成人式

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 二千一年の年明けは、荒れる成人式が話題になった。例によって、「今どき」の若者に対する苦言が、金太郎飴の如くに、マスコミから流された。しかし、私から観れば、そもそも、成人式という儀式の方がいかがわしい。

 成人式は、戦後の荒廃の中、成人する若者を祝おうと民間団体が始めた。これに目を付けたのが、政治家である。新成人の選挙権は、いわば、手つかずの処女票。上は国会議員から、下は村会議員、村長に至るまで、賛成せぬはずがない。成人の日を祝日に定め、僅かな景品を餌に、新成人を集めて、成人式を行うようになった。つまり、行政が主導するようになった時点で、既に、成人式は、いかがわしいのである。

 政治家の下心はともかく、成人式は、保守的な人達に、昔の男子の元服(げんぷく)、女子の鉄漿始(かねはじめ)の儀式の現代版として迎えられたかもしれぬ。あるいは、戦前の徴兵検査の民主主義版だったかもしれぬ。所謂、通過儀礼としての役割を期待されたのだろう。

 (註) 鉄漿は、字の如く、鉄を酸化させた黒褐色の液体で、歯を黒く染めるのに用いた。江戸時代、結婚した女子は、これをつけるのが一般的で、お歯黒と呼ばれた。今の時代劇は省略するが、古い時代劇映画では、既婚女子は、皆、お歯黒であった。鉄漿始は鉄漿つけとも呼ばれ、鉄漿親(かねおや)を定め、知人七所から鉄漿をもらって来て、初めて使う儀式である。

 (註) 戦前、男子は、満二十歳で徴兵検査を受けた。甲乙丙丁戊の五種に分類され、丁は不合格、戊は翌年再検査となった。甲乙種合格は、兵役を負担できる者とされ、以後は、召集令状が来るのを待つことになる。よって、徴兵検査には、国家による成人男子認定の側面があった。

 しかし、成人式は、元服や徴兵検査と同等にはなり得ぬ。元服は、親を始めとする周囲の者が、子供の成長を観て、実施する時期を決めた。また、元服以後は、父の名代を務めるなど、一人前として扱われた。
 他方、今日の成人式は、子供の成長を観ることがない。単に、満二十歳になる者、もしくは満二十歳になった者を対象にする。しかも、成人式を境に成人として遇するわけでもない。現在では、法律上、成人は、満二十歳以上と定められているからである。
 実際、今回、高松市長にクラッカーを投げつて逮捕された馬鹿五人など、昔ならば、周囲の者が元服など認めなかった者達である。また、五人の内、四人は実名報道されたが、一人は未成年ということで、名を伏せられた。今後の司法手続きも、成年と未成年で、全く異なる。かかる成人式に、元服ほどの意味はあり得ない。
 一九五三年生まれの私の時にも、成人式はあった。しかし、私は参加していない。当時、私は浪人中で、成人式を取り立ててめでたいとも思えなかった。夕方のテレビニュースに、成人式帰りの同級生が映っているのを、暗い眼をして眺めていた。当時の私にとって、本当の成人式は、大学に合格した日だった。
 私に限らず、多くの者は、成人式以上に大切だと思った日があるに違いない。大学へ入学した日、高校を卒業して社会人になった日、親方から一人で仕事を任された日等々。
 私自身、もし、大学に合格していたとしても、成人式に参加したかどうか疑わしい。仮に参加したとしても、それは、晴れ着の同窓会に参加する程度の気持ちだったに違いない。
 ことほど左様に、成人式は、通過儀礼として機能していない。そのような成人式を、いかがわしいと断じて、何の不都合があろうか。

 更に言えば、成人式は、成人になることを慶ぶ気持ちを前提にして、初めて成立する。しかし、世の中には、成人になったことを喜ばぬ者もいる。今回、逮捕された者達には、それほど明るい未来など無い。むしろ、責任だけが増加する。未来に展望を抱けぬ者が、成人式を慶べようはずもない。
 彼らの職業は、塗装工、土木作業員、防水工などと報道されたが、おそらく、これは、正しくない。塗装工見習い、防水工見習いとでも呼ぶべき程度であろう。土木作業員に至っては、これという技術のない者の呼び名である。夜な夜な遊び回って、朝の早い職人の世界で、一人前になれるはずがない。職人の世界は、それほど甘くない。
 昨年、極悪寺では、梵鐘(大鐘)を吊ったが、制作した工場には、若い職人が多くいた。彼らは、皆、望んで鋳物師の道を選んだ。自分の鋳た鐘が、百年、二百年の間、日本のどこかで鳴っていると思うと、やり甲斐があると、彼らの一人は、私に語った。大成するのは、こういう心がけの職人である。半端な職人に明日はない。
 今回、逮捕された者達が、そういう自分達の未来を、明確に思量していたとは思わぬが、漠然とは感じていたに違いない。そうだとすれば、彼らが成人式を厳粛に受け止められないのは、当然である。そういう輩を集めて、成人式を行ったところで、何ほどの意味があろうか。

 加えて、先般の法改正で、成人の日は、第二月曜日に変更された。要するに連休を増やすための改正である。これでは、学校、仕事を休める日だという意識を助長するだけである。
 浄土真宗(西)では、明治初年、新暦に切り替えられた時、親鸞聖人の命日に執行される報恩講という法要を、旧暦十一月二十六日に相当する一月十六日と定めた。これが、絶対に正しいわけではないが、百年続けて、ようやく定着した。特別の日というのは、そういう風にして馴染んでいくものである。
 それを、連休を増やしたいばかりに、軽々に日を動かしては、ただでさえいかがわしい成人の日が、更に、いかがわしくなる。この様な改正は、国がすすんで、成人式を、ただの休日だと自白しているようなものである。

 今回の事件後、高松市長が、来年から、税金を使って成人式を行うつもりのないことを表明した。それで良いのだと、私は考えている。

 

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