寺へ嫁ごう

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

はじめに

 掲示板に寄せられた質問の内、答えの長くなりそうなものは、こちらへ廻す。比較的短いものは、賽の河原保育所の方へ廻している。今回は、寺の跡継ぎに見初められた不幸な(ムカデ妻談)二人の女性から、寺の生活について問われたので、その回答である。もちろん、私は真宗の坊主だから、ここで言う寺は、浄土真宗に限られる。更に、寺の有り様は、地域によって千差万別だから、不用意な一般化は厳に慎まれたい。極悪寺の一年を紹介するのを避けたのは、あまりにも個別具体的な例ゆえ、参考にならぬことをおそれたからである。なお、ここで使う「坊守(ぼうもり)」は、住職の妻という意味である。

浄土真宗以外

 浄土真宗以外の寺へ嫁ぐことについては、それぞれの寺に聞くが良い。ただ、思うに、在家仏教を標榜する浄土真宗など一部の宗派を除いて、坊主は生涯独身を建前としてきたから、坊主との結婚には、闇取引の趣がある。従って、今でも蓄妾しながら、表向き独身を装う坊主がいる。
 もちろん、最近では、他宗の坊主にも、臆面もなく堂々と結婚する者が多い。別に他宗のことゆえ、非難するつもりはないが、女房子供と一家団欒している小市民的坊主など、旧仏教の場合は、顰蹙を買って、自分達の首を絞めるだけである。知らぬは本人ばかりで、周囲は冷ややかな眼で見ている。これで、金遣いが荒く生活が派手とくれば、非難されるのは理の当然である。天台、禅、真言など、長く独身を建前としてきた宗派では、結婚した坊主を低い位階(宗派のクズ)に留めて、けじめをつけた方が、宗派の将来のためには得策だと思うがいかがか。
 浄土真宗の坊主には、立派な坊主になれないから真宗の坊主になったという思いが強い。よって、自力修善を標榜する宗派が、真宗坊主並に堕落することには、複雑な思いがある。それゆえの発言と心得られたいが、独身を建前としてきた宗派の寺に嫁ぐのは、疑問である。但し、運が良ければ、極悪寺からは想像もできぬほど豊かな寺に嫁げる可能性はある。少なくとも、真宗寺院へ嫁ぐより、確率は高い。

浄土真宗

 さて、ここからは、寺に無縁の者が真宗寺院へ嫁ぐについて、書き並べる。

1) 名前

 寺へ嫁いで、まず、覚えるべきは名前である。これに3種類有る。一は物の名前、二は人の名前、三は場所の名前である。これを覚えなければ、寺へ嫁いでも、会話が成立しない。何を持ってくるのか、何が傷んだのか、何処にあるのか。必要な単語を覚えなければ、理解不能である。これらは、理屈なしに、とにかく覚えるしかない。

 あ)物の名前
 寺は、一般家庭にない物で溢れている。特に、仏具と、坊主の装束である。本堂に置かれた仏具の名前を、思いつくままに並べてみると、
   花瓶(かひん)、華瓶(けびょう)、香炉、燭台、仏飯器(ぶっぱんき)、
   火舎香炉(かしゃごうろ)、柄香炉(えごうろ)、塗香器(ずこうき)、
   説相箱(せっそうばこ)、前卓(まえじょく)、上卓(うわじょく)、
   須弥壇(しゅみだん)、宮殿(くうでん)、華鬘(けまん)、瓔珞(ようらく)、
   天人蓋(てんにんがい)、打敷(うちしき)、水引(みずひき)等々。
 結構な数に上る。寺には、仏具屋から送られたカタログがあるから、これと現物を見比べながら、覚えるのが良い。

 次に、身につけるものの名前。これも、サラリーマンの家庭には存在しないものが、圧倒的に多い。
   白衣、黒衣、色衣、袴、中啓、二連珠、袈裟
 これに、柄や、素材、生地、サイズの名前が組み合わされる。袈裟を例に取れば、
   柄    八藤(はっとう)紋
   季節   夏用
   サイズ  大(五条袈裟には、大五条、大中五条などがある)
   種類   五条
 以上をまとめて、八籐紋の夏用大(おお)五条などという。仏具同様、寺には、法衣屋から送られてきたカタログがあるから、これを参考にしながら、現物と見比べて覚えるのが良い。

 い)人の名前
 寺は、檀家衆によって支えられている。まずは、この人達の顔と名前を覚えなければならない。特に、寺の役員については、お世話になっているのだから、最優先で覚える必要がある。
 次に、寺同志の付き合いがある。近隣の寺院や、同一組織内の寺院住職の顔と名前を覚えなければ、これまた、寺では会話が成立しない。
 最後に、寺には、出入り業者として定着している取引先がある。これも、早いうちに覚えておく方が良い。寺で必要なものは、一般の店で販売されていないものが多いから、どうしても、業者が固定する傾向がある。例えば、極悪寺の場合、法衣は、京都のO筒と決まっている。ここは、最長一年間のツケがきく。年一回の支払いである。こういう特殊な取引が可能なのも、部長のO山氏との、二十年に渡る信頼関係による。

 う)場所の名前
 概して、寺の敷地は一般住宅より広い。建物も同様に広い。よって、場所を特定できるように、部屋にも、敷地にも、独特の名前がついている。例えば、本堂は、裏堂、内陣、余間、飛燕の間、外陣などに別れる。これらも、順次、覚えていかねばならない。
 こればかりは、それぞれの寺によって違うので、寺の図面を用意して、書き込むのが良いだろう。そういう図面が無い、などと言われたら、それは住職の怠慢である。寺は、寺の現況を示す図面を備え付けるように指導されている。

2) 教義等について

 最近、本願寺教団では、寺族研修会、坊守会などと称して、寺へ嫁いだ者にも、真宗教義を理解させようと目論んでいる。そればかりか、基幹運動と称して、社会問題についても教育せんとしている。
 まず、教義についてだが、私は、坊守がそのようなものに関心を持つ必要はないと考えている。もし、尋ねられたら、住職に聞いておくと答えて、住職の答えを、正確に反復伝達すれば足りる。これを繰り返せば、やがて、自然に覚える。結構なバカでも、龍大の真宗学科を卒業しているのだから、間違いない。よって、私自身、ムカデ妻にも、真宗のことなど教えたことはない。教義など知らずとも、寺のために働けば、自ずから、阿弥陀仏のために働くことになる。それで良いのである。自分が、十年、阿弥陀仏を頂く寺の守をすれば、阿弥陀仏は、自然に自分の生活の一部になる。大切なのは、そういう状態なのであって、足らぬ頭を働かせることではない。
 大体、寺に生活する者が、真に念仏の行者で有れば、嫁いできた者も、やがては、念仏の行者として生きるようになる。もし、何年経っても、自分の嫁いだ寺にまつられる仏に、手を合わせる気にならないとしたら、それは、寺に住む者が、偽者だと断じて良い。(極悪寺のこと。呵々大笑)銭儲けとしての寺ならば、それに徹すればいいだけの話である。元々教義などは邪魔である。
 次に、社会活動について。最近、バカマスコミに煽られて、宗教者が社会的実践に参加しないことを悪だとする風潮がある。しかし、こういう風潮に乗る必要はない。かつて、大日本帝国憲法に従ったまでは良いが、結局は、戦争に加担するに到った愚を、再び犯そうとするものである。今ならば、さしずめ、日本国憲法をせせら笑うくらいのスタンスが良い。従って、妙なアジを聞く暇が有れば、檀家衆からの預かり物である自坊の掃除をする方が良い。繰り返すが、自分の寺の檀家衆の幸せのために働けば、それが、寺の幸せであり、阿弥陀仏の幸せである。その能力のない者が、自坊の檀家衆を差し置いて、社会のために働こうなどというのは、本末転倒である。それでは、寺に無縁の人が救われないと言うなら、自業自得と応えるしかない。寺に近づかない人にはその人なりの人生がある。それだけのことである。古来より、縁無き衆生は度し難しという。

3) 行儀作法

 殊更に、教義など学ばなくても良いが、その宗派で定められた行儀作法は身につけなければならない。数珠の持ち方から始まって、焼香、合掌、礼拝等、どうでも良いことのようだが、実は、檀家衆は、坊守の一挙一投足を見ている。多分に悪意もあるが、多くは、参考にしようという心づもりである。
 これ以外、行儀作法について、一般家庭と異なるところはない。ただ、最近は、一般家庭で、行儀作法の訓練が疎かになっているから、自分の家のレベルは把握しておく方が良い。実際、檀家へお参りに行って、あまりの不作法に驚愕することがある。まあ、檀家のレベルが堕ちているから、昔よりは楽と言えば楽なのだが。それでも、寺独特のものは別にして、大人になって「知りません」では、失笑をかうこと、他の社会と同様である。寺に嫁いで、これが劣等感になることが多いのは確かだから、心しておくに越したことはない。

 なお、これは、行儀作法からは少々離れるが、宗派によって、してはならないとされていることがある。浄土真宗の場合、加持祈祷、卜占(うらない)、願掛けなどは、教義上、禁止事項である。観光旅行に行って、嬉しそうにおみくじなど引くなど以ての外、日の良し悪しを選ぶことも避けたい。星占いが捨てがたい趣味ならば、真宗寺院へ嫁ぐのはやめた方が良い。

4) その他

 寺は、基本的に接客業である。寺によっては、未だにこのことを心得ぬ不届き者があるが、そういう寺は、早晩滅びる。もし、嫁ぎゆく寺が、このことに気づいていないならば、先代の真似をしてはならない。実家が、店や旅館を経営していれば、大いに参考にするが良い。もし、そうでないなら、寺用の書籍は少ないが、飲食店をはじめとする接客業関係の本は多いので、これらを求めて学ぶのがよい。我がムカデ妻は、アルバイト先で、高級ハンドバッグを売りつける名人であったという。今になって、此の時の経験が生かされている。いずれ、このホームページに掲載するつもりだが、本願寺の蓮如上人は、寺が接客業であることを、最もよく知り、これを実践した人だった。(蓮如上人御一代聞書)

おわりに

 以上、寺に嫁ぐ者への心得を、述べてきた。一貫しているのは、口を動かす前に、頭と体を動かすという姿勢である。それは、現代に最も欠けている徳目である。最近、PTAや新興住宅地の自治会活動について耳にするが、口だけ動いて頭と体の動かぬ者が、相当数に上るという。寺へ嫁いで大変だと言いふらす者は、多く、そういう、口を動かすしか取り柄のない家庭に育った者である。多少、覚えることが多いかも知れぬが、それは、何処へ嫁ごうと、何を仕事に選ぼうと、必要なこと。寺へ嫁ぐことに、特別な身構えは無用である。

 サラリーマン家庭は、夫婦でゼロから始めるから、家庭の問題は、その都度、解決しながら築いていく。他方、寺の場合は、既にルールが出来上がっているから、新たに嫁いだ者が、此のルールを学ばなければならない。この意味では、大変だが、ゼロから二人で始めて、自己満足の塊のような醜悪な家庭を作るよりはましである。極悪寺の場合、私一代でここまで来たので、現在、寺で行われていることは、殆ど私が決めたことである。極悪寺の生活が、参考にならない理由はここにある。

 最後に、寺も旧家と呼ばれる家も、次の世代に、これまでの伝統を体系的に伝える術を持たない。次の世代は、観て、真似をして、覚えるのを原則とする。しかるに、現代人は、理由の説明を求め、理由が納得できなければ、動こうとしない。これは、現代人の悪弊であると、これまでにも書いたし、これからも書き続ける。高の知れた自分の頭で理解できるかできないかを基準にして、やるやらないを決めるなど、傲慢以外の何ものでもない。かかる傲慢を当然と考える者は、寺に嫁いで身の不幸を嘆くことになるだろう。
 先代と同じことができるまで模倣を繰り返した上で、どうしても無理なこと、現代にそぐわないことのみ、改めていけば良いのである。伝統と呼ばれるものは、そのようにして伝えられてきたし、伝えていくものである。歌舞伎や江戸落語が、今のようにつまらなくなったのは、明治に入って、インテリと呼ばれる者達が、伝統芸能に妙な理屈を並べ、芸人達がこれを入れたからである。市川猿之助は、これを嫌って、昔の歌舞伎をそのまま伝えようとしている。そして、彼の歌舞伎の方が、遙かにおもしろく、活き活きしていることを、我々は知るべきである。

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