お釈迦様の生涯 (3)

最低山極悪寺 珍宝院釈法伝


法伝    報恩講も終わって、ようやく暇になりましたねえ。

本住  そうだねえ。ところで、今日は、お前さんが、四門出遊の話をしてくれるんだったね。

法伝  ありゃ、覚えてました?  

本住  まだ、そこまで呆けちゃいないよ。

法伝  四門というのは、お釈迦様が住んでおられた宮殿の東西南北に設けられた門のことでしょう。

本住  そうだ。

法伝  ある日、遊びに行こうとして、東門から出かけると、哀れな姿の老人に出会った。引き返して、南門から出ると病人、西門から出ると死人に出会った。そして、北門からでかけると、修行者に出会った。

本住  ニダーナカター、ラリタヴィスタラというお経に出ている話だね。

法伝  生来、感受性の強かったお釈迦様は、この時、人のはかなさを思い知った。同時に、姿はみすぼらしいが、道を求めて遊行する修行者に感動する。

本住  本当に、四門を出たかどうかは判らないが、生老病死の苦しみから解放されたいと願ったのは事実だろうね。

法伝  少し出来過ぎた話ですね。

本住  お前なあ、そういうことばかり言っているから、嫌われるんだよ、坊主仲間から。しかしまあ、確かに、お釈迦様の出家には、それ以外の理由があったという人もいる。

法伝  やっぱりね。で、どういう理由ですか。

本住  当時、釈迦族の国は、コーサラとマガダという二つの強国に挟まれた弱小国だった。釈迦族は、コーサラに属していたが、その境遇は危ういものだった。両国が争えば、多大の犠牲を強いられる。しかも、どうあがいてみても、両大国の狭間で、第三の大国にはなれない。英明なお釈迦様には、耐えられない状況だったのだろうねえ。  

法伝  お釈迦様は、いずれ、釈迦族が滅びると感じていたのでしょうか。

本住  どうだろう。ただ、人間のもろさ、はかなさに耐えきれずに出家したというのならば、それは、逃避でしかない。ひょっとすると、お釈迦様の胸中には、やがておとずれる釈迦族滅亡の予感があったのかもしれないね。

法伝  しかも、他の釈迦族の人達は、もうひとつ、そのあたりの状況が理解できていなかった。

本住  そうだ。いずれ、釈迦族の滅亡の話をするときに、そのことにも触れてみよう。

法伝  とにかく、お釈迦様は、国も妻子も捨てて、出家してしまうんですね。

本住  苦しい決断だっただろうね。お釈迦様を、遠くアノーマー川のほとりまで運んだ愛馬チャンナは、別れの悲しみに耐えかねて、胸張り裂けてしんでしまったという。最後までついてきた、御者のチャンナも、泣きながら、お釈迦様と別れた。お釈迦様が無事だということを父浄飯王(スッドーダナ)に伝えるために。

法伝  そして、いよいよ、お釈迦様の修業時代が始まるわけですね。

本住  うん。当時の北インド地方は、新しい思想に満ちあふれていた。まさに、百家争鳴の時代だった。そういう思想的には、比較的自由な時代の中で、お釈迦様は、修行を始められることになる。

法伝  次回は、お釈迦様の修行について、話してもらえますか。

本住  いいだろう。少しは予習してこいよ。 

法伝  そんなあ、学生時代みたいな事は言いっこなしですよ。

本住  相変わらず勉強嫌いの坊主だねえ。

法伝  それが良いんですよ。近頃の真宗の坊主みたいに、頭が悪いくせに中途半端に勉強なんかすると、ろくな事はないですよ。

本住  まあ、確かにそれは言えるわな。