高橋是清

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 宮沢喜一が、平成の高橋是清? 冗談じゃないよ。

 高橋是清は、幕府の絵師川村庄右衛門の庶子(妾の子)として生まれ、仙台藩の足軽高橋是忠の養子になる。優秀だったので、藩の留学生として渡米するが、行った先では、ハウスボーイという名の、ほとんど奴隷に近い生活を強いられる。

 逃げるようにアメリカから帰国して、食えない頃には、箱屋までやっていた。箱屋というのは、芸者衆の着物や帯を箱に入れて運ぶ人のこと。芸者衆の着替え、特に、帯を結ぶのを手伝うのも大事な仕事だった。芸者衆の帯は、男が絞めないと形が整わないから、こういう仕事が生まれたのだという。

 以後、森有礼の書生になって、大学南校(東大の前身)に通う。文部省を経て農商務省に入り特許局長まで進む。ところが、90年ペルーの銀山開発に失敗。一旦、野に下る。

 92年日本銀行に入り,95年横浜正金銀行支配人に転じ,99年日銀副総裁に就任。日露戦争の戦費調達の外債募集に成功し,1905年貴族院議員に勅選され,07年には男爵を受け、11年日銀総裁に昇任。1913年第1次山本権兵衛内閣の蔵相となり,同時に政友会に入党。21年11月原敬暗殺のあとを受け,政友会総裁と首相の座を継承する。ところが、妥協を許さない性格が災いして内閣改造に失敗して辞任。

 24年の第2次護憲運動がおこると,爵位を返上し,貴族院議員を辞任して運動に加わることを表明,原敬の選挙区盛岡市より当選。27年金融恐慌に際し,田中義一新首相の懇請で蔵相となり,モラトリアムその他の処置で危機を脱すると在職42日で辞任。

 満州事変勃発後、政友会犬養毅内閣が成立すると、再び蔵相として入閣し、非募債政策を一新して,金輸出再禁止,軍備拡張と農村救済を柱とする積極財政による景気刺激政策を推進した。五・一五事件後の斎藤実内閣にも蔵相として留任,積極財政の具体化のため日本銀行券の発行限度を1.2億円から一挙に10億円に拡大し,赤字公債日銀引受けの道を開いた。(これは、よく考えると危ない手法で、高橋一流の賭だった。) しかし、一転、次の岡田内閣の下では、蔵相として、悪性インフレを警戒して軍事費抑制の予算案を策定する。このため青年将校の恨みを買い、二・二六事件で襲撃を受け射殺された。

 これが、高橋是清の生涯である。波瀾万丈、成功と挫折を繰り返しながら、日本経済のために、命を失った男である。官僚と政治家しか経験のない宮沢喜一如きと同列に論ずるのは、先人に対して無礼というものだろう。両者の共通点は、首相経験者が、高齢でありながら蔵相になったということくらいだ。宮沢の武勇伝といえば、一度、暴漢に刺されそうになって抵抗した程度である。

 宮沢喜一は、バブル経済発生時の蔵相である。当時、円高が進み、政府は、日本企業の輸出競争力低下による国内産業の不振を怖れて、低金利政策を実施する。しかし、日本企業は、政府が想定した以上の体力を持っていた。よって、低金利政策は、早めに変更されるべきだった。ところが、低金利のまま放置したので、低金利の余剰資金は、一斉に土地、株式、ゴルフ会員権などの市場に乱入して、バブルが発生したのである。この低金利を放置した蔵相こそ、宮沢喜一である。

 更に言えば、宮沢喜一は、バブル崩壊時の、首相である。宮沢が、金融機関に対して土地絡みの貸し出しに制限を加え、地価監視制度を設け、更に土地税制を変更したとき、既に土地の価格は下落し始めていた。このタイミングを失した経済の締め付けによって、バブルは一気に崩壊した。過熱した経済を、穏やかに沈静化させるのに失敗したのである。

 つまり、大仰に言えば、宮沢喜一こそ、バブル経済のA級戦犯である。頼むから、日本のバカマスコミよ。小渕ごときの寝言を真に受けて、下らない報道をするのは止めてくれ。

 マスコミが出たところで、ついでにマスコミにもう一言、言っておきたい。地価が暴騰したとき、マスコミは、例によって、庶民の味方面(づら)をして、「地価の高騰で庶民が家を買えなくなる。」と、政府を非難した。政府は、二世代返済ローン、元本返済猶予ローンなど、マスコミの批判に答える形で、様々な施策を実施した。

 現在のローン破綻者は、この当時、収入が将来に渡って増加するという前提で、これらのローンを利用した者である。投機によって土地が上昇しても、いずれは実需に応じた価格に落ち着くのは、理の当然である。「このようなバカげた値段の土地など買うな」と言えば済んだことである。それを、正義の味方ヅラして、騒ぎ立て、更には、地価が下落し始めても、土地の高騰を非難し続けた。マスコミもまた、バブル崩壊のB級戦犯なのだ。

gohome.gif (1403 バイト)