蟻を殺すな

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 今から15年ほども前のことである。私は、東京都内の知人宅の庭先で、雑談に花を咲かせていた。そこへ、青年がひとり、やってきた。聞けば、アンケート調査をしているという。話の腰を折られた腹いせに、私と知人で、この青年をからかおうということになった。もちろん、青年の面前で相談などしない。阿吽(あうん)の呼吸である。あちらこちらで断られたと言う青年は、こちらの悪企みにも気づかず、おもむろに聞き取り調査を始めた。今流行りの市場調査(=バカの用語でマーケティングリサーチ)である。

 このやりとりだけでも解るだろうが、実は、こういう調査は、案外、当てにならない。例えば、この時の協力の謝礼は、安物のタオル1本だった。今どき、こんな謝礼で、真剣に回答するほどのお人好しは数少ない。回答するのは、余程の暇人(ひまじん)、いっちょかみ(関西弁で、何にでも顔や口を出したがる者)、誰にも相手にされない嫌われ者である。かく言う我々も、昼下がりの暇つぶしで相手にしたに過ぎない。学生アルバイトが集めてきたこの手の情報が、当てになろうはずがない。

 しかるに、これが集計されて、OX市場調査報告書などという表紙を付けられると、俄然、説得力を増して、会議で幅を利かせるようになる。成り上がりの重役達が、ついこの間までの自分達の生活感覚を忘れてしまっているからである。俄に増えた交際接待費にはしゃいで、食い慣れぬものを食い、行きつけぬ所へ行くからである。今、会社で重役の職にあるものは、皆、私と同年代か、それ以上である。私が憶えている日本でさえ、今からは想像もつかないほどに貧しかった。汲み取り便所に、薪の風呂に、轍の残る地道。そういう環境で大きくなった者ばかりである。多少の金を使って、贅沢をしてみても、卑しい品性の改まろうはずもない。それが重役然として、俄(にわか)成金よろしく、過去を振り切ったのである。正常な生活感覚など、持てるわけがない。かくて、怪しい市場調査報告書は、一人歩きを始める。

 アメリカでビッグスリーと呼ばれた自動車会社は、市場調査と財務諸表だけを睨んで車作りをして、一時、凋落した。この悪弊を合衆国政府にまで持ち込んだのが、マクナマラである。彼こそは、国防長官として、アメリカをベトナム戦争の泥沼に引きずり込んだ張本人である。

 話を戻す。この青年は、一般家庭の蟻に対する意識と蟻用殺虫剤の潜在需要について調べていた。知人と私は、暇つぶしで相手をしていたことも忘れて、蟻を殺すな、蟻用殺虫剤など無用だと、件(くだん)の青年に繰り返した。しかし、数年後、蟻用殺虫剤は発売された。バカの見本のようなタレント(O原健一)に、アリアリコロコロと繰り返させていた。最近では、蟻を殺すだけでは飽きたらず、蟻の巣ごと抹殺する殺虫剤まで登場した。市場調査と称して、先に述べたような下司(げす)を相手に商品開発をした結果である。

 ついでに言えば、調査会社は、多く、東京にある。市場調査を必要とする大企業が東京に集中するからである。いきおい、市場調査の対象は、東京圏に限られる。わざわざ高い費用をかけて、沖縄や北海道まで市場調査には出向かない。加えて、東京圏は人口三千万人という。ここで売れれば、最低限の利益は確保できる。市場調査が、東京圏に偏在するのは、あながち誤りではない。しかし、東京圏という一地方が、情報のみならず、商品にまで色濃く反映されるのはいかがなものか。都市生活とは、それほどの意味のあるものか。

 再び殺虫剤。改めて言うまでもなく、殺虫剤は毒である。製薬会社が農薬と呼ぶものも、大半は殺虫剤とその類(たぐい)である。時折、誤って農薬を飲んだ子供が病院にかつぎ込まれるのは、農薬が何であるかを如実に物語る。農薬という名の毒をもって、虫を殺し、排水で川の生き物を殺し、ひいては、鳥や獣を殺してきた。それが、我が子我が孫を死なせただけのことである。驚くには当たらない。仏罰である。もちろん、農家のみが難じられる謂われはない。僅かな虫食いの作物を嫌がった都市生活者も同罪である。虫も食わぬような作物を、喜んで買う愚か者が減らぬ限り、農薬という名の毒は撒き散らされ続けるだろう。

 それに加えて、蟻用殺虫剤である。ゴキブリ、蝿、蚊などは、病原菌を媒介する。よって、駆除もある程度は致し方ない。しかし、病原菌を媒介しない蟻に、何の罪があるというのか。食物管理を徹底すれば、蟻は家の中へは入ってこない。家の中へ蟻が入るのは、掃除と食べ物管理が行き届いていないせいである。自分の怠慢を顧みず、蟻を殺そうとは、いかなる料簡か。蟻に咬まれるのは、我慢すれば済むことだ。蟻の住処(すみか)に勝手に家を建てたのは、人間の方である。誤って踏みつぶされながら、時には咬まれながら生きていくのを共生というのである。蟻は、他の生物の死骸を始末し、大型の蟻にいたっては、白蟻を餌にする。蟻を殺して、白蟻を増やし、更にまた、白蟻駆除の薬を撒こうというのか。そういえば、最近、白蟻駆除の会社の車を見かけることが多くなった。自分と家族の健康を、ご丁寧に二度も製薬会社に売り渡して、見せかけの快適さに満足するなど、愚の骨頂である。

 蟻用殺虫剤こそは、怪しげな市場調査に、成り上がりの巣窟である重役会が生み出した怪しげな商品の象徴である。ひとあたり害虫を殺し終わって、目標を失った製薬会社が生み出した「ぬえ」である。それを、また、賢げに暮らしながら、実は、薬漬けの都市生活に埋没しているだけの人達が買っている。繰り返して、幾度でも言う。蟻を殺すな。

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