自殺について

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 仏教では、自殺と書いてじせつと読む。今日、自傷行為と呼ばれるものも含めて、自害(じがい)ともいう。害は、傷つけようとする心の働きである。唯識では、害心を、煩悩に付随する二十の心(随煩悩=ずいぼんのう)のひとつに数える。煩悩とは、身心を苦しめ、煩わせる心の働きである。古来、三毒(さんどく)をその代表とする。貪欲(とんよく=むさぼり)、瞋恚(しんい=いかり)、愚痴(ぐち=おろかさ)である。悟りを障げる心と言っても良い。

 人は、求めて詮無いことを求め、求めて得られぬものを求める。この心を貪欲という。求めて得られぬから苦しむ。この苦しみを求不得苦(ぐふとっく)と呼ぶ。求不得苦は、生老病死(しょうろうびょうし)の苦しみに次ぐ大きな苦しみである。よって、仏教では、煩悩を鎮めることで、自らを苦しみから解放せよと説く。しかし、愚痴なる者は、この道理を弁(わきま)えぬから、求める自分そのものを抹殺せんとする。これが自殺である。
 怒りに委せて自殺する例は、ポルポト政権下、圧制に抗議して焼身自殺した僧侶に始まって、近くは、クルド人指導者逮捕に抗議して自殺した者まで、枚挙に遑(いとま)がない。死んで状況が変わらぬにもかかわらず、死に急ぐのは、貪欲の心に引きずられて、理想の崩壊を嘆くあまりか、愚痴にして、独り思い込みの世界に埋没するがゆえか。

 仏教の枠組みにしたがって自殺を説明すれば、以上の如し。詮ずる所、煩悩に眼を塞がれた者の所業(しょぎょう)である。煩悩の虜になり、悟りに近づかぬと言う意味で悪(非仏教的)である。もちろん、これまでの経験上、自害(自殺)は、本人、その家族を含めた周囲の人を苦しめるがゆえに悪だと断じても良い。仏教の目的が、自他の苦しみからの解放(解脱)である以上、当然のことである。

 なお、例外的に、自害が悪にならない場合がある。それは、自害が、他のものを救うために身を捨てる行為(捨身)の場合である。捨身は、悟りに到るための修行である布施行(ふせぎょう=自分のものを差し出す行為。坊主に払うお金のことではない)の最上のものとされる。現代語で言えば、自己犠牲である。経典には、雪山(せつせん)童子の捨身羅刹(らせつ)(涅槃経)など、多くの捨身の物語が残っている。

 雪山童子の物語については、ここを参照。

 話を、自殺に戻す。自殺を企てる者には、如上の話を聞かせる他ない。それで翻意せぬ者は、縁がなかったと諦めよ。古来、縁無き衆生は度し(どし=救い)難しと言う。ただ、唯識にしたがって、害心が随煩悩と言われても、普通の人には、分かりづらい。そこで、仏教では、別法を用意する。魔を語るのである。

 魔とは、インドのサンスクリット語のマーラ(魔羅)の略で、殺す者を意味する。転じて、人を悩ませ、悟りに到るのを障げるものを、魔と呼ぶ。数え方にもよるが、四魔というときは、
 煩悩魔 貪り、怒り、妬みなどの煩悩を熾させる悪魔
 陰魔  五蘊(肉体と精神)に苦しみを生じさせる悪魔
 死魔  死に至らしめる悪魔
 天魔  人の善行をさまたげる欲界の第六天の魔王
に分類する。他にも、行魔、罪魔などという分類もあるし、人口に膾炙したものに、病魔がある。

 ともあれ、これに従えば、自殺願望は、死魔の誘惑である。凡人が、魔物の誘惑の虜になれば、自力で脱出することは不可能に近い。周囲の者が助けることも、また難(かた)い。経典は、魔羅が、かつて仏の教えを聴きながら、仏の許を去ったものだと説く。これが入れ知恵をするので、自殺を願う者に説得を試みても、驚くほどの反論を受ける。凡人が、これと争って勝ち目はない。場合によっては、救わんとした者も、また、死魔の誘惑に囚われる。

 よって、自殺を企てる者を助けんとすれば、魔物にとり憑かれて正気を失っているのだから死ぬな、と繰り返し語る以外にない。運が良ければ、死魔の目を盗んで、生還するだろう。運が悪ければ助からぬ事、理に添って自殺を語る場合と違うところはない。

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