Side Story #11

温泉、行けなくて



『残念ね、温泉行けなくて』



 本部待機を命じられたレイの頭の中には、アスカのその言葉がずっとルフランしていた。

(残念……何が残念なの? 温泉? 温泉が残念? 温泉……)

 レイは待機用に与えられた小部屋で、椅子に座ってじっと考え込んでいた。
 小部屋、と言っても、レイの部屋のような殺風景な物ではない。
 飾りは質素だが、セミダブルのベッドやトイレと別になった広いバスルームなど、高級ホテル並みの設備はある立派な部屋だった。

 だがレイにとっては、そんな設備など大したことではない。
 待機室は待機するためにあるので、座るか寝るかできればいいのだから。
 それに、頭の中で『残念』と『温泉』という言葉が頭の周りを衛星のように回っていて、部屋の調度品など目にも入っていない。

(温泉……地熱によって温められた水が湧き出たもの。浴用や医療用に使うことのあるもの。シャワーやお風呂と同じ。そんなもの、私の部屋や、本部にもあるのに……)

 レイの部屋のシャワーはともかく、NERV本部の大浴場には、薬草風呂や鉱泉風呂、電気マッサージ風呂、サウナ、打たせ湯、ジャグジーなど、そこらのクアハウス顔負けの設備が整っている。
 国連付属機関の設備にそんな贅沢なものがあるのも変だが、一説ではゲンドウの趣味だとか。
 第拾九話で初号機の血しぶきを浴びたゲンドウが、一瞬にしてきれいな身体に戻っていたのもそのせいだろう。

 それはともかく、わざわざ温泉などに行かなくても、設備だけならここで充分間に合っているはずだ。
 なのに、弐号機パイロットは何を喜んでいるのだろう?
 レイは考え続けていた。

(それとも、私が認識している温泉というものが、弐号機パイロットの言う温泉とは違うものなの?)

 レイはそう思ったが、同時に、どうしてそんなことが気になるのだろうと思った。
 自分に与えられた任務は待機で、そんなことを考える必要はないのに……

 しかし、彼らに与えられた任務は使徒の捕獲であり、温泉は彼らの任務とは関係ない。
 それなのに、弐号機パイロットは異常なほどの喜び方をしていた。
 弐号機パイロットにとって、温泉は非常に楽しいものらしい。
 だが、レイには理解できなかった。

(解らないときは……調べる……)

 レイは立ち上がった。
 調べる必要はないのだが、なぜだか調べたいと思った。
 誰かに訊いてもいいのだが、任務に関係のないことだけに、それは避けた方がいいような気がした。
 だから、自分で調べなければならない。
 そういう時は……



 数分後、レイは本部内の図書館に来ていた。
 今まで解らなかったことは、殆どこの部屋で調べることによって解決していた。
 だから今回も来てみたのだが、自分が温泉というものを知ったのはこの図書館の本であり、それ以上の理解は得られないような気がする。

 レイはそう思いながらも、温泉に関する書物をいくつか調べてみた。
 そして、そこに書かれていることが、自分の認識と同じであることだけを知った。

(でも……他に意味があるような気がする……)

 何しろ、弐号機パイロットがあれほど喜ぶのだから。
 しかし、どうして弐号機パイロットの喜び方がこれほど気になるのだろう?
 それは解らなかったが、その代わりにレイは他に温泉のことを調べる方法を考えた。



 その数分後、レイは本部内の本屋に来ていた。
 レイはこの本屋をよく利用する。
 興味のありそうな本をパラパラと立ち読みしてから買うことができるので、非常に便利だ。
 中には一冊まるまる立ち読みしてしまった本もあったが、長時間立ち読みしていても一度も怒られたことがない。
 それに、どうしてか解らないが定価より安く買える。
 実は本屋の店主がNERV本部で結成されている綾波ファンクラブ会長であるが故に便宜を図ってもらっていたとは知る由もない。
 余談だが店主はありとあらゆる綾波グッズを買い求めており、中でも等身大綾波フィギュアは一人で3体も買って毎日着せ替えを楽しんでいるとか。

(レジャー……)

 レジャー、即ち余暇という概念は自分にはよく解らないが、温泉はレジャーという範疇に入ることだけは知っていた。
 レジャー書のコーナーに行くと、探すまでもなく、そこには温泉に関する書物が溢れていた。

(温泉……こんなにたくさん……そんなの楽しいものなの? 温泉は……)

 レイはそこに大量に平積みになっていた雑誌を一つ取ると、ページをパラパラとめくってみた。
 そこには図書館にあった本とは異なる情報が、確かに載っていた。
 図書館の本には温泉に関する『本質』が載っていたのに対し、今彼女がここで見ている雑誌には、温泉の『付随情報』が載っていたのだ。
 曰く、温泉の場所に始まり、その効能、周りにあるホテルや旅館の設備と環境、そこの食事情、観光情報など。
 そこで初めてレイは、温泉とはそれ自体よりもそれを取り巻く状況の方が重要であることを知った。

(そうなの、弐号機パイロット、温泉に入るだけではなくて、そこから眺める景色や食べ物のことを喜んでいたのね)

 そう、自分が水を気持ちいいと感じるように、弐号機パイロットは景色を眺めたり物を食べたりすることを気持ちいいと感じるのだろう。そして、温泉に入ることも。
 もちろん、レイ自身も風呂は嫌いではない。概して液体の中にいるときはリラックスできる。
 なおも続けて雑誌のページをめくっていたレイの目に、聞き覚えのある地名が飛び込んできた。

(浅間温泉……)

 そう、彼らは確か、浅間山に使徒を捕獲に行くと言っていた。
 では、そこから程近いこの温泉地に行くのだろうか。
 レイはその温泉の情報を何という気は無しに眺めていたが、そこで見慣れない言葉を発見した。

(混浴……これは何?)

 その言葉は、人目を惹くようなロゴマークになって載っていた。
 レイはその言葉の意味が解らなかったので、自分の知っている言葉と結びつけて類推しようとした。

 海水浴……運動や避暑のために海に行って海水を浴びたり泳いだりすること。やってみたいこと。
 森林浴……森の中で、樹木から発散される成分を浴びることによって、精神的弛緩効果を図るもの。
 日光浴……日光を浴びること。温かい。これも気持ちのいいこと。
 沐浴………水を浴びて身体を清めること。宗教的な意味合いを持つこともある。

 では……

(混浴……『混』を浴びるの? 『混』って、何?)

 それは何だかレイには想像もできなかった。
 何かを水かお湯に混ぜたものなのだろうか?

(解らないときは……調べる……)

 レイは今読んでいた雑誌を元のところに戻すと、別のコーナーに向かって歩いて行った。
 辞書のコーナー……ここもよく使う。
 レイはそこで『広辞苑・第七版』を手に取ると、慣れた手つきでページを繰り始めた。

(今夜……婚約……今夕……混用……『混浴』……)

 レイは探していた単語に目を止めると、白く細い指先を横に添えて文字を追った。

(男女が同じ浴場で入浴すること……)

 しかしその言葉は、別段レイに何の感慨も呼び起こさなかった。
 そもそも、どうして男女が別々に入浴する必要があるのだろう。レイはそう思っていた。
 だから常々、本部の風呂も男女分けせずに壁をぶち抜いて超大浴場にすればいいのに、と思っているくらいだった。

(弐号機パイロット、男の人と一緒に入浴したかったの……そう、それが楽しいのね……)

 レイはそう思った。
 だがやがてレイの頭の中で、使徒捕獲班の連中が置かれた状況がパズルのように組み合わされてくる。
 そしてその最後のピースがはめ込まれた瞬間、やっとレイは事情を理解した。

(そう、弐号機パイロット、碇君と一緒に入浴したかったのね……)

 そしてレイは改めて考え直した。

(温泉……混浴……(ポッ)……私も行きたかった……残念……)

 これでやっと『温泉』と『残念』がレイの頭の中でつながった。
 だが、読者の諸君が想像しているようなことをレイは想像していたわけではない。
 シンジとの一次的接触なんてとんでもない。
 レイはただ、シンジと『一緒に』比較的狭い空間を共有することがうれしかっただけである。
 その割には、レイの頭の中ではヤシマ作戦直前に見たシンジの裸がしっかりと描かれていたのだが。

(温泉……行けない……残念……温泉……行けない……残念……温泉……)

 その日、レイは待機室に戻ってから寝るまで、思考がループ状に固定されたままだった。
 シンジたちが行った温泉が混浴でなかったとも知らずに。







 次の日、レイは水に浮かんでいた。

 と言っても、人工進化研究所3号分室のカプセルやクローン培養槽の中にいたわけではない。
 NERV本部内にある職員専用のプールの中だった。
 長さ25メートル、最深部2.5メートル。24時間いつ来ても利用できる至って便利な施設。
 実際、レイはよくここを利用している。特に休みの日などには。

 現在、レイは待機中。
 シンジとアスカ、それにミサトたちは浅間山に使徒を捕獲に行っている。
 現場から入ってきた情報を漏れ聞いたところによれば、蛹状の使徒を捕獲中に羽化するというアクシデントがあったものの、無事これを殲滅。その後、休養を兼ねて温泉宿で一泊してくるということらしい。

 だが、レイの待機はまだ解けていない。と言って、別段することもない。
 クラスメートたちは2泊3日で沖縄に修学旅行に行っていて、今日はその3日目。だから学校もない。
 待機室で待っていても退屈なだけなので、レイはプールに来ていた。
 本部内施設にいれば、これを待機という。レイはそう認識していた。

 レイは愛用の白い水着を着てプールに仰向けに浮いていた。
 人間は少しだけ浮くようにできていて、そのおかげで全身の力を抜くだけで水面に漂っていることができる。
 それはとても気持ちいい。身体中がリラックスする感じ。この感じ、とても好き。

 ひとしきりその感覚を楽しんでから、今度はうつむけになって水に潜る。
 潜る瞬間に空気を吸うことさえ忘れなければ、しばらく水の中を泳いでいることができる。
 身体の周りを水が流れていく感じ、冷たくて、とても気持ちいい。

 そしてプールの端まで行くと、一度水から上がって、プールサイドに腰掛ける。

 足で水を蹴ってみる。手で水をすくってみる。波を立てる水の音、こぼれ落ちる水の音、これも好き。
 水。どうしてこんなに気持ちいいのだろう。私は水の中にいることが多いから?
 そうかもしれない。でも、わからない。この感覚、説明できないから。

 それからもう一度プールの中に入って、仰向けになって水の上に浮かぶ。
 そうしてしばらく漂う。目を閉じて、全身で水を感じる。

 レイは朝からこんなことをひたすら何度も繰り返していた。



「今日は綾波は誘わないの?」
「誘ったわよ。でも、せっかく電話してやってるのに、出ないんだからしょうがないじゃない」
「出ないって……本部で待機してたんじゃないの?」
「知らないわよ。出ないものは出ないの。そんなに優等生の水着が見たいなら、あんたが電話すればいいじゃない」
「べ、別にそういうことじゃなくて……」
「それより、あんた、どうして泳がないのよ、プールに来てんのに」
「だって、泳げないし……」
「じゃ、なんでプールに来るのよ」
「アスカが誘ったんじゃないか……それに、他にすることもないし」
「あーあ、あんたって、ホント退屈な男ね……」

 そんな会話を交わしながら、アスカとシンジがプールにやってきた。
 アスカは手にBCジャケットとボンベを持っている。
 沖縄でダイビングができなかったのがよっぽど悔しいのだろう。
 マグマダイビングだけでは充分でなかったらしい。
 彼女は今日も潜るつもりだった。

「あれ、綾波……」

 シンジはプールサイドに続くガラス戸を開けた瞬間、水の上に浮かぶレイを見つけた。
 彼女は一昨日泳ぎに来ていたときと同じ、白い水着を着けていた。

「え? どこ?」
「あそこ、ほら……」

 アスカはどこにレイがいるのか判らなかった。
 シンジに言われてプールの上に何か白い物が浮いているのは判ったが、それがファーストチルドレンだとは認識できなかった。
 ……それなのに、どうしてこいつ、一目であれが優等生だってワカったの?

「綾波!」

 シンジがレイを呼んでも、レイは気付きもせず、ただ水面を漂うばかりだった。
 水の中にいると、水の外からの呼びかけは聞こえにくいのかも知れない。
 それとも、レイが意識的に感覚を閉ざしているのか。

「聞こえないんじゃないの?」
「そうかな」

 アスカとシンジはそう言って顔を見合わせた。

「ま、いいじゃない。そのうち気付くわよ。じゃ、私、潜ってくるから」

 アスカはそう言うと、ジャケットとボンベを持ってスタート台の方に歩いていった。

「あ、うん」

 シンジはそう答えると、プールサイドのテーブルに座り、持ってきたノートパソコンをテーブルの上に置いた。
 ミサトからいいつかった勉強はまだ終わっていない。
 熱膨張の理論はアスカに教えてもらったのだが、その式を使って実際に問題を解くとなると、どういう訳か解らなくなってしまう。
 理科でさえこんな調子だから、数学もまだ全然できていなかった。

 シンジは一つため息をついてからノートパソコンを広げる。
 リッドスイッチが入って、パソコンが立ち上がる。レジューム機能が付いているから2秒もかからない。
 そしてシンジは一昨日の続きを始めた。



「泳がないの?」
「えっ?」

 シンジは突然声をかけられて驚いた。
 そして声がした方を向くと、そこにレイが立っていたのでもう一度びっくりした。
 ……綾波、いつの間に、プールから上がってたの? 音も気配もしなかった……

「泳がないの?」

 レイがもう一度そう訊いた。

「あ、いや、その……僕は、その、泳げないから……」

 泳げないなんて、やっぱりカッコ悪いかな、とシンジは思った。

「そう……」

 だがレイは、あっさりと一言そう言っただけだった。
 そうして濡れた空色の髪の毛を真っ白なタオルで拭いている。
 しぶきがシンジのノートパソコンにかからないように密かに気を使いながら。

 シンジはそんなレイをぼーっと見ていたが、急に目を逸らした。
 別に、彼女の着ている白い水着が透けているからではない。
 透けない白い水着など、既に前世紀に開発済みだ。
 ただ、シンジは至近距離で女の子の水着姿を見るのに慣れていないだけだった。

 意識してレイの身体を観察したわけではない。
 しかしレイは、アスカほどではないにしろ、出るべきところは出て、引っ込むべきところは引っ込んだ、いわゆる女性らしい体付きだった。
 もしかしたら、他の同級生と比べて、結構発育がいい方かも知れない。
 多少痩せ形ではあったけれども……

 そこはそれ、シンジも14歳の健康な男子、反応しない訳がない。
 意識を逸らそうとノートパソコンの画面を眺める。
 しかしシンジの目に飛び込んできたのは『膨張』という単語だった。

「あ、綾波、朝からここに来てたの?」

 焦りを隠すように、レイの方から顔を背けながら、そう訊いてみる。
 せっかくレイの方から話しかけてきてくれたのに、何も言わないのは悪いと思って。

「ええ……」

 レイはそう言って髪を拭いたバスタオルを肩に掛けると、シンジの隣の椅子に座った。
 レイの身体から水が滴る音がする。
 シンジはさっきから心臓がドキドキしていた。
 それを抑えながら、何か話しかけようと努力してみる。

「ア、アスカが電話したんだけど……知らないの?」
「いいえ、気付かなかった……」
「でも……ちゃんと携帯、持ってるんだろ?」
「ええ、でも……」

 レイはそう言ってプールの向こう側にあるテーブルをちらりと見た。そこには彼女の荷物が置いてあるらしい。

「聞こえなかったの……たぶん、水の中にいたと思うから……」
「そうなんだ……」

 待機中なのにそんなことじゃ、まずいんじゃないか。シンジは一瞬そう思った。
 しかし、よく考えたら、ここのプールにいれば、緊急事態の時は携帯電話の呼び出し音よりもっと大きな音や、天井から水の中まで染めるほどの赤い光で知らせれば済むことだった。

「見て見て、シンジ!」

 向こう側のスタート台の所からアスカがそう声をかけてきた。
 彼女は既にジャケットを着け、ボンベを背負って準備万端だった。
 ご丁寧に、顔にはゴーグル、腰にはウェイト、足にはフィンまで着けている。
 そしてスタート台の上に立つと、大きく足を前に踏み出しながら言った。

「ジャイアント・ストライド・エントリー!」

 ザッパーン!

 大きな水しぶきと共に彼女は水中に沈んでいった。

「どうして電話したの?」

 大きな波紋がこちらのプールサイドに到達する前に、レイはそう訊いてきた。

「えっ?」
「彼女……」
「あっ、うん。今日も一緒にプール行かないかって、誘うつもりだったんだけど」
「そう……」
「綾波も来てたんだ。偶然だね」
「ええ……」

 そこで再び会話が途切れた。
 プールサイドで二人は座ったまま、水面に浮いてくる泡の軌跡を目で追っていた。
 それはもちろんアスカが吐く息の泡。おかげでどう動いているかがはっきりと判る。
 それほど深いとは言えないプールの中で、彼女はダイビングをそれなりに楽しんでいるようだった。

 レイがつと立ち上がる。
 そしてバスタオルを椅子にかけてプールサイドに歩み寄ると、そこに腰掛けて足を水につけた。
 足を動かしてチャプチャプと波を立たせている。
 シンジは水と戯れるレイをぼんやりと見ていた。
 後ろ姿は前からと違って安心して見ていられるから。

「水が怖いの?」

 プールの方を眺めたまま、レイがそう言った。

「えっ?」

 僕に言ったんだろうか。シンジは考えていた。
 他に誰もいないのだから、そうなんだろう、たぶん。
 でも、独り言かも……

「水が怖いの?」

 レイがもう一度そう言った。
 やっぱり僕に言ってたんだ。でも、どうしてこっちを見ないんだろう。

「いや、そういう訳じゃないけど……」

 シンジは少し口ごもった。
 しかし、水が怖いというのは、当たらずと言えども遠からず。泳げないから少しは怖いと思っているかも知れない。

「そう……でも、水はとても気持ちいいのに……」

 レイはそう言ったまま、水と戯れることを続けていた。
 それは何だか本当に楽しそうに見えた。
 波の上で天井のライトの光が躍り、水滴が乱反射でキラキラと輝く。
 そしてレイの姿も輝いているような……
 シンジはレイの後ろ姿を見ながら考えていた。

