古典への誘(いざな)い

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 なぜ、古典を読めと言うか。曰く、幅と深みのある人間になるから。曰く、教養として等々。いずれも、今時の擦れ枯らした若者に、説得力なき理由が並べられてきた。理由が解らなければ受け入れようとせぬのは現代の悪弊だと、これまでにも書いてきたし、これからも書く。しかし、できれば、説得力ある理由を語るに越したことはない。そこで、情報の寿命という言葉をキーワードに、古典を読めと言う。

 結論から言えば、古典の最大の特徴は、寿命の長さである。寿命の長いものが古典だと言っても良い。今日、伝達手段(メディア)の発達で、我々を取り巻く情報は、恐ろしいほどに増大した。しかし、膨大な情報を吟味してみれば、いくつかに分けられることに気がつく。

 まず第一は、情報と呼ばれているが正体はゴミ、というもの。
 例えばインターネット上には、膨大な個人のホームページがあって、情報発信などと称して家族の紹介をしている。しかし、このような情報を必要とする者が、一体、何人いるだろう。せいぜい、その家族の友人知人、親戚の類(たぐい)だけである。しかも、1年以上更新されていないとなれば、そこには、凡夫凡婦と凡胎の子の古びた写真があるだけだ。もちろん、この家族が悲惨な死を遂げれば、マスコミは、こぞってこのホームページを報道するだろう。しかし、マスコミは、もともと、ゴミを情報と偽って、売り飛ばすのを生業(なりわい)とするから、彼らが取り上げたからといって、価値があるということにはならない。
 芸能情報などと、もっともらしく報道されているゴシップも、これに毛の生えたようなものと断じて差し支えない。誰と誰が乳繰(ちちく)ろうが、子供が産まれようが、まずは、どうでも良いことである。それを、さも重大なことのように装って放送し、、バカの覗き見趣味を満足させているに過ぎない。国の認可を受けた放送事業者が、公共の電波を利用してゴミを垂れ流しているのは問題だが、これについては、別の機会に譲る。

 第二は、一時期有用な情報であるが、寿命の短いもの。
 新聞を例にとれば、解りやすい。私のような偏屈を除けば、どこの家庭でも新聞を定期購読している。そして、古紙の価格が暴落して以来、どこの家庭でも古新聞は邪魔者扱いである。必要な記事は切り抜くなりスキャナで取り込むなりして保存するが、大半はゴミと化す。三日前、十日前の新聞を読み返す者が何人いるか。もちろん、新聞には、良くも悪しくも時代が反映されているから、歴史的な価値はある。したがって、大きな図書館は、過去の新聞記事を、縮刷版やマイクロフィルムで保存している。そういう意味では、特定の人には、比較的寿命の長い情報かもしれない。
 新聞記事のように振り返られることのない情報も、多く存在する。卑近な例で恐縮だが、私がコンピューターを買ったのは、今から十八年前のことである。ようやく漢字の使える8ビットのパソコンが、百万円以下になった時代である。メインメモリは64KB。表示画面は640X200。カラーは、黒も含めて8色。フロッピーディスクは、5インチ320KBだった。以来、16ビット、32ビットと、パソコンが高性能になるにつれて、買い換えてきた。別に、昔話をしようというのではない。言いたいのは、8ビット時代に蓄積した情報の殆どが、今は、全くゴミと化しているということである。生き残ったのは、コンピューターの作動原理、アルゴリズムの考え方など、ごく僅かに過ぎない。モトローラの6809というCPUには、A,Bふたつの8ビットレジスタがあり、これを合わせてCレジスタとして使えば、16ビットレジスタになる。こういう情報は、当時は極めて重要だったが、今となってはゴミである。
 ついでに言えば、ファッション、タウン情報などもこの類である。芸能人は、多く、流行に敏感である。それなればこそ、20年も経って彼らの昔の写真を見ると大笑する。和田アキ子の団扇(うちわ)の骨のごときつけまつげ、江守徹の長髪、ラッパズボンなど、滑稽と言わずに何と言う。
 タウン情報もまた然り。昔、ここに、素敵なイタメシ屋があったなどという情報は、思い出以外には、何ほどの価値もない。

 そして、第三は、寿命の長い情報。古典と呼ばれるものがこれである。論語、聖書、仏典、コーラン等は、二千年ほどの寿命を保ってきた。五百年、千年の寿命を保つものとなれば、枚挙にいとまがない。

 もちろん、理屈と膏薬はどこにでも付くから、その気になれば、こう言える。確かに、古典の寿命は長かったが、現代にいたって、論語も、仏教典も、ついに寿命が尽きたのだ、と。まあ、そこまで言われれば、敢えて反論するつもりはない。悪徳商法の勧誘よろしく、後はあなたの考え方次第である、と応える他ない。

 ただ、若さは、時として馬鹿さに通じることは覚えておくが良い。私は、四十半ばになって、自分の老いを思うようになった。確かに、若いうちは、今を快適に生きられる情報、金になる情報こそありがたい。しかし、今でさえ、記憶力は減退している。おそらく、私が新しいことを覚えられるのは、せいぜい、あと十年である。その間、なお、これまで通り、ゴミ情報や短命な情報ばかりを追い続ければ、五十五歳になった私に、何が残るだろう。思い出としか呼べない情報の残りカスだけではないのか。早逝すれば良いが、もし、八十まで生きることになれば、二十五年の長きに渡って、思い出としか呼べない、情報のカスだけを抱えて生きて行くしかない。そんな私の思い出話に、誰が耳を傾けるか。
 もちろん、耳を傾けてくれると言うならありがたい。それなら、まずは、OS9という優れた8ビットOSの、悲劇の物語から聞いて欲しい。

 他方、寿命の長い情報ならば、おそらく、五十五歳から死ぬまで、かなり有用である。古典として残ってきたものは、多く、人間を主題にする。確かに、人間を取り巻く環境は大きく変化してきた。しかし、人間という生物の有り様が大きく変化した訳ではない。それが証拠に、今も昔も、我々の悩み事は、さほど変わっていない。惚れた腫れたから始まって、家庭、職場の人間関係。金に病気に遊びに仕事。悩む者は皆、自分のことゆえ、一大事だと思い込むが、端から見れば、千年一日の如く、同じ様な悩みを抱えているに過ぎない。古典を紐解けば、人間の悩みの一式など、たちどころに揃う。千年二千年、試行錯誤を繰り返せば、悩み方が出尽くしても不思議はない。同時に、古典には、悩みに対する対処方法も、思いつく限りが、揃っている。人類の歴史もこれだけ長くなれば、可能な解決方法も出尽くそうというものである。

 世に言う新興宗教なども、大方は、かかる古典の継ぎ接(は)ぎに過ぎない。論語からチョイ、仏典からチョイ、聖書からチョイ、とつまみ食いして、科学という名の粉を塗(まぶ)せば一丁上がり。馬鹿馬鹿しいからやらないが、真如苑の教義書程度で良ければ、私にでも書ける。ご希望の方が有れば相談に応ずる。並、上、特上、松、竹、梅。中身は価格次第である。

 話を古典に戻す。お釈迦様の言葉通り、人間は、やがて老いる。その時、わが身を振り返って、思い出と呼ぶ以外にない情報のカスだけを抱えた、侘びしい年寄になりたくなければ、寿命の長い情報にも、心すべきである。若者が、年寄の昔話に耳を傾けないのは、今に始まったことでなく、今後も続くことである。自分もやがて老いゆく身であることは、忘れない方が良い。六十年を越える自分の人生経験と、情報のカスと、古典をない交ぜて語れば、多少なりとも、聞くに堪える話もできようというものである。それは、少なくとも、OS9の話を延々と聞かせるよりは、遙かに良いことだろう。

今の人は古をたづぬべし。また古き人は古をよくつたふべし。物語は失するものなり。書したるものは失せず候ふ 

      (本願寺第八代宗主 蓮如上人御一代記聞書より)

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