マスコミの正義について

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 マスコミは、ラーメン屋や石鹸屋の広告欲しさに貧乏人の見方をするものだと、以前、書いた。マスコミが、正義の味方を演じるのもまた、貧乏人相手の受け狙いである。多く正義を語る者は、富とも権力とも無縁の人々である。普通の人間ならば、正義のために、自分の権力や富を失うようなまねはしない。

 正義で飯は食えない。正義を売って飯が食えるのは、独りマスコミだけである。足尾鉱毒事件で奔走した田中正造は、衆議院議員でありながら、ついに経済的には恵まれぬままに没した。他方、足尾鉱毒事件を報じた新聞社は、今もなお、ぬくぬくと正義の味方面(づら)で健在である。

 正義など無用だというのではない。ただ、正義は、おのれに向けるものであって、不用意に他者に向けるものではない。マスコミは、正義を売り、正義を振りかざすのを止めて、事実だけを淡々と報じていればよいのである。それでも正義が好きならば、現在の受験体制を非難しながら、「受験によく出る朝日新聞」などという売り方をしている自社の営業姿勢をこそ、問題にすればいい。毎日新聞は、広告料欲しさに、発行部数をごまかす自社の営業姿勢について語ることから始めるべきだ。

 新聞社といえば、今でこそ、立派に聞こえるが、元を正せば、かわら版屋である。明治になって、少々出世はしたが、それでも新聞記者は羽織ゴロと呼ばれた。身なりは立派だが、結局は取材の振りをして、脅したり金を巻き上げたりする輩(やから)が多かったからである。羽織ゴロといって判りにくければ、今回の須磨首切り殺人で、プロバイダに不穏当な掲示板の削除を迫った朝日新聞のことを思い起こせばいい。それでもわからなければ、総会屋と同じご先祖様をいただいていると説明すれば判ってもらえるだろうか。当山極悪寺が須磨からあまり遠くないせいもあって、マスコミの現地での取材の様子が、漏れ聞こえてくるが、名簿買いに取材の強要、羽織ゴロの面影を彷彿させる話がかなり混じっている。

 テレビは、といえば、NHKを除いて、戦後、新聞社の子会社からスタートした。新聞社の重役のせがれで出来の悪いヤツが、多く、親のコネで、ここに入社した。つまり、出来の悪いこと、新聞社以下で、多くを語る必要もない。先人で心あるものは、これを電気紙芝居と呼んで蔑(さげす)んだ。

 旧左傾斜朝日新聞が懐かしさに泣いて喜ぶマルクスの言葉を借りれば、「下部構造は上部構造を規定する」。わかりやすく言えば、「下部構造=経済基盤によって、上部構造=意識や考え方が定まる」というほどの意味である。つまり、発行部数と広告料の増加を求めて、肥大し続けようとする限り、マスコミの、浅ましい体質は改まらないのである。