Side Story #15

止まらない時間



 シンジはリニアの駅で時計を見ていた。

「あれ……」

 故障中か……
 学校を出たのが3時過ぎだったのに、ここの時計はまだ12時前。
 今時珍しいアナログ時計は、どうやら止まっているらしかった。
 電光掲示板にはリニアの出発時間だけが表示されている。
 もうすぐ出発になっちゃうんじゃないだろうか。
 アスカ、早くトイレから帰ってこないかな。
 シンジは洗面所の方を見てから、振り返って階段の下を覗き込んだ。
 リニアが動き出す気配はまだない。

「綾波、今、何時かわかる?」

 シンジは顔を上げてレイにそう訊いた。
 レイは時計を見上げていたが、シンジが振り向いたので視線を下に降ろした。
 そしてしばらく間を置いてから小さな声で答えた。

「わからない……」
「時計、持ってないの?」
「ええ……」

 そうか、持ってないんだ。
 僕も持ってないけど……
 持ってるのはアスカだけか。
 僕もやっぱり時計買った方がいいかな。
 シンジは思った。

「アスカ、遅いね。もうリニア出ちゃうんじゃないかな」

 シンジはまた洗面所の方を見ながら言った。
 アスカはまだ出てきそうにない。
 あ、そうだ。シンジは思い出した。
 携帯電話に時計が付いてるじゃないか。
 シンジはゴソゴソと鞄の中をまさぐり、携帯電話を取り出すと、時計を見た。
 そして駅の電光掲示板と見比べる。あと2分か、間に合うかな。
 そう思っていたとき、落ち着いたレイの声が聞こえた。

「まだ間に合うわ……」

 シンジはまたレイの方を見た。
 レイはどこを見るでもなく、視線を宙に漂わせている。

「えっ、どうしてわかるの?」
「早めに学校を出てきたから……テストにはまだ時間があるわ」

 何だ、そういうことか。
 でも、僕が訊きたかったのはそうじゃなくて……

「いや、その、僕が言ったのは、次のリニアに間に合うかどうかで……」
「それは……知らない。正確な時間、わからないから……」

 レイはそう言いながら、ちらりとシンジの方を見た。
 それからまた電光掲示板の横の時計を見上げた。

「うん、でも……時間がわからないって、何だか不安だよ。綾波はそうじゃないの?」
 シンジは携帯電話を鞄にしまいながら、またレイに訊いてみた。
 レイはまたちらりとシンジの方を見たが、今度は宙に目を戻す。

「別に……」
「でも……」
「それに、時計なんてどこにでもあるから……」
「あ、うん……でも、例えばこういうときとか、自分で時計持ってた方が……」

 あれ、そういえば……
 シンジは考えた。
 綾波の家に、時計ってあったっけ。
 あんまりよく部屋の中を憶えてないけど、時計はなかったような気がする……

「あの、綾波……」

 それにもう一つ、別の疑問が頭に湧いたので、シンジは思いきってレイに訊いてみた。

「綾波の部屋って、時計、ある?」

 するとレイはシンジの方を横目で見たが、やがて身体ごとこちらに向いて言った。

「ない……」

 やっぱり……シンジは思った。
 じゃ、もしかして……

「……じゃ、朝とか、どうしてるの?」
「どうって?」
「その……起きる時間とか、学校に行く時間とか……」
「起きるのは、明るくなったら……それから準備をして、学校に行くけど……」
「じゃ、いつも学校に早く来てるのは……」

 やっぱり、そうなのか……
 あれは、時間がわからないから、早めに来てるだけだったんだ……
 でも、それって、何て言うか……

「あ、あの、綾波……」
「何?」
「それって、時間を無駄にしてると思うけど……」
「……どうして?」

 レイが真っ直ぐシンジの方を見ながら訊いてきた。
 深い赤の瞳の色は、なぜかいつもシンジを戸惑わせる。

「どうしてって……それはその……時間がわかった方が、いろいろと……」
「…………」
「た、例えばその……今よりもっと遅くまで寝てられるし、他にも……」
「…………」
「早めに行って、時間が来るまで待つより、有効な時間の使い道が……」
「…………」

 だが、レイはじっと黙ってシンジの言うことを聞いているだけだった。
 ……僕の言ってること、ちゃんと聞いてくれてるんだろうか。
 シンジは少し不安になってきた。

「だから、時計、持ってた方がいいと思うけど……」
「……そう」

 良かった、一応、聞いてくれてたみたいだ。シンジはホッとした。
 あ、そうだ、ついでだから……

「あの……僕も時計買いたいから、一緒に買いに行かない?」
「…………」

 シンジが訊くと、レイはしばらく黙っていたが、おもむろに小さく頷いた。
 良かった。買う気になってくれたみたいだ。

「それじゃ、明日にでも……」

 シンジがそう言いかけたとき、リニアの出発ベルが鳴った。
 しまった、急がなきゃ。そうだ、アスカは……
 シンジがそう考えて、また洗面所の方を振り返ったときだった。

「シンジ、何してるのよ! 乗り遅れるわよ!」

 反対側からアスカの声がした。
 振り向くと、いつの間にかアスカが階段のところにいる。
 そしてシンジが気付いたのを見てから、アスカは階段の下に駆け下りていった。

「あっ、待ってよ!」

 シンジは慌てて駆け出した。
 振り向いて、レイが後から追いかけてきているのを確認する。
 そうだよ、時計さえあれば、こんな風に慌てなくても済むんだ……





 翌日はテストがない日だった。
 放課後、シンジは教室でちらりとレイの方を見た。
 レイは本やノートを鞄の中に入れ、帰り支度をしている。
 それからシンジはアスカの方を見た。
 ヒカリと何やら話している。
 帰りに寄り道でもする相談をしているのだろう。
 今日は一緒に帰らないでも良さそうだ。

(よし……)

 シンジがレイに声をかけようとしたとき、トウジとケンスケが寄ってきて言った。

「よう、センセ、これからどっか遊びに行かへんか?」
「今日はネルフ、休みなんだろ?」

 誘われたら本部に行くからとか何とかごまかそうと思っていたシンジは、いささか戸惑った。
 どうしよう、別の言い訳しなきゃ……

「いや、その、今日は……今日は、買い物に行かなきゃ……」

 思っていたことが咄嗟に口をついて出てしまう。
 しまった、これじゃ、付いて来るって言うかも……

「何や、何の買いモンや。わしらも付いて行ったるで」
「ゲームか? それとも、CDでも買うのか?」
「そ、そうじゃなくて、その……夕食の、買い物に……」

 後半、声が小さくなったのは、半分嘘を付いているからだった。
 半分は本当。ここのところ、テストが長引いてコンビニでしか買い物ができない。
 野菜や魚はコンビニには置いてないから、スーパーに行こうと思っていたところだった。

「……センセも大変やなあ、この年で女二人養わないかんとは……」
「ほんと、同情するよ」
「…………」

 二人は急に真剣な顔になり、シンジに哀れみの視線を投げかけてきた。
 それというのも、以前にもこういうことがあったのだ。
 その時にシンジは全てを説明した。
 ミサトやアスカに料理の才能が無く、食事はいつもシンジが作るという事実を聞いたときの二人の驚きはいかばかりだったことか。

「せやけど、こればっかりはわしらには手伝われへんからなあ」
「じゃ、悪いけど、俺たちは別に帰るから」
「あ、うん、それじゃ……」

 シンジは二人と挨拶を交わすと、レイがいた辺りにちらっと視線を走らせた。
 もう既に帰ってしまっている。
 アスカもヒカリと帰ったようだ。
 シンジは鞄を持つと、いそいそとレイの後を追った。





 校門を出てからしばらくして、人影がまばらになったところでシンジはレイに声をかけた。

「綾波!」

 レイは立ち止まって振り返り、シンジが追いついてくるのを見ていた。

「……何?」
「あの、昨日の話……時計のことで……」
「……時計?」
「ほら、昨日、時計買いに行こうかって訊いて……」
「…………」

 レイは黙ってじっとシンジの方を見ている。
 まさか、昨日のこと、忘れてるのかな。そんなことないと思うけど……
 シンジは少し不安になった。

「あの……これから行こうかなって思うんだけど……」
「そう……」
「あ、あの、良かったら、一緒に……」
「……わかったわ」

 レイはそう答えたが、シンジの方を見つめたままだ。
 シンジは取り敢えずホッとしていた。
 憶えててくれたんだ。良かった……

「それじゃ、案内するから……」
「…………」

 レイが頷いたのを見てから、シンジは歩き始めた。
 レイは黙ってシンジの後に付いて来る。
 シンジは歩きながら少し胸が高鳴るのを感じていた。
 これって、何だかまるで、デートみたいだ……





 市街地に行けばさすがにいろいろな店が揃っている。
 およそ、ここにない商品などあり得ないのではという気がするほどだ。
 ブランド物を売る店から、100円ショップまで。
 大型デパートから、道ばたに店を広げた露天商まで。
 それだけに、行き交う人の数も半端ではない。
 シンジとレイは、そんな市街地を時計を求めて歩き回っていた。
 デパートに行けば時計売場があるのはわかっているのだが、取り敢えず商店街の中にある時計屋を探しているのだった。
 その方が品揃えが多いとシンジは思ったからだ。
 そして一軒の時計屋を見つけ、中に入ってみた。

「いらっしゃいませ」

 店員の声はしたが、誰も二人に寄って来ようとはしなかった。
 他にも客がたくさんいるので、誰も手が空いていないのだろう。
 シンジは仕方なく、自分で探すことにした。
 しかし、店内はなかなか広くて、手頃な値段の腕時計を探すのに手間取ってしまった。
 レイは黙ってシンジの後からついて歩くだけだ。

(しかたないか、僕が無理に誘ったみたいなものだし……)

 シンジはそんなことを考えながら、キョロキョロと店内を見て回る。
 そして、やっと安い腕時計が置いてあるところを見つけることができた。
 そこは店の片隅にあり、ソフトビニルの袋や箱に入れられた時計が、什器に大量にぶら下げられていた。
 どれも電池式のクオーツ時計ばかりだが、これで充分だろう、とシンジは思った。
 電池が切れたら替えたらいいんだし、手巻き式だと巻き忘れそうだし……
 さて、デザインはどうしよう……

「あの……こんなの、どうかな?」

 シンジは婦人用の時計を一つ取り出してレイに見せた。
 小型で金色のボディ、茶色い革のベルト、アナログ式で、白い文字盤にローマ数字が円形に並んでいる。
 シンプルでオーソドックスなデザインだった。
 ごてごてした飾りがない方がレイに似合っているような気がしただけだったのだが。

「……何でも構わないわ」

 しかし、レイは気のない返事を返すだけだった。
 だが、それは自分がレイに時計を買うように無理矢理薦めたようなものだから、しかたのないことだ、とシンジは思った。
 それに時計は時間を知るための道具であり、それ以外の付加価値はレイの認識にないものだったからだろう。

「じゃ、これにしようよ。それじゃ、僕は……」

 シンジは時計を箱ごとレイに手渡すと、自分用の時計を探し始めた。
 僕もアナログにしようかな。デジタルは時間が見やすいけど、残り時間とかが感覚的にわかりにくいし。
 あんまり変わったデザインは要らないけど……あ、でも、これなんて、中のムーブメントが見えてて面白いや。
 でもやっぱり、文字盤が見にくいな……
 シンジがそんなことを考えながら時計を物色していると、突然後ろから声がかかった。

「いらっしゃいませ。腕時計をお探しですか?」

 振り返ると、そこには女性店員がにこやかに微笑みながら立っていた。
 どことなくエキゾチックな顔立ちで、若くも見えるが、そこそこ歳を取ったようにも見える、年齢不詳の美人だった。

「あ、はい……」
「アナログがよろしいでしょうか?」

 店員はレイが持っている時計をちらりと見ながら言った。
 もしかしたらレイとカップルだと思ったのかも知れない。

「はあ、まあ……」

 シンジは少し曖昧な返事をした。
 物を買うときに、店員にあれこれ構ってもらうのは苦手だった。
 いろいろ薦められて、結局自分の思っている物ではなく、店員の思っている物を買わされるような気がするからだ。
 一人で選んでる方が気楽なんだけどな……シンジは店員の顔を見ながら考えていた。

「こちらのお客様と合わせられるのでしたら……そうですね、これなどいかがでしょう?」

 店員は什器の前でつつーっと手を滑らせながら時計を探し、一つ取ってシンジに渡してくれた。
 銀色のボディ、焦げ茶色のベルト、文字盤はローマ字だ。
 どうやらシンジがレイに選んでやったのとペアになるような物を探してくれたらしい。
 それから店員はもう一つ時計を取ってシンジに渡し、他にも二つ選んでシンジの前に差し出した。

(別に、綾波とペアじゃなくてもいいんだけどな……)

 ペアにするのは何となく気恥ずかしい。それ以上の理由はない。
 シンジが時計を見比べていると、また店員が話しかけてくる。

「クオーツでよろしいですか? 手巻き式もありますが……」
「あ、いえ、クオーツで……」
「自動巻きはどうでしょう? 電池交換の必要がありませんし、ほんの少し値段が上がるだけでお求めになれますが……」

 こういう余計なこと言われるから、自分で選びたかったんだけど……
 しかし、シンジはそれを表情に表すようなことはしなかった。
 ……でも、自動巻って、いいかも知れない。
 腕にはめてるだけでいいんだよな、確か。
 そう思ってシンジが店員の顔を見ると、店員は棚からもう一つ時計を取ってシンジの前に差し出した。
 最初に見せてくれたのと似たようなデザインだ。
 それなら、自動巻きの方がいいかも知れない……シンジが思い直していると、店員がまた口を開く。

「デザインは、こちらでよろしいですか? 他にもいろいろとございますが……」

 店員がそう言いながら手で指し示したところを見ると、なるほどいろいろと種類があるようだ。
 でも、やっぱりシンプルな方が……
 しかし、ぼんやりと棚を眺めていたシンジの目に、一つの時計がふと目に留まった。

「これ、何ですか?」

 シンジの指差した時計を見て、店員は事も無げに答える。

「こちらですか? ムーンフェイズですね」
「ムーンフェイズ?」
「月の満ち欠けが表示される時計ですわ」
「…………」

 月か……月……うん、いいかも……
 自分ではなく、レイに似合いそうな時計だとシンジは思った。
 綾波って、何となく月のイメージがあるような気がして……
 ヤシマ作戦の時の印象かも知れないけど。

「綾波、あの……」
「……何?」
「こっちの時計、どうかな?」

 シンジはムーンフェイズを指差しながら、レイに訊いてみた。
 レイは表情を変えることもなく、小さな声で答える。

「……私は、何でも構わないわ」

 そう言うと思ったけど……シンジは考えた。
 どうしよう。こっちでいいかな。

「あの、じゃ、彼女の分を、これに……」

 シンジが店員に言うと、店員はペアで並んでいた時計を二つとも取りながら言った。

「お客様はどうなさいますか?」
「えっ、僕は……」
「ペアでお買い上げになると、今なら割引させていただいておりますが」
「…………」

 ……どうしよう?
 店員の言葉に、シンジは真剣に悩んでいた。
 さっきのよく似たデザインの時計の時でも迷ったのに……
 綾波とペアウォッチなんてしてたら、アスカに何を言われるか……
 いや、アスカだけじゃないや。トウジやケンスケまで……
 ……でも、だからってわざわざ綾波のと違うのにするのは、綾波に申し訳ないし……
 シンジが考え続けているのを、店員は根気よく待ち続けてくれた。
 その笑顔を絶やすことなく。





 レイは一人、自分の部屋でベッドに腰掛けながら、手の中の時計を見つめていた。
 文字盤に窓があり、そこから丸い月が覗いている。
 それは間もなく満月が近いことを表していた。

(時計……碇君が選んでくれた時計。私のために……)

 私は今まで正確な時間を気にすることなく行動してきた。
 約束の時間があれば、遅れないように早めに行って待っていればいいと思っていた。
 しかし、碇君はそれは時間の無駄だと言った。
 でも、私は別に無駄だと思わない。待っている時間は、別のことに使えばいいだけだから。
 本を読むこともできるし、眠ることもできる。
 そして、それ以外に自分がしたいと思うようなことは特にない。
 なぜなら、私はエヴァに乗るという目的のために、そして無に還るという目的のために生まれてきたのだから。

(それなのに……どうして……)

 どうして、碇君が時計を買いに行こうと言ったとき、承諾したのだろう?
 どうして、碇君と一緒に時計を買いに行ったのだろう?
 どうして、碇君の言うままに時計を買ってしまったのだろう?
 どうして……

(どうして……それは……)

 それはきっと、碇君が私に話しかけてくれるから。
 碇君はあの人と違って、私が持つ目的とは無関係なのに接してくれるから。
 碇君自身のためになるわけでもないのに、私に微笑みかけてくれるから。

 そしてそれは、碇君が私という存在を認めてくれているから。
 あの人とは違う。あの人は、私を通して別の人を見ている。
 私自身を見てくれているのは、碇君ただ一人。

 だから私は、碇君にもっと見ていてもらいたくて……
 私という存在を、もっと認めてもらいたくて……

(そう、碇君と一緒にいたくて……)

 レイは時計を見つめ続けていた。
 時計の秒針が正確に時を刻んでいく。
 今までは一日単位だった私の時間。
 あるいは朝、昼、夕、夜という程度の区別しかなかった時間。
 それが今、もっと細かい単位で刻まれていく。
 時計の針という、目に見える形となって。
 刻一刻と、進んでいく時間……

 そして、私が無に還る時へと近づいていく。
 そう、時間が減っていくのだ。私の存在していられる時間が。

 減っていく? そう、減っていく、時間。

(……ダメ……)

 不意に、背筋が震えた。
 心に闇が広がっていくような、不思議な感覚。これは何?

 これは……不安。そう、不安。

 私、不安なの?
 なぜ、不安なの?
 時計を見ているだけで。

 時間が、減っていくから。そう。減っていくから。
 私が存在していられる時間が減っていくから。
 そして、
 碇君の声を聞く時間も、
 碇君の笑顔を見る時間も、
 碇君と一緒にいられる時間も。

 碇君が、私を見てくれる時間も。

 みんな減っていくから。

 そんなこと、今まで考えたこともなかった。
 自分が無に還ったらどうなるかなんて。

 何も無くなるだけだと思っていた。
 心も、身体も、あらゆる感情も。
 不安も、笑顔も、涙も、みんな無くなると思っていた。

 もちろん、私が消えてしまえば、私は何も感じない。
 でも、碇君の中の私はどうなるの?
 碇君の中から、私の存在が消えてしまうの?

 もう誰も私を見てはくれないの?

 そんなレイの不安を駆り立てるように、時計の針は時を刻み続ける。
 進んでいく時間。減っていく時間。止まらない時間。

(……ダメ……)

 今までは時の歩みを気にすることはなかったのに。
 それが目に見えるようになっただけで、こんなに不安になるなんて。
 時間が進むことが、こんなに不安だなんて……

(……お願い……止まって……)

 レイは時計を止めようとした。
 だが、どこをどうすればいいのかわからない。
 もちろん、それで時が止まるわけではないのはわかっていた。
 ただ、時が進むのを見ていられなかった。
 しかし、時計の針はレイに残された時間を確実に削り取っていった。

「……お願い……止まって……私の、時間……」

 時計の針さえ止められない自分。
 ただ黙って消えていくのを待つしかできない自分。
 今までにない不安が、レイの心を包み込んだ。

(……どうしたらいいの? 私、どうしたら……)

 両手で時計を包み込んだ。
 だが、時を刻む音は聞こえてくる。
 両目を硬く閉じても聞こえてくる。
 まるで、自分を連れ去りに来る人の足音のように。





 レイの時計はチェストの奥にしまわれ、以後、誰の目にも触れることはなかった。
 もちろん、シンジにさえも。























 ……彼はちらりと時計を見た。

(遅いな……)

 そこはとある大学の食堂の2階にあるカフェテリアだった。
 彼は入り口のすぐ近くの席に座っていた。
 どうやら彼は待ち合わせをしているらしい。
 そして待ち合わせの相手は少し遅れているようだ。
 彼は時計からまた視線を入り口の方に戻した。
 彼の待ち合わせ相手は、ほとんどの場合、時間に遅れたことなどないのだが。

 彼は今度はカフェテリアの壁に掛かった時計を見上げた。
 自分の時計とぴったり合っている。
 テーブルの上に目を戻す。
 コーヒーカップの底に冷めきった褐色の液体が貼り付いていた。

 と、そこに、階段を駆け上がってくるブーツの音が響いた。
 彼は階段を見遣った。
 そしてそこに待ち合わせ相手が現れたのを見つけて、顔をほころばせた。

「ごめんなさい……遅れてしまって」

 彼女は彼の元に駆け寄ると、開口一番、そう謝った。
 ずっと走ってきたのだろうか、少々息が乱れている。
 綺麗な空色の前髪が、汗で白い額に貼り付いていた。

「いや、そんなに待ってないよ……どうしたの?」

 彼はそんな彼女の顔を見て微笑むと、とにかく椅子に掛けるように目で促す。
 彼女もそんな視線を的確に感じ取ると、彼と向かい合って腰を下ろした。

「講義が長引いてしまって……試験前だし、途中で抜けられなくて」
「ああ、あの先生の授業だね。そういえば前にも一度遅れたことがあったよね」
「そう。とにかく、遅れてごめんなさい」
「いいよ、まだ早いし」

 彼の答えを聞きながら、彼女はちらりと自分の腕時計を見た。
 少々古くなったその腕時計は、秒単位まで正確な時間を指し示している。
 彼は彼女の時計に目を留めると、机の上に頬杖をつきながら話しかけた。

「まだその時計使ってたんだ。長いね」

 彼女は時計から目を上げて彼の視線に気付き、時計を隠すかのように手をテーブルの下にやる。
 そして恥ずかしそうに微笑んだ。

「うん……大切な物だから」

 引き出しの奥にしまった時計は、全てが終わった後でまた取り出す気になれた。
 そしてそれ以来、彼女はそれを片時も離すことがなかった。

「ベルト、何回替えたんだっけ」
「2回」
「ガラスも傷だらけだし、もう別のを買えばいいのに」

 彼の言葉に彼女はまた手を挙げると、手首に着けられた時計を見つめた。

「でも……捨てられないんだもの」

 そう簡単に買い替える気にはなれない。
 これは私の大切な思い出の時計。
 そして彼と共に歩んできた時間を刻んでくれた時計……

「そうじゃなくてさ」
「えっ?」
「それは大事にとっておいて、もう一つ買えばっていうこと」
「あ……」

 彼女は彼を見て、少し驚いた顔になった。
 そしてまた時計に視線を戻す。
 それから時計に手を添えたまま、腕を降ろした。
 彼の顔を見上げながら口を開く。

「そうね、その方がいいかも知れない。でも何だか、いつも持っていなきゃいけないような気がしていたから……」

 まだ少し戸惑いの残る彼女の顔を見ながら、彼は言葉を返した。

「そこまで大事にしてくれるのは、選んだ方としても嬉しいけどね」
「碇君は、どうしたの? あの時計」

 彼女は彼の手首を見ながら訊いた。
 彼の手には、あの時ペアで買った腕時計よりも更に安いクオーツ式の時計がはめられている。

「もちろん、ちゃんと取ってあるよ。大事にね。これは新しく買ったんだ」

 彼はそう言って嬉しそうに笑った。
 つられて彼女も微笑む。
 そう、取ってあったの……良かった。

「いつから?」
「大学に入ってから」
「全然気が付かなかった」
「だって、普段は着けてないもの」
「えっ?」
「時計なんてどこにでもあるじゃないか」

 彼の言うとおり、大学の構内にも町の中にも、至る所に時計はある。
 しかし、その言葉は確か以前私が……
 彼女は曖昧な記憶をたどるようにして考えていた。
 黙り込んだ彼女を見ながら、彼は話し続ける。

「普段は鞄の中に入れてるんだ。待ち合わせとか、そんなときにしか着けないんだよ」
「そう……だったの」

 彼女はまた考えていた。
 碇君のこと、だいぶわかってたつもりだけど、まだまだ見えていないことが多いのね。
 そう、普段は碇君の笑顔にばかり気を取られて……
 そう思いながら目の前の彼の笑顔に気を取られていると、彼が悪戯っぽく笑いながら言った。

「最近は目覚まし時計も使ったことないな。綾波が起こしてくれるし」
「! な、何を言うのよ……」

 彼女は頬を染めてうつむいた。
 わざわざこんなところで言わなくても……
 だが、彼はそんな彼女の表情を見たくて言っているのだ。
 以前は彼女がこんな表情するなんて思いもしなかったから。
 だからつい変なことを言ってしまう。
 照れて上目遣いになっているのもいいよなぁ……

「あはは、ごめんごめん。じゃ、そろそろ行こうか」

 彼がそう言って立ち上がると、彼女も立った。
 そして彼の元に寄り添う。

「今日はどこに行くの?」
「取り敢えず、河原まで出て、散歩でもしてから、食事に……そうだ、綾波の時計も買おうよ」
「いい」
「どうして?」
「碇君に教えてもらうから」
「だから、どうして?」
「次に買うときは、また碇君とペアで買いたいから……」

 そして二人はカフェテリアの階段を下りていった。










 ……あの時、時計を止めてしまわないで良かった。
 だって、止めていたら、こんな幸せな時は来なかったはずだから。

「……お願い……続いて……私の、時間……」



- Fin -




新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

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Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions