Side Story #1

ヤシマ作戦完遂・その心象風景



「綾波!」

 燃えるように熱くなったエントリープラグの緊急用イグジットハッチのハンドルに触った時、 スーツのグラブが焼けた。
 特殊合成繊維は焦げたりはしなかったものの、 高熱によってその組成を若干変化させ、鼻につく異臭をまき散らした。
 ハンドルの高熱が、耐熱素材をも通して掌を灼く。しかし、シンジは渾身の力を込めてハンドルを捻った。

(早く……早く開いてくれ……)

 熱でシャフト周りの金属が膨張しているのか、ハンドルは異様に堅い。
 それでもシンジはそれを無理矢理反時計回りに90度回転させ、ハッチをこじ開けると、 中を覗き込んで少女の名前を叫んだ。

「綾波!」

 むせ返るようなLCLの蒸気が頬を撫でる。
 少女はシートに身を預け、力無く横たわっていた。 そしてその目は閉じられていた。
 シンジが発した呼びかけにも、少女の長い睫毛はピクリとも反応しなかった。

(まさか……まさか、そんな……)

「大丈夫か!? 綾波!」

 シンジは渾身の思いを込めてその名を呼んだ。
 死なないで……シンジのその願いが通じたかのように、しばらくしてレイはうっすらと目を開いた。
 そして、声がしたはずの方向に顔を向けた。

 ……誰? ……誰か、呼んでる……私を……

 少女はその誰かを見出そうとしたが、視点が定まらない。
 頭がまだ、ぼんやりする。身体中の力が抜けてしまっていた。
 ただ、自分がまだ生きているというおぼろげな感覚だけが頭をよぎった。
 そして次第に視覚が蘇ってくる。
 どこからともなく漏れてくるわずかな光の中に浮かぶ影を求めて赤い瞳が動いた。

 ……誰かいる……ハッチから……影……誰?
 ……前にもあった……そう……碇指令……そうなの? また私を……

 レイはその影を見つめて目を凝らした。少しずつ、その姿か浮かび上がってくる。
 その人を知っているような気がして、レイは目の前の一点だけに意識を集中させた。

 ……暗くて……よく見えないの……誰?
 ……碇指令……違う……誰?
 ……この人……そう、この人、知ってる……

 弱々しい赤い光をたたえたレイの瞳には、つい最近その名を知った少年の顔が映っていた。

 ……サードチルドレン……初号機パイロット……碇指令の、子ども……どうして、ここに、いるの……

 それはレイが全幅の信頼を置く人物ではなかった。 にも関わらず、レイの心の中には不思議な安堵感が広がっていた。

(綾波……無事だったんだ……良かった……)

 シンジはうれしさのあまり、プラグの中に身を乗り入れた。LCLの中に手が浸かる。

 ……熱い……お湯みたいだ……こんな熱さの中で、耐えてたなんて……
 ……でも、無事だったんだ……良かった……ホントに、良かった……

 うれしさのあまり……シンジは涙がこみ上げてくるのを抑えきれなかった。
 作戦前にレイと交わした言葉が、なぜか心の中にフラッシュバックする。

『絆……私には、他に何もないもの……』

(どうして……どうして何もないなんて……みんながいるじゃないか……ミサトさんも、リツコさんも、僕も、それに、父さんも……)

「自分には……自分には、他に何もないって、そんなこと言うなよ……」

 シンジはうわ言のようにそうつぶやいていた。レイを責めるつもりなどなかった。 ただ……ただ、あんなこと言うなんて、寂しかったから……

『さよなら……』

(綾波が、守るって……僕を守るって、そういう意味だったの? もう会えないかも知れないって……そんなの……そんなの、いやだよ……そんなこと、言うなよ……それに、こうして、また会えたじゃないか……)

「別れ際にさよならなんて、悲しいこと言うなよ……」

 あんなこと言うなんて、悲しかったから……でも、また、会えた……
 うれしくて……涙がこぼれた。止まらない、涙……レイに顔を向けていられなかった。
 涙が一つ二つ、頬を伝う。LCLに落ちて、溶けていった。
 シンジの喉から、声にならない嗚咽が漏れた。

 ……この人、泣いてる……どうして、泣いてるの? ……何が悲しいの?
 ……倒せなかったの? 目標を……
 ……でも、陽電子の閃光が、目標を貫いたのを、見たような気がする……
 ……それに、私、まだ、生きてる……この人も……たぶん、みんなも……
 ……生きてるのに、どうして泣いてるの? ……何が悲しいの?

「……何、泣いてるの?……」

 レイは心のままに、シンジに尋ねていた。
 しかし目の前の少年は何も答えてくれなかった。
 ただ、うつむいて泣きじゃくるばかりだった。

 ……まだ、泣いてる……わからない……悲しいの?
 ……でも、私、悲しくない……どうして?
 ……こんな時、どうすればいいの?
 ……わからない……知らない……誰も、教えてくれなかった……
 ……こんな気持ち、知らない……私はこの人に、どうすればいいの? ……わからない……

「……ごめんなさい……こういう時、どんな顔すればいいか、わからないの……」

 ……本当に、ごめんなさい……
 ……知らないの、私……自分の、気持ちを……あなたの、気持ちを……

 シンジが静かに顔を上げた。涙が瞳を濡らしていた。
 しかし、その顔は泣いていなかった。ぎこちない微笑みが、シンジの顔に浮かんでいた。

 ……この人、笑ってる……泣いてたのに……どうして?
 ……うれしいの? ……どうして? ……悲しいの? ……わからない……

「……笑えばいいと思うよ……」

(そう、うれしいんだ……うれしくて……だから、僕は泣いたけど……君は……君だけは、笑って欲しい。 君が生きていたこと、僕が生きていたこと、みんなが生きていたことのために、笑って欲しい……)

 シンジは、泣きたくなるのを堪えて、無理に笑顔を作って見せた。
 やっと笑うことができた。でも声が震えていた。まだ涙は流れ続けていた。

(……僕は今、どんな顔をしているんだろう。 ちゃんと笑えてるんだろうか。 綾波が生きてて、うれしいことが、伝わってるんだろうか……)

 レイはシンジの顔を不思議そうに見ていた。紅い瞳に映るシンジの顔は、確かに笑っていた。
 ただ、笑いながらも瞳に涙を浮かべる理由は解らなかった。

 ……笑えば、いいの? ……どうして?
 ……うれしいの? ……うれしいのに、泣いてるの? ……どうして?
 ……うれしいときは、笑うのに……この人、うれしいの? ……私、笑えばいいの? ……どうして?
 ……私、うれしいの? ……私、うれしい時は……

 その時、レイの頭の中に大切な人の顔が浮かんだ。
 瞬いたその瞳に、少年の顔と重なって大切な人の顔が映る。

 ……笑顔……私を思ってくれる人……私を心配してくれる人……
 ……そう、この人、私を思ってくれてるのね……笑顔で……
 ……私を、心配してくれてるのね……涙で……

 レイの瞳に映った大切なその人の顔は、笑っていた。私がいるのが、うれしいから……

 ……そう……笑えばいいのね、この人のために……
 ……この人は、私が、大切なのね……
 ……どうしてか、わからないけど、そうなのね……
 ……笑えばいいのね、あの人みたいに……やってみるわ……

 レイの顔に、ぎこちない微笑みが広がっていった。

 ……あの人以外に、初めて見せる笑顔……私、うまく笑えてるの? ……わからない……

 シンジはレイのその微笑みを見ていた。
 自分に向けられた、初めて感情がこもった少女の表情を。
 そして、感じていた。少女の愛らしさを。
 少女の心に秘められた、いつもは見せることのない美しい感情を。

(あ、綾波……綺麗だ……こんな綺麗な笑顔、初めて……違う、前にも……でも、そんなことが……)

 シンジはレイの笑顔に心を奪われていた。初めて見る、レイの笑顔……
 いつもの無表情とは比べものにならないその愛おしい表情に、 シンジは心を洗われたかのような気がするのだった。
 でも、こんな優しい笑顔、どこかで見たような気がする。わからない……

「……どうしたの?……」

 レイの言葉に、ハッとする。
 笑顔と入り交じった、レイの不思議そうな表情を見て、シンジは我に返った。

(……僕は、思わず、見とれて……綾波の、笑顔に……とても、綺麗だから……)

「あっ……いや……行こう」

 思わず顔が赤らむ。
 照れを隠すようにして顔を背け、レイの手を取り、自分の肩に捕まらせた。

「立てる?」

 シンジが訊くと、レイは静かに首を縦に振った。
 シンジはレイの腕をたぐり、自分に体重を預けさせる。
 レイは少しよろめきながら、シンジに支えられるようにしてシートから身を起こした。
 そして力無くシンジにもたれかかる。

(綾波……軽い……)

 自分と同い年の少女の身体の軽さを、シンジは改めて感じていた。
 見た目以上に軽いその身体を担ぎ上げるようにして、プラグから地面に降り立たせた。
 レイの足がふらつき、シンジの肩に回した手に力がこもる。
 シンジはレイが倒れないように、その細い腰に手を回して支えてやった。
 あまりにも華奢なその腰つきに、シンジは少女の弱さを感じていた。
 そして自分自身の非力さも。

(こんな……こんな女の子が、 僕を守ってくれたなんて……僕よりずっと力の弱い女の子が……僕を守るって、 言ってくれた……僕は……僕は……そう、僕も、 守る……この子を、綾波レイを、守る……)

 双子山の鬱蒼とした森の中に、月明かりが煌々と射し込んでいた。
 見上げれば満月が天頂高く輝いている。
 シンジとレイは寄り添って歩き始めた。
 月はまるで二人が歩く道を示すが如く、その青い光で暗い夜道を照らし出していた。
 遠くの方に、小さな灯りが見えた。たぶん、みんなが探しに来てくれたんだろう。

「綾波……」

 シンジの呼びかけに、レイは何も答えなかった。
 ただ、シンジの方に少し目を向けただけだった。
 シンジは前を向いたまま、言葉を続けた。レイの方を見なくても、レイが聞いてくれていると信じていたから。

「今、僕たちにはエヴァに乗ること以外、何もないかも知れないけど……」

(そう、綾波は……そう言った。でも、僕も……ここにいる限り、そうなのかも知れない……)

 シンジはレイの姿に自分自身を重ねながらそう考えていた。
 今までの僕には、何もなかった。今もまだ、何もない、でも……

「でも……生きてさえいれば、いつか必ず……生きてて良かったって思うときが、きっとあるよ……」

 それはレイだけでなく、シンジが自分自身に向かって言った言葉だったかも知れない。

(綾波は僕と似てる……そう、今は、僕たちは、同じ境遇にあるのかも知れない。 生きてて良かったって思うのは、 ずっと先のことかも知れないけど……でも、いつか、きっと……)

 レイはシンジのその言葉にも答えず、ただうつむいていた。
 何かを想うその瞳は、シンジからは見えなかった。
 レイは初めて自分の心に訪れた感情に戸惑っていた。

 ……生きていれば……違う……私には、何もない……でも、違うの?
 ……生きていれば……何かあるの?
 ……あの人は、何も言わなかった……
 ……でも、この人と、一緒なら、何か……何かあるというの?

 その想いは、レイの心を激しく震わせた。
 そしてその驚くほどの衝撃に、レイは戸惑っていた。

 ……何、この感じ……こんな感じ、初めて……でも……でも、嫌じゃない……

「だから……だから、一緒に生きていこうよ」

 シンジのその言葉は、レイの心の中に溶けるように沁み通っていった。
 そして今までにない甘美な感覚に心が浸された。
 レイは心の中で今の言葉を何度もかみしめていた。

 ……一緒に……一緒に、生きていればいいの? この人と……
 ……わからない……でも、そうなの?……

 その時、レイは自分の心の中に、自分が今まで知らなかった小さな灯火を見つけていた。
 遠くで揺れるその儚い光は、なぜだかレイを誘うように輝いていた。

 ……何? この光……わからない……でも……でも、なぜか、心が、温かい……

 シンジは自分が今言った言葉をもう一度考えていた。

(これから、何があるかわからないけど……独りじゃ生きていけそうもないけど……でも……でも、二人なら……そう、二人なら、生きていけそうな気がする……)

 何かが見つかる、その時まで……



- Fin -



新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

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Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions