ここは放課後の学校。
 シンジは下足場を出たところでぼんやりと佇んでいた。
 もちろん、三馬鹿トリオの残りの二人……トウジとケンスケを待っているのだ。
 トウジは掃除をさぼって帰った罪で、ケンスケは学校をさぼって船を見に行った罪で、それぞれミサトから罰を受けているらしい。

 罰、といっても、ミサトの場合、説教ではない。
 もちろん、体罰を喰らわせるわけでもない。
 溜め込んでいた書類の整理を手伝わされるか、はたまた何か荷物を運ばされるか……そんなところだ。
 と言うのも、ミサトは掃除をさぼったからといって罰を与えるのではない。
 その程度はいつもなら次の日授業中にネタにしてからかうのがオチだ。

 つまり、『罪』があるから『罰』があるのではない。
 先に『罰』が用意されていて、偶然何かをしでかした者がそれに当てられるのである。
 要するに、ミサトは何か用事が発生したときに、自分でそれをするのが面倒なときは、生徒の中から適当に人材を見繕って処理しようとしているのだった。
 即ち、選ぶ理由は後付けである。
 そして今回、その哀れな子羊に選ばれたのが先の二人であった。

 しかし二人はなかなか出てこない。
 よっぽど面倒な仕事を手伝わされているのだろうか。
 でも、先に帰るわけにはいかないよな、約束したし。シンジは考えていた。
 そう言えば最近、遅くまで遊び過ぎかな。たまには早く帰らないと。

 早く帰ると言えば、アスカは最近帰ってくるのが遅いみたいだ。
 女子は体育祭の練習しているとか言ってたけど、男子はやらなくていいんだろうか。
 そう言えば、明後日の日曜だったな……
 と、帰って行く他の生徒たちをシンジがぼんやりと見送りながらそんなことを考えているときだった。

「やっほー、いっかりくーんっ!」

 バタバタッと足音を立てながら後ろから走ってきて、声をかけながら肩を叩く者がいた。
 シンジにそんなことをするのは一人しかいない。
 それにこの脳天気な声、間違いない。
 シンジはゆっくりと振り向いた。
 すると、頬に何やら突き刺さるような感覚が……
 しまった、やられた……

「な、何するんだよ、綾波……」

 そう言いながらも、シンジはこんな古典的な手に引っかかる自分が情けなかった。
 しかも、これはもう十数回目じゃないか。何度引っかかれば注意するんだ、僕は……

「えっへへー、驚いた?」
「そりゃ、驚くよ……あれ、それは……」

 体育祭の練習行ったんじゃなかったの、とシンジは言おうとしたが、レイの出で立ちを見て口をつぐんだ。
 レイが着ていたのは、タンクトップのような銀色の上着に、同じく銀色のミニスカート。
 手にはしっかりと青と黄色のポンポンが握られている。
 これは誰が見ても……

「じゃーん! どお?」

 レイは満面の笑顔でそう言うと、足を少し開き、腰に手を当てるポーズをとってシンジの方を見た。
 そうか、練習って、これのことだったんだ。シンジはようやく気が付いた。

「う、うん、似合うと思うよ」

 大胆に露出された肩と胸元、スカートから伸びるすらっとした足をチラチラと見ながら、シンジは答えた。
 綾波って、チアリーダーにも選ばれてたのか。
 でも、この衣装はさすがに、何て言うか……去年は、みんなもっと大人しかったのに。

「えー、なーんか中途半端な返事ねー……それに、碇くんったら、どこ見てるのよ。まさか……」

 レイはそう言うと、腰に当てていた手を離して胸の前で合わせる。
 ポンポンがかさついた音を立てた。
 そして少し上目遣いに睨むように、シンジの顔を見た。

「ち、違うよ、別に変なところ見てたわけじゃ……」

 シンジは慌ててそっぽを向いた。
 だが、言い訳する声が思わずどもってしまう。
 緩やかにV字カットされた胸元にできた僅かな『影』が、まだ頭から離れていなかったから。
 レイはシンジに詰め寄ると、口を尖らせながら言う。

「ほんとに?」
「ほんとだよ!」
「絶対?」
「絶対だって!」
「ふーん、なら、信用してあげる」

 レイはまた元の笑顔に戻ってシンジを見た。
 シンジもちらりと横目でレイの方を見る。
 するとレイがタタッと駆け出して、シンジの横をすり抜けた。
 シンジは慌ててレイの方を目で追う。
 レイは2メートルほど先でくるりと振り返ると、右手をシンジの方に真っ直ぐ差し出した。
 まるで、拳銃を持ってシンジの胸を狙うかのようだ。

「な、何?」
「特別に、練習の成果を見せてあげるっ!」

 それから差し出した手を左にやり、それから頭の上に弧を描くようにして右に振る。
 右手を腰に当て、今度は左手を同じように動かす。
 それをもう一度繰り返す。ポンポンが右へ左へ、上へ下へと揺れる。
 最後にくるっと身を翻して一回転してから右手を真上に差し上げて決めのポーズ!
 ミニスカートがふわっと宙を舞った。
 そして鮮やかな白が……

「えへへ、どうだった?」

 レイが笑顔でそう尋ねてきたが、シンジはどう答えていいかわからなかった。
 鮮烈な白がまだ目に焼き付いている。

「いや、あの……」
「ん? どーしたの?」

 少し驚いたような表情になっているシンジに、レイが問いかける。
 そしてシンジの視線が下向き加減なのを見て、両手でパッとスカートを押さえた。
 それからまた上目遣いになってシンジの方を見遣る。

「てへへ、見えた?」
「あ、あの……」
「見えたんでしょ? 回ったとき」
「う、うん……ちょっとだけ……」

 どう言っていいかわからなかったが、やむなくシンジは正直に答えることにした。
 何だか、前にも見たような気が……
 するとレイが、シンジの当惑した顔を見ながらぷっと吹き出した。

「あっははーっ! ざーんねーんでーしたっ!」
「え? な……」
「下にちゃんとアンダースコート着てるもんねー!」
「へ? ア、アンダー……」

 アンダー……何とかって、あの、テニス選手とかがスカートの下にはいてるアレ?
 何だ、そうだったのか……
 でも、それにしては、何というか、その……

「レーイッ! 練習始まるわよ」

 シンジが白のことをまだあれこれと考えていると、アスカの声が聞こえた。
 ふとそちらの方に目を遣ると、アスカがレイと色違いの、金色の衣装を着て立っている。
 腰に手を当てているが、これは『怒るわよ』のサインだろう。

「あ、はーい。じゃ、碇君、また日曜日ね」
「う、うん、それじゃ……」

 スカートを翻しながらレイがアスカの方に走っていくのを、シンジは呆然と見送っていた。
 ……あれ、ほんとにアンダー何とかだったのかな……
 トウジとケンスケはまだ出てこなかった。



「レイ」
「何? アスカ」
「あんまりシンジを刺激しちゃダメよ」
「何でー?」
「何でって、アンタ……」
「ちょっと回って見せただけじゃない」
「回ってって……まさか、気付いてないの?」
「へ? 何を?」
「……あのね、レイ」
「うん、何?」
「アンダースコートくらい、はきなさいよ」
「え?……」



「ええーっ! うっそぉーーーっっっ!!!」



 秋の祭典




「ごちそうさま」

 夕食が済むと、僕は席を立ってリビングに行こうとした。
 ちなみに、今日の夕食は餃子。
 冷凍の奴じゃなくて、皮を買ってきて中に具を入れて作る物だから結構おいしい。
 当然、僕も作るのを手伝わされた。
 久しぶりに早く帰って来たら、こんな目に遭うんだもんなぁ……

「あら、シンジ、ちょっと待って」

 片付けを始めようとしていた母さんがそう言って僕を呼び止める。

「何?」
「日曜日、体育祭だったわよね?」
「うん、そうだけど……」

 また見に来るつもりなんだろうな。日曜日は二人とも休みだし
 いや、別に、見に来られるのが嫌っていう訳じゃない。
 大騒ぎするわけでもないし、ビデオを撮りまくって人に迷惑かけたりもしないし。
 それに、弁当作って持ってきてくれるわけだから、一応ありがたいことはありがたい。
 ……でも、父さんがそういう場にいるのって、何となく場違いなんだよな。
 じっと腕を組んで競技を見てて、周りに威圧感を放ってて……
 小学校の時からそうだったけど、楽しそうな顔するわけでもないし、何が嬉しくて見に来てるんだろ。

「シンジ」

 僕がそんなことを考えていると、父さんが低い声で僕の名前を呼んだ。
 相変わらず、どうして僕のことびっくりさせるんだよ。新聞読んでたんじゃなかったの?

「……何?」
「そこに座れ」
「……まだ座ってるけど」

 母さんに呼び止められて、僕は半分浮きかけた腰をまた降ろしていた。
 父さんは目の前に広げていた新聞をガサガサ言わせながら畳むと、サングラス越しに僕のことを睨んだ。
 全く、どうして家の中でもサングラスかけてるんだよ。

「今年は何の競技に出るんだ」

 父さんが腕組みをしながら僕にそう訊いた。
 だから、どうしてそんなに威圧的になるのさ。

「綱引きと二人三脚」
「シンジ」
「……何?」
「なぜ棒倒しに出ない」

 やれやれ、そう言うと思った。
 棒倒しは三年生しか出られないちょっと危険な競技で、おかげで見ている方もかなり盛り上がる。うちの体育祭のメインイベントと言っていい。
 そこで活躍した奴は、一躍ヒーローになれるわけだから、生徒にも人気がある。
 危険だから学校側が中止しようとした年があったらしいけど、生徒側からの強い要望で続行することになったとか。
 でも、僕はそんな危ないことしたくないから……

「……希望者が多くて、ジャンケンで負けたんだ」

 希望者が多かったのは本当。でも、ジャンケンで負けたというのは嘘だ。
 僕はそもそも希望していない。
 どうせ出ても僕なんか活躍できないって。
 そりゃ、かっこいいところを人に見せたいのはやまやまだけど、体力が追いつかないよ。
 でも、父さんは納得がいかないらしい。
 サングラスを指で直しながら、僕の方を睨んだ(ように見えた)。

「シンジ、なぜ戦わない」
「くっ……ジャンケンなんだから、しょうがないじゃないか!」
「ふん」

 父さんはそう言って僕を睨んでいる(ように見える)。
 まさか、嘘をついているのがばれてるんじゃないだろうな……

「二人三脚の相手は誰?」

 少し間が空いてから、そう訊いたのは母さんだった。
 後片付けをやめて、テーブルの横に立って僕の方をじっと見ている。
 どうしよう。言うべきか言わないべきか……
 でも、どうせ見に来るんだから、言わないとしょうがないよな。

「……綾波」
「あら、男女混合なの?」
「そうだよ」
「ふふ、そう、良かったわね」

 母さんはそう言ってニコニコと笑っている。
 ……良かったって、どういう意味だろ?
 そりゃ、確かに、他の女子と組むよりは嬉しいし、何より、綾波だから……

「練習はしたの?」
「しないよ、そんなの」
「あら、だめよ。ぶっつけ本番じゃ、勝てないわよ」
「みんなやってないよ」
「じゃ、練習すれば勝てるじゃない」
「…………」

 練習って……そ、そんなの、どこでするんだよ。
 第一、練習するには、綾波と、その……

「ま、いいわ。それじゃ日曜日、楽しみにしてるわね」

 母さんがそう言って後片付けを始め、父さんがまた新聞を広げたので、僕は席を立ってリビングの方へ行った。
 テレビを点けて、その前に寝ころぶ。
 だが、なぜだか二人三脚のことが無性に気になって、テレビの内容がさっぱり頭の中に入ってこなかった。
 ……大丈夫かな、綾波と二人三脚なんて……



「あなた」
「うむ」
「面白いことになりましたね」
「ああ」(ニヤリ)



 話は数日前に遡る。

 秋晴れの穏やかな午後。
 ミサトは教壇を窓辺に寄せ、頬杖をついて座りながら、心地よいひとときを味わっていた。

(あ〜、極楽極楽……うう〜ん、今日はいい日ね〜……)

 陽射しがぽかぽかと暖かく身体を包み込む。油断すると眠ってしまいそうだ。
 だが、眠ったって構わない、とミサトは思っていた。
 授業じゃないんだし、ちょっとくらい構わないじゃない。
 そう思う前に、ミサトはウトウトとまどろんでいたのだったが。
 そして教室では、生徒が男女に分かれて、話し合いを行っていた。
 体育祭で各自が出場する種目を決めるための。



「しかし、こうしてみると、トウジと渚ばっかりだな」

 ケンスケは目の前の紙を見ながら呟いた。
 彼は一応、この場の進行役になっていた。
 委員長は女子の方を取り仕切っているため、男子の方は出席番号一番のケンスケがやらされることになったのだ。
 と言っても、たいした仕事ではない。
 種目毎に出場者を募り、人数が溢れたらジャンケンをして決めさせる。
 足りないところにはジャンケンで負けた者を回す。
 ただそれだけだった。

 トウジはスポーツはできる方なのだが、今まではあまり積極的に体育祭に参加していなかった。
 一種目か二種目だけ出場して、後は観客。と言うか、はっきり言ってさぼっていたのだった。教室で寝ていたこともある。
 それが、今年は例年になくやる気を見せている。
 ……もしかしたら、委員長に餌で釣られたのかな。ケンスケは考えていた。

 それと、渚だ。
 転校してすぐに、奴が成績優秀で、運動神経も抜群だということがわかった。
 もっとも、成績は惣流に僅かに及ばず、運動もトウジの方がまだ少し上回っている。
 しかし、それは奴の策略かもしれない。
 転校生がいきなりトップになったら、あらぬところで反感を買うからな。
 ま、俺としては、奴のルックスのおかげで一儲けさせてもらってるから、何も文句を言う筋合いはないけど。
 それに、奴が体育祭ではポイントゲッターだと言うことはわかってるから、みんなも何も言わないだろう。

「シンジは何か出ないのか?」

 ケンスケはひょいと顔を上げると、横に座っていたシンジにそう訊いた。
 その後ろでは、リレーの代表を決めるジャンケンが行われている。
 これも、トウジとカヲルが『シードで』出場を決めていた。

「え? 綱引きに出るけど……」

 シンジはそう言ってケンスケの方を見返した。
 だめだこりゃ。シンジの奴、何も聞いてなかったのか。
 ケンスケは眼鏡を指で押し上げると、シンジに向かって説明を始めた。

「それは団体競技だろ。個人競技に一つ以上出ることになってるって、言ったじゃないか」
「そ、そうだっけ?」
「やれやれ、あと残ってる競技って、ろくでもないのばっかりだぞ。ええと……」

 ケンスケはそう言うと、表を見直し始めた。
 シンジは横からそれを見ていたが、ふと気になってケンスケに問いかける。

「ケンスケは何に出るの?」
「パン食い競走」
「あ、いいね、それ」
「ああ、昼飯代が浮くからな」
「……確かに」

 ケンスケは表を鉛筆でマークしながらチェックしていたが、やがて顔を上げると、シンジに向かって言った。

「残ってるのは1000メートル走と、借り物競走と、二人三脚だな」
「ほんとに変なのばっかりだね」
「そうだ、シンジ君、僕と二人三脚に出ないか」

 横から突然、口を出してきたのはカヲルだった。
 リレーのジャンケンを見ていたはずだが、ケンスケの言葉を聞きつけたらしい。
 そしてシンジの顔を見てニコニコと笑っていた。
 なぜだかシンジは照れている。

「いや、あの……」
「何言ってんだ。男女混合だよ、混合」
「そうか、それは残念だね。普通の二人三脚はないのかい?」
「ないよ」
「どうして作らないんだろうね。楽しいのに」
「そんなの俺に訊いても知らないよ」

 ケンスケの無愛想な返事にも、カヲルは笑顔を絶やさずシンジを見つめながら言った。

「二人三脚はいいね。そう思わないかい? シンジ君」
「いや、僕は別に……」

 ……全く、どういう奴なんだ、こいつは……
 ケンスケはカヲルの言動に半ば呆れながら、またシンジに声をかけた。

「まだ決まってない奴が他に二人いるから、さっさと決めておいた方がいいぜ」
「う、うん」

 そう言われてシンジは考え込んだ。
 1000メートルなんてとてもじゃないけど走れないし、借り物競走は恥ずかしいし、二人三脚も……相手が女子だからな。
 まあ、相手にもよるけど……
 そう言えば、綾波やアスカは、何に出るんだろう。
 どっちかが一緒に出てくれるなら、二人三脚でもいいけど……

 しかし、他の二つよりは、という理由で、シンジは男女混合二人三脚に出ることにした。
 幸い、残りの二人とはかち合わなかったようで、あっさりと決まった。
 他の者も敬遠したのは、女子と組みたがっていると思われるのがいやだったのかもしれない。
 この年頃の男子は、変に人目を意識することがある。
 それに、相手の女子が誰かわからないというのも理由の一つだった。
 万が一、好きではない相手と一緒になるかもしれないというリスクを冒したくないのだ。
 だが、レイかアスカが出るなら、この枠は取り合いになったであったろう。



「……じゃ、これは4人とも決まりね」

 アスカはそう言ってリレーの出場が決まった者の名前を委員長に告げた。
 ヒカリは紙にそれを書いていく。
 アスカがヒカリを手伝って積極的に仕切っているおかげで、競技の出場者は順調に決まっていた。
 もちろん、アスカはクラスのエースとして規定の数いっぱいまで出るつもりだ。
 ヒカリはメンバー表を見ながらアスカに言った。

「あとは、男女混合二人三脚ね」
「誰か出たい人、いる?」

 アスカは周りの女子の顔を見回した。
 手を挙げる者は誰もいない。
 だいたいさっきからこんなパターンが続いている。
 陸上部の女子以外はみんなそれほど積極的ではないため、なかなか決まらないのだ。
 立候補を待っていてはいつまで経っても終わらないので、希望者がいない時はくじ引きにしようとアスカが言い出したのだった。

「誰もいないのね。じゃ、またくじ引きに……」
「あ、待って、アスカ」

 アスカがまたノートを使ってくじ引きを作ろうとしたとき、ヒカリがそれを呼び止めた。

「え、何?」
「まだ一人出てない人がいるの」
「誰?」
「綾波さん」
「…………」

 アスカはさっと振り返って、窓際の後ろの席を見た。
 そこではレイが、頬杖をついて窓の外を見ていた。
 しかし、その目は明らかに閉じられていた。
 ……まだ寝てるの、あの子は。
 さっきからくじを引きに来ないからそういうことだろうとは思ってたけど……
 余ってるくじが当たってたらあの子の分だと思ってたから、別に引かないのはいいけどね。
 でも、まさか最後まで残ってたとは……

「……いいわ、あの子で決まり。文句は言わせないわよ、寝てるんだから」
「そ、そうね……」

 ヒカリはちょっと戸惑っていたが、メンバー表にレイの名前を書き込むと、全員が出てるかどうかをチェックする。
 うん、出てなかったのは綾波さんだけね。じゃ。これで決まり……

「終わり?」

 アスカが顔を上げたヒカリにそう訊いた。
 6時間目だから、早く終われば帰れるのだ。

「えっと、後は……」
「あ、そうか、応援チーム……」

 男子の棒倒しと共に壱中体育祭の名物となっているのが、女子のチアリーダーだった。
 特に、ここ数年は衣装も演出も派手になってきて、父兄以外の観客も集めるほどだ。
 もちろん、アスカは一年の時から毎年出ていて、カメラ小僧の格好の被写体になっていた。
 その写真が近隣の中学はおろか、市外まで出回ったという噂があるから、今年はもっと観客が増えると言われている。

