肉食妻帯

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 浄土真宗は肉食妻帯を可とする。開祖親鸞聖人にも、恵信尼(えしんに)という名の妻があった。恵信尼の妻の手紙が現存するのだから確かである。親鸞聖人自身には、仏教の本流になろうなどという気はなかった。非僧非俗(ひそうひぞく=僧に非ず俗に非ず)と称し、坊主でも俗人でもない生き方を貫いた。立派な人間ならば、厳しく戒律を守りつつ、生涯を仏道に捧げればいい。しかし、凡人には、そのような生き方はできまい。ならば、眠たければ寝、食べたければ食べ、女を抱きたければ抱けばいい。そして、眠りから覚めたら、腹くちくなれば、女を抱いた後は、また、阿弥陀仏に救われるという事だけを信じて、念仏して生きてゆけばいい。「信じる心が真(まこと)ならば、いかなる愚か者も救う」というのが阿弥陀仏の誓いだから。親鸞聖人は、そう説いた。かくして、現代に到るまで、浄土真宗の門末は、僧侶の姿をしながら妻帯するという生き方をしてきている。

 こういう態度を妥協的だと言われればそれまでである。確かに、生涯独身を貫いて、仏道精進するのが、正しい僧侶(出家者)のあり方である。たとえ肉食妻帯の真宗イカサマ坊主といえども、僧侶の理想の姿を忘れたわけではない。自分達の有り様が、本来の僧侶から遠く隔たった無惨な姿だということは良く承知している。そして、現代にも、少ないながら、立派な僧侶が存在する事も確かである。

 しかし、そういう尊敬に値する僧侶の陰に隠れて、表向きは独身ということにしながら、実は、妾を囲い、愛人を養う坊主が多数いるのである。中には、自分の愛人を自慢するバカ坊主すらいる。(京都の某寺のXXXX、YYYY、ZZZZ、聞いているか。俺に逆らうと、名前をバラすぞ。)

 居直りと言われるかもしれないが、表向き独身を取り繕いながら、実は妾を囲う坊主に比べれば、恥ずかしながらも、入籍して正妻を持つ方が、大変である。どう大変かは、坊主も一般人も変わるところはない。

 私を例に取れば、日々、愚妻に締めつけられている。「部屋を散らかすな」、「後片付けをしろ」、「犬の散歩に行け」、「犬の餌を作れ」、「まじめに働け」、「好き嫌いを言うな」、「早く寝ろ」、「早く起きろ」、「食べたいものがあるなら買ってこい」、「クリーニング屋へ行ってこい」、等々、並べ始めればキリがない。(滂沱の涙)

 おまけに、愚妻が管理するのは、食費と洗剤・トイレットペーパーなどの日曜雑貨品代のみ。光熱水費に始まり、NHKの受信料に到るまで、私が責任を負わされている。判りやすく言えば、ガス代の残りが私の小遣いである。愚妻に家計全般を委せようと、幾度(いくたび)か交渉してきたが、その都度、「私に任せたら、全部使ってやる」と脅かされて、敗北を重ねてきている。

 しかも、ここだけの話だが、実は、愚妻は、人間ではない。私がこのことに気づいたのは、押入にある愚妻のおびただしいハンドバッグと靴を、しげしげと眺めていたときである。人間、一度に持てるハンドバッグは1つ、履ける靴は一足と決まっている。それにもかかわらず、これだけのバッグと靴を所有するのである。可能な推論は唯一つ。愚妻は百足(むかで)の化身なのである。おそらくは、日中は人間の姿をしているが、深夜ともなれば、百足の正体を現し、このハンドバッグと靴をすべて身につけて、壁を這いずり回っているに違いない。法力ゼロの私が、今日まで食い殺されずに生き長らえてきたのは、ただただ、阿弥陀仏のご加護という他はない。

 理想の出家者からは程遠い自分の姿を嘆きながら、妻という名の魔物と格闘しながら、現実の塵芥にまみれながら、それでも法を説き続ける。おかしゅうて、やがて哀しいのが、肉食妻帯の真宗坊主の姿である。

<追記>

 本稿掲載後、当局から、以下の2項目を明記することを求められたので、不承不承ながら、追記する。

1) 登場する愚妻のバッグ・靴・服は、全て彼女が自分の稼ぎで買ったものであること。

2) 登場する愚妻は、毎月5万円を生活費として支出していること。