「虚空(そら)にいた少女」

― Hope was all I had until you came ―









 彼女は、笑わなかった。

 いつも…
 休み時間も、昼休みも、体育の時も…何かのイベントがあった時でさえ。
 みんなが楽しそうに友達と語らってる時、いつも彼女は独りだった。

 まるで、興味なんて無いみたいに。
 だけど…僕は、きっと僕だけは気付いてる。
 ふと、彼女の紅い瞳が揺れる事を。痛々しい…そう思えるほどの切なさに震える事を。



「綾波」

 シンジは窓辺で独り座っているレイに声をかける。
 不思議と呼ぶ声に、いつものたどたどしさは無かった。

「…なに?」

 声が聞こえるまで、彼女は窓からグラウンドを見下ろしていたが、ゆっくりとその紅い瞳を
シンジに向ける。
 そこには感情の色は何も映っていないように見えたが、微か…シンジだけが分かる悲しみの色が
確かに感じられた。
「あのさ…」
 窓の外には、夕日が広がっていた。そこから彩られる夕焼け…全てを塗りつぶす紅が、教室を単一の
世界に変える。彼女の紅い瞳は、その中でもはっきりと際立ってシンジを射抜く。
 時折窓から吹き込む風に、銀蒼の髪がたおやかに揺れ、紅く染まった肌にアーチを掛けていた。

 …綺麗だ…

 普段の僕だったら絶対に照れてしまうようなはずかしい言葉を、心のうちに留める。
 先程微かに覚えた動揺は、その非現実的なまでの美しさにかき消されてしまったみたいだ。

「…どうして、こんな所に独りでいるの?」
「………………」

 レイは無言で窓の外を見下ろす。シンジに声を掛けられるまで、そうしていたそのままに…
 左の肘を机について、手のひらで顎から頬を支えて。
 その瞳は、何も映していなかった。だが、下から伝わってくる喧騒は確かに彼女の耳に届いていた。

 シンジは無言でレイの隣に立ち、同じように窓の下を見下ろす。

 グラウンドでは、彼の級友達が必死に競技を繰り広げているのが見える。
 勝負を掛けたクライマックスが近づいているせいか、応援する方も、そして戦う方も一層の気合いが
入っている。
 聞こえてくる応援の声は、この静か過ぎる空間にはまるで激しいビートのように鳴り響いている。

 今日はシンジ達の学校の体育祭。
 退屈極まりない日々の学校生活の中で、数少ない変化を提供してくれる日であり、まして今はクラスの
勝敗を分けるリレーが始まろうという時間だ。
 幼なじみのアスカや親友のトウジなどは、朝から我先にとばかりにはしゃぎまくり、朝からうるさい事
この上ない状況であった。無論今は二人とも選手としてやる気まんまんで控えていることだろう。
 表面上やる気の無さそうだった生徒達でさえ今は外で自分達のクラスを応援していて、今ここにいる
のはシンジとレイ、二人だけ。

「…碇くんは、どうしてここにいるの?」
「えっ?」

 突然沈黙を破ったレイの声に、シンジは驚く。だがすぐに落ち着きを取り戻すと、答えた。

「あ…僕はケンスケに頼まれて、ペンを取りに来たんだ。あいつ、ビデオの録画で忙しいから…」
「そう……いいの? 行かなくて」
「うん…そうなんだけど…」

 やっぱり、行かなきゃまずいんだろうけど…でも…

 シンジは躊躇していた。先程垣間見たレイの寂しそうな瞳が脳裏に焼き付いて、離れない。
 そして再びこちらを見つめる瞳は、やはりとても寂しそうだった。

「あ…うん。いいんだ。そんなに急ぎってわけでもないから」
「そう…」

 …やっぱり、放っとけないや。ゴメン、ケンスケ。

 シンジは心の中でケンスケに謝罪するが、レイの瞳から少しだけ寂しさの色が薄れるのが分かり、
嬉しくなる。
 そして、そんな彼女は今までよりもっと、美しく見える。
 気が付けば、自然に笑みを浮かべていた。

「どうしたの?」
「え…」
「碇君、笑ってるから…」

「あ…それは…その……」
 いつもより少しだけ優しい紅色の瞳に見つめられて、僕は一瞬戸惑う。
 まさか、面と向かって綾波が綺麗だから見惚れていたとは言えない。

 微かな沈黙。

「その……分からないや」
「…そう」
「あの…綾波はどうしてこんな所にいるの?」

 何とか話題を繋ごうとする僕。そして、言った次の瞬間には後悔していた。
 薄れたはずの寂しさが綾波の瞳に再び宿り、俯いてしまったから…

「あ…ご、ゴメン! 訊いちゃいけなかったかな……」
「…………………」
 綾波は、答えない。
 変わりにはっきりと哀しそうな顔で再び窓の外を見下ろした。

 リレーがついに始まったみたいで、みんな我を忘れて自分のクラスの選手を応援している。
 みんなの熱気、楽しさ…まるで、ここまで伝わってくるみたいだ。

 …どうして綾波は、こんな所で独りで…

 沈む夕日はさらに深く、そして紅さを増していた。そしてそこに陽炎のように佇むレイが、シンジには
まるで別の世界の人間のように孤独に感じられた。
 現実から切り離された、完璧な美。
 そしてそれゆえにたった独りきりの、孤独な少女…

 誰とも語らうことなく。
 誰とも相容れることなく。
 彼女は、ずっと…独りで歩いてゆくのだろうか。

―― そんなの、寂しすぎる――

 つれていって上げたかった。
 彼女を、この寂し過ぎる空間から…

「あのさ…」
「…何?」

 当たり前のことなのに、酷く緊張する。
 ゴクリ、と唾が喉を通るのが分かった。

「一緒に行かない…かな?
 今なら、まだ僕達のクラスのリレーには間に合うと思うよ?」

 リレーは一年生からなので、まだ始まったばかりのリレーは二年生の番まで時間がある。
 急げば間に合うはずだ。

 だけど…
「………たの」
「え…?」

 少女の口から零れた言葉は、残酷過ぎる現実だった。

「いるなって言われたの」
「あ…」
「応援する気がないなら、ここにいるなって。邪魔だからどこか行ってろって…
 黙っていたら、体を突き飛ばされたわ…」

 小さく、しかし確かに言葉を紡ぐレイの瞳は、今は何も映してない。
 寂しさも…
 痛みも…
 そして、存在さえも…

「そ…」

 息が止まる。そして暫くしてそれに気付くと、シンジはやっとのことでそれを吐き出した。

「そんな………」

 シンジは絶句していた。
 一瞬の後、顔に浮かぶ驚きが怒りの色に変わる。

「どうして!? 誰がそんなこと…!!」

 シンジは思わずレイに詰め寄って、その細い肩を掴んでいた。
 レイの顔が真正面に広がる。普段のシンジだったら顔を背けているだろうが、今は戸惑いと怒りで
そんなことは全く気にならなかった。

 そして、再び訪れる沈黙…

「痛いわ」
「あっ!? ご、ゴメン…」

 レイの小さな呟きに、慌ててシンジは飛び退く。だけど、その紅い瞳から目線だけは外すことは
無かった。
 まるで突き刺すような瞳で、シンジはレイを見つめている。

「でも、本当に…誰がそんな酷いことを…」
「………………」

 紅い瞳が、哀しげに揺れた。
 そして、シンジはそれに気付いていた。
 分かる人にしか分からない、戸惑いの色。

 話してもよいのか、それとも…

 レイが迷っているのにも、シンジは気が付いていた。
 だからただ、待った。

「…相羽君と、狩野君…」
「…あいつらか…」

 レイの小さな唇から零れ出た名前を聞いて、シンジは唇をきつく噛みしめた。
 右手は、爪が食い込んで痛いほどに握り締められている。
 そして滅多に怒ることのないシンジが、今ははっきりとその穏やかな瞳を怒りに滲ませていた。

 …そうか…あいつらが綾波にそんな酷いことを…
 確かあいつら、二人して綾波に目を付けていて…それで、まるで相手にされなかったんだ…

 シンジは今年の春先の頃、更衣室で不機嫌そうに綾波の悪口を言っていたのを思い出した。

 …だから、腹いせにそんな酷いことを…

 シンジは怒りに任せて窓の外を睨みつける。虚空に視点を泳がせ、憎らしい二人組みを探す。
 でも、あまりの人の多さに紛れて見つからない。
 それでもシンジはずっとグラウンド見下ろしていた。
 レイは、そんなシンジの顔を哀しそうな顔で見つめていた。

 …だから、二人とも気付かなかった。
 二年生のリレーが、終わっていたことを。
 ケンスケに用事を頼まれ教室に戻ったはずのシンジが帰って来ず、自分の走るリレーを応援して
もらえなかったアスカが怒りに満ちた顔で校舎に入ってきたことを。

「碇君…」
「え…? あ…なに? 綾波…」

 突然呼ばれた声に、シンジがレイを振り返る。
 その顔に先程までの険悪さはなく、自分でも気付かぬうちに心を痛めていたレイは安心した。

「…ごめんなさい。なんでもないわ」
「そう…」

 そう言って、レイは再び窓の外を見つめる。
 窓際に立っていたシンジは、今度はそのレイの顔をはっきりと見ることができた。

 …綾波…なんて寂しそうな顔してるんだ…
 さっきより、ずっと…
 やっぱり、本当はこんな所に独りでいたくなんてないんだ…

「碇君…」
「えっ…?」

 シンジは再び、レイによって思考から引き戻される。

「どうして辛そうな顔をしているの?」
「それは…」
「さっきもしてた…」

 ほんのわずか、レイが顔を顰める。夕日を受けて輝く至高の芸術品に、微かな変化が生まれる。
 深紅の双眸が、少しだけ潤んでいた。
 …ドキリとするような、憂いとか弱さを称えて…

「自分のことではないのに」
「………………」
「どうしてあなたは、私のためにそんな悲しい顔をしているの?」
「綾波…」

 もしかしたら…
 綾波は、知らないのかもしれない…
 人が、自分のためだけではなく、親しい誰かのために心を痛めることを。
 そして、寂しさを消してくれる友の存在を…

 彼女はずっと、独りきりで生きてきたというのか。

「綾波…」

 そう思ったら、いてもたってもいられなくなっていた。
 我を忘れたように自分の手を綾波の柔らかそうな頬に伸ばす。

「…………………」

 不思議そうにそれを見つめる綾波の、その暖かい感触に触れた瞬間―――

「………あ……」

 僕は思いっきり、綾波を抱きしめていた。

「碇…君……?」

 一瞬。ほんの一瞬だけの、微かな抵抗。
 綾波はすぐに僕の胸に顔をうずめて、大人しくなる。

 …こんなにも細くて、柔らかかったんだ…綾波の体って…
 このままもう少し力を入れたら、壊れてしまいそうで…
 もし…僕が今日、綾波に声をかけなかったら、彼女は消えてしまったんじゃないだろうか…

 身近に感じる、レイの息遣い。
 ちらちらと見え隠れする、綺麗なうなじ。
 抱きしめた腕から…合わせた体から伝わってくる、柔らかい、儚い感触。
 宝石のような、紅い瞳…
 もしも普段のシンジであれば動転して意識を失ってしまうような状況だが、不思議と彼に迷いは
なかった。絶対に、こうしていなければならないような気持ちに襲われていた。

「綾波…」
「…………………」

 レイは黙ってシンジの胸に頬をすりよせている。

 今彼女の身を包んでいるのは、戸惑いと、そして安心。
 シンジには、それが痛いほどに感じられた。触れ合ったレイの体から、伝わってくる。

 窓の外からは、未だ薄れることない真紅が注がれている。
 下から伝わる喧騒が、まるで別の世界のことのように感じられた。

 そう…ここは二人だけの世界。
 教室という狭い境界で隔離された、シンジとレイだけの世界。

「どうして…私を抱くの?」
「嫌…かな?」
「………そんなこと、ない…………」

 彼女は、ずっと独りだった。
 今年の初めに転校してきてから、今までずっと…
 そして、きっと…ここに来る前から…

 そんなの、悲し過ぎるじゃないか…


 …時は、移ろう。
 それは一瞬だったのかもしれない。それとも、もっともっと長かったのかもしれない…

 ここにあるもの。
 夕日。
 静寂。
 そして、二人の息遣い…





「全くっ!! あのバカシンジはなにやってんのよっ!!」

 赤い髪に蒼の瞳をした少女が、憤怒の表情で廊下を大股に歩いていた。
 美しい容貌は夕日と怒りで、赤く赤く染まっている。
 その瞳に殺気と言えど過言ではないほどの鋭さと、幼なじみが自分の勇姿を見ていてくれなかったこと
に対する苛立ちと寂しさ、それに悔しさを宿して。

 アスカは、怒っていた。

「相田から用事頼まれてから、一体どれくらい経ってると思ってるのよあのバカは!!」

 腹が立つ。
 シンジは今日の朝、私のリレーを応援してくれるって約束してくれたのに。
 今までアイツが、私との約束を破ったことなんてなかったのに。
 …なに考えてんのよバカシンジ!!

 そう言えば…
 アスカは自分の考えに自ら嫌悪する。

「まさか、優等生と一緒なんてことないでしょうね…!!」

 自分の言葉で、怒りに顔を歪めるアスカ。
 自然と、それがレイに対する不満へと変換される。

 全く、なに考えてんのよあの女!
 今日だって気が付けばいなかったし、クラスに溶け込む気ないんじゃないの?
 だからいつまで経っても友達ができないのよ。
 だから…シンジがあんな女に同情するのよ…

 アスカはレイが嫌いだった。いや…憎んでさえいた。
 レイが自分たちのクラスに転校してきて、初めて見た時から。その時からアスカは、彼女の冷たい瞳を
嫌悪していた。しかも、レイの席はシンジの隣だった。
 それは、アスカが願って止まなかった、しかし得ることのできなかった場所でもある。
 そして…
 シンジが、レイとよく話をするようになった。
 今まで自分に…アスカだけに向けられていた瞳が、レイの紅い瞳に惹きつけられるようになった。

―― 気に入らない!!!!!――

 焦ったアスカは自分でも気付かぬうちにシンジへの態度を変えていた。
 レイから遠ざけるように。
 自分だけを、見てくれるように。
 でも…

 でも!!!
 シンジはやっぱり、あの女を…優等生を気にし続けた。
 アタシの想いなんて、全然気付かないのに。

 …あの女さえいなければ…!!

 アスカの思考は、幾度かもそんな危険な考えを形成していた。
 もう、感情は…気持ちは抑えられないところまできていた。

 そして…アスカがその光景を見た瞬間、彼女は切れた。


 そこには、彼女の一番見たくなかったものが映っていた…

 夕闇に彩られた教室。
 吹きこむ秋風。
 はるか遠くから響いてくる、心地のよい喧騒。

 神々しいとすらいえる、輝きの世界。
 宝石のような、紅。
 空間全てを塗りつぶし、自分すら同化させてしまいそうな、美し過ぎる、紅。

 そして…
 その中心で、抱き合う男女。
 一番大好きなヒト。
 一番大嫌いなヒト。

「シン…ジ………」

 どうして…どうしてシンジが…

「ゆ、優等生…」

 あんな女と!!!!!


「バカシンジっ!!!」





「あっ……!?」
「…………!!」

 廊下から響いた声に、二人は現実に引き戻される。
 体を離すことも忘れて、聞き覚えのある声のした方へと視線だけを送る。
 今の二人にとって、一番会いたくない人物がそこにいた。

「あ、アス…カ……」

 呆然とその名を呟きながら、シンジはアスカの目を見た。
 そして、瞬時に危険を察した。
 アスカが本当に怒った時は、その瞳からあらゆる感情が消える時だということを、14年の幼なじみと
しての生活と経験が教えていた。
 シンジは硬直する。

 …やばいよ…アスカ凄く怒ってる…
 いつのまにかリレー終わってたんだ…全然気付かなかったよ…

「あ、綾波…」
 我に返ったシンジはゆっくりとレイの体から離れようとする。
 だが、レイはシンジを離さなかった。

 アスカは表情を変えぬまま、二人に歩み寄る。
 瞳に色は、ない。
 いつもなら当然のように飛んでくる罵倒も、激情もない。

 いつも赤いその髪が、今は燃えるように赤い。その瞳は、逆光になってよく見えはしなかった。

 アスカが二人の目の前にいる。
 青い瞳で二人を見下ろす。
 息を呑むシンジと、固くシンジの腕を握り締めて離さないレイ。

 三人の瞳が、交錯する。

「あ、アスカ…これは……」

 アスカは押し黙ったまま腕を上げる。
 いつもシンジの頬を張る、そのための動作…

 あ…殴られる……

 シンジが身を固めた、その瞬間…

 パシッ――!!

 音と痛みが、やけに遠くに響いた気がした。
 隣で何かが揺れる気配。
 体に触れる暖かな感触が、震える。そして、ゆっくりと離れていく。

 あれ………??

 一瞬、頭が真っ白になった。自分の頬に痛みはなかった。
 目の前には、激しい怒りの表情のアスカ。
 隣には、頬を抑えて俯く綾波。

「あ、綾波………綾波っ!」

 駆け寄ろうとした僕は、アスカに突き飛ばされて転がる。
 時間が、大気を彩る紅が、ひどくゆっくり流れている気がする。

 僕はまるで劇を観る観客か何かのように、その光景をただ眺めることしかできなかった。

「あんた…」
「……………」
「あんた一体こんな所で何やってたのよっ!!!」

 アスカはレイの胸倉を掴み上げる。
 怒りに満ちたその瞳で。憎しみに歪んだその顔で。
 レイもアスカを見る。
 アスカの嫌いな、その何も映さない瞳で。

「シンジに何したのかって聞いてんのよっ!!」
「…別に何も……」

 アスカにはそう答えるレイが、人形そのものに見えた。
 夕日を照らして輝く、気味が悪いくらいにリアルな人形。

 …大嫌いな人形。

 バシッ!!!

 先程よりも大きい音。
 レイの体が、机に当たって弱々しく折れる。

「あ、綾波っ! 大丈夫か? 綾波っ!!
 …アスカ、何てことするんだよ!!」

「あんたは黙ってなさい!!!!」
「う……」

 アスカの一喝に、ビクリと体を振るわせ動けなくなるシンジ。
 それくらい今のアスカには、鬼気迫るものがあった。
 彼女はゆっくりと、レイに向き直る。

「あんた、一体何様のつもりよ…
 いつも私達のこと見下して、黙り込んで…かと思えばシンジにちょっかい出して…
 ふざけるんじゃないわよ…!」

 俯いたまま、またいつものように無表情を装う。
 シンジだけが分かる、辛さを…寂しさを、自分の中に押し殺す表情。

「なんとか言いなさいよ!!」

 アスカが目の前の机に拳を叩きつける。その音が、やけに大きく空に木霊す。
 そのコトバが、オトが、まるでナイフのように少女の心を抉っていく。

「全くいいご身分よね。クラスの勝負のかかったリレーの応援もしないで、独り教室でご静観てわけ?
 レベルの低い私達なんかには付き合ってらんないってことかしらね?
 そんなだからあんたはいつまで経っても独りなのよ!!」

「アスカっ!!!」

 酷い言葉。事情を知ってるものが聞けば、それは酷過ぎる言葉だった。
 確実に、人の心を傷つける言葉…

 シンジには、アスカがそんなことを言うのが信じられなかった。
 言葉遣いや態度は粗雑だが、彼女が人のことを思い遣れるということを分かっていたから…
 時には悪口とも取れる軽口をたたきながら、決して人の心を傷つけたことはなかったから…

 でも…
 今レイは、アスカの言葉に深く傷ついていた。
 それが解かるのは、皮肉にもシンジ一人だけだった…

「あんたもよ!! あんたがこんな女に同情なんかするから、この女がつけあがるのよ」
「なっ…!」

 同情…?
 違う!! そんなんじゃない!
 最初は…そうだったかもしれないけど…今は絶対に違う!!

「同情…?」
 それまで無言だったレイが、ぽつりと呟く。
 聞こえないくらいの小さな声。その瞳に、驚きと恐れを称えて。
 初めて見せる、うろたえた表情。

 そしてそれは、哀しみに変わる…

「ち、ちが…」
「そうよ!!
 シンジがアンタに見せてんのは、単なる同情よ!!
 このバカは優しいから、独りでいたアンタが気になってただけよ!!」

 アスカの怒号が、シンジの言葉を叩き潰す。

「碇…くん…」
 レイが、シンジを呼ぶ。
 今まで聞いたことのない、震えた声で…感情を押し殺すことのない、哀しみに満ちた表情で。
 シンジはそれを、本当に辛い顔と思った。
 何かを、言ってやらなければならないと思った。

 でも…
 残酷にも、掛けてやろうとした言葉は再びアスカに遮られた。

「バッカじゃないの!? アンタ。同情を勘違いしていい気になってさ。
 アンタのこと好きになるやつなんてこの世にいるわけないじゃない。
 アンタはずっと独りなのよ。これからも」

 その一言が、全てが、彼女を傷つける。あまりにも無垢で、真っ白な心を、犯していく。
 ずっと耐えてきた悲しみなのに。
 視線をそらすことで、その痛みに耐えてきたのに。

 そして…

「いっそ…アンタなんて死んじゃえばいいのに…」

 その言葉に、彼女の中で何かが音を立てて壊れた。
 アスカは自らの発した心の声に、はっと顔を強張らせる。
 シンジもレイも、そして呟いたアスカでさえ、数秒は何が起こったか分からずにいた。

 彼らを包む空間は、何一つ変わっていない。
 暖かな風が梢を揺らし、伝わってくる秋の奏音も…
 全てを単色に染める、空気すら色づいた紅の世界も…
 最後の灯火を激しく燃やす、眼下の楽しそうな喧騒も…
 全てが、変わらない。
 けど、ここだけが…今はあまりにも重くて、冷たくて…そして、悲しかった。



「………さい……」

 永遠に続くかと思われた静寂を終わらせたのは、少女の涙だった…

「あ、綾な……」
「ごめん…なさい…」

 レイは、泣いていた。
 その珠玉から、宝石としか思えない美しい煌きを伝わせていた。
 俯いて…必死に、泣き顔を隠そうとして…
 シンジに、謝って…

「ゆ、優等生……アンタ……」

「ごめんなさい………」
「あ、綾波ッ……!! 待ってよっ!!」

 呆然としている二人を取り残して、レイは教室から駆け出した。

 漏れようとする嗚咽を、口に当てた手で必死に堪えながら。
 駆けて行く少女の背中ごしに、燈色に光る涙を落として…

 そしてそこには、シンジとアスカが残された。





 同情…だったのね…
 碇くん…
 …わたし…

 レイは廊下を駆けていた。その双眸に、涙を溜めて。
 どこへ向かうのかは、自分でも分からなかった。だが彼女の足は、まるで意志を持ったかのようにある
場所へと向かっていた。
 屋上…
 一番、高い場所へ。


 碇くん…
 転校したその日に、出会った人。

 初めて…笑いかけてくれた人…
 他の人とは違う…
 不思議と胸が暖かくなる…初めての気持ちを教えてくれた人…

 それはきっと…嬉しいと想う…気持ち。

 彼のことを想うだけで…胸が痛くなった…
 でも、全然嫌じゃない…
 暖かい…
 気がつけば、隣席に座る彼を見てた…
 暖かい笑顔…ずっと見ていたかった…

 それはきっと…彼を好きだという気持ち…
 初めて覚えた気持ち…
 人を好きになるということ…

 今日、私のために怒ってくれた…哀しんでくれた…
 …とても、嬉しかった…
 斜陽の佇む教室の中、力いっぱい…それでも優しく抱きしめてくれた…
 初めて覚えた胸の高鳴りが、心地良かった…

 変わっていけるかもしれない…
 そう、思った。

 けど…

「同…情……」

 わたしが、いつも独りだったから…
 わたしが、可哀想だったから…
 だから彼は優しくしてくれた。怒ってくれた。悲しんでくれた。

 なぜ…?
 こんなにも、胸がイタイ…
 ずっと、慣れていたはずなのに。知らなかったはずなのに…
 それでよかったはずなのに…

 悲しい…
 碇くん…

 どうして…
 どうして、涙が零れるの…?

 碇くん…

 声にならない嗚咽を必死で閉じ込めながら、彼女は駆けていった。
 廊下には、彼女を止めるものは誰もいない。まだ、大会の終わりからそれほどの時間がなかった。
 自分はどこに向かっているのか。
 自分はどうしたらよいのか。
 何も分からないまま、彼女はただ足を進める。

 …その後を。彼女の通った、その後ろを。
 終わることのない涙の雫が、跡を刻んでいた…



「アスカ…」

 取り残された教室。
 時の流れを感じさせない、それでも少しづつ流れていく地平の色の世界で、少年が少女と向かい
合っていた。
 少しだけ、いつもよりも強く輝く少年の顔。
 それが怒っている時の顔だという事を、目の前の少女は理解していた。
 そして、少年…シンジがこれから何をしようとしているのかも。

「ごめんっ!」
 パンッ!
「つっ…」

 シンジが、アスカの頬を張った。
 アスカはその動作を、まるでスローモーションのように緩やかに感じていた。
 そして、呆然と心の中でその光景を反芻する。

 痛い…
 そう言えば、シンジに殴られたのって初めてかもしれないわね…
 いつもいつも、私がつまらない理由でシンジや鈴原を殴ってばっかりいたから…

 普段だったら、アスカは怒り狂っただろう。自分を殴った少年に対して。
 でも、今の彼女には殴られなければならない理由があったし、少年の怒りも正当なものだった。
 だから、彼女は穏やかならぬ気持ちを押し殺して下を向いていた。

「アスカ…」
「解かってるわよ…」

 そう。解かってるのよ。
 自分がどんな酷いことを優等生に言ったかくらい…
 でもね…

 アスカはそれでも、レイにだけは自分の非を認めたくなかった。
 例え彼女の涙を見て、自分の気持ちが揺れ動いたことを理解していても。

「アスカ。綾波に謝ろうよ。ちゃんと謝れば解かってくれるよ」
「…それだけは…嫌」
「アスカ!!」

 頼りない仕草は、今の彼からは感じられない。瞳には強い意志が感じられた。
 アスカの前では見せたことのないシンジの真剣な顔。
 それを見て、アスカはまた哀憂の思考に陥っていく。

 何よ…やっぱりアンタはあの女のことばっかり…
 だから、私だってあんなことを…
 アタシだけのせいじゃないわよ…バカシンジ…

 …二人はただ、立ち尽くして言葉を交していた。
 誰かがいる気配はない。リレーはもう終わっている時間だが、皆終会の名残を惜しんでいるのだろう。
 目の前に広がる完璧な紅は、全く衰える様子も見せず二人を包む。
 微かな光の揺らぎの中、二人はただ、激情を交していた。

 アスカがレイを嫌っているのは、シンジも前々から…と言うより、レイが転校してきた日にもう
気がついていた。だが、今日のアスカの態度には納得がいかない。
 自分の中の彼女は、間違っても人を傷つけれられるものではなかったから。

「どうしてそんなこと言うんだよ…そんなのアスカらしくないよ」
 怒りと、哀しみ。そんなものに潰されそうになりながらの、小さな小さな呟き。
 だが目の前の少女に、確かにそれは聞こえた。
 そして、あまりにも鈍感なシンジの一言は、確かにアスカを傷つけていた。

「………!」

 アタシらしい…?
 何バカなこと言ってんのよアンタ!? あたしの想いに気付きもしないくせして、何分かったような
こと言ってんのよ!!
 元はといえば、あの女がクラスの応援すっぽかしてこんな所にいるのが悪いんじゃない…!!

「何よ!! アンタなんかにアタシの気持ちが分かるっていうの!?」
「…アスカ!?」
「第一ねえ! あの女が応援もしないでこんな所にいるのが悪いんじゃない!!
 何で優等生ばっかりひいきにするのよ!!」

 シンジが口を噤む。レイのことをアスカに告げてよいのかどうかを迷っていた。
 レイだって、必要以上に言いふらされたくはない内容だと思ったから。
 そしてそのことを知ってしまったアスカが、さらに自分がレイに放った言葉に対して呵責を
覚えてしまうと解かっていたから。
 しかし、やがて意を決したようにアスカを見つめた。

「…アスカ」
「何よ!?」
「…綾波は、好きでこんな所に独りでいたんじゃないよ」
「…え?」

「クラスの男子に、出て行けって言われて…それどころか、体を突き飛ばされたらしいんだ…」

 数秒間。  シンジの言葉の意味を飲み込めずに、アスカが沈黙する。
 そしてさらにシンジは言葉を続けた。

「綾波は…僕が来た時、ずっと下のグラウンドを見てた。凄く寂しそうだったんだ…
 哀しそうな顔を見てたら、側にいてあげたくなった…」
 俯いたままぽつりぽつりと語るシンジに、混乱した様子でアスカが口を開く。
「ちょ、ちょっと待ってよ。じゃあアタシ、優等生に何て酷いこと…」

 今更だった。気づいた時には、取り返しのつかない言葉がアスカの頭をリフレインしていく。
 二人は途切れることすらないと思われる沈黙に包まれる。
 アスカは美しい肌を蒼白に染めたまま、声を出すことができずに…
 シンジはアスカと、そしてレイの気持ちを考え、疲れたようにただ、俯く。

 あんなにも紅かった残陽は、今、微かに闇を滲ませていた…



「シンジ…」
「…あ…トウジ? それにケンスケ…委員長まで…」

 静謐を破ったのは、思いもよらぬ人の呟きだった。廊下の陰から、教室に見なれた三人の姿が現れる。
 シンジは困惑に顔を歪ませ、放心状態のアスカは微かに俯く。

 …どうして三人がこんな所に…もしかして今の会話聞かれちゃったのかな…

 彼らは皆一様に複雑な、そして少しだけ怒りを帯びた顔をしていた。
 そしてそれを見て、彼らが自分たちのやり取りを見ていたことを確信する。

 ややあって、トウジが覚悟を決めたように口を開いた。

「すまん、センセ。盗み聞きするつもりはなかったんやけど、聞いてしもたわ…」
「…どこから…?」
「ちょうどワシらが廊下に出てきた時、綾波が走って行くところだったわ。
 追いかけようとしたんやけど、教室にセンセと惣流が追ったのがわかってのう。声かけるつもりで、
タイミング逃してもた」
「そうなんだ…」
「…それよりも、碇君」

 先程まで黙ってシンジとトウジのやり取りを聞いていたヒカリが、突如口を挟む。
 委員長としての責任がそうさせるのか、その声にはいつもと違う堅さがあった。

「全部聞いてた訳じゃないからよく分からないんだけど、さっきアスカに言ったこと、本当?」
「さっきのことって…」
「綾波がクラスの男子に酷いこと言われたって話だよ」
 ケンスケも、珍しく真剣な顔で言葉を挟む。

 シンジは一瞬躊躇したが、もうここにきて隠しても仕方がないと判断した。
 しかし他に誰か聞いてる者がいないかどうか、視線を巡らして確認をする。

「大丈夫や。ワシらのほかには誰もおらへん。ケンスケに頼まれてからちっとも帰ってこんかった
シンジと、いつのまにかおらんなった惣流を探して一足先に戻ってきたからのう。
 他のヤツらはまだ下ではしゃいどるで」

 それを聞いたシンジは、ゆっくりと口を開いた。

「……うん。本当みたいだよ。綾波がそう言ってたから…」
「さよか…」

 シンジ達五人の顔に、暗い陰が落ちる。
 それはきっと、その姿の半分を隠した夕日のせいだけではないだろう。

 トウジ達とレイは、確かに親しい間柄ではない。
 でも、それでも同じクラスの仲間であることには変わりないし、それに彼らはレイの愛想が悪いから
といって反感を覚えるようなことはなかった。
 だからこそ純粋に女の子に酷い言葉をかけた男子生徒を許せなかった。

 そして、アスカはそんな皆から切り離されたように思考の海にのまれていた。

 優等生…あの娘、泣いてた…
 いつだって無表情で、冷静で…人形みたいなヤツだと思ってたのに…
 泣いてた…悲しそうな顔、してた…

 …アタシのせいだ…

 でも…
 今更どうしようって言うのよ…
 謝る?
 それは…嫌だ…

 アスカは、額に手を翳して辛そうに顔を歪める。
 混乱と、自責。憎しみと、自己嫌悪。
 全てが溶け合い、アスカの心を穿つ。
 …声にならない、悲鳴。

「アスカ…」

 そんなアスカに、ヒカリが優しく声をかけた。
 アスカが、ほんの少しだけ肩を震わす。

「アスカ…綾波さんのこと、やっぱり抵抗があるのは分かる…
 けどね、やっぱり謝っておいた方がいいわ。
 そうしなければ、ずっと心に痛みを残してしまうわ…」

「分かってる…。分かってるのよ!
 でも、今更…私があの娘に何て言えばいいのよ!」

 もう、レイに対する憎しみは消えていた。
 だが、心はそうでも頭が理解を拒絶する。
 自分が、自分であるために…だ。

 だけど…

「アスカ…」
「…何よ、バカシンジ…」

 アスカは、シンジを見ようともしない。ずっと俯いたままだ。
 だが、シンジは目を閉じて一旦息を吸い込み、そして目を開くと意を決したように口を開いた。

「アスカ…覚えてる?
 僕らがまだずっと小さい頃、アスカが僕の家の隣に引っ越してきたばかりのこと…」
「……………?」

 アスカは突然のシンジの言葉に虚をつかれたように顔を上げ、不思議そうな顔でシンジを見る。
 何を言ってるのだろうか、と訝しく思ったが、一瞬の後、アスカの脳裏に忘れたと思っていた
幼い頃の自分の姿が映し出されていた…
「あ……」
 そして、それが…ゆっくりと、確かな記憶となって、確かな悲しみとなって、広がっていく…

「あの頃はさ、アスカは今みたいに勝気で誰とでも仲良くできるような社交的な性格じゃなくて…
髪の色とか目の色とかで、その…みんなからいじめられてた…」

 その言葉に、アスカだけではなくトウジやケンスケ、ヒカリも目を見開く。
 閉じられていた記憶の扉が、ゆっくりと…でも、確かに開いてゆく。

「ずっと独りでいて…口を聞くのは、ほんの少し、僕だけだった…」
「……………」

 アスカは鮮明に、過去の自分を思い出していく。
 幼い日の弱々しい自分が、忘れたかった自分が、悲しみとともにカタチを成す…

 そうだ…
 アタシはずっと、いじめられてたんだ…
 バカな男子の、幼い悪戯心に…
 あの頃のアタシは誰に呼びかけられても返事なんかしないで、ずっと、独りでいたんだ…
 シンジだけが、そんなアタシに声をかけてくれた…一緒に遊んでくれた…

「それから少したって、クラス替えがあって…トウジとかケンスケ、委員長と一緒になったんだよね。
 でも、やっぱりアスカは最初はクラスの男子連中にいじめられてて…
 でもある日、トウジがいきなりアスカをいじめていたやつらを怒鳴りつけて…
 そこに僕も、ケンスケも、委員長も味方して、大喧嘩になったんだ…」

 鮮明に、蘇る。四人の頭の中に、幼かった日の記憶が。
 あの日の、怒りに震えた気持ちが。やるせない悲しみが。
 …分かり合えた日の、喜びが。
 泣きながら、でも、自分達の前で笑った少女の、嬉しそうな微笑みが。

「結局、そのままいじめてたやつらがクラスの他の人達を全員を敵に回して、ついに泣き出しちゃった
んだ…やっぱり、子供だったから。
 もちろん僕達はみんなクラスの担任の先生にこっぴどく怒られた…」

 シンジは目を瞑って、懐かしそうに天を仰ぐ。
 口元には、暖かい微笑が浮かんでいた。

「でも…そのおかげで僕らは、友達になれたんだ…」

 アスカが、目を見開く。
 他の三人も、シンジを見る。
 シンジは、ゆっくりと目を開く。

「綾波も…きっと同じなんじゃないかと思うんだ…」
「え……?」

「アスカには、助けてくれる友達がいた…
 でも、もしかしたら…
 綾波には、誰も…いなかったんじゃないかな…」

 シンジは目を開き、訴えるような目で四人を見つめた。
 閉じられていた瞼には…心には、レイの寂しげな顔がずっと浮かんでいた。

 彼女を、救ってあげたかった…

「だから…助けてあげたい。
 同情なんかじゃなく…友達として…」



 …それっきり、誰も口を開こうとはしなかった。

 空気がただ、流れる。
 漆黒のフィルターを通したような、しかし透明な夕日が、静かに佇んでいた。
 大きかった下からの歓声が、徐々に小さくなっていくのを感じた。
 …時が、流れていた…


 胸が、痛かった。

 アタシは、一体どうしてしまったというのだろう…
 明るくなって、いい気になって…
 いつのまにか、忘れてしまった…独りでいることの辛さを…
 人を思い遣る気持ちを、忘れてしまっていた…
 アタシは、優しいシンジが好きだったのに…
 こんなシンジだから、好きだったのに…
 忘れてた…忘れてた…!!

 口が切れるほど強く、唇を噛み締める。握り締めた手に、爪が食い込んでいた。
 自分を勇気付けるために、自分を嫌いにならないために、必死になって背中を押した。
 動き出さない体を、心を、懸命になって励ました。

 そして…
 アスカの心の中に、レイの涙が光った…

「いか…なきゃ…」
「………え?」
「優等生を…レイを、探しに行かなきゃ………!」

 そして、沈黙が破れた。
 空気を、変えて。
 少女の頑なな心を、溶かして。

 そして、軽い驚きに包まれる四人…
 最初は呆然と…でも、次の瞬間…確かに、嬉しそうに。顔を綻ばせて。

「うん…行こう。綾波はきっと待ってる…
 誰かが声をかけてくれるのを、きっと待ってる…ずっと、待ってたはずなんだ」
「…そやな。ワシらが友達になってやらんとな」

 シンジが、トウジが、ヒカリが、そしてケンスケが、アスカの言葉に力強く頷く。
 アスカはそれを、泣きそうな…でも、とても嬉しそうな顔で見つめていた。
 呆然としているアスカに、シンジが声をかける。

「行こう、アスカ」
「…うん!」

 そして彼らは、教室を駆け出した。
 これから始まるであろうホームルームを、全く省みようとせずに…

 迷いなく走って行く五人を、教室に入ろうとしていた生徒達が不思議そうな顔で見送っていた。





 レイは、一番高い場所から下を見下ろしていた。
 屋上。
 誰もいない、場所。

 冷たい風が、彼女の蒼銀の髪を擽る。
 色褪せ、幾分かだけ薄れた夕日が、静かに彼女を包んでいた。
 だけど…
 吐く息だけが、まだ、熱い…

 体が、芯からばらばらになりそうな、悲しみ。

 わたし…
 わたし…消えるの…?
 このまま…

 それも…いいかもしれない…

 彼女の目の前に、空が広がっていた。
 ほんの少し手を伸ばせば、届く…身を躍らせれば、すぐにでも融けこめる…
 遮るものなど、何もない。
 手摺はもう、乗り越えてしまったから。

 碇くん…
 ごめんなさい…わたし…


 ……どうして謝るの?
 どうして…胸が、痛いの…?
 幻だったと、分かっているはずなのに…
 笑顔が…消えない…
 碇くんの笑顔が…浮かんでくる…

 …暖かい…
 胸が、苦しい…

 どうして…?


 それは、恋だったのだと思う。
 感情を知らぬ自分が、初めて覚えた暖かさ…
 胸の奥を焦がす、痛み…

 そして今、自分を全て否定してしまいそうなほどの、絶望…

 碇くん…
 わたし…

 消える…から…
 もう、心配…かけたくないから…
 碇くんの隣には、あの女の人がいる…
 だから、わたしは必要ない…

 でも…

 レイは思う。
 例え自分へのシンジの気持ちが、同情でしかなかったとしても…
 きっと自分の死に、彼は悲しむ。
 シンジを、悲しませてしまう…

 だから…
 ごめんなさい…

 下を見る。
 信じられないほどの、高さ。
 豆粒のような、人の大きさ。

 眩む視界。
 だけど、どこか恐怖の中に安らぎを覚えるのは…

 わたしには、何もないから…
 わたしは、独りだから…
 だから…消えるの。

 ここにいても、意味ないもの…

 レイは目を瞑る。
 瞼に、自分を唯一気にかけてくれた優しい少年の笑顔が浮かぶ。

 彼がかけてくれた言葉の一つ一つが、一瞬だけ頭の中を流れ…そして消えた。

 ホンの微かに、微笑みを浮かべる。

 大丈夫…
 悲しんでくれる人が、いるから…
 最後に、出会えたから…
 彼の想い出を胸に、消えることができるから…

 さようなら…わたし…
 さようなら…碇くん…

 目を開く。
 そこにあるのは、変わらぬ虚空。
 自分を迎え入れるもの。
 自分が還る場所…

 そして彼女は、一歩、踏み出した。
 …その瞬間。

「…レイ!!!!!」

 背後からかけられた叫びに、体を振るわせる。
 突然のことに、思考が停止する。

 誰…?
 私を名前で呼ぶ人は、いないはず…
 この声…聞き覚えのある声…

 ゆっくりと…彼女は振りかえった。
 踏み出した足は、止まっていた。



 アスカは、誰よりも速く駆けていた。
 もともとの運動神経は確かに目を見張るものがある。だが、今はそれだけではない。
 同等の身体能力を誇るトウジも、今のアスカには追いつけない。

 必死だった。
 それこそ、死にもの狂いだった。
 一秒でも速く、屋上へ。彼女のいるところへ。
 この想いだけが、彼女を突き動かしていた。

 教室を出た時から、そんな予感がしていた。
 彼女は、一番空に近い場所にいる。そして、一番地面に近い場所にいる…と。
 それは、去っていく彼女の涙を見ていた二人とも感じていた。

 だからこそ、迷いはない。
 一刻も速く、あそこへ。

 そうでなければ、きっと彼女は消えてしまう。

 …アスカの心を、例えようもない焦燥と絶望が駆けぬけた。

 レイ…
 お願い…待ってて…
 もう、誰もあなたを独りにしないから…
 アタシが、シンジが、側にいてあげるから…
 だから…

 消えないで…!!

 縛り付けられるような悲しみとともに去来する予感。
 そして目の前に広がる恐怖。
 振り払うように、今はただ、走る。

 誰もが、無言だった。
 アスカの背中を眺め、シンジの真剣な顔を横目で見ながら、誰も口をきくことができないでいた。
 その二つが、ただ、急げと…それだけを、物語っていたから…

 そして…

 アスカが最後の階段を駆け上がる。荒い息を休めようともせずに足もとの『立ち入り禁止』の指標を
蹴り飛ばし、ドアに手をかける。

 一瞬だけ息をつく。
 そして、荒々しく扉を開いた。

「あ……」

 瞬間、飛びこんできた光景。

 黒い、夕日。
 皮膚を切り裂かんばかりの紅い風。
 レースのようにたなびく、雲。

 幾千の星と燃え盛る炎玉に千切られた、彷徨のタペスタリ…

 綺麗過ぎる、世界…
 残酷過ぎる、世界…

 そして、その向こう。

 漆黒と烈火に身をさらす、一人の少女。

 風に吹き飛ばされそうになりながら…
 周囲の紅に融け込んでしまいそうに…
 それでもその背に羽を纏って…

 ゆっくりと、目の前のどこまでも続いていきそうな虚空に身を捧げる…

 追い求めた、少女。
 蒼銀の髪に、どこまでも白い肌、そして、紅い瞳。
 手の届かない…
 空に消えようとしている…

 少女。

 綾波レイ…

「レ…」

 アスカの体を、恐怖が走りぬけた。
 レイが、行ってしまう。
 目の前の蒼空で彼女を手招きする死神を、アスカは確かに見ていた。

 間に合わない。
 ここからでは。

 でも、行って欲しくない!!

 だから…

「レイ!!!!!!」

 力の限り、叫んだ。
 彼女の歩みを止めようと。
 彼女を捕まえようと。

 自分の後ろに、足音が響く。
 振り向かなくとも、シンジ達が遅れて到着したが分かる。
 目じりに、暖かい感覚が広がっていく。

 アスカは、祈るように視線を送り…そして、駆け出した。
 レイに向かって。

 …レイ…
 お願い…
 待ってて…

 一瞬の静寂。

 そして、少女の足が止まり…
 ゆっくりと、振り向いた。





「惣流…さん……」

 レイは、呆然と呟いた。
 今しがた、自分が無に還ろうとしていたことも忘れて。
 初めて自分の名を呼んだ少女を、誰よりも自分を嫌っていた彼女を、ただ、見つめていた。
 もの凄い形相で、勢いで、自分のもとへと駆け寄る女性を。

 なぜ…
 なぜ、彼女はわたしを名前で呼ぶの…?
 わたしのことを、嫌っていたはずなのに…
 わたしのことを、憎んでいたはずなのに…
 なぜ…?

 解決できない疑問。
 レイは固まっていた。

 …そして、アスカが彼女の前に辿りつく。
 ホンの後ちょっとの距離を、残して。
 死にもの狂いで駆けてきた少女の、荒い息を称えて。

 屋上の手摺を挟んで、二人の少女が対峙する。

「…優と……………レイ…」

 アスカはレイを見つめた。
 こちらを見つめる瞳には、何も映っていないように見える。
 だが、彼女を見れば、彼女が何をしようとしていたかは一目瞭然だった。

「レイ…アンタ………」

 そして、そこまで彼女を追いこんだのは、間違いなく、自分だ…
 自分の態度が、言葉が…あまりにも自分勝手な自分が、彼女の心をそれほどまでに傷つけていた。
 この、純粋すぎる少女を。
 あまりにも無垢で、清らかな、この美しい少女を…
 …………傷つけた。

 アスカは、自分の内側から涌き出てくる激情を懸命に堪えていた。
 涙を見せることなどもう、どうでもいい。
 だが、言うべきことが言えなくなるのだけは嫌だった。

「あ、アンタねえ…」

 上擦りそうになる声を、必死で抑える。
 泣き叫びそうになるのを、押し留める。

 解かっていてもきつくなってしまう自分の言葉に少なからず自己嫌悪を覚えるが、いきなり素直に
なれるわけでもない。思いつくのは、結局憎まれ口ばかりだった。

 だけど、もう…
 敵意も、悪意も、ないのだけれど…

「一体…っ…何やってんのよっ…!!」

 アスカはレイの体を掴むと、力を込めて持ち上げる。
 自分より少しだけ体型の小さいレイを抱えるのはアスカには辛いことだったが、
非常に不安定な立場にいるレイを放っておけなかった。

 アスカは、なんとかレイを手摺のこちら側に引っ張り降ろしす。
 その間、レイは先程までの決意も忘れ、ぽかんとした顔でアスカの行動を見つめていた。

 …なぜ、この人はわたしを助けるの…
 わたしは、消えた方がいいはずなのに…
 この人にとって、わたしは邪魔なはずなのに…

 でも…

 暖かい…
 碇くんと同じものを、この人から感じる…
 なぜ…?
 いやじゃ…ない…

 アスカが自分を抱きしめる体温が、レイにはとても暖かく感じられた。
 感情を知らない彼女が、それを心で受け止めていた。

 そしてそれゆえに、彼女は気付く。うっすらと。
 アスカが、シンジと同じように自分を案じてくれているのだと。
 きつい言葉遣いの裏には、確かに自分に対する暖かな想いが詰っているのだと。

 それは、きっと純粋なレイではなかったら気付かなかったかもしれない。
 他の人間なら、きっとアスカを許せないだろうから…

「アンタ…ねぇ…バカなことしてるんじゃないわよっ!」
「……………」
「死んだら…っ…何もかもお終いじゃないっ!
 一体なに考えてんのよ……!」

 自分のせいだとは分かっていた。
 でも、だからといって死んでしまえば何もならないではないか。
 その想いが、彼女にレイを責めたてさせた。
 …涙を、堪えながら。
 素直に優しい言葉をかける事のできない自分に、いらつきにも似た哀しみを感じながら。
 それでも自ら最悪の可能性を選ぼうとしてしまった、レイへの怒りを滲ませながら。

「悲しむ人…いるんでしょうが…」
「……………」
「だったら…そんなことしちゃダメなのよ………」

 アスカはじっとレイの瞳を見ていた。
 今まで認めようともしなかった彼女の、どんな感情も見逃すまいと力を込めて。
 そして…今なら分かる。

 彼女は、人形なんかじゃないって…

 レイは、アスカの後ろに目を向ける。
 そこには、トウジが、ケンスケが、ヒカリが、そしてシンジがいる。
 みな、アスカと同じように…慈しむような、暖かな優しい顔でレイを見つめていた。

 だけど…全て拒絶しようとしていた彼女には、その瞳は眩しすぎた。

「悲しむ人…いないわ…」
「どうしてよ…」

「わたしは…独りだもの…」

 レイも、アスカの瞳を見ていた。
 先程まで確かに自分を憎んでいた少女は、今は泣きそうな顔で自分を見つめている。

 だけど、そこには恨みも敵意もなく…
 先程感じた体温と、そして自分への言葉と同じく、ただ…
 とても、暖かい…

「バカ…」
「……………!!」

 レイが、大きく目を見開く…

「そんなこと、言わないでよ…」
「…………なぜ?」

 なぜ、わたしを…抱くの…?

 アスカは、答えない。
 ただ、無言でレイを抱きしめる力を強めた。
 お互いの気持ちが、全て体から伝わってくるような感覚…

「家族とか……悲しむ…でしょ…!」

 だけど、その言葉に…レイは、微かに体を振るわせる。
 悲しみが、切なさが、触れ合う体を通してアスカに全て伝わってくる…

「そんなの…いないわ…」
「アンタ…………」

 言葉が、続かない。
 ただ、彼女の悲しみが大きくなってくのが分かって…
 でも、自分にはどうすることもできなくて…

 それが、悲しかった。

 彼女の言葉を、聞いていられなかった…
 涙が、抑えられなかった…

「わたし…捨てられたから…
 親…いないから…」
「やめて…」

「施設でも、いつも虐められたわ。
 髪と目の色が、みんなと違うから…」
「…もう、いいわよ…!」

「だから…
 だから…やめたの…
 人に近づくこと…
 そのほうが、拒絶されないもの…
 悲しむことも、ないもの…

 わたし…独りだから……独りでいいから……」
「やめてよっ!!」

 胸の中の少女を、きつく、きつく抱きしめる。
 もう、自分の中の感情を抑えきれなかった。
 アスカは、泣いた。
 レイを胸に抱いたまま、泣いた…

 ただ、そうすることしかできなかった…


 アタシと同じ…?
 全然…違うじゃない…
 アタシには…ママがいた…パパがいた…
 虐められて帰ってきたアタシを、優しく抱いてくれる人がいた…

 アタシには、シンジがいた…みんながいた…
 助けてくれる、友達がいた…
 けど…
 この娘には…っ!

 誰も…いなかったのに…っ!!

 もう、止まらなかった。
 込み上げてきた奔流は、自分の堤防を完全に破壊してしまった。

 アタシは…アタシは…何てこと…を…

 体を支配する嫌悪は、先程の比ではない。
 悲しみと、自分に対する怒りで、体がはちきれそうになる。
 自分が彼女に与えてしまった傷は、取り返しのつかないものだったから…
 彼女が背負っていた悲しみを、今、感じてしまったから…

「うっ…うぅ…うっ…うう…」

 涙は、とめどなく流れ落ちて…
 目の前は真っ暗で…

 だから、アスカがレイの腕の感触を自分の背に感じた瞬間…

「レ…イ……?」

「…泣かないで…
 わたし…嬉しい…から………」

「…レイっ……!!!」

 アスカは、泣き叫びそうなほど嬉しかった…

 そして、レイも…
 自分のために涙を流してくれる少女の存在が、不思議と心地良かった。
 その気持ちは、上手く言葉にできないけど…
 心が、打ち震えてくるのがわかる。
 それで十分だった。

「ゴメンね…ゴメンね、レイ…」
「どうして…謝るの…?」

「アタシ、レイに酷いこと…たくさん言った…

 許してくれなんて…言えない…
 けど…
 もし、許してくれるなら…

 アタシ…友達になりたい…レイと…」

「………………!!」

 レイの瞳が、驚きに見開かれる。

「ムシのいい話だって…分かってるけど…でも……」
「そんなこと…ない…」

 アスカの言葉を遮る、レイの言葉。
 微かに、震えていた…

「レイ…」

 レイもまた、涙を流していた。

 自分の中に芽生えた感情に、戸惑いながら…
 それでも、感じたことのない柔らかな気持ちが瞳を濡らしていく…
 その顔は、一見無表情で…
 ただ、大粒の涙だけが頬を伝って流れていく。

 言い表わせない、気持ち…

 自分の拙い感情では、言葉にできない嬉しさ…
 それが、とても悔しかった。

 なぜ…
 なぜわたしは泣いてるの…
 こんなにも、暖かいのに…
 こんなにも、嬉しいのに…

 分からない…

 こんな時、どういう顔をすればいいの…
 教えて…だれか…

 惣流さん…
 碇くん…

 教えて…

 想いは、やがて言葉になる――

「ごめんなさい…
 こんな時…どういう顔をしていいかわからないの…」

 小さな小さな、レイの呟き。
 救いを求めるような、眼差し。

 一生懸命な、彼女の頑張り…

 アスカはぎゅっと、レイを抱きしめる。
 こたえる言葉を、自分は持っているはずなのに…言葉が、出てこない。

 遠くから二人を見守っていたシンジが、はじめて二人に近づく。
 その顔に、満面の笑みを浮かべて。
 アスカの肩越しに覗くレイの顔を見ながら、ゆっくりと、穏やかに、言葉を紡いだ。


「笑えば…いいと思うよ…」


 …彼女の顔が、一瞬だけ驚きの色に染まる…

 そして…

 レイは、頑張って…
 涙を、懸命に堪えて…顔を、歪めて…

 暗闇の中で…
 淡く、切ない月明かりだけのこの空間で…

 ゆっくりと、微笑む。

 シンジ達はそれを、本当に綺麗な微笑みだと思った…


 そして、惹きつけられるようにトウジ達がレイの周りに集まる。
 抱き合うレイとアスカを、皆が囲む。

 誰もが皆、暖かい笑顔をしていた。
 シンジも、ヒカリも、ケンスケも…トウジですら、その瞳の端に光るものを称えている。

 …体が感じる風は、とても冷たいのに。あんなにも強く燃え盛っていた灯は、もうほとんどその姿を
彼方に沈ませているのに。自分達を照らす光は、もうこんなにも小さいのに…
 なのに…
 優しい気持ちが、暖かさとなって五人を包んでいく…

「レイ…アタシ達と、友達になって…」
「とも…だち…」
「アタシも…シンジも…ヒカリも…トウジも…ケンスケも…
 みんな、友達…
 みんな、あなたの友達だから…

 この気持ちは、決して同情なんかじゃないから…
 シンジも、アタシも…トウジもヒカリもケンスケも、本当にあなたの事を大切に考えてるから…

 お願い…レイ」

 アスカがレイを放し、優しく微笑む。
 涙に濡れた瞳で、二人がお互いを見つめる。

 そして、レイはゆっくりと皆に視線を向ける。

 待っていたのは、暖かい笑顔。
 かけられたのは、暖かい言葉。

「綾波…困ったことがあったら、なんでも言ってよ。
 僕も…みんなも…綾波は、大切な友達だから」
「……うん」

「そうよ、綾波さん。わたし、クラス委員長だし…分からないこととか、なんでも聞いて!
 わたしも、綾波さんとたくさんお話したいわ」
「うん…」

「そうやで。また今回みたいなヤツがおったら、すぐにワシに言いや。
 絶対にパチキかましたるわ!」
「うん…!」

「俺に何ができるか分からないけど、話し相手くらいにはなれるよ。
 友達になろう、綾波」
「うん……っ!!」

 月明かりの中で…
 美しい彼女の雫が、再び光った…
 初めてできた友達の、暖かい言葉に…


 どうして…
 止まらない…
 涙…
 嬉しい…

 なにも…なかったのに…
 わたしは、独りだったのに…
 今日…こんなに…こんなに友達ができた…

 ありが…とう…
 ありがとう…

「ありがとう…みんな…

 嬉しい…
 今までで、一番嬉しい…

 ありが…とう…」


 ありがとう…
 感謝の言葉…
 初めての…言葉…
 こんなにも…うれしい言葉…

 彼女の顔に、あまりにも自然に柔らかい笑顔が浮かぶ。

 目の回りは赤く腫れていて、上手く口元が動かなくて。
 でも、とても綺麗な笑顔…
 さっきよりも、もっと…嬉しそうで、優しくて、綺麗な…

 最高の笑顔…

 その笑顔につられたように、みんながみんな、笑顔を浮かべる。
 きっとみんな、今までで一番の笑顔。
 偽りじゃない。
 ポーズなんかじゃない。
 心の中から染み出てくるような、柔らかくて、綺麗な笑顔…


「ありがとう…」





 そして、それから…たくさんのことを語り合った。
 レイを中心に車座になって、腰を堅いコンクリートに落ちつけて。
 他愛もない、なんの変哲もない会話…
 だけど、誰もがそれを楽しんでいた。

 暫くの間…

 新しい絆を、確かめるように…
 初めてできた絆に、想いを馳せながら…

 それは、見回りに来た日直の教師に怒鳴られるまでずっと続いていた。
 …ややあって、みんなで笑い転げた。
 レイも、小さな微笑みを浮かべていた。
 怒られていても、みんな気持ちは一緒だった。

 そして…

「行こう。綾波」

 シンジが手を差し伸べる。
 レイがそれを、ゆっくり握り締める。

「戻りましょう、レイ」

 アスカがその反対がわの手を、優しく取る。

「帰ろか」

 トウジが、三人の肩を軽く押す。

「行きましょう」

 ヒカリが、トウジの横に並んぶ。


「…あ、ちょっと待ってくれよ」

 ケンスケが、そんな四人を押し留める。
 懐から、小さなカメラを取り出しながら。

「ケンスケ?」
「撮ろうぜ。今日の記念にさ。
 機材がないから正式な写真は撮れないけど…それはまた後にしてさ」
「…それはええけど、誰が撮るんや?」
「それはもちろん…」

 ケンスケはなんと日直の教師にカメラを渡して頼みこんだ。
 最初は怒った教師も、泣きはらしたアスカと、そしてレイの笑顔を見て何かを感じたらしく、
最後は苦笑とともに快く引き受けてくれた。

「………………?」
 事情がよく呑みこめず、きょとんとしたレイ。
 そんなレイを中心として、皆が集まってくる。


 蒼天の、薄暗い屋上。
 帳の落ちて、すっかり気温の下がった秋の夜。
 寂しい梢の音。

 だけど…ここには、こんなにも輝いた笑顔達。

 今日という日の、最高のポートレイト…


 シンジが、みんなが、隣から優しく囁く。

「綾波…今日の記念だよ。僕達が、友達になった記念…」
「そうよ。だからレイ、笑いなさいよ」
「せっかくやから、エエ顔で写っといたほうが得やでー」
「ほらほら、綾波さん。笑顔!」
「シンジと惣流と手でも繋いどけよ、綾波」

「うん…!」

 右から、トウジ、ヒカリ、アスカ、レイ、シンジ、ケンスケ。

 今日という日に、親友となり得た少女達。

 今日という日の、大切な想い出…

 いつまでも色褪せない、大切な絆…


「ほら、行くぞー!」
『はーい!!』


 パシャ―――!










 わたしは望まれない生を受け

 今までずっと独りで生きてきた

 誰とも相容れることなく

 誰とも分かり合おうとせず

 わたしはいつも独りだった

 でも

 今日、はじめて気付いた事

 わたしを見ていてくれる人がいる

 わたしに笑いかけてくれる人がいる

 ほんの少しだけ、勇気を出すだけで…

 ほんの少しだけ、世界を見渡すだけで…

 いつでも暖かさを感じられる

 だから

 わたしは頑張ってみようと思う

 初めてできた友達と

 好きになった人と

 私が、変わって行けるように…


FIN













     あとがき


 アスカが、嫌いです。
 性格も容姿も好きじゃありません。本編のアスカは特にだいっっっ嫌いでした。
 態度も言葉遣いも性格も。
 誰になんと言われようがこれは私の性格なんでしょうがありません。

 …でも。
 ある条件に限りアスカが好きです。
 それはSS世界でしか見れないアスカです。

 全て吹っ切り、シンジとレイの事を認め、励ます事のできるアスカが好きです。
 例えその中で、アスカがシンジと結ばれたとしても。
 逆にそんなアスカだったら、レイとシンジが結ばれても笑って許せるでしょうし。


 ま、何て言うか…
 アスカは嫌いだけど、だからって不幸にするのは嫌でした(ギャグとかでならともかく)。
 嫌いだからこそなんかどうにでもできる世界で痛め付けるというのは違う気がして。
 だから、好きになれるアスカを書きたかった…と。

 ……………失敗してますけど(笑


 これを読んで、多大な不快とか文句とか、ひょっとしたら感想とか持ってくれた方とか
 おりましたら、是非私にメール下さい。返事は必ず多大な感謝とともに送らせて頂きます。

 今は忙しいし社会的立場から見て遊んでられない(ハズの)自分なので、これにて来年までは
 消えてしまう身ですが、とても励みになります。身に振りかかる状況を乗りきり、そして帰って
 来る力になります。
 どうぞ、お気軽にお手紙ください。

 それでは、この辺で。

yuhhki

 …あ、そうそう。私を知ってるLeaf系の方々、何も言わず見逃してください(笑



本編の性格を持った、学園のレイですね。
夕日の情景描写が秀逸で、まるで目の前に風景が浮かぶようでした。すごい表現力です(^_^;)
夕日に染まる教室の仲で、一人寂しげに佇むレイ……
そこへ来たシンジの行動、アスカの行動、そして他のみんなの行動……
切なくも心温まるストーリーですね。

Written by yuhhki thanx!
感想をyuhhkiさん<yuhhki@hotmail.com>へ……


Back to Home