「あーあ、毎日毎日テストばっかりやのう。ほんま、イヤになってくるで」

 ここは放課後の教室。みんなが帰り支度を進める中で、トウジのぼやき声が聞こえてきた。
 全く、その通りだ。
 今日は6時間の授業のうち、5時間がテスト。
 違ったのは3時間目の体育だけだ。
 いくら入試が近いとはいえ、ここまでテスト責めに遭わされるとは……
 うちはそれほどの進学校じゃないはずなんだけどな。

「それで、センセは結局どこを受けんのや?」

 いつもなら僕は窓際の席を占めているのだが、テストの時は名簿順に座るので、廊下側に座らされている。
 僕の前がケンスケ、左隣がトウジ。
 だから、トウジが帰ろうとすると、必然的に僕の姿が目に入るというわけだ。
 もちろん、帰るときは途中まで3人で一緒なのだが、近頃帰りに話すことといえば受験のことばかりで、別れ際にため息をつきながら『それじゃ』となることも多い。

「うん、まあ一応ね」

 僕は机の中の教科書やノートを鞄の中に詰め込みながら答えた。
 最近はこれらを全部持って帰っているので鞄が重くて仕方ない。
 まあ、勉強しなきゃいけないから当然なんだけど。

「どこや?」
「弐高」

 こういう話題が出たのは、明日が願書の提出日だからだ。
 二週間後には市内一斉に公立高校の受験が行われることになっている。
 もちろん、私立高校の受験はすでに終わっていて、僕は一応滑り止めに合格はしていた。
 でも、その学校には別に行きたいとは思わない。
 理由は……まあ、いろいろとある。

「そうか、やっぱり弐高にすんのか。ほなら冬休み前に言うとったんと一緒やな」

 校区が複雑に分かれていていろいろとややこしいのだけど、僕らのところは壱高がトップ。以下、弐高、参高、四高、伍高と数字の通りに並んでいる。
 でも、これは共学の話で、私立や男子校、女子校は別。

「うん、まあね。正月明けから勉強したって、急に学力が上がるわけじゃないし。それに、親ともいろいろ相談した結果だから」

 壱高の方は、弐高よりレベル的に1ランク上で、僕の学力ではギリギリ届くか届かないかというようなところだった。
 そんなランクの高校を受けて、もし滑ったらどうなるのかと思うと、受けるに受けられない。
 それより、弐校に行きたいもっと積極的な理由があって……

「トウジはどうすんだよ。結局、推薦は蹴るのか?」

 僕の前に座っていたケンスケが振り向いてそう言った。
 そう、トウジは幽霊部員のくせにスポーツ推薦をもらうという、前代未聞の離れ業をやってのけたのだ。
 バスケ部に籍を置いていながら練習には参加せず、それなのに試合では準レギュラーとして活躍し、今年の市内ベスト4入りに貢献したのだとか。
 それに、バスケだけじゃなくて、サッカーや野球の助っ人としても度々活躍しているらしい。
 スポーツ万能だからな、トウジは。
 何の才能もない僕にとってははっきり言ってうらやましい。
 で、中学のバスケの試合をチェックしに来ていた某高校のバスケ部の監督がトウジに目を付け、センスを買ってスポーツ推薦を申し出たそうだ。

「全く、あれには参ったよな。B組のバスケ部員が泣いてたぜ。俺の立場がないって」

 ケンスケが持ち前の情報網を駆使して仕入れた『外野の声』を報告する。
 その話は前にもこっそり聞いたんだけど、バスケ部の副キャプテンだそうだ。

「しょうがないやろ。別にワシのせいやあらへん。向こうが勝手に言うて来たこっちゃからな」
「まあ、そう言やそうなんだけど……しかし、それを蹴るとはなぁ」
「当たり前やないかい。何が悲しゅうて、ワシが男子校に行かなあかんのじゃい!」

 ……やっぱりそういう理由なんだな。
 トウジが推薦を蹴るのは、その高校が男子校だったからだ。

「おまけに奨学金もあんまり出ぇへんさかい、学費はトータルでは公立ととんとんやしな。それやったら公立の方が健康的な生活が送れてええやろ」
「何だよ、その健康的な生活って」
「アホォ、毎日男ばっかりに囲まれとったら、イヤでも不健康になるわい!」
「いやあ、僕は構わないな、シンジ君と一緒なら」
「へ? カ、カヲル君……」

 振り返ると、いつの間にかカヲル君が僕の後ろに立っていた。
 相変わらず、人の良さそうな笑顔を浮かべているんだけど……

「そうだ、シンジ君、僕と一緒に男子校に行かないか?」
「い、いや、その……」
「何考えとんねん、オノレは。あんなもん、人間の行くところやないで」
「トウジ、そりゃ男子校行く奴に失礼だって」
「そうだよ。僕が以前いた学校には男子だけのクラスがあったんだけど、結構楽しそうだったよ。僕はシンジ君となら楽しいと思うな」
「いや、別に、僕は、その……」
「何をいつまでもバカなこと言い合ってんのよ、アンタたちは!」

 僕が答えようとすると、横ろからアスカが割り込んできた。あれ、まだ帰ってなかったのか。
 ……それにしても、どうして僕が睨まれなきゃならないんだ?

「あ、あれ、アスカ、まだいたの?」
「悪かったわね、まだ残ってて」
「い、いや、そういうつもりじゃ……」
「ほら、シンジ、さっさと帰るわよ。アタシはおばさまに頼まれて、アンタの家庭教師する約束になってるんだからねっ!」

 ……そうだった。
 前からよくアスカには勉強を教わっていたんだけど、正月が明けてしばらくしてから、みっちりと勉強を教えてもらうように母さんが頼んだんだ。
 まあ、その甲斐あってか、何とか弐高に合格できるような気がして来たのはうれしいんだけど。
 でも、『教えてあげたらちゃんとできるんだから、ちゃんと最初からできなさいよ!』と無茶なことを言うんだからなぁ。
 最初からできるくらいならやってるって。

 それに、最近はアスカも僕に教えることにだんだんと気が乗らなくなってきたのかもしれない。
 夜が遅くなると時計を気にしたりして、やたらそわそわしている。
 そんなに早く帰りたいなら、別に止めないのに。
 でも、そんなこと言ったらアスカにはり倒されそうなので僕は言わない。
 ご教授ありがとうございます。これからもご指導ご鞭撻の程を、と大人しくしているのが賢明だから。
 この辺りの駆け引きは慣れた、と言うか、慣らされてしまった。

「まあまあ、惣流もセンセと別れんのが寂しいからてそんなカッカせんと」

 トウジ……何でそうなるんだ?

「誰が寂しいってのよっ、このバカトウジ!」
「そうかそうか、惣流は渚と一緒に壱高へ行けるさかい、シンジのことはもうどうでもええんやったな、失礼失礼」
「な、何をバカなこと言ってんのよっ! どうしてこのアタシがカ……こ、こんな奴と!」
「そやかて、なんで私立のトップの国際女子に行かへんのや? いつの間に第一志望が変わってん」
「うっ……そ、そんなの勝手でしょっ、アタシがどこ選んだって!」

 ……なんだか最近、トウジとアスカの言い合いじゃ、トウジの方が優位に立ってるような……気のせいかな?
 それにしても、アスカ、いつの間に壱高志望になってたんだっけ。
 中学に入る前から、国際女子高へ行って第3新東京大学の医学部を狙うって宣言してたのに……



サクラサク(前編)




「なになに? 何の話?」

 週番のゴミ捨てから帰ってきた私は、いつものメンバーが固まっているのを見つけて、話の輪に割り込んでいった。
 ちらりと聞こえたところではどうやら高校受験の話をしていたみたい。
 まあ、明日願書提出だもん、当然よね。
 そう言えば、男子がみんなどの辺狙ってるのか聞いてなかったなー。
 一人だけはわかってるんだけどねー、うふふ。
 でも、みんなの学力を考えると、どうもバラバラになりそうな感じね。
 ま、それで友達づきあいがなくなるわけじゃないだろうから、別にいいんだけど。

「惣流がなんで国際女子行くんやめたんかっちゅう話しとったところや」
「あ、そうだったねー。で、どうしてやめたの?」

 確か、今年の夏休み前の希望調査では、国際女子っていうことになってたわよね。
 ミサト先生だって『99.89%合格間違いなし!』って太鼓判押してたし(あとの0.11%は何なの?)、壱中久々の国際女子合格かって先生方がみんな期待してたらしいのに。
 それなのにいつの間にか、壱高に志望が変わったのよね。どうしてなのかしら?
 女子ばっかりがいやになったとか? それなら壱女に行くヒカリはどうなるのよ。

「だから、別に理由なんてないってば。公立だって、まじめに勉強すれば3東大くらい行けるわよ」

 アスカが少し拗ねた感じで言う。
 それはまあ、そうなんだけどね。
 壱高も去年は久々に、京大とのW合格者を4人も出したって噂だし。
 でも何となくすっきりしない理由よねー。

「そやからワシが、渚が受けよるからかって訊いとったんやがな」
「え? アスカ、そーなの?」
「違うって言ってるでしょ! だいたい、カ……な、渚が壱高受けるなんて、今初めて聞いたわよ」

 うーん、なんだか苦しい言い訳のような物を感じるわ。女の勘ってやつね。
 でも、こういう場合、アスカを正攻法で攻めるのは間違いなのよ。
 ダミーを織り交ぜながら、からめ手から攻めないと……

「へー、渚君も壱高受けるんだ。てっきり、私立の仙石原中央あたりに行くと思ってたのに」
「ああ、まあね。いわゆる一つの、家庭の事情ってやつさ」

 家庭の事情か……私と同じね。
 でも、渚君のとこの家庭って、どうなってるのかさっぱり知らないままだわ。
 まあ、それはさておき。

「ところで、そっちの3人は?」

 私は笑顔を振りまきながら、碇君たちの方を向いて言った。
 あ、碇君は知ってるから、答えなくていいからね。

「ワシは参高や。家の近くやさかいな」

 鈴原君が胸を張ってそう答えた。
 別に理由まで聞いてないのに、どうして理由言っちゃうかなー。
 そういうこと言われると、つっこみたくなるのは私のサガね。

「参高かぁー、そういえば、ヒカリの行く壱女のすぐ隣よねー」
「そ、そやったかいな? ワシは、知らんでぇ……」
「ヒカリはもちろん知ってるわよねー」
「ええっ!? わ、私も全然知らなかったけど……」

 ふふふ、ヒカリだって壱高に充分行ける学力あるのに、どうして突然壱女に行くなんて言い出したのかと思ったら、こういうことだったのね。

「またまたとぼけちゃってー。毎日鈴原君にお弁当届けたりとか、そんなことしようと思ってたんじゃないの?」
「ち、違うわよ! だって、壱女は昼休みに学校抜けることなんてできないし……」
「じゃ、お弁当どうやって渡すの?」
「そ、それは……途中までなら、一緒の道だし……」
「へー、ちゃんとそんなところまで考えてあるんだー」
「うん、まあ……え? ああっ!」

