岡目八目

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 俚諺(りげん)に岡目八目(おかめはちもく)という。岡目というのは、傍目(はため)、当事者ではない視点を意味する。目は、碁の陣地を数える単位。つまり、碁を観戦するものは、勝負の当事者より、八目多く獲れるという程の意味である。

 例えば、囲碁の世界のビッグタイトルである本因坊戦は、本因坊という称号を許された去年のチャンピオンと、今年、勝ち抜き戦に残った挑戦者とで争われる。この本因坊戦に、プロ棋士が解説者に付く。つまり、本因坊戦の挑戦者になれなかった棋士が解説するのである。しかるに、この解説者、そこそこにまともなことを言う。当事者でない気楽さ故に、彼は、まさに岡目八目である。

 岡目八目は、野球の評論家・解説者にも見られる。私のように40も半ばになれば、現在、解説者と称する者達の現役時代の様子を知っている。解説者の言を聞いて、「それが解っているなら、なぜ、現役時代に実践しなかったか。」と、問いたくなること、一度ならずである。

 それでも、彼ら解説者は、過去に一定の実績のある者達である。最高位は極められなくとも、最高位にある者と、時には互角に戦い得た者達である。彼らの発言に、説得力があるのは、この為である。

 ところが、宗教の世界では、何の実績もない坊主が、各宗派の本山あたりに巣くっていることが多い。こういう坊主は、自分の出所の寺だけでは食えない。もしくは、父親が食うのが精一杯である。さりとて、他の職業で食えるほどの能もない。仕方なく、本山周辺をうろついて、食いつないでいるのである。

 それが悪いとまでは言わないが、それならそれで、もう少し、無能を自覚して、もの言うべきである。

 今から20年ほど前のこと、私は、当時の檀家総代と共に、住職補任式の為に上山した。その時、我々の前に立った講師の台詞を、私は終生忘れない。「お寺の総代さんは、本堂の片隅で、お金の勘定をしているだけではいけません。み法(のり)を伝える先頭に立つのが、総代というものです。」

 私も癇に障ったが、極悪寺の総代は、その程度では納まらなかった。その場で立ち上がると、講師のバカ坊主に言い放った。「きれい事、言うてはりますけど、どこの寺の総代かて、お金で苦労しとるんと違いますか。誰も、喜んで金の勘定なんかしてませんで。自分の金勘定やったら、おもろいですやろけど。」

 ここに及んで、ようやく、講師のバカ坊主も、気の利いた台詞のつもりが、失言だったと気が付いて、後はしどろもどろに話を終わった。講師が退場した後、私の周りには、人垣ができた。他寺の新住職並びに総代皆共に、当山総代の言に賛同する者ばかりだった。中には、「あの先生、誰のおかげでメシが食えるのか判っていない」と言う者さえあった。

 本願寺派の場合、毎年、冥加金と称して、末寺から上納金を集める。これに本山自身が稼いだ金を加えて、年間収入とする。くだんのバカ講師の礼金も、ここから支出されるのだから、この総代の発言は、当たらずとも遠からずである。自分の寺だけでは食えぬから、その金欲しさに、のこのこ、本山までやって来るバカ坊主の分際で、金に苦労している末寺の住職総代を揶揄するなど、もっての他である。

 他に職業を持たずに寺院経営を行うことは、至難の業(わざ)である。檀家総代をはじめ、多くの檀家に迷惑をかけて、かろうじて、住職専業で寺を維持しているのである。自分の寺だけでは食えぬが故に、本山周辺をうろついて食いつないでいるバカ坊主に、何が判るというのか。偉そうなことを言う暇があったら、まず、自分が寺院経営の範を垂れてみるが良かろう。

 岡目八目というのは、たまさか講師や解説者になった者が、八目分、優位にあるという意味ではない。実力拮抗する者、過去に実績ある者が、当事者と傍観者に立場が別れた場合の、有利不利をいうのである。

(追記)

 俗受けを狙って、かように書きましたが、実は、この御講師様は立派な方だったと思っております。それが証拠に、私は、あれ以来、御本山から命じられる寄付金は、最低限の額を、気が向いたときにお支払いすることにしています。決して、ケチで金払いが悪いのではありません。立派なご講師様のお言葉に随っているだけなのです。