯明と名づく、また彼岸と名づく、また無畏と名づく、また無退と名づく、また安処と名づく、また寂静と名づく、また無相と名づく、また無二と名づく、また一行と名づく、また清涼と名づく、また無闇と名づく、また無碍と名づく、また無諍と名づく、また無濁と名づく、また広大と名づく、また甘露と名づく、また吉祥と名づく。これを一名に無量の名を作ると名づく。
いかんが一義に無量の名を説くや。なほし帝釈のごとし。{乃至}
いかんが無量の義において無量の名を説くやと。仏・如来の名のごとし。如来の義異名異とす、また阿羅呵と名づく、義異名異なり。また三藐三仏陀と名づく、義異名異なり。また船師と名づく、また導師と名づく、また正覚と名づく、また明行足と名づく、また大師子王と名づく、また沙門と名づく、また婆羅門と名づく、また寂静と名づく、また施主と名づく、また到彼岸と名づく、また大医王と名づく、また大象王と名づく、また大竜王と名づく、また施眼と名づく、また大力士と名づく、また大無畏と名づく、また宝聚と名づく、また商主と名づく、また得解脱と名づく、また大丈夫と名づく、また天人師と名づく、また大分陀利と名づく、また独無等侶と名づく、また大福田と名づく、また大智海と名づく、また無相と名づく、また具足八智と名づく。かくのごとき一切、義異名異なり。善男子、これを無量義のなかに無量の名を説くと名づく。
また一義に無量の名を説くことあり。いはゆる陰のごとし。また名づけて陰とす、また顛倒と名づく、また名づけて諦とす、また名づけて四念処とす、また四食と名づく、また四識住処と名づく、また名づけて有とす、また名づけて道とす、また名づけて時とす、また名づけて衆生とす、また名づけて世とす、また第一義と名づく、また三修と名づく、いはく身・戒・心なり。また因果と名づく、また煩悩と名づく、また解脱と名づく、また十二因縁と名づく、また声聞・辟支仏と名づく、仏をまた地獄・餓鬼・畜生・人・天と名づく、また過去・現在・未来と名づく。これを一義に無量の名を説くと名づく。
善男子、如来世尊、衆生のためのゆゑに、広のなかに略を説く、略のなかに広を説く。第一義諦を説きて世諦とす、世諦の法を説きて第一義諦とす〉」と。{略出}
【18】またのたまはく(涅槃経・梵行品)、「迦葉またまうさく、〈世尊、第一義諦をまた名づけて道とす、また菩提と名づく、また涅槃と名づく〉」と。{乃至}
【19】またのたまはく(同・迦葉品)、「善男子、われ『経』のなかに如来の身を説くに、おほよそ二種あり。一つには生身、二つには法身なり。生身といふは、すなはちこれ方便応化の身なり。かくのごときの身は、これ生老病死、長短黒白、是此是彼、是学無学といふことを得べし。わがもろもろの弟子、この説を聞きをはりて、わが意を解らざれば、唱へていはく、〈如来さだめて仏身はこれ有為の法なりと説かん〉と。
法身はすなはちこれ常楽我浄なり。永く一切生老病死、非白非黒、非長非短、非此非彼、非学非無学を離れたまへれば、もし仏の出世および不出世に、つねに動ぜずして変易あることなけん。善男子、わがもろもろの弟子この説を聞きをはりて、わが意を解らざれば、唱へていはく、〈如来さだめて仏身はこれ無為の法なりと説きたまへり〉」と。
【20】またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「わが所説の十二部経のごとし。あるいは随自意説、あるいは随他意説、あるいは随自他意説なり。{乃至}
善男子、わが所説のごとき、十住の菩薩少しき仏性を見る、これを随他意説と名づく。なにをもつてのゆゑに少見と名づくるや。十住の菩薩は首楞厳等の三昧、三千の法門を得たり。このゆゑに了了としてみづから阿耨多羅三藐三菩提を得べきことを知るも、一切衆生さだめて阿耨多羅三藐三菩提を得んことを見ず。このゆゑにわれ十住の菩薩、少分仏性を見ると説くなり。
善男子、つねに一切衆生悉有仏性と宣説する、これを随自意説と名づく。一切衆生不断不滅にして、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得る、これを随自意説と名づく。一切衆生はことごとく仏性あれども、煩悩覆へるがゆゑに見ることを得ることあたはずと。わが説かくのごとし、なんぢが説またしかなりと。これを随自他意説と名づく。善男子、如来あるときは一法のためのゆゑに無量の法を説く」と。{抄出}
【21】またのたまはく(同・師子吼品)、「〈一切覚者を名づけて仏性とす。十住の菩薩は名づけて一切覚とすることを得ざるがゆゑに、このゆゑに見るといへども明了ならず。
善男子、見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。諸仏世尊は眼に仏性を見そなはす、掌のうちにおいて阿摩勒菓を観ずるがごとし。十住の菩薩、仏性を聞見すれども、ことさらに了了ならず。十住の菩薩、ただよくみづからさだめて阿耨多羅三藐三菩提を得ることを知りて、一切衆生はことごとく仏性ありと知ることあたはず。
善男子、また眼見あり。諸仏如来なり。十住の菩薩は、仏性を眼見し、また聞見することあり。一切衆生乃至九地までに、仏性を聞見す。菩薩、もし一切衆生ことごとく仏性ありと聞けども、心に信を生ぜざれば、聞見と名づけず〉と。{乃至}
師子吼菩薩摩訶薩まうさく、〈世尊、一切衆生は如来の心相を知ることを得ることあたはず。まさにいかんが観じて知ることを得べきや〉と。〈善男子、一切衆生は実に如来の心相を知ることあたはず。もし観察して知ることを得んと欲はば、二つの因縁あり。一つには眼見、二つには聞見なり。
もし如来、所有の身業を見たてまつらんは、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来、所有の口業を観ぜん、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを聞見と名づく。
もし色貌を見たてまつること、一切衆生のともに等しきものなけん、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし音声微妙最勝なるを聞かん、衆生所有の音声には同じからじ、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを聞見と名づく。
もし如来、所作の神通を見たてまつらんに、衆生のためとやせん、利養のためとやせん。もし衆生のためにして利養のためにせず、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来を観ずるに、他心智をもつて衆生を観そなはすとき、利養のために説き、衆生のために説かん。もし衆生のためにして利養のためにせざらん、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを聞見と名づく〉」と。{略出}
【22】『浄土論』にいはく、「世尊、われ一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし」とのたまへり。{以上}
【23】『註論』(論註・下)にいはく、「〈荘厳清浄功徳成就とは、偈に、《観彼世界相勝過三界道》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。これいかんが不思議なるや。凡夫人、煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることを得るに、三界の繋業畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いづくんぞ思議すべきや」と。
【24】またいはく(論註・上)、「〈正道の大慈悲は、出世の善根より生ず〉(浄土論)とのたまへり。この二句は、荘厳性功徳成就と名づく。{乃至}
性はこれ本の義なり。いふこころは、これ浄土は法性に随順して法本に乖かず。事、『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ。
またいふこころは、積習して性を成ず。法蔵菩薩を指す。もろもろの波羅蜜を集めて積習して成ぜるところなり。
また性といふは、これ聖種性なり。序めに法蔵菩薩、世自在王仏の所にして無生忍を悟る。そのときの位を聖種性と名づく。この性のなかにおいて四十八の大願を発して、この土を修起したまへり。すなはち安楽浄土といふ、これかの因の所得なり。果のなかに因を説く。ゆゑに名づけて性とす。
また性といふは、これ必然の義なり、不改の義なり。海の性、一味にして衆流入るものかならず一味となつて、海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとしとなり。また人身の性不浄なるがゆゑに、種種の妙好色・香・美味、身に入りぬれば、みな不浄となるがごとし。
安楽浄土はもろもろの往生のひと、不浄の色なし、不浄の心なし、畢竟じてみな清浄平等無為法身を得しむ。安楽国土清浄の性、成就したまへるをもつてのゆゑなり。
〈正道の大慈悲は出世の善根より生ず〉といふは、平等の大道なり。平等の道を名づけて正道とするゆゑは、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるをもつてのゆゑに発心等し、発心等しきがゆゑに道等し、道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに、〈正道大慈悲〉とのたまへり。
慈悲に三縁あり。一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり。大悲はすなはちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆゑなればなり。ゆゑにこの大悲をいひて浄土の根とす。ゆゑに〈出世善根生〉といふなり」と。
【25】またいはく(論註・上)、「問うていはく、法蔵菩薩の本願(第十四願)、および龍樹菩薩の所讃(易行品)を尋ぬるに、みなかの国に声聞衆多なるをもつて奇とするに似たり。これなんの義かあるやと。
答へていはく、声聞は実際をもつて証とす。計るにさらによく仏道の根芽を生ずべからず。しかるを仏、本願の不可思議の神力をもつて、摂してかしこに生ぜしむるに、かならずまさにまた神力をもつて、それをして無上道心を生ぜしむべし。
たとへば鴆鳥、水に入れば魚蚌ことごとく死す、犀牛これに触るれば死するものみな活るがごとし。かくのごとき生ずべからずして生ぜしむ、このゆゑに奇とすべし。しかるに五不思議のなかに、仏法もつとも不可思議なり。仏よく声聞をしてまた無上道心を生ぜしめたまふ。まことに不可思議の至りなり」と。
【26】またいはく(論註・下)、「不可思議力とは、すべてかの仏国土の十七種荘厳功徳力不可得思議なることを指すなり。諸経に説きてのたまはく、〈五種の不可思議あり。一つには衆生多少不可思議、二つには業力不可思議、三つには竜力不可思議、四つには禅定力不可思議、五つには仏法力不可思議なり〉と。
このなかに仏土不可思議に二種の力あり。一つには業力、いはく法蔵菩薩の出世の善根と大願業力の所成なり。二つには正覚の阿弥陀法王のよく住持力をして摂したまふところなり」と。
【27】またいはく(同・下)、「自利利他を示現すといふは、〈略してかの阿弥陀仏の国土の十七種の荘厳功徳成就を説きつ。如来の自身利益大功徳力成就と利益他功徳成就とを示現したまへるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。
〈略〉といふは、かの浄土の功徳無量にして、ただ十七種のみにあらざることを彰すなり。それ須弥を芥子に入れ、毛孔に大海を納む、あに山海の神ならんや、毛芥の力ならんや、能神の人の神ならくのみ」と。
【28】またいはく(論註・下)、「〈なにものか荘厳不虚作住持功徳成就、偈に、《仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳大宝海を満足せしむ》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。
〈不虚作住持功徳成就〉とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。{乃至}いふところの〈不虚作住持〉は、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによりてなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力願あひ符うて、畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ」と。{抄出}
【29】『讃阿弥陀仏偈』にいはく、[曇鸞和尚の造]「南無阿弥陀仏[釈して『無量寿傍経』と名づく、讃めたてまつりてまた安養といふ。]成仏よりこのかた十劫を歴たまへり。寿命まさに量りあることなけん。法身の光輪、法界に遍して世の盲冥を照らす、ゆゑに頂礼したてまつる。
智慧の光明量るべからず、ゆゑに仏をまた無量光と号す。有量の諸相光暁を蒙る、このゆゑに真実明を稽首したてまつる。解脱の光輪限斉なし、ゆゑに仏をまた無辺光と号す。光触を蒙るもの有無を離る、このゆゑに平等覚を稽首したてまつる。
光、雲のごとくにして無碍なること虚空のごとし、ゆゑに仏をまた無碍光と号す。一切の有碍光沢を蒙る、このゆゑに難思議を頂礼したてまつる。清浄の光明、対あることなし、ゆゑに仏をまた無対光と号す。この光に遇ふものは業繋除こる、このゆゑに畢竟依を稽首したてまつる。
仏光照耀して最第一なり、ゆゑに仏をまた光炎王と号す。三塗の黒闇、光啓を蒙る、このゆゑに大応供を頂礼したてまつる。道光明朗にして色超絶したまへり、ゆゑに仏をまた清浄光と号す。ひとたび光照を蒙るに罪垢除こり、みな解脱を得しむ、ゆゑに頂礼したてまつる。
慈光はるかに被らしめ安楽を施す、ゆゑに仏をまた歓喜光と号す。光の至るところの処に法喜を得しむ、大安慰を稽首し頂礼したてまつる。仏光よく無明の闇を破す、ゆゑに仏をまた智慧光と号す。一切諸仏三乗衆、ことごとくともに嘆誉す、ゆゑに稽首したてまつる。
光明一切のときにあまねく照らす、ゆゑに仏をまた不断光と号す。聞光力のゆゑに心断えずして、みな往生を得しむ、ゆゑに頂礼したてまつる。その光、仏を除きてはよく測ることなけん、ゆゑに仏をまた難思光と号す。十方諸仏往生を嘆じ、その功徳を称せしむ、ゆゑに稽首したてまつる。
神光は相を離れたること名づくべからず、ゆゑに仏をまた無称光と号す。光によりて成仏したまふ、光赫然たり、諸仏の嘆じたまふところなり、ゆゑに頂礼したてまつる。光明照曜して日月に過ぎたり、ゆゑに仏を超日月光と号す。釈迦仏嘆じたまふことなほ尽きず、ゆゑにわれ無等等を稽首したてまつると。{乃至}
 本師龍樹摩訶薩、形を像始に誕じて、頽綱(頽の字、崩なり、破なり、落なり、纏なり)を理る。邪扇を関閉して正轍(轍の字、通なり、車なり、跡なり)を開く。これ閻浮提の一切の眼なり。尊語を伏承して歓喜地にして、阿弥陀に帰して安楽に生ぜしむ。
われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。やや、願はくは慈光われを護念して、われをして菩提心を失せざらしめたまへ。われ仏恵功徳の音を讃ず。願はくは十方のもろもろの有縁に聞かしめて、安楽に往生を得んと欲はんもの、あまねくみな意のごとくして障碍なからしめん。あらゆる功徳、もしは大小一切に回施して、ともに往生せしめん。不可思議光に南無し、一心に帰命し、稽首し礼したてまつる。
十方三世の無量慧、同じく一如に乗じて正覚と号す。二智円満して道平等なり。摂化すること縁に随ふ、まことに若干ならん。われ阿弥陀の浄土に帰するは、すなはちこれ諸仏の国に帰命するなり。われ一心をもつて一仏を讃ず、願はくは十方無碍人に遍せん。かくのごとき十方無量仏、ことごとくおのおの心を至して頭面に礼したてまつるなり」と。{以上抄出}
【30】光明寺の和尚(善導)いはく(玄義分)、「問うていはく、弥陀の浄国は、はたこれ報なりや、これ化なりとやせんと。答へていはく、これ報にして化にあらず。いかんが知ることを得る。『大乗同性経』に説くがごとし。〈西方の安楽阿弥陀仏は、これ報仏報土なり〉(意)と。
また『無量寿経』(上)にのたまはく、〈法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして、菩薩の道を行じたまひしとき、四十八願を発して、一一の願にのたまはく、《もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称して、わが国に生ぜんと願ぜん、下十念に至るまで、もし生ぜずは正覚を取らじ》〉(意)と。いますでに成仏したまへり、すなはちこれ酬因の身なり。
また『観経』のなかに、上輩の三人、命終のときに臨んで、みな〈阿弥陀仏および化仏と与に、この人を来迎す〉(意)とのたまへり。しかるに報身、化を兼ねてともに来りて手を授くと。ゆゑに名づけて〈与〉とす。この文証をもつてのゆゑに、知んぬ、これ報なりと。
 しかるに報・応二身とは眼目の異名なり。前には報を翻じて応となす、後には応を翻じて報となす。おほよそ報といふは、因行虚しからず、さだめて来果を招く。果をもつて因に応ず。ゆゑに名づけて報とす。また三大僧祇の所修の万行、必定して菩提を得べし。いますでに道、成ぜり、すなはちこれ応身なり。
これすなはち過・現の諸仏、三身を弁立す。これを除きて以外はさらに別の体ましまさず。たとひ無窮の八相、名号塵沙なりとも、体に剋して論ぜば、すべて化に帰して摂す。いまかの弥陀、現にこれ報なりと。
 問うていはく、すでに報といふは、報身常住にして永く生滅なし。なんがゆゑぞ『観音授記経』に説かく、〈阿弥陀仏また入涅槃のときあり〉(意)と。この一義いかんが通釈せんやと。
 答へていはく、入・不入の義は、ただこれ諸仏の境界なり。なほ三乗浅智の_ふところにあらず。あにいはんや、小凡たやすくよく知らんや。しかりといへども、かならず知らんと欲はば、あへて仏経を引きてもつて明証とせん。
いかんとならば『大品経』の〈涅槃非化品〉のなかに説きていふがごとし。〈仏、須菩提に告げたまはく、《なんぢが意においていかん。もし化人ありて化人をなす。この化すこぶる実事ありやいなや。空しきものなりやいなや》と。須菩提のまうさく、《いななり、世尊》と。
仏、須菩提に告げたまはく、《色すなはちこれ化なり、受・想・行・識すなはちこれ化なり、乃至一切種智すなはちこれ化なり》と。
須菩提、仏にまうしてまうさく、《世尊、もし世間の法これ化なりや、出世間の法またこれ化なりや。いはゆる四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚分・八聖道分・三解脱門、仏の十力・四無所畏・四無碍智・十八不共法、ならびに諸法の果および賢聖人、いはゆる須陀_・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏・菩薩摩訶薩・諸仏世尊、この法またこれ化なりやいなや》と。
仏、須菩提に告げたまはく、《一切の法はみなこれ化なり。この法のなかにおいて声聞の法の変化あり、辟支仏の法の変化あり、菩薩の法の変化あり、諸仏の法の変化あり、煩悩の法の変化あり、業因縁の法の変化あり。この因縁をもつてのゆゑに、須菩提、一切の法みなこれ化なり》とのたまへり。
須菩提、仏にまうしてまうさく、《世尊、このもろもろの煩悩断は、いはゆる須陀_果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果・辟支仏道は、もろもろの煩悩の習を断ず。みなこれ変化なりやいなや》と。仏、須菩提に告げたまはく、《もし法の生滅の相あるは、みなこれ変化なり》とのたまへり。
須菩提まうさく、《世尊、なんらの法か変化にあらざる》と。仏ののたまはく、《もし法の無生無滅なる、これ変化にあらず》と。須菩提まうさく、《なんらかこれ不生不滅にして変化にあらざる》と。仏ののたまはく、《誑相なき涅槃、この法変化にあらず》と。
《世尊、仏みづから説きたまふがごとき、諸法平等にして声聞の作にあらず、辟支仏の作にあらず、もろもろの菩薩摩訶薩の作にあらず、諸仏の作にあらず。有仏・無仏、諸法の性つねに空なり。性空なる、すなはちこれ涅槃なり。いかなるか涅槃の一法、化のごとくにあらざる》と。
仏、須菩提に告げたまはく、《かくのごとし、かくのごとし。諸法は平等にして声聞の所作にあらず、乃至性空なればすなはちこれ涅槃なり。もし新発意の菩薩、この一切の法みな畢竟じて性空なり、乃至涅槃もまたみな化のごとしと聞かば、心すなはち驚怖しなん。この新発意の菩薩のために、ことさらに生滅のものは化のごとし、不生不滅のものは化のごときにあらざるを分別するをや》〉と。
いますでにこの聖教をもつて、あきらかに知んぬ、弥陀はさだめてこれ報なり。たとひのちに涅槃に入らん、その義妨げなけん。もろもろの有智のもの、知るべしと。
 問うていはく、かの仏および土、すでに報といはば、報法高妙にして小聖階ひがたし。垢障の凡夫、いかんが入ることを得んやと。答へていはく、もし衆生の垢障を論ぜば、実に欣趣しがたし。まさしく仏願に託するによりて、もつて強縁となりて、五乗斉しく入らしむることを致す」と。
【31】またいはく(序分義)、「〈我今楽生弥陀〉より以下は、まさしく夫人(韋提希)別して所求を選ぶことを明かす。これは弥陀の本国、四十八願なることを明かす。願願みな増上の勝因を発せり、因によりて勝行を起せり、行によりて勝果を感ず、果によりて勝報を感成せり、報によりて極楽を感成せり、楽によりて悲化を顕通す、悲化によりて智慧の門を顕開せり。
しかるに悲心無尽にして、智また無窮なり。悲・智ならべ行じて、すなはち広く甘露を開けり。これによりて法潤あまねく群生を摂したまふなり。
諸余の経典に勧むるところ弥く多し。衆聖、心を斉しくして、みな同じく指讃したまふ。この因縁ありて、如来ひそかに夫人(韋提希)を遣はして、別して選ばしめたまふことを致すなり」と。
【32】またいはく(定善義)、「西方寂静無為の楽は、畢竟逍遥して有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること等しくして殊なることなし。帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到る処に余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢へてのち、かの涅槃の城に入らん」と。
【33】またいはく(法事讃・下)、「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善おそらくは生じがたし。ゆゑに如来(釈尊)、要法を選びて、教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり」と。
【34】またいはく(同・下)、「仏に従ひて逍遥して自然に帰す。自然はすなはちこれ弥陀の国なり。無漏無生、還りてすなはち真なり。行来進止につねに仏に随ひて、無為法性身を証得す」と。
【35】またいはく(同・下)、「弥陀の妙果をば、号して無上涅槃といふ」{以上抄出}
【36】憬興師のいはく(述文賛)、「無量光仏、[算数にあらざるがゆゑに。]無辺光仏、[縁として照らさざることなきがゆゑに。]
無碍光仏、[人法としてよく障ふることあることなきがゆゑに。]無対光仏、[もろもろの菩薩の及ぶところにあらざるがゆゑに。]
光炎王仏、[光明自在にしてさらに上となすことなきがゆゑに。]清浄光仏、[無貪の善根よりして現ずるがゆゑに、また衆生の貪濁の心を除くなり。貪濁の心なきがゆゑに清浄といふ。]
歓喜光仏、[無瞋の善根よりして生ずるがゆゑに、よく衆生の瞋恚盛心を除くがゆゑに。]智慧光仏、[無痴の善根の心より起れり。また衆生の無明品心を除くがゆゑに。]不断光仏、[仏の常光つねに照益をなすがゆゑに。]難思光仏、[もろもろの二乗の測度するところにあらざるがゆゑに。]
無称光仏、[また余乗等説くこと堪ふるところにあらざるがゆゑに。]超日月光仏、[日応じてつねに照らすこと周からず、娑婆一耀の光なるがゆゑに。]みなこれ光触を身に蒙るものは身心柔軟の願(第三十三願)の致すところなり」と。{以上抄要}
【37】しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。
惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。『経』(涅槃経・迦葉品)には、「われ十住の菩薩、少分、仏性を見ると説く」とのたまへり。ゆゑに知んぬ、安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。また『経』(涅槃経・迦葉品)には「衆生未来に清浄の身を具足し荘厳して、仏性を見ることを得」とのたまへり。
【38】『起信論』にいはく、「〈もし説くといへども、能説のありて説くべきもなく、また能念の念ずべきもなしと知るを、名づけて随順とす。もし念を離るるを名づけて得入とす〉と。
得入とは真如三昧なり。いかにいはんや、無念の位は妙覚にあり、けだしもつて了心は初生の相なり。しかも初相を知るといふは、いはゆる無念は菩薩十地の知るところにあらず。しかるに今の人、なほいまだ十信に階はず、すなはち馬鳴大士によらざらんや。〈説より無説に入り、念より無念に入る〉とのたまへり」と。{略抄}
【39】それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
 選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり。真仏といふは、『大経』(上)には「無辺光仏・無碍光仏」とのたまへり、また「諸仏中の王なり、光明中の極尊なり」(大阿弥陀経・上)とのたまへり。{以上}『論』(浄土論)には「帰命尽十方無碍光如来」といへり。
真土といふは、『大経』には「無量光明土」(平等覚経・二)とのたまへり、あるいは「諸智土」(如来会・下)とのたまへり。{以上}『論』(浄土論)には「究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし」といふなり。
往生といふは、『大経』(上)には「皆受自然虚無之身無極之体」とのたまへり。{以上}『論』(浄土論)には「如来浄華衆正覚華化生」といへり。また「同一念仏無別道故」(論註・下)といへり。{以上}また「難思議往生」(法事讃・上)といへるこれなり。
 仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。
真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。

顕浄土真仏土文類五

[無量寿仏観経の意なり]
至心発願の願[邪定聚の機]
      [双樹林下往生]
[阿弥陀経の意なり]
至心回向の願[不定聚の機]
      [難思往生]

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顕浄土方便化身土文類六
愚禿釈親鸞集

【1】つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。
【2】しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。
すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
【3】ここをもつて『大経』(上)の願(第十九願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、わが国に生ぜんと欲はん。寿終のときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」と。
【4】『悲華経』の「大施品」にのたまはく、「願はくはわれ阿耨多羅三藐三菩提を成りをはらんに、その余の無量無辺阿僧祇の諸仏世界の所有の衆生、もし阿耨多羅三藐三菩提心を発し、もろもろの善根を修して、わが界に生ぜんと欲はんもの、臨終のとき、われまさに大衆と囲繞して、その人の前に現ずべし。その人、われを見て、すなはちわが前にして心に歓喜を得ん。われを見るをもつてのゆゑに、もろもろの障碍を離れて、すなはち身を捨ててわが界に来生せしめん」と。{以上}
【5】この願(第十九願)成就の文は、すなはち三輩の文これなり、『観経』の定散九品の文これなり。
【6】また『大経』(上)にのたまはく、「また無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里なり。その本、周囲五十由旬なり。枝葉四に布きて二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝の衆宝の王たるをもつて、これを荘厳せり。{乃至}
阿難、もしかの国の人・天、この樹を見るものは三法忍を得ん。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆゑに、本願力のゆゑに、満足願のゆゑに、明了願のゆゑに、堅固願のゆゑに、究竟願のゆゑなりと。{乃至}
また講堂・精舎・宮殿・楼観、みな七宝をもつて荘厳し、自然に化成せり。また真珠・明月摩尼衆宝をもつて、もつて交露とす、その上に覆蓋せり。内外左右にもろもろの浴池あり。十由旬、あるいは二十・三十乃至百千由旬なり。縦広深浅、おのおのみな一等なり。八功徳水、湛然として盈満せり。清浄香潔にして味はひ甘露のごとし」と。
【7】またのたまはく(大経・下)、「それ胎生のものは、処するところの宮殿、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにして、もろもろの快楽を受くること_利天上のごとし。またみな自然なり。
そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、〈世尊、なんの因なんの縁あつてか、かの国の人民、胎生・化生なる〉と。
仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生ありて、疑惑の心をもつて、もろもろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかもなほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。
このもろもろの衆生、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞聖衆を見ず。このゆゑにかの国土にはこれを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし、かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに、その胎生のものはみな智慧なきなり〉と。{乃至}
仏、弥勒に告げたまはく、〈たとへば転輪聖王のごとし。七宝の牢獄あり。種種に荘厳し床帳を張設し、もろもろの_幡を懸けたらん。もしもろもろの小王子、罪を王に得たらん、すなはちかの獄のうちに内れて、繋ぐに金鎖をもつてせん〉と。{乃至}
仏、弥勒に告げたまはく、〈このもろもろの衆生、またまたかくのごとし。仏智を疑惑するをもつてのゆゑに、かの胎宮に生れん。{乃至}もしこの衆生、その本の罪を識りて、深くみづから悔責して、かの処を離るることを求めん。{乃至}弥勒まさに知るべし、それ菩薩ありて疑惑を生ぜば、大利を失すとす〉」と。{以上抄出}
【8】『如来会』(下)にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈もし衆生ありて、疑悔に随ひて善根を積集して、仏智・普遍智・不思議智・無等智・威徳智・広大智を希求せん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。この因縁をもつて、五百歳において宮殿のうちに住せん。{乃至}
阿逸多(弥勒)、なんぢ殊勝智のものを観ずるに、かれは広慧の力によるがゆゑに、かの蓮華のなかに化生することを受けて結跏趺座せん。なんぢ下劣の輩を観ずるに、{乃至}もろもろの功徳を修習することあたはず。ゆゑに因なくして無量寿仏に奉事せん。このもろもろの人等は、みな昔の縁、疑悔をなして致すところなればなり〉と。{乃至}
仏、弥勒に告げたまはく、〈かくのごとし、かくのごとし。もし疑悔に随ひて、もろもろの善根を種ゑて、仏智乃至広大智を希求することあらん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。仏の名を聞くによりて信心を起すがゆゑに、かの国に生ずといへども、蓮華のうちにして出現することを得ず。かれらの衆生、華胎のうちに処すること、なほ園苑宮殿の想のごとし〉」と。{抄要}
【9】『大経』(下)にのたまはく、「もろもろの小行の菩薩、および少功徳を修習するもの、称計すべからず。みなまさに往生すべし」と。
【10】またのたまはく(如来会・下)、「いはんや余の菩薩、少善根によりて、かの国に生ずるもの称計すべからず」と。{以上}
【11】光明寺(善導)の釈(定善義)にいはく、「華に含みていまだ出でず。あるいは辺界に生じ、あるいは宮胎に堕せん」と。{以上}
【12】憬興師のいはく(述文賛)、「仏智を疑ふによりて、かの国に生れて、辺地にありといへども、聖化の事を被らず。もし胎生せばよろしくこれを重く捨つべし」と。{以上}
【13】首楞厳院(源信)の『要集』(下)に、感禅師(懐感)の釈(群疑論)を引きていはく、「問ふ。『菩薩処胎経』の第二に説かく、〈西方この閻浮提を去ること、十二億那由他に懈慢界あり。{乃至}意を発せる衆生、阿弥陀仏国に生ぜんと欲ふもの、みな深く懈慢国土に着して、前進んで阿弥陀仏国に生ずることあたはず。億千万の衆、時に一人ありて、よく阿弥陀仏国に生ず〉と、云云。この『経』をもつて准難するに、生ずることを得べしやと。
答ふ。『群疑論』に善導和尚の前の文を引きて、この難を釈して、またみづから助成していはく、〈この『経』の下の文にいはく、《なにをもつてのゆゑに、みな懈慢によりて執心牢固ならず》と。ここに知んぬ、雑修のものは執心不牢の人とす。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}
また報の浄土に生ずるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生ずるものは少なからず。ゆゑに『経』の別説、実に相違せざるなり〉」と。{以上略抄}
【14】しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。
【15】問ふ。『大本』(大経)の三心と『観経』の三心と一異いかんぞや。答ふ。釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。
顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。
彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。 
 ここをもつて『経』(観経)には、「教我観於清浄業処」といへり。「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。「教我思惟」といふは、すなはち方便なり。「教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。
「諦観彼国浄業成者」といへり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。「広説衆譬」といへり、すなはち十三観これなり。「汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。
「諸仏如来有異方便」といへり、すなはちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。「以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。「若仏滅後諸衆生等」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。「若有合者名為粗想」といへり、これ定観成じがたきことを顕すなり。
「於現身中得念仏三昧」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。
「発三種心即便往生」といへり。また「復有三種衆生当得往生」といへり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。
 まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。二経(大経・観経)の三心、まさに一異を談ぜんとす、よく思量すべきなり。『大経』・『観経』、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり、知るべし。
【16】しかれば光明寺の和尚(善導)のいはく(玄義分)、「しかるに娑婆の化主(釈尊)、その請によるがゆゑに、すなはち広く浄土の要門を開く。安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰す。その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。定はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。散はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願せよとなり。弘願といふは『大経』の説のごとし」といへり。
【17】またいはく(玄義分)、「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗とす、また念仏三昧をもつて宗とす。一心に回願して浄土に往生するを体とす。教の大・小といふは、問うていはく、この経は二蔵のなかには、いづれの蔵にか摂する、二教のなかには、いづれの教にか収むるやと。答へていはく、いまこの『観経』は菩薩蔵に収む。頓教の摂なり」と。
【18】またいはく(序分義)、「また如是といふは、すなはちこれは法を指す、定散両門なり。是はすなはち定むる辞なり。機、行ずればかならず益す。これは如来の所説の言、錯謬なきことを明かす。ゆゑに如是と名づく。
また如といふは衆生の意のごとしとなり。心の所楽に随ひて、仏すなはちこれを度したまふ。機教相応せるをまた称して是とす。ゆゑに如是といふ。
また如是といふは、如来の所説を明かさんと欲す。漸を説くことは漸のごとし、頓を説くことは頓のごとし。相を説くことは相のごとし、空を説くことは空のごとし。人法を説くこと人法のごとし、天法を説くこと天法のごとし。小を説くこと小のごとし、大を説くこと大のごとし。凡を説くこと凡のごとし、聖を説くこと聖のごとし。因を説くこと因のごとし、果を説くこと果のごとし。苦を説くこと苦のごとし、楽を説くこと楽のごとし。遠を説くこと遠のごとし、近を説くこと近のごとし。同を説くこと同のごとし、別を説くこと別のごとし。浄を説くこと浄のごとし、穢を説くこと穢のごとし。
一切の法を説くこと千差万別なり。如来の観知、歴歴了然として、心に随ひて行を起して、おのおの益すること同じからず。業果法然としてすべて錯失なし、また称して是とす。ゆゑに如是といふ」と。
【19】またいはく(序分義)、「〈欲生彼国者〉より、下〈名為浄業〉に至るまでこのかたは、まさしく三福の行を勧修することを明かす。これは一切衆生の機に二種あることを明かす。一つには定、二つには散なり。もし定行によれば、すなはち生を摂するに尽きず。これをもつて如来方便して三福を顕開して、もつて散動の根機に応じたまへり」と。
【20】またいはく(散善義)、「また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。
自利真実といふは、また二種あり。一つには、真実心のうちに自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住座臥に、一切菩薩の諸悪を制捨するに同じく、われもまたかくのごとくせんと想ふ。二つには、真実心のうちに自他・凡聖等の善を勤修す。
真実心のうちの口業に、かの阿弥陀仏および依正二報を讃嘆す。また真実心のうちの口業に、三界・六道等の自他の依正二報の苦悪のことを毀厭す。また一切衆生の三業所為の善を讃嘆す。もし善業にあらずは、つつしんでこれを遠ざかれ、また随喜せざれとなり。
また真実心のうちの身業に、合掌し、礼敬し、四事等をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を供養す。また真実心のうちの身業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。
また真実心のうちの意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し、観察し、憶念して、目の前に現ぜるがごとくす。また真実心のうちの意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賎し厭捨すと。{乃至}
 また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。{乃至}また深心の深信とは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永く疑錯を除きて、一切の別解・別行・異学・異見・異執のために退失傾動せられざるなりと。{乃至}
 次に行について信を立てば、しかるに行に二種あり。一つには正行、二つには雑行なり。
正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるものは、これを正行と名づく。なにものかこれや。一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦する。一心にかの国の二報荘厳を専注し思想し観察し憶念する。もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼する。もし口に称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称せよ。もし讃嘆供養せばすなはち一心にもつぱら讃嘆供養する。これを名づけて正とす。
またこの正のなかについて、また二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥に時節の久近を問はず、念念に捨てざるものは、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼誦等によるは、すなはち名づけて助業とす。この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。
もし前の正助二行を修するは、心つねに親近し、憶念断えず、名づけて無間とす。もし後の雑行を行ずるは、すなはち心つねに間断す。回向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。
 三つには回向発願心。回向発願心といふは、過去および今生の身口意業に修するところの世・出世の善根、および他の一切の凡聖の身口意業に修するところの世・出世の善根を随喜して、この自他所修の善根をもつて、ことごとくみな真実の深信の心のうちに回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑに回向発願心と名づくるなり」と。
【21】またいはく(序分義)、「定善は観を示す縁なり」と。
【22】またいはく(同)、「散善は行を顕す縁なり」と。
【23】またいはく(散善義)、「浄土の要逢ひがたし」と。{文抄出}
【24】またいはく(礼讃)、「『観経』の説のごとし。まづ三心を具してかならず往生を得。なんらをか三つとする。一つには至誠心。いはゆる身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す。おほよそ三業を起すに、かならず真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。{乃至}
三つには回向発願心。所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず、ゆゑに回向発願心と名づく。この三心を具してかならず生ずることを得るなり。もし一心少けぬればすなはち生ずることを得ず。『観経』につぶさに説くがごとし、知るべしと。{乃至}
 また菩薩はすでに生死を勉れて、所作の善法回して仏果を求む、すなはちこれ自利なり。衆生を教化して未来際を尽す、すなはちこれ利他なり。しかるに今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繋縛せられて、いまだ悪道生死等の苦を勉れず。
縁に随ひて行を起して、一切の善根つぶさにすみやかに回して、阿弥陀仏国に往生せんと願ぜん。かの国に到りをはりて、さらに畏るるところなけん。上のごときの四修、自然任運にして、自利利他具足せざることなしと、知るべし」と。
【25】またいはく(礼讃)、「もし専を捨てて雑業を修せんとするものは、百は時に希に一二を得、千は時に希に五三を得。
なにをもつてのゆゑに、いまし雑縁乱動す、正念を失するによるがゆゑに、仏の本願と相応せざるがゆゑに、教と相違せるがゆゑに、仏語に順ぜざるがゆゑに、係念相続せざるがゆゑに、憶想間断するがゆゑに、回願慇重真実ならざるがゆゑに、貪瞋諸見の煩悩来り間断するがゆゑに、慚愧・懺悔の心あることなきがゆゑに。
懺悔に三品あり。{乃至}上・中・下なり。上品の懺悔とは、身の毛孔のうちより血を流し、眼のうちより血出すをば上品の懺悔と名づく。中品の懺悔とは、遍身に熱き汗毛孔より出づ、眼のうちより血の流るるをば中品の懺悔と名づく。下品の懺悔とは、遍身徹り熱く、眼のうちより涙出づるをば下品の懺悔と名づく。
これらの三品、差別ありといへども、これ久しく解脱分の善根を種ゑたる人なり。今生に法を敬ひ、人を重くし、身命を惜しまず、乃至小罪ももし懺すれば、すなはちよく心髄に徹りて、よくかくのごとく懺すれば、久近を問はず、諸有の重障みなたちまちに滅尽せしむることを致す。
もしかくのごとくせざれば、たとひ日夜十二時、急に走むれども、つひにこれ益なし。差うてなさざるものは知んぬべし。流涙・流血等にあたはずといへども、ただよく真心徹到するものは、すなはち上と同じ」と。{以上}
【26】またいはく(観念法門)、「すべて余の雑業の行者を照摂すと論ぜず」と。
【27】またいはく(法事讃・下)、「如来五濁に出現して、宜しきに随ひて方便して群萌を化したまふ。あるいは多聞にして得度すと説き、あるいは少しき解りて三明を証すと説く。あるいは福慧ならべて障を除くと教へ、あるいは禅念して座して思量せよと教ふ。種種の法門みな解脱す」と。
【28】またいはく(般舟讃)、「万劫功を修せんことまことに続きがたし。一時に煩悩百たび千たび間はる。もし娑婆にして法忍を証せんことを待たば、六道にして恒沙の劫にもいまだ期あらじ。門門不同なるを漸教と名づく。万劫苦行して無生を証す。
畢命を期としてもつぱら念仏すべし。須臾に命断ゆれば、仏迎へ将てまします。一食の時なほ間あり、いかんが万劫貪瞋せざらん。貪瞋は人・天を受くる路を障ふ。三悪・四趣のうちに身を安んず」と。{抄要}
【29】またいはく(般舟讃)、「定散ともに回して宝国に入れ。すなはちこれ如来の異の方便なり。韋提はすなはちこれ女人の相、貪瞋具足の凡夫の位なり」と。{以上}
【30】『論の註』(上)にいはく、「二種の功徳相あり。一つには有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫・人・天の諸善、人・天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。ゆゑに不実の功徳と名づく」と。{以上}
【31】『安楽集』(上)にいはく、「『大集経』の「月蔵分」を引きていはく、〈わが末法の時のなかに、億億の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るものあらじ〉と。当今は末法なり。この五濁悪世には、ただ浄土の一門ありて、通入すべき路なり」と。
【32】またいはく(同・下)、「いまだ一万劫を満たざるこのかたは、つねにいまだ火宅を勉れず、顛倒墜堕するがゆゑに。おのおの功を用ゐることは至りて重く、獲る報は偽なり」と。{以上}
【33】しかるに、いま『大本』(大経)によるに、真実・方便の願を超発す。また『観経』には、方便・真実の教を顕彰す。『小本』(小経)には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなはちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。
 これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。
この要門より正・助・雑の三行を出せり。この正助のなかについて、専修あり雑修あり。機について二種あり。一つには定機、二つには散機なり。また二種の三心あり。また二種の往生あり。二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。定散の心はすなはち自利各別の心なり。二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。便往生とはすなはちこれ胎生・辺地、双樹林下の往生なり。即往生とはすなはちこれ報土化生なり。
またこの『経』(観経)に真実あり。これすなはち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。
ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり、如来の誓願、疑蓋雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。『観経』には「深心」と説けり、諸機の浅信に対せるがゆゑに深とのたまへるなり。『小本』(小経)には「一心」とのたまへり、二行雑はることなきがゆゑに一とのたまへるなり。また一心について深あり浅あり。深とは利他真実の心これなり、浅とは定散自利の心これなり。
【34】宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分)といへり。
しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。
「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。
【35】おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。
【36】それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
また雑行について、専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。専行とはもつぱら一善を修す、ゆゑに専行といふ。専心とは回向をもつぱらにするがゆゑに専心といへり。雑行・雑心とは、諸善兼行するがゆゑに雑行といふ、定散心雑するがゆゑに雑心といふなり。
また正・助について専修あり雑修あり。この雑修について専心あり雑心あり。専修について二種あり。一つにはただ仏名を称す、二つには五専あり。この行業について専心あり雑心あり。
五専とは、一つには専礼、二つには専読、三つには専観、四つには専称、五つには専讃嘆なり。これを五専修と名づく。専修、その言一つにして、その意これ異なり。すなはちこれ定専修なり、また散専修なり。専心とは、五正行をもつぱらにして、二心なきがゆゑに専心といふ。すなはちこれ定専心なり、またこれ散専心なり。
雑修とは、助正兼行するがゆゑに雑修といふ。雑心とは、定散の心雑するがゆゑに雑心といふなり、知るべし。
 おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集・下)といひ、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す。感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)といへり。信和尚(源信)は感師により、空聖人(源空)は導和尚によりたまふ。
経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教、欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。
 二経の三心、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり。三心一異の義、答へをはんぬ。
【37】また問ふ。『大本』(大経)と『観経』の三心と、『小本』(小経)の一心と、一異いかんぞや。
 答ふ。いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり。願とはすなはち植諸徳本の願これなり。行とはこれに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。信とはすなはち至心・回向・欲生の心これなり。[二十願なり]機について定あり散あり。往生とはこれ難思往生これなり。仏とはすなはち化身なり。土とはすなはち疑城胎宮これなり。
『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。
ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。これはこれこの『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。
彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。釈(法事讃・下)に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ隠彰の義を開くなり。
『経』(小経)に「執持」とのたまへり。また「一心」とのたまへり。「執」の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり。「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり。「心」の言は真実に名づくるなり。この『経』(小経)は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。
ここをもつて四依弘経の大士、三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。
三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。真心はすなはちこれ大信心なり。
大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。なにをもつてのゆゑに、大信心海ははなはだもつて入りがたし、仏力より発起するがゆゑに。真実の楽邦はなはだもつて往き易し、願力によりてすなはち生ずるがゆゑなり。
いままさに一心一異の義を談ぜんとす、まさにこの意なるべしと。三経一心の義、答へをはんぬ。
【38】それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。真門の方便につきて、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。
雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもつて名号を称念す。まことに教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。ゆゑに雑心といふなり。定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。
善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。徳本とは如来の徳号なり。この徳号は一声称念するに、至徳成満し衆禍みな転ず、十方三世の徳号の本なり。ゆゑに徳本といふなり。
しかればすなはち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまふ。阿弥陀如来はもと果遂の誓[この果遂の願とは二十願なり]を発して、諸有の群生海を悲引したまへり。すでにして悲願います。植諸徳本の願と名づく、また係念定生の願と名づく、また不果遂者の願と名づく、また至心回向の願と名づくべきなり。
【39】ここをもつて『大経』(上)の願(第二十願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係けて、もろもろの徳本を植ゑて、心を至し回向して、わが国に生ぜんと欲はん、果遂せずは正覚を取らじ」と。
【40】またのたまはく(同・下)、「この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生ず」と。
【41】またのたまはく(同・下)、「もしひと善本なければ、この経を聞くことを得ず。清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲ん」と。{以上}
【42】『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「もしわれ成仏せんに、無量国のなかの所有の衆生、わが名を説かんを聞きて、もつておのれが善根として極楽に回向せん。もし生れずは菩提を取らじ」と。{以上}
【43】『平等覚経』(二)にのたまはく、「この功徳あるにあらざる人は、この経の名を聞くことを得ず。ただ清浄に戒を有てるもの、いまし還りてこの正法を聞く。悪と_慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。宿世のときに仏を見たてまつれるもの、楽みて世尊の教を聴聞せん。人の命まれに得べし。仏は世にましませどもはなはだ値ひがたし。信慧ありて致るべからず。もし聞見せば精進して求めよ」と。{以上}
【44】『観経』にのたまはく、「仏阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」と。{以上}
【45】『阿弥陀経』にのたまはく、「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず。阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持せよ」と。{以上}
【46】光明寺の和尚(善導)のいはく(定善義)、「自余の衆行、これ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、まつたく比校にあらざるなり。このゆゑに、諸経のなかに処処に広く念仏の功能を讃めたり。
『無量寿経』の四十八願のなかのごとき、〈ただ弥陀の名号を専念して生ずることを得〉と明かす。また『弥陀経』のなかのごとし、〈一日・七日弥陀の名号を専念して生ずることを得〉と。また十方恒沙の諸仏の証誠虚しからざるなり。またこの『経』(観経)の定散の文のなかに、〈ただ名号を専念して生ずることを得〉と標す。この例一つにあらざるなり。広く念仏三昧を顕しをはんぬ」と。
【47】またいはく(散善義)、「また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信せよと。{乃至}
諸仏は言行あひ違失したまはず。たとひ釈迦一切凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後さだめてかの国に生るるといふは、すなはち十方の諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。なにをもつてのゆゑに、同体の大悲のゆゑに。一仏の所化はすなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化はすなはちこれ一仏の所化なり。
すなはち『弥陀経』のなかに説かく、{乃至}また一切凡夫を勧めて〈一日・七日、一心にして弥陀の名号を専念すれば、さだめて往生を得ん〉と。次下の文にいはく、十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦を讃めたまはく、〈よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪煩悩・悪邪・無信の盛んなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励して称念せしむれば、かならず往生を得〉と。すなはちその証なり。
また十方仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことをおそれて、すなはちともに同心・同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、〈なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念すれば、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。
このゆゑに一仏の所説は、一切仏同じくその事を証誠したまふなり。これを人について信を立つと名づくるなり」と。{抄要}
【48】またいはく(散善義)、「しかるに仏願の意を望むには、ただ正念を勧め、名を称せしむ。往生の義、疾きことは雑散の業には同じからず。この経および諸部のなかに、処処に広く嘆ずるがごときは、勧めて名を称せしむるをまさに要益とせんとするなり、知るべし」と。
【49】またいはく(同)、「〈仏告阿難汝好持是語〉より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願の意を望まんには、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称するにあり」と。
【50】またいはく(法事讃・下)、「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善、おそらくは生じがたし。ゆゑに如来、要法を選びて教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり」と。
【51】またいはく(同・下)、「劫尽きなんと欲するとき、五濁盛んなり。衆生邪見にしてはなはだ信じがたし。もつぱらにしてもつぱらなれと指授して西路に帰せしめしに、他のために破壊せられて還りて故のごとし。曠劫よりこのかたつねにかくのごとし。これ今生に始めてみづから悟るにあらず。まさしくよき強縁に遇はざるによりて、輪廻して得度しがたからしむることを致す」と。
【52】またいはく(同・下)、「種種の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるは無し。上一形を尽し、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまふ。ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」と。
【53】またいはく(般舟讃)、「一切如来方便を設けたまふこと、また今日の釈迦尊に同じ。機に随ひて法を説くにみな益を蒙る。おのおの悟解を得て真門に入れと。{乃至}仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機不同なるがためなり。安身常住の処を覓めんと欲はば、まづ要行を求めて真門に入れ」と。
【54】またいはく[智昇師の『礼懺儀』の文にいはく光明寺(善導)の『礼讃』なり]「それこのごろ、みづから諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専・雑、異あり。ただ意をもつぱらにしてなさしむれば、十はすなはち十ながら生ず。雑を修するは至心ならざれば、千がなかに一もなし」と。{以上}
【55】元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。
むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。{以上}
【56】孤山の『疏』(阿弥陀経義疏)にいはく、「執持名号とは、執はいはく執受なり、持はいはく住持なり。信力のゆゑに執受心にあり、念力のゆゑに住持して忘れず」と。{以上}
【57】『大本』(大経・下)にのたまはく、「如来の興世、値ひがたく見たてまつりがたし。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞きよく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持すること、難のなかの難、これに過ぎて難きはなけん。このゆゑにわが法かくのごとくなしき、かくのごとく説く、かくのごとく教ふ。まさに信順して法のごとく修行すべし」と。{以上}
【58】『涅槃経』(迦葉品)にのたまはく、「経のなかに説くがごとし。〈一切の梵行の因は善知識なり。一切梵行の因無量なりといへども、善知識を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ〉。わが所説のごとし、〈一切の悪行は邪見なり。一切悪行の因無量なりといへども、もし邪見を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ〉。あるいは説かく、〈阿耨多羅三藐三菩提は信心を因とす。これ菩提の因また無量なりといへども、もし信心を説けばすなはちすでに摂尽しぬ〉」と。
【59】またのたまはく(同・迦葉品)、「善男子、信に二種あり。一つには信、二つには求なり。かくのごときの人、また信ありといへども、推求にあたはざる、このゆゑに名づけて信不具足とす。信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて思より生ぜざる、このゆゑに名づけて信不具足とす。
また二種あり。一つには道あることを信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道あることを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず、これを名づけて信不具足とす。
また二種あり。一つには信正、二つには信邪なり。因果あり、仏法僧ありといはん、これを信正と名づく。因果なく、三宝の性異なりといひて、もろもろの邪語、富蘭那等を信ずる、これを信邪と名づく。この人、仏法僧宝を信ずといへども、三宝同一の性相を信ぜず。因果を信ずといへども得者を信ぜず。このゆゑに名づけて信不具足とす。この人、不具足信を成就すと。{乃至}
善男子、四つの善事あり、悪果を獲得せん。なんらをか四つとする。一つには勝他のためのゆゑに経典を読誦す。二つには利養のためのゆゑに禁戒を受持せん。三つには他属のためのゆゑにして布施を行ぜん。四つには非想非非想処のためのゆゑに繋念思惟せん。この四つの善事、悪果報を得ん。
もし人、かくのごときの四事を修習せん、これを、没して没しをはりて還りて出づ、出でをはりて還りて没すと名づく。なんがゆゑぞ没と名づくる、三有を楽ふがゆゑに。なんがゆゑぞ出と名づくる、明を見るをもつてのゆゑに。明はすなはちこれ戒・施・定を聞くなり。なにをもつてのゆゑに還りて出没するや。邪見を増長し_慢を生ずるがゆゑに。
このゆゑに、われ経のなかにおいて偈を説かく、〈もし衆生ありて諸有を楽んで、有のために善悪の業を造作する。この人は涅槃道を迷失するなり。これを暫出還復没と名づく。黒闇生死海を行じて、解脱を得といへども、煩悩を雑するは、この人還りて悪果報を受く。これを暫出還復没と名づく〉と。
 如来にすなはち二種の涅槃あり。一つには有為、二つには無為なり。有為涅槃は常楽我浄なし、無為涅槃は常楽我浄あり。〔乃至〕この人深くこの二種の戒ともに善果ありと信ず。このゆゑに名づけて戒不具足となす。この人は信・戒の二事を具せず。所修の多聞もまた不具足なり。
いかなるをか名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず、このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといへども、読誦にあたはずして他のために解説するは、利益するところなけん。このゆゑに名づけて聞不具足とす。
またこの六部の経を受けをはりて、論議のためのゆゑに、勝他のためのゆゑに、利養のためのゆゑに、諸有のためのゆゑに、持読誦説せん。このゆゑに名づけて聞不具足とす」と。{略抄}
【60】またのたまはく(涅槃経・徳王品)、「善男子、第一真実の善知識は、いはゆる菩薩・諸仏なり。世尊、なにをもつてのゆゑに、つねに三種の善調御をもつてのゆゑなり。なんらをか三つとする。一つには畢竟軟語、二つには畢竟呵責、三つには軟語呵責なり。この義をもつてのゆゑに、菩薩・諸仏はすなはちこれ真実の善知識なり。
また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆゑに、善知識と名づく。なにをもつてのゆゑに、病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆゑに。たとへば良医の善き八種の術のごとし。まづ病相を観ず。相に三種あり。なんらをか三つとする。いはく風・熱・水なり。風病の人にはこれに蘇油を授く。熱病の人にはこれに石蜜を授く。水病の人にはこれに薑湯を授く。病根を知るをもつて薬を授くるに、差ゆることを得。ゆゑに良医と名づく。仏および菩薩もまたまたかくのごとし。
もろもろの凡夫の病を知るに三種あり。一つには貪欲、二つには瞋恚、三つには愚痴なり。貪欲の病には教へて骨相を観ぜしむ。瞋恚の病には慈悲の相を観ぜしむ。愚痴の病には十二縁相を観ぜしむ。この義をもつてのゆゑに諸仏・菩薩を善知識と名づく。
善男子、たとへば船師のよく人を度するがゆゑに大船師と名づくるがごとし。諸仏・菩薩もまたまたかくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。この義をもつてのゆゑに善知識と名づく」と。{抄出}
【61】『華厳経』(入法界品・唐訳)にのたまはく、「なんぢ善知識を念ずるに、われを生める、父母のごとし。われを養ふ、乳母のごとし。菩提分を増長す、衆の疾を医療するがごとし。天の甘露を灑ぐがごとし。日の正道を示すがごとし。月の浄輪を転ずるがごとし」と。
【62】またのたまはく(同・入法界品・唐訳)、「如来大慈悲、世間に出現して、あまねくもろもろの衆生のために、無上法輪を転じたまふ。如来無数劫に勤苦せしことは衆生のためなり。いかんぞもろもろの世間、よく大師の恩を報ぜん」と。{以上}
【63】光明寺の和尚(善導)のいはく(般舟讃)、「ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。浄土対面してあひ忤はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。意専心にして回すると回せざるとにあり。
あるいはいはく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いづれの時いづれの劫にか娑婆を出でん。いかんしてか、今日宝国に至ることを期せん。まことにこれ娑婆本師の力なり。もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土いかんしてか入らん。浄土に生ずることを得て慈恩を報ぜよ」と。
【64】またいはく(礼讃)、「仏の世にはなはだ値ひがたし。人信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまたもつとも難しとす。みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きなかにうたたまた難し。大悲弘く[弘の字、智昇法師の『懺儀』の文なり]あまねく化するは、まことに仏恩を報ずるに成る」と。
【65】またいはく(法事讃・下)、「帰去来、他郷には停まるべからず。仏に従ひて本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願、自然に成ず。悲喜交はり流る。深くみづから度るに、釈迦仏の開悟によらずは、弥陀の名願いづれの時にか聞かん。仏の慈恩を荷なひても、実に報じがたし」と。
【66】またいはく(同・下)、「十方六道、同じくこれ輪廻して際なし、循循として愛波に沈みて苦海に沈む。仏道人身得がたくしていますでに得たり。浄土聞きがたくしていますでに聞けり。信心発しがたくしていますでに発せり」と。{以上}
【67】まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
 悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。
おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
【68】ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるにいま、ことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。
ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を_うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。
【69】まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。
【70】ここをもつて経家によりて師釈を披きたるに、「説人の差別を弁ぜば、おほよそ諸経の起説、五種に過ぎず。一つには仏説、二つには聖弟子説、三つには天仙説、四つには鬼神説、五つには変化説なり」(玄義分)と。しかれば四種の所説は信用にたらず。この三経はすなはち大聖(釈尊)の自説なり。
【71】『大論』(大智度論)に四依を釈していはく、「涅槃に入りなんとせしとき、もろもろの比丘に語りたまはく、〈今日より法に依りて人に依らざるべし、義に依りて語に依らざるべし、智に依りて識に依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし。
法に依るとは、法に十二部あり、この法に随ふべし、人に随ふべからず。義に依るとは、義のなかに好悪・罪福・虚実を諍ふことなし、ゆゑに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。
人指をもつて月を指ふ、もつてわれを示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人語りていはん、《われ指をもつて月を指ふ、なんぢをしてこれを知らしむ、なんぢなんぞ指を看て、しかうして月を視ざるや》と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもつてのゆゑに、語に依るべからず。
智に依るとは、智はよく善悪を籌量し分別す。識はつねに楽を求む、正要に入らず。このゆゑに識に依るべからずといへり。了義経に依るとは、一切智人います、仏第一なり。一切諸経書のなかに仏法第一なり。一切衆のなかに比丘僧第一なり〉と。無仏世の衆生を、仏これを重罪としたまへり、見仏の善根を種ゑざる人なり」と。{以上}
【72】しかれば末代の道俗、よく四依を知りて法を修すべきなりと。
【73】しかるに正真の教意によつて古徳の伝説を披く。聖道・浄土の真仮を顕開して、邪偽・異執の外教を教誡す。如来涅槃の時代を勘決して正・像・末法の旨際を開示す。
【74】ここをもつて玄中寺の綽和尚(道綽)のいはく(安楽集・下)、「しかるに修道の身、相続して絶えずして、一万劫を経てはじめて不退の位を証す。
当今の凡夫は現に信想軽毛と名づく、また仮名といへり、また不定聚と名づく、また外の凡夫と名づく。いまだ火宅を出でず。なにをもつて知ることを得んと。『菩薩瓔珞経』によりて、つぶさに入道行位を弁ずるに、法爾なるがゆゑに難行道と名づく」と。
【75】またいはく(同・上)、「教興の所由を明かして、時に約し機に被らしめて浄土に勧帰することあらば、もし機と教と時と乖けば、修しがたく入りがたし。
『正法念経』にいはく、〈行者一心に道を求めんとき、つねにまさに時と方便とを観察すべし。もし時を得ざれば方便なし。これを名づけて失とす、利と名づけず。いかんとならば、湿へる木を攅りて、もつて火を求めんに、火得べからず、時にあらざるがゆゑに。もし乾れたる薪を折りて、もつて水を覓めんに、水得べからず、智なきがごときのゆゑに〉と。
『大集の月蔵経』にのたまはく、〈仏滅度ののちの第一の五百年には、わがもろもろの弟子、慧を学ぶこと堅固なることを得ん。第二の五百年には定を学ぶこと堅固なることを得ん。第三の五百年には多聞読誦を学ぶこと堅固なることを得ん。第四の五百年には塔寺を造立し、福を修し、懺悔すること堅固なることを得ん。第五の五百年には白法隠滞して多く諍訟あらん、微しき善法ありて堅固なることを得ん〉と。
今の時の衆生を計るに、すなはち仏、世を去りたまひてのちの第四の五百年に当れり。まさしくこれ懺悔し、福を修し、仏の名号を称すべき時のものなり。一念阿弥陀仏を称するに、すなはちよく八十億劫の生死の罪を除却せん。一念すでにしかなり、いはんや常念に修するは、すなはちこれつねに懺悔する人なり」と。
【76】またいはく(安楽集・下)、「経の住滅を弁ぜば、いはく、釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には、衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅せん。如来、痛焼の衆生を悲哀して、特にこの経を留めて止住せんこと百年ならん」と。
【77】またいはく(安楽集・上)、「『大集経』にのたまはく、〈わが末法の時のなかの億億の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るものあらじ〉と。当今は末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり」と。{以上}
【78】しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、おのれが分を思量せよ。
【79】三時の教を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘ふるに、周の第五の主穆王五十三年壬申に当れり。その壬申よりわが元仁元年[元仁とは後堀川院諱茂仁の聖代なり]甲申に至るまで、二千一百七十三歳なり。また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃』等の説によるに、すでにもつて末法に入りて六百七十三歳なり。
【80】『末法灯明記』[最澄の製作]を披閲するにいはく、「それ一如に範衛してもつて化を流すものは法王、四海に光宅してもつて風を垂るるものは仁王なり。しかればすなはち仁王・法王、たがひに顕れて物を開し、真諦・俗諦たがひによりて教を弘む。このゆゑに玄籍宇内に盈ち、嘉猷天下に溢てり。ここに愚僧等率して天網に容り、俯して厳科を仰ぐ。いまだ寧処に遑あらず。
しかるに法に三時あり、人また三品なり。化制の旨、時によりて興替す。毀讃の文、人に逐つて取捨す。それ三古の運、減衰同じからず。後五の機、慧悟また異なり。あに一途によつて済はんや、一理について整さんや。
ゆゑに正・像・末の旨際を詳らかにして、試みに破持僧の事を彰さん。なかにおいて三あり。初めには正・像・末を決す。次に破持僧の事を定む。後に教を挙げて比例す。
 初めに正・像・末を決するに、諸説を出すこと同じからず。しばらく一説を述せん。大乗基、『賢劫経』を引きていはく、〈仏涅槃ののち、正法五百年、像法一千年ならん。この千五百年ののち、釈迦の法滅尽せん〉と。末法をいはず。
余の所説に准ふるに、尼、八敬に順はずして懈怠なるがゆゑに、法更増せず。ゆゑに彼によらず。また『涅槃経』に、〈末法のなかにおいて十二万の大菩薩衆ましまして、法を持ちて滅せず〉と。これは上位によるがゆゑにまた同じからず。
 問ふ。もししからば千五百年のうちの行事いかんぞや。
 答ふ。『大術経』によるに、〈仏涅槃ののちの初めの五百年には、大迦葉等の七賢聖僧、次第に正法を持ちて滅せず、五百年ののち正法滅尽せんと。六百年に至りてのち、九十五種の外道競ひ起らん。馬鳴世に出でてもろもろの外道を伏せん。七百年のうちに、龍樹世に出でて邪見の幡を摧かん。
八百年において、比丘縦逸にして、わづかに一二道果を得るものあらん。九百年に至りて、奴を比丘とし、婢を尼とせん。一千年のうちに、不浄観を聞かん、瞋恚して欲せじ。千一百年に、僧尼嫁娶せん、僧毘尼を毀謗せん。千二百年に、諸僧尼等ともに子息あらん。千三百年に、袈裟変じて白からん。千四百年に、四部の弟子みな猟師のごとし、三宝物を売らん。
ここにいはく、千五百年に拘_弥国にふたりの僧ありて、たがひに是非を起してつひに殺害せん、よつて教法竜宮に蔵まるなり〉と。『涅槃』の十八および『仁王』等にまたこの文あり。これらの経文に準ふるに、千五百年ののち戒・定・慧あることなきなり。
ゆゑに『大集経』の五十一にいはく、〈わが滅度ののち、初めの五百年には、もろもろの比丘等わが正法において解脱堅固ならん。[初めに聖果を得るを名づけて解脱とす。]次の五百年には禅定堅固ならん。次の五百年には多聞堅固ならん。次の五百年には造寺堅固ならん。後の五百年には闘諍堅固ならん、白法隠没せん〉と、云云。
この意、初めの三分の五百年は、次いでのごとく戒・定・慧の三法、堅固に住することを得ん。すなはち上に引くところの正法五百年、像法一千の二時これなり。造寺以後は、ならびにこれ末法なり。ゆゑに基の『般若会の釈』にいはく、〈正法五百年、像法一千年、この千五百年ののち正法滅尽せん〉と。ゆゑに知んぬ、以後はこれ末法に属す。
 問ふ。もししからば、いまの世は、まさしくいづれの時にか当れるや。
 答ふ。滅後の年代多説ありといへども、しばらく両説を挙ぐ。一つには法上師等『周異』の説によりていはく、〈仏、第五の主、穆王満五十三年壬申に当りて入滅したまふ〉と。もしこの説によらば、その壬申よりわが延暦二十年辛巳に至るまで、一千七百五十歳なり。
二つには費長房等、魯の『春秋』によらば、仏、周の第二十一の主、匡王班四年壬子に当りて入滅したまふ。もしこの説によらば、その壬子よりわが延暦二十年辛巳に至るまで、一千四百十歳なり。
ゆゑに今の時のごときは、これ像法最末の時なり。かの時の行事すでに末法に同ぜり。しかればすなはち末法のなかにおいては、ただ言教のみありて行証なけん。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒を破せんによりてか破戒あらんや。破戒なほなし、いかにいはんや持戒をや。ゆゑに『大集』にいはく、〈仏涅槃ののち無戒州に満たん〉と、云云。
 問ふ。諸経律のなかに、広く破戒を制して衆に入ることを聴さず。破戒なほしかなり、いかにいはんや無戒をや。しかるにいま重ねて末法を論ずるに、戒なし。あに瘡なくして、みづからもつて傷まんや。
 答ふ。この理しからず。正・像・末法の所有の行事、広く諸経に載せたり。内外の道俗たれか披諷せざらん。あに自身の邪活を貪求して、持国の正法を隠蔽せんや。ただし、いま論ずるところの末法には、ただ名字の比丘のみあらん。この名字を世の真宝とせん。福田なからんや。たとひ末法のなかに持戒あらば、すでにこれ怪異なり、市に虎あらんがごとし。これたれか信ずべきや。
 問ふ。正・像・末の事、すでに衆経に見えたり。末法の名字を世の真宝とせんことは、聖典に出でたりや。
 答ふ。『大集』の第九にいはく、〈たとへば真金を無価の宝とするがごとし。もし真金なくは銀を無価の宝とす。もし銀なくは、鍮石・偽宝を無価とす。もし偽宝なくは、赤白銅・鉄・白錫・鉛を無価とす。かくのごとき一切世間の宝なれども仏法無価なり。
もし仏宝ましまさずは、縁覚無上なり。もし縁覚なくは、羅漢無上なり。もし羅漢なくは、余の賢聖衆もつて無上なり。もし余の賢聖衆なくは、得定の凡夫もつて無上とす。もし得定の凡夫なくは、浄持戒をもつて無上とす。もし浄持戒なくは、漏戒の比丘をもつて無上とす。もし漏戒なくは、剃除鬚髪して身に袈裟を着たる名字の比丘を無上の宝とす。
余の九十五種の異道に比するに、もつとも第一とす。世の供を受くべし、物のための初めの福田なり。なにをもつてのゆゑに、よく身を破る衆生、怖畏するところなるがゆゑに。護持養育して、この人を安置することあらんは、久しからずして忍地を得ん〉と。{以上経文}
この文のなかに八重の無価あり。いはゆる如来、縁覚・声聞および前三果、得定の凡夫、持戒・破戒・無戒名字、それ次いでのごとし、名づけて正・像・末の時の無価の宝とするなり。初めの四つは正法時、次の三つは像法時、後の一つは末法時なり。これによりてあきらかに知んぬ、破戒・無戒ことごとくこれ真宝なり。
 問ふ。伏して前の文を観るに、破戒名字、真宝ならざることなし。なんがゆゑぞ『涅槃』と『大集経』に、《国王・大臣、破戒の僧を供すれば、国に三災起り、つひに地獄に生ず》と。破戒なほしかなり、いかにいはんや無戒をや。しかるに如来、一つの破戒において、あるいは毀り、あるいは讃む。あに一聖の説に両判の失あるをや。
 答ふ。この理しからず。『涅槃』等の経に、しばらく正法の破戒を制す。像・末代の比丘にはあらず。その名同じといへども、時に異あり。時に随ひて制許す。これ大聖(釈尊)の旨なり。ゆゑに世尊において両判の失ましまさず。
 問ふ。もししからばなにをもつてか知らん、『涅槃』等の経は、ただ正法所有の破戒を制止して、像・末の僧にあらずとは。
 答ふ。引くところの『大集』所説の八重の真宝のごとし、これその証なり。みな時に当りて無価となすゆゑに。
ただし正法の時の破戒比丘は、清浄衆を穢す。ゆゑに仏固く禁制して衆に入れず。しかるゆゑは、『涅槃』の第三にのたまはく、〈如来いま無上の正法をもつて、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付属したまへり。{乃至}破戒あつて正法を毀るものは、王および大臣、四部の衆、まさに苦治すべし。かくのごときの王臣等、無量の功徳を得ん。{乃至}これわが弟子なり、真の声聞なり、福を得ること無量ならん〉と。{乃至}
かくのごときの制文の法、往往衆多なり。みなこれ正法に明かすところの制文なり。像・末の教にあらず。しかるゆゑは、像季・末法には正法を行ぜざれば、法として毀るべきなし。なにをか毀法と名づけん。戒として破すべきなし。たれをか破戒と名づけん。またそのとき大王、行として護るべきなし。なにによりてか三災を出し、および戒慧を失せんや。また像・末には証果の人なし。いかんぞ二聖に聴護せらるることを明かさん。ゆゑに知んぬ、上の所説はみな正法の世に持戒あるときに約して、破戒あるがゆゑなり。
 次に像法千年のうちに、初めの五百年には持戒やうやく減じ、破戒やうやく増せん。戒行ありといへども証果なし。ゆゑに『涅槃』の七にのたまはく、〈迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、《世尊、仏の所説のごときは四種の魔あり。もし魔の所説および仏の所説、われまさにいかんしてか分別することを得べき。もろもろの衆生ありて魔行に随逐せん。また仏説に随順することあらば、かくのごときらの輩、またいかんが知らん》と。
仏、迦葉に告げたまはく、《われ涅槃して七百歳ののちに、これ魔波旬やうやく起りて、まさにしきりにわが正法を壊すべし。たとへば猟師の身に法衣を服せんがごとし。魔波旬もまたまたかくのごとし。比丘像・比丘尼像・優婆塞・優婆夷像とならんこと、またまたかくのごとしと。{乃至}
“もろもろの比丘、奴婢、僕使、牛・羊・象・馬、乃至銅鉄釜_、大小銅盤、所須のものを受畜し、耕田・種植、販売・市易して、穀米を儲くることを聴すと。かくのごときの衆事、仏、大悲のゆゑに衆生を憐愍してみな畜ふることを聴さん”と。かくのごときの経律は、ことごとくこれ魔説なり》〉と、云云。
すでに〈七百歳ののちに波旬やうやく起らん〉といへり。ゆゑに知んぬ、かの時の比丘、やうやく八不浄物を貪畜せんと。この妄説をなさん、すなはちこれ魔の流なり。これらの経のなかにあきらかに年代を指して、つぶさに行事を説けり。さらに疑ふべからず。それ一文を挙ぐ、余みな準知せよ。
 次に、像法の後半ばは持戒減少し、破戒巨多ならん。ゆゑに『涅槃』の六にのたまはく、{乃至}また『十輪』にのたまはく、〈もしわが法によりて出家して悪行を造作せん。これ沙門にあらずしてみづから沙門と称し、また梵行にあらずしてみづから梵行と称せん。かくのごときの比丘、よく一切天・竜・夜叉、一切善法功徳の伏蔵を開示して、衆生の善知識とならん。
少欲知足ならずといへども、剃除鬚髪して、法服を被着せん。この因縁をもつてのゆゑに、よく衆生のために善根を増長せん。もろもろの天・人において善道を開示せん。乃至破戒の比丘、これ死せる人なりといへども、しかも戒の余才、牛黄のごとし。これ死するものといへども、人ことさらにこれを取る。また麝香ののちに用あるがごとし〉と、云云。
すでに〈迦羅林のなかに一つの鎮頭迦樹あり〉といへり。これは像運すでに衰へて、破戒濁世にわづかに一二持戒の比丘あらんに喩ふるなり。またいはく、〈破戒の比丘、これ死せる人なりといへども、なほ麝香の死して用あるがごとし。衆生の善知識となる〉と。あきらかに知んぬ、このときやうやく破戒を許して世の福田とす。前の『大集』に同じ。
 次に、像季の後は、まつたくこれ戒なし。仏、時運を知ろしめして、末俗を済はんがために名字の僧を讃めて世の福田としたまへり。また『大集』の五十二にのたまはく、〈もし後の末世に、わが法のなかにおいて鬚髪を剃除し、身に袈裟を着たらん名字の比丘、もし檀越ありて捨施供養をせば、無量の福を得ん〉と。
また『賢愚経』にのたまはく、〈もし檀越、将来末世に法尽きんとせんに垂んとして、まさしく妻を蓄へ、子を侠ましめん四人以上の名字の僧衆、まさに礼敬せんこと、舎利弗・大目連等のごとくすべし〉と。
またのたまはく、〈もし破戒を打罵し、身に袈裟を着たるを知ることなからん、罪は万億の仏身より血を出すに同じからん。もし衆生ありて、わが法のために剃除鬚髪し袈裟を被服せんは、たとひ戒を持たずとも、かれらはことごとくすでに涅槃の印のために印せらるるなり〉と。{乃至}
『大悲経』にのたまはく、〈仏、阿難に告げたまはく、《将来世において法滅尽せんと欲せんとき、まさに比丘・比丘尼ありて、わが法のなかにおいて出家を得たらんもの、おのれが手に児の臂を牽きて、ともに遊行してかの酒家より酒家に至らん。わが法のなかにおいて非梵行をなさん。かれら酒の因縁たりといへども、この賢劫のなかにおいて、まさに千仏ましまして興出したまはんに、わが弟子となるべし。
次に、後に弥勒まさにわが処を補ぐべし。乃至最後盧至如来まで、かくのごとき次第に、なんぢまさに知るべし。阿難わが法のなかにおいて、ただ性のみこれ沙門にして、沙門の行を汚し、みづから沙門と称せん、かたちは沙門に似て、ひさしく袈裟を被着することあらしめんは、賢劫において弥勒を首として乃至盧至如来まで、かのもろもろの沙門、かくのごときの仏の所にして、無余涅槃において次第に涅槃に入ることを得ん。遺余あることなけん。
なにをもつてのゆゑに。かくのごとき一切沙門のなかに、乃至ひとたび仏の名を称し、ひとたび信を生ぜんもの、所作の功徳つひに虚設ならじ。われ仏智をもつて法界を測知するがゆゑなり》〉と、云云。{乃至}
これらの諸経に、みな年代を指して将来末世の名字の比丘を世の尊師とす。もし正法の時の制文をもつて、末法世の名字の僧を制せんは、教・機あひ乖き、人・法合せず。これによりて『律』にいはく、〈非制を制するは、すなはち三明を断ず。記説するところこれ罪あり〉と。この上に経を引きて配当しをはんぬ。
 後に教を挙げて比例せば、末法法爾として正法毀壊し、三業記なし。四儀乖くことあらん。しばらく『像法決疑経』にのたまふがごとし。{乃至}また『遺教経』にのたまはく、{乃至}また『法行経』にのたまはく、{乃至}『鹿子母経』にのたまはく、{乃至}また『仁王経』にのたまはく。{乃至}」{以上略抄}
【81】それもろもろの修多羅によつて、真偽を勘決して、外教邪偽の異執を教誡せば、
【82】『涅槃経』(如来性品)にのたまはく、「仏に帰依せば、つひにまたその余のもろもろの天神に帰依せざれ」と。{略出}
【83】『般舟三昧経』にのたまはく、「優婆夷、この三昧を聞きて学ばんと欲せんものは、{乃至}みづから仏に帰命し、法に帰命し、比丘僧に帰命せよ。余道に事ふることを得ざれ、天を拝することを得ざれ、鬼神を祠ることを得ざれ、吉良日を視ることを得ざれ」となり。{以上}
【84】またのたまはく(同)、「優婆夷、三昧を学ばんと欲せば、{乃至}天を拝し神を祠祀することを得ざれ」となり。{略出}
【85】『大乗大方等日蔵経』巻第八「魔王波旬星宿品」第八の二にのたまはく(大集経)、「〈そのときに_盧虱_、天衆に告げていはまく、《このもろもろの月等、おのおの主_あり。なんぢ四種の衆生を救済すべし。なにものをか四つとする。地上の人、諸竜・夜叉、乃至蝎等を救く。かくのごときの類、みなことごとくこれを救けん。われもろもろの衆生を安楽するをもつてのゆゑに、星宿を布置す。おのおの分部乃至摸呼羅の時等あり。またみなつぶさに説かん。その国土方面の処に随ひて、所作の事業、随順し増長せん》と。
_盧虱_、大衆の前にして掌を合せて説きていはまく、《かくのごとき日月・年時、大小星宿を安置す。なにものをか名づけて六時ありとするや。正月・二月を暄暖時と名づく。三月・四月を種作時と名づく。五月・六月は求降雨時なり。七月・八月は物欲熟時なり。九月・十月は寒涼の時なり。十有一月、合して十二月は大雪の時なり。これ十二月を分つて六時とす。
また大星宿その数八つあり。いはゆる歳星・_惑・鎮星・太白・辰星・日・月・荷羅_星なり。また小星宿二十八あり。いはゆる昴より胃に至るまでの諸宿これなり。われかくのごとき次第安置をなす、その法を説きをはんぬ。なんだち、みなすべからくまた見、また聞くべし。一切大衆、意においていかん。わが置くところの法、そのこと是なりやいなや。二十八宿および八大星の所行の諸業、なんぢ喜楽するやいなや。是とやせん、非とやせん。よろしくおのおの宣説すべし》と。
そのときに一切天人・仙人・阿修羅・竜および緊那羅等、みなことごとく掌を合せて、ことごとくこの言をなさく、《いま大仙のごときは、天人のあひだにおいてもつとも尊重とす。乃至諸竜および阿修羅、よく勝れたるものなけん。智慧・慈悲もつとも第一とす。無量劫において忘れず、一切衆生を憐愍するがゆゑに、福報を獲、誓願満ちをはりて功徳海のごとし。よく過去・現在・当来の一切諸事、天人のあひだを知るに、かくのごときの智慧のものあることなし。かくのごときの法用、日夜・刹那および加羅時、大小星宿、月半・月満・年満の法用、さらに衆生よくこの法をなすことなけん。みなことごとく随喜しわれらを安楽にす。善いかな大徳、衆生を安穏す》と。
このとき_盧虱_仙人、またこの言をなさく、《この十二月一年始終、かくのごとく方便す。大小星等、刹那の時法、みなすでに説きをはんぬ。またまた四天大王を須弥山の四方面所に安置す、おのおの一王を置く。このもろもろの方所にして、おのおの衆生を領す。北方の天王を毘沙門と名づく。これその界のうちに多く夜叉あり。南方の天王を毘留荼倶と名づく。これその界のうちに多く鳩槃荼あり。西方の天王を毘留博叉と名づく。これその界のうちに多く諸竜あり。東方の天王を題頭隷_と名づく。これその界のうちに乾闥婆多し。四方四維みなことごとく一切洲渚およびもろもろの城邑を擁護す。また鬼神を置いてこれを守護せしむ》と。
そのときに_盧虱_仙人、諸天・竜・夜叉・阿修羅・緊那羅・摩_羅伽、人・非人等、一切大衆において、みな《善いかな》と称して、歓喜無量なることをなす。このときに天・竜・夜叉・阿修羅等、日夜に_盧虱_を供養す。次にまたのちに無量世を過ぎて、また仙人あらん、伽力伽と名づく。世に出現して、またさらに別して、もろもろの星宿小大月の法、時節要略を説きおかん〉と。
そのときに諸竜_羅_山聖人の住処にありて、光味仙人を尊重し恭敬せん、その竜力を尽してこれを供養せん」と。{以上抄出}
【86】『日蔵経』巻第九「念仏三昧品」第十にのたまはく(大集経)、「そのときに波旬、この偈を説きをはるに、かの衆のなかにひとりの魔女あり、名づけて離暗とす。この魔女は、むかし過去においてもろもろの徳本を植ゑたりき。この説をなしていはまく、〈沙門瞿曇は名づけて福徳と称す。もし衆生ありて、仏の名を聞くことを得て一心に帰依せん、一切の諸魔、かの衆生において悪を加ふることあたはず。いかにいはんや仏を見たてまつり、親り法を聞かん人、種種に方便し慧解深広ならん。{乃至}たとひ千万億の一切魔軍、つひに須臾も害をなすことを得ることあたはず。
如来いま涅槃道を開きたまへり。女、かしこに往きて仏に帰依せんと欲す〉と。すなはちその父のためにして偈を説きていはまく、{乃至}〈三世の諸仏の法を修学して、一切の苦の衆生を度脱せん。よく諸法において自在を得、当来に願はくはわれ還りて仏のごとくならん〉と。
 そのときに離暗、この偈を説きをはるに、父の王宮のうちの五百の魔女、姉妹眷属、一切みな菩提の心を発せしむ。このときに魔王、その宮のうちの五百の諸女みな仏に帰して菩提心を発せしむるを見るに、大きに瞋忿・怖畏・憂愁を益すと。{乃至}
このときに五百のもろもろの魔女等、また波旬のためにして偈を説きていはまく、〈もし衆生ありて仏に帰すれば、かの人、千億の魔に畏れず、いかにいはんや生死の流を度せんと欲ふ。無為涅槃の岸に到らん。もしよく一香華をもつて、三宝仏法僧に持散することありて、堅固勇猛の心を発さん。一切の衆魔、壊することあたはじ。{乃至}われら過去の無量の悪、一切また滅して余あることなけん。至誠専心に仏に帰したてまつりをはらば、さだめて阿耨菩提の果を得ん〉と。
 そのときに魔王、この偈を聞きをはりて、大きに瞋恚・怖畏を倍して、心を煎がし、憔悴・憂愁して、独り宮の内に坐す。このときに光味菩薩摩訶薩、仏の説法を聞きて、一切衆生ことごとく攀縁を離れ、四梵行を得しむと。{乃至}
〈浄く洗浴し、鮮潔の衣を着て、菜食長斎して、辛く臭きものを_することなかるべし。寂静処にして道場を荘厳して正念結跏し、あるいは行じ、あるいは坐して、仏の身相を念じて乱心せしむることなかれ。さらに他縁し、その余のことを念ずることなかれ。あるいは一日夜、あるいは七日夜、余の業をなさざれ。至心念仏すれば、乃至、仏を見たてまつる。小念は小を見たてまつり、大念は大を見たてまつる。乃至、無量の念は、仏の色身無量無辺なるを見たてまつらん〉」と。{略抄}
【87】『日蔵経』の巻第十「護塔品」第十三にのたまはく(大集経)、「ときに魔波旬、その眷属八十億衆と、前後に囲繞して仏所に往至せしむ。到りをはりて、接足して世尊を頂礼したてまつる。かくのごときの偈を説かく、{乃至}〈三世の諸仏の大慈悲、わが礼を受けたまへ、一切の殃を懺せしむ。法・僧二宝もまたまたしかなり。至心帰依したてまつるに異あることなし。願はくは、われ今日世の導師を供養し恭敬し尊重したてまつるところなり。もろもろの悪は永く尽してまた生ぜじ。寿を尽すまで如来の法に帰依せん〉と。
 ときに魔波旬、この偈を説きをはりて、仏にまうしてまうさく、〈世尊、如来われおよびもろもろの衆生において、平等無二の心にしてつねに歓喜し、慈悲含忍せん〉と。仏ののたまはく、〈かくのごとし〉と。ときに魔波旬大きに歓喜を生じて、清浄の心を発す。重ねて仏前にして接足頂礼し、右に繞ること三匝して恭敬合掌して、却きて一面に住して、世尊を瞻仰したてまつるに、心に厭足なし」と。{以上抄出}
【88】『大方等大集月蔵経』巻第五「諸悪鬼神得敬信品」第八の上にのたまはく(大集経)、「もろもろの仁者、かの邪見を遠離する因縁において、十種の功徳を獲ん。なんらをか十とする。一つには心性柔善にして伴侶賢良ならん。二つには業報乃至奪命あることを信じて、もろもろの悪を起さず。三つには三宝を帰敬して天神を信ぜず。四つには正見を得て歳次日月の吉凶を択ばず。五つにはつねに人・天に生じてもろもろの悪道を離る。六つには賢善の心あきらかなることを得、人讃誉せしむ。七つには世俗を棄ててつねに聖道を求めん。八つには断・常見を離れて因縁の法を信ず。九つにはつねに正信・正行・正発心の人とともにあひ会まり遇はん。十には善道に生ずることを得しむ。
この邪見を遠離する善根をもつて、阿耨多羅三藐三菩提に回向せん、この人すみやかに六波羅蜜を満ぜん、善浄仏土にして正覚を成らん。菩提を得をはりて、かの仏土にして、功徳・智慧・一切善根、衆生を荘厳せん。その国に来生して天神を信ぜず、悪道の畏れを離れて、かしこにして命終して還りて善道に生ぜん」と。{略抄}
【89】『月蔵経』巻第六「諸悪鬼神得敬信品」第八の下にのたまはく(大集経)、「仏の出世はなはだ難し。法・僧もまたまた難し。衆生の浄信難し。諸難を離るることまた難し。衆生を哀愍すること難し。知足第一に難し。正法を聞くことを得ること難し。よく修すること第一に難し。難きを知ることを得て平等なれば、世においてつねに楽を受く。この十平等処は、智者つねにすみやかに知らん。{乃至}
 そのときに世尊、かのもろもろの悪鬼神衆のなかにして法を説きたまふときに、〈かのもろもろの悪鬼神衆のなかにして、かの悪鬼神は、むかし仏法において決定の信をなせりしかども、かれ後の時において悪知識に近づきて心に他の過を見る。この因縁をもつて悪鬼神に生る〉」と。{略出}
【90】『大方等大集経』巻第六月蔵分のなかに「諸天王護持品」第九にのたまはく(大集経)、「そのときに世尊、世間を示すがゆゑに、娑婆世界の主、大梵天王に問うてのたまはく、〈この四天下に、これたれかよく護持養育をなす〉と。
 ときに娑婆世界の主、大梵天王かくのごときの言をなさく、〈大徳婆伽婆、兜率陀天王、無量百千の兜率陀天子とともに北鬱単越を護持し養育せしむ。他化自在天王、無量百千の他化自在天子とともに東弗婆提を護持し養育せしむ。化楽天王、無量百千の化楽天子とともに南閻浮提を護持し養育せしむ。須夜摩天王、無量百千の須夜摩天子とともに西瞿陀尼を護持し養育せしむ。
 大徳婆伽婆、毘沙門天王、無量百千の諸夜叉衆とともに北鬱単越を護持し養育せしむ。提頭頼_天王、無量百千の乾闥婆衆とともに東弗婆提を護持し養育せしむ。毘楼勒天王、無量百千の鳩槃荼衆とともに南閻浮提を護持し養育せしむ。毘楼博叉天王、無量百千の竜衆とともに西瞿陀尼を護持し養育せしむ。
 大徳婆伽婆、天仙七宿・三曜・三天童女、北鬱単越を護持し養育せしむ。かの天仙七宿は虚・危・室・壁・奎・婁・胃なり。三曜は鎮星・歳星・_惑星なり。三天童女は鳩槃・弥那・迷沙なり。大徳婆伽婆、かの天仙七宿のなかに虚・危・室の三宿はこれ鎮星の土境なり、鳩槃はこれ辰なり。壁・奎の二宿はこれ歳星の土境なり、弥那はこれ辰なり。婁・胃の二宿はこれ_惑の土境なり、迷沙はこれ辰なり。大徳婆伽婆、かくのごとき天仙七宿・三曜・三天童女、北鬱単越を護持し養育せしむ。
 大徳婆伽婆、天仙七宿・三曜・三天童女、東弗婆提を護持し養育せしむ。かの天仙七宿は昴・畢・觜・参・井・鬼・柳なり。三曜は太白星・歳星・月なり。三天童女は毘利沙・弥偸那・羯迦_迦なり。大徳婆伽婆、かの天仙七宿のなかに、昴・畢の二宿はこれ太白の土境なり、毘利沙はこれ辰なり。觜・参・井の三宿はこれ歳星の土境なり、弥偸那はこれ辰なり。鬼・柳の二宿はこれ月の土境なり、羯迦_迦はこれ辰なり。大徳婆伽婆、かくのごとき天仙七宿・三曜・三天童女、東弗婆提を護持し養育せしむ。
 大徳婆伽婆、天仙七宿・三曜・三天童女、南閻浮提を護持し養育せしむ。かの天仙七宿は星・張・翼・軫・角・亢・_なり。三曜は日・辰星・太白星なり。三天童女は_訶・迦若・兜羅なり。大徳婆伽婆、かの天仙七宿のなかに、星・張・翼はこれ日の土境なり、_訶はこれ辰なり。軫・角の二宿はこれ辰星の土境なり、迦若はこれ辰なり。亢・_の二宿はこれ太白の土境なり。兜羅はこれ辰なり。大徳婆伽婆、かくのごとき天仙七宿・三曜・三天童女、南閻浮提を護持し養育せしむ。
 大徳婆伽婆、かの天仙七宿・三曜・三天童女、西瞿陀尼を護持し養育せしむ。かの天仙七宿は房・心・尾・箕・斗・牛・女なり。三曜は_惑星・歳星・鎮星なり。三天童女は毘離支迦・檀_婆・摩伽羅なり。大徳婆伽婆、かの天仙七宿のなかに、房・心の二宿はこれ_惑の土境なり、毘利支迦はこれ辰なり。尾・箕・斗の三宿はこれ歳星の土境なり、檀_婆はこれ辰なり。牛・女の二宿はこれ鎮星の土境なり、摩伽羅はこれ辰なり。大徳婆伽婆、かくのごときの天仙七宿・三曜・三天童女、西瞿陀尼を護持し養育せしむ。
 大徳婆伽婆、この四天下に南閻浮提はもつとも殊勝なりとす。なにをもつてのゆゑに、閻浮提の人は勇健聡慧にして、梵行、仏に相応す。婆伽婆なかにおいて出世したまふ。このゆゑに四大天王、ここに倍増してこの閻浮提を護持し養育せしむ。
十六の大国あり。いはく、鴦伽摩伽陀国・傍伽摩伽陀国・阿槃多国・支提国なり。この四つの大国は毘沙門天王、夜叉衆と囲繞して護持し養育せしむ。迦尸国・都薩羅国・婆蹉国・摩羅国、この四つの大国は、提頭頼_天王、乾闥婆衆と囲繞して護持し養育せしむ。鳩羅婆国・毘時国・槃遮羅国・疎那国、この四つの大国は、毘楼勒叉天王、鳩槃荼衆と囲繞して護持し養育せしむ。阿湿婆国・蘇摩国・蘇羅_国・甘満闍国、この四つの大国は毘楼博叉天王、もろもろの竜衆と囲繞して護持し養育せしむ。
 大徳婆伽婆、過去の天仙この四天下を護持し養育せしがゆゑに、またみなかくのごとき分布安置せしむ。後においてその国土、城邑・村落・塔寺・園林・樹下・塚間・山谷・曠野・河泉・陂泊、乃至海中宝洲・天祠に随ひて、かの卵生・胎生・湿生・化生において、もろもろの竜・夜叉・羅刹・餓鬼・毘舎遮・富単那・迦_富単那等、かのなかに生じて、かの処に還住して、繋属するところなし、他の教を受けず。
このゆゑに願はくは仏、この閻浮提の一切国土において、かのもろもろの鬼神、分布安置したまへ。護持のためのゆゑに、一切のもろもろの衆生を護らんがためのゆゑに。われらこの説において随喜せんと欲ふ〉と。
 仏ののたまはく、〈かくのごとし、大梵、なんぢが所説のごとし〉と。そのときに世尊、重ねてこの義を明かさんと欲しめして、偈を説きてのたまはく、〈世間に示現するがゆゑに、導師、梵王に問はまく、《この四天下において、たれか護持し養育せん》と。かくのごとき天師梵、《諸天王を首として、兜率・他化天・化楽・須夜摩、よくかくのごとき四天下を、護持し養育せしむ。四王および眷属、またまたよく護持せしむ。二十八宿等、および十二辰・十二天童女、四天下を護持せしむ》と。
その所生の処に随ひて、竜・鬼・羅刹等、他の教を受けずは、かしこにおいて還つて護をなさしむ。天神等差別して、願はくは仏分布せしめたまへ。衆生を憐愍せんがゆゑに、正法の灯を熾然ならしむ〉と。
 そのときに仏、月蔵菩薩摩訶薩に告げてのたまはく、〈了知清浄士よ、この賢劫の初め人寿四万歳のとき、鳩留孫仏、世に出興したまひき。かの仏、無量阿僧祇億那由他百千の衆生のために生死に回して、正法輪を輪転せしむ。追うて悪道に回して、善道および解脱の果を安置せしむ。かの仏この四大天下をもつて、娑婆世界の主、大梵天王・他化自在天王・化楽天王・兜率陀天王・須夜摩天王等に付属せしむ。
護持のゆゑに、養育のゆゑに、衆生を憐愍するがゆゑに、三宝の種をして断絶せざらしめんがゆゑに、熾然ならんがゆゑに、地の精気、衆生の精気、正法の精気、久しく住せしめ増長せんがゆゑに、もろもろの衆生をして三悪道を休息せしめんがゆゑに、三善道に趣向せんがゆゑに、四天下をもつて大梵およびもろもろの天王に付属せしむ。
 かくのごとき漸次に劫尽き、もろもろの天人尽き、一切の善業白法尽滅して、大悪もろもろの煩悩溺を増長せん。人寿三万歳のとき、拘那含牟尼仏、世に出興したまはん。かの仏この四大天下をもつて、娑婆世界の主、大梵天王・他化自在天王、乃至四大天王およびもろもろの眷属に付属したまふ。護持養育のゆゑに、乃至一切衆生をして三悪道を休息して三善道に趣向せしめんがゆゑに、この四天下をもつて大梵および諸天王に付属したまへり。
 かくのごとき次第に劫尽き、もろもろの天人尽き、白法また尽きて、大悪もろもろの煩悩溺を増長せん。人寿二万歳のとき、迦葉如来、世に出興したまふ。かの仏この四大天下をもつて、娑婆世界の主、大梵天王・他化自在天王・化楽天王・兜率陀天王・須夜摩天王・_尸迦帝釈・四天王等、およびもろもろの眷属に付属したまへり。
護持養育のゆゑに、乃至一切衆生をして三悪道を休息せしめ、三善道に趣向せしめんがゆゑに。かの迦葉仏、この四天下をもつて、大梵・四天王等に付属し、およびもろもろの天仙衆・七曜・十二天童女・二十八宿等に付したまへり。護持のゆゑに、養育のゆゑに。
 了知清浄士よ、かくのごとき次第に、いま劫濁・煩悩濁・衆生濁・大悪煩悩濁・闘諍悪世の時、人寿百歳に至りて、一切の白法尽き、一切の諸悪闇翳ならん。世間はたとへば海水の一味にして大鹹なるがごとし、大煩悩の味はひ世に遍満せん。集会の悪党、手に髑髏を執り、血をその掌に塗らん、ともにあひ殺害せん。
かくのごときの悪の衆生のなかに、われいま菩提樹下に出世してはじめて正覚を成れり。提謂・波利もろもろの商人の食を受けて、かれらがためのゆゑに、この閻浮提をもつて天・竜・乾闥婆・鳩槃荼・夜叉等に分布せしむ。護持養育のゆゑに。
 これをもつて大集十方所有の仏土、一切無余の菩薩摩訶薩等、ことごとくここに来集せん。乃至この娑婆仏土において、その処の百億の日月、百億の四天下、百億の四大海、百億の鉄囲山・大鉄囲山・百億の須弥山、百億の四阿修羅城、百億の四大天王、百億の三十三天、乃至百億の非想非非想処、かくのごときの数を略せり。娑婆仏土、われこの処にして仏事をなす。
乃至娑婆仏土の諸有のもろもろの梵天王およびもろもろの眷属、魔天王・他化自在天王・化楽天王・兜率陀天王・須夜摩天王・帝釈天王・四大天王・阿修羅王・竜王・夜叉王・羅刹王・乾闥婆王・緊那羅王・迦楼羅王・摩_羅伽王・鳩槃荼王・餓鬼王・毘舎遮王・富単那王・迦_富単那王等において、ことごとくまさに眷属としてここに大集せり。法を聞かんためのゆゑに。乃至ここに娑婆仏土の所有のもろもろの菩薩摩訶薩等およびもろもろの声聞、一切余なく、ことごとくここに来集せり。聞法のためのゆゑに。
われいまこの所集の大衆のために、甚深の仏法を顕示せしむ。また世間を護らんがためのゆゑに、この閻浮提所集の鬼神をもつて分布安置す。護持養育すべし〉と。
 そのときに世尊、また娑婆世界の主、大梵天王に問うてのたまはく、〈過去の諸仏、この四大天下をもつて、かつてたれに付属して護持養育をなさしめたまふぞ〉と。ときに娑婆世界の主、大梵天王まうさく、〈過去の諸仏、この四天下をもつて、かつてわれおよび_尸迦に付属したまへりき。護持することをなさしめたまふ。しかるにわれ失ありて、おのれが名および帝釈の名を彰さず。ただ諸余の天王および宿・曜・辰を称せしむ、護持養育すべし〉と。
そのときに娑婆世界の主、大梵天王および_尸迦帝釈、仏足を頂礼してこの言をなさく、〈大徳婆伽婆、大徳修伽陀、われいま過を謝すべし。われ小児のごとくして愚痴無智にして、如来の前にしてみづから称名せざらんや。大徳婆伽婆、やや願はくは容恕したまへ。大徳修伽陀、やや願はくは容恕したまへ。諸来の大衆、また願はくは容恕したまへ。われ境界において言説教令す。自在の処を得て護持養育すべし。乃至、もろもろの衆生をして善道に趣かしめんがゆゑに。
われらむかし鳩留孫仏のみもとにして、すでに教勅を受けたまはりて、乃至、三宝の種をしてすでに熾然ならしむ。拘那含牟尼仏、迦葉仏の所にして、われ教勅を受けたまはりしこと、またかくのごとし。三宝の種においてすでにねんごろにして熾然ならしむ。地の精気、衆生の精気、正法の味はひ醍醐の精気、久しく住して増長せしむるがゆゑに。
またわがごときも、いま世尊の所にして、教勅を頂受し、おのれが境界において、言説教令す。自在の処を得て、一切闘諍・飢饉を休息せしめ、乃至三宝の種断絶せざらしむるがゆゑに、三種の精気久しく住して増長せしむるがゆゑに、悪行の衆生を遮障して行法の衆生を護養するがゆゑに、衆生をして三悪道を休息せしめ、三善道に趣向するがゆゑに、仏法をして久しく住せんことを得しめんがためのゆゑに、ねんごろに護持をなす〉と。
 仏ののたまはく、〈善いかな善いかな、妙丈夫、なんぢかくのごとくなるべし〉と。そのときに仏、百億の大梵天王に告げてのたまはく、〈所有の行法、法に住し法に順じて悪を厭捨せんものは、いまことごとくなんだちが手のうちに付属す。
なんだち賢首、百億の四天下各各の境界において言説教令す。自在の処を得て、所有の衆生、弊悪・粗_・悩害、他において慈愍あることなし。後世の畏れを観ぜずして、刹利心および婆羅門・毘舎・首陀の心を触悩せん。乃至、畜生の心を触悩せん。かくのごとき殺生をなす因縁、乃至邪見をなす因縁、その所作に随ひて非時の風雨あらん。乃至、地の精気、衆生の精気、正法の精気、損減の因縁をなさしめば、なんぢ遮止して善法に住せしむべし。
もし衆生ありて、善を得んと欲はんもの、法を得んと欲はんもの、生死の彼岸に度せんと欲はんもの、檀婆羅蜜を修行することあらんところのもの、乃至、般若波羅蜜を修行せんもの、所有の行法、法に住せん衆生、および行法のために事を営まんもの、かのもろもろの衆生、なんだちまさに護持養育すべし。
もし衆生ありて、受持し読誦して、他のために演説し、種種に経論を解説せん。なんだちまさにかのもろもろの衆生と念持方便して堅固力を得べし。所聞に入りて忘れず、諸法の相を智信して生死を離れしめ、八聖道を修して三昧の根、相応せん。
もし衆生ありて、なんぢが境界において法に住せん。奢摩他・毘婆舎那、次第方便してもろもろの三昧と相応して、ねんごろに三種の菩提を修習せんと求めんもの、なんだちまさに遮護し摂受して、ねんごろに捨施をなして、乏少せしむることなかるべし。
もし衆生ありて、その飲食・衣服・臥具を施し、病患の因縁に湯薬を施せんもの、なんだちまさにかの施主をして五利増長せしむべし。なんらをか五つとする。一つには寿増長せん、二つには財増長せん、三つには楽増長せん、四つには善行増長せん、五つには慧増長するなり。なんだち長夜に利益安楽を得ん。この因縁をもつて、なんだちよく六波羅蜜を満てん。久しからずして一切種智を成ずることを得ん〉と。
 ときに娑婆世界の主大梵天王を首として、百億のもろもろの梵天王とともに、ことごとくこの言をなさく、〈かくのごとし、かくのごとし。大徳婆伽婆、われらおのおのにおのれが境界、弊悪・粗_・悩害において、他において慈愍の心なく、後世の畏れを観ぜざらん。乃至、われまさに遮障し、かの施主のために五事を増長すべし〉と。仏ののたまはく、〈善いかな善いかな、なんぢかくのごとくなるべし〉と。
そのときにまた一切の菩薩摩訶薩、一切の諸大声聞、一切の天・竜、乃至一切の人・非人等ありて、讃めてまうさく、〈善いかな善いかな、大雄猛士、なんだちかくのごとき法、久しく住することを得、もろもろの衆生をして悪道を離るることを得、すみやかに善道に趣かしめん〉と。
 そのときに、世尊、重ねてこの義を明かさんと欲しめして、偈を説きてのたまはく、〈われ、月蔵に告げていはく、この賢劫の初めに入りて、鳩留仏、梵等に四天下を付属したまふ。諸悪を遮障するがゆゑに、正法の眼を熾然ならしむ。もろもろの悪事を捨離し、行法のものを護持し、三宝の種を断たず、三精気を増長し、もろもろの悪趣を休息し、もろもろの善道に向かへしむ。
拘那含牟尼、また大梵王、他化・化楽天、乃至四天王に属したまふ。次のちに迦葉仏、また梵天王、化楽等の四天、帝釈・護世王、過去のもろもろの天仙に属したまふ。もろもろの世間のためのゆゑに、もろもろの曜宿を安置して、護持し養育せしめたまへり。
濁悪世に至りて、白法尽滅せんとき、われ独覚無上にして、人民を安置し護らん。いま大衆の前にして、しばしばわれを悩乱せん。まさに説法を捨つべし。われを置つて護持せしめよ。十方のもろもろの菩薩、一切ことごとく来集せん。天王もまたこの娑婆仏国土に来らしめん。
われ大梵王に問はく、《たれか昔護持せしもの》と。《帝釈・大梵天、余の天王を指示す》と。ときに釈・梵王、過を導師に謝していはまく、《われら王の処を所として、一切の悪を遮障し、三宝の種を熾然ならしめ、三精気を増長せん。諸悪の朋を遮障して、善の朋党を護持せしむ》〉」と。{以上抄出}
【91】『月蔵経』巻第七「諸魔得敬信品」第十にのたまはく(大集経)、「そのときにまた百億の諸魔あり。ともに同時に座よりして起ちて、合掌して仏に向かひたてまつりて、仏足を頂礼して仏にまうしてまうさく、〈世尊、われらまたまさに大勇猛を発して、仏の正法を護持し養育して、三宝の種を熾然ならしめて、久しく世間に住せしむ。いま地の精気、衆生の精気、法の精気、みなことごとく増長せしむべし。
もし世尊、声聞弟子ありて、法に住し法に順じて、三業相応して修行せば、われらみなことごとく護持し養育して、一切の所須乏しきところなからしめん〉と。{乃至}
 〈この娑婆界にして、初め賢劫に入りしとき、拘楼孫如来、すでに四天を帝釈・梵天王に属せしめて、護持し養育せしむ。三宝の種を熾然ならしめ、三精気を増長せしめたまひき。拘那含牟尼、また四天下を、梵・釈・諸天王に属して、護持し養育せしむ。迦葉もまたかくのごとし、すでに四天下を梵・釈・護世王に属して、行法のひとを護持せしめき。過去の諸仙衆、および諸天仙、星辰もろもろの宿曜、また属し分布せしめき。
われ五濁世に出でて、もろもろの魔の怨を降伏して、大集会をなして、仏の正法を顕現せしむ。{乃至}一切の諸天衆、ことごとくともに仏にまうしてまうさく、《われら王の処を所にして、みな正法を護持し、三宝の種を熾然ならしめ、三精気を増長せしめん。もろもろの病疫、飢饉および闘諍を息めしめん》〉」と。{乃至略出}
【92】「提頭頼_天王護持品」にのたまはく(大集経)、「仏ののたまはく、〈日天子・月天子、なんぢわが法において護持し養育せば、なんぢ長寿にしてもろもろの衰患なからしめん〉と。そのときにまた百億の提頭頼_天王、百億の毘楼勒叉天王、百億の毘楼博叉天王、百億の毘沙門天王あり。
かれら同時に、および眷属と座よりして起ちて、衣服を整理し、合掌し敬礼して、かくのごときの言をなさく、〈大徳婆伽婆、われらおのおのおのれが天下にして、ねんごろに仏法を護持し養育することをなさん。三宝の種、熾然として久しく住し、三種の精気みなことごとく増長せしめん〉と。{乃至}〈われいままた上首毘沙門天王と同心に、この閻浮提と北方との諸仏の法を護持す〉」と。{以上略出}
【93】『月蔵経』巻第八「忍辱品」第十六にのたまはく(大集経)、「仏ののたまはく、〈かくのごとし、かくのごとし。なんぢがいふところのごとし。もしおのれが苦を厭ひ楽を求むるを愛することあらん、まさに諸仏の正法を護持すべし。これよりまさに無量の福報を得べし。
もし衆生ありて、わがために出家し、鬚髪を剃除して袈裟を被服せん。たとひ戒を持たざらん、かれらことごとくすでに涅槃の印のために印せらるるなり。
もしまた出家して戒を持たざらんもの、非法をもつてして悩乱をなし、罵辱し毀呰せん、手をもつて刀杖打縛し、斫截することあらん。もし衣鉢を奪ひ、および種種の資生の具を奪はんもの、この人すなはち三世の諸仏の真実の報身を壊するなり。すなはち一切天人の眼目を排ふなり。この人、諸仏所有の正法三宝の種を隠没せんと欲ふがためのゆゑに、もろもろの天人をして利益を得ざらしむ。地獄に堕せんゆゑに、三悪道増長し盈満をなすなり〉」と。{以上}
 「そのときにまた一切の天・竜、乃至一切の迦_富単那・人・非人等ありて、みなことごとく合掌してかくのごときの言をなさく、〈われら、仏の一切声聞弟子、乃至もしまた禁戒を持たざれども、鬚髪を剃除し袈裟を片に着んものにおいて、師長の想をなさん。護持養育してもろもろの所須を与へて乏少なからしめん。
もし余の天・竜、乃至迦_富単那等、その悩乱をなし、乃至悪心をして眼をもつてこれを視ば、われらことごとくともに、かの天・竜・富単那等所有の諸相欠減し醜陋ならしめん。かれをしてまたわれらとともに住し、ともに食を与ふることを得ざらしめん。またまた同処にして戯笑を得じ。かくのごとく擯罰せん〉」と。{以上}
【94】またのたまはく(華厳経・十地品・晋訳)、「占相を離れて正見を修習せしめ、決定して深く罪福の因縁を信ずべし」と。{抄出}
【95】『首楞厳経』にのたまはく、「かれらの諸魔、かのもろもろの鬼神、かれらの群邪、また徒衆ありて、おのおのみづからいはん。無上道をなりて、わが滅度ののち、末法のなかに、この魔民多からん、この鬼神多からん、この妖邪多からん。世間に熾盛にして、善知識となつてもろもろの衆生をして愛見の坑に落さしめん。菩提の路を失し、_惑無識にして、おそらくは心を失せしめん。所過の処に、その家耗散して、愛見の魔となりて如来の種を失せん」と。{以上}
【96】『灌頂経』にのたまはく、「三十六部の神王、万億恒沙の鬼神を眷属として、相を陰し番に代りて、三帰を受くるひとを護る」と。{以上}
【97】『地蔵十輪経』にのたまはく、「つぶさにまさしく帰依して、一切の妄執吉凶を遠離せんものは、つひに邪神・外道に帰依せざれ」と。{以上}
【98】またのたまはく(同)、「あるいは種種に、もしは少もしは多、吉凶の相を執して、鬼神を祭りて、{乃至}極重の大罪悪業を生じ、無間罪に近づく。かくのごときの人、もしいまだかくのごときの大罪悪業を懺悔し除滅せずは、出家しておよび具戒を受けしめざらんも、もしは出家してあるいは具戒を受けしめんも、すなはち罪を得ん」と。{以上}
【99】『集一切福徳三昧経』の中にのたまはく、「余乗に向かはざれ、余天を礼せざれ」と。{以上}
【100】『本願薬師経』にのたまはく、「もし浄信の善男子・善女人等ありて、乃至尽形までに余天に事へざれ」と。
【101】またのたまはく(同)、「また世間の邪魔・外道、妖_の師の妄説を信じて、禍福すなはち生ぜん。おそらくはややもすれば心みづから正しからず、卜問して禍を覓め、種種の衆生を殺さん。神明に解奏し、もろもろの魍魎を呼ばうて、福祐を請乞し、延年を冀はんとするに、つひに得ることあたはず。愚痴迷惑して邪を信じ、倒見してつひに横死せしめ、地獄に入りて出期あることなけん。{乃至}八つには、横に毒薬・厭祷・呪咀し、起屍鬼等のために中害せらる」と。{以上抄出}
【102】『菩薩戒経』にのたまはく、「出家の人の法は、国王に向かひて礼拝せず、父母に向かひて礼拝せず、六親に務へず、鬼神を礼せず」と。{以上}
【103】『仏本行集経』[闍那崛多の訳]の第四十二巻「優婆斯那品」にのたまはく、「そのときにかの三迦葉兄弟にひとりの外甥、螺髻梵志あり。その梵志を優婆斯那と名づく。{乃至}つねに二百五十の螺髻梵志、弟子とともに仙道を修学しき。かれその舅迦葉三人を聞くに、もろもろの弟子、かの大沙門の辺に往詣して、阿舅鬚髪を剃除し、袈裟衣を着ると。
見をはりて、舅に向かひて偈を説きていはく、〈舅等虚しく火を祀ること百年、またまた空しくかの苦行を修しき。今日同じくこの法を捨つること、なほ蛇の故き皮を脱ぐがごとくするをや〉と。
 そのときにかの舅迦葉三人、同じくともに偈をもつて、その外甥、優婆斯那に報じてかくのごときの言をなさく、〈われら昔、空しく火神を祀りて、またまたいたづらに苦行を修しき。われら今日この法を捨つること、まことに蛇の故き皮を脱ぐがごとくす〉」と。{抄出}
【104】『起信論』にいはく、「あるいは衆生ありて善根力なければ、すなはち諸魔・外道・鬼神のために誑惑せらる。もしは座中にして形を現じて恐怖せしむ、あるいは端正の男女等の相を現ず。まさに唯心の境界を念ずべし、すなはち滅してつひに悩をなさず。
あるいは天像・菩薩像を現じ、また如来像の相好具足せるをなして、もしは陀羅尼を説き、もしは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を説き、あるいは平等、空・無相・無願、無怨無親、無因無果、畢竟空寂、これ真の涅槃なりと説かん。あるいは人をして宿命過去のことを知らしめ、また未来のことを知る。他心智を得、弁才無碍ならしむ。よく衆生をして世間の名利のことに貪着せしむ。
また人をしてしばしば瞋り、しばしば喜ばしめ、性無常の准ひならしむ。あるいは多く慈愛し、多く睡り、宿ること多く、多く病す、その心懈怠なり。あるいはにはかに精進を起して、後にはすなはち休廃す。不信を生じて疑多く、慮り多し。あるいはもとの勝行を捨てて、さらに雑業を修せしめ、もしは世事に着せしめ、種種に牽纏せらる。
またよく人をしてもろもろの三昧の少分相似せるを得しむ。みなこれ外道の所得なり、真の三昧にあらず。あるいはまた人をして、もしは一日、もしは二日、もしは三日、乃至七日、定中に住して自然の香味飲食を得しむ。身心適悦して、飢ゑず渇かず。人をして愛着せしむ。あるいはまた人をして食に分斉なからしむ。たちまち多く、たちまち少なくして、顔色変異す。
この義をもつてのゆゑに、行者つねに智慧をして観察して、この心をして邪網に堕せしむることなかるべし。まさにつとめて正念にして、取らず着せずして、すなはちよくこのもろもろの業障を遠離すべし。知るべし、外道の所有の三昧は、みな見愛我慢の心を離れず、世間の名利恭敬に貪着するがゆゑなり」と。{以上}
【105】『弁正論』[法琳の撰]にいはく、「十喩・九箴篇、答す、李道士、十異九迷。
 外の一異にいはく、〈太上老君は、神を玄妙玉女に託して、左腋を割きて生れたり。釈迦牟尼は、胎を摩耶夫人に寄せて、右脇を開きて出でたり〉と。{乃至}
 内の一喩にいはく、〈老君は常に逆ひ、牧女に託して左より出づ。世尊は化に順ひて、聖母によりて右より出でたまふ〉と。
 開士のいはく、〈慮景裕・戴_・韋処玄等が解五千文、および梁の元帝、周弘政等が考義類を案ずるにいはく、太上に四つあり、いはく三皇および尭・舜これなり。いふこころは、上古にこの大徳の君あり、万民の上に臨めり。ゆゑに太上といふなり。郭荘がいはく、《ときにこれを賢とするところのものを君とす。材、世に称せられざるものを臣とす》と。老子、帝にあらず、皇にあらず、四種の限りにあらず。いづれの典拠ありてか、たやすく太上と称するや。
道家が『玄妙』および『中台』・『朱韜玉扎』等の経、ならびに『出塞記』を検ふるにいはく、老はこれ李母が生めるところ、玄妙玉女ありといはず。すでに正説にあらず。もつとも仮の謬談なり。『仙人玉録』にいはく、《仙人は妻なし、玉女は夫なし。女形を受けたりといへども、つひに産せず》と。もしこの瑞あらば、まことに嘉とすべしといふ。いづれぞせん、『史記』にも文なし、『周書』に載せず。虚を求めて実を責めば、矯盲のものの言を信ずるならくのみと。
『礼』にいはく、《官を退きて位なきものは左遷す》と。『論語』にいはく、《左衽は礼にあらざるなり》と。もし左をもつて右に勝るとせんは、道士行道するに、なんぞ左に旋らずして右に還つて転るや。国の詔書にみないはく、《右のごとし》と。ならびに天の常に順ふなり。〉と。{乃至}
 外の四異にいはく、〈老君は文王の日、隆周の宗師たり。釈迦は荘王のとき_賓の教主たり〉と。
 内の四喩にいはく、〈伯陽は職小臣に処り、かたじけなく蔵吏に充れり。文王の日にあらず、また隆周の師にあらず。牟尼は、位、太子に居して、身、特尊を証したまへり。昭王の盛年に当れり、閻浮の教主たり〉と。{乃至}
 外の六異にいはく、〈老君は世に降して、始め周文の日より孔丘の時に訖れり。釈迦ははじめて浄飯の家に下生して、わが荘王の世に当れり〉と。
 内の六喩にいはく、〈迦葉は桓王丁卯の歳に生れて、景王壬午の年に終る。孔丘の時に訖ふといへども、姫昌の世に出でず。調御は昭王甲寅の年に誕じて、穆王壬申の歳に終る。これ浄飯の胤たり。もと荘王の前に出でたまへり〉と。
 開士のいはく、〈孔子周に至りて、老_を見て礼を問ふ。ここに『史記』につぶさに顕る。文王の師たること、すなはち典証なし。周の末に出でたり、そのこと尋ぬべし。周の初めにありしごときは史文に載せず〉と。{乃至}
 外の七異にいはく、〈老君はじめて周の代に生れて、晩に流沙に適く。始終を測らず、方所を知ることなし。釈迦は西国(印度)に生じて、かの提河に終りぬ。弟子胸を_ち、群胡大きに叫ぶ〉と。
 内の七喩にいはく、〈老子は頼郷に生れて、槐里に葬らる。秦佚の弔に詳らかにす。責め遁天の形にあり。瞿曇はかの王宮に出でて、この鵠樹に陰れたまふ。漢明の世に伝はりて、ひそかに蘭台の書にまします〉と。
 開士のいはく、〈『荘子』の内篇にいはく、《老_死して秦佚弔ふ。ここに三たび号んで出づ。弟子怪しんで問ふ、“夫子の徒にあらざるか”と。秦佚いはく、“向にわれ入りて少きものを見るに、これを哭す、その父を哭するがごとく、老者これを哭す、その子を哭するがごとし。古はこれを遁天の形といふ。始めはおもへらく、その人なりと、しかるにいま非なり”》と。
遁は隠なり、天は免縛なり、形は身なり。いふこころは、始め老子をもつて免縛形の仙とす、いますなはち非なり。ああ、その諂曲して人の情を取る。ゆゑに死を免れず。わが友にあらず〉と。{乃至}
 内の十喩、答す、外の十異。
 外は生より左右異なる一。内は生より勝劣あり。
 内に喩していはく、〈左衽はすなはち戎狄の尊むところ、右命は中華の尚むところとす。
ゆゑに『春秋』にいはく、《冢卿は命なし、介卿はこれあり、また左にあらざるや》と。『史記』にいはく、《藺相如は功大きにして、位廉頗が右にあり、これを恥づ》と。またいはく、《張儀相、秦を右にして魏を左にす。犀首相、韓を右にして魏を左にす》と。けだしいはく、便りならざるなり。『礼』にいはく、《左道乱群をばこれを殺す》と。あに右は優りて左は劣れるにあらずや。
皇甫謐が『高士伝』にいはく、《老子は楚の相人、渦水の陰に家とす。常樅子に師事す。常子疾あるに及んで、李耳往きて疾を問ふ》と。ここに_康のいはく、《李耳、涓子に従つて九仙の術を学ぶ》と。太史公等が衆書を検ふるに、老子、左腋を剖いて生るといはず。すでにまさしく出でたることなし、承信すべからざること明らけし。
あきらかに知んぬ、戈を揮ひ翰を操るは、けだし文武の先、五気・三光は、まことに陰陽の首めなり。ここをもつて釈門には右に転ずること、また人用を扶く。張陵の左道、まことに天の常に逆ふ。いかんとなれば、釈迦、無縁の慈を起して、有機の召に応ず、その迹を語るなり。{乃至}
 それ釈氏は、天上天下に介然として、その尊に居す。三界六道、卓爾としてその妙を推す〉と。{乃至}
 外論にいはく、〈老君、範となす、ただ孝、ただ忠、世を救ひ人を度す、慈を極め愛を極む。ここをもつて声教永く伝へ、百王改まらず、玄風長く被らしめて万古差ふことなし。このゆゑに国を治め家を治むるに、常然たり楷式たり。釈教は義を棄て親を棄て、仁ならず孝ならず。闍王(阿闍世)父を殺せる、翻じて_なしと説く。調達(提婆達多)兄を射て罪を得ることを聞くことなし。これをもつて凡を導く、さらに悪を長すことをなす。これをもつて世に範とする、なんぞよく善を生ぜんや。これ逆順の異、十なり〉と。
 内喩にいはく、〈義はすなはち道徳の卑しうするところ、礼は忠信の薄きより生ず。瑣仁、匹婦を譏り、大孝は不匱を存ず。しかうして凶に対うて歌ひ笑ふ、中夏の容に乖ふ。喪に臨んで盆を拓く、華俗の訓にあらず。[原壌、母死して棺に騎りて歌ふ。孔子、祭を助けて譏らず。子桑死するとき子貢弔ふ、四子あひ視て笑ふ。荘子、妻死す、盆を拓きて歌ふなり。]
ゆゑにこれを教ふるに孝をもつてす、天下の人父たるを敬するゆゑなり。これを教ふるに忠をもつてす、天下の人君たるを敬するなり。化、万国に周し、すなはち明辟の至れるなり。仁、四海に形す、まことに聖王の巨孝なり。
仏経にのたまはく、《識体六趣に輪廻す、父母にあらざるなし。生死三界に変易す、たれか怨親を弁へん》と。またのたまはく、《無明慧眼を覆ふ、生死のなかに来往す。往来して所作す、さらにたがひに父子たり。怨親しばしば知識たり、知識しばしば怨親たり》と。ここをもつて沙門、俗を捨てて真に趣く。庶類を天属に均しうす。栄を遺てて道に即く。含気を己親に等しとす。[あまねく正しき心を行じて、あまねく親しき志を等しくす。]
また道は清虚を尚ぶ、なんぢは恩愛を重くす。法は平等を貴ぶ、なんぢは怨親を簡ふ。あに惑ひにあらずや。勢競親を遺る、文史事を明かす、斉桓・楚穆これその流なり。もつて聖を_らんと欲ふ、あに謬れるにあらずや。なんぢが道の劣、十なり〉と。{乃至}
 〈二皇統べて化して、[『須弥四域経』にいはく、《応声菩薩を伏羲とす、吉祥菩薩を女_とす》と。]淳風の初めに居り、三聖、言を立てて、[『空寂所問経』にいはく、《迦葉を老子とす、儒童を孔子とす、光浄を顔回とす》と。]已澆の末を興す。玄虚沖一の旨、黄・老その談を盛りにす。詩書礼楽の文、周・孔その教を隆くす。謙をあきらかにし質を守る、すなはち聖に登るの階梯なり。三畏・五常は人・天の由漸とす。
けだし冥に仏理に符ふ、正弁極談にあらずや。なほ道を_聾に訪ふに、方を麾ひて遠迩を窮むることなし。津を兎馬に問ふ、済るを知りて浅深を測らず。これによりて談ずるに、殷周の世は釈教のよろしく行すべきところにあらざるなり。なほ炎威耀を赫かす、童子目を正しくして視ることあたはず。迅雷ふるひ撃つ、懦夫耳を張りて聴くことあたはず。
ここをもつて河池涌き浮ぶ、昭王、神を誕ずることを懼る。雲霓色を変じ、穆后、聖を亡はんことを欣ぶ。[『周書異記』にいはく、《昭王二十四年四月八日、江河泉水ことごとく泛張せり。穆王五十二年二月十五日、暴風起りて樹木折れ、天陰り、雲黒し、白虹の怪あり》と。]あによく葱河を越えて化を稟け、雪嶺を踰えて誠を効さんや。『浄名』にいはく、〈これ盲者の過ちにして日月の咎にあらず〉と。たまたまその鑿竅の弁を窮めんと欲ふ、おそらくは吾子混沌の性を傷む。なんぢの知るところにあらず。その盲、一なり〉と。
 内には像塔を建造す、指の二。
 〈漢明より以下、斉・梁に訖るまで、王・公・守牧、清信の士・女、および比丘・比丘尼等、冥に至聖を感じ、国に神光を覩るもの、おほよそ二百余人。迹を万山に見、耀を滬涜に浮べ、清台のもとに満月の容を覩、雍門の外に相輪の影を観るがごときに至りては、南平は瑞像に応を獲、文宣は夢を聖牙に感ず。蕭后一たび鋳て剋成し、宋皇四たび摸して就らず。その例、はなはだ衆し、つぶさに陳ぶべからず。あになんぢが無目をもつてかの有霊を斥はんや。
しかるに徳として備はらざるものなし、これをいひて涅槃とす。道として通ぜざるものなし、これを名づけて菩提とす。智として周からざるものなし、これを称して仏陀とす。この漢語をもつてかの梵言を訳す、すなはち彼此の仏、昭然として信ずべきなり。
なにをもつてかこれを明かすとならば、それ仏陀は漢には大覚といふ、菩提をば漢には大道といふ、涅槃は漢には無為といふなり。しかるに吾子終日に菩提の地を踏んで、大道はすなはち菩提の異号なることを知らず。形を大覚の境に稟けて、いまだ大覚は、すなはち仏陀の訳名なることを閑はず。
ゆゑに荘周いはく、《また大覚あれば、後にその大夢を知るなり》と。郭が『注』にいはく、《覚は聖人なり。いふこころは、患へ懐にあるはみな夢なり》と。『注』にいはく、《夫子と子游と、いまだいふことを忘れて神解することあたはず、ゆゑに大覚にあらざるなり》と。君子のいはく、《孔丘の談ここにまた尽きぬ》と。
涅槃寂照、識として識るべからず、智として知るべからず、すなはち言語断えて心行滅す。ゆゑに言を忘るるなり。法身はすなはち三点・四徳の成ずるところ、蕭然として無累なり。ゆゑに解脱と称す。これその神解として患息するなり。
夫子、聖なりといへども、はるかにもつて功を仏に推れり。いかんとなれば、劉向が『古旧二録』を案ずるにいはく、《仏経中夏に流はりて一百五十年ののち、老子まさに五千文を説けり》と。しかるに周と老と、ならびに仏経の所説を見る。言教往往たり、験へつべし」と。{乃至}
 『正法念経』にのたまはく、〈人戒を持たざれば、諸天減少し、阿修羅盛りなり。善竜力なし、悪竜力あり。悪竜力あれば、すなはち霜雹を降して非時の暴風疾雨ありて、五穀登らず、疾疫競ひ起り、人民飢饉す、たがひにあひ残害す。もし人戒を持てば、多く諸天威光を増足す。修羅減少し、悪竜力なし、善竜力あり。善竜力あれば、風雨時に順じ、四気和暢なり。甘雨降りて稔穀豊かなり、人民安楽にして兵戈_息す。疾疫行ぜざるなり〉と。{乃至}
 君子いはく、〈道士大霄が『隠書』・『無上真書』等にいはく、《無上大道君の治は五十五重無極大羅天のうち、玉京の上、七宝の台、金床玉机にあり。仙童・玉女の侍衛するところ、三十三天三界の外に住す》と。『神泉五岳図』を案ずるにいはく、《大道天尊は、太玄都、玉光州、金真の郡、天保の県、元明の郷、定志の里を治す。災及ばざるところなり》と。
『霊書経』にいはく、《大羅はこれ五億五万五千五百五十五重天の上天なり》と。『五岳図』にいはく、《都とはみやこなり。太上大道、道のなかの道、神明君最、静を守りて大玄の都に居り》と。『諸天内音』にいはく、《天、諸仙と楼都の鼓を鳴らす。玉京に朝晏して、もつて道君を楽しましむ》〉と。
 道士の上ぐるところの経の目を案ずるに、みないはく、〈宋人陸修静によりて一千二百二十八巻を列ねたり〉と。もと雑書、諸子の名なし。しかるに道士いま列ぬるに、すなはち二千四十巻あり。そのなかに多く『漢書芸文志』の目を取りて、みだりに八百八十四巻を註して道の経論とす。{乃至}
 陶朱を案ずれば、すなはち范蠡なり。親り越の王勾践に事へて、君臣ことごとく呉に囚はれて、屎を嘗め尿を飲んで、またもつてはなはだし。また范蠡の子は、斉に戮さる。父すでに変化の術あらば、なんぞもつて変化してこれを免るることあたはざらん。
『造立天地の記』を案ずるに称すらく、〈老子幽王の皇后の腹のなかに託生す〉と。すなはちこれ幽王の子なり。また〈身、柱史たり〉と。またこれ幽王の臣なり。『化胡経』にいはく、〈老子漢にありては東方朔とす〉と。もしあきらかにしからば、知んぬ、幽王犬戎のために殺さる。あに君父を愛して神符を与へて、君父をして死せざらしめざるべけんや。{乃至}
 陸修静が目録を指す、すでに正本なし。なんぞ謬りのはなはだしきをや。しかるに修静、目をなすこと、すでにこれ大偽なり。いま『玄都録』またこれ偽中の偽なり」と。{乃至}
【106】またいはく(弁正論)、「『大経』のなかに説かく、〈道に九十六種あり、ただ仏の一道これ正道なり、その余の九十五種においてはみなこれ外道なり〉と。朕、外道を捨ててもつて如来に事ふ。もし公卿ありて、よくこの誓に入らんものは、おのおの菩提の心を発すべし。老子・周公・孔子等、これ如来の弟子として化をなすといへども、すでに邪なり。ただこれ世間の善なり、凡を隔てて聖となすことあたはず。公卿・百官、侯王・宗室、よろしく偽を反し真に就き、邪を捨て正に入るべし。
ゆゑに経教、『成実論』に説きていはく、〈もし外道に事へて心重く、仏法は心軽し、すなはちこれ邪見なり。もし心一等なる、これ無記にして善悪に当らず。仏に事へて心強くして老子に心少なくは、すなはちこれ清信なり。清といふは、清はこれ表裏ともに浄く、垢穢惑累みな尽す、信はこれ正を信じて邪ならざるがゆゑに、清信の仏弟子といふ。その余等しくみな邪見なり、清信と称することを得ざるなり〉と。{乃至}
 老子の邪風を捨てて法の真教に入流せよとなり」と。{以上抄出}
【107】光明寺の和尚(善導)のいはく(法事讃・下)、「上方の諸仏恒沙のごとし。還りて舌相を舒べたまふことは、娑婆の十悪・五逆多く疑謗し、邪を信じ、鬼に事へ、神魔を_かしめて、みだりに想ひて恩を求めて福あらんと謂へば、災障禍横にうたたいよいよ多し。連年に病の床枕に臥す。聾ひ盲ひ脚折れ、手攣き_る、神明に承事してこの報を得るもののためなり。いかんぞ捨てて弥陀を念ぜざらん」と。{以上}
【108】天台の『法界次第』にいはく、「一つには仏に帰依す。『経』(涅槃経)にのたまはく、〈仏に帰依せんもの、つひにまたその余のもろもろの外天神に帰依せざれ〉と。またのたまはく、〈仏に帰依せんもの、つひに悪趣に堕ちず〉といへり。
二つには法に帰依す。いはく、〈大聖の所説、もしは教もしは理、帰依し修習せよ〉となり。三つには僧に帰依す。いはく、〈心、家を出でたる三乗正行の伴に帰するがゆゑに〉と。『経』(同)にのたまはく、〈永くまた更つて、その余のもろもろの外道に帰依せざるなり〉」と。{以上}
【109】慈雲大師のいはく(楽邦文類)、「しかるに祭祀の法は、天竺(印度)には韋陀、支那(中国)には祀典といへり。すでにいまだ世を逃れず、真を論ずれば俗を誘ふる権方なり」と。文
【110】高麗の観法師のいはく(天台四教儀)、「餓鬼道、梵語には闍黎多。この道また諸趣に遍す。福徳あるものは山林塚廟神となる。福徳なきものは、不浄所に居し、飲食を得ず、つねに鞭打を受く。河を填ぎ海を塞ぎて、苦を受くること無量なり。諂誑の心意なり。下品の五逆・十悪を作りて、この道の身を感ず」と。{以上}
【111】神智法師釈していはく(天台四教儀集解)、「餓鬼道はつねに飢ゑたるを餓といふ、鬼とは帰なり。『尸子』にいはく、古は死人を名づけて帰人とす。またいはく、人神を鬼といひ、地神を祇といふ。{乃至}形あるいは人に似たり、あるいは獣等のごとし。心正直ならざれば、名づけて諂誑とす」と。
【112】大智律師のいはく(盂蘭盆経疏新記)、「神はいはく鬼神なり。すべて四趣、天・修・鬼・獄に収む」と。
【113】度律師のいはく(観経扶新論)、「魔はすなはち悪道の所収なり」と。
【114】『止観』(摩訶止観)の魔事境にいはく、「二つに魔の発相を明かさば、管属に通じて、みな称して魔とす。細しく枝異を尋ぬれば、三種を出でず。一つには慢悵鬼、二つには時媚鬼、三つには魔羅鬼なり。三種の発相、各各不同なり」と。
【115】源信、『止観』によりていはく(往生要集・中)、「魔は煩悩によりて菩提を妨ぐるなり。鬼は病悪を起し命根を奪ふ」(意)と。{以上}
【116】『論語』にいはく、「季路問はく、〈鬼神に事へんか〉と。子のいはく、〈事ふることあたはず。人いづくんぞよく鬼神に事へんや〉」と。{以上抄出}
【117】ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。
しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇[後鳥羽の院と号す、諱尊成]今上[土御門の院と号す、諱為仁]聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。
これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。しかればすでに僧にあらず俗にあらず。このゆゑに禿の字をもつて姓とす。空師(源空)ならびに弟子等、諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たりき。
皇帝[佐渡の院、諱守成]聖代、建暦辛未の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて入洛して以後、空(源空)、洛陽の東山の西の麓、鳥部野の北の辺、大谷に居たまひき。同じき二年壬申寅月の下旬第五日午のときに入滅したまふ。奇瑞称計すべからず。別伝に見えたり。
【118】しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙丑の歳、恩恕を蒙りて『選択』を書しき。同じき年の初夏中旬第四日に、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」と「釈綽空」の字と、空の真筆をもつて、これを書かしめたまひき。
同じき日、空の真影申し預かりて、図画したてまつる。同じき二年閏七月下旬第九日、真影の銘は、真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」(礼讃)の真文とを書かしめたまふ。また夢の告げによりて、綽空の字を改めて、同じき日、御筆をもつて名の字を書かしめたまひをはんぬ。本師聖人(源空)今年は七旬三の御歳なり。
 『選択本願念仏集』は、禅定博陸[月輪殿兼実、法名円照]の教命によりて撰集せしめるところなり。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。見るもの諭り易し。まことにこれ希有最勝の華文、無上甚深の宝典なり。
年を渉り日を渉りて、その教誨を蒙るの人、千万なりといへども、親といひ疎といひ、この見写を獲るの徒、はなはだもつて難し。しかるにすでに製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の徴なり。よりて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す。
 慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。これによりて、真宗の詮を鈔し、浄土の要を_ふ。ただ仏恩の深きことを念うて、人倫の嘲りを恥ぢず。もしこの書を見聞せんもの、信順を因とし、疑謗を縁として、信楽を願力に彰し、妙果を安養に顕さんと。
【119】『安楽集』にいはく(上)、「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。いかんとなれば、前に生れんものは後を導き、後に生れんひとは前を訪へ、連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり」と。{以上}
【120】しかれば末代の道俗、仰いで信敬すべきなり、知るべし。
【121】『華厳経』(入法界品・唐訳)の偈にのたまふがごとし。「もし菩薩、種種の行を修行するを見て、善・不善の心を起すことありとも、菩薩みな摂取せん」と。{以上}

顕浄土方便化身土文類六

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