 はーい、ごうちそうさまでしたっと。
 しっかし、ヒカリってほんと簡単に引っかかるのよねー。
 あらあら、真っ赤になっちゃって。鈴原君も、今更明後日の方見てもどーにもならないって。
 アスカも、喜んでヒカリを肘でつついてる場合じゃないわよ。明日は我が身なんだから……

「はい、じゃあ、次は相田君」
「俺? 俺は、その……」
「知ってるわよ。壱高でしょ」

 あらら、どうしてアスカが知ってるのかしら?
 いつの間にか機嫌直っちゃって、腕組みしながら相田君を見てる。

「な、なんで惣流が知ってるんだよ」
「ふふん、だって、聞いたんだもん。ある筋からね」
「…………」

 ありゃりゃ、これは何だか予想外の展開ね。
 ま、私はバレンタインの噂で聞いた程度しか知らないから、ここはアスカに任せようかしら。



 ……何だか、さっきから話がよく見えなくなってきたな。
 確か、みんなの志望校を聞いてるんじゃなかったんだっけ?
 それなのに、どうしてアスカがケンスケに尋問まがいのことしてるんだろう?

「何でも、現役の壱高生が家庭教師に来てくれて、懇切丁寧に指導してくれてるんですって?」
「な、何のことだよ」
「とぼけても無駄よ。アタシは確かな情報源があるんですもの」
「…………」

 ケンスケが黙り込んでしまった。
 現役の壱高生? 誰だろう。
 しかし、そんな人を雇ってまで、ケンスケが壱高に入りたがっていたとは……
 確かにケンスケは、僕ら『三バカ』の中で一番勉強ができる方だ。
 (アスカに言わせれば『ドングリの背比べ』ということらしいけど)
 抜き打ちのテストには弱くて、定期試験の成績がいいのは不思議なんだけど、それはまあ置いといて。
 どうして壱高に行く気になったんだろう?
 勉強が大変で、遊ぶ暇がないから弐高にするって言ってたような気がするんだけど……

「あのさ、トウジ」

 仕方ないので、僕はトウジに訊いてみた。

「ん? 何や?」
「ケンスケ、どうして壱高に行くことにしたのか、知ってる?」
「あ、ああ……それはやな」

 何だ、トウジは知ってるのか……ケンスケから相談されたのかな。
 どうして僕には言ってくれなかったんだろう?
 しかし、トウジも腕を組んで考え込んだようになってなかなか言わない。

「んーとやな、何ちゅうか、その……ものごっつい複雑な事情なんや」
「複雑? 何が?」

 家庭の事情? まさか。
 そりゃ、ケンスケのお父さんは研究所勤めだから、子供がいい学校行ってくれるに越したことはないんだろうけど。
 でも、そんなこと言うようなお父さんだとは思えないんだけどな。

「トウジは理由聞いたの? ケンスケから」
「あ、いや、ワシは直接は聞いとらんのやけど、別の筋から……」
「別の筋って……誰から?」
「いや、そらぁその……ま、まあええやないか、そんなこと」

 ……どうして隠すんだ?

「しかしまあ、シンジもそれくらいわかるようにならなあかんで。いつまでもお子さまやあるまいし」

 またそういうことを……何も言ってくれないのに、わかるわけないよ!



 ……はあ、まあね。碇君にわかるわけないとは思うけど。
 (本命を義理と勘違いしちゃう超鈍感だもんね)
 でも、アスカも結構しつこく相田君を攻めてるわねー。
 あんまりやりすぎると、返り討ちに遭っちゃうわよ。

「しかし驚いたわよねー、いったいどうやってそんな関係作ったのかしら?」
「…………」
「でも、ま、それもそのうち、ご本人に聞いておくわ。何しろ……」
「写真……」
「? 何よ、写真って。証拠のこと? そんなのいらないわよ。だいたい……」
「公開していいんだな?」
「な……まさか、アタシの?」
「遊園地……」
「!!!」
「腕組み……」
「ちょっ……ま、まさか、アンタ……」

 ほーら、立場が逆転しちゃった。相田君のツバメ返し一本ってとこかしら。
 相変わらず眼鏡が怪しく光ってるわねー。
 それにしても……アスカ、腕組みなんかしてたんだー。
 しかも、遊園地で。きっと二人でデートに……
 え? 遊園地? ……って、まさか……
 …………
 ……大人しくしとこっと……

「まだ何か言いたいことあるか?」
「……ないわよ」
「よし、じゃ、次、シンジ」
「へっ!?」

 や、やば……まさか、私たちの写真もあるんじゃ……
 驚いている碇君を横目に見ながら、相田君が私に言った。

「志望校聞くんだろ、綾波」
「え? あ、ああ、そうね」

 そ、そういうこと……あー、びっくりした。
 気を取り直して……んー、碇君の志望校は知ってるけど、ここは話の流れ上、一応聞いておいた方がいいかしら。

「で、碇君は?」

 だめだよー、私には以前話したなんて言っちゃ。
 どこで話したかつっこまれちゃうんだから。

「僕は、その……弐高に……」
「へー、それじゃ、三バカトリオは解散ね」
「うるさいわい! ほんで、そう言う綾波は、どこなんや?」

 うんうん、いい展開。つっこまれなくて済んだわ。
 私はお得意のへらへら笑顔を浮かべながら答えた。

「私? 私はねー、へへへ、碇君と一緒のとこ」
「へー、あんた、弐高受けんの?」

 アスカ、立ち直りが早いわね。

「うーん、だって、学力的に言って、妥当なところでしょ」
「まあね」
「碇君とも一緒くらいだしねー」

 私はそう言って碇君に笑っておいた。
 碇君、結構うれしそうな顔してたりして。
 やっぱり、こないだまでわざと無視してたのはかなり効いたようね。
 お返し、ちゃんとしてくれないと、ひどいんだから。

