月曜日。
 その日、私は夕方遅くから買い物に来ていた。
 もちろん、一人暮らしのための夕食の買い出しのためでもあるけれど、今日はそれだけじゃない。
 もう一つ大事な物を買いに来ていた。
 それは明日に迫った一大イベントのために必要な物。
 このあまーい匂いには私も弱いんだけど……

 そう、明日はバレンタインデーなのよ。

「うーん、どれがいいかしら。迷うわねー」

 安いのから高いのまでいろいろあって、選択が難しいところだけど、取り敢えず資金だけは潤沢にある。
 お正月にはお世話になっている親戚のところにご挨拶に行って、お年玉ももらってきたことだし。
 今年くらいは思い切って大きいのをあげたいんだけどな……
 私は独り言を呟きながら、特設コーナーに並べられたチョコレートの山を物色していた。

 どうして一人で買いに来ているのかというと……それには海よりもふかーい訳があるの。
 今は受験シーズン。そして私たちは受験生。だからみんな勉強が忙しい。
 でも、事はそれほど単純じゃないのだ。

 もちろん、アスカやヒカリも境遇は同じなんだけど、私とは少し違うことがあるのよね。
 彼女たちは私と違って成績優秀。だから今さら熱心に勉強する必要もなし。
 おかげで先の日曜日にはチョコレート作りに精を出すことができるというわけ。
 つまり、私はそれに参加できなかったと言うことで……

 だからこうして市販のチョコレートを買い求めに来てるの。
 いいのよっ! 心さえこもっていれば、手作りか出来合いかなんて関係ないんだから!
 問題は、渡す勇気が出るかどうかだけなんだから……

 一通り見て回ってから、めぼしい品物を見比べてみる。
 私って結構さっぱりしてる方だと自分では思うんだけど、こういうときだけはスパッと決められないのよね……
 ……はっ! この気配は!?

「あら、レイちゃんじゃない。久しぶりね」
「あ、ご無沙汰してます……」

 やっぱり、碇君のおばさまだった……
 私は振り返ってぺこっと頭を下げた。
 でも何て言うかこう、気配でわかっちゃうっていうのも不思議なものね。
 そういえば、買い物の時に会うのは久しぶりだわ。
 今日は私が週番で遅くなったからかしら?
 いつもはもっと早く来てるから会わないのかもね。

「先月はシンジを遊園地に連れてってくれて、どうもありがとう。シンジがチケットまでもらっちゃったそうで」
「あ、いえ、あれ、もらい物でしたから、お気遣いなく……それより、碇君乗り物に弱かったみたいで、悪いことしちゃったかなって」
「そんなことないわ。とっても喜んでたわよ。あんなに嬉しそうにしてたのは久しぶりね」
「そうですか、それはどうも……」
「ところで、今日のお買い物は何? 明日の分かしら」
「えっ?」

 ……料理じゃなくて、チョコレートのことよね。
 相変わらず、話の早い人……

「あはは……ええ、一応買っておこうかと……」
「今年は本命の人にはあげるのかしら?」
「えーと、渡すチャンスがあれば……」
「そう、頑張ってね」

 おばさまはそう言って私に微笑みかけると、自分もチョコレートの棚を見始めた。

「あれ、おばさまも買うんですか?」

 私がそう訊くと、おばさまは私の方を振り返ってニコッと笑った。

「ええ、うちの人の分と、シンジの分。それに、職場の人とか、普段お仕事でお世話になってる大学の先生の分もね」

 そう言って大きなハート型のチョコレートを三つ、それに小さなハートチョコがいっぱい詰まっている箱を一つ買い物かごに入れた。
 大きなチョコはビターが一つにマイルドが二つ。これって、意味があるのかしら?

「おじさまにもあげるんですか?」

 どうもあの威厳のありそうなおじさまがチョコを食べてる姿なんて、想像付かないんだけど。

「ええ、あの人、甘い物が好きなのよ。お酒の飲めない人だから」

 そういえば、お酒が飲めないっていうのは前に聞いた記憶が……
 でも、やっぱり想像できないわ。おじさまにチョコなんて……
 それにしても、おばさまってあっさり決めちゃうのね。やっぱり義理だから?

「レイちゃんは、いくつくらい買うの?」
「えっ? あ、えっとー、友だちにあげる分がいくつかと……あとは本命用のを一つ買おうかなって……」
「あらあら、出費が嵩んで大変ね。どれにするか決まった?」
「ええ、義理用のはこっちの小さいのにして……でも、本命用はまだ……」

 そうなのよ。
 さっきから迷っているのは、本命用をどんなのにしたらいいのか、さっぱりわからないから。
 好みでも知っていれば、選択肢が狭まるんだけどな……
 おばさまが決めるのが早かったのは、あげる人の好みを知ってるからもあるのよね、きっと。

「あら、そうなの。じゃ、しっかり考えて選ばなきゃね」
「ええ、そうですね」
「でも、楽しいでしょ。こういうことで迷うのって」
「え?」

 そうかなー。そういうのあんまり思わなかったんだけど……

「だって、受け取ったときに相手がどんな顔するのか、想像すると楽しいじゃない」

 おばさまはそう言ってにこやかに笑った。
 まあ……おばさまくらい綺麗な人からもらったら、みんな喜んでくれるんでしょうけど……

「それじゃ、選ぶの頑張ってね」
「あ、はい。さよなら……」
「そうそう、これは参考になるかどうかわからないけど……」

 おばさまは一旦帰りかけてからくるっと振り返ると、またチョコレートの棚から箱を一つ手にとって私に見せながら言った。

「例えば、シンジなんかだとビター系の方が好きだから、こんなのがいいんじゃないかしら。大きさも値段も手頃だし……もし、甘いのが好きな人なら、こっちとか……」
「あ……はあ……」
「でも、結局は渡す方の心が大事よ。それじゃ、明日頑張ってね」
「は、はい。さよなら……」

 おばさまはそれだけ言い残すと、爽やかな笑顔を振りまきながらレジの方に歩いていった。
 後に残された私は、おばさまが薦めていった二つのチョコを見ながらじっと考えていた。
 うーん、そうかぁ……ビターが好きなのね……



 ヴァレンタイン行動学




 火曜日。
 その日、私はかなり早い時間に学校に来ていた。
 教室にはもちろんまだ誰もいない。
 普段の私なら、こんな時間に来ることはあり得ないのに。
 前の週番の時でも、遅刻しない程度に早く来ただけだし。
 で、今日早く来たのは……もちろん、週番だから。

