金曜日。夜。

 ピ ピ ポ ピ ポ パ ポ ピ
 トゥルルルルル トゥルルル プッ

『はい、惣流です』
「もしもし、綾波と申しますが、アスカさんは……」
『あら、レイ、何?』
「アスカ? 久しぶり〜」
『何が久しぶりよ。こないだ初詣行ったばっかりじゃない』
「えへへ、そうだね」
『今日は何?』
「んーとね、ちょっと相談が……」
『宿題なら見せないわよ』
「いや、あの……今日はそうじゃなくて」
『あら、珍しいわね』
「別に、いつもってわけじゃないじゃなーい」
『見せなかったのは去年の冬休みくらいよ』
「う……だから、今回は、そのお礼を……」
『ん? 何してくれるの?』
「あのね、遊園地の券2枚もらったんだー。一緒に行かない?」
『遊園地? いつ?』
「これがねー、明日までなの」
『明日? 明日は……ダメ』
「え? 何で? いいじゃん、受験勉強一日くらいやんなくったって」
『そういうわけじゃないのよ』
「じゃ、何? 先約?」
『ん、ちょっとね』
「誰と? ヒカリ?」
『え? そうじゃない……けど』
「ふーん、じゃ、ヒカリに電話してみよっかな。ごめんね、夜遅くに」
『こっちこそ、悪かったわね、誘ってもらったのに』
「ううん、いーのいーの。それじゃ、またね」

 ピ

 あーあ、やれやれ。
 アスカは空いてない、か。
 でも、誰と遊びに行くんだろ。
 お父さんでも帰ってくるのかしら。
 ま、それはともかく、ヒカリに電話を……

 ピ ピ ポ ピ ポ……

「あ、もしもし、ヒカリ〜?」

 …………

 ピ

 ……ヒカリも空いてないのか。
 それじゃあ……

 ピ ピ ポ ピ……

「あ、もしもし……」

 …………

 ピ

 ピ ピ ポ……

「もしもし……」

 …………

 ピ

 うーん。
 いったいどういうことよ。誰も空いてないじゃない。
 私がどんな悪いことをしたっていうのよ。
 (冬休みの宿題まだやってないだけでしょ)
 そりゃ、普通は今頃みんな受験勉強だもんね。
 でも、このまま券をムダにしちゃうのはもったいないし……
 うーん……

 …………

 よし。

 ここはちょっと勇気を出して……

 ピ ピ ポ ピ ポ ポ パ ポ
 トゥルルルルル トゥルルル プッ

「あっ、あのっ、あ、綾波ですけど、い、碇君は……」



 夜景を見ながら




 土曜日。朝。

「シンジ、今日は遅くなるの?」

 僕が出掛けようとすると、母さんが訊いてきた。

「え? いや、晩ごはんまでには帰ってくると思うけど……」

 僕は靴を履きながらそう答えた。
 今日は綾波に誘われて遊園地へ行くことになっている。
 二人だけで行くから……これって、もしかしたらデートかも。
 でも、アスカも委員長も行けないから、って言ってたし……
 そうだよ、僕はピンチヒッターなんだから、変な期待しちゃダメだ。

「あら、そう。泊まってくるのかと思ったのに」
「な、何、言ってるんだよっ!」
「うふふ、冗談よ」

 全く、母さんと来たら……
 そんなこと言ったら、意識しちゃうじゃないか。
 だいたい、僕と綾波の仲はそんなのじゃないんだ。
 ……遠い将来はそういうのになれたらいいとは思ってるけど、そんなのまだまだ……

「お昼、向こうで食べるんでしょう? お金持ってるの?」
「うん、お年玉があるし」
「そう、それじゃ、気を付けてね。ちゃんとリードしてあげるのよ」
「……リードって何だよ。そんなのじゃないったら」
「はいはい。それじゃ、行ってらっしゃい」
「……行って来ます」

 やれやれ。
 どうも最近、綾波のことになると母さんがうるさいような気がする。
 初詣に行くときも、綾波の晴れ着のことを何だかんだと言ってたし。
 ……それとも、僕が気にしすぎなのかな。
 綾波の名前が母さんの口から出る度にいちいち気を回してるからかもしれない。
 でも、何だかこう、弱みを握られてるような感じなんだよな、言い回しが。
 フォトファイルの中身は少なくとも父さんにはばれてるはずだし、他にも……
 いいや、もうこれ以上気にするのはよそう。
 とにかく、今日は一日楽しもうかな。緊張しないようにしないと……



 その頃、碇家のダイニングでは。
 新聞を読んでいる夫に、妻が話しかけていた。

「あなたも、早く準備して下さい」
「うむ」
「言い出したのはあなたなんですからね」
「ああ、わかってるよ。ユイ」



 遊園地までは電車で10分くらい。
 今日の待ち合わせ場所は駅。
 時間は午前9時ちょっと前。
 思えば、碇君より早く私が待ち合わせに来たのなんて、初めてじゃないかしら。
 あらゆる待ち合わせに遅れてるもんね、私って。
 こないだの初詣の時だって、寝癖がなかなか直らなくて……

「あ、来た来た」

 っと、つい独り言が出ちゃった。
 もう直らないわね、この癖。
 駅の階段を上がってきた碇君を見て、私は小さく手を振った。
 なーによ、碇君たら、そんなにびっくりすることないじゃない。

「ごめん、待たせちゃった?」
「ううん、全然。私もさっき来たとこ」
「あ、早かったんだね、今日は」
「あはは……まあね」

 30分前に来て下の本屋で立ち読みしてたというのは内緒。
 うーん、無理にでも早起きした甲斐があったわ。
 私が今まで待たせた合計時間は、30分じゃ済まないもんね。
 しかし、何も『今日は』のところだけ力入れて言うことないじゃない。

「じゃ、そろそろ行こうよ」
「あ、うん」
「碇君、切符まだでしょ」
「うん、買わなきゃ」
「えーっと、あそこの駅までだから……」

 切符を買って電車に乗り込むと、私はしゃべりっぱなしだった。

「今日はあったかいわねー」
「うん、良かったね、いい天気で」
「えへへ、私のおかげよ。感謝すること!」
「どうして?」
「だって私、晴れ女だもん」
「そういえば、去年はイベントのときはほとんど晴れてたね」
「でっしょーお? 全て私の神通力のおかげよ」
「そんな大袈裟な……こないだの駅伝大会は、大雨で中止だったじゃないか」
「だってー、あれ、いやだったんだもん」
「いやだと雨が降るの?」
「そう」
「そんな無茶な」
「無茶とは失礼ね。確率高いんだから」
「昔からそうなの?」
「うん、どういうわけかね」

 二人で吊革に掴まりながらのおしゃべり。
 普段からよくしゃべる私だけど、緊張したときはもっとしゃべってしまう。
 そう、今日の私は緊張していた。
 何しろ、碇君と二人で遊びに行くなんて初めてだったから。
 ……それにしても、今日は碇君もよくしゃべるわね。

「ところで、碇君は高校どこ行くか、決めた?」
「うん、一応」
「どこ?」
「……綾波は、決めたの?」
「えへへ、一応ね」
「どこ? こっちの方?」
「まあね。大学行くまではこっちにいる予定だし」
「そうなのか……」
「で、碇君はどこ?」
「まあ、無難なところで、弐高」
「へー、そうなんだ」

 うふふふふ。そうかぁー。
 うーん、これははっきり言ってラッキーよね。
 初詣のおみくじに書いてあった、『春より良い報せ有り』ってこのことだったのかしら。

「綾波は?」

 私がぼけぼけっと妄想していると、碇君が私の顔を覗き込みながら訊いてきた。
 まずいわ。顔が緩んじゃってたかしら。
 いつも脳天気なのが幸いしてばれてなきゃいいけど。

「私? 私はねー……どこだと思う?」

 私はにへらっと悪戯っぽく笑いながら逆に碇君に訊いてみた。

「……どうして教えてくれないの?」
「だから、当ててみてよ」
「当ててみてって言われたって、そんな……ヒントとかないの?」

 あれ、口癖の『わかるわけないよ』が出るかと思ったけど、今日は前向きね。
 まあ、いつもが後ろ向きってわけじゃないんだけど。
 ちょっとは碇君も大人っぽくなってるのかしら。
 そういえば、背も高くなったし、声も変わりかけてるし……
 子供っぽい碇君もいいんだけど、やっぱり少しは凛々しい方がいいわよね。
 ……って、別に私の彼氏じゃないんだから、こんなこと考えても仕方ないんだけど。

「ヒントね……まあ、いつもの私の成績を考えてもらえれば」

 テストの度に、いつもの6人で見せ合ってるからわかるはずよね。
 っと、最近は7人だっけ。渚君、いつの間にか私たちのグループに入っちゃってるし。
 まあ、私はアスカやヒカリ、渚君と違って、三バカトリオの方に成績が近いから、見せるの恥ずかしいんだけどなぁ。

「綾波の成績って、確か僕と同じくらいで……え? じゃあ……」

 ん? そんなに驚くようなことかしら。
 むしろ、うれしがってほしいくらいなんだけど。

「ピンポーン、正解です」
「じゃ、ほんとに弐高なの?」
「そうよ。一緒に行けるといいね」

 模試の成績によれば合格率70%以上だけど、そんなのは試験当日の調子によって変わっちゃうから宛てにならない。
 緊張したりしたらポカやっちゃう方だし、私って。
 でも、何としても合格したくなって来ちゃった。
 もちろん、碇君と一緒に……
 そうして、この前の言葉の意味を確かめるのよ。

「そうだね、一緒に合格できるといいね」

 あれれ、碇君、目がちょっと真剣。
 やっぱり、受験の話題はまずかったかしら?



「結構空いてるのね」

 遊園地に入ると、綾波が誰にともなくそう言った。
 僕も改めて周りを見回してみる。
 まあ、開園したばっかりだから空いてるはずだけど。
 でも、そういえば、家族連れが少ないような……

「そうだね。きっと、みんな冬休みに来たから、今日は来てる人が少ないんじゃないかな」
「あ、なーるほどね。そうかもしれない」

 そう言って綾波は感心したようにうんうんと頷いている。
 当てずっぽうで言っただけで、そんなに感心するほどのことでもないと思うけど。

「でも、早く回らないと人気がある奴は混んでくるから、早くしようよ、ね」
「あ、うん。……何乗る?」
「そりゃもちろん、ピレネーでしょう!」
「ピレネーって……いきなり?」

 ピレネー、というのは、この遊園地が誇る大型インバーテッドコースターだ。
 何と言えばいいのか、要するに足が宙ぶらりんになっているジェットコースターのこと。
 おまけに、建物の中を通り抜けたり、真っ暗になっている部分があったりするから、スリル抜群だ。
 いつも人気で、多いときは2時間待ちなんていうのもざららしい。

「いいじゃなーい。それともシンちゃん、怖い?」

 綾波が僕の顔を横目で覗き込みながらそう言った。
 そりゃ、全く怖くないと言えば嘘になる。
 でも、綾波が『シンちゃん』なんて言ったので、僕はちょっとムキになって言い返してしまった。
 (何か、ミサト先生にからかわれてるのを思い出してしまって)

「怖かないよ、それくらい……」
「そ。じゃ、行こ行こっ!」

 綾波はいつもの笑顔に戻ってそう言うと、僕の手を持って駆け出した。

「ちょ、ちょっと、綾波っ!」
「だって、早く行かないと、列が長くなっちゃうでしょっ!」

 いや、それはいいんだけど、その、手が……
 ……綾波の手って、小さくて柔らかいんだな……



 ジュースのカップを二つ、手に持って、私は碇君の待つベンチへと小走りに戻ってきた。

「買ってきたよー」
「あ、うん、ありがと……」

 碇君はちょっと元気がない。
 さすがにピレネーの3回連続はきつかったかしら。
 ちょうど空いてたから、終わる度にもう一回もう一回って列に並んじゃったのよね。
 2回目までは碇君もまだ耐えられたみたいだけど、3回目が終わったらちょっと顔が青ざめてた。
 それで、休憩がてら碇君はベンチに座ってもらって、私はジュースを買いに行っていたというわけ。

「……綾波はどうして平気なの?」

 一足早くジュースを飲み終わった私に、碇君が訊いてきた。
 まだ気分悪いのかしら。ジュース半分くらいしか飲んでないみたいだけど。

「さあー、どうしてって言われても、こういうのは生まれつきじゃないの?」

 自慢じゃないけど、私はこの手の絶叫マシンにはめっぽう強い。
 ものすごいスピードも、強烈な回転も、全然苦にならない。
 三半規管がないんじゃないかって言われたこともあるくらいだから。
 それに、今日はこれに乗るのを楽しみにしてたんだもんね。
 そのためにパンツルックで来たんだし。
 でも、碇君には悪いことしちゃったかな?

「大丈夫? もう少し休んでてもいいよ」

 碇君はしばらく黙って座っていたが、ふうっと大きく息をつくと、前屈みになっていた身体を起こした。

「うん……でも、もう大丈夫だよ」

 そう言ってジュースを一息に飲み干すと、カップをゴミ箱に捨てて、私の方を見た。
 うーん、ちょっと力無い笑い方だけど、さっきよりは顔色もずいぶんましね。

「そう、よかったわね」

 私もそう言って笑っておいた。
 でも、この先無茶はよくないわね。普通の乗り物にしておかないと。
 ほんとはもう一回ピレネーに乗りたかったけど、さすがにそれは言い出せない。

「そろそろ、次の乗り物に行こうよ」

 私を退屈させたら悪いと思ったのか、碇君の方からそう言ってきた。
 そんなに気を使うことはないのに……とか言いながら、私はその言葉に甘えさせてもらう。

「じゃあね……汽車に乗って向こうの方に行ってみない?」
「うん、いいよ」

 碇君はそう言って立ち上がったけど、まだ足がちょっとふらついているのを私は見逃さなかった。
 ま、汽車に乗ってる間に直してもらいましょう。
 (ちょっと残酷かしら?)
 それからすぐ近くにある汽車の乗り場へ。
 運良く、汽車はすぐやってきた。
 降りたお客さんの中に、見覚えのあるお下げ髪がちらっと見えたんだけど、気のせいかしら?



「お腹減ったねー」
「うん……そうだね」
「そろそろお昼にしよっか。ここの食堂でいい?」
「うん……いいよ」
「あー、結構空いてるー。お昼時はずして良かったね」
「うん……そうだね」
「セルフサービスだよ、並ぼ」
「うん……」
「どーしたのよ、碇君、疲れた?」
「うん……ちょっとね」
「乗り物、弱かったの?」
「いや、別に……だって、汽車を降りたと思ったら、フリーフォールはないじゃないか」
「どうしてー、面白かったじゃない」
「『楽しい乗り物がいいよね』って言ってたから、もっと楽なアトラクションに行くと思ったのに」
「だって、空いてたんだもん。あれも人気あるのよ。お昼からじゃ混んでくるでしょ」
「そりゃそうだけど……」
「何食べる?」
「じゃ、ラーメンか何か……」
「ニンニクラーメンっておいしそうじゃない?」
「じゃ、僕もそれにするよ」
「お昼が終わったら、何乗ろうかなー」
「……ちょっと休憩しない?」
「うん、いいよ。じゃ、その間に順番考えとくね」
「でも、もうだいぶ乗ったんじゃない?」
「そうかなー? ピレネーでしょ、汽車でしょ、フリーフォールでしょ、それからマジックカーペットに、バイキングに、コーヒーカップ、スプラッシュマウンテン……」
「……それだけ乗れば充分だよ」
「だめだよー、まだまだいっぱいアトラクションあるんだから。はい、これ、碇君のラーメン」
「あ、ありがと……」
「ニンニク入ってるんだから、食べて元気出してね。あ、あそこ空いてる」
「あ、うん」
「胡椒かける?」
「いや、いいよ」
「それじゃ、いっただっきまーす」
「いただきます……」



 そろそろ陽が落ち始めていた。
 既に遊具施設には照明が入っていて、向こうに見える観覧車にも大時計のような綺麗な模様が描かれている。
 あとはあの観覧車に乗るだけか。
 それにしても、いろいろ乗ったもんだな。僕は売店の列に並びながら、既に回想モードに入っていた。

 昼食が終わったら乗らされたのが、急流下り。
 曲がりくねったコースを円形のボートに乗って流れていく奴だ。
 ボートがコースの壁にガンガン当たる度に頭がクラクラしてきたけど、何とか耐えた。
 それから、フライングソーサーと言って、大きな円盤が回りながら宙に浮いていくアトラクション。
 これは動きも緩やかだし、眺めも綺麗だったのでよかった。

 あと、お化け屋敷も楽しかったな。
 綾波は入る前は平気そうな顔してたのに、中に入ったら急に怖がって。
 幽霊が出てくる度にきゃーきゃー騒いで、僕の服を引っ張り回して。
 ……暗闇で抱きつかれたときは、ちょっとドキッとしたけど。
 そこを出ると、次は『口直しに(綾波曰く)』ジェットコースターに乗った。
 二人掛けの座席がぐるぐる回転するところが変わってて面白かった。

 あとは、3Dシアターで服を少し濡らされて、
 動物ショーで拍手喝采して、
 スワンボートで少しだけ恋人気分を味わわせてもらって……
 ……で、次が最後か。ちょっと残念だな。もう少し……

「やあ、シンジ君じゃないか」

 観覧車の方を見ながらぼーっとしてると、聞き覚えのある声がした。
 え? まさか……

「あれ、カヲル君……」
「君も遊びに来たのかい」
「あ、うん、カヲル君も来てたの」
「ああ、チケットをもらってね」

 カヲル君はソフトクリームを2つ手に持って、ニコニコと笑いながら僕の方を見ている。
 2つ?
 ということは、誰かと一緒に来てるんだ。誰だろう?
 まあ、こんなところ、一人で来るもんじゃないけど……

「誰と来たの?」
「そういうシンジ君こそ、誰と来たんだい?」
「え、いや、それは、その……」

 ああ、もう。
 どうしてこういうときにさらっと言えないのかな、僕は。
 こんなことじゃ、とてもじゃないけど綾波に告白なんて……

「そう、じゃ、僕の方も、ご想像にお任せするよ」

 カヲル君はそう言って僕にウインクして見せた。
 男にウインクされても気分のいいものじゃないはずだけど、カヲル君の場合はあんまり気にならないな。

「それじゃ、彼女が待ってるから」
「あ、うん、それじゃ」

 カヲル君は小さく片手を上げると、観覧車の方に向かって歩いていった。
 ……彼女、って言ったよな、確か。
 あの列に並んでるんだろうか。
 誰なんだろう。ちょっと気になるけど、わざわざ見に行くのも……
 それに、今は僕もアイス買わなきゃ。
 また一つ、目の前の行列が動いた。



「お待たせ」

 後ろから碇君の声がした。
 振り返ると、碇君がアイスを手に持って立っていた。
 私が観覧車の列に並んでいる間に、碇君に買いに行ってもらったの。
 これでさっきのジュースとおあいこね。あ、でも、アイスの方が少し高いか。

「ありがとー」
「はい、これ」

 私は碇君からアイスを受け取った。
 注文どおりの、ミントとヨーグルトのダブル。
 碇君はチョコとバニラのオーソドックスな組み合わせ。
 夕方になってきて少し寒いけど、こういうときにアイスを食べるのがまたいいのよ。
 私は早速アイスを賞味した。

「何見てたの?」
「あ、うん、ちょっとね」

 碇君が戻ってきたとき、私が伸び上がるようにして行列の前の方を見ていたから、それのことね。

「後ろ姿だけ、ちらっと見えたんだけど……」
「誰?」
「確信がないから、言わないでおくわ」
「ふーん」

 見えたのは、特徴的な赤い髪の毛に、これも特徴的な髪飾り。
 でも、観覧車に乗る瞬間の後ろ姿がほんの一瞬見えただけ。
 別のところを見ていて、不意にそちらの方に目を移したときだったから、あっと言う暇もなかった。
 お相手がいたみたいだけど、係員の陰になっていて誰だかわからずじまい。
 取り敢えず、明後日学校で会ったときに問い質してみる価値はありそうね。ふっふっふ。

「そういえば、さっきそこで、カヲル君に会ったよ」
「え、そうなの?」
「うん。何だか、カップルで来てるみたいなこと言ってたけど」
「へー」

 そーか、そーか、うんうん。
 これは可能性あるわね。何だか面白いことになってきたわ。
 昨日電話したとき、言葉を濁したのはそういうわけだったのかも。
 おまけにもう一組来てるみたいだし、今日はこの遊園地、『3−A率』が高いわね。
 ……もしかして、私たちも知らない間に向こうに目撃されてるのかしら。
 まあ、いいわ。そうなったら、既成事実だし……(っていうのは少し違うか)

「それよりさー、あの観覧車のイルミネーション、綺麗よねー」
「あ、うん、結構明るいね」
「あれって、時計になってるって、知ってた?」
「え、そうだったの?」
「うん、あの青い色のところが短針で……」

 観覧車に乗る列を待つ間、私は碇君ととりとめのない話をしていた。



「……バルタザールより、メルキオールへ……」

 中央広場にあるドリンクコーナーの片隅で、男が一人、携帯電話をかけていた。
 長髪を後ろで束ねたその男は、柔和な笑顔を浮かべたまま、電話の相手に向かって話しかけていた。

「目標壱は約5分後にポイントに搭乗予定。目標弐は現在頂上付近。以上」

 男はそれだけ言って電話を切ると、横のテーブルに置いてあった紙コップを手に取り、中央付近のテーブルの方に歩いていった。
 そこには一人の女性が座っていた。
 男はその女性の目の前にポンと紙コップを置くと、椅子に座りながら言った。

「ほいよ、ビールお待たせ!」



 観覧車のドアが閉まった。
 これで文字通り、綾波と二人きり。
 これから約20分間、ここは密室になる。
 改めてそう考えると、僕は少し胸がドキドキしてきた。
 これが正式なデートだったら、もっとうれしかったかもしれない。
 でも、今日の僕は単なる『間に合わせ』だ。それでも少しはうれしいけど。
 ゴンドラはゆっくりと上に向かって昇っていった。

「見て見て、碇君、夕陽!」

 綾波がうれしそうな声でそう言って、窓の外を覗いた。
 つられて僕も外を見る。
 下にいたときは周りの建物でごちゃごちゃとしていてよく見えなかったが、少し上に行くだけで夕陽が綺麗に見えた。
 ちょうど、向こうの山の方に沈んで行くところだった。

「綺麗ねー」
「うん、そうだね」

 僕はそう答えながら、ちらりと綾波の方に目を遣った。
 綾波は笑顔を浮かべながら夕陽を見ていた。
 真っ白な肌が、赤い光で染め上げられている。
 青い髪は、何とも言えない不思議な色合いを醸し出していた。
 瞳は夕陽よりもまだ深い赤色に輝いていた。

(……ほんと、綺麗だ……)

 僕はまた夕陽に目を戻しながら、心の中でそう思った。

「街中じゃ夕陽なんて見られないもんねー」
「うん、そうだね」

 僕らはそう言ったきり、黙って夕陽を見つめていた。
 僕はそれでもいいと思った。
 こういうところで向かい合って話をするのが、ちょっと気恥ずかしかったから。
 もうすぐ頂上だ。



「間もなくだな」

 髭の男は、腰掛けて膝の上に肘をつき、手で口元を覆うようにしたままボソリと呟いた。
 向かい側には、その妻らしき女性が座って観覧車を見上げている。

「何をするつもりです?」

 女性の問いかけにも、男はニヤリと笑うだけで何も答えなかった。
 彼女はふうっとため息をつくと、男の顔を見ながら呆れたように言った。

「あなたって、ほんと子供みたいなんだから」

 メリーゴーランドは回り続けていた。



 カクン、という軽いショックがあったのは、頂上を少し行き過ぎたときだった。
 ゴンドラが止まり、緊急停止を告げる放送が流れた。
 トラブルでもあったのかと思って下を覗いてみたけど、何だかよくわからなかった。
 それから約10分、観覧車が動く気配はない。
 夕陽はとっくの昔に山の向こうに沈んでしまい、空が少し明るく暮れ残っているだけになってしまった。
 街の明かりが、とても綺麗ね……

「……動かないね」
「うん……そうだね」

 私と碇君はその会話を最後に、黙って夜景を見ていた。
 いくら話好きの私でも、こういう異常なシチュエーション(音も動きもない密閉空間)では何となく話がしづらい。
 でも、少しずつ暗くなっていく街に、明かりが灯されていく様子はちょっとしたものだった。
 電気……人工の光が、こんなに綺麗だなんて……
 だから、言葉もないまま、二人して窓の外をずっと眺めていた。

 シートの部分にはヒーターが入っているから、ゴンドラの中は寒くはない。
 でも、そんなものが無くても、私は寒さなんて感じなかったと思う。
 碇君と二人で夜景を見ているという事実。それが私の心を温かくしてるんだもの……なんちゃって。
 それはともかくとして。
 さっきから会話はないけど、気まずい雰囲気でないのは確かなの。

 あー。
 何かいいなー、こういうのって。
 心が和むというか……
 碇君といるから、っていうのは、あながち間違いじゃないと思う。
 他にこんな気分になれる人(特に男の子)、いないと思うもの。
 安心できる人……って言ったら、碇君はどう思うかしら?

 やっぱり、碇君を誘って良かった。
 でも、楽しかった今日一日も、もうすぐ終わりかぁ……
 私は目を閉じて今日のことを思い浮かべた。
 ごめんね、碇君。
 私一人だけずっとはしゃいじゃってて。
 文句も言わずにずっと付いて来てくれて、うれしかった。
 だから、また……また、遊びに来たいね……



「あの、綾波……」

 僕は思いきって声をかけてみた。
 さっきから何だかいい雰囲気だったんだけど、このままじゃいけないと思って。
 ここは何かきっかけを作って、もう一押ししておかなきゃ。
 綾波は頬杖をついて少しうつむき加減になりながら、街の方を眺めていた。

「あの……寒くない?」
「…………」

 ……ちょっと白々しい台詞だったかな。
 綾波はまだ黙って外を見ている。
 何か、考え事でもしてるんだろうか。
 邪魔しちゃまずいのかな……
 でも、取り敢えずもう一度だけ声をかけてみるか……

「あの……綾波?」

 あれ?
 何か、様子が変だ。
 外……見てるようで……見てない……
 目……閉じて……
 まさか……寝ちゃってるんじゃ……

 僕はそーっと手を伸ばし、綾波の顔の前にかざしてみた。
 反応なし。
 間違いなく、寝てる……

 まあ、そりゃそうかも。
 ずっとはしゃぎっぱなしだったし。
 テンション高かったもんな。
 僕は付いて回ってただけだけど、それでも疲れたし。
 それにきっと、今朝は早起きしたんだろう。待ち合わせに遅れなかったし。

 いいや、寝かせておこう。
 下に着いたら起こせばいいか。
 それに……

 こうして、綾波の寝顔も見られるんだから……
 横顔も……可愛い、な……

「…………」

 え?
 今、僕の名前、呼ばなかった?
 ……気のせいかな。



「……やなみ?」
「ん……」

 ……あれ? ここ、どこ……

「もうすぐ下に着くよ」

 え? 下って?
 ……あ。

 ああー!
 うそー、寝ちゃってた!
 うう、しまったー、目を閉じてたら、ついうっかり……
 はしゃぎすぎたからかなぁ……それに、早起きしたし……
 それに、お尻があったかくて、気持ちよかったんだもん……

「あの、ごめん……寝ちゃってて……」
「うん、取り敢えず、降りようか」

 うう、その笑顔が心に痛いわ……
 外はすっかり陽が落ちていて、風が冷たくなっていた。



「今日は、誘ってくれてありがとう。楽しかったよ」

 遊園地を出て駅の方に向かいながら、碇君が私の方を見てそう言った。
 もちろん、私も楽しかったけど……最後の最後に大失敗しちゃうなんて、うう……
 反省よ! 反省しかないわ。

「え、えーと……ごめんね、最後……」
「いや、いいよ。僕が話しかけなかったのもあるし」

 でも、だからって寝ちゃうなんて、まずいわよ……
 夢の中で碇君と話しても仕方ないんだってば。
 と、とにかく、何かフォローを……

「あの……今日は付き合ってくれて、ほんとにありがと……」

 ちょっとしおらしく下を向いて、私はそう言った。
 碇君はたぶん、いつもの笑顔でいるんだろうな。

「僕の方こそ、ありがとう。それより、僕のせいで乗れなかったのがあって、ごめんね」
「そんなことないよ。それより、その……」

 ……言わなきゃ。
 お詫びの言葉を。
 私は顔を上げた。そして立ち止まった。
 碇君は私が急に立ち止まったので、行き過ぎてしまって慌てて戻ってきた。
 そして、不思議そうな顔をして私を見てる。

「どうしたの?」
「あの……」

 ……言わなきゃ……

「……また今度、一緒に……」

 ……責任感じて、言ってるんじゃないからね……



 ……責任感じてるんだろうな、綾波は……
 最後に寝ちゃったことなんて、僕は別に気にしてないのに。

「うん、それじゃ、また今度ね」

 でも、今度はもっと僕がリードしなきゃ。
 今日は綾波に付いていっただけだからなぁ。
 観覧車の中でも、ちゃんと話しかけてれば綾波は寝なかったと思うし。
 僕がもっと責任を感じないと。

「でも、これから受験で忙しくなるから、春になったらまたどこか行こうよ」

 そして、一緒の高校に行けたら、その時は……



 春になったら、か……

「うん……そうだね」

 そうよ、春になったら、一緒の高校に行けるかもしれないんだから。
 それにその時にはアスカはもしかしたら……
 ……って、そんな期待をするのは反則かな。
 でも、まあ、とにかく……

「じゃ、指切りしようよ」
「うん、いいよ、それじゃ……」

 碇君が差し出した小指に、私は自分の指を絡めた。

「ゆーびきーりげーんまーん……」

 人混みの中で立ち止まってこんなことしてるのは結構恥ずかしいけど。
 でも、今は逆にそれが何だか気持ちいい。
 そう。これって、恋人どうしみたいだからだわ。きっとそうよ。
 そして、この指切りは春になったら一緒の高校に行くっていう約束……

「じゃ、帰ろうか」
「うん!」

 私は元気良く返事をすると、駅の方に向き直った。
 そして、碇君と一緒に歩き始めた。



 月曜日。朝。教室。

「アースーカッ、おっはよ!」
「あら、レイ、おはよ」
「えっへっへー、土曜日、どこ行ってたの?」
「え? どこって……ど、どこでもいいじゃない、そんなの……」
「どこ行ってたか、当ててあげよっか?」
「い、いらないわよ! そんなの……アンタこそ、どこ行ってたのよ」
「え? 遊園地だけど? 電話したらアスカ断ったじゃない」
「…………」
「その遊園地でねー、面白いカップル見ちゃったんだー」
「…………」
「仲良さそうにねー、観覧車に乗ってたのー。アイスなんて食べながらねー」
「…………」
「全然知らなかったなー。いつから付き合ってたのかなー」
「べ、別に付き合ってなんかないわよ! あれは渚の奴が無理矢理……」
「え? 何? 何のこと?」
「何って、遊園地で……見たんでしょ?」
「アスカを?」
「え?」
「来てたの? 遊園地」
「…………」
「渚君と? へぇー」
「……謀ったわね……」
「あら、何のことかしら?」
「……アンタにブラフされるとは思わなかったわ」
「えー、私、別に何も……私が言ったのは、別のカップルのことよ」
「…………」
「実はねー、ヒカリと鈴原君が来てるの、見ちゃったんだー」
「…………」
「お弁当作ってあげてるだけじゃなかったのねー。アスカは知ってた?」
「…………」
「何よー、アスカ、興味ないの? いいわ、じゃ、ヒカリに直接話してこよっと。じゃあねー」

「……レイのバカ」

 アスカも私のことも突っ込んだらよかったのよ。そしたら、喜んで答えてあげるんだから!



- Fin -







おまけ



 さかのぼって、土曜日。夜。碇家、ダイニング。
 
「それにしても、わざわざ観覧車を止めるなんて、あなたも物好きですね」
「しかしシンジめ、下に降りてくるまで40分もあったのに何もできんとは……全く甲斐性のない奴だ」
「しょうがないですよ。レイちゃん、寝ちゃったんだもの」
「寝たら寝たで、好都合ではないか。寝ている間に一気に……」
「そんなこと、あなただってできないくせに……」
「む……」
「でも、そろそろ自然の成り行きに任せた方が良くありません? その方がうまくいきますよ、きっと」
「だがシンジの奴、自分からは手を出さんではないか。これではいつまで経っても……」
「そこは、あなたに似たんですよ」
「ふん、私がシンジくらいの時は、もっと……」
「もっと、何です?」
「い、いや、それは……」
「今日は先に寝ていいかしら?」
「ユイ……それだけは……」

 親子揃って、甲斐性なし……



- Fin -




新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions