大人の知恵

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 「なぜ、勉強しなければいけないのか」と、子供に問われて、真剣に答えようとするのは、愚かである。学問の尊さを語ることも、将来の職業選択に関わると語ることも、愚かと言って悪ければ、無駄である。なぜなら、「なぜ勉強しなければならないか」という表現は、ある種の反語であり、多くの場合、勉強したくないと同義だからである。

 これで、はたと何事かに気づく者に、以下の文は蛇足である。しかし、時には、蛇に足を加えてトカゲを描くことも必要かもしれぬので、書き置く。とはいえ、子供の心理分析などするつもりはない。思弁という、今どき流行らぬやり方で、もう少し、この件を語るだけである。

 子供を注意深く観察してみるといい。子供は、楽しい事をするとき、その理由を問わない。流行歌を聴くときに、「なぜその歌を聴くか」などと問わず、友人と遊びに行くときに、「なぜ、遊びに行くか」と問わない。逆に、楽しくないことをさせられるとき、問う。「なぜ、お使いに行かなければいけないのか」「なぜ、早起きしなければいけないのか」と。

 子供に限らない。大人も、「なぜ、自分ばかりが働かされるのか」「なぜ、給料が低いのか」と自問するとき、大抵は、現状に不満があると言いたいのだ。逆に、楽しいことをするときには、自問したりしない。「なぜ、酒を飲むのか」「なぜ、ゴルフに興じるのか」とは、自問しないのである。

 つまり、「なぜ、勉強しなければいけないのか」と問うのは、答えを知りたいのではなく、むしろ答えがないことを確認したいのである。「なぜ勉強しなければいけないのか」「しなければいけない理由はない」「勉強などしなくていい」。これが、問いの本当に意味するところなのだ。勉強したくないからこそ、この結論を導きたいのである。眼目は、勉強したくないという一点にある。お使い早起きも同様である。反語と呼ぶのはこの意味である。

 それにも関わらず、多くの大人は、うまうまと子供の術中にハマって、懸命に勉強しなければならない理由を語ろうとする。しかし、「絶対に勉強しなければならない理由」などないから、子供に反論されて押し黙る。いな、それ以前に、毎日を惰性で生きている大人が、その生き方を指摘されたら、その時点で勝ち目がない。愚かというのは、このことである。 

 ここまで書けば、お解りだろう。子供に、「なぜ、勉強しなければならないのか」と問われても、理由を語る必要などないのである。逆に、こう問えばいい。
「それは、本当に答えが知りたくて問うているのか。それとも、勉強したくないと言いたいのか」と。

 もし、子供が勉強したくないと答えれば、しめたものである。人生には、嫌でもやらねばならぬ事があるということを、語ればいいのである。惰性に流されて生きている自分を反省しながら、子供と励まし合いながら、生きていこうとすればいいのである。それが、大人の知恵というものである。

 最後に、蛇足ついでに、もう一言付け加えれば、「どうして、毎晩、お酒ばかり飲むのか」、「どうして、休みの日にゴルフばかりしているのか」と、女房が亭主に問う場合も、理由が知りたいからではない。止めろと言っているのである。こういうときは、平和的、ゲリラ的、戦闘的、と、3つほど選択肢がある。

 平和的とは、黙ってうつむいて、相手が疲れるまで文句を言わせる方法。ゲリラ的とは、「楽しいから」と、にっこり答えて意表をついて、あきれさせて気力を削ぐ方法。戦闘的とは、「そうでもしなけりゃ、お前と夫婦なんかやっていられない」と、喧嘩を売る方法である。戦闘的な対応は、亭主絶対有利の場合以外は、あまりお薦めしないこと、これまた蛇足ながら、申し上げておく。