「遅いな、綾波」

 僕は駅の前で、綾波を待っていた。
 試験の日から5日。今日は合格発表の日だ。
 試験当日は綾波と一緒に行けなかったけど(同じ電車には乗ったんだけど)、今日は一緒に見に行く約束をしていた。

 それにしても、遅いな。もう約束の時間を10分も過ぎてる。
 試験当日も女の子どうしの集合時間に遅れたらしいし、いったい何やってんだか。
 僕なんて、今朝は緊張のあまり早く目が覚めたっていうのに。

 その時、僕の肩を後ろから叩く人がいた。この叩き方は……
 頬をつつかれないように用心しながら振り返ると、綾波がいつものお気楽な笑顔を浮かべて立っていた。

「おっはよ、碇君」
「おはよう、綾波。って、遅れるなよな」
「えへへ、ごめんごめん。ちょっと準備に手間取ってね」

 そう言う綾波の服装はいつもと同じように見えるんだけど、いったい何の準備なんだか。
 髪の毛だって、寝癖で少し跳ねてるし。
 まあ、アスカと綾波曰く、僕にはファッションセンスがないらしいから、女の子が服装の準備で手間取ることに対して文句を言う資格はないそうだ。何か屁理屈にも聞こえるけど。
 それに、綾波の脳天気な……でも可愛い……笑顔を見ると、怒れないんだよな。

「とにかく、早く行こうよ。遅れると混むらしいから」
「うん、そうね。じゃあ、行きましょう」
「えっ、ちょ、ちょっと、綾波……」

 綾波が僕の手を取って走り出したので、僕はびっくりしてしまった。

「ほらほら、急がないと」

 そう言って綾波は駅の階段を一段飛ばしで駆け上がっていこうとする。
 自分が遅れてきたくせに、よく言うよな……でも、まあいいや。



サクラサク(後編)




 弐高の正門を通り抜けると、玄関の前の一角が大勢の人でごった返していた。
 ざわざわしてはいるけど、わーもきゃーも聞こえないから、発表はまだだったようだ。

「間に合ったみたいだね」
「うん、あ、ほら、今からみたいよ」
「あ、ホントだ」

 合格発表は、合格者の受験番号が書かれた大きな紙を壁に貼り出す、昔からよくある方式だった。
 学校の職員らしき人が、2階の窓のところで大きな巻紙を準備していた。
 窓の下には木の板が取り付けられている。あそこに貼り出すんだろうか。

「碇君は何番だっけ?」
「606番。綾波は?」
「330番。じゃあ、私の方が先に出るのかな?」
「そうかもね」
「それとも、男女別かしら」
「さあ? あ、出るみたいだよ。ほら」

 職員の一人が紙の端を板に鋲か何かで固定すると、もう一人が巻紙を延ばし始めた。
 番号が漢数字で縦に書かれている。
 昔ながらのこの方式は、やはり何となくドラマチックだ。
 ところどころ番号に抜けがあるのが哀れを誘う。
 あちこちから歓声や悲鳴が聞こえ始めた。

 ちなみに、毎年受験番号1番の人は落ちているらしい。
 そして今年もそのジンクスは守られたようだ。ご愁傷さま。
 1枚目の巻紙が全部延ばされたが、200番の手前で終わっていた。
 どこからともなくため息が広がる。
 確かに、これは緊張感充分だ。

「えーっと、まだ300番台は出てないわよね……」

 綾波の声は震えてるようにも聞こえた。
 緊張……してるのかな。まあ、僕も緊張してるけど……

「そうだね。次の紙みたいだよ」
「ううー、ドキドキするよぉ」

 綾波はそう言うと、僕の左腕を両手でぎゅっとつかんできた。
 おかげで合格発表とは別の意味で僕は心臓がドキドキしていた。
 綾波の横顔をちらっと見てみる。
 その紅い瞳に不安の色が混じって見えた。
 普段は見られない緊張した綾波の表情を見て、心臓の鼓動がさらに高まった気がした。

 あわてて視線を前に戻す。
 2枚目の紙がするすると延ばされていくところだった。
 まだ200番台……もうすぐ300番台……来た、300番台……310番……320番……
 神さま、仏さま、天満宮の菅原道真さま、綾波が合格してますように……
 僕は手を合わせてその瞬間を待った。
 さっきからずっと番号が続いてる……何だかいやな予感がするんだけど……

 ……あった! 『三三〇』!

「綾波! あった! あったよ!」
「えっ? どこ? どこ?」

 綾波は自分の番号が出そうになった瞬間、目をつぶってしまったらしい。
 そしてあわてて目を開けて自分の番号があるのを確かめようとしている。
 ちょっとパニックになってなかなか見つからないみたいだったが、ようやく見つけたようだ。

「あっ、ほんとだ! あった! きゃーっ、やった、やったーっ!」
「ちょ、ちょっと、綾波……」

 喜んだ綾波がいきなり僕に飛び付いてきたので、僕はびっくりした。
 つかまれた左腕をブンブン振り回されて、思わずよろけてしまう。
 綾波の顔は、半分喜んでいるような、半分泣いているような、初めて見る複雑な表情だった。
 よかった、綾波が合格できて。さあ後は僕だけだ……

「あ、ごめん、一人で喜んじゃって……碇君のまだだったよね。ごめんなさい」

 やっと飛び跳ねるのをやめて、目の端に浮かんだ涙を拭っていた綾波が、急にまじめな表情になって僕に言った。
 少し申し訳なさそうな顔をしている。
 こんなしおらしい綾波を見たのも初めてだ。
 今日はいろんな表情を見るなぁ……いや、そんなこと考えてる場合じゃない。

「うん、いや、いいよ。綾波が合格してて、僕もほんとにうれしいよ」
「うん、ありがとう……碇君も、合格してるといいね。一緒に弐高行こうね。もしダメだったら……」

 あ、綾波、そんな不吉なこと言わなくても……でも、ダメだったら、何?

「滑り止めで受けた私立に、一緒に行ってあげる」
「え……」

 確かに、僕と綾波は滑り止めに受けた私立高校も同じで、二人とも合格したんだけど……
 本気で言ってくれてるんだろうか。でも、目は真剣だし……

「綾波……ほんとに?」
「……嘘」

 綾波はそう言って笑った。な、何だよ、期待させといて……

「ひ、ひどいや、綾波……」
「うふふ、ごめんね。でも、合格しなかったときのことなんて、考えない方がいいわ。大丈夫、私が合格したんだから、碇君も絶対合格してるって」
「う、うん……」

 綾波が自信たっぷりにそう言うと、何だか僕もそんな気がしてしまう。
 相変わらず綾波って、僕をペースに乗せるのがうまいな……

「ほら、碇君、もうすぐだよ」
「えっ、あっ」

 綾波と話をしている間に、3枚目の巻紙が終わって、4枚目が延ばされようとしていた。
 606番……あるなら、すぐに出てくるはずだ……
 紙の端を鋲留めしているのか、なかなか番号が見えない。
 うあ、何だか、胃が痛くなりそう……

「ああっ!」
「あーっ!」

 僕と綾波は、二人同時に声を出していた。そして、顔を見合わせた。
 そして、ほんの一瞬だけ止まっていた時間が再び動き出す。

「あったーっ!」
「きゃーっ! やったーっ!」

 『六〇六』……4枚目の巻紙の、先頭の番号だった。
 僕は身体全体で喜びを表現しようとしたが、綾波に正面から抱きつかれてしまっていた。
 ちょ、ちょっと、綾波……
 僕は胸に当たる柔らかい感触に思わずドキドキしてしまった。
 あわてて辺りを見回したが、みんな自分のことしか頭にないらしく、誰もこっちを見ていない。
 よ、良かった、誰にも見られてなくて……いや、そうじゃなくて……
 しばらくして綾波はやっと僕から離れたが、なぜか下を向いたままだった。

「あ、あの、綾波……」

 どうしたの? と訊こうとしたとき、綾波が顔を上げた。
 そしていつものような明るい笑顔で僕を見てくれた。

「良かった……良かったね、碇君……」
「あ、綾波……」

 綾波の目が、また少し潤んでいるように見えた。
 そ、そんな、泣いてくれなくても……

「だって、ホントに良かったって思って……一緒に行けるなんて、うれしいから……」

 えっ、それって、どういう……

「だって、一人じゃ寂しいし……」

 な、何だ、そう言うことか……僕は少しがっくりした。
 まあいいか、これであと3年間綾波と一緒なんだし……
 そうだ、卒業するまでに、何としても綾波に告白するぞ。
 いや、それより、明日のホワイトデーが先だな……



「えー、そういうわけでぇー」
「どういうわけなんだー」
「じゃかぁしゃい、だーっとれい! えー、ほな、ワシら全員の公立合格を祝して、かんぱーい!」
「かんぱーい!!!!!!」

 カチン!
 グラスのふれあう音が心地いい。
 私はグラスにつがれていたシャンパン風ジュースをぐーっと飲み干した。
 炭酸の泡が喉に心地良くっておいしい!
 それから思わずみんなで拍手。
 パチパチパチ……

「さあっ、食うでー!」
「食べましょー!」
「いただきまーす!!!!!」

 私はお箸を持つと、テーブルの上の料理を見渡した。
 ううっ、どれもおいしそう……目移りしちゃうよぉ。
 今日は私たち7人の合格お祝いパーティー。会場は碇君の家のリビング。
 おばさまがお祝いしましょうって言ってくれて、料理まで用意してくれたの。

「いやー、しかし、ほんまにみんな通ってしもたなぁ。一人くらい落ちるんやないかと思っとったんやけど」
「あら、アタシは落ちるならアンタだと思ってたけど」
「アホぬかせ、いくらワシでも、参高くらいは通るわい!」
「ス、スズハラ、みんな通ってたからいいけど、一人でも落ちてたら洒落になってないわよ」
「わかっとるがな、いいんちょ。いくらワシでも、そんな時は冗談は言わんて」

 いやー、冗談抜きで、実は一番通りそうになかったのは、私なのよねー。
 試験の次の日、新聞見ながら答え合わせしたんだけど、去年の合格最低点に10点も足りないんだもの。
 もー、ほんとに、食事が喉を通らないくらい落ち込んだわよ。

「ああっ、ちょっと、鈴原君、ヒレカツばっかり食べないでよっ!」
「ったく、アンタは食い意地が張ってるんだから!」
「まだ3つしか食べてへんわい。えーやないか、ぎょーさんあるんやから」
「もー、先にキープしとこ。ヒカリー、そっちのマカロニサラダ取ってー」
「うん、じゃ、私にはそっちのお寿司取ってくれる?」
「はいはーい。これくらいでいい?」

 ま、結局はボーダーラインすれすれだったってことがわかったんだけど、ほーんと参っちゃった。
 自己採点、厳しすぎたのかしらね。部分点はほとんど付けてなかったもの。
 まあいいわ。昨日の合格発表の夜から、食欲も戻ったことだし。

「それより、相田が壱高通ったのが一番びっくりしたわ」
「ふん、俺だって、やるときゃやるのさ」
「何よ、補欠合格じゃない」
「いいだろ、別に。補欠でも通れば勝ちなんだよ」

 そうそう、相田君は合格発表の時には番号がなかったんだって。
 でも、合格者が併願の私立に流れて人数が足りなくなったときのための補欠枠に滑り込んだらしいの。
 で、相田君はそのトップだったっていうから、何のことはない、次点だったということね。
 まだ正式の合格ではないんだけど、毎年何人かは確実に補欠で合格できるから、相田君は当確ってわけ。

「で、噂の家庭教師は今日はお祝いに来てくれないの?」
「うるさいな、平日の夕方はバイトなんだよ」
「ふーん、例のカメラ屋?」
「惣流、いい加減にしないと、例の写真……」
「わ、わかってるわよ、うっさいわねっ!」

 あらあら、うるさいのはどっちなんだか。
 ま、今日は平日だもん、しょうがないわね。
 学校が休みなのは私たち受験生だけだし。
 そういえば後は卒業式とその練習に行くだけなんだなー。

「はーい、新しい料理できたわよー」
「あ、おばさま、ありがとうございます」
「うわーっ! おいしそう!」
「おお、これは何ちゅう料理でっか?」
「豚肉のブルーチーズソースよ。匂いがダメな人、いる?」
「いやあ、とってもいい香りですよ。おばさんの料理はどれもすばらしいですね」
「あら、ありがとう、渚君。そういえば、壱高、トップ合格ですって? おめでとう」
「いえ、運が良かっただけですよ」
「満点合格やて。嫌味なやっちゃで」
「鈴原、何僻んでんのよっ」

 あらあら、アスカが渚君をかばうなんて。
 トップ取られたの、悔しくないのかしらねー。
 ま、鈴原君と言い合ってる間に、私はお料理を……

「か、母さん、これは……」
「あら、シンジ、どうしたの?」
「またシャンパンじゃないか! どうしてこんなものを……」
「いいじゃない、こんなおめでたい日くらい。明日も休みなんでしょ?」
「それはそうだけど……」
「そうです、おばさま、中学生はお酒なんて飲んじゃ……」
「まあまあ、いいんちょ、そんな堅いこと言わんと」
「で、でも、私には委員長としての責務が……」
「その仕事ももうすぐ終わりやないかい。今日くらいは目ぇつぶっときぃな」
「え、ええ、でも……」
「んもー、ヒカリったらお堅いんだから。ほらほら、アタシが注いであげる」

 アスカにヒカリにグラスを押しつけると、そこにシャンパンをなみなみと注いでしまった。
 ヒカリは困ったような顔でグラスの中を覗いていたが、アスカが手で『ぐーっといっちゃえ!』の仕草をするので、しばらく香りをかいでいた後で、薬でもなめるように飲み始めた。
 でも、一口二口飲んだだけで、また心配そうにアスカの顔を見ている。

「ヒカリー、そんなにちびちび飲んでたら、味わかんないわよ?」
「で、でも、アスカ、私やっぱりお酒は……」
「もー、今日だけって言ってるでしょ! じゃ、それ一杯飲んだら許してあげるわ」
「…………」

 あーあ、もう、アスカも強引ねー。許すも許さないもないわよ。
 でも、ヒカリも言うこと聞いちゃうから……ほら飲み始めた。

「ほらほら、飲めるじゃない。すごいすごい。じゃ、次、レイね」
「はーい、ありがと……」
「……ぷはっ、はあっ……」

 っと、私が注いでもらっている間に、ヒカリはシャンパンをグラス一杯飲み干してしまった。
 そしてそのまま、空になったグラスの底を見つめてじっとしている。
 ちょっと息が荒くなってるわね。急性アルコール中毒で倒れなきゃいいけど。

「じゃあ、アスカお返しね」
「あ、ありがと……っとっとぉ!」
「次は男子に注いであげるから、グラス開けといてねー」
「おっしゃあ!」
「よし来た!」

 私はアスカに注ぎ終えると、鈴原君、相田君、渚君とグラスをシャンパンで満たしていった。
 でも碇君だけは、グラスにジュースを入れたままだった。

「ほらほら、碇君も」
「いや、僕は……いいよ、ジュースで」
「何や、付き合い悪いのォ、シンジ。こんな時にええ子になってどないするっちゅうんや」

 鈴原君はそう言って私からシャンパンボトルを奪うと、碇君の前にぐいっと差し出した。

「ほら、シンジ、ワシが注いだるから飲めや」
「いや、でも……」
「何や、ワシが注いだ酒が飲まれへんっちゅうんか?」
「そ、そういうわけじゃ……」
「ほなら、一口だけでも飲まんかい」
「もー鈴原ったら、柄悪いわねー」
「ス……スズハラッ!」

 なんか酔っぱらいの中間管理職が飲めない新入社員をいじめてるみたいだったので、思わず止めに入ろうとしたら、アスカとヒカリに先を越されてしまった。
 でも、ヒカリ、ちょっと声大きくない?
 それに、目が異常に真剣……あ、あれ? 何か変よ?
 ヒカリはじとーっと鈴原君を見つめていたと思ったら、すっとグラスを持った手を差し出して言った。

「……スズハラ」
「何や、どないしたんや、いいんちょ」
「……注いで」
「へ!?」

 ヒ、ヒカリ……目が、据わってる……
 言われた鈴原君も呆然。アタシたちも固まってしまった。
 ヒカリは鈴原君の目の前にグラスを突きつけながら続けた。

「……注いでって言ってるのよ、スズハラ、聞こえないの?」
「いや、あの……」
「……いつもお弁当作ってあげてるのは誰?」
「あ、は、はい、注がしていただきます……」

 うそ……ヒカリって、まさか……酒乱?
 (それとも、絡み酒って言うのかしら?)
 たじたじとなった鈴原君がヒカリのグラスにシャンパンを注ぐと、ヒカリはそれを一息でこくこくと飲み干してしまった。な、何て強いの……

「ふう……」

 ヒカリはシャンパンを飲み干すと一息ついて、空になったグラスを見つめながら薄く笑っている。
 目がとろーんとしてきて……これはちょっと、まずくない? どうすんのよ、アスカ……

「……スズハラ」
「は、はいぃっ!」
「……もう一杯ちょうだい」
「は、はい、どうぞ……」

 もはや鈴原君はヒカリの言いなり。
 震える手でシャンパンをヒカリのグラスに注いでいる。

「やれやれ、トウジ、これから先、苦労しそうだな」

 相田君が眼鏡を光らせながら、一人でぼそぼそと呟いていた。
 でも相田君……これってたぶん、他人事じゃないわよ?
 だって、相田君が付き合ってるのは……

「……スズハラ、足りないわよ」
「そ、そない言うたって、もうこれ、空やし……」

 鈴原君がそう言いかけたとき、明るくよく通る声が部屋に響いた。

「シャンパンお代わり、いる?」

 振り返ると、そこにはシャンパンボトルを両手に一本ずつ持ったおばさまが……
 ど、どうしてそんな楽しそうな顔してるんですかぁっ!?

「あ、おばさま、ありがとうございまーす」

 私が『いやーんな感じ』のポーズで固まっていると、アスカが立ち上がってシャンパンボトルを受け取った。
 そして手早く栓を開けている。
 私は我に返ると、あわててアスカの側に寄って囁いた。

「ちょ、ちょっと、アスカ、これ以上ヒカリに飲ませるつもり?」
「いいえ、アタシが飲むのよ」

 へ? それはどういう……

「アタシたちにはもう、ヒカリを止めることはできないわ。それなら、アタシたちも酔っぱらうしかないじゃない!」

 ちょ……ちょっとぉ、そんなのってありぃ!?



「きゃはははーっ! そうだったんだぁ、おっもしろーいっ!」
「そうなのよー、それでその時、シンジったらねー……」
「あはあははーっ! へー、それから、それから?」
「でさー、この後がまたシンジってばさー……」

 パーティーが始まってからもう2時間くらい経っている。
 さっきから綾波とアスカはずっとこんな調子で話し合っていた。
 二人して大笑いしてるんだけど、僕はちっともおかしくない。
 どうもさっきから、アスカは僕の昔の恥ずかしい話ばっかりしてるんだ。

 委員長はあの後コテッと倒れちゃって、今はトウジにもたれかかりながら寝ている。
 そのトウジは、さっきからケンスケと何やら真剣な顔して話し込んでいた。
 (まあ、トウジはその間にも料理の残りをパクついてるんだけど)
 たまに、二人でため息ついたりなんかして。いったい何を話してるんだか。

 で、僕はカヲル君と話をしてるんだけど、隣で僕の名前がじゃんじゃん出てくるので、気になって仕方ない。
 全く、みんなして酔っぱらっちゃって……飲んでないのは僕だけだな。
 でも、カヲル君はさっきからたくさん飲んでるのに、どうして酔ってるように見えないんだろう?

「どうしたんだい、シンジ君。浮かない顔をしてるね」
「あ、いや、別に……」

 僕がそう言うと、カヲル君はちらりと綾波とアスカの方を見てから言った。

「二人の話が気になるのかい?」
「え……う、うん、少しね」
「ガラスのように繊細だね、特に君の心は」
「……僕が?」
「なーに言ってんのよ、全くアンタは」

 と、その時、アスカが僕たちの間に割り込んできた。綾波も一緒だ。
 そしてアスカは、僕にシャンパンボトルを差し出しながら言う。

「ほらシンジ、アンタも飲みなさいよ」
「いや、僕は……」
「このアタシが言ってんのよ。さっさとグラス開けなさいよ」
「でも……」
「まーったく、どうしてアンタはいつもそうなの? ほら、飲みなさいよ」

 アスカは僕の鼻先でシャンパンボトルをぐるぐると回しながら言った。
 どうしてアスカって、いつもこう強引なんだ……いくら酔っぱらってるって言っても……
 僕はちょっとむっとして答えた。

「どうしてアスカはいつも僕にそうやって命令するんだよ」
「命令なんてしてないわよ、シャンパン飲みなさいって言ってるだけじゃない」
「それが命令なんじゃないか」
「何よ、アタシの言うこと聞いて、アンタ今まで損したことあった?」
「あったよ。さっきアスカが話してたことだって、みんな……」
「あれはアタシの言うとおりできないアンタが鈍くさいからでしょ」
「わかってるなら、僕にできないこと勧めなきゃいいじゃないか!」

 僕がその言葉を言うと、今までふざけ半分だったアスカの目が、急にキッとなった。
 うっ、また怒られる……でも、今日という今日は引かないぞ。僕にだって、言い分はあるんだ。
 アスカのまくし立てる言葉に、僕は懸命に言い返していった。

「アンタ、いつまでも何にもできないつもり?」
「違うよ! 僕だって、何でもやろうと思ってるさ!」

 そうだよ! 僕がやろうと思ってる側から、アスカはいつも口出しして……

「嘘ばっかり! アタシが言わなきゃ、何にもできないくせに!」
「そんなことないよ! だいたい、アスカの言うとおりにして、危ない目に遭ったことだってあったじゃないか!」

 そうだよ! 泳げなくなったのだって、アスカのせいなんだ!

「だから、アタシがいつもフォローしてあげたじゃない! アンタ、みんな忘れちゃってるの?」
「もういいよ! 僕はアスカの人形じゃない!」

 そうだよ! いつまでも言いなりになってなんて、いられないんだ!

「ア、アンタねぇ……」

 アスカはそう言うときつい目で僕を睨んだ。
 これはまた叩かれるのか……くっ、でも、ひるむもんか。
 奥歯をぐっと食いしばっていると……なぜだか、アスカの僕を見ている目が潤んできて、そして……

 涙が……つーっと……頬を、伝い落ちた……

 アスカ、まさか……泣いてるの?



 それはいつもの『夫婦喧嘩』より、少し派手かな、という感じだった。
 私は口を挟むこともできず、ただ黙って眺めているだけだった。渚君も。
 ダイニングにいるおばさまも、仕事から帰ってきたおじさまも、二人のことをじっと見ていた。
 鈴原君も相田君も話をやめて、眠っていたヒカリも起き出して。

 そのみんなの見ている前で……アスカが、泣いてる……
 アスカ……どうしちゃったの……
 私はすっかり酔いも醒めて、アスカの泣き顔に見入っていた。

「アンタ……何にも、わかってないじゃない……」

 青い瞳を涙でいっぱいにしたアスカが、震える声で言った。

「ア、アスカ……どうしたの?」

 あまりのことに、碇君の顔色も変わっちゃってる。
 アスカが泣いてるところ、初めて見たの?

「アタシは……アタシはね、アンタのことが……」

 アスカはシャンパンボトルを床に置くと、右手で涙を拭った。
 そして、涙を見せたくないかのようにうつむく。
 床に向かって、絞り出すような声で言った。

「アンタのことが……心配なのよ……ドジで……グズで……」
「…………」
「鈍感で……情けないアンタのことが……ほんとに心配なんだから……」
「…………」
「だから、今まで構ってきてあげたのに……こんなに心配してあげたのに……」
「ア、アスカ……」

 泣いているアスカに、碇君は何もできなかった。
 でも、もし何かしようとしたら、アスカがはねつけていたかもしれない。
 アスカの泣く姿は、それくらいの迫力があった。
 みんなただ黙って、アスカの言葉を聞いているだけだった。

「……でも……でもね、アタシは……」
「…………」
「……アタシは、もう……アンタのこと、見てあげられないのよ……」
「…………」
「……今までも、これからも……ずっと……」
「…………」
「……ずっと、アンタの面倒、見てあげようと思ってたのに……」

 また涙を拭うアスカ。
 涙声が本当に悲しそうだった。

「……でも……ダメなの! ……もう見えないの! アンタのこと……だって、アタシは……」
「…………」
「……アタシは……もう……」
「…………」
「……もう、他の人に……心……」
「…………」
「……アタシの、心……奪わ、れ……」

 そこから先は、もう言葉にならなかった。
 両手を床について、前屈みの身体を支えるようにしていたアスカは、ふっと手を折ると、そのまま床に突っ伏して泣き出した。
 私たちの見ている目の前で。
 ただもう、子供のように泣きじゃくっていた。

 私は、救いを求めるように周りに視線を走らせた。
 おばさまと目が合った。
 私を見て、ふっと表情を緩めたけど、小さく顔を横に振るだけだった。
 何もできない……ううん、何もしてはいけないの? 私たち……
 ……どうすればいいの?
 部屋にはアスカの泣き声だけが続いていた。

「……もう、いいのかい?」

 みんなの沈黙を破ってそう言ったのは、渚君だった。
 アスカの肩に優しく手を置いて。
 しゃくり上げるようにして泣いていたアスカが、身体を起こす。
 そして、手で涙を拭いながら、小さくうなずいた。
 そう……やっぱり、そうだったの……

「……ありがと、カヲル……もう……」

 そして渚君の差し出してくれたハンカチで目元を隠しながら言った。

「……もう、いいから……」

 それを聞いて渚君は黙ってうなずくと、おばさまの方に顔を向けた。
 おばさまは小さくうなずくと、優しい笑顔でみんなを見回しながら言った。

「そろそろ、お開きにした方がいいかしら?」
「あ……ああ、そ、そうですなぁ……もうだいぶ長いこと、お邪魔してもうたようやし……」
「そうだ、俺、そろそろ家に帰って電話しなきゃ……」
「わ、私も、明日のお弁当の用意が……」

 おばさまの言葉に弾かれたかのように、みんなはバタバタと帰り支度を始めた。
 私は上着に袖を通しながら、まだ座り込んでいるアスカと碇君と渚君を横目で見ていた。
 碇君……どうするの? これから……



「今日は、ほんまにごちそうさんでした」
「お邪魔しました」
「それじゃ、失礼します」
「はーい、また遊びに来てね」

 トウジとケンスケと委員長が帰っていった。
 母さんがそれを見送っている。
 ダイニングでは、父さんが新聞を読んでいた。
 いつの間に帰ってきたんだろう。気づかなかった……

「おばさま、どうもすいませんでした。せっかくのパーティーを白けさせちゃって……」
「ううん、気にしないで。また、たまには遊びに来てね」
「はい、そうします」

 アスカが洗面所から出てきて、母さんと話をしながら玄関の方に歩いていく。
 顔を洗っていたようだ。
 笑顔を見せてるけど、何だか元気がない……
 僕は後からついていって、玄関でアスカに声をかけた。

「アスカ、あの……」
「何?」

 靴を履いていたアスカが、顔を上げて僕の方を見た。
 前髪が少し濡れているせいだけじゃない。アスカじゃないみたいな表情だ……

「あの……さっきは、その……ごめん、言い過ぎたよ……」
「いいのよ、もう……アタシもちょっと……感傷的になってただけから」

 アスカはそう言って、少し僕に笑って見せた。
 僕はどんな顔をしていいのかわからなかった。
 アスカの言うとおり、情けない僕だから……
 アスカの複雑な心を、ついにわかってあげることのできなかった僕だから。

「それじゃ……またね」
「あ、うん……」
「じゃ、おばさま、失礼します」
「今日はどうもありがとうございました」
「はーい、二人とも気を付けてね」

 アスカとカヲル君は母さんに挨拶をすると、自動ドアを開けて外に出た。
 が、アスカは顔だけ出して、手招きしながら僕を呼んだ。

「シンジ、ちょっと……」
「えっ、何?」

 僕はサンダルを引っかけると、呼ばれるままにドアの外に出た。
 外はもう真っ暗だ。風がひんやりと冷たかった。
 でも、冬の寒さじゃない。少し湿り気を含んだ、春の風を感じた気がした。

「シンジ、アンタ……」

 アスカが僕に向かって話しかける。
 それは今までのアスカとは全く違う表情のような気がした。
 何というか……これまでにない、優しい表情に見えた。
 僕はアスカをぼんやりと見つめながら、黙ってアスカの言うことを聞いていた。
 カヲル君は、廊下の少し先でポケットに手を入れて僕たちのことを見ていた。

「アンタ……アタシがいなくても……もう大丈夫よね?」
「えっ……」

 アスカの言葉の意味が一瞬わからず、僕は何も答えられないでした。
 でもアスカは僕の方をじっと見ながら、僕の答えを待っていた。そんな風に見えた。
 僕はその言葉の意味を、一生懸命考えていた。
 アスカがいなくても、僕は……

「うん……大丈夫だよ、きっと……」

 本当は、少し自信がなかった。
 でも、もうそんなこと言えない。言っちゃいけないんだ。
 そう、逃げちゃダメだ……

「そ、よかった」

 アスカはそう言ってにこやかに笑った。
 何だか、そんな笑顔を久しぶりに見たような気がした。
 遠い記憶にあるような……
 そんなことを考えていると、アスカの右手がすっと伸びてきて、僕の顔にふれた。
 そしてそのまま頬を優しく撫でる。
 そうしながら、アスカは僕の顔をじっと見つめていた。
 僕はアスカの仕草の意味もわからずに、ただ立ちつくしていた。

「それじゃ、ね」

 そう言ってアスカが僕の前から一歩退いたときには、アスカは以前の笑顔に戻っていた。
 僕を小馬鹿にするような、でもどこか頼りになる笑顔に。

「そうだ、シンジ」
「えっ、何?」

 振り返って歩き出そうとしたアスカが、回れ右して僕の方を見た。
 そして右手の人差し指でびしっと僕の方を指しながら言った。

「うまくやんなさいよ!」
「えっ!?」

 それって……どういう意味だろう?
 呆然とする僕を置き去りにして、アスカは手を振りながら廊下を歩いていった。
 カヲル君と楽しそうに話をしながら。



「あー、苦しかった……」

 洗面所で口をゆすいだ私は、鏡を見ながら呟いていた。
 帰り際にお手洗いにでも、と思って入ってたら、急に気分が悪くなって……
 戻しそうになったんだけど、出ないのよ、これが。
 胃液だけが逆流してくるつらさは、想像を絶するものだった。
 おばさまが気付いて背中をさすってくれて、やっと楽になったんだけど……

「大丈夫? 戻した方が楽なんじゃない?」
「あ、いえ、もう大丈夫です……」
「ごめんなさいね、私が調子に乗ってお酒勧めちゃったから」
「いえ、そんなぁ、私が浮かれて飲み過ぎただけですから……」

 ダイニングでそんな会話をしながら、おばさまにもらった胃薬を飲んでいると、碇君が戻ってきた。
 お見送りにでも行ってたのね。

「あれ、綾波、どうしたの?」
「うん……ちょっと気分悪くなっちゃって」
「えっ、そうなの? 大丈夫?」
「あ、うん、もう平気だから。それじゃ私、帰るね」

 私が碇君にそう言っていると、おばさまが横から声をかけてくる。

「あら、もう少しゆっくりしていったら?」
「いえ、夜風に当たった方が、気分が良くなりそうですから」

 私はそう答えて立ち上がると、玄関に向かった。
 後ろから碇君とおばさまがついてきてくれた。

「すいません、今日は本当にお世話になりました」
「いえいえ、お構いなく。また遊びに来てね」
「はい、ありがとうございます。じゃ、碇君、またね」
「うん、また……あっ、ちょ、ちょっと待って」

 碇君はそう言いながらバタバタと家の中に戻っていく。
 しばらくして戻ってきた碇君の手には、白い包装紙にピンクのリボンがかかった箱が握られていた。
 あ、そーゆーことね。

「あの……これ、こないだの、お返し……」
「あ、うん、ありがとう」
「その……義理でも、うれしかったよ」
「…………」

 ニコニコしながら箱を受け取った私だったけど、碇君の最後の言葉で、いっぺんに暗い気持ちになってしまった。
 そうか……そうよね。気持ち、伝わってなかったんだった……
 どうしよう……言った方がいいのかしら……
 私がうつむき加減になってじっと箱を見つめていると、碇君が声をかけてきた。

「あの……どうしたの?」
「えっ?」
「それ……やっぱり、気に入らないかな……」

 自信なさそうな声。
 私が悩んでるのに、全然違うこと心配してるのね。
 アスカが碇君を心配していた気持ち、わかった気がする……

「ううん……そういうことじゃなくて……」

 やっぱり……はっきり言わなきゃわからないの? でも……
 うつむいていた私は、ぱっと顔を上げて碇君の方を見た。
 碇君は不思議そうな顔で私の方を見ている。
 はっきり言わなくても、わかって欲しいのに……
 私は少し寂しい気持ちになって、碇君から視線を逸らしながら言った。

「碇君……碇君ってさ……」
「えっ、何?」
「ほんとに……鈍感なんだね……」
「え……」
「あれ……義理じゃないよ……」
「えっ?……」
「それじゃ!」

 私はそれだけ言うと、振り返って廊下を駆け出した。
 後には碇君の驚いた声だけが残っていた。
 エレベータに乗ったら、なぜだかどっと涙があふれてきた。



 碇君の住むマンションを出てから、どこをどう歩いているのか、自分でもさっぱりわからなかった。
 外は細かい春の雨が降り始めていた。
 寒い。少し、冷えてきたのかもしれない。
 でも、私にはどんなことどうでもよかった。

「バカ……」

 碇君の、バカ。
 私のことなんて、何にもわかってくれないんだから……
 でも……

(バカ……)

 私の、バカ。
 どうしてさっき、あんなこと言っちゃったのかしら……
 碇君は確かに鈍感だけど、元はといえば私のせいじゃない。
 私がはっきりしなかったから……

 それに、あんな言い方しなくてもよかったのに。
 いつもみたいに、冗談めかして言えばよかったのに。
 笑顔で普段の私を演じていればよかったのに。
 そうすれば……

 …………

 でも、そうしたら……私の想い、永久に伝わらない……

 私……私、どうしたらいい?
 アスカ……ヒカリ……ミサト先生……
 相田君、鈴原君、渚君……

 …………

 ……碇君……

「……あやなみーっ!」

 ……え?
 あの声。
 碇君……?

「あやなみーっ! 待ってよ!」

 振り返って後ろを見る。
 碇君が傘を持って、私の方に走ってくる。
 碇君……どうして……
 まさか……さっきのこと?
 でも……だめ!

 気が付くと私は駆け出していた。
 まるで碇君から逃げるように。

「綾波っ! 待ってよ!」
「やだっ!」
「どうしてっ!?」
「どうしてもっ!」

(な、なんで、私、逃げてるの?)

 自分のやっていることがわからないままに、私は走っていた。
 ど、どうして逃げなきゃいけないんだろ……
 でも、今は碇君に顔を合わせられない!
 何だか、そんな気がするから……

「綾波っ! さっきのことだけどっ……」
「もういいわよっ!」
「よくないよっ!」
「いいったらいいんだってばぁっ!」

 いつの間にか、自分のマンションの前も通り過ぎていた。
 見たことがあるようなないような町の中を、私は駆け回っていた。
 碇君はなかなか追いついてこない。
 脚は私より少し速いはずなのに。
 もしかしたら、傘を持ってるからかも……

「ええい、くそっ!」

 後ろの方で、がささっと音がした。
 碇君が傘を捨てた?
 追いつかれちゃう……
 そう思って脚を速めようとしたとき、胸にこみ上げてきた物があった。

「うぷっ!」

 気持ちわる……まだ、さっきのが残ってたのね。
 走ったおかげで、胃袋がひっくり返りそう……
 苦しくて走れなくなった私は、近くにあった電信柱に駆け寄ると、そこにもたれかかるようにしてしゃがみ込んだ。
 ぐっ、だめ……治まらないわ……

「綾波……はあ、はあ……」

 やっと追いついてきた碇君が、私の後ろに駆け寄ってきて、同じようにしゃがみ込んだ。

「はあ、綾波、ごめん、はあ……」
「…………」
「その……はあ、はあ、綾波の気持ち、わかってあげられなくて……」

 碇君は息を切らせながら、私に話しかけてくる。
 でも、私は返事さえできなかった。
 苦しさのあまり。
 うえ……またこみ上げて来ちゃった……まずいわね……

「綾波……聞いてよ……」
「…………」
「……泣いてるの?」

 苦しいんだってば!

「ごめん……僕のせいで……」
「…………」
「僕が鈍感だったせいで、綾波を……」

 そ、それはもういいから〜……もう、碇君の鈍感!
 でも、私の心の言葉に碇君が気付くはずもない。
 しばらく間をおいて、碇君が大きな声で言った。

「綾波! ごめん! はっきり言うよ!」

 そう言いながら碇君は、私の肩に手をかけて、無理矢理振り向かせようとした。
 私は必死でそれに抵抗する。
 だって……もう限界なんだもん!

「綾波、僕は……僕は、ずっと前から、綾波のこと……」

 ちょ、ちょっと……碇君……そんなに肩揺らさないで……
 く、苦し……うぷっ

「綾波っ!」
「うえ……」
「わあっ!!!」



 ピンポーン
 玄関のチャイムが鳴った。

(来た!)

 私はそう直感した。たぶん、間違いない。確か今日来る予定だった。

「はーい!」

 私は元気よく返事をして玄関に向かった。
 玄関の覗き穴から外を覗く。うん、間違いないわね。
 でも、一応声でも確認してみる。これも一人住まいの女の子のたしなみの一つよね。

「どちら様でしょう?」
「宅配便でーす」

 ガチャ、カチャ
 私は鍵を外してドアを開けた。
 果たしてそこには間違いなく宅配便の制服に身を包んだお兄さんが立っていた。
 あら、ちょっと渋い感じね。でも、その長髪と無精ひげ、何とかした方がいいわよ。

「こちらにハンコをお願いします」
「ごくろうさまですー」

 私は受領証にハンコを押してお兄さんに返してあげた。
 このためにわざわざ朝からハンコを玄関の下駄箱の上に置いておいた甲斐があったというもの。

「ありがとうございましたー」

 階段を下りていくお兄さんに愛想笑いを振りまくと、私は宅配便の箱を持って部屋の中に入った。
 結構大きい箱ね。
 そして送り元の名前を確認する。うん、間違ってないわね。
 ああ、やっと来たのね、うれしい……
 私はリビング(と言ってもワンルーム)の床に座り込み、テーブルの上に宅配便の包みを置くと、裏の閉じ合わせのテープをはがそうとした。

 と、取れない……私ったら、何を緊張してるのかしら。
 えーい、爪を引っかけて……昨日切らなきゃ良かったなぁ……あ、あら、包み紙が破れちゃった。
 どうしましょ。うん、もういいわ。
 いつもはこういうのは丁寧にはがすんだけど、今日は景気よく行っちゃえ。そーれ、っと。

 破いた包み紙の中から、箱を取り出す。
 ああ、いよいよね。でも、どうしてこんなに緊張するのかしら。
 箱の蓋を持って、せーのでパッと開ける。
 やったぁー、これこれ、これが欲しかったのよー。

 箱の中には、真新しい弐高の制服が丁寧に畳まれて収められていた。
 私は目をうるうるさせながらその制服に見入っていた。
 ああ、菅原道真さま、碇君のおじさま、京都のおじさまおばさま、ありがとう!
 私に、こんな素敵な制服を与えてくれて……
 私は感慨も新たにもう一度心の中でお礼を言っておいた。

 さて、早速、試着してみようっと。
 何しろ、学校の試着用のでサイズ合わせしただけだから、少し心配。
 買ったばかりなのに交換ってのは無しにして欲しいわ。
 トレーナーを脱いで、この時のために買っておいたブラウスを取り出して着る。
 先にスカーフを巻いておいて……よし、綺麗に結べたわ。

 それから、ホットパンツを脱いで、チェックのスカートに履き替える。
 うん、ウエストもきっちり。って、たった3日前に試着したばっかりなのに、サイズが変わるわけはないか。
 それから紺のブレザーを着て、はいでき上がり!
 おもむろに姿見の前に立って全身を映して見てみる。
 うんうん、最初に見たときも思ったけど、やっぱりなかなかいいデザインじゃない、公立高校の割には。
 結構アイビー入ってるし。
 やっぱり着る人がいいからよく見えるのかしら?

 とりあえず、後ろ姿も鏡に映して見てみる。
 それからくるっと回ってみたり、スカートをちょいとつまんでポーズを取ってみたり。
 そんなこんなで、10分ばかりもファッションショーもどきのことを私はやっていた。
 ああ、今日ははっきり言って浮かれてるわね、私。
 でも、いよいよ4月からはこれを着て、碇君と一緒の高校に行くことになるんだなぁ。うふふふふ。
 私は2週間前のホワイトデーの夜のことを思い出していた。

『綾波、僕は……僕は、ずっと前から、綾波のこと……』

 ま、まあ、あの直後はとんでもないことになっちゃったんだけどね。
 でもその後、碇君が家まで送ってくれて……
 身体が冷えちゃった私のために、ココアまで作ってくれて……
 そして、その別れ際に……
 うふふふふふふふふー。ついつい顔がにやけてしまうわ!

 ま、過去に浸るのはこれくらいにしておこう。これから新しい想い出いっぱい作るんだものね。
 そうそう、この制服もそろそろ脱がないと、皺になっちゃう。(うれしさのあまり転がっちゃいそうなんだもん)
 私はブレザーを脱ぐと、ハンガーに掛けて洋服タンスの中に吊した。
 まだ折れ癖が付いてるから、学校に行くようになる前にきちんとアイロン当てておかないと。
 スカートは綺麗に畳んでタンスの下の引き出しに入れる。
 これでよし、と!

 さーて、もうすぐ新学期よ。
 碇君とまた一緒のクラスになれたらいいな。
 そして、ハッピーな高校生活を思いっきりエンジョイするんだから!



- Fin -







おまけ



 某月某日。碇家。

「あなた」
「む?」
「シンジの入学式に着て行く服、そこに出しておきましたから」
「ああ、済まない、ユイ」

 数日後に控えた入学式のために、いそいそと準備を進める夫妻の姿があった。
 ちなみに、息子の姿は見えない。
 学校に教科書を買いに行ったようだ。
 朝から電話がかかってきて、誰かと待ち合わせをしていたらしい。

「そういえば最近、レイちゃんから電話が多くなりましたね」
「ああ」
「やっぱり、あの日がきっかけだったのかしら?」
「うむ」

 ダイニングに戻ってきてお茶を入れながら話す夫人の言葉に、主人はにやりと笑いながら答えた。

「どうだ、私の言うとおり、シャンパンを飲ませると面白い波乱が起こっただろう」
「そうね、びっくりしたわ。アスカちゃんがあんなになるなんて……」

 夫人は合格お祝いパーティーの時の光景を思い出していた。
 あの気の強い子が、涙の激白をするなんて……
 それに、レイちゃんまでが心の内を……
 シンジったらあの後すぐに飛び出していったけど、いったい何があったのかしら。

「でも……少し気になることがあるんですよ」
「む?」

 主人はサングラスの奥から夫人の方に視線を走らせた。
 気になること? 全ては正しい配置に収まった。過不足もない。いったい何が……まさか(汗)

「あの後、研究所の子に訊かれたんですけど……ある薬がなくなったって……」
「む……」
「何でも、アルコールに混ぜると、弱い自白剤になるっていう物らしいんですけど……」
「…………」
「あなた……ご存じじゃありません?」
「……知らんな」
「ほ・ん・と・で・す・か?」
「…………」

 夫人が念を押すよう訊く。
 主人は視線を逸らせながら、貝のように黙っていた。
 ……落ち着け、証拠はない。検出も不可能だ、落ち着け……

「そうですか。それじゃ、もう一つ」
「む?」

 動揺する主人の目の前に、夫人はポケットから小さなラジオのような物を取り出して置いた。
 主人の顔がさっと変わる。もちろん、夫人がそれを見逃すはずもなかった。

「これ、あなたのタンスの引き出しにあったんですけど」
「…………」
「盗聴器の受信機じゃないんですか、これ」
「…………」
「しかも、シンジの部屋に仕掛けた物じゃありませんよね?」
「…………」
「あなた、まさか……」

 夫人が鋭い目つきで主人を睨む。
 主人はたじたじとなりながら言った。

「ご、誤解だ、ユイ、私は別に……」
「誤解もロッカイもありません! 回収してきてください! 今すぐ!」

 碇家は今日も平和だった。



- Fin -




新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

Written by ASAI Yosuke in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions