Side Story #16

月光の贈り物 〜A.D.2023〜



 部屋の中に、銀色の光のかけらが舞い降りていた。

 窓から降り注ぐ、月光の煌めき。

 それが二人を輝く霧のように包み込む。

 部屋の明かりは灯されていない。

 そこに何も言葉は無かった。





 静寂。





 彼女は部屋の中心に据えられたベッドの上にその身を横たえていた。

 彼はその傍らに設えられた椅子に端座していた。

 そして彼女の妙なる横顔を見ていた。

 まるで眠っているような、安らかなその表情を。





 そう、眠っているのだ。

 彼はそう信じていた。

 もう起きないなんて……目を覚まさないなんて……そんなことあり得るはずがない!

 眠っているだけなんだ!

 だって、ほら……今にも、目を開けそうじゃないか。

 もう少ししたら目を覚まして、その瞳で……僕の大好きな深紅の瞳で、僕を見て……

 そして、あの涼やかな声で呼ぶんだ。僕の名前を……





 固くそう信じ、彼女の横顔を注視する。

 その端正な面影に降り注ぐ銀色の光は、夜の闇と混ざり合い、透明でどこまでも深い蒼を創り出す。

 白く滑らかな肌はその蒼に染め上げられ、まるで気品のある陶器のように美しく輝く。

 その特徴的な青い髪は、蒼い光の中では透明なガラスの糸のように煌めいていた。

 そしてそれが作り出す乱反射が、彼女の顔の辺りに蒼い靄をかけているように見える。

 『月光の妖精』

 そんな形容さえ頭に浮かぶ、喩えがたい程の美しさ。神々しいまでの目映さ。

 だが、彼がいくら待ち続けても、彼女の愛しき双眸が見開かれることはなかった。





 彼がこの部屋に到着したのはもう半日も前のことだった。

『えっ……』

 救急病院から最初に連絡を受けたときは、信じられなかった。

『そんな……まさか……嘘でしょう?』

 彼女が倒れた……

 自分の耳を疑い、相手の言葉を疑った。

 だが、相手は努めて冷静に事の次第を報告する。

 彼女は今朝、自宅で倒れ、そのまま救急病院に担ぎ込まれたらしい。

 万が一のための緊急コールシステムが役に立ったのが、不幸中の幸いだった。

 精密検査の結果は芳しくなかった。

 これまでに経験したことのない程の大きなストレスが、彼女の身体を襲ったのだという。

 そして今、彼女は彼の目の前にいる。

 深い眠りに落ちていったまま。







 それはいつもと同じ、平凡な朝のはずだった。

 いつものように朝の身支度を済ませ、出掛けようとしていたときのことだった。

「えっ……」

 それは全く突然のことだった。

 不意に、身体の力が抜けた。

 私は思わず声を出していた。

「何、これ……」

 身体の中から湧き起こる、何とも言えない違和感。

 頭が痛い。胸が苦しい。手足が痺れる。

 全身を包み込む、異様な感覚。

 血液が逆流していくような感じ。

 立っていることさえできない脱力感。

 私は、崩れるように床に倒れ込んだ。

 ただ考えだけが私の頭を巡る。





 ……何が、起こったの?

 私の身体に、何が……

 ……まさか……

 ……もう、だめなの?

 無へ還るときが、来てしまったの?





 私は自分自身に問いかける。





 でも、それは私の望みだったはず。

 無から生まれ、無へと還る。

 一人のヒトの願いを叶えるために造られた存在。

 人に似せて造られたモノ。

 それが、私。

 だから、

 それが済めば、

 全てが終われば、

 無へと還るはずだった。

 そして、そう願っていた。

 私自身が。





 でも、今は……怖いの。

 いつからそう思い始めたのだろう。

 そう、

 碇君に会ってから。

 碇君が私に、言葉をくれてから。

 碇君が私に、笑顔をくれてから。

 碇君が私に、心をくれてから。

 私は、ヒトになった。

 私は、ヒトになりたかった。

 そう願っていた。

 碇君と共にいたい……

 そう願っていたはずだった。





 その願いは叶えられたと思っていた。

 あの日、碇君の許に、還ってきたときから。





 でも、まだ怖かった。

 今のこの身体は、仮初めのものかもしれないから。

 私は、ヒトではないかもしれないから。

 ヒトの形をしているだけの、別のモノかもしれないから。

 ……そうして碇君を騙しているだけかもしれないから。





 頭の中を得体の知れない闇が覆う。

 この感じ、何?

 私が私でないみたい。

 そう、身体が溶けていく感じ……

 それはきっと、こんな感じなのね。

 そう、私、無へと還っていこうとしているのね……

 恐れていたことが、ついに……





 私の願い、ここまでなのね……





 さよなら、碇君……

 ありがとう、碇君……

 ごめんなさい、碇君……





 でも、

 最後に、もう一度だけでも……

 逢いたい……

 碇君……





 その想いを最後にして、

 私の意識は、

 消えた。







『……あなた、碇司令の子供でしょ……』

『うん……』

『……信じられないの? お父さんの仕事が……』

『当たり前だよ、あんな父親なんて……』





『……ごめんなさい……こういう時、どんな顔すればいいか、わからないの……』

『笑えばいいと思うよ……』





『……碇くんの匂いがする……』

『綾波の匂いがする……』





『何か、お母さんって感じがした』

『……お母さん……』

『案外、綾波って主婦とかが似合ってたりして、あはは……』

『……何を言うのよ……』





『……今日は寝ていて。後は私たちで処理するわ……」

『うん……でも、もう大丈夫だよ』

『……そう、良かったわね……』





『ごめん、勝手に片付けたよ。ゴミ以外は触ってない』

『……あ、ありがと……』





『……そう、あなたを助けたの……』

『うん……憶えてないの?』

『……いいえ、知らないの……たぶん私は、三人目だと思うから……』







 …………





 ……ここはどこ?

 無の世界?

 いいえ、違う……

 青白い輝きに包まれて……

 そう、これは月の光……

 とても綺麗……

 いつか、碇君と見たことがあるわ……

 あの時も綺麗だった……

 そう、私、もしかしたら、夜空に浮いているのかも……

 見上げれば、きっとそこには、月があるはず……

 月の世界って、どんなのだろう……

 行ってみたい……無の世界なんて、行きたくない……





 碇君……

 私を月に、連れてって……





「綾波!」





 ……もう願いが聞き届けられたの?

 碇君の声がする。

 すぐ側で……

 私は瞳を押し開けた。

 入ってくるのはやっぱり月の光。

 そして……影。

 月影? ……いいえ、人影。





「……碇君?」





 自然に口が動いていた。

 そう、私の側に、碇君がいる……

 私が会いたくて会いたくてたまらない人。

 良かった……もう一度だけ、会えたのね……

 心の中に、熱いものがこみ上げてきた。

 いけない……涙が出たら、碇君が見えないもの……


「良かった……目が覚めたんだね。ほんとに良かった……」


 碇君はそう言って私に微笑みかけてくれた。

 私の心を温かく満たしてくれる、その微笑み……

 でも、その笑顔はいつもより少しだけ寂しそうに見えた。

 どうして……?

 ……そう、だめなのね、もう……


「びっくりしたよ。ほんとにもう、会えないかと思った。全然目を覚まさないんだもの」

「……ごめんなさい……」


 こんな時、どんな顔すればいいの……

 ずっと碇君と一緒にいたのに、私、まだそんなことも知らない……


「謝ることなんて、ないよ。その……僕が、心配しすぎただけだから……」


 碇君はそう言って、胸の前で両手を振った。

 また私に、謝ってる……

 本当に、いつまで経っても、内罰的な人……

 でも、それは碇君の優しさ。

 私の全てを受け容れるための、碇君の心遣い……

 だから、私、嬉しいの。

 涙が出そうなくらい……

 私が涙をこらえていると、碇君が小さな声で呟いた。

 心の底から、安心したように。


「でも……ほんとに良かった、綾波が目覚めてくれて……」


 うん……私も、良かった……

 最後にもう一度、碇君の笑顔が見られて……







 幻想的な時間が過ぎていった。

 月の光の中で、二人、口を閉ざしたままで。

 何も聞かなくても、碇君のことがわかった。

 何も言わなくても、きっと碇君もわかってくれてる。

 初めて、こんなに深く、心が通じ合った気がした。


「……夢を見ていたの」


 私はぽつんと呟いた。

 そう、たぶん、あの夢を見られたのも、碇君が側にいたから……


「夢?」

「そう、夢……」


 私が碇君の存在を、意識し始めたときから……


「今までのこと、いろいろ思い出してた……」

「…………」


 碇君は黙って私の言葉を聞いていた。

 優しい微笑みを投げかけながら。


「憶えていないようでも、憶えているものね……」

「…………」


 私だけが話すことなんて、今までほとんどなかった。

 月の光に惑わされたかのように、私は話し続けていた。


「どうして今頃になって……」


 そう、どうして今頃?

 走馬燈のように、駆け抜けていく思い出。

 碇君の怒ったような顔。戸惑ったような表情。寂しそうな声。はにかんだ微笑み。そして……

 私の記憶の中の碇君は、いつも私のことを見てくれていた……

 人が過去を思い出すとき、それは……

 ……そう、やっぱり、だめなのね、もう……





 横たわったままの私の目の前に、碇君の手がすっと伸びてきた。

 掌の上には、青い小さな箱。

 天鵞絨の滑らかな輝き。


「……何?」

「ずっと前から決めてたんだ。今日渡すつもりだった」


 碇君はそう言いながら、その小さな箱を開けた。

 まるで手品師のような手つき。

 少し……手が震えてるわ。

 箱の中には、月の光よりも眩しい煌めき……


「……指輪?」


 碇君の頷く気配がした。


「こんなことになってからで、ほんとに申し訳ないんだけど……」


 少し、申し訳なさそうな碇君の声。

 ……そう、いつもの碇君。

 でも……指輪なんて、いつもの碇君らしく……

 あっ……

 もしかして……

 でも……


「……受け取ってくれるかな」


 少し、自信なさそうな碇君の声。

 これも、いつもの碇君……

 それなのに、私、嬉しかった。

 今まで生きてきた中で、一番……

 ……いけない。涙で、何も見えなくなっちゃう……


「……ありがとう……」


 震える声で、やっとそれだけ言った。

 後はもう言葉にならなかった。


「綾波、僕と……」


 私は泣きじゃくりながら、碇君の言葉を聞いていた。


「僕と結婚してくれないか……」


 その言葉に、私は頷くことしかできなかった。

 月明かりに照らされた部屋の中で、私は泣き続けた。

 碇君に見守られながら。





「ありがとう……碇君……」


 ひとしきり泣いた後で、私は碇君を見てそう言った。

 そして、微笑んでみる。

 碇君の顔が霞んで、よく見えなかった。

 それでも、嬉しかった。

 碇君も私に微笑みかけてくれているのがわかったから。


「私……私、今まで……」


 また言葉が途切れそうになる。

 泣いちゃ、だめ。ちゃんと言わなきゃ……


「……今まで、碇くんと、一緒にいられて、本当に……本当に、良かっ、た……」


 でも、最後の方は、うまく言えなかった。

 笑顔になることさえできない。

 いつかこうなったら、とびきりの笑顔でいようと思っていたのに。

 今の私には、そんなことさえできない……


「今までなんて、そんな言い方しないでよ」


 碇君はそう言いながら、私の髪を撫でてくれた。

 それだけで、優しさが伝わってきた。


「これからも、もっと二人でいようよ。……時間の許す限り……」

「うん……ありがとう、碇君……」


 そう、時間の許す限り。

 それはたぶん、本当に短い間だけど。

 ありがとう、碇君、最後まで……







「碇君……」


 ずいぶん経ってから、私は碇君に話しかけた。

 その間私たちは、見つめ合っていた。

 言葉もないまま。

 そう、言葉は必要なかったから。


「何?」


 碇君はベッドのすぐ側に座って、私の目を見つめてくれていた。

 そしてその優しい両手で、私の左手をしっかりと包み込んでくれていた。

 私の左手の薬指には、碇君のくれた指輪が……


「これからもずっと……」


 私がいなくなっても……


「……ずっと私のこと、愛していてくれる?」


 いいえ。

 碇君を縛ることなんて、私には出来ない。

 でも、

 私がいなくなっても、

 せめて、私のこと、忘れないで……

 ……でも、碇君は静かな声で言った。


「もちろんだよ……」


 胸が詰まって、何も言えなかった。

 私はただ、左手に力を込めることしかできなかった。

 私の人生で、一番幸せな瞬間。

 そしてもうこんな時が来ることはない。

 このまま時が、止まってしまえばいいのに……

 でも、そんなことはないの。

 こうしている間にも、時は早足で過ぎ去っていく。

 私に残された時間は、あと僅か……

 さよなら、私の大切な人……

 さよなら……私の今だけの旦那さま……







「でも、ほんとに驚いたな……まさか、今頃……」


 少し間があって、碇君が呟いた。

 うん……私も……どうして、今頃になって……

 もっと早くこの時が来ていれば、こんなに……こんなに、悲しくなかったのに……

 なのに、どうして?

 どうして、今なの?


「綾波、ごめん……」

「……何?」


 碇君がまた私に謝ろうとしている。

 いいえ、碇君は何も悪くないの。

 誰が悪いのでもないの。

 こうなるの、運命だったから……

 今までだけで、充分だったから。

 私、もう……そう心に決めたから。


「……ぼくもまだ、その、何というか、人間ができてないから……」


 碇君はそう言って、言葉を切った。

 私は碇君の言葉を待った。

 本当の気持ちが聞きたかったから。


「やっぱりまだ、心の準備ができてないよ……」

「碇君……」


 私はそう言ったきり黙りこんだ。

 碇君も黙っていた。

 そう、それが碇君の偽らざる気持ちなのね。

 でも、たぶん、それが本当だと思う。

 私が碇君の許に還ってきてからまだ10年にも満たない。

 ようやくヒトの心を持てたのも数年前のこと。

 心が通じ合ったのも、ついこの間。

 今までにいろいろあったけれど、それがまるで一瞬の夢のよう。

 でも、本当に幸せだった日々。

 そう、夢のような日々……

 それは全て、碇君のおかげ。

 碇君に会えたおかげで、今の私がいる。

 だから、私は碇君に何も言う権利はない。

 全ては、碇君の心のままに……

 私はじっと碇君を見つめていた。

 碇君が顔を伏せたまま、ポツリと呟いた


「まだ、信じられないよ……」


 私も、信じられない……信じたくない……






























「僕が……お父さんになるなんて……」










 えっ?



- Fin -




新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

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Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions






























「あの……碇君?」

 綾波が僕の方をじっと見ながら話しかけてきた。
 どうしたんだろう。何だか、驚いているみたいだけど。

「何?」
「あの……お父さんって……」
「え?」

 あれ? おかしいな。
 何だか、話が通じてないみたいだ。
 混乱してるのかな?

「えっと、その……綾波、倒れたよね?」
「え、ええ……」

 返事が虚ろだ。
 やっぱり、混乱してるみたいだ。
 こういうときの女の人って、情緒不安定になるらしいから……

「それでその、病院に運ばれたわけだけど」
「ええ、だから今、ここに……」

 あ、だいぶ落ち着いてきたみたいだな。

「それで、その、検査の結果なんだけど」
「……それって、その……」

 やっぱり何だか不安そうだな。
 話してもいいんだろうか?
 でも……このままにしておくわけには……

「あの……何というかその、悪性のつわりだって」
「? つわり?」

 ……何だか、また考え込んでるみたいだな……
 しょうがない、ちゃんと話さなきゃ。
 わかってると思ってたんだけど……

「う、うん、綾波、普段から、その……重かったろ? そういうのはホルモンバランスに関係あるらしいんだけど、綾波の場合は特につわりも重かったんだろうって。ショックで気を失う場合もあるらしいけど、綾波の場合はまさにそれだろうって」

 これは全部先生に聞いたことだ。
 男である僕にとってはちょっと恥ずかしい話題だったので、早口で言ってしまった。
 綾波はまだ不思議そうな顔をしている。

「でも、あまりにもひどくて、昏睡状態に陥ったから、心配してたんだ。最悪の場合は意識が戻らないこともあるって脅されて……」
「…………」
「だから、綾波が目覚めたときは、本当に嬉しかったんだよ。今夜が山だろうって言われたから」
「…………」

 綾波は黙ったまま僕の方をじっと見ている。
 ……何か僕、変なこと言ったかな?

「あの……綾波どうかしたの?」

 まだ何だか、ぼーっとしてる感じだな。
 やっぱり綾波も、心の準備できてなかったんだろうな……
 だって、結婚前だもんなぁ……まずいよ、アスカやカヲル君に、何言われるかわかったもんじゃない。
 あの二人はできる前に結婚しちゃったもんな。
 でも、仕方ないや。綾波が退院したら、すぐにでも式場探しを……

「……碇君?」
「え? 何?」

 あれ、綾波、今度は笑ってる。
 しかし、表情がいろいろと変わるなぁ。やっぱり情緒不安定……

「ごめんなさい。こういう時、どんな顔すればいいか、わからないの!」
「……笑えばいいと思うよ?」

 もう笑ってるじゃないか。変な綾波……



- Fin -




10万回目の「ありがとう」。そしてこれからもよろしくお願いします!
From A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions