西郷 四郎 (1)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 何年ぶりかで訪ねた尾道は、折悪しく雨が降り、観光もままならなかった。それでも、どうしても訪ねておきたい場所があった。「西郷四郎逝去の地」である。尾道駅から山陽本線に沿って、東に歩くこと二十分、浄土寺に続く坂道の途中に、その地はある。車一台がようやく通れるほどのつづら折れの道の傍らに、日展評議員今城国忠の手になる西郷四郎の銅像が建っている。「道」と名付けられた銅像の脇に、西郷四郎の業績を紹介した掲示板がある。曰く、

西郷四郎先生は、日本柔道界の奇才で、嘉納冶五郎師範が講道館を創設した頃それを助けて日本柔道を大成した人です。小柄な体躯でしたが、その特技「山嵐」の大業は天下無敵の称がありました。
小説、映画で有名な「姿三四郎」は先生がモデルでした。大正九年病気療養のため尾道に来て、この上の吉祥坊(浄土寺の末寺で現在は廃寺)に仮寓し、養生につとめていましたが大正十一年十二月二十三日五十六歳でなくなりました。  昭和四十六年晩秋
    西郷四郎先生五十回忌追悼法要委員会

 西郷四郎は、慶応二年(1866)、会津藩士志田貞二郎の三男として生まれた。明治十五年(1882)、講道館に入門し、次の年、富田常次郎と共に、講道館史上最初の初段になる。

 講道館については、インターネット上に公式サイトがあるので詳述しないが、学習院の英語教師だった嘉納治五郎(1860-1938)が、明治十五年(1882)五月、東京の下谷北稲荷町の永昌寺に開いた道場。柔術を集大成し、単なる技術の練習だけでなく、道を重んじ道を広めるという意味から「道を講ずる館」、すなわち講道館と命名したものである。当時、十二畳の道場と九人の入門者から出発したという。嘉納治五郎は、生涯、教育特に体育教育に力を注ぎ、旧制高校の校長を歴任、日本最初の国際オリンピック委員に就任している。

 富田常次郎(1865-1937)は、神戸御影の富裕な造り酒屋だった嘉納家に、治五郎のご学友として奉公していた。この造り酒屋、清酒「白鶴」と聞けば、愛飲家には馴染みのある名前やもしれぬ。幼少の頃から、病弱だった治五郎と共に、天神真楊流、起倒流の柔術を学び、講道館創設に参加する。この常次郎の子供が、「姿三四郎」の原作者富田常雄である。富田常雄(1904-1967)は、昭和十七年(1942)、「姿三四郎」でデビューし、山本周五郎と共に、博文館(今は、日記帳を販売している)子飼いの作家として、多くの作品を発表する。戦後、「面」「刺青」で、昭和二十四年第二十一回直木賞を受賞。映画関係の資料を見れば、日本映画最盛期、彼の原作になる映画が、数多く作られていることが知れる。ちなみに、黒沢明の第一回監督作品が、姿三四郎である。

 明治十七年、西郷四郎は、元会津藩家老西郷頼母(たのも1830〜1903)の養子となる。よって、正確には、西郷四郎と名乗るのは、この時からである。明治十九年八月、五段に昇進する。

 講道館柔道が、その実力を開陳し、世の注目を集めたのは、明治十九年(1886)の、警視庁武術大会での勝利だった。当時、警視庁は、警察官に修得させるべき武術を選定せんとしていた。警視庁武術大会は、その選定の資料とされる大切な試合だった。この武術大会に講道館代表として出場したのが、西郷四郎である。当時、試合時間は三十分という長丁場で、今日の国際的スポーツとしての柔道とは、全く異なり、むしろ果たし合いの様相であったという。
 西郷四郎は、得意の山嵐で、当時、千葉方面で勢力を持っていた楊心流戸塚派の昭島太郎を下した。ここに、講道館柔道は、正式に、警察官必修科目として、警視庁に採用されることになる。時の警視総監は三島通庸。福島事件で、自由民権運動を弾圧したことで名高い内務官僚である。

 講道館柔道の強さの秘密は、乱取りにあった。それ以前の柔術は、型の修得が練習の全てだった。嘉納治五郎は、これを、投、固、当に三別し、投げ技と固め技による自由練習(乱取り)を考案し、門弟に競技の中で技を磨かせた。柔術各派から、「講道館の足」と恐れられた柔道の技は、まさに、乱取りの中から生まれたのである。

 明治二十二年(1889)、西郷四郎は、嘉納治五郎が文部省から海外視察に派遣された際には、講道館の師範代をつとめた。しかし、明治二十三年(1890)、富田常次郎、山下義韶、横山作次郎と並んで講道館四天王の一人に数えられながら、西郷四郎は忽然と講道館を去る。

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