阪神大震災

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

 わずか11歳だった。まだ駆け出しだった私のことを、何かにつけて引き立てて下さった老師の愛孫だった。初めて逢ったのは、彼女が1歳を過ぎたばかり、当時は、老師もお元気だった。

 倒壊した建物の下に4時間ほども閉じこめられながら、他の4人の家族は無事だった。いかなる巡り合わせか、彼女だけが、あの大震災の犠牲になってしまった。

 250ccのスクーターで、神戸の遺体安置所を訪ね歩いて、ようやく探し出した彼女は、毛布と布団にくるまれて、王子動物園のホールに寝かされていた。どこの遺体安置所にも、100体を越える遺体が並べられていた。惨劇から24時間ほどしか経過していないのに、すでに、悪臭が、安置所に立ちこめていた。犠牲者の多くが圧死で、十分な死後処理をされていないせいだった。

 パンクに怯えながら、廃虚の街から自家用車で遺体を運び出して、神戸市北区の同門寺院に安置したのは、19日の夜だった。にわか造りのベニヤの柩(ひつぎ)、参列したのは両親だけのささやかな葬儀を営んだ。

 翌朝、生前愛した百合の花と共に、柩(ひつぎ)を斎場に納めた。斎場の世話は、同門の有志が引き受けてくれた。寺への帰り道、振り返れば、田園の中空に煙は静かに立ち昇り、今は亡き老師の元に届きそうに思われた。

  君逝きし がれきの街に 冬の雨