 別に、チョコを靴箱に入れておいたりとか、机に入れておいたりするためなんかじゃない。
 朝早く渡しちゃうと、その日一日気になっちゃって、授業どころじゃないもんね。今は大事な時期だし。
 (もっとも、渡すまでだって気が気じゃないから、結局一緒だという考え方もある)
 だから私の作戦は、帰りにさりげなーく渡す、というもの。
 もちろん、それまでに何もあげないのは不自然だから、義理チョコでごまかすことにしてある。

 で、何を隠そう、今日早く来たのは、単に朝早く目が覚めちゃったから。
 たぶん、緊張してるんだと思う。
 作戦は立ててあるけど、本命チョコ、渡せるかどうか自信ないから……
 それでなきゃ、こんな寒い朝は布団に潜っていたいわよ。

 花瓶の水を取り替えたりと一応週番らしいことをして、私は自分の席に着いた。
 そして、机の上に突っ伏して、今日のためのイメージトレーニングをする。

 ……昼休み辺りに、みんなに義理チョコを渡す。
 そしていつものように、何事もなく授業が終わって放課後になる。
 私は週番の仕事をするふりをしてこっそりと教室を抜け出し、下足場の出口のところに先回りする。
 そして、出てきたところを呼び止めて……

『あ、あの……』
『え、何?』
『あの、これ……』
『え? これは……』
『その……私の気持ちだから……』
『でも、さっき……』
『そ、それじゃ、私、週番の仕事があるから!』

 そう言って、私はそそくさとその場を去る……
 という段取りなんだけど。
 でも、ほんとにうまくいくのかしら?
 いざとなったら、足がすくむかもしれないし……
 そうなったら、どこで渡せばいいものやら。
 家に届けるっていうのも何だか、ねぇ……

 とその時、ガラガラッと戸が開く音がして、誰かが教室に入ってきた。
 私はハッとして顔を上げ、その人の顔を見てちょっとびっくりした。

「あれ? アスカ……」

 そう、入ってきたのは何と惣流アスカその人だった。
 どうしてアスカがこんな朝早く?
 当のアスカは、教室に私がいたのに気付いて、いささかびっくりしてるみたい。

「う……レ、レイじゃない……何してるのよ、こんな朝早くから」
「それはこっちのセリフよ。どうしたの? 今頃」
「しゅ、週番よ、週番」
「週番は私なんだけど」
「そ、そうとも言うわね……」
「じゃ、どうして?」
「い、いいじゃない。ちょっと早く来てみたくなっただけよ!」

 あらら、どーしたのかしら、アスカ、そんなに動揺しちゃって。
 何だか怪しい雰囲気が身体中からあふれてるわ。
 はっはーん、さては……
 よーし、ここは一つ、気を利かせたふりをして……

「珍しいわねー。あ、そうだ、私、日誌取って来なきゃ。じゃ、ちょっと行ってくるねー」
「…………」

 私はそう言って席を立つと、アスカの脇を通り抜けて、教室を出ていった。
 ガラガラとドアを閉めると、わざと足音を立てて廊下を走っていく。
 しかし階段の手前まで行ったところで立ち止まり、そこから足音を忍ばせてこっそり引き返す。
 教室の近くまで戻ってくると、這うようにして廊下を進み、壁の下の掃き出しの戸をすこーしだけ開けて、中の様子を覗き込んだ。

 アスカはまだ行動を起こしてなかったみたい。
 きっと、私が帰ってこないことを確認してるのね。
 しばらくして、カタッと音を立ててアスカが席を立った。
 そして教室の中を歩き始める。

 やっぱり……机の中に隠そうとしていたのね。
 アスカって、案外クラシックな作戦使うんだぁ……
 さて、あとはそれが誰かを確かめて……

 しかし、私がそれを見届ける前に、アスカは急に踵を返すと、ドアの方に歩み寄ってきた。
 ま、まずいわ!
 私がそう思って立ち上がろうとしたときには、もう遅かった。
 ドアを開けたアスカが、廊下で四つん這いになってデバガメしている私を見つけてしまっていたのだった。

「アンタねぇ……」
「あっははー、見つかっちゃったぁ」

 こうなったら笑ってごまかすのみよね。
 私はバツの悪そうな笑顔を浮かべながら立ち上がると、アスカの方に歩み寄っていった。
 アスカはジト目で私を見ていたが、プイッと顔を横に背けると、教室の中に戻っていった。
 私もアスカの後について教室に入る。

「それで、誰にあげるの?」

 すっかり開き直った私は、単刀直入にアスカに訊いてみた。
 証拠は挙がってるようなもんだから、いいでしょ。

「な、何の話よ!」
「いーじゃない、隠さなくてもー。ね、誰? 誰? ひょっとして……」
「うっさいわねっ! 誰にもあげるつもりなんて、ないわよっ!」
「うっそおー、机の中に、入れようとしてたんでしょ?」
「ち、違うったら!」
「それとも、先を越されてたら捨てちゃおうと思ったとか?」
「なっ! このアタシが、そんなことするわけないでしょっ! ちゃんと、正々堂々と……」

 アスカがそう言って右手で胸を押さえながら振り返ったとき、私はすかさずツッコンであげた。

「やっぱり、渡すんじゃない」
「うっ……」

 ぷぷぷ、この時のアスカの顔ったら、見物だったわ。
 あんなに真っ赤になっちゃったアスカって、初めて見た。
 おまけに、綺麗にラッピングした箱を持ってることすっかり忘れちゃってて、私が見てるのに気付いて、慌てて背中に隠してるの。
 んもー、こんなに乙女しちゃってるアスカ、今後二度と見られないんじゃないかしら。
 ま、これ以上いじめるのは可哀想かな。
 ああ言ったからには、ちゃんと手渡しであげるんだろうし。
 一つ『貸し』ってことで、許してあげるとしましょうか。

「ところで、碇君は一緒じゃなかったの?」

 後ろ手で鞄をゴソゴソやってるアスカに、私は訊いてみた。
 こんなに早く来たからには、多分碇君はほったらかしよね。
 それほどまでして渡したいとは、アスカかなり入れ込んでるのね……

「シ、シンジ? シンジは……今日は来ないかもしれないわね」
「え? どうして?」

 鞄をゴソゴソし終わると、アスカは驚異の回復力で平静に戻り、私に言った。

「朝、出てくるときに、先に行くことおばさまに言いに行ったら、シンジ昨日の晩から風邪で熱出してるんだって」
「えー、ほんとに?」
「嘘言ってどうすんのよ。で、起きられれば行くけど、来なかったら休みだってミサト先生に言っておいてくれって」
「はあー、それはそれはお可哀想に……」

 そう言いながら、私は内心思いっきりがっかりしていた。
 だって、私の立てた計画がガラガラと音を立てて崩れていっちゃったんだから。
 せっかく、おばさまの薦めを聞いて、本命チョコ買ったのに……
 あーあ、どうしよ……

 ……っと、アスカがまた私を睨んでるわね。
 ちょっとやり過ぎちゃったかしら。くわばらクワバラ……
 私がそう考えながらこそっと席の方に戻ろうとしたとき、またガラッと音がして教室の戸が開いた。
 入ってきた人を見て、私とアスカの声は見事にユニゾンした。

「ああー!! ヒカリ!!」



 喧騒の午前中も終わり、ようやく昼休み。
 私たちは久々に三バカ−1+1と一緒にお昼ご飯を食べていた。
 ついでに私は男子たちに義理チョコを配給することにした。
 が、そのうちの一人は忙しくって仕方ない様子……

「渚君、これ、私の気持ち……」
「やあ、ありがとう」
「渚先輩! これ、受け取って下さい!」
「ありがたく受け取らせてもらうよ」
「カヲルさまぁ、私の愛ですぅ……」

 っていう状況だし。
 机の上がもうチョコだらけなのよねー。

「全く、みんな渚、渚と騒ぎよってから。朝から引きも切らずやな」
「まーまー、鈴原君、そんなに羨ましがらなくても」
「アホ抜かせ! 何でワシが羨ましがらないかんのや」
「やせ我慢は身体によくないわよ。はい、これ、義理チョコ」
「お、何や、今年もくれるんかいな。すまんなぁ」
「本命はヒカリからもらってね」
「げふっ! ごほっ、ごほっ!」
「な、何言ってるのよ、綾波さんっ!」

 ぷぷぷ、相変わらずこの二人って、リアクションが大きくていいわね。
 でも、いつになったらみんなにお披露目する気なのかしら?

「それにしても、すごい人気だな、渚の奴。まだ外に何人かいたよ」
「あ、相田君、お帰りー。はい、義理チョコ」
「ん? ああ、サンキュー」
「?」

 あれ? 何なのこの素っ気ない反応は。
 去年はたかが義理チョコを狂喜乱舞して受け取ってくれたのに。
 他にもいっぱいもらったから……ってことは多分ないわよね。
 アスカやヒカリは義理チョコ作ってないって言ってたし……
 そういえば、アスカさっきから全然喋ってないわね。

「アスカー、起きてる?」
「何よ、ちゃんと起きてるわよ、うっさいわね」
「どーしたの、そんな不機嫌そうな顔して」
「別に、不機嫌な顔なんてしてないわよ」

 そうかなぁ。さっきから黙々とお弁当食べてるじゃない。
 いつもは一人で喋りまくってるくせに。
 (私と二人で喋ってるという噂もあるけど)
 やっぱり、渚君のこと気になるのかしら?
 この前はこっそりデートしてたみたいだし……(アスカははっきり否定したけど)

「そんなに気になるなら、アスカもあげればいいじゃない」
「な、何言ってんのよ! どうして私が渚なんかに!」
「別に誰にとは言ってないけど?」
「うぐっ! あ、あんたねぇ……」
「やあ、僕のこと呼んだかい?」
「うーん、ちょっとね」
「呼んでないわよ!」
「相変わらずつれないなぁ、アスカ君は。さて、そろそろ僕も食事にするかな」
「あれ、もう終わったの?」
「ああ、ようやく一段落したみたいだからね」
「これだけたくさんあったら、私の義理チョコ要らない?」
「そんなことないさ。せっかく持ってきてくれたんだから、慎んで受け取らせてもらうよ」
「しかし、大変だろうな、毎年毎年」
「いや、初めてだよ、こんなことは」
「ほんまかいな。嫌味なやっちゃで」
「ス、スズハラ、そんな言い方ないわよ……」
「以前僕がいたところでは、チョコレートを贈る習慣はなかったからね」
「そういえば渚君って、ドイツにいたんだっけ」
「やっぱり日本だけだよな、こんなことするのって」
「わあー、そのサンドイッチ美味しそう! 誰に作ってもらったの?」
「もちろん、自分で作ったのさ。誰も作ってくれないからね」
「でも、すごく丁寧ね。切るの、難しいのに」
「男のくせに器用なやっちゃで。ま、料理やったらシンジもしよるけど」
「そういえば今日はシンジ君は休みなんだね。残念だなぁ」
「残念って、何がだよ?」
「僕もシンジ君にチョコレートを渡したかったんだけど」
「ぶっ!!!!!」

 それを聞いた私たちは、一斉に吹き出していた。
 鈴原君なんて、またご飯にむせてゲホゲホ言ってるの。
 で、問題発言の張本人はといえば、平然とサンドイッチを賞味しているところ。

「うーん、やっぱりサンドイッチは作ってから少し時間を置くと美味しいね。イギリス人が生んだパンの食べ方の極みだよ」
「渚、お前なぁ……」
「あれ? 僕、何か変なこと言ったかい?」
「当たり前や! バレンタインっちゅうのは、女が男にチョコレート贈る日なんや」
「そうなのかい? でも、昨日シンジ君に訊いたときは、好きな人に贈るんだって言っていたよ」
「お前ら、どういう関係なんだよ……」
「シンジ君は僕にとって好意に値する人物さ」
「なんじゃそりゃ?」
「好きってことさ」
「なっ! ……あ、あんたバカァ!? 何であんたがシンジを好きになんなきゃいけないのよっ!」
「ああ、もちろん、アスカ君のことも好きだよ」
「ええっ!!!!」
「バ、バカッ! 何を……」

 うそ……
 まさかとは思ってたけど、やっぱりそうなの?
 私たちは渚君の言葉を聞いて黙り込んでしまった。
 それだけじゃなくて、クラス中が静まり返ってしまった。
 みんながこっちを見てる。アスカはもう真っ赤……
 そんな中で渚君だけが一人落ち着いてミックスジュースを飲むと、にこやかな表情で言った。

「レイ君のこともヒカリ君のことも好きだよ。鈴原君も、相田君も。クラスのみんなも、ミサト先生もね。僕はこの学校に来るために生まれてきたのかもしれない」
「……な、何やそういうことかいな……びっくりさせよってからに……」
「ほんと、よくそういうことがさらっと言えるよな、渚って」

 その会話で、どうやら教室は落ち着きを取り戻したみたい。
 女の子はみんなため息ついちゃってる。
 うーん、でも、ほんとのところはどうなのかしら?
 アスカは……あらら、渚君を睨んじゃってるわ。でもまだ顔は赤いわね。
 びっくりしただけなのか、はたまた……

 それより私は、あんなにあっさりと『好き』って言える渚君の性格が羨ましいわ。
 今日くらいはあやかりたいな……



(はあ、どうしよ……)

 放課後、私は一人とぼとぼと寒い家路を急いでいた。
 週番で遅くなったせいもあるけど、アスカもヒカリも放課後になったらあっと言う間に消えちゃって、誰も待っててくれなかったし。
 (もう一人の週番の男の子はさぼってさっさと帰っちゃうし……)
 空がどんよりと曇ってきて、風が冷たい。今夜は雪かしら。
 あーあ、ヒカリは今頃、鈴原君にチョコ渡してるのかしら。アスカは何してるんだろ。
 私もせっかく用意したのに、このまま渡さないのは残念よね……

 かと言って、明日渡すのも、何だか興ざめだし。
 今日、国語の模擬テストで出てきたのよね、遅れると役に立たない物の例えで『六日のアヤメ、十日の菊』って。
 私の場合はさしずめ、『15日のバレンタインチョコ、26日のクリスマスケーキ』っていうところかしら。(お菓子ばっかりじゃない)

 そう、今日渡さなきゃ意味がないのよ。
 もちろん、このまま渡さないでおくっていう選択肢もあるにはあるけど……
 うーん。
 渡すべきか、渡さざるべきか、それが問題だ。なんちゃって。
 とか何とか言いつつ、私の足は碇君のマンションに向かってるのよねー。
 本命はともかく、せめて義理チョコだけでも……

 ああ、もう、考えてるうちに着いちゃったじゃない。
 碇君の部屋……あの辺よね……
 と、取り敢えず、ぼーっと見上げていても仕方ないから、部屋の前までくらい……
 んーっと、11階だったっけ。どうしてこんな簡単なことが思い出せないのかしら。
 ……もう着いた。
 このエレベータ、どうしてこんなに早いのよ。考える余裕がないじゃない。
 で、この廊下の突き当たりが……

 ……いよいよね。
 呼び鈴を押す手が震えそう。
 でも、何て言って渡そう?
 お見舞いに来てわざわざ義理チョコ渡すっていうのも何だか……って感じだし。
 うーん、迷うなー。
 えーい、もう! なるようになるわ。当たって砕けろよ!

 ……はっ! この気配は!?

「あら、いらっしゃい」
「あっ、こ、こんにちはっ!」

 お、おばさま!? どうして今頃こんなところに……
 確か今日は、お勤めだったはずじゃ……
 振り返ると、おばさまは買い物袋を胸に抱えて、にこやかに微笑みながら私を見ていた。
 ワインカラーのコートがよく似合ってる……

「もしかして、シンジのお見舞いに来てくれたの?」
「は、はい……あ、あの、いえ、私、週番で、今日は公務で、その、プリントを届けに……」

 わ、私ったら、何言い訳しちゃってるのよ。
 すっかり慌てちゃって、これじゃきっとバレバレね……
 でも、おばさまは穏やかな表情のままだった。

「あら、そうなの。わざわざありがとう。ちょっとごめんなさい」
「あ、す、すいません……」

 私がドアの前から横に飛び退くと、おばさまはカードキーを差し込んでドアロックを開けた。
 自動ドアがシュッと音を立てて開く。
 でもおばさまは家に入ってしまわずに、その場に立ったまま私の方を見ながら言った。

「ちょっと、上がっていけば?」
「は、はあ……」

 うっ、この笑顔には弱い……
 それに、ここまで来たら引くに引けないもんね。
 開き直るしか……

「あの……それじゃ、おじゃまします……」
「はーい、いらっしゃい」

 おばさまが一歩引いて道を作ってくれたので、私は観念しておじゃまさせてもらうことにした。
 ああっ、しまった!
 さっき思わずプリント届けに来たって言っちゃったけど、そんなのないじゃない!
 どうしよう……



 家の中に入ると、おばさまはコートを脱いで手早く畳みながら言った。

「シンジ、まだ寝てると思うわ。お昼食べたら、薬飲むように言ってあったから」
「はあ、そうですか」
「座っててちょうだいね。今、紅茶淹れるから」
「いえ、お構いなく……」

 はあー、もう仕方ないわね。
 私はダイニングの椅子に腰を下ろした。
 もう言い訳は考えないでおくわ。
 どうせおばさまにはわかってることのはずだし。
 後はタイミングの問題で……あれ、この香り……
 もしかして、私が大好きなアッサムかしら。
 碇君の家もこの銘柄だったんだ……

「はい、どうぞ召し上がれ」
「ありがとうございます……」

 ティーサーバーを使って、本格的な淹れ方の紅茶ね。
 うーん、いい香り。
 カップを持つと、冷え切った手が温まるわ。
 まずはストレートでいただきます……

「…………」

 うわ、さわやかな香りが口いっぱいに広がって……
 まるで、専門店で飲む紅茶みたい。
 おばさまって、紅茶淹れるの上手……
 うーん、身体も温まってくる感じね。

「クッキーあるから、適当につまんでね」
「あ、いえ、ほんとにお構いなく……」

 と言いつつ、ちゃっかり手を出してしまう私……
 もしかして、おばさまが焼いたのかしら、これ。
 すごいわ、何でもできるんだぁ……

「ごめんなさいね、今日は」
「えっ、何ですか?」

 私の向かいに座って一緒に紅茶を飲み始めたおばさまが、いきなり私に謝ったので、私はびっくりしてしまった。
 私、何か謝られるようなことしたかしら?

「シンジったら、昨日の晩から熱出しちゃって……週末に夜更かししてたみたいだから」
「はあ、そうなんですか」
「単なる風邪だし、もう熱も下がったから、明日は行けると思うんだけど……」
「そうですか。良かったですね」
「でも、シンジったらほんとに残念がってたわよ。レイちゃんから義理チョコもらえるはずだったのにって」
「あはは……まあ確かに、あげる約束はしてたんですけど……」

 そのために義理チョコは4つ買ったんだもんね。
 鞄の中に入ってるからここで出してもいいんだけど……
 ……どうもおばさまの言い方は、何か含みがあるのよねー。
 特に、『義理チョコ』って言った辺りとか。
 ま、しょうがないか。全部知られちゃってるもんね。
 取り敢えず、出し惜しみしてもしょうがないから。おばさまに言付けちゃおっと。

「あの……それじゃ、これ、渡しておいて下さい」

 私は鞄を開けて小さなラッピングを取り出すと、おばさまの前に置いた。
 鞄の中にはもう一つ、大きめのラッピングがあるんだけど……これはどうしようかしら?
 これもおばさまに渡す? でも……

「あら、わざわざありがとう。シンジ、きっと喜ぶわ」

 おばさまはそう言いながらその箱を手に取ると、ニコニコしながら眺めている。
 母親って、息子がこういうのを女の子からもらうと、うれしいものなのかしら?
 父親は娘に男が近付くといやがるって言うけど……
 おばさまのお父様も、大変だったんじゃないかしら。
 娘に悪い虫が付かないかとか心配したり……

 と、おばさまの笑顔を見ながらそんなことを考えていた私は、ふと思いついたことがあった。

「あの、おばさま……一つ訊いていいですか?」

 こんなこと訊いていいのかしら、と思いながら、私は口を開いていた。
 おばさまが顔を上げて、私の方を見た。

「何かしら?」
「あの……おばさまが私くらいの時、バレンタインはどうしてたんですか?」

 おばさまの若いときのこと想像してたら、思いついちゃった。
 別に、参考にしようっていうわけじゃないのに……
 どうして私、こんなこと訊いてるんだろ。

「中学の時? そうねぇ、あの時は確か……」

 おばさまは箱をテーブルの上に置くと、頬杖をついてその箱を見ながら考え始めた。
 何だかとっても楽しそうに見えるのは気のせいかしら。
 いい思い出があるとか?

「……同じクラスに憧れの男の子がいて、その子に渡そうとしたの。無口で孤独な感じのする、ちょっと変わった子だったわ。3年間ずっと一緒のクラスだったんだけど、2年の終わり頃から気になりだして」

 ……まさか、おじさまじゃないでしょうね。
 年齢が合わないような気がするから違うと思うけど……

「2年のバレンタインの時は恥ずかしくて渡せなかったんだけど、3年の時にはその子に渡そうって思ってチョコを用意したの。一大決心だったのよ。私って引っ込み思案だったから……」

 え? そうなの?
 おばさまって、昔から気さくな性格じゃなかったのね……
 もしかして、碇君っておばさまの昔の性格を受け継いだのかしら?

「それで、どうなったんですか?」

 その当時だって、おばさまは美人だったはずだから、相手の男の子だって、喜んで受け取ってくれて……
 私が勢い込んで訊くと、おばさまはあっさりとした声で言った。

「それが、渡せなかったの」
「えっ、どうしてですか?」
「その日は日曜日で、模試があったから会えたはずなんだけど、私が風邪をひいて休んじゃって」
「はあー、それは残念でしたね」
「あら、そうでもないわよ」
「?」

 どうして残念じゃないのかしら……だって、せっかく気合い入れてチョコ用意したはずなのに。
 するとおばさまは、私の目を見ながらゆっくりと話し始めた。

「渡していたら、その人と付き合うようになっていたかもしれないし、今とは違う私になっているかもしれない。それはそれで一つの人生。でも、渡さなかったから、今の私があるの」
「…………」
「主人がいて、シンジがいて、今ここでレイちゃんとお話ししている私。これもこれで、一つの人生。その人とお付き合いしていたら、今のこの出会いはなかったかもしれない」
「…………」
「人生には様々な分岐点があって、その先にいろいろな人生があるわ。今の私はその中の一つの可能性。偶然だったかもしれないけど、私は今の人生を選んだの」
「…………」
「でも、私は今のこの人生に、何一つ不満がないもの。だから、その時のことは残念だと思ってないの」
「…………」

 私は黙っておばさまのお話を拝聴するのみだった。
 何だか、すごいこと聞いてるような気もするけど、今一つ飲み込めてない。
 単なる運命論じゃなくて、他にも何かあるような感じが……

「ごめんなさい、変なこと言っちゃって。ある人に言われたことの受け売りだから、忘れちゃってね」

 おばさはそう言ってクスッと笑った。
 私がさっぱりわけわからないっていう顔してたからかしら。
 私もつられて笑ってしまう。
 そうね、今の私にはよくわかんないけど、あと何年か経ったらわかるようになるかもしれない。
 だから、その時まで憶えていようっと。

「もっとも、その時渡せていたら、今頃どんな人生になっているか、少しは興味あるけど」
「あ、そうですね。そうなっていたら私、おばさまとは知り合えなかったのかも」

 私はつられてそんなこと言っちゃったけど……これって重要な事じゃない。
 だって、もしおばさまが違う人生をたどっていたら、私、碇君と会えなかったっていうことに……

「うふふ、そうね。私としては、そっちの方が残念だったかな? ところで、レイちゃんは……」
「あ、はい……」

 私がちょっと怖い考えに深入りしそうになっていると、おばさまがまた話しかけてきた。
 うっ、何だか、目が楽しそう。
 まさか、核心を突かれるのかしら……
 ……と思ったら、部屋の片隅からポップな電子音が流れてきた。

「あら……ごめんなさい、ちょっと待っててね」

 おばさまはそう言って立ち上がると、私の斜め後ろの方にある電話を取った。

「はい、碇です……
 あら、どうしたんです? 今頃……
 えっ……
 ええ、そうよ……
 えっ、でも……
 そうですか……わかりました」

 うーん、話し方からするに、きっとおじさまね。
 確か同じところにお勤めのはずだけど、どうして一緒に帰ってこなかったのかしら。
 碇君が風邪ひいてるから、おばさまだけ先に帰ってきたとか?

「レイちゃん、ちょっと悪いんだけど……」
「あっ、はい」
「私、これから駅まで主人を迎えに行かなきゃいけないの」
「あっ、それじゃ、私もそろそろ……」

 私がそう言って立ち上がろうとすると、おばさまがそれをやんわりと制しながら言った。

「外は雪が降ってきてるんですって。後でお家まで送るから、ほんの15分だけ、お留守番お願いできないかしら?」
「えっ、私は別に構いませんけど……」
「ごめんなさいね、ほんとに。良かったら、自分で紅茶淹れて飲んでね。それじゃ……」
「あ、はい、行ってらっしゃい……」

 おばさまは椅子に掛けてあったコートを手に取ると、慌ただしく家を出ていった。
 私はふとリビングの方の窓に目を移した。
 外は暗くなってきてよく見えないけど、確かに雪が降っているみたい。
 うーん、この中を帰るのは確かに寒そう……
 私の家、ここからだと駅とは反対方向だから、先に送ってもらうとおじさまを待たせちゃうことになるから、仕方ないといえば仕方ないんだけど……
 そんなことを考えながら、紅茶をもう一杯頂こうとしたとき、また電話が鳴った。

 ……どうしよう?
 出た方がいいのかしら。
 おじさまからかもしれないし……

 私は立ち上がると、電話の前で深呼吸した。
 それからおもむろに受話器を取る。
 そうそう、ここは碇君の家なんだから……

「はい、い、碇です……」

 ……うう、『碇です』って言うの、やっぱりちょっと緊張しちゃった……

『うん? その声は……』

 あ、この渋い声、おじさまだ……

「あ、はい、綾波です。どうもおじゃましております……」
『ああ、レイ君か。ユイはもう出たかね』
「はい、おじさまの電話があって、すぐ……」
『そうか……わかった、もういい。ありがとう。済まなかったな』
「いえ、こちらこそ……失礼します……」

 ……切れちゃった。
 何の用件だったのかしら?
 それにしても、私が電話に出たことを、それほど不思議に思わなかったっていうのも……

 私はまた席に戻ると、ポットからティーサーバーにお湯を注いで紅茶を作った。
 しばらく待って充分に色を出してから、カップに注ぐ。
 今度はミルクティーにしてみようっと。
 私はおばさまが出しておいてくれたクリームミルクをカップにそっと注いだ。

 一口飲んでカップを置くと……家の中が静かだった。
 リビングかどこかから聞こえてくる時計の音が、妙に大きく聞こえているのが静けさを増す。
 外でしんしんと降っている雪の音まで聞こえてきそう……
 その時になって私は初めて気が付いた。

(……私、今、この家の中で、碇君と二人っきり……)

 私は振り返って、リビングの中を見てみた。
 そこから壁一枚隔てて、碇君の部屋が……
 そこで寝てるのよね。
 な、何だか変に気になっちゃう。
 今、突然起きてきたらどうしようとか……

 時計を見ると、おばさまが出て行ってからまだ5分も経ってない。
 即ち、あと約10分間は私と碇君は二人きり……
 ……でもこれって、もしかして……チャンス?

 私はさっきのおばさまの言葉を思い出していた。
 チョコをあげられなかったから、今の人生がある……
 その言葉を裏から考えれば、ここで渡すのと渡さないのとでは、大きく人生が変わっちゃうかもしれないってことよね。
 今、渡さないと……どうなっちゃうんだろう?

(…………)

 ……そんなの、考えたくないな……

 私は膝の上に置いた手で、スカートをぎゅっと握りしめた。
 よし……
 私はじっくり考えてから、立ち上がって鞄を手に取った。
 直接は手渡せなくても、部屋に置いてくることくらい、できるわよ。
 そう思ってから10秒後には、碇君の部屋の前に立っていた。

 ……でも、やはりいざとなると、勇気がいるものね。
 襖の取っ手に指をかけたけど、それを横に引く力が出ない。
 そのまま約1分間ほど、私は固まっていた。
 ……アスカは毎朝平気でこの部屋に出入りしてるのに、私はまだ一度も入ったことがない。
 それって何だか、悔しい……
 そこまで考えて、ようやく私は襖を少しだけ開けることができた。

 その隙間から部屋の中をそーっと覗く。
 中はもう薄暗かった。
 碇君は……まだ寝てるみたい。
 私はそろそろと襖を開けていった。
 ゆっくり開けているのに、襖が敷居を滑る音がやけに大きく聞こえた。

 身体が入るだけ開けると、中にこそっと滑り込み、後ろ手で襖を閉めた。
 抜き足差し足でベッドに近付いていく。
 枕元の横に立つと、覆い被さるようにして碇君の顔を覗き込んだ。

 ……よく寝てるみたい……

 これは当分起きそうにないわね。
 私はベッドの横の勉強机の上に鞄を置くと、中からピンクのラッピングをした箱を取り出した。
 箱にはしっかり赤いリボンもかかっている。(私がやったんじゃないけど)
 それを机の真ん中に置いて……側にあったメモ用紙にポールペンでメッセージを走り書き。
 誰が置いていったのかわからなきゃ意味ないもんね。
 そしてその紙をリボンの間に挟んでおいた。

(これで良し、と……)

 私は鞄を閉じると、ベッドの横にしゃがみ込んで、もう一度碇君の顔を覗き込んだ。
 あー、やっぱり碇君の寝顔って、いいな。優しくて……
 そしてそのまま碇君の寝息に耳を傾ける。
 ……少し呼吸が深いかしら?
 熱は下がったっておばさま言ってたけど、まだ下がりきってないんじゃ……
 ……熱、見てみる?

 私はちょっとドキドキしてきた。
 べ、別に、いけないことしてるわけじゃないわよね。
 ちょっと心配になって、熱を計ってみるだけなんだから……
 しばらく考えてから、私は碇君の額にそっと手を置いてみた。

 何だか、熱い感じがする。
 私の手が寒さと緊張で冷え切っているからかも。
 でも、気のせいかもしれないけど、碇君の表情が楽になったような感じがする。
 やっぱり、冷やすと気持ちいいのね……
 ということは、やっぱりまだ熱があるのかもしれない。
 でも、比べてみないと、よくわからない……何と? 何って、それは……

「……んん……」

 えっ!?
 今の、碇君の声……
 まさか、起きた?

 私は慌てて碇君から手を離した。
 バランスを崩して後ろに転びそうになったけど、何とか踏みとどまった。
 そのまましばらく様子を見る。
 碇君はそれっきり声も出さない。
 ……起きたんじゃないみたい。
 と思った瞬間、また碇君の口が小さく開くのが見えた。

「……あや……な、み……」
「えっ……」

 碇君……私のこと、呼んだ……
 どうして……
 やっぱり起きたのかと思って恐る恐る顔を近付けてみたけど、碇君はまだ目を閉じたままだった。
 じゃ、今の、寝言……

(……まさか、私の夢……見てくれてるの?)

 眠っていても、私が側にいること、気付いてくれてるのかもしれない。
 もしそうだったら……
 ……もっともっと、私の気持ちにも気付いて欲しい。
 そう思うと、少しだけ勇気が出た。
 碇君、ごめんね。寝てるからって、こんなことして……

 私は自分の前髪をかき上げると、碇君の額に私の額を……そーっと……押し当てた。

 こつん……と、頭が当たった音がした。
 私は目を閉じて、額に意識をひたすらに集中した。
 こうしたら……もっと私の夢、見てくれる?
 こうしたら……碇君の考えてること、わかればいいのに……

 さっき私の手で冷やしたから、碇君の額は少し冷たい感じ。
 しばらくすると、碇君の熱が伝わってきた。
 でも、何だか私の体温の方が上がってきた気が……
 二人の体温が溶け合って、境界がなくなっていくみたい……

 そして私は碇君の耳に向かって、小さな小さな小さな声で言った。

「碇君……早く良くなってね……」

 そのままじっとしているだけで、私は何だかとても幸せな気分だった。



 その頃、同じマンションの地下の駐車場では。
 暗がりに一台の車が、車内にほのかな明かりを灯しながら停まっていた。
 そしてその中では一組の夫婦が、声も立てずに座っていた。
 本来はカーナビゲーションの役割をする液晶テレビには、薄暗くなったどこかの部屋が映し出されている。
 部屋の中にはベッドに横たわる少年と、その上に覆い被さっている少女の姿があった。
 車の中の夫婦は、先程からじっとそのテレビを見ているのだった。
 およそ15分ばかりも前から。

「ふぅん、まさかほんとにこんなことになるとは思わなかったけど……いい雰囲気ですね」
「ああ」

 妻の言葉に夫は短く答えると、ニヤリと笑った。
 テレビの光がその彫りの深い顔を下から照らしていて、いささか怖く見える。
 夫はテレビから目を離すと、フロントグラスの向こうの壁をじっと凝視しながら呟いた。

「シンジ……今日風邪をひいたことを、ありがたく思うんだな」

 その言葉を聞きとがめたのか、妻は顔を上げて夫の横顔を見ながら尋ねた。

「あら、あなた……まさか、わざとうつしたんですか?」

 だが夫はそれには答えず、またまたニヤリを唇の端を歪ませただけだった。
 妻はしばらく黙ってその横顔を見ていたが、やがてふうっとため息をつきながら言った。

「これ以上放っておいて取り返しのつかないことになると大変だから、そろそろ戻りますか?」
「ああ、そうだな」

 そしてテレビのスイッチを切ってエンジンを止める。
 辺りがふっと暗くなった。



『こんばんは、おじさま、おじゃましてます』
『ああ、レイ君、留守番をさせてしまったそうで、済まなかったな』
『いえ、そんな、座ってただけですから』
『ごめんなさいね、レイちゃん。雪、見えた?』
『え? あ、あはは、はい、結構降ってますね』

 全く、油断してたわー。
 時間が経ったことに、全然気付かなかったんだもん。
 ドアの開く音に気付いて、慌てて碇君の部屋から飛び出してきた私を見て、おばさまは私がリビングの窓から外を見ていたと思ったみたい。
 でも、油断のならないおばさまのこと。案外わざと知らないふりしてたのかも……

 その後、夕食を食べていけば、というおばさまの薦めを私は丁重にお断りして、車で送って帰ってもらっているところだった。
 だって、夕食時には起きてくるであろう碇君に、どんな顔して会えばいいか、わからなかったんだもの。

「今日はわざわざありがとう、チョコ持ってきてくれて」

 マンションの前で私は車を降りて、車に乗ったままのおばさまと窓越しに立ち話。
 辺りはもう真っ暗。
 街灯に照らされた雪が、キラキラと輝いていて綺麗。
 でも、この降り方は半端じゃないわね。
 明日の朝には結構積もってるかも……

「いえ、そんなぁ……それに、約束してましたから」

 もはや週番という言い訳はバレバレよね。
 だって、プリントも何も渡さなかったんだもの。
 でも、おばさまはその辺を追及するようなことはしないでくれたので、私は少し気が楽だった。
 ほんとに優しい一家ね……

「あら、そう。でも、シンジきっと喜ぶわ。あんないい物もらえて」
「いえいえ、安物ですから……」
「じゃ、来年は心のこもった手作りかしら?」
「あ、そうですね。できればそうしたいです」
「良かったら、教えてあげられるわよ」
「ほんとですか? じゃあ、その頃にになったらぜひ!」

 私がそう言ってにっこりと笑うと、おばさまも微笑み返してくれた。
 そう、来年には、もっとちゃんとした渡し方するわよ!
 ……それにしても、今晩は冷えそ……

「っくしゅ!」

 私は慌てて横を向いてくしゃみした。
 急に身体が冷えたからかしら?

「あらあら、大丈夫? 早く部屋に戻って、あったかくしてね」
「いえ、もう止まったみたいですから……それじゃ、おばさま、失礼します」
「はーい、さよなら。今晩は冷えるからあったかくしててね。それじゃ、またね」
「さよならー」

 閉まっていく窓ガラスの向こうのおばさまに、私は手を振った。
 車がそこの角を曲がるまで見送ってから、大急ぎで部屋に走って上がる。

「っくしゅん!」

 やだ、ほんとに風邪ひいたのかしら。
 べ、別に、碇君の風邪がうつるようなこと、してないわよね……



「うわあ、よく寝た……」

 目を覚ますと部屋は真っ暗だった。
 昼ごはんを食べてからほんの一眠りするだけのはずだったのに……
 今、何時なんだろう?
 まさか、夜中じゃないよな。
 さすがに母さんも夕食の時には起こしてくれるだろうし……

 僕は起き上がって机の上の時計を見ようとした。
 液晶時計だけど、夜光塗料で薄く光っているから時間は見えるはず……
 ……7時前かな? 夜だよな。
 何か机の上に置いてあって、よく見えない。
 時計が見えるようにあの辺りには何も置かないようにしてるはずなんだけど……

 僕は起き上がって部屋の電気を点けた。
 それからもう一度時計を見ようと思って机を見たとき、何かが置かれているのに気付いた。

「……何だ、これ?」

 綺麗なラッピングがしてある……何かのプレゼント?
 あ、そういえば、今日はバレンタインデーか。
 そうするとまた母さんが買ってくれたのか。
 それにしても大きい箱だな……
 手に取ろうとしたとき、リボンのところにメモが挟まっているのに気が付いた。
 あれ、これは……

   『碇君へ
      早く良くなってね。
             レイより』

 読んだ瞬間、眠気が一気に吹っ飛んでしまった。
 頭から冷水をぶっかけられた気分だ。

「え? ええっ!? まさか、綾波が? か、母さんっ!」

 箱には『St. Valentine's Day』とはっきり書かれてあった。
 綾波がくれたチョコ?
 どうして僕の部屋の机の上に……
 僕は慌ててダイニングに向かって走っていた。

「あら、シンジ、起きたの? お夕食の準備ができたから、ちょうど起こそうと思っていたところよ」

 部屋から駆け出してきた僕を見て、母さんがそう言った。
 父さんは机の前に座って夕刊を読んでいる。
 今日は鍋料理……って、そんなことは問題じゃない。

「か、母さん、今日、綾波が来たの?」

 僕がそう訊くと、母さんは悠然とコンロに火を点けながら言った。

「そうよ。どうして知ってるの?」
「え? い、いや、それは部屋にチョ……いやその、メモが……」

 ちょっと動転していた僕は、ついチョコのことを隠してしまった。
 しかし、母さんはニコニコ笑いながら僕の方を見て言う。

「わざわざチョコレート届けてくれたのよ」
「え? そうなの?」

 ……なんだ、隠す必要なんてなかったんじゃないか。
 それにしても、わざわざ届けてくれたのか……

「そうよ。後でちゃんとお礼の電話しておきなさい」
「う、うん、わかったよ」
「じゃ、お夕食にするから、何か上に羽織ってらっしゃい。そのままじゃまた風邪ひくわよ」
「あ、うん……」

 その時になって、僕は急に寒気がしてきた。
 よく考えたら、パジャマのまま部屋を飛び出してきたんだ。
 暖房はついているけど、何となく涼しい感じだ。
 部屋に戻ると、もっと寒かった。
 よく見ると、窓のところに雪が積もってるじゃないか。
 寒いわけだ……

(それにしても、綾波……)

 パジャマの上からトレーナーを着て、その上に丹前を羽織ってから、僕は改めて机の上に置かれたチョコを手に取って見つめていた。
 綾波……こんな雪の中、わざわざ届けてくれたんだ……僕のために……
 夢の中に綾波が出てきて看病してくれたみたいな気がしたけど、ほんとに来てくれてたなんて……

「……綾波……ありがとう、こんな大きなチョコ……義理でも、うれしいよ……」

 一人で部屋に立ち尽くしたまま、僕はひたすら感動していた。



 その頃、ダイニングでは。

「こっちの義理チョコは、シンジには渡さない方がいいわね」

 ユイがそう言いながら、チョコレートの箱を2つ、冷蔵庫の中に隠していた。
 一つはユイが買った物で、もう一つはもちろんレイから預かったものだ。
 本命をもらったのだから、渡す必要もないわよね。
 ユイはそう判断していた。
 が、シンジが部屋で一人、大きな勘違いを犯していることには気付かなかったようだ。

「ユイ」
「はい?」

 ゲンドウは新聞を読みながら黙って横目でユイのすることを見ていたが、新聞を畳むとユイに話しかけた。

「そのチョコレート……」
「あなたにはあげませんよ」
「む……」

 だが、あっさりとユイに看破されてゲンドウは黙り込んだ。

「シンジにもらった物をあなたにあげたらレイちゃんに悪いでしょ。これは私が有効利用します」
「しかし……」
「ほんと、あなたって、甘い物には目がないんだから……」
「くっ……」

 ゲンドウは悔しそうな表情を、再び新聞を広げて隠した。
 ユイは夫に気付かれないように、声を立てないようにしてクスクスと笑っていた。



「ううん、いいのいいの、約束だったし。それじゃねー」

 ピッ

「ふう……」

 碇君からかかってきた電話を切ると、私はため息をついた。
 『わざわざ持ってきてくれてありがとう』っていうお礼の電話。
 それはそれなりにうれしかったんだけど……

 でもね!

 そう、どうしてなの?
 どうして碇君って、そうなの?
 ほんとに、どうして……

「どうして義理チョコと勘違いしちゃうのよ、碇君ったら!」

 まったくもう、鈍感なんだから!
 思わずアスカの真似して『バカシンジ!』って言いたくなっちゃう。
 そりゃ、本命だってはっきり言わなかった私も悪いけど……

 もう、いいもん!
 来年こそ、ちゃんと告白するんだから!



 ……でも、ほんとに、告白なんてできるのかなぁ? 自分で心配……



- Fin -







おまけ



 水曜日。
 その日、私はいつも同様遅刻寸前で学校に来ていた。
 で、そこで偶然聞いたアスカとヒカリの話……

「おはよ、アスカ」
「おっはよー、ヒカリ」
「ね、アスカ、ちょっと訊きたいことがあるんだけど……」
「えっ? 何?」
「あのさ、昨日……」
「うんうん、うまくいった? 鈴原に渡すの」
「そ、そのことじゃなくて……」
「え? 違うの?」
「うん……昨日、アスカ、チョコ渡した?」
「えっ……わ、渡したよ、ちゃんと……」
「渡した相手……相田君じゃないわよね?」
「なっ! 何でアタシがあんなオタク男に!」
「そ、そうよね、だってアスカ、渚君に……」
「! ヒ、ヒカリ、声、大きいわよっ!」
「ご、ごめん……」
「ア、アタシはあいつに、どうしてもって頼まれただけなんだから……」
「……ほんとに? でもアスカ、作ってるときすごく楽しそうだったし……」
「うっ……そ、それはともかく、何で相田のことなんか気にするわけ?」
「え? う、うん、あの……昨日ね、帰りに……」
「帰りに……どうしたの?」
「……喫茶店に寄ったんだけど、相田君が誰かにチョコレートもらってるところ、見たの……」
「はあ? まっさかぁ……」
「ほ、ほんとなんだってば! 相手は見えなかったんだけど……でも、そのラッピングが……」
「ラッピング?」
「うん、ラッピングが、アスカや私と同じのだったから……」
「でも、あれは例のケーキ屋でもらったやつじゃない。偶然よ、きっと。それしても、あの相田が……」
「うん……でも、リボンの結び方も、私たちのにそっくりだったし、それで……」
「……ちょっと待って、ヒカリ」
「え?」
「アタシたち、確か……コダマさんとノゾミちゃんの分のチョコも、作ったわよね? ラッピングも同じにして……」
「え? ええ、そう言えば……え? ええっ!? じゃ、じゃあ、まさか……」
「そのまさかよ! これは相田の奴を問い詰めて、どっちなのか確かめる必要があるわねっ!」

 私はそんなことどっちでもいいもん!
 碇君のバーカ!
 『昨日はありがとう』じゃないわよ。
 ホワイトデーにプレゼントくれるまで、口きいてあげないんだから!



- Fin -




新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions