貧(ひん)すれど貪(どん)せず

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 大阪の、桃谷から今里界隈は、下町である。昔ながらの商店街に、夕餉のおかずを求める客が増え、細い道を、洗面器を持った人が歩いていく。帰り道を失った私が、この町へ迷い込んだのは、そんな梅雨の晴れ間の夕暮れだった。歩くのにも疲れて、街路灯にもたれてタバコを吸っている私の目の前を、若い母親が、通り過ぎていった。今時流行りのベビーカーを押さず、小さい子供を背中に背負い、もう一人の子供の手を引いて、買い物袋を下げていた。

 私は、その姿に、40年前の自分を思い出した。母親に手を引かれて歩いていく、おぼつかない足取りの子供は、私そのものだった。背中に負われているのは、今は亡き弟。あの頃、母は、まだ、20代だったはずである。当時、私の家族は、地方都市の郊外に住んでいた。買い物は、町まで出かけていかなければならなかった。母は、町までの往復以外、バスに乗らなかった。安いものを求めて、町のあちこちの店を覗くのは、全て徒歩と決めていた。その母について、ある時は、手を引かれ、ある時は、後を追うようにしながら、私は歩いた。それは、まだ貧しかった昭和30年代の核家族の長子の義務だった。

 今、我が家では、郊外のスーパーマーケットまで、車で買い物に行く。もちろん、バカ娘も同乗する。私の子供時代に比べれば、極楽のような買い出しだが、「車に酔う」などと、贅沢なことを言う。我慢しろと怒鳴ってやる。時には、殴ってやろうかとさえ思う。しかし、生まれたときから、自家用車があるのが当たり前だと思って生きてきたのだから仕方がない、と殴るのだけは堪(こら)えている。

 娘を殴れない理由は、他にもある。我が家同様、スーパーまで買い物に来る大人達である。車を留めるのに、できるだけ店に近い所を求めて、のろのろと、駐車場を走っている。中には、店に近い通路に車を留めるバカもいる。確かに、郊外のスーパーの駐車場は広い。店に近い所と遠い所では、歩く距離が、百メートル以上違う。しかし、歩いて10分以上も違うわけではない。買った商品は、ショッピングカートで車まで運べるから、荷物を提げて歩くわけでもない。それにも関わらず、わずか2,3分を、余分に歩けない。自分達の子供の頃を思い出してみるが良い。車で買い物に来られるようになっただけでも幸せなはずである。少しくらい歩いたところで、罰は当たらない。こういう不様(ぶざま)な大人が増えた以上、我慢しろと怒鳴ることはあっても、殴るわけにはいかない。

 「せっかく車で来たのだから、できるだけ楽をして何が悪いか」と、問う者がいたら、それは、バカを通り越して、大バカである。大人がとことん楽をしてはいけないのである。大人が、多少なりとも何事かを我慢して生きるからこそ、子供に我慢することを教えられる。大人が、楽をしたい一心で日々を暮らしながら、子供に我慢を教えることなどできようはずがない。子供は親の口先などに騙されない。親の後ろ姿を見ているものである。

 小賢(こざか)しい親は、これを心得て、子供に我慢を教えない。「自由」を隠れ蓑にして、子供の躾を放棄している。口にするか否かは別として、インテリを自負する者に、この傾向がある。頭でっかちが何を考えようと自由だが、娑婆は、まず、理屈があって、現実があるのではない。現実があって、それを理解するために理屈を付けるのである。子供を自由に育てる理屈ぐらい、私にでも付けられる。問題は、理屈の出来不出来ではない。教えるべきことを教えないという事実である。サルでさえ、群の一員として生きていくために必要なことは教える。人間が、理屈を振り回して教えるべきことを教えないのは、サル以下の所業である。

 我慢のひとつもせずに日々を暮らせれば、それに越したことはない。極楽浄土は、そのような人々の願いによって生まれたと言っても良い。しかし、極楽浄土が死後の世界であるということは、この娑婆が、極楽浄土になる日など、未来永劫、来ないということである。それにもかかわらず、我慢を教えなければ、不幸になるのは子供である。

 私が子供の頃、まだ、日本中が貧しかった。親も我慢しなければ、生きられなかった。母が我慢していることを子供心に知っていたから、私も黙って母に手を引かれて歩くことができた。良い子でいられた。貧すれば貪す(貧しくなると、むさぼる心が強くなる)というが、貧すれど貪せぬこともある。件(くだん)の親子連れを見送った私は、タクシーを拾うのをやめて、最寄りの駅まで歩くことにした。

gohome.gif (1403 バイト)