「そうね、あんたたち、得意科目も不得意科目も同じだし、テストの成績もいつも一緒くらいね」

 アスカのその言葉に、みんなが一斉にうなずいた。
 そうなのよね、どういう訳かいつも一緒くらいで。
 碇君と私って、実は結構波長が合うんじゃないかしら。

「そやそや。シンジは惣流より綾波の方が相性がええんちゃうか?」
「な、何言ってんだよ、トウジ……」
「そうだな、この機会に乗り換えたらどうだ?」
「ケ、ケンスケまで……」
「乗り換えるって、どういうことよ? なんでアタシとシンジが……」
「あら、碇君、私と一緒じゃ嫌なの? 悲しいわ、ううう……」
「そ、そういう訳じゃなくて……」
「シンジ君、やっぱり僕と男子校に行かないか?」
「なんでそうなるんやぁ!」
「そうよー、渚君はアスカと壱高に行ってればいいの! 私は碇君と……」
「ちょっとレイッ! 言っていいことと悪いことがあるわよ! なんでアタシがカ……な、渚なんかとっ!」
「きゃー、アスカ、渚君を名前で呼ぼうとしたわね? したでしょぉーっ!?」
「してなーいーっ!!!」

 あはは、最近のアスカって、からかい甲斐があるわねー。
 もう少ししたらこんなことができなくなるなんて、何だかちょっと寂しいわ。
 でも、そうよ! 春からは、碇君との楽しい高校生活が!
 ……できるといいなぁ……
 (試験、ほんとは自信ないのよねー……)



 枕元で目覚ましがけたたましく鳴った。
 うう、眠い。何かいつもより時間が早いような気が……なんで……
 寝惚けた頭でその理由を考えていた僕は、重大なことを思い出してがばっと飛び起きた。
 そして掛け布団をさっさと足元にたたむ。
 こうしないと二度寝してしまう危険がある。
 そう、今日は市内の公立高校の試験の日だ。
 だから目覚ましを早めにセットしたんだっけ。

 ベッドから降りて窓のところに行き、カーテンをザッと開けると、朝日が目に飛び込んで来た。
 ああ、まぶしい……でも、いい天気で良かった。
 雨だと試験会場に着くまでの時間が読めないからな。
 窓際で朝日を浴びながら大きく伸びをしてから、僕は顔を洗いに行った。
 試験の時は早く起きて、始まる頃には頭がフル回転になるようにしておけ、ってミサト先生にさんざん言われたことだし。
 洗面台に水を張って、顔にばしゃっとかける。
 うわ、冷たい……でも、これくらいしないと、目が覚めないからなぁ。

「あらシンジ、おはよう。どう? 調子は」
「うん、まあね」

 顔を拭いてから、ダイニングのテーブルに着くと、母さんが声をかけてくれた。
 もう既に朝食の用意ができている。
 いつもはパンだけかじって学校へ行くから、朝からゆっくり食事をすることは少ない。
 今日は受験の日ということで母さんも気を使ってくれたのか、たっぷりと量がある朝食だった。
 ご飯とみそ汁、焼き鮭、おひたし、それに納豆に卵に焼き海苔、梅干しと高菜漬け。
 こんな純粋な和朝食は久しぶりに見たような気がする。
 まあ、これくらい食べなければ、試験中お腹が持たないからって考えてくれてるんだろうな。

「いただきます」

 そう言って僕は黙々と朝食を食べ始めた。
 目の前では父さんが座って新聞を広げて読んでいる。いつも同様、顔は見えない。
 まあ、朝は父さんと顔を合わせない方が気が楽でいい。
 朝からじっくり顔を見られた日には、おかしなプレッシャーを感じてしまって、おちおち食事もできない。
 それに、今日はおかずが多いから、つまみ食いされないように気を付けなきゃ。

「…………」

 僕はご飯を食べながら、上目遣いに父さんの方を見ていた。
 と、父さんの手が新聞からすっと離れて……僕は思わず身構えた。
 しかし、父さんの手は、テーブルの上の湯飲みをつかんだだけだった。フェイントか……
 ……全く、どうしてこんなこと気にしながらご飯食べなきゃいけないんだろうな。消化が悪くなりそうだ。

「はい、シンジ、お茶」
「あ、ありがとう」

 しまった、口に食べ物を入れたまましゃべったらまた怒られ……
 あれ? 母さんも何も言わないや。
 どうなってるんだ、今日は……
 結局、僕が朝食を食べ終わるまで、父さんは新聞を顔の前から下ろさなかったし、何も言わなかったし、おかずも取られなかった。
 母さんはともかく、父さんも気を使ってくれたのかな。そんなわけは……まあ、どうでもいいや。

「ごちそうさま」

 僕はそう言って、自分の部屋に戻り、制服に着替えた、
 それから鞄を開けて今日の試験に必要なものを確認する。
 と言っても、筆記用具と受験票くらいなんだけど。
 一応、参考書とかノートの類も持っていった方がいいかな。
 試験前に偶然見た問題が出たっていうのは、よくあるらしいし……
 でも、試験前に読んで、憶えてないことに気付いたらかえって焦って……

「うーん……」

 ふと、時計を見た。そろそろ出る時間だ。
 食事、ちょっとゆっくりしすぎたかな。
 まあいいや、参考書もノートも持っていかないことにするか。

「じゃ、行って来ます」
「待て、シンジ」
「うわあっ!」

 玄関で靴を履いて顔を上げると、父さんが腕を組んで僕の後ろ仁王立ちになっていたので、びっくりして悲鳴をあげてしまった。
 いつの間にそこに立ってたんだ。全然気付かなかった。
 足音もしなかったし、気配さえなかったのに。
 朝から自分の息子をびっくりさせて、何が面白いんだよ……

「な、何?」
「シンジ、お前にこれをやろう」

 父さんはそう言うと、ポケットから小さな紙包みを二つ取り出してきた。
 僕はおそるおそる受け取ると、そのうち一つを開けてみた。
 中に紫色の袋みたいなのが入っている。
 何だ、これ。まさか、お守り?

「今日は受験だろう。持って行くがいい」
「…………」

 父さんがこんなものをくれるとは思わなかったので、僕は意表を衝かれて何も言えなかった。
 しかし、こんなものもらう方が逆にプレッシャーになっちゃうじゃないか。
 第一、父さんがこういうことするような柄じゃないし……

「どうした。福岡の太宰府天満宮のものだぞ。この前九州に出張に行ったからわざわざ買って来てやったというのに、それだけでは不満か」
「いや、あの、そうじゃなくて……あ、ありがとう……でも、何で二つなの?」

 そう、何で二つなんだ? 私立の試験はもう終わってるし……
 もしかしてこの前渡すのを忘れたとか言うんじゃないだろうな。

「レイ君がお前と一緒の高校を受けるそうではないか。彼女に一つ渡してやれ。いいな」
「……なんで父さんが、僕と綾波が一緒の高校受けることを知ってるんだよ?」

 おかしい。知っているはずがない。だって母さんにさえそのことは言ってないのに……

「ふん」

 父さんは僕の質問を鼻でせせら笑うと、組んでいた腕を解いて、サングラスを指でくいっと押し上げながら言った。
 なんで子供の前でそんな偉そうにする必要があるんだ……

「そんなことを知らんようでは、お前の親は勤まらん」
「……何だよ、それ」
「いいから持って行ってレイ君に一つ渡してやれ」
「でも、どうして僕が……」
「他の者では無理だからな」
「…………」

 ……父さんが何を言ってるのかさっぱりわからなかったが、気迫に押されてしまって、これ以上何も言い返す気がしなかった。
 試験の前に余計なことは考えたくない……

「わかったよ……とにかく、ありがとう。じゃあ、行って来ます」
「うむ。行って来い」
「行ってらっしゃい。頑張ってね」

 いつの間にか父さんの後ろに現れた母さんと二人に見送られて、僕は家を出た。
 ……何か調子狂うなぁ。気を使ってくれてるのかもしれないけど、逆に余計なことが気になっちゃって……
 今日の試験、大丈夫なんだろうか?



 はあ、はあ、はあ……
 息せき切って駅の階段を駆け上がると、改札の横にクラスメートの顔が見えた。

「きゃーっ! ごめん、ごめーんっ!」
「おーそーいっ、レイ! 3分遅刻よっ」
「ごめーん、ちゃんと起きたんだけど、つい二度寝しちゃったの。一生懸命走ってきたんだから、許してっ!」
「もー、携帯くらいかけてきなさいよ」
「走りながらそんなのかけられるわけないじゃない!」
「ま、電車に乗り遅れなかったから、いいことにしてあげるわ」
「もうみんな来てるの?」
「当ったり前でしょ!」

 一緒に試験に行こうと待ち合わせしていたみんなにそう言われて、私はがくっと来てしまった。
 ううう、こんな日にまで遅刻するなんて……今日こそはと思ってちゃんと早起きしようとしたのに。
 そのためにもう一つ目覚まし時計を買ってきたのに……
 迂闊だったわ。まさか、二度寝どころか三度寝するなんて思わなかった。
 あの温かい布団がいけないのよ。私が出ようとしたら、引き留めるんだもの……ってそういう問題じゃないわよね。

 あーもう、昨日のうちに今日の朝食とお弁当を用意しておいたからなんとか間に合ったようなものの、 朝食は全部食べられなかったらお昼まで保つかしら。
 試験中にお腹が鳴るなんて嫌だよぉ。
 だいたい、あたしってお腹が減ったらものを考えられなくなるのに。
 途中で何か買って行こうかしら。
 私は真剣に悩んでしまった。

「じゃ、時間だから、みんな、行こ」

 ……え? 何? 今、何て言ったの?

「レイが遅れてくると思ったから、わざと待ち合わせ時間早めにしといたのよ」

 とほほ、私ってそんなに信用無かったの……
 ま、放って行かれなかっただけでも、ありがたいことと思わなきゃ。
 大急ぎで切符を買って、友達に続いて改札を通る。
 ホームに降りて電車を待っていると、周りは受験生ばっかり。
 当たり前か。市内の公立高校、一斉だもんね。
 でもわざわざラッシュの時間帯を避けるために、開始時間を早めにすることないじゃないのよ。
 遅くすれば、もっと遅くまで寝ていられて、いい成績が……

 あれ、あの集団は……あらあら、うちのクラスの男子じゃない。
 やっぱり、同じところ受けに行くとなると、同じ時間になっちゃうのよね。
 ん? ということは? あ、いたいた。
 よし、チャーンス。試験会場で探す手間が省けたわ。
 私は目的の人物を見つけると、こそこそっと寄っていって後ろからぽんと肩を叩いた。

「おっはよ、碇君」

 碇君は振り返って、私の顔を見てびっくりしたみたいだけど、すぐに笑顔になって言った。

「あ、綾波、おはよう。そうか、女子は女子で固まって行くんだね」
「うん、受験届け出しに行くときもそうだったし」

 そう、今日待ち合わせしていたクラスメートは一緒に受験票を出しに行った人たち。
 たぶん、男子もそうなんだろうな。
 だから、今日は別行動。でも、4月からは……

「それにしても、やっぱり弐高って受ける人多いわよねー」

 何しろ、一クラスから10人近くも受けに行く高校なんて、他にはない。

「そうだね。まあ、定員も多いし」
「それに、平均レベルだから、普通の人がいっぱい受けに来るのよね。あーあ、競争率高いなー」
「しょうがないよ。でも、綾波は最後の模試で合格率80%だったんだろ? 大丈夫だよ」
「ん、まあ、そうね。碇君は確か70%だっけ」
「うん」

 そう、それまでは私と碇君の合格率はほとんど一緒だったんだけど、最後の最後に離れてしまったのよね。
 もしかして、これが私たちの運命なのかしら。嫌だわ、そんなの。

「まあ、お互い頑張りましょうね。あ、そうそう、碇君に渡したいものがあったのよ」

 と、私はたった今思い出したかのように装って言った。
 最初からこれが目的で碇君に声をかけたのに、素直じゃないわね、私って。

「ん? 何?」
「えっとね……ちょっと待って」

 私は鞄を開けて中をごそごそと探した。
 あれ? 確かこっちの方に入れといたはずなのに……ああ、電車が来ちゃった。
 どうしよう……あ、あったあった、良かった。ふー。
 これまで忘れたら最悪よね。せっかく碇君のために用意したのに。

「はい、これ」

 私はそう言いながら、碇君の前に小さな紙袋を差し出した。

「え、これって……お守り?」

 碇君は袋の口から覗いていた紐をつまんで、お守りを引っぱり出しながら言う。

「そうよ。京都の北野天満宮の。親戚がわざわざ送ってきてくれたの」
「あ、ありがとう……でも、綾波の分は?」
「あ、私のもちゃんとあるから、気にしないで。友達にもあげなさいって、けっこうたくさん送ってきてくれたの」

 と言ったけど、これにはちょっとだけ嘘がある。
 たくさん送ってきたって言うのは……実は、嘘。
 先日、親戚が電話をかけてきて、北野天満宮のお守り送ってくれるって言うから、友達にもあげたいって言って二つ送ってもらったの。
 で、その一個が碇君の分というわけ。
 それを言わずに変な言い訳考えちゃうなんて、私ってやっぱり素直じゃないわね。
 碇君はそんな私の嘘には気付かずに(気付くわけないよね)、にっこり笑ってお守りを受け取ってくれた。
 ふふ、この笑顔が可愛いのよね、碇君って。

「そうなんだ……あっ、そうだ。僕も綾波に渡すものがあったんだよ」
「え? 何? でも、もう電車出ちゃうよ」
「碇ぃー、乗り遅れるぞー」

 碇君と一緒に行くらしいグループの子が声をかけてくる。
 碇君はポケットをパタパタ叩いて何か探してたみたいだったけど、見つからないみたい。

「えっ、あっ」

 おお、焦ってる焦ってる。
 でも、私も電車に乗らなきゃならないし、後にしてもらおうかな。

「じゃ、電車降りた後でね」
「あっ、うん……」

 そう言って私たちは電車に乗り込んだ。男子と女子、なぜか別々の扉に分かれて。
 渡したいものって、何かしら。まさか、ホワイトデーのお返し?
 でもあれって、まだ先よね……



 試験の1時間目はもうすぐ終わろうとしていた。
 最初の科目は数学。得意科目なんだから、ここで弾みつけとかなきゃ。
 公立高校の試験だけに、最初の方の問題は簡単に解けた。(四則演算だもんね)
 でも、最後の証明問題はあまり自信がない。見直すにも、時間が足りなさそう。
 私は考えるのをあきらめて、答案用紙に名前と受験番号が書いてあるかどうかだけ確認すると、ペンケースに鉛筆と消しゴムを戻した。

 ……この鉛筆も親戚が送ってきてくれたもの。『合格祈願』と麗々しく金文字で書いてある。
 一本しか送ってきてくれなかったから、さすがに碇君にはお裾分けしてあげられなかったけど。
 そして私は、ペンケースの中に入れておいた二つのお守りをじっと眺めていた。
 朱色の袋に金色の文字。太宰府天満宮かぁ……
 でもまさか、碇君がこんなのくれるなんて思わなかったな。
 電車を降りたところで、碇君が私の方に寄ってきて渡してくれた。

『ごめん。待ち合わせしてるときに、みんなが英語の問題の話なんかするから、すっかり忘れてたよ……えっと、これ』
『えっ、これ、お守り?』
『そう。父さんがくれたんだ。綾波に一つあげろって』
『ふーん、そうなの。ありがと。……わっ、太宰府天満宮ね』
『あ、うん、そういえば、綾波のは北野天満宮だったね』
『天満宮のお守り二つも持ってたら、今日の試験はばっちりね!』
『うん、そうだといいね』

 なーんて碇君は言ってたけど、おじさまが私にあげろって言ったの本当かしら……
 たぶん、本当よね。碇君、この手の嘘はつけない人だから。
 でも、碇君が私のために買ってきてくれたんじゃないのか。ちょっと残念かな。
 その碇君は別の教室で試験を受けてる。
 同じ中学なのに、願書を出した時間が少し違うだけで別の部屋になってしまった。
 一緒に頑張ろうね……私は二つのお守りを取り出して、そっと手の中に握りしめた。

 と、ちょうどその時チャイムが鳴って、試験時間が終わった。
 試験官の人が答案用紙を回収していく。その間にうーんと伸びをする。
 会心の出来ではないけど……まあ、そこそこはできたかな。ポカはないはず……
 全部の回収が終わったところで、前の席に座ってたクラスメートが声をかけてきた。

「ね、レイ、最後の問題できた?」
「うーん、自信ないな」
「そうなの? だってレイ、数学得意じゃない。レイがわかんなかったら、私に解けるわけないわよ」

 ああ、そんなこと言うのやめて。ホントに解らなかったんだから。

「あんまり、私を買い被らないでよ。で、これってどうやって解くの?」
「えっとね、私はこうやってこうやって……」
「え? え? それでよかったの?」
「そうじゃないの? だって、これをこうしたら……」
「えーっ! あ、そうか……な、なんでこんな簡単なことが解らなかったの? 私って……」

 同じようなパターンの問題は、こないだの模試でもやったじゃない!
 私は顔面蒼白になってしまった。
 (元が白いってよく言われるから、たぶんほんとに真っ青になってたんじゃないかしら……)
 それにしても、こんな簡単なことに気付かなかったなんて、私、今日はどうかしちゃってる……
 これじゃきっと、他の人はみんな解けちゃってるわ。ショック……
 ああ、1時間目からこんなことじゃ、大ピンチじゃない……



 試験の時間は刻々と過ぎていった。
 で、二時間目終了……

「レイ、この問題解った?」
「これって、こっちで良かったんだよね」
「えっ、こっちじゃないの? だって、これは……」
「うそっ、だって、これはこの部分が間違いで……」
「でも、この場合はこっちだっていうことじゃなかったっけ?」
「あっ……ああーっ、何でぇ? そうよ、こっちじゃない、何で間違っちゃうのよぉ……」

 三時間目終了……

「レイ、こっちのこの単語の意味知ってる?」
「ダメ、ど忘れしちゃった……」
「じゃあ、こっちの和訳は?」
「できるわけないでしょぉっ!」

 四時間目……

「あの、レイ……」
「お願い、訊かないで……」

 試験の出来は、もう最悪の状態。
 やっとお昼。でも、お弁当がおいしくない。
 せっかく好きなおかずばっかり揃えてきたのに。くすんくすん。
 うう、今日は厄日だぁ。寝坊はするし、ケアレスミスは連発しちゃうし……
 あー、最後の模試で合格率80%だからって、油断しちゃったのかなぁ。

 私はお弁当を食べ終わると、ペンケースの方をちらりと見た。
 思わず知らず、碇君の顔が浮かんでしまう。
 あまりにも申し訳なくって、もはやペンケースの中を拝む気にもなれない。
 ゴメンね、碇君。せっかくお守りもらったのに……
 ああ、楽しいはずの高校生活が遠のいていく……



「碇、まだ弁当食ってたのか」
「あ、うん」

 前の席に座っていた友達が、声をかけてきた。
 そりゃそうだよ。これだけ試験の出来が悪ければ、食欲だって失せてくる。
 唐揚げは大好物なんだけどなぁ……どうも喉を通らないと言うか何と言うか……

「食い終わったらトイレ行こうぜ。昼休み終わる直前だと混むから」
「あ、そうだね」
「次の時間の勉強もしたいしな」

 その一言で、僕はがくっと来た。
 そうだ。やっぱり参考書持って来るべきだったんだ……
 英語の試験で、出たんだ。参考書で見た覚えのある問題が。
 しかも、その問題は昨日アスカに言われてやったところなのに。
 必死で思い出そうとしたけど、出てこなかった。
 他の教科でも、ノート持って来て見直していれば解った問題がいくつかあった。
 聞くところによると、僕と一緒に来た連中のうち、ノートも参考書も持って来なかったのは僕だけらしい。

『持って来るのが普通だろ』

 友達の言葉は冷たかった。
 この調子じゃ、みんな僕より点は上だな。
 そう思うと、周りがみんな僕より出来がいい人たちに見えてくる。
 やっぱり僕には、弐高は無理だったのかな……
 模試の成績なんて、やっぱりあてにならないんだ。
 僕がやっと弁当を食べ終わると、前の友達がまた声をかけてきた。

「食い終わったか。よし。トイレ行こうぜ。我慢しながらだと問題なんて解けっこないしな」
「うん……」

 悪かったよ。そうじゃなくても解けなかったよ。
 僕は立ち上がると、友達と一緒にトイレに向かった。
 やっぱり父さんがお守りなんてくれたから、調子狂ったのかな……
 いや、やっぱり他人のせいにするのは良くないよな。油断したのは僕なんだし。
 綾波も、ゴメン。せっかくお守りくれたのに、僕にはご利益なかったみたいだ。
 一緒の高校に通って、もっと仲良くなりたいなんて不埒なこと考えてたのが、いけなかったのかな……

「あら、碇君……」
「あ、綾波……」

 トイレを出たところで、僕は偶然綾波とばったり会った。
 綾波は僕の方を見て表情を堅くしている。
 僕ってそんな落ち込んだ顔してるのかな……努めて明るく声をかけてみる。

「あ、あの、試験の出来とか、どう?」

 綾波の笑顔がぎこちない。無理して明るくしてるのがバレてるのかな。

「あはは、私は、その……ちょっとケアレスミスが多くて……」
「そ、そうなの?」

 僕はちょっとびっくりした。
 やっぱり父さんがくれたお守りがいけなかったんだろうか。
 顔が引きつりそうになる。
 僕が悪いのはともかく、綾波まで悪くなったんじゃ……

「碇君は?」
「いや、僕もその、ど忘れが多くって……」
「そ、そう。あ、あは、あは……」

 その笑い声は、僕にもわかるくらい乾いていた。

「……碇、俺、先、教室戻るから」
「じゃ、レイ、後で」

 僕らの虚しい会話を聞いて、事情を察知したクラスメートたちがその場を外してくれた。
 もしかしたら、暗い雰囲気に取り込まれて自分たちまで調子を落とすのが怖かったのかもしれない。
 まあ、気持ちはわかる。
 落ち込んでてもしょうがないので、僕はなるべく明るく綾波に話しかけた。
 正確には、なるべく明るい声を出そうとした。が、どうやら失敗したらしい。

「あの、さ、どのくらいできてる?」
「わかんない……6割とか7割とか、そのくらいかな……碇君は?」
「僕もそのくらいかな……いや、もう少し悪いかも……」
「そ、そう。で、でも、他の人もみんな結構間違えてるみたいだし……」
「そ、そうかな」

 綾波は状況をポジティブに考えているのに、僕はついネガティブな方向に行ってしまう。
 綾波は僕に気を使ってか、堅くなっていた笑顔を無理に和らげながら言ってくれた。

「でもね、最後の時間、一生懸命頑張って、取り戻そうよ。まだ、ボーダーラインギリギリだと思うし。だから、頑張ろう? ね?」
「うん……」

 本当なら僕が綾波を元気づけたいところなんだけど、逆に元気づけられてしまった。
 綾波って、気持ちの切り替え早いし、さばさばしてるし、うらやましい性格だよな。
 ……やっぱり、僕みたいなうじうじした性格の奴なんて、綾波には合わないのかもしれない……

「じゃ、そういうことで、私、そろそろ教室に戻るから。最後の時間、頑張ろうね。それじゃ」
「あ、うん、頑張って……」
「ほんとにほんとに頑張って、一緒に合格しようね!」

 綾波は僕にニコッと笑いかけると、自分の教室の方へ戻っていった。
 僕が迷惑かけても、綾波はいつも笑顔で許してくれる。
 僕が落ち込んでいても、綾波はいつも笑顔で励ましてくれる。
 本当に申し訳ない。頼りないよな、僕って。
 僕はその場で深呼吸すると、ぎゅっと右手を握って気合いを入れ直した。
 よし、最後の時間くらい、頑張ろう。綾波がくれたお守りと笑顔のためにも。
 そう。逃げちゃダメだ……



- To be continued -







おまけ



 そのころ、碇家では。
 主人がまだ新聞を読みながらお茶をすすっていた。

「あなた」
「む?」
「平日に休むなんて、珍しいですね」
「ああ」

 夫人は洗い物と掃除・洗濯を済ませると、主人の前に座って自分の湯飲みにお茶を注いだ。
 そして、主人の方をじっと見ている。
 新聞越しにもその視線に気づいたのか、主人はゴホゴホと咳払いをしていた。

「心配なんですか? シンジの試験」
「…………」
「だからって、休むほどのことでもないでしょうに」
「…………」
「あなたが家にいても、何にもできないんですよ」
「……ユイ」
「何です?」

 夫人の言葉を黙って聞いていた主人だったが、おもむろに重々しい声で夫人に呼びかけた。

「お茶」
「……はい」

 主人が差し出した湯飲みに、夫人は熱いお茶を注いで返す。
 そして主人がお茶をすする音を聞いていた。
 だが、主人はそれきり何もしゃべらない。
 夫人は訝しんで主人に声をかける。

「……まさか、何かしたんですか?」
「…………」

 夫人の声に、主人がガサガサと音を立てて、新聞を広げる。
 パサ……と、新聞の上半分が折れて、主人の顔が覗いた。
 夫人の上目遣いの視線のまさにその先に、主人の顔はあった。

「あなた……」
「……何もできはせん」

 主人は右手の中指でサングラスを押し上げると、夫人の言葉を遮るようにして声を発した。
 いつになく真剣な声に、今度は夫人が黙り込む。

「これは通過儀礼なのだ。シンジが男になるための」
「…………」

 そして新聞を4つに折り畳んでテーブルの上に置き、頬杖をついて沈黙した。
 その視線は、サングラスに遮られていてよく見えない。
 口元も組んだ手で隠されている。
 夫人はまじまじと主人の顔を見ていたが、やがて口を開いた。

「……なら、どうして休んだんです?」
「…………」
「シンジのこと、心配なんでしょう?」
「…………」
「ほんとに不器用な人なんだから、あなたって……」

 主人は何も答えなかったが、夫人にはその心の内がわかったようだ。



- To be continued -




新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

Written by ASAI Yosuke in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions