北海道旅行記(その4)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝

2001年09月09日

八月三十日(金)

 目を覚まして、枕元の腕時計を確かめると、午前七時半だった。ムカデ妻は、またしても朝風呂から帰ったばかりである。どうやら、ムカデ妻の帰ってきた物音で、私は目を覚ましたらしい。昨夜、夜更かしをしたので、まだ、少々、寝足らぬ感じがする。また、バスの中で寝るか。
 今回の旅行は、移動距離が長いので、バスに乗っている時間も長い。大抵は、バスに乗り込んで、ガイドから次の予定を説明されると、そのまま寝る。優秀なガイドは、この辺りの説明のタイミングがしっかりしているので、安心して眠れる。
 寝るといっても、三十分くらいの仮眠である。私は、大して芸のない人間だが、普段から、二十分あれば、十分間、寝て、残りの十分間で目を覚ますことができる。「いつでも、どこでも、いくらでも」寝られるのが、私の特技である。

 朝食は、ここもバイキングである。前日の宿より品揃えが良い。ただ、食堂が大きいので、座る席によっては、食べ物を取るのに、かなり歩かなければならない。その点、前日の宿は、ここより食堂が小さい分、便利だった。

 「北こぶし」を出て、しばらくバスで走ると、オシンコシンの滝に出る。この辺りは、国有地なので、売店などは、国有地を借り受けて営業している。正確には、斜里町が国から借り受け、業者に貸している。
 売店の店先に、砂糖の原料になる甜菜(てんさい)が置いてあった。砂糖黍(きび)を見たことはあるが、甜菜を見るのは始めてである。表面の色は馬鈴薯、形は大型の薩摩芋だと思えば良い。
 知床半島には、多くの原生林が残っている。この原生林を経た水が、沢山の滝になって海に注いでいる。オシンコシンの滝も、そういう滝のひとつである。
 最近、判ってきたことだが、実は、川こそが、豊かな海を育くんでいる。川の水が良質ならば、河口付近に豊かな海草が育つ。海草が豊かだと、多くの魚が生息する。森と川を守ることは、すなわち、海を守ることなのである。

 前にも書いたが、今回の旅行は、JTBが用意した北海道号という定期観光バス路線を利用する。そして、複数の路線を走る北海道号を乗り換えることで、様々な旅程が組まれている。その乗り換え場所が、網走のオホーツクバザールである。我々は乗り換えないが、乗客の一部が乗り換えるので、我々の乗ったバスも、再び、網走へ向かう。
 前日同様、バスの車内で、昼食の予約を訊ねられる。別に、強制ではないので、今回は、何も予約しない。バイキングで、しっかりと朝食を摂っているので、食欲がない。

 オホーツクバザールに到着すると、私とムカデ妻は、タクシーを呼んで、網走駅前へ向かった。地方都市は、鉄道の駅を中心に発達していると考えたからである。JR網走駅前へ出れば、地元の人が利用する食堂くらいはあるだろう。
 しかし、これは誤り。網走市の繁華街は、JR網走駅より、更に東へ1キロほど行ったところだという。勝手な思い込みで、JRの駅前に降り立って、何と寂れたところだろうと、一瞬たりとも考えた自分の不明を恥じるばかりである。
 幸い、駅前に蕎麦屋があったので、ここで、二人でざるそばを食べた。少し、胃を休めて、今宵に備えようというさもしい魂胆である。蕎麦屋といっても、「ホテルしんばし」一階の「蛇の目」という和食堂である。ここのテーブルには、関東風の箸立てではなく、関西風の箸箱が置いてある。
 網走駅前には、これといった店は少ないし、駅の正面、道路を隔てた最高の立地のビルなどは、完全に閉鎖されている。しかし、駅傍には、「麗門亭」というインターネットのできる店がある。パック旅行には無縁だが、気ままな旅行をするときは、立ち寄って見たい店である。

 タクシーで、再び、バスの待つオホーツクバザールへ戻る。バスが出発してみると、四名ほどが、入れ替わっていた。しかし、シーズンも終わりということで、観光客の人数は、バスの定員の半分以下である。これは、初日から、多少、人の出入りはあるものの変わりがない。おかげで、乗客全員が、一人で二人分の席を利用できる。横幅の広い私には、ありがたいことである。
 女満別空港からの乗客がいないとかで、バスは、網走湖畔を通って、真っ直ぐ、美幌(びほろ)峠へと向かう。峠を越えれば、眼下に屈斜路湖が見える。屈斜路湖は、明日の見学地なので、バスは、そのまま摩周湖に向かう。
 摩周湖周辺は国有地なので、許可がなければ、車で湖岸まで近づくことができない。湖を見下ろす展望台から眺めるだけである。今日のように雨が降っていると、霧に隠れて見えないこともあるらしいが、幸い、この時だけ、僅かに薄日が差して、湖面を見ることができた。まさに、「霧の摩周湖」である。布施明の往年のヒット曲を書いても良いのだが、気が引けるので、一人で口ずさむだけにしておく。自分の持ち歌は書きづらい。

 午後四時、バスは、予定通り、今宵の宿である「阿寒グランドホテル鶴雅」に到着した。ここは、「その1」で書いた如く、ムカデ妻が宿泊を希望したホテルである。実際に宿泊して、私が、三軒中、第一位の評価をしたホテルでもある。
 まずは、このホテルのホームページを一巡していただきたい。331ページ、約900ファイルと、実に気合いが入っている。仕上がりから見て、明らかにプロの手になるサイトだが、経営者が、かなり内容に口を出していることが判る。「インターネットの時代だから、ウチも、ひとつ、ホームページとやらを作ってみようか」というレベルのサイトではない。

 今回、ここを一位とした最大の理由は、まさに、この「泊まり客に伝わる経営者の心」である。以下、具体的に書いてみる。
 まず、第一に、浴衣である。これまで、温泉旅館を利用して、感じてきたことがある。時に、私に合うサイズの浴衣が無いのである。あっても、せっかく畳んである浴衣の襟を見なければ、大きさが判らない。おまけに、大と書いてあっても、浴衣によって、実寸が違う。そういう宿でも、電話をすれば、大抵の旅館が持ってくる。それならば、客が入室したときに、およその体格から判断して、確認すれば良さそうなものだが、これをしない。鶴雅では、浴衣の入っている引き出しを少しだけ開けてある。引き出しには、サイズの違う浴衣が並び、対応する身長が書いてある。

 第二に風呂。露天風呂では、少々、ぬるすぎると思われるほどの低温である。しかし、私の入浴中でも、係りの者が検温していたので、これが、経営者の意図する湯温である。前に書いたが、長湯を嫌う旅館では、湯温を高めに設定する。ここの湯温は、三軒中、最低で、実にのんびりと入浴できる。しかも、長めに入れば、体が充分に温まるので、湯上がりに風邪をひくことはない。
 露天風呂ブームということで、最近では、どこの旅館も露天風呂を設置しているが、北こぶしのように、必然性を感じられない露天風呂もある。しかし、ここの一階の露天風呂は、阿寒湖を一望できる。これこそ、本来の露天風呂である。但し、あまりにも阿寒湖に近く眺望が良いので、用心しないと、観光船から丸見えになる。したがって、女性客は、早朝に利用できるように時間帯を調整している。
 この露天風呂で首を傾げたのは、湯船の底に敷き詰められた玉砂利である。湯船の中を歩くと、足の下ろし方によっては、足の裏が痛い。特に、湯でふやけていると、痛みは倍加する。これは、どういう趣旨なのだろうか。
 この玉砂利のせいで、湯船の中を移動するときは、中腰になる必要がある。こうすれば、足の裏にかかる体重が減少するので、痛くない。もし、入浴客が、そういう姿勢で移動することを期待してのことなら、湖上から丸見えの露天風呂では名案だが、その旨、明記した方が良い。
 屋内の風呂も、設備が充実しており、クアハウス並である。湯船には、低温、高温などと表示され、一々、手を浸けて確認する必要がない。浴室内でも、飲み物を購入できるようにしている。ただ、意欲は買うが、これは、やりすぎ。脱衣場あたりで充分だろう。

 第三に、食事である。夕食がバイキング形式の場合、和風、イタリア風、中華風、そして南国の果物のエリアを設けて、多様なメニューを用意している。いくら、蟹などの値の張る食材も充分に用意し、冷凍戻しながら、ステーキ肉も、そこそこのものを使っている。もし、冷凍戻しでなければ訂正するが、少なくとも、そう思わせるほどの肉汁(業界用語でドリップ)が、肉を使い切った後の袋に残っていたのは目撃している。
 私のような下戸には無縁の話だが、ワイン他の洋酒も充実している。さすがに別料金だが、酒と食事を切り離せない向きには、十勝ワインなど、地元のワインを試すのも良い。

 これ以外にも、鶴雅は、様々な試みを取り入れている。例えば、部屋の鍵は二つ渡された。大浴場へ行こうとすれば、風呂帰りは、男女別々になる。これまでは、フロントに鍵を預けて、どちらか先に上がった方が鍵を取りに行かねばならなかった。二つあれば、このような手間は省ける。

 かくして、ここを第一位としたが、その理由は、あくまでも、宿の主(あるじ)の心を評価したものである。従業員教育は、「北こぶし」の方が上である。一例を挙げれば、バイキング会場で、席を案内するときに、席が二転、三転したし、おそらく、着席した者には、皆、冷製スープを配ることになっていたはずだが、私達のテーブルには、来なかった。騒ぎそうな子供のいる家族連れとそれ以外の客を分けようと努力してはいたようだが、必ずしも上手くいっていなかった。
 それでも、バブル崩壊後に新装し、新しいコンセプトを導入して頑張ろうという心意気を感じるから、ここを第一位にした。今、全国の温泉旅館は、存亡の危機に立たされ、既に、倒産する旅館やホテルが続出している。そのような時期に、敢えて、新しい試みを取り入れながら頑張ろうとしている心意気を、私は買いたいのである。

 話を旅行に戻す。旅館に着いた私とムカデ妻は、旅館近くに軒を連ねる土産物店とアイヌコタンを覗いて廻った。
 アイヌは、統一国家も文字も持たなかったので、その全体像は今も謎が多いが、かつては、東北地方北部、北海道、千島、樺太の広範囲に渡って生活していた。東北各地には、今も、アイヌ語が語源と思われる地名が残っている。
 和人とアイヌとの関係は、七世紀半ばに、阿部比羅夫(ひらふ)が蝦夷を討った頃から、文書に登場する。もっとも、この当時の蝦夷という言葉は、アイヌ民族を特定する言葉ではなかったという説もあるので、これが最初と断定はできない。
 いずれにせよ、これ以後、十五世紀に至るまで、和人とアイヌは、大きな武力衝突をすることなく、交流を続けている。当時、和人側は、秋田城介(あきたじょうのすけ)という官職が、アイヌとの交易を所轄したと言われる。この間、アイヌは、十三世紀頃から、活発に樺太進出を繰り返し、先住民族のギリヤークと抗争を続けている。ギリヤークは元に援軍を要請し、フビライは、これ以後、数度に渡って、兵を派遣している。
 和人とアイヌの関係が大きく変化するのは、十五世紀に、東北から蝦夷地へ逃げた安東盛季と共に、多くの和人が移住した頃からである。安東らが鮭の遡上する川沿いに移住したことから、アイヌの権益を侵し、ついに衝突する(コシャマインの戦い)。以後、十七世紀のシャクシャインの戦い、十八世紀のクナシリ・メナシの戦いを経て、和人の北海道南部支配が確立する。
 明治新政府は、北海道開拓使を設置し、蝦夷地を北海道と改名する。明治四年に、戸籍法を制定し(壬申戸籍)、アイヌを平民に編入し、同化政策を始める。これ以後の歴史については、オーストラリアのアポリジニ、アメリカのインデアンに酷似している。すなわち、侵略者の都合によって、保護政策(飴)と強制移住(鞭)が繰り返され、次第に弱体化させていくのである。
 平成九年に、「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」が制定されたので、最近、アイヌに関する出版は、以前より活発になってきている。関連サイトもある。明治以降のアイヌ政策についての詳細はそちらに譲る。ここでは、ひとつだけ、書いておきたい。それは、「北海道旧土人保護法」、「旭川市旧土人保護地処分法」という古い法律が、途中、幾度か改正されたとはいえ、つい最近、平成九年に廃止されたことである。

 北海道をバスで巡ると、どうしても、観光ガイドの話が、土地土地での、明治開拓時代の苦労話になりがちである。屯田兵や開拓民の辛酸努力には敬意を払うが、アイヌから観れば、不愉快な存在であったに違いない。有り体に言えば、強い者が弱い者を支配するという、今に至っても変わらぬ話でしかない。私が睡魔に襲われたとしても、それほど責められることではあるまい。

 アイヌコタンで、民芸品を覗くついでに、「アイヌの知恵 ウパシクマ」(1)、(2)を買った。サブタイトルが「アイヌの知恵」というのは、本の中身を連想させる言葉としては不適当だろう。「日英対訳アイヌ語絵本」とする方が良い。制作者の思い入れが強すぎると、時々、こういう現象が起こる。「シベリア長期抑留の記録」が「朔北の道草」という書名だったことを思い出した。書名やサブタイトルは、中身を的確に表現するのが良い。因みに、「ウパシクマ」は、「故事来歴、語り継がれしもの」という意味である。実際には、シが小さく表記されるらしいが、インターネット上では、大きいまま、表記されている。

 予定としては、夜になったら、アイヌ舞踊を観に行こうと、ムカデ妻と語らっていたが、たらふくご馳走を喰らい、ゆっくりと温泉に浸かったら、その元気が失せた。歳は取りたくないものである。結局、テレビをつけることもなく、早々に、眠りについてしまった。
 本日の移動距離、約230キロ、歩いた距離、1万歩。

 

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