地方都市もまた

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 私が高校へ進学した当時、その地方の公立普通科高校は3校だった。現在は、5校になり、しかも、総合選抜になっている。総合選抜というのは、5校の定員分だけ選抜しておいて、合格者を5校に振り分ける方式である。希望校を受験して、合格不合格が決められるわけではない。

 これによって、普通科高校進学を望んでかなえられる子供とかなえられない子供という不平等は解消された。しかも、総合選抜によって、学校間格差も解消した。学校も平等になった。

 しかし、少子化の中、増加した2校分の定員、およそ五百ないし六百人が余分に合格できるようになったのだから、各校の総合学力は目に見えて低下した。これまでならば合格しなかった学力の人間が、各校に4割も占めるようになったのだから、当たり前の話である。

 その結果、以前ならば、学校の勉強だけしていれば、そこそこの大学へ進学できたのが、学校の勉強だけでは、大学進学が難しくなってきた。それを見越して、大小さまざまな塾や予備校が、その地方にも見られるようになった。加えて大学受験を目的とする私立高校まで開校した。何のことはない。大学進学を希望する親の教育費負担は、私の高校時代に比べて、飛躍的に増加したのである。しかも、子供を公立高校と塾に通わせると、私立高校に通わせるのと同程度の負担になるという。それならば、塾と学校の二重生活にならない分だけ、私立高校の方が子供のためだとうそぶく親まで現れるようになった。

 日本が学歴社会かどうか、私は知らない。確かなのは、女性をナンパするときに、有名大学の方が成功の確率が高いということぐらいである。私のように、弱小寺院の住職をやるのに、学歴がものをいうことはない。しかし、大学を卒業しなければ就けない職が多いのも事実である。

 そうであるならば、金持ちの子供も、貧乏人の子供も、やる気さえあれば、平等に大学教育を受けて、社会に進出できるようにするのが、目指すべき方向ではないのか。今の公教育が目指した平等の方向は、どう考えても誤っている。雨後の毒キノコのごとく乱立する塾は、その証拠である。公教育の誤謬は、大都市とその周辺に留まらず、今や、地方都市にまで及んでいる。