僕の目の前には、一枚の便せんがある。

 普通の真っ白な便せん。

 何の飾り気もないシンプルな便せん。まるでレポート用紙みたいに。

 でも、それはこの便せんを使った人を表している。

 その人は、きっと真っ白な心の持ち主で、自分を変に飾ったりしない人なんだ。

 便せんには英語の詩が書かれている。

 すごく上手な字ってわけじゃないけど、僕よりはずっと綺麗な字だ。

 きっと人に見せるために書いたんだと思う。とても丁寧な文字。

 それはこれを書いた人の心を表している。

 その人は、とっても繊細で優しい人なんだ。

 僕はこの詩に、曲をつけることになったんだ。



  言葉よりも……




 その話を聞いたときは、そんなの無理だと思った。

 作曲のやり方なんて、見たことも聞いたこともないのに、できるわけないって。

 でも、トウジに頼まれたんだ。

『センセ、ちょっとなぁ、頼みがあんのやけど』

 春休みが半分くらい過ぎた頃にトウジが電話をかけてきて、僕にそう言ったんだ。

『何?』

『実はな、ワシ、友達に頼まれて、作曲ができる奴を捜しとんのや』

『作曲?』

『そや。それでな、センセに頼みたいんや』

『頼むって言われても……』

 トウジは僕がチェロを弾くのを知っている。

 だから、そのツテで作曲できる人を捜してるんだろうと思った。

『でも、僕、作曲できる人なんて知らないよ』

『違うがな、センセ。センセに作曲して欲しいんやがな』

『えっ? えっ? ええ〜っ? ……僕が? 何で?』

 突然そんなことを言われて、僕は正直驚いた。

『何しろ、センセはチェロ弾けるさかいな。 音楽的センスに恵まれとるっちゅうわけや。 そやから、作曲くらいできるやろ。 な、この通りや。頼まれたってくれ』

『そ、そんなこと言われても……』

 楽器が弾けるのと作曲ができるのとは全然違うことなんだってことが、トウジにはわかってないみたいだった。

 そりゃ、歴史上有名な作曲家の人は、みんな楽器が上手に弾けたけど、だからと言ってその逆は成り立たないんだ。

『できっこないよ……』

 僕はそう言って断ろうと思った。

『そんなこと言わんと、そこを何とか頼むわ、なあ、センセ……ワシの知り合いの女の子の頼みなんや』

『でも……』

『明日連れて行くて言うてあるんや。 そやから、とりあえず付いて来て欲しいんや。 断る前に、歌詞だけでも見たってくれや。 それから断っても、遅ないやろ。な。頼むわ、この通りや!』

 確かに、作曲をしてみたいと思ったことはある。

 少なくとも、楽器を弾く人の多くはそうだろうと思うんだ。

 だからトウジが電話の向こうでで手を合わせて頼んだとき(見えなかったけど)、はっきり断ることができなかった。

 それで、とりあえず会って詩を見てから決めることにしたんだ。

 断るにしても、本人に会ってからにしようって。



 僕の目の前には、その詩がある。

 《Fly Me To The Moon》

 それがその詩のタイトルだった。英語の詩だった。

 簡単な英語なんだけど、結構いい詩だと思う。

 でも、その詩が気に入ったから僕は作曲することにしたんじゃない。

 その詩を書いた女の子のために……なんだ。

 僕はずるい人間だと思う。

 その女の子には、ずっと前から憧れてたんだ。

 それで、この詩に曲をつけることで、うまくいけばその女の子と知り合いになれたらって思ったのかも知れない。

 だから、引き受けたんだと思う。

 不純な動機なんだ。

 でも……


 作曲なんて、やったこともない。

 どうすればいいのかも知らない。

 でも、とりあえず、詩を読んでイメージをつかもうと思った。

 それで何度も何度も読んでみた。

『私を月に連れて行って……』

 とても綺麗な詩なんだ。月夜のイメージが浮かんでくるようだった。

 バラードというか、そう言うゆっくりした曲が似合いそうだった。

 僕は一生懸命イメージしてみた。

 でも……その日は何も思いつかなかった。


 次の日も、朝からずっと作曲のことを考えてた。

 でも、頭に思い浮かんでくるのは、その詩を書いた女の子のことばっかりだった。

 やっぱり僕はずるいと思った。

 僕が作曲を引き受けた本当の理由は、その女の子の笑顔が見たかったからなのかも知れない。

 ずっと前に見たあの笑顔が、忘れられなくて。


 何となく自分のことがいやになりながらも、その日は夜までずっと作曲のことを考えてた。

 寝る前になっても、そのことは頭の中から離れなかった。

 いや、本当は、その女の子のことが離れなかったんだ。

 でも寝ようと思って部屋の電気を消して布団に入った時、ふっと頭の中にイメージが湧いたんだ。

 それは詩のイメージじゃなかった。たぶん、その女の子のイメージ。

 でも僕は、その女の子のイメージが、詩にも合うんじゃないかって思った。

 何て言うか、月の綺麗な夜に、その女の子に『私を月に連れて行って』って言われているようなイメージが。

 だから僕は布団から飛び起きて、机のところの電気スタンドだけをつけると、置きっぱなしにしてあった五線紙に音符を書いていった。

 本当ならチェロかピアノででも一度弾いてみたかったんだけど、もう夜だし、音を出すとうるさいと思って。

 でも、せっかく頭に浮かんだイメージを忘れたくなかったから、とりあえず書き残しておこうとした。

 こうしておけば、明日にでもまたやり直せるから。

 僕は一気に書き上げてしまった。イメージを失いたくなくて。

 そして、頭の中でもう一度その曲を繰り返してみる。

 電気を消して、ベッドにもう一度入ってからも、僕は頭の中で曲を繰り返し続けた。


 次の日の朝、起きてから、チェロでその曲を弾いてみた。

 でも、何だか少し違う気がした。

 最初の方はいいんだけど、最後の方が。

 特に、『I love you』のところは全然ダメな気がした。

 そんなこと、言ったことも、言われたこともなかったからかも知れない……

 だから、新学期が始まっても、この部分だけはできないままだった。

 でも僕は、いつかきっと作ってみせると心に誓った。

 そして、その便せんに書かれた『作詞:綾波レイ』という文字の下に、自分の名前を書いた。

 『作曲:碇シンジ』って。



 夏休みのとある一日。

 その日は碇君が私の家に来ていた。

 私が作詞して碇君が作曲した《Fly Me To The Moon》が綺麗に印刷された楽譜になったので、わざわざ届けに来てくれたの。

 どうしておじいちゃんから渡されなかったのかな? って思ったけど、碇君が来てくれたからまあいいや。

 正式な楽譜になったのを記念して、碇君がピアノを弾きながら、私が一度歌ってみた。

 曲は変わらないのに、何だか感慨も新たっていう気がした。

 それからお母さんが入れてくれた紅茶を飲みながら、ピアノの横に置かれたテーブルのところで向かい合って座って話をしていた。

「何だか、少し変な気分だね。僕たちの作った曲が、こんな楽譜になるなんて」

「うん……」

 私はそう答えながら、じっと楽譜を見ていた。

 確かに、変な気分。でも、何だかすごい。

 手書きのものが活字で印刷されただけなのに、まるで音楽の教科書とかに載ったみたいな感じがする。

 私は一度楽譜を見直してから、その右肩に書かれた文字を見ていた。

 たくさん並んだアルファベットの中にある、数少ない漢字を。

『作詞:綾波レイ 作曲:碇シンジ』

 この楽譜は、碇君と私の絆。

 二人の名前が並んだこの楽譜は、私の一生の記念になると思う。

 できたら、碇君ともっとたくさんの曲を作ってみたい。

 できたら、『綾波レイ』じゃなくて、別の名字になって……

 でもそれは碇君のイタリア行きでどうなるかわからないんだけど。

 私がぼんやりと妄想していると、碇君がまた話しかけてきた。

「ネルフの人も、みんないい曲だって言ってくれるし。 まだ演奏会で弾いたことはないけど、きっと受けるって言われるんだ」

「そうなの。それは碇君が作ってくれた曲がいいからだよ、きっと」

「そ、そんなことないよ、綾波が書いてくれた詩がいいからだよ」

「な、何を言うのよ……でも、ごめんね、何度も詩を書き直しちゃって」

 私は歌詞の最後の方をどうするかで悩んでいて、何度か書き直したのだった。

 その度に碇君が作曲し直してくれて、すごく申し訳なかった。

 それに結局、一番最後の部分は最初に書いたとおりに戻しちゃったし。

「ううん、いいよ。……おかげで、綾波と話をする理由ができたし……」

 碇君はそう言ってちょっと赤くなった。

 そう、碇君はオフィシャルな口実がないと、私にあまり話しかけてくれないの。

 私たち、一応付き合ってるのに……

 でも、お互い恥ずかしがり屋だから、積極的に話とかできなくて……

「そ、そだね……」

 私もそう答えて少し赤くなってしまった。

 だいたい、私も碇君も、二人っきりで話をする機会があまりないんだもの。

 私たちは同時に紅茶を一口飲んだ。

「で、でも、最初の頃は、ほんとに作曲なんてできるかどうか、とても不安だったんだ。 初めは、詩を読んでても曲のイメージが湧かなかったし……でも……」

「でも?」

「でも、そ、その……あ、綾波のこと考えたら、急にイメージが湧いてきて……」

「な、何を言うのよ……」

 私と碇君はまたまた二人して真っ赤になって、お互いに視線を逸らしてしまった。

 こんな調子で私たち、いつになったら進展するんだろう?

「あ、で、でも、曲の最後の方だけは、結構時間がかかったんだ」

「最後って?」

「最後の……その文章が、その……」

 私はわかってるはずだけど楽譜を見直した。

 最後の文章……『I love you』だよね、きっと……

「そんな言葉……言ったことも、言われたこともないから、どんな風にして曲にしたらいいのか、わからなくて、その……」

 カァ〜

 私はその言葉を碇君に言われたときのことを思い出して、固まってしまった。

 うう、顔が熱いよぉ。耳まで赤くなってるんじゃないかしら。

「で、でも、自分で言ってみて、初めてわかったっていうか、その……」

「ごめんね……」

 私は消え入りそうなほど小さな声でそう言った。

「えっ? 何?」

 碇君には聞こえなかったみたい。

「あの……碇君に、言ってもらったのに……私、まだ、言ってないから……」

「そ、そんなつもりで、言った訳じゃ……」

「でも……」

 私が顔を上げると、碇君がじっとこっちを見ていた。

 二人で見つめ合っていたその時……

「紅茶のお代わりはいかがかしら?」

 ガタタッ

 お母さんが急に下から現れてそう言ったので、私たちはびっくりして慌てて視線を逸らしてしまった。

 碇君なんてピアノのところまで後ずさってしまってる。さっきの音は、碇君が椅子を鳴らした音。

「あらあら、どうしたの、二人とも。喧嘩でもしたの?」

 お母さんたら、何ニコニコ笑ってるのよ。

 ……まさか、ずっと見てたんじゃないでしょうね。

 でも、あり得るわ、お母さんなら……

「あ、は、はい、い、いただきます。ごちそうさまでした」

 あんまり慌てたので、碇君はしどろもどろになっていた。

「ほほほ、じゃあ、ごゆっくり」

 お母さんは紅茶を入れるとそう言ってまた下に降りていった。ハミングなんてしながら……

「…………」

 私たちはしばらく話もできなかった。

 何だか気まずい。もう、お母さんったら、タイミング悪すぎるのよ。

 せっかく私が……

「あ、あの、僕、もうそろそろ、帰らなきゃ……」

 私が考え事をしていると、碇君がそう言った。

 いつの間にかテーブルのところに戻って来ている。

「え? もう帰っちゃうの? 紅茶のお代わり入れたし、もう少しゆっくりしていっても……」

「うん、でも、もう夕方だし……」

 え? 嘘?

 私は慌てて辺りを見回した。

 そう言えば、薄暗くなってきている。

 いつの間にそんなに時間が経ったの?

「じゃあ……」

 碇君はそう言って立ち上がると、紅茶を一気に飲み干した。

 私も立ち上がって、階段のところまで碇君を見送る。そして今日のお礼を言った。

「あの……今日はありがとう。楽譜、届けてくれて……」

「う、うん……こうでもしないと、なかなか綾波に逢えないから……」

 そう言って碇君はまた赤くなった。

 じゃあやっぱり、楽譜届けてくれるっていうのは、私に逢うための……

 碇君と同じように私も赤くなってしまった。

「あ、あの、じゃあ……」

 碇君はそう言って階段を降りようとした。

 そんなの、ないよ。もう帰っちゃうなんて。

 だって、私、まだ……

「碇君……」

「えっ、何?」

 私は碇君を呼び止めて、振り返った碇君の顔をじっと見つめた。

 碇君もじっと私の方を見ている。

 言葉にはできないけど、態度でなら……

 私は……思い切って、目を閉じた。

「あ、綾波……」

 碇君はそう言ってじっと立ち止まっていた。

 でも、碇君は私が何を求めているか、わかってくれてると思う。

 しばらくしたら、碇君の両手が私の肩にかかって……

 それから、碇君が近づいてくる気配がして……

 碇君の息が聞こえるような気がして……

 ああ、心臓がドキドキする……

 もう少しで……


ジリリリリリリリリ………………


 え? 何? 何? 何の音?

 ……どうしてこんな時に、ベルが鳴るの?

 びっくりして目を開けると、碇君がいなかった。

 おまけに、辺りが真っ暗になっていて……

 一体、どうなっちゃったの……

 …………

 ……

 …



「…………」

 私は枕元の目覚まし時計を止めた。

 それから寝惚けた頭で考えた。

 ここは私の部屋……

 今日は夏休み……

 今は朝……

 そうか、じゃあ、さっきのは夢……

 何だ……そうか……つまんないの……

 でも、どうして夏休みなのに、目覚ましをかけたんだろ……

 その時、パタパタと音がしてお母さんが部屋に入ってきた。

「レイ、電話よ」

「あ、うん」

 私はお母さんから受話器を受け取った。

 誰からだろう? もしかしたら、碇君?

 あっ、そうだ、思い出した。

 今日は碇君が、綺麗に印刷された楽譜を届けてくれる日だったんだ。

 じゃあ……

 さっきの夢……

「あ、もしもし、綾波? 碇だけど」

「もしもし、碇君? おはよう!」

 正夢になると、いいな……

Fin.


Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions