良き物語

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 昔、あるところに、世にも珍しい五色の鹿がいた。ある時、ひとりの男が、深い森の中で、穴に落ちてもがいていた。そこをたまたま五色の鹿が通りかかる。

「鹿さん、助けてくれ。」

「もし、私のことを口外しないと約束してくれるならば、助けましょう。」

 男は、決して誰にも話さないと約束して、五色の鹿に助けてもらう。しかし、男は、後に、国王が五色の鹿の居場所を教えた者に褒美を取らせると聞いて、鹿のことを話してしまう。

 国王は、部下を連れて、くだんの森へ行き、ついに五色の鹿を捕らえる。捕らわれた五色の鹿は、国王に聞く。

「どうして、私の居場所がわかったのですか。」

 国王は、自分に知らせた男を指さす。

「あの男が教えてくれたのだ。」

「そうですか。」

 五色の鹿のあまりに哀しそうな目を見て、国王が訊ねた。

「お前はどうしてそれ程哀しそうな目をしているのか。」

 五色の鹿は、自分が男と出会ったいきさつを話した。それを聞いた国王は、五色の鹿を解き放ち、鹿の居場所を教えた男を捉えて城へ帰ったという。

 幼い日に、聞かされた物語だから、仔細は元の話と違っているだろうが、概ねはこの通りである。

 今にして思えば、五色の鹿は、聖なるものの象徴である。己の危険を顧ず、約束を信じて人を助ける。助けられた男は、恩あるものさえ売り飛ばす俗物の象徴。そして、国王は、自分の求めるものを金で手に入れようとする俗物ではあるが、同時に、聖なるものの尊さを知る者でもある。短い物語の中に、人の有り様と、有るべき様が語られている。しかも、この物語は、聖なるものが、金で売られる可能性を説き、人が守ろうとしなければ失われていくものであることを示唆する。それは、今も変わらぬ真実である。

 これだけの内容を、物語以外の方法で、子供に伝える方法はない。もしあったとしても、それには、有る程度の能力が必要だから、万人に可能ではあるまい。物語なればこそ、万人が伝えられるのである。物語には、抽象的な事柄を、平易に伝える力がある。子供は、多くの物語を聞きながら、一見漠とした、この世界の相貌を直感的に獲得していくのである。

 物語は、抽象的故に伝えがたい事柄を平易に伝えるだけではない。人の心を癒す力を持つ。人は誰しも、傷つきながら大人になっていく。幾たびか現実世界で敗北して、空想の世界、物語の世界に逃げ込む。逃げ込めばいい。空想の世界に遊んで、傷を癒して、再び現実と立ち向かえばいいのだ。しかし、逃げ込む空想の世界が貧しければ、傷は癒されることなく、終に現実世界へ戻ることも適わぬ。たとえ戻り来ても、正面から現実と向き合って、生きてはゆけまい。

 それにもかかわらず、我々は、小賢(こざか)しくなる過程(近代化の過程)で、小理屈を並べて多くの物語を葬ってきた。五色の鹿が実在するなら見せてみろ。鹿が喋るか。それほど良くできた王様がいるものか、云々。近代は、何と傲慢な時代であることか。近代的価値観に沿わないものは、すべて、葬り去ってきた。結果、巷には、近代的価値観というお墨付きをいただいた浅薄な物語が流布している。自由、平等、平和。妙に胡散臭いアジテーションが満ちている。

 過去の遺産を切り捨てた穴埋めは、現在、バカマスコミが担当している。まずは、安手のドラマ。次に、少々手の込んだところでは、素人登場番組。あるいは夫婦の馴れ初めを語らせ、あるいは、不遇の人生、成功の人生を語らせる。登場する彼らも、自分達が紡いできた物語を披瀝したいから、双方の思惑は合致する。しかし、夫婦の馴れ初めといえば聞こえは良いが、下品に言えば、そこらのニーチャンネーチャンがどいつとやることにしたか、やらせることにしたかという話でしかない。人生の苦労話もまた然り。その人生を傍らで見ていた人間には、噴飯ものの自己陶酔にしか見えまい。それを、大仰なナレーションと音楽と、バカ面タレントの泣き顔で、安直に盛り上げて見せるのである。

 マスコミに登場する素人を難ずるつもりはない。物語を奪われた時代に、それでも、彼らは皆、自前(じまえ)の物語を紡いで、人生を生きてきた。換言すれば、自分の人生を、まがりなりにも物語という形にまとめ上げることができたのだ。聞いてもらいたいと願うのは宜(むべ)なるかなである。逆に言えば、素人登場番組を熱心に観る者は、未だ、自分の人生の物語を紡げずにいるのだろう。「俺は何のために生きているのか。俺の人生は何だったのか」等々、思い倦ねているのだろう。そういう意味では、自分なりの物語を紡げた者は、物語の内容はともかく、幸せである。

 近代合理主義の名の下、過去の物語を葬れば、夜明けが来ると信じるのは、勝手である。しかし、実際には、良き物語を失い、物語を紡ぎづらい今の日本に、怪しげな物語をささやく者が後を絶たない。空中を浮遊すると言うヒゲ面のブタ、汚れなき神の子だと言う韓国のスケベ親父、霊界通信ができると言う脳天気な東大卒教祖、血液型で性格が判ると言う似非科学者親子、未来を予測すると言う数多(あまた)の占い師。物語なき不毛の世界に、彼らは醜悪な毒花の種を蒔き続けている。

 近代が葬り去った良き物語を、再び共有できる時代が来るのか。私は知らない。しかし、たとえ、嘲られようと、私は、自分が聞かされてきた浄土真宗の物語を大切にして生きていく。浄土真宗は、平たく言えば、「時間と空間を越えて存在する阿弥陀仏という名の仏に救われる」という物語である。笑いたければ笑うがいい。別に反論するつもりはない。私にとっては、五色の鹿の物語と同様に、良き物語だと言う他はないのだから。