(泳げないけど……水をさわるくらいなら……)

 泳がないとはいえ、シンジも一応トランクス型の水着を着てはいる。
 一昨日、制服のままプールサイドに入って、怒られてしまったのだ。
 何でも、水着でないとプールサイドに入れないという規則があったらしい。
 余計なギャラリーはお断りというわけだ。
 シンジはその上からパーカーを羽織っていた。
 ノートパソコンの蓋を閉めて立ち上がると、レイの横に行って腰掛け、自分も脚を水に浸けた。

「ホントだ、冷たくて気持ちいいや」

 それからシンジは手を水に浸けてみた。
 そして水をすくって膝の辺りにかけてみる。
 ひんやりした感覚が心地いい。
 泳げなくても、水に浸かるのは気持ちよさそうだな、とシンジは思った。
 レイが黙ってシンジの横顔を見ていたのには気付かなかった。

 と、その時、シンジたちの前にポコポコと泡が立ち昇ってきた。
 そして、ザバッという音と水しぶきと共に、赤い髪の人魚が浮き上がってきた。

「何やってんのよ、シンジ!」

 水から出てきたアスカは、開口一番そう言った。
 そしてゴーグルを頭の上に引っかけてシンジたちを見ている。

「何って……水に浸かってるんだけど……」

 見たまんまだった。

「何よ、あんた、泳がないんじゃなかったの?」
「泳いでないよ、脚を水に浸けてるだけで……」

 アスカはなぜだか不機嫌そうだ。

(私が誘っても水に触りもしなかったくせに……)

 ファーストが誘ったら水に入るのね、とアスカは思っていた。
 何よ、バカシンジ……

「あっそ! じゃあごゆっくり!」

 アスカはそう言って再びゴーグルを着けると、水の中に沈んで行った。
 と、次の瞬間、アスカの長い足が水面に現れたかと思うと、その足に着けられたフィンが、シンジたちに向かって大量の水しぶきを浴びせかけた。

「わっ! ……な、何すんだよ、アスカ!」

 シンジのその言葉は、もちろん水の中のアスカに聞こえるはずもなかった。
 そして立ち昇る泡は向こうの方へと去って行った。

「ちぇっ……あーあ、びしょ濡れだよ……」

 顔はもちろん、パーカーは水しぶきの直撃を浴びてびしょびしょに濡れていた。
 シンジは手で顔を拭い、それから手を振ってしぶきを払おうとしたが、少し考えてからパーカーで手を拭った。
 そしてパーカーの裾を持ち上げて、顔を拭った。
 どうせ濡れているのだから一緒だ。それに後で着替えるし。

「あーあ、ひどい目に遭った」

 ひとしきり独り言を言い終えると、シンジはレイの方を見た。
 レイは黙って波立つ水面を眺めていた。
 もちろん水しぶきをかけられている。
 顔も髪も濡れていたが、レイはそれを拭おうともしていなかった。

「あの……タオル取ってこようか?」

 シンジが気を利かせていそう言ったが、レイは小さく首を横に振って答えた。

「いいえ、いいの……また、水に入るから……」

 レイはそう言うと、手を突っ張って腰を浮かし、そのままプールの中に滑り込んだ。
 一度頭まで沈んだが、浮き上がってくると器用に立ち泳ぎしながらくるりと振り返る。
 そして泳いでいきもせずに、じっとシンジの方を見ていた。
 その視線は何を意味するのだろう?

(泳いだら、ってこと? でも……)

 シンジは少し身を乗り出してプールの中を覗いた。
 この辺りでは水深は2メートル以上ある。
 しかし、水の上から見ると屈折の関係で何となく浅く見えるものだ。
 それでも足は付きそうになかったが、プールサイドに捕まりながらなら……

 アイススケートではあるまいし、プールの壁に捕まりながら水に入って何がうれしいものか。
 しかし、その時シンジの頭には、『水に入る→冷たくて気持ちいい』という図式しか浮かんでいなかった。

 シンジはプールサイドに腰掛けたまま羽織っていたパーカーを脱ぐと、上半身だけ振り返ってさっき座っていた椅子に向かって放り投げた。
 パーカーはコントロールが定まらずに椅子の手前に落っこちた。
 まあいいや、どうせ濡れてるし……
 その時のシンジの頭の中には水に入ることしかなかった。



 ええっと、どうすればいいんだろう。
 綾波みたいな入り方は……ダメだよな、僕は立ち泳ぎなんてできないし。
 やっぱり後ろを向かないと……

 シンジは左手を右側に持ってきて、身体を反転させながら水に入ろうとした。
 ずっと横に歩いていけば梯子があるというのに。
 やはり目の前で気持ちよさそうに泳いでいるレイに釣られたのだろうか。

 プールに背を向け、プールサイドに突っ張った両手をそろそろと曲げていく。
 水の中の壁に突っ張った足が時折滑ってヒヤリとしたが、何とか肩のあたりまで水に浸かることができた。

 しかし、この姿勢では何もできない。本当に『水に浸かっているだけ』だ。まるで水風呂のように。
 ちらっと後ろを向くと、レイは相変わらず立ち泳ぎをしながらシンジの方を見ていた。
 やっぱり泳げるって、いいな。プールサイドに目を戻しながらシンジは思った。
 ほんとに気持ちよさそうだ。
 教えてもらいたいくらいだけど……

 もう一度、振り返ってみる。
 まだレイはそこにいた。
 手を伸ばせば届きそうなところに。
 そして、プールサイドにしがみついているシンジを見て、少し首を傾げた。



 どうして碇君はずっとそこにいるのだろう?
 そう、碇君、泳げないのね。
 でも、身体を楽にしていれば、水に浮くことができるのに。
 そのことを、知らないのね。

 どうしたらそのことを教えられるだろう?
 ……私が浮いてみせればいいのかも知れない。
 それに、いい加減、立ち泳ぎにも疲れてきた……



 レイは手近にあったコースロープに捕まり、それを水の中に押し下げると、その上に器用に座ってみせた。
 それからシンジの方をじっと見る。
 そしてこれから浮くことを実践して見せようとしたのだが、シンジにはそれが『ここまで来てみて』という意味に思えた。

(行けるかな……3メートルくらいだし、何とかなるかも……)

 シンジはなぜかそれができるような気分になってしまった。
 恐怖心にも先立つ水の魅力。そして……

(よし……)

 そしてシンジは決心すると、壁を蹴って勢いを付けて、コースロープの方まで泳いでいこうとした。
 だが、そうはうまく行かなかった。
 泳げない人がよくやるように、胸でもろに水の抵抗を受けてしまったのだ。
 3メートルどころか1メートルも進まなかった。

「うわっぷ!」

 おまけに、シンジは息を吸うことも忘れていた。
 そして二、三度もがいた後で、水しぶきを上げながらあっけなく沈んでいった。
 プールの底を蹴って水面に上がってくることさえも忘れて。



 レイは自分の目の前で水の中に消えていったシンジを見ていた。
 そしてポコポコと立ち昇ってくる泡を見ていた。
 最初はシンジが水に潜ろうとしたのかと思った。
 しかし、泡はこちらに向かって進んでくる気配はない。
 そこで改めて気が付いた。

(そう、碇君、泳げなかったのね)

 レイはやっと理解した。シンジは溺れているのだ。
 だが、こんな時は、自分はどうすればよかったのだろう?
 それはレイが今まで受けてきた教育のカリキュラムにはないことだった。
 しかし……

 このまま自分が何もしなかったらどうなるだろう?
 人は、水の中では生きられない。息ができないのだから。
 とすると……

(碇君は、死んでしまうの?)

 死……自分は、死に対して特別な思いはない。
 だが、レイの頭の中には、ヤシマ作戦の前に死を恐れていたシンジの姿が蘇っていた。

(そう、碇君は、死ぬことが怖いのね……)

 そして、シンジが死んだらどうなるのだろうと考えた。
 死ぬ……いなくなる……そうすると……もう会えない……
 そう、もう会えない。

(碇君に、会えない……)

 シンジと会えなくなったら、どうなるのだろう?
 レイは考え続けていた。

 エヴァのパイロットが一人減るだろう。
 私に声をかけてくれる人が一人減るだろう。
 私の名前を呼んでくれる人が一人減るだろう。
 私に笑顔を見せてくれる人が一人……

(……だめ……)

 そう、
 もう彼と一緒にいることはなくなる。
 もう彼の声を聞くことができなくなる。
 もう彼の笑顔を見ることが……

(……だめ……そんなの、だめ……)

 以前は、自分には失う物など何もないと思っていた。
 だが、一つ、絆ができた。……碇司令。
 そして、つい最近、もう一つ新たな絆を得た。……碇君。
 その新たな絆は、最初の絆とは違うような気がする。
 最初の絆は、信頼。しかし、新たな絆は、他にも何か……
 だから、それを失いたくなかった。

(私、どうしたの? こんな気持ち、初めて……)

 レイはすぐさま水に潜った。
 シンジの身体はプールの底の方でゆらゆらと揺れていた。
 さんざんもがきたおした挙げ句に、息を使い果たしたのだろう。
 既にぐったりとなっていた。

 レイはシンジの身体を正面から抱こうとして、ちょっと迷った。
 溺れた人を正面から助けるのはいけなかったのではなかったか?
 何かの本で読んだような気が……しかし、すぐに思い直す。
 そう、それは溺れている最中の人を助ける時だ。
 既に動かなくなった人を助けるときにはそんなことを気にする必要がない。

 レイはシンジの身体を正面から抱いた
 シンジの顔が自分の顔のすぐ近くにある。
 その目は閉じられたままだった。
 ピクリとも動かない。
 いつもの優しい表情も失われていた。

(ごめんなさい……)

 レイは心の中で謝ると、プールの底を蹴って水の上に浮かび上がった。
 シンジを片手で抱いたまま、片手で水を掻いてプールサイドにたどり着く。
 アスカが異変に気付いたのはちょうどその時だった。



「まったく、何やってたのよ、あんたは!」
「……ごめんなさい……」
「あんたがプールの中に誘ったんじゃないの!?」
「……ごめんなさい……」
「シンジが泳げないの知らなかったの!?」
「……ごめんなさい……」

 アスカとレイはシンジの身体の左右に分かれて座り込んでいた。
 二人してシンジの身体をプールサイドに引っ張り上げた後で、アスカはレイに毒づいていた。
 レイは謝ることしかできなかった。
 そう、全ては自分のせいだと思っていたから。
 シンジが泳げないのに、水の中に誘ったから。
 しかし……

 どうして誘うようなことをしてしまったのだろう?
 わからない……
 そう、ただ、何となく……
 碇君と、一緒に……

 ぼんやりとシンジの顔を眺めているレイに、アスカは言った。

「で、シンジはどうなのよ」
「溺れたわ」
「そんなこと、わかってるわよ! 今の身体の状態を訊いてるのよ!」
「……脈はあるわ」

 シンジの手首を持ちながら、レイは言った。
 そして、蒼白色の顔の前に手をかざす。

「でも、息は止まってるわ」
「な、何ですってぇ!? どうしてそれを先に言わないのよ!」
「ごめんなさい……」

 またしてもレイは謝ることしかできなかった。

「と、とにかく、緊急事態よ。監視員を呼んでこないと……」

 そう言えば、監視員はどうしたのだろう?
 カメラで見ているはずだが、たぶんさぼっているのだろう。よくあることだ……
 だが、そんなものを呼びに行っている間に手遅れになりそうなことにアスカは気付いた。

「いえ、間に合わないわね。そうよ、こういうときは……人工呼吸よ」

 アスカは顔の横で人差し指を揺らしながら言った。
 ちょっと得意そうだ。
 色々と訓練を受けているのだろう。
 知識の豊富なところをひけらかしたいらしい。

「ええ、知ってるわ……」

 だが、行動はレイの方が早かった。
 レイはためらうことなく、シンジの顔の上に自分の顔を重ねた。
 あっけにとられているアスカの目の前で。







 レイは病室にいた。
 もちろん、目の前のベッドの上に横たわっているのはシンジだ。
 レイはベッドの横に座って手を膝に置き、シンジの顔をじっと見つめていた。
 すっかり血色が戻り、安らかな寝息をたてているその顔を。

 あの後……そう、レイがシンジの口に二、三度息を吹き込んだだけで、シンジはあっさりと息を吹き返した。
 喉に水を詰めていただけらしい。
 むせながら飲んでいた水を吐き出したが、意識は戻らなかった。
 その時になって、ようやく監視員が駆けつけ、シンジを病院に運んでいった。
 レイもアスカも、なぜか付き添っていくことをためらっていた。

 結局その後、彼女たちは事の顛末をミサトの許に報告に行った。
 ミサトはその次第を黙って聞いていたが、特にレイを責めるようなことは言わなかった。
 ただ、『罰として』レイにシンジの見舞いに行き、気が付くまで待機していることを命じた。
 だからレイは今、シンジの隣に座っている。
 ちなみにアスカは帰宅を命じられたが、まだその辺をうろうろしているらしい。

 レイはシンジの顔を見ていた。
 その目はまだ閉じられたままだった。
 そしてレイの視線はシンジの口元を彷徨っていた。

(碇君の……)

 どうして私はそこを見ているの?
 先程、触れたその部分は、冷たいはずなのに、なぜか温かい感じがして……

 レイはそっと手を伸ばし、シンジの顔の上にかざした。
 静かな温かい息が感じられる。
 その細く白い指先をシンジの口元に落としかけたとき、シンジが小さくうめいた。

「う……ん……」

 レイは慌てて手を引っ込め、膝の上に置いた。
 そしてじっとシンジを見守る。
 シンジはひとしきりうめいた後で、ゆっくりを目を開いた。

 そしてシンジは自分の置かれている状況を確かめる。
 以前、見たことがある天井……

(ここは……)

 シンジは一瞬固まった後で、バッと音を立ててシーツをはねのけ、ベッドの上に起き上がった。
 僕はまた、病院にいるのか……

(えっと……そう、溺れたんだ……)

 水の感覚と苦しさが少しだけ蘇ってくる。
 そのうち、少しずつビジュアルな記憶が戻ってくる。

(泳ごうとして……でも、誰が、助けて……そうだ、綾波が?……)

 まだ少し頭は混乱していた。
 しかし、人の気配に気付き、パッと横を振り向く。
 そこには心配そうに自分を見ているレイの姿があった。

「あの……」
「あの……」

 シンジとレイは同時に相手に呼びかけていた。
 レイがパチパチッと二、三度瞬いて、口をつぐんだのを見て、シンジは話しかけた。

「あの……何?」

 レイは視線を落とし、か細い声で呟いた。

「ごめんなさい……」

 そしてそれきり黙っている。
 どうして謝るんだろう……
 まだ頭がはっきりしないシンジは、レイに話しかけて何が起こったのかを確かめたいと思った。

「あの……僕、溺れたんだよね、プールで……」
「ええ……」

 相変わらずレイの声は小さい。
 訊くのが気の毒になるほどだったが、シンジはなるべく優しく訊いてみた。

「その……綾波が助けてくれたの?」
「ええ……」
「アスカは?」
「あの人も……一緒に……」
「そう、なの……」
「でも……」

 レイはそう言って顔を上げ、一瞬だけシンジの目を見て、またうつむいた。
 そして、しばらく黙った後でようやく声を絞り出す。

「ごめんなさい……私の、せいで……」
「え? い、いや、そんなことないよ」

 何が起こったのかをようやく思い出したシンジは、慌ててレイを慰めた。

「あれは……僕が勝手に、水に入ったから……泳げないのに……だから、綾波のせいじゃないよ」
「でも……」
「いいよ、謝らなくても。それより、ありがとう、助けてくれて……」
「…………」

 それでもまだうつむいているレイを見て、シンジは努めて明るい声で話しかけた。

「また綾波に、助けられたね」
「…………」
「やっぱり、泳げないって、カッコ悪いよね。うらやましいな。綾波とか、アスカとか」
「…………」

 それでも黙ったままのレイに、シンジはちょっと勇気を出して言ってみた。

「そうだ、今度、教えてよ、泳ぐの……」
「…………」

 レイが無言のまま顔を上げた。
 そしてシンジの目をじっと見ている。
 あまり見つめられるので、シンジの方がどぎまぎしてしまったほどだ。

「……教える……私が?」
「あ、うん……」
「そう……でも、いいの?」
「えっ、何が?」
「いえ……」

 アスカのことを口にしかけて、レイは無意識のうちに口をつぐんでいた。
 そして、レイの頭の中には、シンジと一緒にプールに入っているところが描かれていた。
 広いプールの中で、二人きりで……

(碇君と、一緒に……そう、じゃあ、これも……)

「綾波?」

 ぼんやり考え事をしているレイに、シンジは声をかけた。
 何かちょっと顔が赤いみたいだけど……?
 するとレイは少し上目遣いになってシンジを見ながら言った。

「碇君……じゃあ、今度、私と……」
「あ、うん……」

 だが、レイの次の言葉は、シンジの理解の範囲を超えていた。

「混浴してくれる?」
「へ?」

 呆然とするシンジを残して、レイはそそくさっと帰っていった。







 この日得たレイの新たな知見:『混浴……男女が同じプールで泳ぐこと』

 それに……

「碇君……溺れたら、また、人工呼吸してあげる……(ぽっ)」



- Fin -







おまけ



 次の日、シンジは人工呼吸のことをミサトから知らされ、その後しばらくレイの顔をまともに見ることができなくなったという……



- Fin -




新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

Back to Home



Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions