最低山極悪寺 珍宝院釈法伝 法伝 どうも。今日は、お釈迦様の修行の最終回をお聞きしに来ました。しかもお茶菓子持参です。 本住 茶菓子持参とは良い心がけだが、法事のお菓子の余り物じゃないのか。 法伝 ありゃ、バレましたか。実は、沢山いただいたものですから。まあ、そう、堅いことを言わずに、お茶を出して下さいよ。 本住 ふむ。それではお釈迦様の修行の話をするか。苦行を捨てたお釈迦様は、食を求めて、村々を托鉢してまわられたんだ。 法伝 栄養をつけなければ、悟る前に死んでしまいますもんね。ところで、6年間、一緒に苦行をしていた5人の仲間はどうしたんですか。 本住 お釈迦様が堕落したと思い込んで、ペナレスの地へ去ったらしい。 法伝 そして、独りになったお釈迦様は、托鉢の途上、資産家の娘スジャータに出逢う。 本住 良く知っているな。スジャータというのは、善生(ぜんしょう)という意味なんだが。 法伝 ピッチャーミルクの名前になっていますからね。お釈迦様は、彼女から、乳粥をもらったんでしょう? 本住そうだ。この粥を49個の団子にして、悟りを開くまでの食料とされた。そして、ネーランジャラー河(尼蓮禅河=にれんぜんが)のほとりの大木の幹を背にして、座禅を組まれる。その身に何が起ころうと、悟りを開くまでは結跏趺坐(けっかふざ)を解かないという決死の覚悟であったという。 法伝 ところが、マーラ(魔王)が邪魔をしに来る。人が一生懸命やっていることを邪魔するほどおもしろいことはないですからね。 本住 お前の言うことは不謹慎だが、妙に人の心を言い当てているな。魔王は、風を起こし、石、刀、槍、砂、泥などをお釈迦様に浴びせた。何としても、お釈迦様の悟りを妨害したかったのだ。 法伝 不思議ですよね。一生懸命何かしようとすると、雑念、妄念が湧いてきます。ここで言うマーラも、そういうものだったんでしょうかねえ。 本住 そうかもしれん。 法伝 あれでしょう、男根のことをマラと言うのは、このマーラが語源の、坊主の隠語だったんでしょう? 本住 そういうことを話す場所かね、ここは。 法伝 すいません。話を戻しましょう。 本住 どのような妨害も、お釈迦様の道を求めようと言う決意を変えることはできなかった。自分の過去に思いを巡らせ、多くの人々の背負う業に思いを巡らせ、人生は苦であると思い至った。そして、ついに、苦から解放される道を見つけることができた。 法伝 十二因縁ですね。 本住 まあ、十二因縁は後に追加された説明だろうが、基本的には、そういう内容だっただろう。ところで、十二因縁の説明はできるんだろうね。仏教の根本に関わる部分だから、これが理解できていなかったら、如何に私でも、お前を破門するよ。 法伝 ありゃ、久しぶりに真剣ですね。奥様と喧嘩なさったとか。 本住 たわけ、お前と違うわ。 法伝 ウチは、夫婦喧嘩なんかしませんよ。と言うより、ムカデ妻が強すぎて、喧嘩になりませんよ。聞いて下さい。この間など、私が、...。 本住 要らぬことは、言わなくてもいい。十二因縁の話じゃ。 法伝 そうでした、そうでした。十二因縁というのは、今風に言うと、大体、こういうことでしょう。まず、最初に、我々の人生は苦しみに満ちている、という前提から始める。 本住 うむ。仏教では、昔から、四苦八苦と呼んでいるな。言えるかい? 法伝 まず、四苦は、生まれて、老いて、病気になって、死んでいく、という四つの苦しみ。他の四つは、愛するものと別れ(愛別離苦)、憎しむものと出会い(怨憎会苦)、求めるものは得られず(求不得苦)、この肉体があるために苦しむ(五蘊盛苦)。以上合わせて、四苦八苦。 本住 まあ、これ以外にも、人生には、実に様々な苦しみがあるがねえ。 法伝 人生は苦しみに満ちている。なぜ、我々が苦しむかというと、それは、自分と世界を正しく観ていないから。正しく観られないのは、煩悩で眼(まなこ)を塞がれているから。 本住 それを、もう少し、丁寧に説明してごらん。 法伝 詳しく、ですか。例えば、人間は、生まれて老いて病んで死んでいく。二、三十年も人間をやっていれば、誰でも、そのくらいのことは知っていますよね。 本住 経験則というヤツだな。証明されている、というほど厳密ではないけれど、まあ、経験上間違いないだろうと、万人が認める法則みたいなものだね。若くして死んだり、健康な者が事故死するということはあるが、それでも、概ね、人間は、生老病死を避けられない。 法伝 そうです。ところが、我々は、そういう経験則を知っていながら、自分が可愛いから、自分と自分の周りの人間だけは、その経験則の例外でありたいと願う。例外だと思い込んでいる。まあ、そこまでいかなくても、自分が、生老病死という経験則に支配されていることを忘れている。 本住 そういう自分が可愛いという思いから起こる様々な思いを、煩悩というんだね。 法伝 つまり、我々は、経験則を体得していながら、煩悩のために、その経験則が見えなくなっている。お釈迦様は、そう考えられたのでしょう? 本住 すると、どうなる? 法伝 経験則から逃れられる人間はいないから、煩悩に支配された自分の思い込みは、現実に裏切られてしまいます。いつまでも若いつもりが歳を取り、健康なはずが病気になり、自分の死に怯え、大切な人と死に別れて、苦しまなければならない。ということになります。 本住 そうだね。これまでの話を逆の方から整理すれば、こういうことだろう。 法伝 これは、生老病死以外の、様々な苦しみについても言えることですよね。愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとっく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)などでも。 本住 もちろんそうだ。我々が生きるということは、愛する者と別れ、憎しむ者と出逢い、求めて得られず、肉体を持つがゆえに様々な苦痛を経験するということだ。それを、自分だけは、愛する者と別れたくない、憎しむ者と出会いたくない、求めたものは全て手に入れたい、体は快楽だけを感じていたい。そういう自分勝手なことを願うから、苦しまなければいけないということだ。 法伝 我々が苦しむ理由を、こう考えると、苦しみから解放される方法が見えてきますよね。つまり、我々の眼を曇らせる煩悩をなくせば良いのだ、と。 本住 そう、煩悩消滅こそは、我々が苦しみから解放される道だというのが、お釈迦様の結論だった。そして、お釈迦様は、ついに自分の煩悩を滅することに成功する。ここに、お釈迦様の修行は完成する。時に、お釈迦様は、三十五歳だったという。 法伝 多感な少年時代から、三十五歳まで、思えば、長い道のりだったのですねえ。 本住 本当だね。しかし、お釈迦様の生涯は、これで終わるわけではない。この後、四十年以上にわたって、伝道の旅を続けられる。 法伝 次回からは、悟りを開かれたお釈迦様のお話を伺います。 本住 そういうことにするか。
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