おとなと嘘

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 嘘つきは泥棒の始まり、と聞いて育った人は多いはず。ご丁寧に、ワシントン大統領の少年時代の物語を聞かされた人もいよう。しかし、長じて、嘘をつかぬ者はない。例えば、上役が新しい背広を着て出社してきたとき、正直に、「課長の顔はマントヒヒに似ているので、何を着ても似合いませんね。」と言う自分を想像してみて欲しい。明るい将来が期待できなくなること必定である。

 子供の嘘を叱っても、その子が正直な大人に育つことを期待しているのでないことは、上の一事をもって明かである。そもそも、凡夫凡婦の子供が、それほど立派に育とうはずがない。もし、何かのはずみで、全き正直者が育てしまったら、それは、バカ正直と呼ばれて、軽んじられる。

 それにも関わらず、嘘をつくなと叱るのは、嘘のつき方を教えるためである。嘘をつくなと教えても、嘘を叱っても、並の子供ならば、嘘をつく。嘘を見抜いた親は、それを叱る。これを繰り返す内に、子供は、ばれる嘘とばれない嘘、ついて良い嘘悪い嘘、その他、嘘にまつわる諸々を学ぶのである。子供は、ある時期までは、一方的に嘘を見破られる。しかし、嘘を見破られ続ける内に、やがて、相手の嘘を見破る術(すべ)を身につけるのである。

 それならば、初めから、上手な嘘のつき方を教えれば良さそうなものだが、そんなことをすれば、嘘つきを認めてしまうことになる。社会の秩序を維持するためには、やはり、正直は徳目なのである。嘘が許されるのは、例外である。しかも、原則と例外の線引きは微妙な上に、国と時代で変わるので、形式的、一義的には、決められない。よって、この線引きを伝えるには、気の遠くなるような躾が必要なのである。

 文化は、先人の後ろ姿を見続けることによって伝承されるだけではない。大人と子供の、真剣なせめぎ合いを通しても伝えられていくものである。嘘のつき方も、広い意味での文化の伝承だと言ったら、言い過ぎだろうか。