知識帰命について

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 浄土真宗には、「知識帰命の異安心(ちしききみょうのいあんじん)」という言葉がある。知識というのは指導者、帰命というのは帰依すること、誤った真宗教義を異安心(いあんじん)と呼ぶ。つまり、「知識帰命の異安心」とは、阿弥陀仏ではなく、指導者に帰依することを求める誤った教義という意味である。

 知識帰命の異安心は、すでに、親鸞の弟子である唯円が著した歎異抄(たんにしょう)なる書物にも記述されている。歎異抄とは、その名の通り、真宗教義の異(誤り)を嘆くという意味である。我々、後代の者は、親鸞を開祖と仰ぐが、親鸞自身は、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ。(歎異抄 六)。」と、自らに帰依することを嫌った。

 特定の指導者への帰依を過度に強調することは、浄土真宗に限らず、あらゆる宗教が陥りやすい誤りである。生身の人間は、生身の人間ゆえに、過ちを犯す。なればこそ、真の宗教指導者たるもの、自らへの過度の帰依が危険であることを、承知せぬはずがない。言い換えれば、自らへの過度の帰依が危険であると語らぬ指導者は、怪しいと考えて良い。

 仏教は、釈尊(お釈迦様)への帰依を基本とするが、釈尊自身は、「私の悟った法は、過去にも、悟る者があったし、未来にも、悟る者があるだろう」と、語っている。仏伝は、釈尊が産まれたとき、天地を指差して、「天上天下唯我独尊」と語ったと言う。しかし、同時に、釈尊は、最後の旅で、弟子を相手に、「私は、四十年間、善なるものを求め続けてきた」とも語っている。そして、末期の説法では、「自らを灯火(ともしび)として生きよ。法を灯火として活きよ」と、弟子達に言い残している。

 ここで、今日、マスコミを賑わしている新興宗教を思い出すが良い。
  統一協会     文鮮明
  オウム真理教  麻原彰晃
  法の華三法行  福永法源
などは、皆、異常なまでに、代表者への帰依を求める。文鮮明は、汚れなき神の子であると自称し、麻原彰晃は、自らを唯一人の最終解脱者と称した。福永法源は、自分だけが、天の声を伝え得る者だという。
 坊主の我田引水を覚悟で言えば、彼等は、皆、自分の能力を吹聴し、自分への帰依を強要する点で、釈尊や親鸞より、卑しく浅ましい。知識帰命を強調する宗教は、やはり、怪しいのである。

 この点、微妙なのが創価学会である。創価学会は、元来、日蓮正宗信者の任意団体であった。一般的に、仏教各派では、このような団体を、講と呼び慣わしてきた。浄土真宗にも、摂津十三日講など、講組織は存在する。
 よって、創価学会の会長は、日蓮正宗の一講の代表であり、講組織の運営については、一定の権限を有するが、それ以上の権限はなかった。しかるに、今日、創価学会は、日蓮正宗と袂を分ち、独自の道を歩み始めた。

 もとより、日蓮正宗と創価学会の泥仕合に興味はない。そのようなもの、表に出ぬだけで、本願寺教団で、いくらでも見られる(特にお東)。問題は、創価学会が、今後、池田大作教へ移行するか否かである。
 池田大作が、会長職を退いた今も、創価学会に対して多大の影響力を持つことは、学会外部から見ても明白である。しかも、池田大作の子供が、副会長の要職を務めている。もし、このまま、創価学会が、池田大作を宗教指導者とする団体に移行するなら、それは、創価学会が、知識帰命を強調する危険な宗教に変貌することを意味する。

 このように見てくれば、知識帰命の程度は、その宗教の健全性を推し量る尺度であると言えまいか。文鮮明は、ただのスケベオヤジであり、髭面の豚が空中に浮遊するはずがない。福永法源に至っては、私でも、明日から化けられる程度の教祖である。尤も、私なら、足の裏占いよりはオッパイ占いを提唱するだろうが。