「出たい人いる?」

 アスカがまた周りにそう訊いた。
 手を挙げた者が2人。チアリーダー部の女子だった。彼女たちは出るのが義務だ。

「クラスから4人以上だっけ?」
「そう」

 アスカが聞くと、ヒカリが答える。
 まだ3人……またくじ引きになるのかしら。
 もし当たっちゃったらどうしよう。私、ダンスとかうまくないし。
 それに、今年の衣装は結構露出度が高いっていう噂よ。鈴原に見られるのは恥ずかしい……
 くじに当たる前からヒカリが思い悩んでいると、アスカが冷静な声で言った。

「じゃ、あの子で決まりね」
「え? あの子って?」

 ヒカリが顔を上げると、アスカが窓際の後ろの席を見ながら言った。

「寝てる罰よ」
「…………」

 二人の視線の先では空色の髪の少女が、陽射しを浴びながら安らかな寝顔で眠っていた。
 自らの陥れられた状況を何も知らずに。



 その後、レイが二人三脚に出場することが知れたときの、他の男子のシンジを見る視線はただごとではなかった。



 それはとてもとても空気の澄んだ秋空の広がる日曜日のことだった。

『ただいまから、開会式を行います……』
『せんせェー、我々はァー、スポーツマン精神にのっとりィー……』
『まもなく、男子100メートル走の予選を行います。参加者は本部前まで集合して下さい。繰り返します……』
「位置についてー、よーいっ……」
「行けー、頑張れー!」
「負けるな、鈴原ぁーっ!」
「おりゃあああーっ!!!」

 第壱中学校の体育祭の日は、必ず晴れるらしい。
 碇君とアスカがそう言っていた。
 ちなみに、去年の体育祭には私は参加していない。
 去年は、他の行事との関係で、春に体育祭をしたんだって。
 でも、『秋の方が“らしい”から』という優柔不断な(そりゃそうよ)理由で、今年からまた秋に開催されることになったとか。
 とにかく、私にとっては2年ぶりの『運動会』だった。

『ただいまでの得点は、Aチームが150点、Bチームが……』

 壱中の体育祭は、基本的にクラス対抗戦。
 1年生から3年生までのA組がAチーム、同じくB組も3学年合わせてBチーム、という風になっている。
 今まで紅白に別れてしかやったことのない私にとっては、結構斬新だった。
 チーム名にクラス名が入っているというだけで、何となく団結力が生まれる気がするのよ。
 これもきっと『愛“クラス”心』の為せる技ね。

「ファ・イ・トッ、それっ、ファ・イ・トッ、それっ、ワン・ツー・スリー・フォー、Go! Fight! Win!」

 それにしても、チアリーダーというのは結構疲れるということがわかった。
 はっきり言って休む暇がほとんどないんだもの。しかも立ちっぱなし。
 それなのに、アスカは競技との掛け持ちで、走ったり着替えたり躍ったりとてんてこ舞い。
 たった一日のこととは言え、よく3年間も毎年やってるものだと感心したくらい。
 うーん、体力のない私にはとてもじゃないけど無理だったわ。明日筋肉痛で動けないんじゃないかしら。

「疲れた?」

 女子100メートル走の予選から帰ってきたアスカが私にそう訊いた。
 私がそう訊きたくなるくらいヘトヘトな顔してるんだと思う。
 アスカは全力疾走したばかりなのに、平気な顔をしている。どうして?
 そりゃ、疲れたわよ。体力を分けて欲しいくらい。
 それよりも疲れる原因は……『人目』。

「まあね。それより、どうしてこんなにカメラ小僧が多いの?」

 私は笑顔を作りながらポンポンで口元を隠し、アスカに聞き返した。
 父兄のおじさん連中がビデオを構えてるのはともかく、他の学校の生徒まで来てるみたい。それに、高校生や大学生っぽい人も。
 中には、でっかい望遠レンズのついたカメラを持ってきている人が……
 そんなのでいったい何を写そうっていうのよ、全く。

「毎年のことよ。アタシはもう慣れたわ」

 アスカは平然としてそう言ってる。
 どんな写真撮られてるかわかってるのかしら。

(あのー、私は慣れてないんですけど……)

 心の中でそう抗議しても後の祭り。
 メンバー決めるときに寝てた私が悪いんです。うう……
 とにかく、もう少しすれば昼休みだから、とりあえずその時までは頑張らねば。
 それとも、疲れ切っちゃってハイになれば吹っ切れるのかしら。
 いずれにしても、今はスマイルで乗り切らないと……私にはそれしかないからなぁ。

 ……ありゃりゃ、相田君までカメラ小僧に混じっちゃって。
 ああっ、ちょっと! 下から撮るのは勘弁してっ!



 午前中は暇だった。
 僕は何も出る競技がなかったから。出番は午後しかない。
 綱引きは午後の最初の競技で、二人三脚はラストのリレー決勝の前。
 だから応援席で観戦していても良かったんだけど、目の前にはチアがいるから……
 何となく見ているのが恥ずかしかった。
 同じく見てるだけの委員長が恥ずかしがってたんだから、今年の衣装は相当なものだと思う。
 他の男子は思いっきり喜んでたみたいだけど。
 仕方ないので、場内をうろうろしながら、別のところから競技を覗いていた。

 でも、ついついチアの方にも目が行ってしまう。
 綾波は結構楽しそうに応援していた。時々振り付け間違えてたみたいだけど。
 アスカはもう3年目だから慣れたものだった。
 その前でケンスケは喜び勇んで写真を撮りまくっている。
 後で僕にも売りに来るんだろうな。
 でも、今回のは買おうかどうしようか迷うところだ。
 きっと法外な値段をふっかけてくるだろうから……

 とにかく、今は昼休み。
 僕らは校庭に敷かれたシートの上で弁当を食べていた。
 教室に戻って食べてる人もいるけど、父さんと母さんが来てるから僕はここにいる。
 綾波もアスカも普通の体操服に着替えて、僕らと一緒に食べていた。

「はい、レイちゃん、ご苦労様でした」
「あ、おばさま、ありがとうございますー」

 そう、弁当というのは、僕の母さんが作ってきたものだ。
 僕は知らなかったけど、綾波の分まで作ってくるという契約が事前にできていたらしい。
 それから、アスカの分も。
 それだけじゃない、ケンスケやトウジ、委員長の分まで作って、大きな重箱に詰めて持ってきた。
 委員長は自分でも作ってきたみたいだったけど、母さんの作った分にも少し箸をつけている。
 おいしくて今後の参考になるからって。

「それにしても、なんで渚までここにおるんや」
「あら、構わないわよ。たくさん作ってきたから、みんなで食べてちょうだいね」
「どうもありがとうございます、おばさん」

 カヲル君は最初、母さんのことを僕の姉さんだと勘違いしていたらしい。
 でもケンスケは『見え透いたお世辞を』だって。
 だけど、同じように間違える人は結構いっぱいいたんだよな(自慢じゃないけど)。

「あーあ、こんなことなら、パン食い競走のパン、後で食うんだったな」

 ケンスケはそんなことを言いながら、弁当をバクバクと食べている。
 『写真を撮って回ってたから疲れた』だって。
 そりゃ、他のクラスの分まで写しに行ってたら、疲れるだろうな。
 午前中だけでフィルム10本分撮ったって言ってた。
 今回はデジタルカメラじゃなくて、焼き増しや引き延ばしに便利な普通のカメラを使ってるらしい。
 フィルムスキャナも買ったらしいから、いつもどおりデジタルファイルも売るそうだ。

「すいません、おばさま、私の分まで」
「いいのよ。それより、残念ね、キョウコに急な出張が入っちゃって」
「ええ、こういうイベントがあるときは、まるで謀ったみたいに出張に行っちゃうんですもの」
「別にわざとじゃないわよ。去年の体育祭と文化祭は来たじゃない」
「それはそうなんですけどね」

 それにしても綾波もアスカもよく食べるな。
 まあ、あれだけ激しい運動してるからだろうけど。
 逆に僕の方は、動いてない分だけ食欲がない。
 僕の分には綾波とアスカとトウジが手を出しているようだ。
 でも、トウジはどうしてもう一つ弁当を持ってるんだ?

「ね、ヒカリ、鈴原のそのお弁当、ヒカリが作ってきたんじゃないの?」
「えっ!? こ、これは、その、いつも頼まれてることだから……ちゃんとお金だってもらってるんだから!」
「そ、そや、委員長がいつも材料余る言うてるし、残飯になるくらいやったら、ワシがパン代払うさかい食うたるいうて……」
「へー、それにしてはゴージャスじゃない」
「だ、だって、鈴原が今日はたくさん競技に出てお腹減るはずだから、多めにって頼まれて……」
「そやがな、ワシがイインチョに無理言うて、今日だけは特別に……ほ、ほんま、済まんかったなあ、イインチョ……」

 何だ、そういうことか。

「怪しいわね」

 ……綾波もアスカも、何疑ってるんだろ?

「シンジ」
「……何?」

 父さんが出汁巻きを食べながら僕に話しかけてきた。
 相変わらずサングラスを掛けて来ている。
 怖い顔で睨むようにして見ているから、周りの客が引いてたみたいだ。
 父さんの周りだけ、人が寄りついてなかった。
 『その方が見やすくていい』じゃないだろ、全く。

「二人三脚の練習はしたのか」
「……してないよ」

 僕は無愛想にそう答えた。
 父さんは僕が手を伸ばしていたエビの天ぷらをさっとかすめ取ると、しっぽまでバリバリ食べながら言った。

「なぜ練習しない」
「時間がなかったんだよっ!」
「ふん、そんなことでは勝つどころか、走ることもおぼつかんぞ」
「そ、それはそうだけど……」

 確かに、それはもっともだ。二人三脚は二人の呼吸が大事だし。
 かけ声をかければ簡単に走れるとは僕だって思ってない。
 練習したかったけど、時間もなかったんだ。それに、綾波に声をかける勇気も。

「走る前でもいいから、一度くらい練習しておいた方がいいわよ、シンジ」
「……でも、綾波が……」

 僕はそう言いながら綾波の方をちらっと見た。
 そして言ってからしまったと思った。
 別に綾波のせいにしようとしたわけじゃないのに……

「あ、そうですねー。こないだから毎日チアの練習してたので、一緒に練習する暇がなくて……ごめんね、碇君」

 綾波はそう言って母さんを見ながら笑った。
 もしかして、僕をかばってくれたんだろうか。

「それにもうすぐチアリーダー・ショーの時間ですし、今からっていうのも……」

 午後の競技の前、つまり昼休みの後半に、チアリーダーの特別演技が組まれている。
 綾波たちはもうすぐ着替えて演技しに行かなきゃいけない。
 それに、午後一番の綱引きには僕も出るから、演技が終わる前に集合になるだろう。
 つまり、今からでも練習する暇がないということだ。
 けど、少しくらいは練習した方がいいと思うし、どうしよう。
 僕が黙って考えていると、綾波は僕の方に笑いながら言った。

「だからさ、二人三脚の前にちょっと早めに抜けさせてもらうから、その時に練習しようよ、ね?」
「あ、う、うん」

 僕が返事すると、綾波は今度はアスカの方を見て訊いた。

「そういうことだから、ちょっと早めに抜けてもいい?」
「……いいんじゃない、別に」

 アスカは少し口を尖らせながらそう言った。
 何だかちょっと不機嫌みたいだ。どうしたんだろう?
 すると、それまでニコニコ笑いながら僕らの様子を見ていたカヲル君が言った。

「じゃあ、シンジ君、それまで僕と練習しよう」
「え? いや、あの……」

 どうしていつもカヲル君って、変わったこと言い出すんだろう?
 僕が困っていると、アスカが横から口出ししてきた。

「ちょっと、どうしてアンタとシンジが練習するのよっ!?」
「いいじゃないか。シンジ君の練習にはなるさ。さあ、シンジ君、僕と校舎の裏に行こう」
「渚っ! 冗談もいい加減にしないと怒るわよっ!」
「冗談なんかじゃないよ、僕はシンジ君のためを思って提案してるんだ」
「アンタとレイじゃリズムも足の長さも違うから、練習なんて無意味よっ!」
「でも、感覚を掴むだけでも充分意義があるんじゃないかな」
「要らないってば!」
「心配ないよ。別にシンジ君を取ったりしないから」
「な、何、バカなこと言ってるのよおぉーっ!」

 ……まるで漫才みたいだ。
 今まではトウジとアスカがこんなことやってたけど、最近はカヲル君とアスカがやるようになったな。
 でも、カヲル君って、アスカの扱いがうまいと言うか何と言うか……アスカに何を言われても、うまくかわしてる。
 僕には到底真似できそうにないな。
 綾波はケラケラと笑いながら二人の様子を眺めていた。

「うふふ、シンジも楽しいお友達が増えたわね」

 母さんもそう言って笑っている。
 うん、確かにカヲル君は楽しいんだけど……何だかちょっと疲れるんだよな。
 冗談がたまに冗談に聞こえなくて……



 午後からは綱引きの対抗戦。
 トーナメント形式だったけど、うちのクラスは運良く勝ち進むことができた。
 結果は何と優勝。でも、情けないことに、僕は怪我をしてしまった。
 足を滑らせて、肘をすりむいただけだったけど。
 仕方ないので、保健室に行って消毒してもらい、絆創膏を貼ってもらった。
 それから、また会場をうろうろして、騎馬戦や棒倒しを見て時間を潰してから応援席に戻った。
 どうもチアを見るのは恥ずかしいんだよな……

「あ、いたいた、碇君!」

 応援席へと戻って来たところで、委員長が僕を見つけて声をかけてきた。

「え、何?」
「そろそろ二人三脚の集合だって」
「うん、そう思って戻ってきたんだけど」
「綾波さん、練習したいからって、もう着替えに行っちゃったわよ」
「え、もう行ったの?」
「うん、下足場のところで待ってるって」
「わかった、ありがと」

 僕は委員長に礼を行ってから、下足場の方に向かった。
 練習と言っても5分くらいやればいいと思ってたけど、綾波は結構やる気になってるのかな。
 とにかく、頑張らなきゃ。
 でも、綾波と二人三脚できるなんて……何て言うか、やっぱり嬉しいな。
 あ、ちょっと緊張してきた……



(うわ、やっぱり大汗かいてる。どうしよ……)

 私は更衣室でチアの衣装から体操服に大急ぎで着替えていた。
 でも、さんざん動き回ったし、昼からは気温も上がったしで、ずいぶん汗をかいたみたい。
 シャワーを浴びたいけれど、今はそんな時間はない。
 でも、とりあえず、濡らしたタオルで身体を拭いておくくらいしなきゃ。
 だって、碇君と二人三脚するのよ。身体くっつけるのに、汗臭かったらみっともないじゃない。
 男の人の汗はかっこいいけど、女の汗はどうもね……

 さて、身体を拭いたら、今度は制汗剤をシュッと……
 あ、あれ、ない?
 おかしいな、ポーチに入れてきたつもりだったけど……
 まさか、鞄の中に忘れてきたかしら。やば……

「ごめん、それ、貸して!」

 私は隣で着替えてた知らない女の子(!)に声をかけて制汗剤を貸してもらった。
 それを脇の下の辺りにシュッと一吹き。それから反対側と、ついでにうなじの辺りにも。

「ありがとっ!」

 ちゃんとお礼を言ってから制汗剤の缶を返す。
 それから洗面台の所に行って顔を洗う。順番逆だったかしら?
 綺麗なタオルでよーく顔を拭いて、乱れた前髪を整え直して、っと……
 うーん、こんなところでいいかしら?
 髪型がくしゃくしゃなのは今さら直しようがない。それに、いつのもことよ。
 できれば髪にシャンプーの香りを漂わせたかったけど、今回ばかりは仕方ない。

「行くわよ、レイ!」

 私は鏡に向かって微笑みながらそう言うと、更衣室を出た。



「ごっめーん、お待たせ!」

 下足場のところで待ってた碇君を見つけて、私は声をかけた。

「あ、いや、僕も今来たところだよ」

 碇君はそう言って笑ってる。
 こう言われると、何だか私が遅れてきたみたいなのは気のせい?

「じゃ、練習しよっか」
「あ、でも、もうすぐ集合らしいよ」
「え、もう放送入った?」

 着替えるのにそんなに時間かかったかしら。
 そりゃ、着替えに行かなきゃならないのに気付くのが遅れたのは認めるけど。

「まだだけど」
「じゃ、それまで練習しようよ」
「あ、うん、そうだね」
「じゃあ、とりあえず足をくくって……」
「紐……ないね」
「あっ、そう言えば……」

 その時になって私はやっと気付いた。
 ああ、何てことなのよ。どうして私って、肝心の紐のこと忘れてるわけ?
 他に何か……そうだ、ハンカチ……は、更衣室に取りに行かなきゃ。
 今ならまだ間に合うかも……

「私、ハンカチ取ってくるから、ちょっと待ってて!」

 私は碇君にそう言い残すと、また更衣室に駆け戻った。
 そして自分の制服のスカートからハンカチを引っぱり出す。
 それからまた下足場に戻っていった。
 でも、ちょうど戻って碇君に声をかけたときに、集合の呼び出しが……

『お知らせします。男女混合二人三脚に出場する各クラスの選手は、本部前に集合して下さい。繰り返します……』

 私と碇君は思わず顔を見合わせた。
 碇君がちょっと残念そうな顔で言う。

「……間に合わなかったね」
「そうね……」
「とりあえず、集合場所に行こうよ。待ってる間に練習できるかもしれないし」
「うん。そだね」

 私はハンカチを握りしめて、碇君と共に集合場所に向かった。
 でも、バタバタしてて、心の準備が足りない気が……
 あ、何だか、手に汗かいてきちゃった。



「いててて……」
「我慢しなさい、男の子でしょ!」
「うっ、は、はい……」
「全く、ちょっと転んだくらいで足をくじくなんて、最近の子供は……」
「ごめんね、碇君……」

 私と碇君は今、保健室にいる。
 私はベッドに腰掛けさせられて、碇君は前の椅子に座っている。
 そして碇君は保健の先生に足に湿布を当ててもらっている。
 どうしてこういうことになってしまったのかというと……二人して転んでしまったのだ。
 それも、競技が始まる前に。

 集合場所に行った私たちは、エントリーの確認をして、足をくくる赤い紐をもらった。
 始まるまでまだ10分ばかり時間があったし、他の人たちも練習してるみたいなので、私たちも練習することにして足をくくった。
 最初はさすがにリズムが合わなかったんだけど、5分もやってるうちにだんだんうまくいくようになってきた。

『調子いいね』
『そうねっ』

 とか言いながら、結構楽しくやってた。
 でも、転んだのは練習してる間じゃない。
 練習が終わって、入場門のところに行こうとしたときだった。

『うわっ!』
『きゃっ、ごめんっ!』

 踏み出そうとした足が逆になってしまって……
 くくった方の足を私は動かさず、碇君は動かそうとしたので、碇君は前につんのめってしまった。
 私は一生懸命バランスを保とうとしたけど、そこは足の自由を奪われた悲しさ、見事に碇君の背中の上に尻もちをつく乗る形になってしまったのよ。
 ほんと、最悪のこけ方だったわ。
 で、その時に二人ともくくってる方の足を捻ってしまったらしい。固めに結んでいたのが裏目に出たのかしら。
 結局、棄権して代役を立ててもらうことになり、私たちはミサト先生に付き添ってもらって保健室に来た、という訳で……

「綾波のせいじゃないって」

 湿布を貼ってもらった碇君が私を見ながらそう言った。
 うう、そう言ってくれるのは嬉しいんだけど、はっきり私のせいなのよね……
 だって、緊張が解けた途端に足をくくってるのをすっかり忘れてたんだもん。
 でも、碇君ってやっぱり優しい……
 と、その時、ガラガラと保健室の戸が開いて、誰かが顔を出した。
 また怪我人かしら。

「赤木先生」
「はい?」

 あ、赤木先生って言うのは、リツコ先生のお母さんで、通称ナオコ先生。
 『保健室の主』とも呼ばれるベテラン。
 でも、男の子はみんな『ばーさん』って呼んでる。
 50歳過ぎてるからって、いくら何でも失礼よね、それは。

「父兄の方が一人貧血で倒れられましたので、本部の方に来てもらえます?」
「あら、そう。わかったわ」

 ナオコ先生はそう答えて立ち上がると、私たちの方に向かって言った。

「じゃ、もう少し休んだら、適当に戻ってなさい。捻っただけだから、大したことないわよ」
「はーい」

 私たちが答えると、ナオコ先生は診察用の鞄を持って出ていった。
 ミサト先生はとっくに本部の方に戻ってる。
 保健室には他に誰もいない。
 と言うことで、今は私と碇君の二人きり……
 ……何となく気まずいわね。

 私はちらっと窓の外を見た。
 生け垣越しにグラウンドの様子が見える。
 もちろん、外の喧騒も飛び込んでくる。
 ちょうど最後のリレーが始まったところみたい……

(はぁ……)

 ため息をつきたいけど目の前に碇君がいるのでできない。
 心の中でこっそり反省する。私って何ておっちょこちょいなんだろ……
 肝心な時にこんな風に碇君に迷惑かけて、そのくせ普段は碇君のことからかってばっかり。
 もしかしたら、私は碇君の優しさに甘えてるのかもしれない。
 碇君は顔では笑ってるけど、心の中では私のことあきれてるかも。
 そうよ、いくら私が脳天気だからって、さすがに今回くらいは自己嫌悪に陥るべきよ。徹底的な反省が必要ね。
 とりあえず、もう一度くらい謝っとこ……

「碇君、あのさ……」
「え、何?」

 黙ってぼんやりと壁の視力検査表を見ていた碇君がこっちを向いた。
 私の顔、神妙になってるかしら。いつもみたいにへらへら笑ってちゃだめよね。
 真面目に、真面目に……

「あの……ほんとに、ごめんね、こんなことになって……」
「ああ、そんなこと……いいよ、気にしてないから」

 碇君はそう言ってまた顔をほころばせ、あの優しい笑顔を私にくれた。
 ううっ、あまりのありがたさに涙が出そう……

「ううん、やっぱり私が出ない方が良かったよね……」
「そ、そんなことないって」
「だって私、選手決めの時に寝てて、やる気もないのに二人三脚になっただけだし……」
「でも、それは僕だってそうだよ」
「それに、ちっとも練習しなかったし……」
「それは僕が誘わなかったから……でも、さっき練習したときは、あんなにうまくいったじゃないか」

 碇君はやっぱり優しい。
 私は悪くないって言ってくれる。
 私のことをかばってくれる。
 でも、自己批判モードに入ってしまった私の口からは、いつもの私らしくない反省の言葉が次々に飛び出してくる。
 どうして? 何がしたいの? 私。
 碇君の前で反省して、どうして欲しいの?

「でも、私じゃなくて、例えばアスカだったら、もっとうまく……」
「そんなことないよ!」

 いつの間にかうつむき加減になっていた私は、碇君の声でビクッとなって顔を上げた。
 碇君は私の方に身を乗り出して、いつになく真剣な顔で私を見ている。
 その顔をぼんやりと見ていたら、私の中のもやもやしたものがすっと晴れていく気がした。
 ……私、碇君に怒って欲しかったのかしら?
 たまには優しくして欲しくなかったってこと?
 私が黙って考えていると、碇君が話しかけてきた。

「僕は、その……最初は二人三脚はあんまりやる気はなかったけど、綾波が相手だってわかって、結構やる気になったんだ」

 それは私だって、他の人より碇君が……

「綾波とだったら、絶対やりやすいと思ったし……やれると思ったんだ」

 それは私だって、碇君となら、って……

「それに僕は、アスカより、綾波と組む方が……」

 それは私だって、アスカより私を……え?

 ……何? 今の。

「……あの……碇君?」

 何だか、今の碇君の言葉が、私の頭の中で理解できていない。
 混乱してるのかしら、私。どうして心臓がドキドキするの?
 碇君が今言った意味は、いったい……
 私は思わず身を乗り出した。
 逆に碇君が身を引いていく。

「……それって、どういう……」
『ミサト先生! そんなところで何やってるの?』
「え?」
「へ?」

 突如、私の言葉を遮るようにして、廊下からアスカの声が響いてきた。
 それに、何? ミサト先生って言ったの?
 どうしてミサト先生がこんなところに……

『え? いやー、ちょっちナオコ先生に頼まれて薬を取りに……』
『薬取るのに、どうして保健室の前でしゃがまなきゃいけないのよ』
『それはその、立ちくらみが……あらっ、何だかまだふらふらするわー』
「何バカなことやってんのよ、もう……」

 その声と共に、保健室の扉を開けてアスカが現れた。
 私は碇君の方に乗り出していた身体を引いて、居住まいを正した。
 碇君は私から顔を逸らしてまた視力検査表を見ている。

「シンジ! レイ! いつまで休んでんのよ。もう閉会式よ!」

 そしてアスカの後ろから一緒に現れたのは渚君。それにミサト先生。
 ミサト先生、どうして手なんか振ってるのかしら。

「そ、そうなの? でも、ナオコ先生が、もうしばらく動かない方がいいって……ね、碇君?」
「え? あ、そうそう。捻挫かもしれないって、あはは……」

 ……碇君、笑いが乾いてるわよ。

「ふーん」

 アスカはそう言って、向かい合って座ってる私たちをジロッと睨んだ。
 やば、変な雰囲気になってたのがばれたかしら。
 そうだとしたら、演技のまずい碇君のせいよ……って、大元は私のせいじゃない!

「人に代わりに走らせておいて、のんびり保健室で休憩とは、いい気なもんね」
「え? 走ったって?」

 さっきやってたリレー? アスカ、リレーに出ることは最初から決まってたじゃない。

「二人三脚に決まってるじゃない!」

 え、そうなの? なんで?

「アスカが走ったの?」

 そう訊いたのは碇君。
 するとアスカは私たちの方を見ながら腰に手を当てて言った。

「リレーの集合のために着替えてたら、いきなり呼ばれて走らされたの! びっくりしたわ」
「相手は誰だったの?」

 あ、思わず碇君とユニゾンしてしまった。

「ああ、それは僕が走らせてもらったよ。シンジ君の勇姿を見ようと思ってスタート地点に行ってたら、同じくいきなり呼ばれてね」

 そう言って渚君が私たちにウインクした。
 あの、そんなことされても嬉しくないんですけど。
 碇君も困ってるみたいだし。
 それはともかく、結果はどうだったのかしら。

「で、どうだったの?」
「勝ったに決まってるでしょ!」

 アスカがちょっとムッとしたような顔で答えた。
 うっ、どうして当然なのよ。
 だって、二人ともいきなり走らされたんでしょ。練習もなしで。
 それなのにどうして勝っちゃうわけ?

「まあ、それはともかく、閉会式だし、そろそろグラウンドに戻りましょうよ。そのために呼びに来たわけだしー」

 ……薬取りに来たって言ってなかった?

「じゃあ、シンジ君、僕が肩を貸してあげるよ」
「え? いや、いいよ、自分で歩けるし……」
「歩けるならさっさと戻ってきなさいよっ!」
「いいじゃないか、どうせもう何にも出ないんだし……」
「でも、シンジ君には僕の勇姿を見てもらいたかったんだけどなぁ」
「ふん! アタシは見てもらいたくなかったわ、こんな奴と走ってるとこ」
「何言ってるんだい、最後のリレーの話だよ、リレーの話」
「あ、あれだって、第一走者のアタシがアンタにトップでバトンを渡したからじゃない!」
「うん、バトンを渡してくれるタイミングもばっちりだったね。二人三脚したおかげかな」
「…………」

 くくく、この3人の会話って、どうしてこんなに面白いのかしら!



「あら、あなた、どこ行ってたんです?」
「ああ、ちょっと、トイレにな」
「ビデオカメラ持ってですか?」
「む……」



「おばさま、どうも今日はありがとうございました。もうこの辺で」
「あら、部屋まで送って行くわよ」
「いえ、散らかってますから……」

 怪我をしたから、と言うので、学校の帰りに私は碇君のおばさまに車に乗せてもらった。
 車のドアを閉めた途端、いやーな予感が走った……と思うまもなく、またしても碇君の家に連れて行かれてしまい……
 結局、夕食までごちそうになって、それから家に送ってもらったというわけ。
 明日は代休なんだし、泊まっていけば、というお誘いを断るのに、どれだけ苦労したことか。

「大丈夫? 階段、上がれる?」
「ええ、もう痛みもだいぶ引きましたから」
「そう、よかったわね」

 おばさまはそう言ってにっこりと笑った。
 やっぱりこの優しい笑顔は碇君に遺伝してるわ。

「お夕食、ごちそうさまでした。それに、お昼も、どうもありがとうございました」
「いいえ、こっちが勝手にしたことですもの。気にしないで。それじゃ、またね」
「あ、はい。さよなら」

 おばさまが帰ったのをしっかりと確認してから、私は部屋に戻った。
 やっぱり階段を上るときはまだ少し足に響くわね。
 部屋に入り、制服を脱ぐとハンガーに吊す。
 それから体操服とチアの衣装を洗濯籠に入れておいた。
 浴室に行って、お湯の蛇口を捻る。今日くらい、シャワーじゃなくてゆっくりお風呂に浸かりたい。疲れたし……
 タイマーをセットして、リビングにゴロンと寝転がる。
 目を閉じて、今日のことを回想する……

 今日はいろいろあった。いろいろ……
 久しぶりの『運動会』。チアリーダーをしたのも初めてなら、あんなに視線を浴びたのも初めてのこと。
 緊張して振り付けを間違ったのはちょっと情けなかった。
 でも、お昼のお弁当はおいしかったし、たくさん食べたし……

 そして、碇君。
 あんな真剣な表情の碇君見たの、初めて。
 笑顔じゃない、困ってるのでもない、碇君か……

 それに、あの言葉。

『アスカより、綾波と組む方が……』

 あれはいったい、どういう意味だったのかしら。
 今度いつか訊く機会ある?
 どうやって訊けばいいの?
 どうしたらいいんだろ、私……

 …………

 ……

 …


 それはともかく。
 あーあ。
 碇君と二人三脚、したかったな!

 ……また今度、チャンスがあればいいのにな……



- Fin -







おまけ



 同夜。碇夫妻の寝室。

「……というわけだ」

 ゲンドウはそう言いながら、今まで見ていたポータブルビデオを止めると、腕を組んで黙り込んだ。
 夫妻は既にパジャマに着替え、布団の上に座り込んでいた。
 ビデオは二人のちょうど間に置かれている。
 ユイは最初から最後まで黙ってビデオを見ていたが、やがて深くため息をつくと、美しい眉根を顰めながら言った。

「呆れるわね……」

 それを聞いて、ゲンドウも苦々しげに口を開く。

「全くだ。これほどの状況をものにできんとは……シンジ、お前には失望した」

 そう言ってこの場にいない息子を責める。
 息子は今頃くしゃみをしているかもしれない。

「呆れるのはあなたです」
「む?」

 ユイの言葉に、ゲンドウは怪訝な表情になってユイの顔を覗き込んだ。
 ユイは目を閉じて、額に人差し指を当て、考え込むようにしている。
 そして冷たい声で言った。

「急に姿が消えたと思ったら、こんなものを撮ってたなんて……」
「し、しかし、ユイ……」

 うろたえるゲンドウ。
 ユイはもう一度大きくため息をつくと、布団の中に入りながら言った。

「ふう……もう寝ましょう」
「ユ、ユイ? まさか……」

 すると、ユイはゲンドウの方に背を向けながら冷たく言い放った。

「あなた、貧血で倒れたんでしょう? 今日はもうお休みになったら?」
「ど、どうしてそれを……はっ!」

 ゲンドウが気付いたときにはもう遅かった。
 見事に罠にはまったのだ。
 ユイが首を捻って、横目でゲンドウを睨みながら言った。

「やっぱり、保健の先生が部屋を出たのは、あなたの差し金だったんですね……もう本当に呆れましたわ」
「す、すまん、ユイ……」
「だ・め・で・す! 一晩、反省しなさい!」
「ううっ、ユイィ!」

 またしても泣き寝入りするゲンドウだった……



- Fin -




新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions