Side Story #17

扉ノ向コウ




 錆びついた扉の前に立ち、シンジは少し上を見上げた。

 『402 綾波』

 薄汚れた表札。
 その文字を見ると緊張する。
 数週間前、ここに来た時に起こったことを思い出すからだ。
 IDカードを渡しに来ただけなのに……どうしてあんなことになったんだろう。

 一つ、深くため息をつき、呼び鈴を押した。
 手応えが虚しかった。鳴った様子はない。
 あきらめて、扉をノックする。

「綾波?」

 呼びかけにも、中から答える声はなかった。
 まだ、帰ってないのか……
 ふと下に目を落とす。
 郵便受けに、割合新しい紙が突き刺さっていた。
 その一つを手に取ってみる。
 学校のプリントだった。

「…………」

 ここ何日か、レイは学校に来ていない。
 してみると、これは前の週番がここに届けに来たものなのだろう。
 それがここに刺さったままだということは……
 シンジは少し考えてからそれらのプリントを全部抜き取り、また扉をノックした。
 答えが返ってこないのはわかっていたが、単なる儀礼として。

「綾波、入るよ」

 軋んだ音と共に扉を開く。
 その隙間から顔を覗かせて中を見る。
 そこはいつか見たように薄暗かった。
 もう少し大きめに開き、身体を滑り込ませる。
 玄関に入って扉を閉めた。
 中に人の気配はない。

 立ち止まったまま、左を見遣る。
 アコーディオンカーテンは開いていた。
 どうやら、本当にいないようだ。
 少し、ほっとして靴を脱ぎ、部屋の中に入った。

 辺りをぐるっと見回してみる。
 ベッド、椅子、チェスト、冷蔵庫、その上におかれた瓶類。
 以前と何も変わった様子はない。
 血染めの包帯が放り込まれた段ボールの箱さえそのままだ。

(……まだ、捨ててなかったのか……)

 この前見たときも何となく気になっていた。
 別に血の匂いがするわけではないが、そのまま置いておくようなものではないだろう。
 かと言って、自分が勝手に捨ててしまうのは……

 と、その時、扉の開く音がした。
 振り返ると、そこにはレイがいた。
 シンジが部屋の中にいるのを見ても、表情一つ変えないで。

「あ、あの……」

 つかつかと歩み寄ってきたレイを見て、シンジはうろたえながら手の中のプリントを揃えた。

「……何?」
「こ、これ……これ、学校の、プリント……」
「…………」
「しゅ、週番だから、届けておいてくれって、先生が……」
「…………」

 シンジはプリントの束をレイの方に差し出した。
 レイは黙ったままそれを受け取ると、シンジの横をすり抜けてベッドに歩み寄る。
 シンジが振り返ると、レイはプリントを枕元に投げるように置き、ベッドに腰掛けた。
 そしてまるで彫像のように、床を見つめながらじっとしている。
 カーテンが風ではためく音と、窓の外から聞こえるパイルドライバーの音だけが部屋を満たす。
 ただ、無為に時間だけが流れていた。

「あの……ずっと帰ってなかったの?」

 ずいぶん長い時間が経ってから……いや、本当は1分にも満たない時間だったかもしれない。
 シンジはレイに訊いてみた。
 ただ、会話のない息苦しさから逃げ出すために。

「……どうして?」
「その、学校のプリント、たまってたから……郵便受けに……」
「……いいえ、毎日帰っているわ」
「じゃ、あれ、見てないんだ……」
「……ええ」
「そう……それじゃ、今度から、部屋の中に置いておくよ」

 シンジは無理に笑顔を作りながら、レイにそう言った。
 だが、レイはそれには答えず、おもむろに胸元のリボンに手をかけた。
 そしてそれをするするとはずしていく。
 シンジはぼんやりとレイの仕草を眺めていたが、ブラウスのボタンをはずし始めたのを見て我に返った。
 あわてて振り返り、レイの方に背を向ける。
 そして背後から聞こえる衣擦れの音をかき消すために、大きめの声で言った。

「あ、あの、じゃ、僕は、これで……」
「……帰るの?」

 後ろでレイの動きが一瞬止まる。

「うん……」
「……そう……」

 レイのその言葉を背に受けながら、シンジは逃げるように玄関に向かった。
 靴紐を結んでいると、後ろでレイの足音がした。
 初めの音はベッドから床に降りた音か。それからトン……トンと間を置いて二つ。
 それからややあって、シンジの方に足音が近づいてきた。
 焦って指が震え、うまく靴紐が結べない。その間にも足音が近づいてくる。

 シンジは靴紐を結ぶことを諦め、立ち上がって扉に手をかけた。
 ほとんど同時に、後ろでアコーディオンカーテンの閉まる音。
 逃げるように部屋を出た後、扉にもたれてシンジは息をついていた。
 どうしてこんなに焦らなきゃいけないんだ……
 そして、解けたままの靴紐を見下ろしていた。





 その日もレイは学校を休んでいた。
 シンジはまたレイの部屋の前に来ていた。
 もちろん、プリントを届けに。
 今日の週番がシンジにその役目を押しつけて帰ってしまったのだ。
 気の弱いシンジにそれを断ることはできなかった。
 新しく同居人になった惣流・アスカ・ラングレーとは、適当な理由を付けて帰る途中で別れて来た。

 『402 綾波』

 またその表札の下に立ち、呼び鈴を押す。
 鳴るとは思えないが、こうしないと何となく入りづらかった。
 あるいはそれは、部屋に入る正当な理由が欲しいだけなのかもしれない。

「綾波?」

 ノックをしながら声をかける。
 だが、中からは何の反応もなかった。
 今日もいないのか……
 そう考えながらドアノブを回し、ゆっくりと扉を引く。
 奥の窓のカーテンの隙間から夕日が射し込んでいるのが見えるだけだった。
 そのまま中に入ろうとして、シンジはふと思い直した。

(やっぱり、外で待っていた方がいいかな……)

 どうも、自分がこの部屋に来るときは間が悪いようだ。
 最初に来たとき、レイはシャワーを浴びていた。
 そしてこの間来たときも、レイは自分がいるのにも構わずシャワーを浴びようとした。
 別に、自分の存在を無視したわけではないだろうが……

 じゃあ、とシンジは考え直す。
 綾波は僕の存在のことをどう思ってるんだろう?
 いてもいなくてもいい存在……なのかな、やっぱり……
 それに……僕は、綾波にどう思って欲しいんだろう?
 ……なんでここに来たらこんなこと考えたくなるんだろう?

 シンジがぼんやりと考えながらその場に立ちつくしていると、不意に足音が近付いてきた。
 はっとして横を見ると、レイがこちらに向かって歩いてきているのが目に入った。
 シンジが扉の前に立っているのを見ても、表情を変えることなしに。
 そして、シンジの目の前で立ち止まると、じっとシンジの顔を見ながら言った。

「……何?」

 この前と同じ反応。
 いや、ずっと以前とは少し違う。
 最初に会った頃だったら、僕のこと無視して部屋の中に入っただろうな……

「あ、あの……プリントを届けに……」

 シンジはそう言いながら鞄を開けて持ってきたプリントを取り出し、レイの方に差し出した。
 だが、レイはそれをちらりと見ただけで受け取ろうとはせず、無表情にシンジの顔を見つめながら言った。

「……中に、置くんじゃなかったの?」
「えっ?」

 でも、入ろうとしたら、綾波が帰ってきて……
 シンジがそう言おうとするより前に、レイは視線を切り、ドアノブに手をかけていた。
 そして鍵のかかっていない扉を開けて中に入りながら、首だけを振り返らせてシンジの方を見た。
 ほんのわずかな沈黙の後、レイは呟くように言った。

「……入らないの?」
「えっ、いや、その……」

 シンジが逡巡していると、レイはすっと歩き出して部屋の中に入っていった。
 扉が閉まりかけたのを見て、シンジはあわててドアノブに飛びつく。
 閉まってしまうのだけは防いだものの、そのまま開けて入ってもいいものかどうか……
 いや、入らなきゃしょうがないじゃないか。プリント、渡さなきゃ……

 少し考えた後で、シンジは扉をゆっくりと開いて中を覗いた。
 まさか、またシャワーを浴びるために、服を……
 だが、ちょうど死角に入っているのか、レイの姿は見えない。
 いつでも振り返れるように用心しながら、シンジは部屋の中に入っていった。

 ……しかし、レイはベッドに腰掛けていただけだった。
 そして微動だにせず、床を眺めている。
 この前と同じだ……でも、何だか少し違う気がする。
 何が違うんだろう?

 何というか、その、雰囲気が……
 と、とにかく、プリント渡さなきゃ。
 シンジはベッドに近付くと、レイの目の前にプリントを差し出した。

「あの、これ、プリント……」
「…………」

 レイは黙ってそれを受け取ると、枕元にそっと置いた。
 この前と寸分違わぬ位置に。
 シンジは置かれたプリントの方を見ながらぼんやりと考えていた。

 同じなのに……何が違うんだろう?
 そう雰囲気……この前はすぐにでも部屋を出たくなるような感じがした。でも、今日は……
 不思議と、この前のようなことにはならないような気がした。
 もう少し、ここにいてもいいような気がするんだ……
 シンジはただ黙ってその場に立っていたが、やがてぽつりと口を開く。

「あの……今日も、実験?」
「……ええ」

 レイは顔を上げもせずに小さな声で答える。
 しかしシンジは少し顔をほころばせながら、またレイに言葉を投げかけた。

「実験って、再起動実験とか?」
「……ええ」
「最近、多いんだね」
「……ええ」
「大変だね、学校休んで……」
「……任務だから」
「そう……零号機、早く直るといいね」
「……ええ」

 シンジの問いかけに、レイは短く言葉を返す。
 自分が一方的にしゃべっているばかりだが、シンジはそんなコミュニケーションに満足していた。
 ふと、周りに目を遣ったとき、包帯の入れられた段ボール箱に気付く。
 そうだ、これ……

「綾波、怪我はもう大丈夫なの?」
「…………」

 その質問に、レイは答えずすっと顔を上げた。
 そしてじっとシンジの方を見ている。
 どうしたんだろう、綾波……
 シンジも黙ってレイの顔を見つめ返していた。
 しばらくして、レイが口を開いた。

「……どうして、そんなこと訊くの?」
「えっ、いや、それは……」

 レイのその口調は、シンジの質問を咎めているようなものではなかった。
 ただ、純粋な質問として……シンジにはなぜかそう聞こえた。
 にも拘わらず、シンジは少しうろたえていた。
 そうだ、どうして綾波の心配ばかりしてるんだろう、僕は……

「それは、その……」
「…………」

 シンジの声は、先ほどより少し自信なさげになっていた。
 レイは黙ってシンジの言うことを聞いている。
 シンジはレイの方から視線を逸らしながらぼそぼそと話し始めた。

「包帯……まだここに置いてあるから……」
「…………」
「これを見て、そういえばっていう感じで思い出して……」
「…………」
「これ、僕が最初にここに来た時よりずっと前から置いてあるんだよね?」
「……ええ」

 レイに質問をするときだけ、一瞬視線を合わせたが、答えを聞いてすぐにシンジはまた目を逸らした。
 何だか、言い訳みたいだ……

「この前来たときもあったから、気になってて……」
「…………」
「それで、ふっと思ったんだ。怪我、大丈夫なのかなって……」
「…………」
「でも、もう大丈夫だよね。学校にも来てるし、実験も……」
「…………」

 一人でしゃべっているだけだが、シンジは少しずつ落ち着いてきていた。
 また、ちらりとレイの方を盗み見る。
 レイはまだシンジの方を見ていた。
 それからしばらく沈黙が続いた。
 今日は風もなく、カーテンがはためく音さえしない。
 そういえば工事の音も聞こえない。今日は休みだったのだろうか……

「あの……これ、捨ててこようか?」

 時間にしてほんの2、3分後、シンジは顔を上げると、レイに向かってそう言った。

「……捨てる?」
「うん……これもう、要らないよね?」
「……ええ」
「だったら、僕が帰り際にゴミ捨て場に持って行こうかと思って……」

 シンジはそう言ってレイの答えを窺った。
 またしばらく沈黙があった後で、レイが静かに言った。

「……もう、帰るの?」
「うん……プリントも渡したし、そろそろ帰らなきゃ……」
「……そう」

 レイの答えを聞くより前にシンジは段ボール箱を拾おうと腰をかがめたが、そこにいくつか紙屑が混じっていることに気付いた。
 何やら思い当たるものを感じて、シンジは辺りを見回す。
 そうか、ないんだ……

「綾波、あの……」

 シンジは顔を上げてレイの方を振り返ったが、途端にレイと視線があった。
 どうやらずっと見られていたらしい……
 シンジは少し戸惑いを感じながらも、言葉を続けた。

「……袋か何か、ない?」
「……袋?」
「うん……包帯だけ持っていこうかと思って……ゴミ袋か何かあれば……」

 シンジがそう言うと、レイは黙ってキッチンの方を見た。
 そうか、あそこに……
 シンジが歩いていってシンクの下の扉を開けると、そこには黒いゴミ袋が何枚か置かれていた。
 それを一つ取り出して段ボール箱のところに戻ると、しゃがみ込んで中に血染めの包帯と紙屑を詰め込んだ。
 背中越しに、レイの視線を感じるような気がしていた。

「それじゃ、僕はこれで……」

 シンジはそれだけ言うと、笑顔を見せながらレイの部屋を後にした。
 レイは黙ってシンジの後ろ姿を見送っていた。

(……なぜ、私に構うの……)

 シンジが去った後、レイは暫しの間その考えに取り憑かれていた。
 なぜ……構う必要なんて、無いのに……
 あなたと私は、関係ないのに……でも……

(……でも、嫌いじゃない……)

 レイは、自分の心が自分でなくなったような気がしていた。
 あなた、誰……私の中にいる、あなた……
 私の心を、変えようとしてる……

 しばらく考えた後で、おもむろに胸のリボンを解く。
 さっきは、こうしてはいけないような気がした……これも、なぜ?





「……ほんま、変わったなぁ」

 トウジの声に、シンジはゴミ袋をくくる手を止めた。

 『402 綾波』

 今日はトウジの付き添いで、レイの部屋にプリントを届けに来ていた。
 例によって勝手に部屋に入ったのだが……散らばっているゴミが気になって、ゴミ袋に詰めていたところだった。
 勝手にいじってしかられるで、とトウジに言われたが、そんなことはないとシンジは思っていた。
 そこには何の根拠もないが……でも、この前だって、片付けただけだし……
 それに、こんなことをするのが、何だかとても気持ちいいんだ。

「何が?」
「シンジや」

 僕? 僕の、何が?
 シンジは振り返ってトウジの方を見た。
 トウジは椅子に座り込み、ゴミを片付けるシンジの方を見ていた。
 ……何か変わったのかな、僕って……
 シンジが考える横で、トウジが独り言のように言葉を続けていく。

「初めて逢うた時は正直いけ好かんやっちゃと思うたけど。人のために何かやる奴とも思えんかったし」
「…………」
「ま、要するに余裕なんやろな、そないなことは」

 余裕? 僕が?
 シンジには、トウジの言葉の真意がわからなかった。
 余裕なんて、僕には……ただ、言われたとおりにエヴァに乗っているに過ぎないのに……
 それは、少しは慣れたかもしれないけど。
 でも、自分から進んで乗ってるわけじゃないんだ。
 だから、人のためって言われても、それは僕の意志じゃなくて……

 その時、扉の開く音がした。
 部屋の空気が動く。
 シンジたちが振り返ると、入ってきたのは……レイだった。
 レイはシンジの方を見たが、いつものように顔色を変えることもなく、部屋の中につかつかと歩いてきた。
 シンジは立ち上がってそれを見ていた。

「おじゃましとるで」

 トウジの言葉に、レイは立ち止まって振り向く。
 初めてそこにシンジ以外の人間がいることに気付いたかのようだった。
 そして、いつも同様に抑揚のない声を発する。

「……何?」
「あれがたまってたプリントや」

 トウジが指差した先を、レイは黙って見た。
 ベッドの上の枕元の、いつもの位置にプリントが置かれている。
 だが……そこは何か不自然だった。
 ベッドの周りがいつもと同じではない。
 自分はこんな光景を見慣れていない……何かが違う……

「……ごめん」

 レイの視線が穏やかでないのを見て、シンジが話しかけた。
 何だか、びっくりしてるみたいだ……やっぱり、しかられるかな?
 いいや、ちゃんと言おう……
 レイがこちらを向いたのを見て、シンジは軽い笑顔で言葉を続けた。

「勝手に片付けたよ。ゴミ以外はさわってない」

 そう言ってゴミ袋を少し掲げて見せる。
 それを見たレイの表情が、変わった。
 驚きの顔が……別の驚きの顔になった。
 初めて見せる表情だった。
 音がしそうなくらい大きく瞬きすると、小さく口を開く。

「……あ……」

 だが、それが言葉になるまでには、僅かに時間が必要だった。

「……ありがと……」

 二人のやりとりを見ながら、トウジは椅子の背に頬杖ついてぼんやりと考えていた。
 ほんま、エヴァのパイロットて、変わりモンばっかりやなぁ……何やねん、この会話は。



(ありがとう……感謝の言葉……)

 二人が去った後の部屋で、レイはベッドにうつぶせになり、じっと考えていた。

(初めての言葉……)

 ……私、なぜ、あの言葉を言ったの?

(あの人にも言ったことなかったのに……)

 あれは、私に特別な接し方をする人に言う言葉……だが、実際に言ったことはない。
 私を構ってくれる人……碇司令、赤木博士、葛城三佐、碇君……
 ……碇君だけは、私に命令しない……他の人は、私に命令する。私は彼らの『道具』にすぎないから。
 でも、碇君は……私を道具として必要としないのに、なぜ……構うの?

 ……碇君にとって、私は何?
 そして、私は……どう思われたいの……
 なぜさっき、顔が熱くなったの……

 レイの心が揺れたのは、窓から入る風のせいではなかった。





 シンジは虚ろな視線で表札を見上げていた。

 『402 綾波』

 気が付けば、いつの間にかその扉の前にいた。
 また来たのか……僕は……
 なぜここに足が向いたのかわからない。
 自分は何を求めているのだろう?

 あれ以来……最後の使徒を自らの手で殲滅して以来、誰とも話をしていない。
 ミサトさんと会話したのも、湖の畔が最後だった。
 それ以来、ミサトさんは家に帰ってもこない……
 会っても、話すことなんてできない。
 話すのが怖い。
 あの時から、ミサトさんは変わってしまった。
 何も見ていない。僕のことも。

 みんな、みんな変わってしまった。
 ここに来てから出会った人は、みんないなくなってしまった。
 みんなどこかへ行ってしまった。
 ここにいても、心が変わってしまった。前のみんなじゃない。

 だからここには、僕の知ってる人なんて一人もいない。
 僕は一人だ。
 湖の畔に立って、かつてあった街の残骸を眺めていることしかできない。
 他に何もできないから。
 他に何もすることがないから。

 ……それなのに、知らない間にここに来てしまっていた。
 この表札は見覚えがある。この扉も……
 そしてこの中の殺風景な部屋も、きっと前のままに違いない。
 カーテンも、冷蔵庫も、チェストも、椅子も、そしてベッドも。
 ベッドの上にいるのも、見覚えがある人物、のはずなのに……

 呼び鈴を押そうとする手が止まった。
 これも前と同じで鳴らないに決まっている。
 手を下ろしてドアノブに手をかけると、ノックもせずに扉を開けた。
 少し軋んだ音も、以前のまま……

 覗き込んだ部屋の中は、やはり前のままだった。
 奥のベッドの上に、脚が見える。今日は、いるんだ……
 ゆっくりと扉を開け、中に滑り込む。
 後ろ手で扉を閉めると、少し大きな音が響いた。
 だが、部屋の中で人の動く気配はない。
 しばらく玄関に立ち止まっていたが、シンジは一歩、また一歩と、部屋の中に入っていった。

 ベッドの上の人物は、うつぶせになっていた。
 組んだ腕を枕代わりにし、頭をこちらに向けて眠っている。
 その目は確かに閉じられていた。特徴的な赤い瞳も、今は見えない。
 窓から入ってくる風が、髪の毛をかすかに揺らしていた。
 その表情は穏やかだった。
 これと同じ表情を、いつか病院で見たような気がする……
 シンジはベッドの脇に立つと、レイの方に手を伸ばした。

「あ……」

 声をかけようとして、シンジは固まった。
 頭の中を、警報が流れた。
 起こしてどうするというんだ?
 差し延べていた手を引っ込め、改めてレイの顔を見下ろす。
 そして唇を噛みしめた。

 起こして、話でもするのか? 何の話を?
 ここにいる綾波レイは、僕の知らない綾波レイかもしれないのに。
 僕の知っている綾波レイと、違うかもしれないのに。
 あの冷淡な赤い瞳で見つめられたら、どうする?
 その視線は、僕の知っている視線じゃないのに。
 しゃべることなんて、できやしない……

『……たぶん私は、3人目だと思うから……』

 ついこの前、病院で会ったときのことを思い出す。
 死んでしまったと思ったのに。生きていたとわかってうれしくて駆けつけたのに。
 それなのに、綾波が僕に言った言葉は……

『……いいえ、知らないの……』

 そうだ。ここにいる綾波レイを、僕は知らないんだ。
 綾波も知らない。僕のために死んでいったことも、何もかも。
 ここにいるのは知らない人。

「あ……」

 だから、起こしちゃいけないんだ。

「う……」

 この部屋に入ったこと自体、ダメなんだ。

「うう……」

 ここは僕の知らない人の部屋だ……

「うわああっ!」

 シンジは大声で叫ぶと、部屋を飛び出していた。



(……誰?)

 扉が閉まる音が部屋に響いた後、レイは薄く目を開けた。
 視線の先には、誰もいない。
 だが、誰かいた気配を感じる。
 私以外の誰か……

(……そう……来ていたのね……)

 ここを訪れる可能性のある人物は、一人しかいない。
 記憶の途切れる前から知っている人物。それは……

(……でも、もう間に合わない……)

 レイはまた目を閉じた。
 追いかける時間はもうない。
 全ては終わるのだから。
 約束の時は来てしまった。
 今の自分には、記憶をたどって彼の笑顔を思い出すことしかできない……

 それは不思議な感覚だった。
 自分は、彼のために存在したのではない。
 でも、なぜ彼のことがこんなにたやすく思い出せるのだろう?
 なぜあの人よりも……

 記憶が欠ける前の私は、彼に何かを感じていたはず。
 そう、今よりももっとはっきりと、言葉にできるほどに。
 今の私は、その時と同じ気持ちになれるだろうか。
 ……そうなれたら、私はどうするだろう?

 レイはただそのことだけを考えていた。
 ……同じことをするかもしれない……前の私が、彼のために自らの死を選んだように……
 でも、もう……時間がない……



 シンジは湖の畔に立っていた。
 夏の暑い陽射しが水面を照らし、湖面を眩しく輝かせる。
 首のない天使が、上半身を水の上にさらけ出していた。
 そしてシンジはひたすらに自分の死を願っていた。
 ……僕を構ってくれる人なんて、もう誰もいない。
 もうイヤだ……何もしたくない……



 だが、全ては始まってしまった。
 その部屋の扉が開くと共に。



 そして、全ては終わった。
 扉の向こうには、もう誰もいなかった。



- Fin -




新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

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Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions






























 シンジはその部屋の前に立っていた。

 『402 ……』

 表札は既に外れていた。
 ここはいつ来ても緊張する……
 シンジはそっと扉をノックした。















 レイはいつものようにベッドの上に座っていた。
 そして先ほどから感じていた。
 いるわ、彼……扉の向こうに。

 遠慮がちなノックの音。それもいつもの通りだった。
 ゆるゆると扉が開いて、彼……シンジが顔を覗かせる。

「あ……」

 声を出そうとして、シンジは固まった。
 彼女が唇の前に人差し指を立てたからだ。
 音を立てないように気を付けて扉を閉めると、シンジは足音を忍ばせてベッドに近付いていった。
 レイはシンジを見ていた視線を、自分の腕の中に落とした。

「……今……眠るところだから……」

 そう言って穏やかな笑みを浮かべる。
 シンジはその横顔を見て、満足げに微笑んだ。
 そして、レイの腕の中を覗き込んだ。
 そこには……この世に新たに生を受けた天使が、安らかな表情で眠っていた。
 見ている二人の顔も、つられて優しげになる。

 しばらくそうしていたが、やがてシンジはそっと椅子を引き寄せて座った。
 そして、二人の愛の結晶を腕に抱いているレイの方を見つめる。
 それはいつか見たような、優しい母の表情だった。
 幼い眠りを見つめる愛情と慈しみに満ちた横顔。
 いい表情だな……

 あの部屋に最後に入ったときから考えれば、信じられない。
 こんな表情が見られるなんて、夢みたいだ。
 そして、その腕の中で眠る新しい命。
 夢じゃないよな、うん、夢じゃない……
 シンジはベッドの脇に置いてあった鞄を持つと、レイに小さく声をかけた。

「じゃ、行こうか……」
「……ええ……」

 二人は陽光が降り注ぐ病室を後にした。
 そして閉じられた扉の向こうでまた一つ、新しい未来への旅が始まった。



- Fin -




1周年目の「ありがとう」。そしてこれからもよろしくお願いします!
From A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions