Side Story #13

真夏の夜の華



「……シンジ」
「何?」

 シンジはアスカに呼ばれたような気がして、SDATのイヤホンを耳からはずした。
 そのまま視線を右にやる。
 アスカはシートに浅く腰掛け、前の方に足を投げ出して座っている。
 ここはリニアの中。3人のチルドレンは学校帰りにジオフロントのNERV本部に向かっている途中だった。
 シンジを挟んで右にアスカ、左にレイが座っている。
 アスカはシンジの方を見ずに顔を正面に向けていたが、シンジはたぶんアスカが呼んだと思って言葉を待っていた。

「……暇ね」

 ややあって、アスカがぶっきらぼうに声を出す。

「は?」

 シンジは思わず聞き返した。
 アスカ、何言ってるんだろう。
 リニアの中が、そんなに暇なのかな。
 それなら、僕みたいに音楽聞くとか、綾波みたいに本を読むとかすればいいのに。
 シンジは左に座っているレイの方をちらっと見た。
 レイは黙って本を読んでいる。
 何の本を読んでいるかシンジは知らなかったが……

「あーあ、毎日毎日、学校とテストばっかり。学校の勉強は簡単すぎてつまんないし、テストは単調で退屈だし、何か面白いことないのかしら」

 アスカはそう言いながら組んだ足をブラブラと動かしている。
 何だ、そんなことか、とシンジは思った。
 ま、アスカは大学出てるから中学の勉強は面白くないだろうし、テストだって僕らよりずっといい成績だから張り合いがないんだろうな。
 僕にとっては、学校の勉強は楽しくはないけどそれなりにやることがあるし、テストは数値を伸ばすのに一生懸命だから……少なくとも退屈ではない。
 綾波はどう思ってるのか知らないけど……
 シンジはまたちらっとレイの方を見た。
 レイの無表情な横顔を見ていると、何も考えてないような気もするのだが。

「でも、いろいろ変化もあるじゃないか。たまには使徒だってくるし……」

 シンジが慰め代わりそう言うと、アスカがシンジの方をキッと睨んで大声を出した。

「あんた、バカァ!? 使徒が来るのが、どうして楽しいってのよ!」
「え、いや、その……」

 シンジはまたアスカにこづかれるかと思ったのだが、アスカはシンジから目を逸らすと脚をバタバタとさせながらぼやき始めた。

「あーあ、バカシンジなんかに愚痴言ってもしょうがないわ。テストの後で、加持さんにどっか連れてってもらおうかなー」
「…………」
「でも、どうせシンジのせいでテストが長引いて遅くなっちゃうだろうし……」
「…………」
「んもう、遅くまで開いてる店って、どうしてこう少ないのかしら。仮にもここは、未来の首都だって言うのに……」
「…………」

 アスカはひとしきり言いたいことを言うと、腕を組んで目を閉じた。
 そしてそのまま黙り込んだ。
 シンジは黙ってアスカの愚痴を聞きながら考えていた。
 そう言えば、最近、僕の成績が全然上がってないな。
 アスカに迷惑かけるといけないから、今日は精神を集中して頑張ろう。

 シンジは再びSDATのイヤホンを耳にはめた。
 再生スイッチを押すと頭の中に曲が流れ込んでくる。
 そう言えば、集中しているのと、音楽なんかを聴いてリラックスするのはよく似てるって聞いたことある。
 何とかっていう脳波が観測されるといいんだって。
 プラグの中でも音楽が聴けたら集中できるのかも……

 アスカは、どうやって集中してるんだろう。
 シンジは横目でちらっと右の方を見た。
 アスカは相変わらず目を閉じている。
 あまりにも暇で、寝てしまったのだろうか。
 ……でも、アスカの真似なんて、僕にはできないよな……

 それからシンジは左の方を盗み見た。
 レイはまだ本を読んでいる。
 ちょうどページを繰るのが見えた。
 綾波って、本を読むときでも、集中してるよな。
 どうやったらそんなに集中できるのか、聞いてみたいな……

 しかしシンジはその後、リニアが下の駅に到着するまで口を開くことはなかった。



 3人のチルドレンはテストプラグの中に入っていた。
 目を閉じてうつむき加減になった顔が、管制室のディスプレイでモニターされている。
 そして、シンクログラフやハーモニクス値などが記録されていく。
 管制室ではミサト、リツコ、マヤ、そして日向が様々なスイッチ類を操作している。
 だが、それはいつもの光景と違って、動きが少々慌ただしかった。

「マヤ、そっちの方、早めに切り替えてくれる? この値は2秒も観測すれば充分だから」
「そうですね、今日はこの組み合わせだけでもいいでしょうか?」
「いいわ。日向君、そっちのグラフの周期をあと0.5秒だけ早くして」
「了解」

 リツコとマヤがひっきりなしに言葉を交わし、日向に度々指示が出されている。
 ミサトは後ろの方で壁にもたれて実験の様子を見守っていた。
 そしてみんなチラチラと時計の針を気にしていた。
 だが、彼らの表情は特に余裕がないようには見えない。
 むしろ、いつもよりも柔らかかった。

「そろそろ時間ね。いいわ。必要な値は全部採れたし、終わりにしましょう」

 いつにも増してにこやかな表情でリツコが言った。
 マヤは観測数値をMAGIに送る操作をしながらマイクを掴むと、プラグの中に向かって呼びかけた。

「みんな、お疲れさま。今日は上がって」
『え? もうですか?』

 いつもより、だいぶ早いような気がするけど……
 シンジがそう思って声を出したときにはシートが引き上げられ、プラグのハッチが開いていた。
 どうしたんだろう。いつもより特にいい数値を出した感触はないけど……
 そう考えながらぼんやりしていると、アスカとレイがシートから立ち上がってプラグを出ようとしているところが見えた。

「なーに、今日はずいぶん早いのね。ま、いいわ。今から帰れば、ドラマも見られるし……シンジ、何ボケボケっとしてるの、早く出るわよ」
「あ、うん」

 アスカに言われて、シンジはシートから身を起こすと、ハッチの横にせり出してきたタラップの上に立った。
 そしてアスカとレイの後に続いて管制室に向かう。
 ほんとに、どうしたんだろう。
 何か、事故でもあったのかな。それとも、あまりにも成績が悪かったから、怒られるのかも……
 自分がいつも否定的な方向に考えていることを気付いていないシンジだった。



 シンジたちは管制室にいた。
 そしていつものようにテストの結果についてリツコが何か話すのを聞いていた。
 だが、話している内容はいつもと大差なかった。

「以上で講評を終わります。何か質問は?」

 管制室に入ってから、リツコの表情が異常に優しいのを見て、シンジは驚いていた。
 思ったより成績も悪くなかったし、雷が落ちるわけでもなかったし……
 でもこれだけみんながニコニコしていると、逆に不気味だよな。

「あの……どうして今日はこんなに早いんですか?」

 シンジはそう言ってから一瞬だけ殺気を感じた。
 ちらっと右の方を見ると、アスカが横目で睨んでいる。
 『あんた、バカァ!? 余計なこと言ってテストが伸びたらどうすんのよ』
 アスカの目はそう言っている気がした。
 慌てて目を逸らすと、今度はリツコと目が合った。
 リツコは数値をプリントアウトした紙が挟まったバインダーを手にしてシンジの方を見ている。

「あら、いい質問ね」

 そう言ったリツコの顔は、シンジが見たこともないほど優しい表情だった。
 いや、楽しげ、と言った方が正しいだろうか。
 シンジはそれが逆に何か恐ろしいことでも待っているような気がしてならなかった。
 だが、その考えはあっけなく覆された。

「強いて言えば、今日は早く終わりたかった、というのが理由ね」
「どうしてです?」
「あら、シンジ君、知らないの?」

 リツコの代わりにマヤがそう言った。
 マヤは書類を揃えてノートパソコンと一緒に胸の前で抱えている。
 椅子から腰が浮きかけていた。今にも帰りそうになっている。
 この後何か楽しいことがあって、待ちきれないかのように。

「えっ? 何をです?」
「今日は、花火大会なのよ」

 マヤはそう言ってニコッと笑った。そのうれしそうな表情は、まるで子供のようだ。

「花火、ですか?」

 シンジとアスカの声が重なった。
 だが、声のトーンが少し違った。
 シンジは驚きを、アスカは喜びを含んだ声だった。
 レイは黙ってその場の成り行きを見守っている。

「そうよ。今年が第1回なんだけど。結構大きな花火大会らしいから、みんなで見に行こうと思って」
「ま、いつもエヴァに乗って苦労してくれているご褒美にと思ってね」

 マヤに続いてミサトがそう言った。そして3人の方を見てニコニコと笑っている。
 おそらく、この笑顔は本物だ。疑り深いシンジもやっと納得した。

「へえー、面白そうじゃない!」
「あ、うん、そうだね」

 さっきまで不機嫌そうだったアスカが急に元気な声を出したので、シンジはまたちらっとアスカの方を見た。
 退屈だって言ってたから、ちょうど良かったな。
 それにしても、NERVがこんなことしてくれるなんて、珍しいな。
 ……父さんはOKしてるのかな。
 シンジは一瞬だけそんなことを考えたが、すぐにそのことを心の底に封印した。
 ま、いいや。とにかく、花火を見て楽しもう。

 それからシンジは、ちらっとレイの方を見た。
 レイは無表情に前を見つめている。
 さっきから何も言ってない。
 いや、今朝から何も話していない。
 綾波はこういうの、楽しくないのかな……

「綾波も、行くよね?」

 シンジは左側に立っているレイの方を見ながらそう訊いてみた。
 レイはシンジの方にほんのわずか顔を向けながら答える。

「……花火?」

 小さな声でそう言ったレイの声の調子は、少しの疑問を含んでいた。
 それを聞いて、シンジの頭の中にある考えが浮かぶ。
 ……もしかして綾波って、花火を知らないんだろうか。
 まさか。でも、花火を見たことがないのかもしれない。それはあり得る。

「うん……見たことないの?」
「ない……」
「じゃ、見に行こうよ。花火、綺麗だよ」
「…………」

 レイは黙っていたが、少し興味を示したような気がしたので、シンジは更に誘いの言葉をかけてやった。

「ね、綾波、みんなで一緒に見に行こうよ。きっと面白いから……」
「……一緒に?」
「うん、みんなで……」
「……そう、わかったわ」

 レイはほんの一瞬だけシンジの目を見てから、小さな声でそう答えた。
 シンジはホッとした。
 同時に、少し不思議に思う。
 どうして綾波が来るとわかったらホッとしたんだろう?
 でも、来ないかもしれないと思ったら、ものすごく残念な気がして……
 つい、一生懸命誘っちゃった。どうしてなんだろ……

「さあ、そうと決まったら、着替えて見に行きましょうか」
「さんせーい!」

 ミサトの言葉に、アスカとマヤが声を合わせて答えた。
 マヤはさっと立ち上がると、椅子を元の場所に戻すのももどかしく、真っ先に自動ドアをくぐり抜けていった。
 後に残されたみんなは、あっけにとられてマヤの後ろ姿を見送っていた。
 どうやらこの場で一番はしゃいでいたのはマヤのようだった。



「日向さんは、見に行かないんですか?」

 着替え終わって更衣室から出てきたシンジは、ちょうどその場を通りがかった日向に声をかけた。
 日向はまだNERVの制服を着ていた。小脇に書類の束を抱えている。
 さっき管制室にいて花火の話を聞いていたから、一緒に行くものだとシンジは思っていたのだ。

「ん? ああ、僕は今日は居残りさ。当番でね」
「そうですか、残念ですね」

 シンジは心の底からそう思って言った。
 テストの場ではいつも周りを女の人に囲まれている。
 顔見知りの男と言えば、たまに来る日向か冬月くらいなのだ。
 今日の花火見物もどうやら女ばかりになりそうなので、シンジは少々心細かったのかもしれない。

「仕方ないさ、くじ運が悪くてね」
「そうなんですか。大変ですね」
「まあ、でも、発令所のスクリーンで花火を中継してくれるって話だし、中の方が涼しいだけいいって割り切ってるよ」
「そうですか……そうかもしれませんね」
「でもやっぱり、花火は近くで見るのが一番だな。僕の田舎でも花火大会があってね、小さいときはよく真下まで見に行ったものさ。仰向けで眺めるとすごい迫力だったよ」
「それはよさそうですね」
「だろう? 花火、楽しんできなよ」
「あ、はい、そうします」
「それじゃ、仕事があるから」
「あ、はい。じゃあ、お先に失礼します」
「ああ、お疲れさま」

 日向は手を振りながら小走りに廊下の向こうに去っていった。
 そうか、じゃあ、今日も男は僕一人なんだろうか。
 誰か他に来ないのかな、青葉さんとか、加持さんとか……
 まさか、父さんは……来ないよな、絶対。

「シーンジ!」

 シンジがそんなことを考えていると、後ろの方からアスカの声がした。
 振り返ると、女性陣一堂が着替え終わってこっちに来るところだった。
 その一番前に立っているアスカの姿を見て、シンジはびっくりした。

「あれ、アスカ、それ……」
「ああ、これね。日本人は形から入るものだって、ミサトが」

 シンジの目の前に現れたアスカは浴衣姿だった。

「でも、結構似合ってると思うよ」
「そーお?」

 華やかな赤い地に、扇と破れ格子があしらわれている。
 帯は黄色で、小さな白い蝶の絵柄がちりばめられていた。
 アスカはその片袖を持ってひょいと横を向いてみせる。

「でも、これ、結構締め付けきついのよねー。何か、動きにくくって」

 そう言いながらアスカは軽く肩を動かして見せた。
 なるほど、かなり突っ張っているようだ。
 女性の場合はきっちり帯を締めないとすぐにはだけてしまうからだろう。

「うん、でも、浴衣っていうのは、そういうもんだよ」

 シンジは遙か遠い昔に着た浴衣の感覚を思い出しながら言った。
 浴衣か。もう何年着てないんだろう。

「ま、でも、着物っていうのは、スタイルがいいと着づらいって聞いてるから、そういうことね、きっと」

 アスカはそう言って、帯のところに挟んであったうちわを取って、パタパタとあおぎ始めた。
 長い髪が風にふわふわと揺れている。
 それって、和服の話じゃなかったっけ、とシンジは思ったが、口には出さなかった。

「ところで、どうして下駄を手に持ってるの?」

 シンジは不意にそのことに気付いて訊いてみた。
 よくよく見れば、アスカは左手に下駄を提げている。
 そして履いているのはいつもの革靴だ。ただ、靴下は脱いでいるようだが。

「ああ、これね。下駄で廊下を歩くとうるさいから、後で履けって」

 アスカはそう言って下駄を持った手をブラブラとさせた。
 鼻緒は赤だ。浴衣と合わせてあるのだろう。

「でも、ミサトさんやリツコさんは浴衣着ないんですね」

 シンジは言った。
 確かにミサトやリツコは、さっきと着ているものが同じだ。
 その横にいるマヤは浴衣を着ている。白地に、紫で楓の葉のような模様が描かれていた。
 いや、楓ではなかった。たぶんあれはNERVのロゴになっているイチジクの葉っぱだろう。
 帯も紫。そして、NERVのロゴが大きく描かれたうちわを手に持っていた。

「ああ、花火の後、ちょっち戻って仕事しなきゃいけないから」

 ミサトはそう言って苦笑いしたが、すぐに横からリツコが口を出す。

「何言ってるの。私はそうだけど、ミサトは直帰でしょ。飲んで着崩れするからやめたんじゃない」
「う、うっさいわねぇっ! いちいちバラさなくてもいいのよっ!」

 ミサトとリツコのそんなやり取りを、マヤは横で聞いてクスクスと笑っている。

「あの……そう言えば、綾波は?」

 マヤにつられて笑顔になっていたシンジは、ふと気が付いて声を出す。
 さっき一緒に行くって約束したのに、どこにいるんだろう。まだ着替えてるのかな。
 リツコに痛いところを突っ込まれて苦い顔になっていたミサトが、いつもの笑顔に戻って答えた。

「え? ああ、ちゃんと来てるわよ」
「レイちゃん、こっちこっち」

 ミサトとリツコの後ろに隠れるように立っていたレイを、マヤが前の方に引っぱり出した。
 そして後ろから両肩に手を添えながら、シンジの正面にレイを立たせる。
 シンジは驚きのあまり、音がするくらい目を瞬かせた。思わず声が出る。

「あ、綾波……」

 レイの着ている浴衣は、紺地に薄紫の百合の花が描かれていた。乙女百合だろうか。
 帯は赤みがかった紫で、青色と桃色の細かい花が縫い込まれている。
 大きさもまるであつらえたかのようにレイの身体にぴたりと合っていた。
 その浴衣をすっきりと着こなしたレイは、質素ながらもどこか神秘的なものを感じさせずにはいられなかった。

「ほら、シンジ君、どう? レイちゃんの浴衣。結構似合ってると思わない?」
「あ、はい、あの……」

 無表情にシンジの前に立っているレイを見て、シンジはなぜか照れのようなものを感じながらも目を離すことができなかった。
 こんなの着てる綾波、初めて見た。
 綾波もきっと、初めて着たんだろうな、浴衣なんて。
 どう言えばいいのか、よくわからないけど、でも何だか、すごくよく似合ってる気がする……

「あの、綾波……」
「……何?」

 レイはシンジの前に立ったまま、じっとシンジの方を見ていた。
 シンジの口から無意識のうちに言葉が出てきた。

「よ、よく似合ってると思うよ……」
「……そう……よく、わからない……けど……」

 レイは少し困ったような表情になっている。
 褒められたときに、どう反応していいのかわからないのかもしれない。
 ほんのわずか、頬が染まったように見えた。

「うん、でも……」

 シンジは言葉を続けようとしてやめた。
 何と言うか……言葉にならない。それほど、浴衣姿のレイは綺麗だった。
 シンジはただただレイの浴衣姿に見とれていた。

「シーンちゃーん、レイの浴衣姿、そんなにジロジロ見なくてもいいじゃなーい」
「えっ? べ、別に、そんなことないですよっ!」

 不意にミサトに茶々を入れられて、シンジはうろたえた。
 慌ててレイの方から視線を逸らす。

「まーた、照れちゃって、このこのぉ」
「ミサト、子供をあんまり冷やかすもんじゃないわ」
「いーじゃない、たまには」
「あら、いつもじゃない」
「失礼ねー、あたしがいつシンちゃんを冷やかしたっていうのよぉ」
「そ、そろそろ花火見に行きましょうよ、ね!」

 いつもの口げんかを楽しむミサトとリツコに、それを宥めにかかるマヤ。
 シンジはチラチラとレイの方を盗み見ている。
 そしてその横では、アスカが不機嫌そうにシンジとレイの様子を眺めていた。



 カラコロ、と軽やかな下駄の音を交えながら、シンジたちは歩いていた。
 なるべく打ち上げ場所の近くで見ようということで、環状線の駅から会場である山の麓に向かっているところだった。
 道行く人がチラチラとその集団を見ている。
 美女と美少女の団体、その中に普通の少年一人、という組み合わせは、さすがに人目を引いた。
 だが彼らは周りの様子に気付くことなく、時折雑談をかわしながら歩くのみだった。

「でも、浴衣なんて、よくありましたね」

 シンジは前を行くアスカやマヤ、すぐ横を歩いているレイの方をチラチラと見ながら言った。

「んー? うん、まあね。いろいろと、訳のわからないものが転がってるのよ、倉庫には」

 ミサトの答えを、シンジは半信半疑で聞いていた。
 それ、ほんとかな。でも、綾波やアスカに合うような小さい浴衣なんて、どうして置いてあったんだろう。
 そのことをミサトに聞こうとしたが、ミサトはシンジから顔を逸らして周りの様子を見ていた。
 駅から会場への道には屋台がいくつも出ていて、まるで縁日のように賑やかだった。
 アスカは物珍しそうにそれを眺めている。たぶん、こういうのを初めて見たのだろう。

「でも、これを見つけたから、みんなで花火見に行こうっていうことになったんですよね」

 そう言って振り返ったマヤの手には、いつの間にかリンゴ飴が握られていた。

「んー、そう……ちょっと、マヤちゃん、いつの間にそんなの買ったのよ」
「えー、さっきですけど……」
「さっきって、いつよ」
「ついさっきですよ」

 マヤがいつみんなとはぐれてそれを買ったのか、誰も気付いていなかったらしい。
 ミサトとリツコが呆れながら見ている横で、マヤは美味しそうにリンゴ飴を賞味していた。
 アスカが振り返ってマヤのリンゴ飴を不思議そうに見ている。

「それ、何?」
「リンゴ飴よ」
「へー、おいしそう。あたしも何か買ってこようかなー」
「いいけど、はぐれないようにね」
「わかってるって!」

 アスカはそう言うと小走りに人混みの方に入っていった。
 初めて履いたはずの下駄を器用に履きこなしているようだ。
 シンジはそれを見て感心していたが、ふとレイの方を見る。
 レイは下駄を引きずるように歩いていた。
 歩きにくいのかな、と思い、シンジは声をかけようとした。

「あの、綾波……」
「……何?」

 答えたレイが僅かにこちらに顔を向けたとき、シンジはハッとして息を飲んだ。
 夜目にも白いその肌が、辺りの明かりに照らされて、輝いているように見える。
 濃紺の浴衣の襟元から覗く細いうなじが艶めかしい。
 心持ち上目遣いの瞳から放たれる赤い光は、シンジの心の底までも貫き通すようだった。
 シンジは言葉を忘れたように、呆然とレイの方を見つめていた。
 そしてしばらく視線が絡み合った後で、慌てて目を逸らす。

「ごめん、何でもないよ……」

 それだけ言うのが精一杯だった。

「……そう」

 レイはそう言っただけで、また顔を前に戻したようだ。
 シンジは一気に体温が上がったような気がして、ポロシャツの胸元を指でつまんでパタつかせた。
 一番後ろを歩いていた二人のその様子は、誰にも見咎められなかったようだ。
 ミサトさんに見られてたら、また何か言われただろうな。シンジは少しホッとした。



 町並みを抜けて、山の麓の広場のようになったところに辿り着いたときに、シンジはミサトに訊いてみた。

「花火、どこで見るんです?」

 辺りにはもう人がいっぱいだ。
 いい場所はもうとられているだろうし、これから場所を探していたら、花火が始まってしまう。
 それに、この結構な人数では場所を探すのに苦労しそうだ。
 だが、シンジのその心配は杞憂だったようだ。

「ああ、だいじょーぶ、だいじょーぶ。ちゃんと場所とってあるから」
「場所を? どこです?」
「んー、たぶん、あの辺に……」

 そう言ってミサトが指でそこらを指し示したとき、それとは90度違う方向から声がかかった。

「おーい、かつらぎー、こっちだー!」
「加持さん!」

 その声に一番に反応したのは、いつの間にか戻ってきていたアスカだった。
 急に明るい笑顔になって、キョロキョロと声のした方向を見回す。
 そして向こうの方で手を振っている人物を見つけると、そこに向かって小走りに駆け出した。

「加持さーん!」
「よう、アスカ、来たか」
「加持さん、今日いないのかと思ったら、場所取りしてたの?」
「ああ、俺はいつも暇だからな」

 アスカは加持に駆け寄り、その腕にぶら下がらんばかりにしがみついている。
 そして少し遅れてシンジたちが加持の立っている場所にたどり着いた。

「加持さん、場所取りしてくれてたんですか。どうもありがとうございます」
「何、今日はチルドレンの慰労会みたいなもんさ。ま、ゆっくり花火を見物してくれよ」

 シンジが礼を言うと、加持はシンジの肩をポンポンと叩きながらそう答えた。
 その気さくな笑顔に、シンジも思わず微笑み返す。
 やっぱりNERVで一番安心して話せる男の人は加持さんだ、とシンジは改めて思い直した。

「みんな座ってくれよ。そろそろ始まるから」
「はーい」

 アスカはそう言いながら下駄を脱ぐと、地面に敷いてあったシートの上にぺたんと座り込んだ。
 他の者も思い思いに広いシートの上に腰を下ろしていく。
 シンジがアスカの左に座ると、レイが更にその左に席を取った。

「ほら、飲み物も食べ物もあるぞ。景気良くやってくれ」

 加持はそう言いながらクーラーバッグを開けると、中に詰まっていたビールやジュースの缶を取り出した。
 それから別のバッグの中から弁当や焼きそばのパックを出してシートの上に置く。

「かじー、あたし、ビール」
「はいよ」
「加持さーん、あたしにも」
「アスカはジュースで我慢しな、ほら」
「いいじゃない、今日くらいー」
「だめだめ。ほい、シンジ君。レイにも渡してくれ」
「あ、ありがとうございます」
「そろそろ時間だな」

 加持がシンジにジュースを手渡しながらそう言った直後だった。
 一筋の光が天に向かって駆け昇り、大きな爆発音と共に夜空に大輪の花を咲かせる。
 途端にどよめく観衆。
 それに応えるかのように、花火は次々と打ち上げられていった。

「うわっ、きれーい!」
「ほんとだ、それに、すごい迫力ですね」
「ああ、いい天気で良かったな。月もないし」

 シンジもレイもアスカも、そしてミサトたちも、天を彩る光の芸術に、暫し目を奪われていた。



 白、赤、青、紫、黄色、緑、それに、金、銀。様々な色の炎が夜空を染め上げる。
 枝垂れ柳、帽子、蝶といった変わり花火が目を楽しませる。
 長く張り渡されたロープから光が滝のように流れ落ちるナイアガラ。
 数百もの連発で打ち上げられるスターマインが夜空を明るく照らし出す。
 花火の方はいよいよ佳境に入ろうかというところだった。
 そして、地上の宴会の方も、たけなわになりつつあった。

「かーじー、ビールお代わりー」
「またかよ、葛城……どれほど飲むつもりだ?」
「いーじゃん、こんな時くらい。お祭りなんだから」

 お前は毎日がお祭りだろう、と内心思いながら、加持はミサトにビールを差し出した。
 ミサトはビールを受け取ると、タブを開け、一息に飲み干していく。
 一口で缶の半分以上はなくなったろうか。

「ぷっはーっ! やっぱ花火にはビールよねー」

 そう言いながら手で口元を拭う。
 まるで家にいるときのようだ。いや、飲み屋の感覚か。
 シンジは何となく恥ずかしい思いをしていた。
 さっきから周りの人がみんなこっちを見ているような気がする。
 できるなら他人の振りをしたいくらいだ。
 マヤなど、なるべくミサトから離れるようにしてシートの端の方に座り、ラムネをチビチビと飲んでいた。

「やれやれ、3ダースも買ってきたのに、みんななくなっちまった。しょうがない、買ってくるか」

 加持はしょうがないといった表情で立ち上がると、ズボンの尻を手で払った。

「それじゃ、ちょいと行ってくるわ」
「加持さん、あたしも行く!」

 加持が歩きかけたところで、アスカが立ち上がり、加持の腕にしがみついた。

「アスカは花火見てろって。買いに行くのは俺一人でいいから」

 腕を捕まれて、こちらも困ったなという表情で加持が言う。
 しかし、アスカの方が加持を引っ張るようにして歩き始めた。

「だって、お手洗いにも行きたいんだもの。暗くて一人じゃ怖いしー」
「おいおい……わかったから、手ぇ離してくれよ」
「いいから、いいから」

 アスカに手を引かれながら緩やかな坂を下っていく加持は、シンジたちの方をちらっと見て肩をすくめて見せた。
 そこに、後ろからミサトが声をかける。

「加持!」
「何だ? ビールの銘柄の指定か?」

 加持は振り返って器用に後ろ歩きしながらミサトの声を待った。
 ミサトはまだビールが残っている缶を、カキカキと指でへこませながら加持を睨んで言う。

「……遅くなるんじゃないわよ」
「心配すんなって」
「あんただから心配なのよ!」
「わかってるって。それじゃ」

 加持はアスカに捕まれてない方の手をひょいと挙げてから、前に向き直って坂を下りていった。
 ミサトは缶の中のビールを喉に流し込むと、一人呟いた。

「ちっ! あの、ぶゎーかっ!」

 二人のやり取りの意味を分かっていたのは、リツコくらいだったろう。
 マヤはお好み焼きを食べながら困ったような顔をしてリツコの方を見ていた。



 加持とアスカが行ってから十分も経たないうちに、ミサトが不平を言い始めた。

「遅いわねー。あのバカ、どこまでビール買いに行ったのかしら」

 クーラーボックスの中をあさりながらミサトが不機嫌に声を漏らす。
 手に持っていた缶の中身はとうの昔になくなっている。
 酎ハイなどはあるのだが、ミサトはそれには手を着けようとしなかった。
 そもそも、先程からビールばかり飲んでいる。
 ビールの合間に花火を見ているようなものだった。

「きっと、お手洗いが混んでるんですよ」

 ビールがなくなったことをようやく納得したミサトに向かって、マヤが声をかけた。
 だがミサトはそれには何も答えなかった。
 そして大きくため息をつくと、いきなりすっくと立ち上がった。

「ちょっと、見てくるわ」
「もう少し待ってみたら?」

 梅酒サワーを飲んでいたリツコが、目の前に立ったミサトを見ながら言う。
 花火が見えないから座れと言いたかったのかもしれない。
 立ったまま坂の下を見ているミサトに、リツコはまた言った。

「そんなに、ビールが欲しいの?」
「あのバカから目を離すのが心配なの! ……ま、ビールのこともあるけどね」

 ミサトはそう言うと靴を履き、坂の下の方に向かって歩き始めた。
 だが、その足取りがいささか危なっかしく見える。
 千鳥足で、今にも他の見物人の席に突っ込んでいきそうだ。
 シンジは見ていて冷や冷やした。

「酔ってるじゃない。しょうがないわね」

 見かねてリツコが立ち上がり、後を追った。
 数メートル先で何やら小声で話をしている。
 どうやらリツコは引き留めようとしているようだが、ミサトの歩みが止まらないようだ。
 リツコを引き連れながら、ミサトはどんどん坂を下っていく。

「先輩! 私も行きます!」

 たい焼きを食べ終わったマヤが急に立ち上がり、下駄を履き始めた。
 そして浴衣の裾を直し、シンジの方を向きながら言う。

「ごめんね、シンジ君、私もちょっとお手洗いに……」
「あ、はい……」
「悪いけど、待ってて。場所、取られないように……」

 マヤは微笑みながらそう言うと、浴衣の袂を振りながら小走りに二人の後を追っていった。
 そしてリツコとマヤはミサトの両脇を抱えるようにして持つと、坂の下に降りていった。
 シンジはあっけにとられて彼女たちを見送っているしかなかった。

「…………」

 シンジはふと、自らが置かれた状況に気付く。
 加持さんとアスカが行っちゃって、ミサトさんとリツコさんとマヤさんが行っちゃって、後は……
 そして左の方に顔を向ける。
 そこではレイが体育座りしながら、暗い夜空に咲く光の華をただずっと見つめ続けていた。
 色白の横顔が、花火に映える。
 そのあまりにも幻想的な美しさに、シンジは思わず目を奪われてしまった。

「あの……」

 ぼんやりとレイに見とれていたシンジは、思い切って声を出した。
 レイは花火の方に目を向けたまま小さな声で答えた。

「……何?」
「花火……綺麗だね」

 言ってしまってから、何て月並みなんだ、とシンジは思った。
 僕はやっぱり、この程度の言葉しかかけられないのか。せっかく……
 考えるシンジの横で、しばらくしてレイが小さく呟いた。

「……同じ物がいっぱい……」
「えっ……」
「……それに、すぐに消えてしまう……」
「あ……」

 レイの顔はいつものように表情がなかった。声にも抑揚がない。
 やっぱり、つまらなかったのかな、花火……
 シンジは少し残念だった。
 無理に連れてきて、悪いことしちゃったかな。
 シンジがいつものように弱気になり始めた、その時だった。

「……消えてしまうのに……」
「えっ?」
「……消えてしまうのに、なぜこんなに綺麗なの? 花火は……」

 レイが再び声を漏らした。
 その瞳は花火を見つめたままで。
 良かった。花火、綺麗だと思ってくれたんだ。
 シンジは少し心が軽くなった。

「あ、うん、それは……」

 シンジは答えようとして、口をつぐんだ。
 消えてしまうのに……その言葉が、シンジの心に深く沁み通った。
 そうだ、なぜ、綺麗だと思うんだろう、消えてしまうものを……

 ……儚いから?

 桜の花も、散ってしまうから綺麗だっていうのを聞いたことがある。
 だから、花火も綺麗なのかな。儚いから……消えてしまうから。

 でも……

 シンジは夜空の暗い方に目を転じた。
 今日は月が出ていない。
 花火のせいで街が灯火制限をしていることもあって、星が綺麗に見えた。
 星座の名前が言えるほどに、はっきりと。
 その星空が、再びシンジを考えさせる。

 星は……ずっと輝き続けてる。
 星は消えないのに、綺麗だと思う。
 星は儚くないのに綺麗なんだ……

 再び、花火の方に目を移す。
 一際大きな花火が上がり、闇を光の輪が埋めた。尺玉だ。
 夜空を焦がすほどに明るく輝く光。
 ……光?

 そうだ、そうかも知れない。
 シンジは思った。

「……輝いてるから……」
「…………」
「輝いてるから、綺麗なんじゃないかな。花火は……」
「…………」
「暗い夜空で、輝いてるから綺麗なんだ。花火も……星も、月も……」
「……輝いて?」
「うん……花火はすぐに消えてしまうけど……星だって、いつかは消えてしまうけど、でも、輝いてるから……」
「…………」

 ……本当に、そうなのかな……
 花火や星はそうだけど、花は……輝いてるわけじゃ……
 そう思うと、シンジは少し不安になった。
 ……僕はまだ、何もわかってないんだ、きっと……

 綾波は、どう思ってるんだろう、さっきのこと……
 シンジはそれを聞いてみようとして、またレイの方に顔を向けた。
 レイは何も言わず黙っている。
 ただ、真夏の夜に咲く華を見つめながら。
 シンジの言った言葉の意味を考えているのかもしれない。

「…………」

 シンジは無言のままレイの横顔を見ていた。
 赤に、緑に、青にと染め上げられるその白磁のような頬。
 プラチナのようなその髪も、花火の光を受けて輝いている。
 その瞳の中に光の饗宴が映り込んで躍っていた。
 シンジが見つめているのにも気付かず、レイはひたすらに闇の中の光を目で追っていた。

 シンジはレイの横顔から目を離すことができなくなっていた。
 その頬も、その髪も、その瞳も……レイの全てがシンジを魅了した。
 綾波……どうして、こんなに……
 何だか……引き込まれそうだ……
 シンジの喉が鳴った。

「……あや、なみ……」
「……何?」

 レイは今度は、シンジの方に顔を向けた。
 紅い瞳が花火の光で揺れている。
 そしてそこに映るシンジの顔。
 シンジはいつの間にか、レイのすぐそばに顔を寄せていた。
 無意識のうちに……

「……いかり、くん……?」

 レイはすぐ近くまで迫っているシンジの顔を不思議そうに見つめていた。
 互いの息遣いが聞こえそうな距離まで二人は接近している。
 身を引こうともせず、レイは小さく呟いた。
 瞳の中にシンジを映しながら。

「……どう……したの……?」
「綾波も……輝いてる……」
「……えっ……」

 レイの長い睫毛の動きまではっきりとわかる近さ。
 美しい桜色をしたレイの唇は、もうシンジの目の前だった。
 その距離は限りなく零に近付いていった……



 ミサトとリツコは、広場の入り口辺りに立っていた。
 近くにはいくつかの屋台があり、広場との間を行き交う人々で混雑している。
 ミサトは手に持った半ダースケースからビールの缶を取り出した。
 蓋を開けると、軽く一口飲む。足元には既に空き缶がいくつか転がっていた。
 それを見るリツコの手にもビールの缶が握られている。

「大丈夫かしらね、二人きりにしておいて」

 二口目を飲み終わったミサトに、リツコが言った。
 ミサトはふうっと息をつき、缶を指でへこませながら答える。

「ったくあいつ、どこ行ったんだか」
「あら、シンジ君とレイのことよ」

 リツコの返事に、ミサトはしかめっ面を緩ませながら言う。

「何にも起こらないんじゃない? あの二人じゃ」

 それからシンジとレイが座っている辺りに目を向けた。
 しかし、暗い上に距離があって、とても様子を見ることなどできない。
 リツコも同じようにそちらを見ていたが、やがて花火の方に目を戻して言った。

「……そうね、今の二人じゃ」

 そしてまたビールを少し、喉に流し込んだ。
 ミサトはビールの缶を見つめながら言った。

「図らずもお膳立てしたみたいになっちゃったけどねー」
「あら、謀ったんじゃないの?」
「まさか」
「リョウちゃんにアスカが付いていったのも偶然?」
「当たり前でしょ」
「じゃ、マヤはどうして付いてきたのかしら?」
「お手洗いでしょ?」

 ミサトは答えながら残っていたビールを飲み干した。
 そしてカキッと音を立てて指で缶をへこませる。それから缶を足元に落とす。
 リツコは表情を緩ませながら、薄笑いを浮かべるミサトの顔を楽しそうに見ていた。

「せんぱーい」

 そこにマヤが戻ってきた。浴衣の裾捌きも艶やかに。
 まるで縁日に行った子供のようにニコニコと微笑みながら。

「あら、マヤ、どうだった?」
「取れましたよ、ほら」

 マヤが挙げた右手には、金魚の入ったビニール袋が提げられていた。
 赤と、黒。二匹がその小さな水槽の中で泳ぎ回っている。

「うまくやったわね」
「得意なんですよ、こういうの」

 マヤはそう言って嬉しそうに笑った。
 リツコは仲良く泳ぐ二匹の金魚を眺めていたが、やがて時計に目を戻しながら言った。

「そろそろ時間だし、戻る?」
「そうね」

 3人は丘の上に向かって昇り始めた。
 2度目のスターマインが終わり、辺りが暗くなった。
 間もなく最後の花火だろう。
 加持とアスカはもう戻っているだろうか。

「ほんとに何もなかったかしら?」
「たぶんね」



 あと少しで一次的接触……シンジは息を止めた。
 レイがまだじっとシンジの目を見ている。反射的に閉じようとしない……
 綾波は、こういうの、経験、ないんだ、きっと……
 シンジは思い切って唇を寄せようとした。
 と、その時、突然、大音響が轟いた。

「わっ!?」
「…………」

 そして辺りが真昼のように明るくなる。
 それと共にわき起こる大きな歓声。そして喝采。
 シンジは反射的に身を引いた。
 見上げると、空が真っ赤に染め上げられていた。
 花火大会のラストを飾る四尺玉が打ち上げられたのだった。

「あ……」
「…………」

 シンジはただ呆然と赤くなった空を見上げていた。
 花火……まだ、やってたんだ……
 ふと、レイの方に目を遣ると、レイも空を見ている。
 その横顔が赤く染まっていた。

「あ、あの……」

 数秒の後、夜空が暗さを取り戻した。
 辺りの人々が立って帰り支度を始めている。
 その喧騒にシンジは我に返った。
 ……僕は、何をしようとしたんだ……
 綾波が……輝いてたから……綺麗だったから、つい……
 そして、レイに謝ろうとしたその時だった。

「……何やってたのよ」
「えっ!?」

 振り返るとそこにはアスカが立っていた。
 その横には加持が、額に手をやって複雑な表情を浮かべている。
 更にその後ろには、ミサトとリツコとマヤがいた。マヤの表情が硬い。
 シンジの背中に冷たい物が走った。

「あたしがいない間に、あんた何しようとしてたわけ?」

 アスカは腰に手を当て、シンジの方に一歩踏み出しながら言った。
 顔は笑っているが、目つきが怖い。
 そして一歩、また一歩とシンジに詰め寄ってくる。

「な、何って、その……」
「ったく、あんたって男は、暗がりで女を押し倒そうとするなんて!」
「お、押し倒そうなんてしてないよ! ただ……」
「ただ、何? 何しようとしたのよ!? このスケベ!」
「な、何にもしてないよ!」
「嘘つき! 人が寝てる間にキスしようとする男の言い訳なんて聞きたくないわ!」
「あ、あの時だって、僕は何も……今だって……」
「ああーっ、やっぱりキスしようとしてたのねっ! いやーっ、もう信じらんなーいっ!」

 花火が終わり、帰り客で賑わう広場の真ん中で、シンジとアスカの言い争いが続いていた。
 ミサトたちはやれやれといった表情で二人を傍観している。
 マヤが口の中で何か小さく呟いた。
 そんな中で、レイはシンジの口元を見つめ、何やらじっと考え込んでいた。

(……輝いてるから、綺麗……)

 レイの頬が朱に染まっていたのに気付いた者はいなかった。



- Fin -



新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

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Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions