東の空が白み、海辺に夜明けが訪れた。
 水平線にかかる東雲が赤く染まる。だが、陽が高くなれば晴れ上がるだろう。
 おそらく、今日もいい天気に違いない。
 太陽が顔を出す。それは静かに天頂へと向かって昇っていく。

 海沿いの道に止まった車の中に、波の音がまるで子守歌のように聞こえてくる。
 男は眠っていた。シートをリクライニングさせ、頭の後ろで組んだ手を枕代わりにして。
 エアコンが緩く付けっぱなしになっていて、車の中は適温に保たれていた。
 しかし、エンジンの音は聞こえない。車の動力は電気だった。

 不意に、男の胸ポケットが揺れた。
 男は浅い眠りを妨げられて一瞬不快そうな顔をしたが、ゆっくりと目を開けると胸ポケットに手をやった。
 そしてポケットの中で震えていた物を取り出し、スイッチを切る。
 ダッシュボードの時計を見た。時間を確認して苦笑する。
 それから大きく一つあくびをすると、頭をポリポリと掻いた。

 シートのリクライニングを戻して、ドアを開ける。
 大きく伸びをした。ずっと車の中に座っていて、腰が痛い。
 深呼吸をし、潮風を胸一杯に吸い込む。ため息をするように息を吐くと、車の中から双眼鏡を取り出した。

「やれやれ、日曜日だってのに、早起きだねぇ」

 遙か向こうのホテルを見ながら、男はそう呟いた。
 手に持った双眼鏡を覗くでもなく、男は車の屋根に肘をついて、ホテルの方を眺めている。
 潮風が男の長髪を揺らしていた。



 のチルドレン




(……はっ!)

 シンジは唐突に目を覚ました。
 障子越しに射し込む光が、部屋の中をぼんやりと明るく照らしている。
 しばらくぼんやりと天井の木目を眺めていたが、おもむろに横の方を見た。
 誰か横に寝ている。少し跳ねた髪の毛……トウジだった。
 横向きになり、枕を抱きしめて寝ている。口をだらしなく開けながら。

(…………)

 それからシンジは反対側を見た。障子に光が一筋描かれているのが見えるのみ。
 布団から右手を出し、頭越しに畳の上を探る。捜し物は見つからない。
 ふと気付いて、左手を出す。目的の物はそこにあった。腕時計。
 時間を見た。長針と短針が一直線に並んでいる。

(……6時?)

 シンジはもう一度じっと時計を見つめた。しかし、時間は変わらない。6時。
 どうしてこんな朝早く目が覚めたんだ? シンジは自問した。
 昨日のことを必死で思い出そうとする。エレベータで下から上がってきて、それから……
 憶えていなかった。部屋の鍵を開けたことも、布団に潜り込んだことも。
 全ては夢うつつで行われていたらしい。

 では、その前……海。そう、海。
 海で、泳ぎの練習。しかも二人掛かりでみっちりと。
 それから、卓球大会で更にヘトヘトになって……
 部屋に戻ってきた途端に、眠り込んでしまったのだろう。深く、泥のように。
 しかし、何か忘れているような気がする……

(……風呂……)

 そうだ、風呂。卓球の後、みんなでもう一度風呂に行こうっていうことになったのに、僕だけ行かなかった……
 あれ、そう言えば、誰かもう一人……まあいいや。
 でも、どうしてこんなに早く目が覚めたんだろう。疲れてたはずなのに。
 こんなに早く起きたことなんて、ここしばらくなかったな。
 もう一度寝ようか……

 シンジは布団の中に両手を潜り込ませると、上を見て目を閉じた。
 ……でも、いつもは朝起きると眠いのに、今日はそんなに眠くないな。
 そんなに長い時間は寝てないはずだけど、眠りが深かったのかな?
 それに、もう一度寝たらどうなるんだろう。
 朝ごはんって、結構早い時間だったようなこと言ってたけど。
 今もう一度寝たら、今度は起きられないような気がする。

 シンジは、少し空腹を感じていた。こういうときはなかなか寝られない。
 昨日激しい運動をしたせいだろうが、身体はそんなに疲れていないようだ。それほどよく寝たと言うことか。
 シンジはもう一度目を開けると、じっと天井を見つめていた。
 正目板をふんだんに使った、なかなか贅沢な造りだ。

(……風呂、行こうかな……)

 快適な空調のおかげで寝汗はそれほどかいていないようだが、前夜の卓球の汗を落としていない。
 朝風呂か……いいかもしれない。
 今の時間なら入っている客も少ないだろう。ゆっくりできるに違いない。
 昨日入ったときはすごく気持ちよかった……
 その時の感覚が、シンジの気持ちを揺り動かした。
 もそっと音を立てて上半身を起こす。

(朝ごはんには間に合うよな、うん)

 それから鍵を探そうとして辺りを見回したが、枕元に置いてあるのを見つけた。
 ここに置いたことさえ憶えてないのか……シンジは前夜の自分の状態を思い知った気がした。
 体力ないな。そんなことを思いながら、部屋の隅に干してあったタオルを手に取る。
 そして部屋の中をひょいと見ると、布団が一つ空いていた。
 自分の横にはトウジ、その横に空いている布団、入り口近くにゲンドウ。……ケンスケは?
 シンジは首を捻ったが、ようやく昨日の食事時にケンスケが言っていたことを思い出した。
 確か、夜明け前に新横須賀に入港する空母を見に行くって……冗談だと思ってたけど、ほんとに行ったのか。やれやれ……

 シンジは半ば呆れながらドアの方に向かって歩き始めた。
 しかし、そこで隣の部屋とを仕切っていた襖が開いていることに気付いた。

(……えっと……)

 どうして開いてるんだろう? シンジは思った。
 昨日開けたまま寝ちゃったのかな。でも、一応男女別に部屋が分かれてるくらいだから、閉めておいた方が……
 シンジは襖を閉めようと手を掛けたが、見るとも無しに隣の部屋の中を見てしまった。

(…………)

 こちらの部屋と同様、布団が4組きれいに並んでいる。
 一番ドアに近いのは自分の母親だろう。正しい寝相の見本のように、きちんと上を向いて眠っている。
 隣は……布団に潜り込んでいる。しかし、見慣れた赤い髪留めが枕元に転がっているから、たぶんアスカだ。
 その隣の茶色の髪はたぶん委員長で、さらにその隣に空色……

(…………)

 そこでシンジの思考が固まった。視線も一つところに留まっている。
 窓側に寝ている空色の髪の少女は……少々寝相が良くなかった。
 夜中のうちにいろいろと動いたのだろう。掛け布団を抱きしめて眠っている。
 そして、布団から白い素足がにゅっと突き出ていた。
 さらに、太股の辺りまで浴衣がすっかりはだけていて……

(……う……)

 シンジは思わず唾を飲み込んでしまった。
 喉が鳴ってしまい、誰かに聞こえたのではないかと慌てて周りを見回す。
 無論、起きているのは彼一人だった。
 もう一度向こうの部屋の中を見た。そして慌てて視線を逸らす。
 それから目を閉じて、音がしないようにそっと襖を閉じた。
 閉ざされた襖の前で、シンジは大きく息をついた。

(あ、朝だから、しょうがないよな……)

 シンジは部屋を出ると、温泉へと向かった。
 浴衣の前をタオルで隠すようにして。



 シンジが部屋を出ていったのと同時に、一人もそもそと動き出した者がいた。

「……ふん、情けない奴だ。何もできんとは」

 男はそう呟くと、鞄の中をゴソゴソと手で探った。
 その手の動きが止まると、ピッという小さな電子音が聞こえた。
 男は鞄の中から手を抜くと、また布団の中に潜り込んで目を閉じた。



 大浴場の窓からは明るくなったビーチがよく見えた。
 朝の散歩をしている人々がいる。潮風が気持ちよさそうだ。
 子供が一人、白い犬とじゃれ合っていた。木切れのような物を投げて取りに行かせている。
 犬も嬉しそうにその木切れを追いかけていた。
 シンジは窓辺にもたれて湯に浸かりながら、朝の風景を眺めていた。
 つい先程まで、男湯と女湯の間の仕切りがなかったのを、シンジは知らない。

「……来て良かったなぁ……」

 シンジは無意識のうちにそう呟いていた。
 泳ぎが苦手なこともあって、今回も海に行くのは乗り気ではなかった。
 小さい頃にはアスカやその母親のキョウコたちと共に毎年のように来ていたのだが、シンジはいつも波打ち際で遊んでいるか、浮き輪に掴まってプカプカ浮いているか、ビーチで砂遊びをするくらいだった。
 だいぶ前、アスカに泳ぎを教えてもらっているとき、溺れて水を大量に飲み、救護室に担ぎ込まれたことがあった。
 それ以来、アスカはシンジに無理に泳ぎを教えようとしなかったのだが……

 しかし、昨日はさんざんな目に遭ったな。シンジは考えていた。
 プールで少しは泳げるようになったと思ったらこれだもんな。
 さすがに中二にもなって、足が立つところで溺れるようなことはないだろうけど、それにしてもあれは厳しかった。
 昔の方が教え方が優しかったような気がするよ。
 今回はキョウコおばさんが来てないからだな、きっと。
 あれ以来、僕に泳ぎを教えないようにずっと見張ってたから……

 その点、綾波の教え方の方がずっといいや。
 ああやって教えてもらえば、僕にでもわかるんだよ。
 基本的な動き方から、こう……
 シンジが昨日教えてもらった足の動き方を思い出しかけたとき、足先に別の感覚が蘇った。
 慌てて思考を中断する。

(お、思い出しちゃ、ダメだ。思い出しちゃ……)

 そう意識すればするほど、はっきりと思い出してしまう。
 足に当たった柔らかな感触を。
 シンジは頭に乗せていたタオルを、湯船の中に浸け、前の部分を覆った。
 他には誰もいなかったのだが。

(そ、それにしても、昨日はいろいろとあったな……)

 動揺しながらも、シンジは無理矢理別のことを思い出そうとした。
 レイが言った『責任取ってくれる?』という言葉を考えないようにしながら。

(き、昨日……昨日、あの後……そうだ、昼ごはんの時、変わった子の話が出たっけ)

 銀色の髪、紅い瞳、ケンスケやトウジの前に現れたという、謎の少年。
 そして僕もその子に会った……
 何て言ったっけ。渚……渚カオル?
 突然僕に話しかけてきて、名前を言ったから、僕も思わず言ってしまったけど……
 その後、少しだけ海の話をして、僕がそろそろ泳ぎの練習しなきゃって言ったら、どっかへ行ってしまった。
 何だったんだろうな、あの子は……

「シンジ君じゃないか」

 その時、誰かがシンジの名前を呼んだ。

「えっ!?」

 誰もいないと思っていたシンジは、慌てて周りをキョロキョロと見回す。
 すると、浴室の一角にあるサウナルームの扉のところに誰かが立ってこっちを見ていた。
 サウナに誰か入ってたのか。でも、僕の名前を知ってるなんて、誰だろう……
 その人物は、湯煙の向こうからシンジの方に近づいてくる。
 それにつれて、姿形がはっきりとしてきた。
 銀色の髪、紅い瞳……

「あの……渚君?」

 タオルを肩に掛け、湯船の中をザブザブと歩いてきた少年に、シンジは声をかけた。
 少年はニコニコと笑いながらシンジの側まで来ると、目の前に立ったままシンジに話しかけた。

「カヲルでいいよ、シンジ君」
「あの……じゃあ、カオル君……」
「何してるんだい、こんなところで」
「え、ちょっと、その……朝風呂に……」

 早く座ってくれないかな……シンジはそう思いながら答えた。
 しかし少年はシンジの困惑した表情に気付くこともなく、前屈みになってシンジを覗き込みながら言う。

「一人で?」
「う、うん。昨日早く寝たから、一人だけ早く目が覚めちゃって……」
「そう。じゃあ、一緒にいていいかい?」
「いや……別に、いいけど……」

 少年はシンジの返事を聞いてにっこりと笑うと、シンジの横に並んで座った。
 そして少し不安そうなシンジの瞳を優しく見つめるようにして言った。

「僕は君ともっと話がしたいな。訊いていいかい? 君のことを」



「よう、シンジ」
「あれ、ケンスケ……」

 シンジが風呂から戻ると、ケンスケが部屋の前に立っていた。
 昨日の朝と同じ迷彩服に身を包み、大きなリュックを抱えている。
 手にはビデオカメラ。
 ……本当に新横須賀に行ってたんだろうか。シンジは半ば呆れながら訊いてみた。

「あの……ほんとに空母見に行ってたの?」
「ああ、ばっちりさ。ついさっき帰ったところだ」

 ケンスケは手に持っていたビデオカメラをひょいと上げながらニヤリと笑っていった。
 目が少々眠そうだ。ほとんど寝ていないのに違いない。

「どうして部屋に入らないの?」
「鍵、持っていかなかったからな。ドア叩いても良かったけど、まだみんな寝てると悪いと思って」
「そう……」
「シンジは何だ、朝風呂か?」

 ケンスケはシンジが手にぶら下げているタオルを見て言った。
 相変わらず、観察力だけは素晴らしい。
 シンジは先程の風呂場での出来事を思い出して、ちょっとつっかえながら答える。

「う、うん。早く目が覚めたから」
「じゃ、鍵、持ってんだろ? 開けてくれよ」
「うん」

 シンジはドアの前に立つと、鍵をドアノブの鍵穴に差し込んで回した。
 そして、そうっとドアを開ける。
 もう7時前だが、ケンスケも言ったようにまだみんな寝ているかも知れない。
 そして開いたドアの隙間から中をひょいと覗き込んだ。

「うわああっ!!!」

 シンジはびっくりしてひっくり返りそうになった。
 そこには、浴衣にサングラス姿のゲンドウが、腕組みをして仁王立ちしていたのだった。
 そしてシンジを見据えながら低い声で言った。

「シンジ、なぜここにいる?」
「な、何だよっ! びっくりするじゃないかっ!」

 うろたえるシンジをジッと見ながら、ゲンドウはサングラスに手を掛けて言った。

「私は何もしておらん。お前が勝手にびっくりしているだけだ。それに朝から大きな声を出すのはよせ。他の部屋に迷惑だ」
「う……」

 あくまでも冷静なゲンドウの言葉に、シンジは答えに窮した。
 ちくしょう、どうしていつも父さんにはやり込められるんだ……
 シンジの考えを余所に、ゲンドウはなおも言葉を続けた。

「今一度問う。なぜここにいる」
「……ちょっと……朝風呂に……」
「そうか」

 ゲンドウはそれだけ言うと、部屋の中に戻っていった。
 シンジは思わずため息をつきながら考えていた。
 父さん……まさか、知ってて僕を驚かしてるんじゃないだろうな……
 そう考えるシンジの横顔を、ケンスケは不思議そうに見ていた。
 ……どんな親子なんだ、こいつのところは……

 シンジとケンスケが部屋に入ると、寝ていたトウジがむくっと起き上がった。
 そして欠伸をしながら伸びをすると、シンジたちの方を見て手を挙げた。
 シンジたちが手を挙げ返すと、トウジは立ち上がってのこのこと歩いてきた。
 頭をポリポリと掻きながら。

「よう、おはようさん」
「おはよう、トウジ」
「おっす」

 それからトウジはもう一度欠伸をし、シンジに顔を寄せると、小さな声になって言った。

「……シンジ、お前、冷たいなぁ。何でワシを置いて行くんや」
「え? いや、僕は朝風呂に行ってただけで……ケンスケは新横須賀だし……」

 トウジの言葉の真意を量りかねて、シンジは何と答えていいか解らず、取り敢えず事実を語った。
 だがトウジはシンジの顔を見ながら情けなそうに声を出す。

「ケンスケのことは知っとるわい。昨日の晩出ていくときにみんなにそう言うたんやから」
「じゃあ、何が……」
「シンジ、朝風呂に行くんやったら、ワシも誘ってくれや」
「え、でも、よく寝てたみたいだったし……」

 シンジは部屋を出るときにトウジの様子を思い出していた。
 あれはちょっとやそっとでは起きそうもないと思ったんだけど……

「そやかて、シンジが出て行ってしもたら、ワシはお前んとこのお父はんと二人きりやで」
「あ、うん」
「目ぇ覚めたとき、びっくりしたわ。お前んとこのお父はんが、サングラスに浴衣で、こっちの方をジッと睨んどるんや。起きるに起きられへんかったがな」
「…………」
「そやさかい、今の今まで、ずっと狸寝入りや。ヤクザの親分さんと一緒におる気分やったで。ホンマ、勘弁して欲しいわ」

 トウジは珍しく真剣な表情でシンジにそう語った。
 だが、そう言われても、シンジには受け答えのしようがない。
 これほどまでに自分の父親がみんなに恐れられているとは思いもしなかったのだから。
 一方、そのゲンドウの方は、襖のところに立っている。
 そして襖を軽くノックした。

『……はい?』

 少し間があって、襖の向こうから声が聞こえた。ユイの声だ。
 おそらく、ノックの音を聞きつけて、襖のところまで来たのだろう。
 いつも朝が早いから、もうとっくに起きていたいに違いない。

「ユイ」
『はい』
「こっちは全員起きた。そっちが起きたら食事にしよう」
『わかりました。こっちはまだ一人寝てますから、もう少し待って下さい』

 その声の後から、微かにアスカの声が聞こえてくる。

『おばさま、もう起こしちゃいましょうか?』

 その言葉に、シンジたちは誰がまだ寝ているのかを一瞬にして把握した。
 おそらく……いや、間違いなく、彼女だ。

『よく寝てるみたいだから、もう少し寝かせてあげましょうよ』
『でも、起こさないとこの子、ずーっと寝てるんですよ。修学旅行の時もそうだったもの。ね、ヒカリ?』
『そ……そうね……』

 相変わらずヒカリの声は小さくて聞こえにくい。
 またアスカの声が続いた。

『眠いなら、朝食の後でもう一度寝ればいいわ。だいたい、アタシたちより長く寝てるのに、どうして眠いのかしら。……ちょっと、レイ、起きなさいよ。もう、ひどい寝相ねー』

 それを聞いて、シンジは今朝の光景を思い出してしまった。
 布団から飛び出した、白く艶めかしいレイの脚……そしてはだけた浴衣……
 妄想が暴走しそうになるのを、慌てて抑える。
 すると、襖の向こうからレイの眠そうな声が聞こえてきた。

『…………』

 だが、声が小さいのと寝惚けているのとで、内容がはっきりしない。

『ええっ! な、何……』

 それに続いてアスカの驚いた声。
 そしてまたレイの寝言が聞こえてきたかと思うと、再びアスカが大きな声を出した。

『ちょっと、レイッ! まさか、シンジに何かされたの? 起きなさい、レイッ!』

 その瞬間、シンジたちの部屋にさっと緊張が走った。
 トウジとケンスケが揃って『いやーんな感じ』のポーズを取り、そしてゲンドウの冷たい視線がシンジに突き刺さる。
 シンジは怯えた顔でかぶりを振った。

「な、何もしないよ、そんな……」

 だが、シンジがレイの寝姿を思い出し、その負い目で歯切れが悪かったのがまずかった。
 トウジとケンスケが、これ以上ないくらいの疑いの眼差しでシンジを睨んで言った。

「シンジ、まさか、お前!」
「シンジ! おんどれは闇に紛れて何ちゅうことを……」
「シンジ、お前には失望した」
「し、知らないよっ! 何にもしてないったら!」

 バタバタと手を振って必死に嫌疑を否定するシンジ。
 だが、シンジの自信なさそうな顔のせいで、二人の疑惑は深まるばかりだった。
 襖の向こうではなおもアスカがレイを起こし続けている。

『レイッ! 早く、起きなさいよっ! レイッたら!』
『ふわ……あれ、アスカ、もう終わり?』
『何が終わりよ、寝惚けるのもいい加減にしなさいよ!』
『あれ、碇君は?』

 それを聞いたトウジとケンスケの目が光った。じわりとシンジに詰め寄る。
 シンジは後ずさりしながら、壁際に追いつめられた。
 そしてアスカの不安そうな声が聞こえる。

『シ、シンジが……何かしたの? まさか……』
『だって……水泳の練習……あれ? ここ、どこ?……』
『へ?』

 その後、正気に返ったレイが、夢の中でシンジに水泳の指導をしていたとの証言を得るのに約5分を要したらしい。



「おばさま、ボート借りていいですか?」

 朝食が済み、少し休憩した後でビーチに出たアスカは、ユイにそう切り出した。
 ユイはゲンドウがパラソルをビーチに立てるのを手伝っていた。
 と言っても、パラソルに手を添えて倒れないように支えているだけだ。

「ボート? いいわよ。あ、そうそう、クーポン券でボートが2時間借りられるんだったわ」

 ユイは相変わらず穏やかな笑顔を浮かべている。
 今日の水着はセパレート。とは言え、上は胸を隠すだけではなくて、少し丈が長い。
 タンクトップをヘソの上辺りで切り取ったような感じだ。
 そのため、全体的な露出度は少ない。昨日の水着と同程度と言えるだろう。
 ゲンドウは意外にもトランクス型の普通の水着、子供たちは全員昨日と同じだった。

「何艘借りられるんですか?」
「2艘だけど、構わないわよ、3艘でも。他は全部タダなんだから、これくらい払ってあげる」

 ユイはパラソルから手を離し、シートの上に置いてあった鞄の中からクーポン券と財布を取り出した。
 そして子供たちの方を笑顔でジッと見ている。
 アスカはシンジたちの方を振り返って言った。

「どうする? 3艘にする?」

 男女3人ずつだから、1艘ずつペアで乗るとして3艘。アスカはそう考えて言ったのだろう。
 だが、ケンスケが眼鏡を手で押し上げながら言った。

「18歳以下は3人で乗ることって書いてあったぜ」
「どこに?」
「ホテルのレンタルボートの受付に」

 ホテルにはビーチパラソルなどの用具を貸し出してくれるところがあったのだが、ケンスケはいつの間にかそこをチェックしていたのだろう。

「でも、おばさまたちも乗ることにすれば、もう1艘……」

 アスカがそう言いかけたときだった。
 既にパラソルの下に座り込んだゲンドウが、アスカの方を見上げながら言った。

「アスカ君」
「は、はい」

 思わず緊張するアスカ。
 シンジの家に行っても、滅多に声をかけられることがないのだ。
 だから、アスカもゲンドウと話すのは未だに少しだけ苦手だった。

「ルールは守った方がいい」
「は、はい……」
「大人でさえ、2人で乗ることになっている。万が一、転覆したら危険だからな。子供だけなら3人いないとボートをひっくり返すことができん。そういう意味だ」
「は、はい……」

 すっかりゲンドウに圧倒されているアスカだったが、横からレイが小声で話しかけた。

「アスカ、昨日みたいなこともあるし……」
「え?」
「ほら、昨日の、ボートの2人。あんなのがまた寄ってきたら困るし、3人で乗れば大丈夫じゃ……」
「……そうね」

 アスカは渋々頷くと、ユイの方を振り返った。
 ユイは少々申し訳なさそうな顔でアスカを見ている。
 ゲンドウが余計なことを言ったと思っているのだろう。

「じゃ、2艘でいいです」
「そう。じゃ、これ、クーポン券」
「ありがとうございました。じゃ、みんな、ボート取りに行こ」

 アスカはそう言うと、先頭に立ってホテルの方に戻っていった。
 後から他の5人がついていく。
 その後ろ姿を見ながら、ユイが困ったような顔でゲンドウに言った。

「2人きりじゃダメなんですか?」

 ゲンドウは静かな声で答えた。

「どちらの組み合わせになっても不満が残る。今はまだその時期ではない」
「そう……そうかも知れませんけど……」

 少し困惑気味に答えたユイに、ゲンドウはきっぱりと言った。

「全て我々のシナリオどおりだ。問題ない」
「…………」

 ユイは黙ってゲンドウの横に座るしかなかった。



「ところで、あなた?」
「む?」
「今日こそは泳ぐ約束でしたっけ」
「くっ……」

 ユイは先程の憂いを帯びた表情が嘘のような、爽やかな笑顔に戻っていた。



 見渡す限りの青い海原。
 水面を渡る風が気持ちいい。
 シンジの漕ぐボートは快調に波を切って進んでいた。
 振り返れば、遙か先には雄大な入道雲をバックに、どこかの島が見える。
 だが、レイの顔はほんの少しだけ不機嫌だった。
 一番見たいものが見えなかったからだ。

「もしもーし、聞こえますかぁ、どーぞ」

 レイはボートの舳先の辺りに座っていた。
 そして手に持ったトランシーバーに向かって呼びかけている。
 このトランシーバーはケンスケが持ってきた最新型で、通信距離は数キロメートル。さらにGPSで緯度経度が計測でき、複数の相手と双方向回線によってお互いのいる方角や距離がわかるという優れものだ。
 送信スイッチを切ってレイが耳を傾けていると、程なく声が返ってきた。

『よく聞こえまーす、どうぞー』

 聞こえてきたのはヒカリの声。
 子供たちは2艘のボートに3人ずつ分かれて乗っていた。
 1艘にはヒカリ、トウジ、ケンスケ。もう1艘には、シンジ、レイ、アスカ。
 ジャンケンをしたら一回でこう決まってしまったのだ。

『よっしゃ、沖まで競走や』

 トウジはそう言うと、勇んでボートに乗り込み、一目散に沖を目指して漕いでいった。
 ともすれば、向こうに霞む島まで行ってしまいそうな勢いで。

『ほら、シンジ。出番よ』

 ジャンケンで組み合わせが決まった瞬間からシンジの頭に浮かんでいた予感は的中した。
 アスカの号令一下、有無を言わさずシンジが漕ぎ手に決まった。
 そのアスカはボート競技のコックスよろしく船尾に座って、シンジの漕ぎ方にあれやこれやと指示を出す。
 そしてレイはというと、船首に座って通信係をやっている、というわけだった。
 だからシンジとアスカが向かい合う形になり、レイにはシンジの背中しか見えない。

「そっちは今どこまで行ってますか、どーぞ」
『ブイを越えてちょっと先まで行ったところです、どうぞー』

 ヒカリたちのボートは、もうだいぶ先まで行ってしまっていた。
 一方、シンジたちの方は、ブイまでまだかなりある。
 もちろん、漕ぎ手がシンジとトウジの差だ。
 シンジはハァハァと息を切らすばかりで、もう一艘との差は開く一方だ。

「……こんな、時だけ、人に、頼るんだもん、なーっ……」

 シンジはぶつくさと文句を言いながらボートを漕ぎ続けていた。
 それをアスカがビシビシと叱咤する。

「ほらほら、シンジ、だいぶ遅れてるわよ。頑張んなさいよ!」
「……ふうはあ、これ以上の、スピードは、無理だよ……」
「ヒカリのボート、見えなくなっちゃうじゃない。ほら、いち、にっ、いち、にっ!」
「……はあはあ、そんなに、言うなら、アスカ、代わってよ……」
「なーに言ってんのよ! か弱い乙女にボート漕がせる気?」
「いーんじゃない? ゆっくりで。のんびり行こうよ」

 シンジとアスカのやり取りに、レイがのほほんとした声で口を挟む。
 帰りは絶対場所代わってもらうもんね。そんなことを考えながら。
 そしてシンジの背中をじとっと眺める。
 うわ、汗だくになってる。暑そう。冷やしてあげた方がいいかなー。
 レイは右手を海に浸けて水をすくい上げると、シンジの背中目掛けてぱしゃっと投げた。

「うわ、冷たっ! な、何、綾波?」

 シンジが漕ぐ手を一瞬止めて肩をすくめ、レイの方を振り返った。
 レイは船出してから初めてシンジの横顔を見ることができた。

「えへへ、暑そうだなーと思って、水かけてあげたの」
「そ、そうなんだ、ありがとう」
「気持ちよかった? もっとかけてあげよっか?」
「う、うん、お願いするよ。さっきから日射しで背中が焼けちゃって」
「はーい、それじゃ、えい、えいっと」

 レイはそう言いながら何度も手で水をすくい、シンジの背中に振りかけた。
 アスカは黙ってその光景をじっと眺めていた。
 前からシンジに水を掛けてやろうかとも思ったが、二番煎じは彼女のプライドが許さなかった。
 しかし、このままでは自分がシンジをいじめていて、レイが庇っているように見えてしまうではないか。

「レイ、ちょっと前のボートに、止まってるように言ってくれる?」

 だからアスカは彼女なりのやり方でシンジを庇うことにした。

「はーい。もう負けってことでいい?」
「どうでもいいわよ。これじゃ、永久に追いつけやしないわ」
「……ふう、終わりか、良かった……」
「ダメよ、漕ぐのやめちゃ。あのブイの所までは行くの!」

 それでもアスカの口調は厳しかった。
 シンジは漕ぎ手を緩めようとしたのを見て、また活を入れる。
 簡単に優しくしないのがシンジのためになると思っているから。
 シンジはアスカに聞こえないようにブツブツと文句を言いながら、ゆっくりとボートを漕ぎ続けた。

「もしもーし、聞こえますかぁー? どーぞ」

 レイはトランシーバーに向かって呼びかけた。

『はい、聞こえます、どうぞー』
「降参でーす。ブイの辺りまで戻って待っててくださーい。どーぞ」
『…………』

 すぐに答えは返ってこなかった。今の言葉をトウジとケンスケに伝えているのだろう。
 トウジの喜んでいる姿が目に浮かぶようで、アスカはちょっと悔しそうな表情になった。
 こんなことなら、アタシが漕いどけば良かったかしら。

『了解しました。戻って待ってますー。どうぞー』
「ありがとー、ヒカリ」

 しばらくして返ってきた声にレイは短くそう答えると、トランシーバーのアンテナをしまった。

「さって、碇君、もう一頑張りねっ!」

 レイは明るくそう言うと、シンジの背中にまた水をぱしゃっとかけた。



 ちょうど昨日、レイとアスカが泳いできたブイの辺りに、2艘のボートは停まっていた。
 30分ほど前、トウジたちの待っているところに、シンジたちがようやく追いついたのだ。
 それからシンジが休憩している間に、レイとアスカ、ヒカリ、トウジはボートの周りで泳いでいた。
 ケンスケはボートの上からみんなが泳いでいるところをビデオに撮っている。
 時々ボートを揺らされて、ビデオを落としそうになって慌てていた。
 そして4人が泳ぎ疲れたところで、シンジの休憩も済み、大回りしながらゆっくり帰ることにしたところだった。

「ほな、行こかー」

 トウジが岸に向かってゆっくりと漕ぎ始めた。
 船尾にヒカリ、船首にケンスケが座っている。
 ケンスケはコックスもせずに、ただひたすらボートの上のトウジとヒカリの姿をビデオに収めているようだ。

「ねーねー、碇君」

 アスカにいつの間にかまた船尾の席を占められてしまったレイだったが、座った姿勢のままシンジの後ろに移動し、シンジの右肩をポンポンと叩きながら言った。

「え? 何?」

 シンジは振り返ってそう言ったが、レイの顔がすぐ近くにあったのでびっくりしているようだ。

「こんどはゆっくりでいいんでしょ。私にも漕がせてくれない?」

 そう言ってレイはシンジの顔を見てニコニコと笑う。
 また席取られちゃったんだから、今度はせめて横に座らせてもらわなきゃ。

「えっ、いいけど……じゃ席替わろうか?」
「あ、いいのいいの。碇君は片方漕いでよ。私がもう片方漕ぐから」
「う、うん……」

 シンジは少し戸惑いながらそう答えると、左側に腰の位置を移動した。
 レイはその空いた右側に滑り込む。
 腰掛けをまたぐときに中腰になったので、ボートが少し揺れてレイはヒヤリとした。
 そうそう、立ち上がっちゃダメって言われたんだっけ。

「漕ぎ方はどうするの?」
「う、うん、オールを回すようにしたらよくって……」
「こんな感じ?」
「そ、そう……で、水をかくときは少し手を捻って……」
「あ、こうね、うん」
「それで、後はこっちが漕ぐのと合わせてくれたら……」

 シンジはドキドキしていた。
 すぐ横に水着姿のレイがいるだけも緊張するのに、先程から肩や肘が触れ合っているのだ。
 ……こんな近くに寄ったの、初めてだ……いや、2回目か……
 すぐ目の前でアスカがジト目で見ているのにも気付かなかった。

「シンジ、代わって」
「え?」

 アスカに声をかけられて、シンジはようやく前に顔を戻した。
 そしてアスカが無表情に自分を見ているのを発見する。
 ……どうしたんだろう、機嫌悪そうだけど。

「アンタばっかりに漕がすの悪いから、代わってあげる」
「えっ、でも……」
「いいから、代わって!」
「う、うん……」

 シンジは渋々オールを手から離すと、腰を浮かせた。
 ……うーん、うまく行かなかったかぁ。レイは心の中だけで苦笑いした。
 アスカ、何だかんだ言いながら、碇君のこと気にしてるんじゃない。
 でも、ま、いーか、今度は碇君が目の前に座るんだし……

「ちょっと、シンジ! 立たないでよ!」
「えっ!? わっ!」
「きゃーっ!!」



 青いスポーツカーの中で、無精髭の男は双眼鏡を覗きながら呟いた。

「おいおい、どーなってんだ。予定と違うぞ」

 だが、その言葉とは裏腹に、男の表情は緩い。
 そして双眼鏡から目を離し、宙を見上げる。
 しばらくそうして考えるようにしていたが、やれやれ、とため息をつきながら、また独りごちた。

「ま、結果オーライかな。出番が少し早まっただけか」

 そして涼しい顔でまた双眼鏡を覗き込んだ。



 ユイはふと、沖の方を見遣った。
 声が聞こえたような気がしたのだ。
 そして、水の中から立ち上がったゲンドウに問いかける。

「今、何か聞こえませんでした?」
「いや……」

 ゲンドウは顔に付いた塩水を拭いながら言った。
 さすがに、泳ぐときくらいはサングラスを外している。

「そうですか……」

 ユイはまだ不思議そうな顔で沖の方を見ていたが、ゲンドウの方に顔を戻すと、笑顔になって言った。

「じゃ、あなた、もう一度バタ足から」
「う、うむ……」

 ユイに両手をつながれたまま、ゲンドウはもう一度海の中に潜った。



 レイは必死で船縁に掴まっていた。
 シンジが急に立ち上がって歩き出そうとしたためにボートが傾き、中腰になっていたアスカもろとも海に落ちてしまったのだった。
 シンジは背中から、アスカは咄嗟に体勢を立て直して頭から。
 ただ一人座っていたレイだけがボートの上に残っていた。
 大きな二つの水柱が消えた後も、ボートはまだ揺れていた。

「い、碇君っ! アスカッ!」

 揺れがようやく治まりかけたところで、レイは慌てて反対側の船縁に飛び付いた。
 水面に夥しい数の泡が浮いている。
 しかし、まだ二人の姿は浮いてきていなかった。
 アスカは泳げるからまだしも……碇君は? まさか、溺れちゃったらどうしよう!?
 ほんの一瞬の間に、レイの頭の中を様々な想像が駆け巡った。

「おーい、どないしたぁー」

 水音に気付いてトウジたちのボートが引き返してきた。
 振り返って何か言おうとしたレイだったが、目の前の水の中から肌色の物体が浮かび上がってきたので、そこを注視したままでいた。
 碇君? それとも、アスカ?

「ぶはあっ! うわっぷ!」
「碇君っ!」

 もがきながら水面に上がってきたシンジは、目の前のあったオールに掴まろうとした。
 しかし、それはボートが揺れた拍子に外れて水に浮いていたものだった。
 それでもそれを『浮き』代わりにして、シンジは何とかボートの側まで辿り着いた。と言っても、ほんの数メートル泳いだだけだったが。

「げほっ! はぁはぁ、た、助かった……」
「碇君っ! 大丈夫だった? 良かった……」
「う、うん、な、何とか……」
「良かった……ほんとに良かった……」

 そう言ったレイは自分が少し涙ぐんでいるのに気付いたが、それを振り払うように慌てて声を出す。

「早くボートに上がらなきゃ。手伝うわ」

 レイはシンジの手を掴んでボートに引っ張り上げようとした。
 しかし、シンジの方はそれどころではない。
 浮いてくるのにもがきすぎて、無駄に体力を消費していたからだ。
 ボートに掴まりながら息を整えているばかりで、レイがどんなに引っ張っても上がってこようとしない。

「綾波、そんなことしてたら、またひっくり返るぞ!」
「えっ!?」

 ケンスケの言葉に、レイはハッと我に返った。
 なるほど、シンジが掴まり、レイが身を乗り出しているせいで、ボートは浸水しそうな程傾いている。

「綾波は反対側に体重をかけるんだ。そうすればシンジが上がってこられる」
「う、うん、わかった」

 レイは言われたとおり、シンジが掴まっているのと反対に身を寄せた。
 シンジもようやく落ち着いたのか、よじ登るようにしてボートに上がってくる。

「うわっ!」
「きゃっ!」

 シンジがボートの中に転がり込んだ瞬間、また少し揺れた。
 レイはバランスを崩して、シンジの上に倒れ込んでしまった。

「ご、ごめん、碇君、大丈夫だった?」
「う、うん、何とか……」

 慌ててレイは座り直し、シンジの頭を膝の上に載せた。
 シンジは目を閉じて深呼吸を繰り返しているばかりだ。

「……アスカは?」

 ヒカリの呟くような声に、レイはハッとして周りを見渡した。
 シンジも目を開け、身体を起こそうとするが、レイが顔に手をかけているのでじたばたともがくばかりだ。

「……ここにいるわよ」

 と、船尾の方で声がした。
 よく見ると、手で船縁を掴んでいるのが見える。
 揺れるボートの向こうに、赤い髪の毛が見え隠れしていた。
 ヒカリの方からは、ちょうど一番遠い側になっていて見えなかったのだ。

「アスカ! 大丈夫だった!?」

 レイは立ち上がろうとしたが、ふと下を見て、膝の上でレイを見上げているシンジと目を合わせた。

「あ、ご、ごめん……押さえてた?」
「う、うん、いや、その……」

 レイがシンジの頭から手を離すと、シンジは身体を捻るようにしてレイの膝の上から頭をどけた。
 それからレイは立ち上がろうとしたのを思い直して、中腰で船尾の方に移動していく。
 そして船尾から顔を出して、水の中のアスカを覗き込んだ。
 アスカは左手で船縁に掴まりながら立ち泳ぎをしている。
 シンジがようやく起き上がって座り込み、船尾の方に目を遣っていた。

「アスカ、上がれる? 引っ張ろうか?」
「うん、それが、その……」
「? どうしたの?」

 レイは不思議に思った。アスカの返事に元気がない。それに、うつむき加減になっていた。
 アスカのことだから、シンジのように溺れかけたりもせず、すんなりと浮き上がってきたのだろう。
 もしかしたら、シンジより先にボートに辿り着いていたかも知れない。
 それなのに、どうして上がろうとしなかったのだろうか。

「どこか怪我したの? それとも、足吊った?」
「ううん、そうじゃなくて、その……」
「え?」
「……水着、取れちゃった……」
「あ……」

 水着の肩紐がなかったのが災いした。
 頭から飛び込んだ拍子に、外れてしまったのに違いない。

「どうしよう、探した方がいいよね」

 レイはそう言いながら、辺りをキョロキョロ見回した。
 しかし、それらしい物は浮いていない。
 鮮やかな色なのだが、半分水に沈んだ状態で見えづらいのかも知れない。
 ヒカリやトウジ、ケンスケも辺りを眺めているが、見つからないようだ。

「どうしよう?」

 レイはもう一度訊いた。しかし、アスカは黙ったままだ。

「ボートに掴まったままビーチの戻る? それとも……」
「私たちだけ先に帰って、タオルか何か取って来た方がいい?」

 レイに続いて、ヒカリがアスカに声をかけた。
 そして考え込んでいたアスカが少し顔を上げ、口を開きかけようとしたときだった。

「探してるのはこれかい?」

 6人とも、その声のした方に一斉に振り向いた。
 ボートが停まっているところより、少し沖の方に。
 そこにいたのは、銀色の髪に、赤い目をした少年だった。

「あ、あんた……」
「オノレは……」
「お前……」
「…………」

 誰もが見覚えのある少年に、みんな口々に言葉を投げかける。
 少年は6人の方を見ながら例の人なつっこい微笑みを浮かべていた。

「これじゃないのかい?」

 少年はそう言って水面から少し挙げていた手を振った。
 その手には綺麗に折り畳まれた黄色と赤の布が納まっていた。

「あっ、それ……」

 右手を伸ばしかけたアスカが、慌てて手を引っ込める。
 さっきから手で胸の前を隠していたのだ。
 少年はアスカに近づこうとはせず、ボートの横に回り込むと、レイの方に手を差し出した。
 レイがアスカの代わりに水着を受け取る。
 アスカはその間中、ずっとそっぽを向いていた。
 受け取った水着をレイはアスカの方に差し出して言った。

「アスカ、着けるの手伝おうか?」
「いい。一人で大丈夫。貸して」
「あ、うん……はいっ! 男子はみんな、あっち向いてて!」

 レイのその声に、男は全員レイの指差した方向……ビーチの方を向いていた。
 その間にアスカはレイから水着を受け取り、水の中に浸けて広げると、ズボンを履くように足の方から輪の中に身体を通して、胸のところまで引っ張り上げる。
 なるほど、こうやって着けるものなのか、と後でビデオで確認したケンスケは一人で感心していた。

「レイ、上がるから手伝って」
「うん」

 アスカは勢いをつけて水の中から飛び上がると、船縁に手を突っ張って身体を支えた。
 そして差し出された手をレイが引っ張る。
 船尾に二人の体重がかかっても、シンジが真ん中の辺りに座っているのでボートがひっくり返ることはない。
 アスカは右足を船縁にかけると、ゆっくりとボートに上がってきた。

「ふう、一時はどうなることかと思ったわ」

 アスカは船尾に座って、濡れた髪をかき分けながら言った。
 こうなった原因の少しは自分にもあるので、言葉少なだ。
 レイは何とか笑顔を作って話しかけようとした。

「何にしろ、良かったわね、アスカ。碇君も」
「う、うん」

 シンジはまだ放心したようにその場に座り込んでいた。

「お役に立てて何よりだよ。それじゃ」
「ちょ……」
「待って!」

 一段落したところで、少年が言葉を残して去っていこうとする。
 慌ててレイが声をかけようとしたのを、アスカが遮って言った。
 しかし、顔は少年の方を向いてはいない。僅かにうつむき加減だった。
 泳ぎ始めようとした少年は、アスカの方を見てにこやかに笑っている。
 しばらくの沈黙の後、ようやくアスカが口を開いて、小さな声を出した。

「お礼くらい、言わせなさいよ……」

 強気な言葉に似合わない、弱々しい声だった。

「なぁに、この程度のことで、礼には及ばないよ。それじゃ、また」
「あ……」

 少年は軽く手を挙げると、抜き手を切ってビーチの方に泳ぎ始めた。
 アスカの呼び止める声も、言葉にならなかった。
 そして誰もが呆然と少年の姿を見送っていた。

「……浜まで送ってやった方が良かったんじゃないか?」

 ケンスケが船縁に肘をつきながら、呆れた風な声を出す。
 らしくないな。アスカのはっきりしない態度を見ながら、ケンスケはずっとそう思っていた。

「何者なんや、あいつ」
「……渚カオル君っていうんだ……」

 トウジが何気なく言った疑問にシンジが答えると、みんながさっとシンジの方を振り向いた。
 シンジの方は、みんなに見られてキョトンとしている。

「シンジ、なんで名前なんか知っとるんや?」
「え? いや、その……昨日、偶然話したんだ。今朝も、お風呂で会ったし……」
「そう、私たちも、昨日会ったのよ。ちょうどこの辺で。ね、アスカ」
「う、うん……」
「変な奴に絡まれてるところを、助けてもらったの」
「何や、ほな、みんなオうとるんやないか」
「それがね、私たちの名前、知ってたの。どうしてか知らないけど」
「俺たちのこと、つけ回してるんじゃないか?」
「でも、誰も悪い目に遭ってないし……」
「そや、イインチョも帽子なくしかけたん、拾ぅてきてくれたんやしな」
「偶然かな?」
「単なる偶然がここまで重なると思うか?」

 5人が口々にしゃべり合う中、アスカだけは黙って少年の去った後の水面を見つめていた。



 小田原から第3新東京に向かう電車の中で、レイはシンジに小声で話しかけた。

「ね、碇君」
「えっ、何?」

 シンジは横に座っているレイの方を振り向いた。
 二人は4人がけのクロスシートに隣り合って座っていた。
 いつもならここにはアスカが座っているのだが、どういう訳か今は通路を挟んだ反対側の席に腰掛けている。
 そして、窓の外をじっと眺めていた。

「何か、今日のアスカ、変じゃない?」
「そう? よくわかんないけど……」

 シンジは疲れているので、人を観察している余裕があまりないようだ。
 レイが声をかけたときにも、シンジは目をつぶって寝ようとしていた。

「でも、何だか元気ないみたいよ。ほら、スイカ割りの時だって……」
「あ、うん、そう言えばそうかも……」

 沖から戻り、昼食が終わってしばらく休憩してから、シンジたちはビーチでスイカ割りをしていた。
 いつもならこういうときはアスカとトウジが張り切るのだが……
 そう言われてみれば、アスカ、あんまりはしゃいでなかったかも。シンジは思った。
 空振りしても悔しそうじゃなかったし……

「ね、そう思うでしょ」
「うん、そうだね。疲れたのかな」

 そんな訳ないじゃない、とレイは思ったが、口には出さなかった。
 体力にそんなに自信がない私でも疲れてないのに……碇君、疲れてるから考えるのがいやなのかな。

 でも……レイは考えていた。
 どうも、あの銀髪の子に助けてもらった辺りから、アスカ、ちょっと様子がおかしいのよね。
 まさか、あの子のことが気になってるのかしら?
 ……そんなの、ほんとにまさかよね。どこの誰かもわからないのに。
 ま、名前だけはわかってるんだけど。

 それにしても、みんなの話を聞いてみると、神出鬼没って言うか……どうも私たちの周りをうろうろしてたみたいなのよね。
 何が目的なのかしら?
 もしかして、私たちって、変な事件に巻き込まれてるんじゃ……

 …………

 そんなことあるわけないよね。変な小説の読み過ぎかな。
 それにしても、今回の旅行は楽しかったな、いろいろあって……
 何だか、ほんとに家族で旅行してたみたい。
 おじさまやおばさまも優しかったし。
 願わくば、碇君ともう少し仲良く……え?
 碇君?

 レイは肩に体重がかかったのを感じて、そちらの方に顔を向けた。
 そして自分の肩に、シンジの頭が寄りかかっているのを発見した。
 シンジの目は閉じられていた。頭は電車の揺れに合わせてフラフラと揺れている。
 碇君……寝ちゃったんだ……
 よっぽど疲れてたのね。いいわ、このまま寝かせてあげよう。短い時間だけど。
 私も寝よーかな。碇君ともたれ合っちゃったりして、うふふ……あ。

 レイが顔を正面に向けると、ユイが笑顔を浮かべてレイの方を見ていた。
 うっ、また変な妄想してると思われちゃったかしら?
 そう思って何か言おうとして、レイは固まった。
 ユイも眠ったゲンドウに寄りかかられていたから。



 その日の夜遅く、ゲンドウは自室にいた。
 机の前に座り、受話器を耳に押し当てながら。
 部屋の電気は消され、机の上のスタンドだけが煌々と灯されている。

『いやはや、最後のハプニングには参りましたよ』

 電話の向こうの男の声を、ゲンドウは黙って聞いていた。
 かかってきたときからほとんど言葉を発していない。
 男は飄々とした声で話し続ける。

『……いずれにせよ、今回の作戦はこれで完了です。目標の行動は、ほぼ計画通りでした』
「ああ。任務ご苦労だった」

 男の簡潔な報告に、ゲンドウは低い声で短く言葉を返した。

『で、どうします? 約束の日まで、監視を続けますか?』
「いや、その必要はない」
『では、後は委員会の出方を待ちますか』
「ああ」
『わかりました。それじゃ、これで』

 軽い電子音を残して、電話は切れた。
 ゲンドウは受話器を置くと、机に肘をつき、顔の前で手を組むいつものポーズを取る。
 そして口元を隠したままニヤリと笑った。
 何事か考えるようにしばらくその姿勢を保つ。
 それからおもむろに振り返って床を見遣る。
 そこには二組の布団が敷かれていた。
 そのうちの人がくるまった方の布団に向かって、ゲンドウは小さい声で呼びかけた。

「……ユイ」

 だが、布団はピクリとも動かない。
 ゲンドウは立ち上がると、枕元に立って布団の中を覗き込んだ。
 そしてもう一度呼びかける。

「……ユイ?」

 それでも布団は微動だにしない。
 ゲンドウは放心したようにしばらくその場に固まっていたが、やがて机のところに戻ると、スタンドの明かりを消し、すごすごと自分の布団に潜り込んだ。
 そしてもう一方の布団に背を向けて眠ろうとする。

「うう、ユイ……」

 ゲンドウはそう呟くと、固く目を閉じて頭から布団をかぶった。



 約一分後、隣の布団からそっと手が伸びてきて、ゲンドウの背中を優しく叩いた。



 夏休みが終わった後の教室は喧騒に満ちあふれていた。
 始業式の後は、ホームルームをやって帰るだけだ。
 担任が来るのを待つ間に、クラスのみんなは口々に楽しかった夏休みの話をしていた。

「しっかし、こんな日でも遅刻してくるかな、シンジは」
「ホンマやで。しかも夫婦揃って」
「そ、そんなんじゃないよ!」

 シンジは新学期からトウジとケンスケのツッコミを受けていた。
 今日もいつものように寝坊したのだが、それだけではなかった。
 制服をタンスから出しておくのを忘れていたので、着替えに手間取ってしまったのだ。
 おかげで、朝食も摂れなかった。
 しかも、空きっ腹のせいか学校までの道を全力疾走することができない。
 教室にも寄らず、直接始業式の列の中に駆け込んだのだった。
 もちろん、アスカもシンジの遅刻に付き合ってくれたのだが、朝からまだほとんどしゃべっていない。
 いつもならここでアスカも言い返すのだが、さっきからむっつりと黙り込んだままだ。
 ……旅行以来、何となく機嫌が悪いな、アスカは。どうしたんだろう。
 シンジはトウジとケンスケに文句を言い返しながら、そんなことを考えていた。

「ねえねえ、聞いた聞いた? 転校生来るらしいよ」

 ヒカリたちと何やら話し合っていたレイが、シンジたちの所に寄ってきてそう言った。

「おお、ホンマか」
「そんな情報、聞いてないけどな」
「だって、さっきヒカリが出席簿取りに行ったとき、ミサト先生は転校生の子と会ってるからちょっと遅れるって言われたんだって」
「そうなんだ。ほんと最近、多いね」
「で、男なんか? 女なんか?」
「さあ、そこまではわからないらしいけど」

 と、その時、教室の戸をガラガラッと勢い良く開けて、ミサトが現れた。
 慌ててみんな自分の席に戻る。あちこちで椅子がガタガタと鳴った。
 ミサトは教室の入り口で立ち止まったままみんなに笑顔を振り撒き、元気な声を出す。

「はいはーい、みんな注目ぅー! これから転校生を紹介しまぁーす! あんまり騒がないように、注意してねん」

 そう言ってミサトは教壇に向かってツカツカと歩き出した。
 その後ろから転校生が付いていく。
 途端に、クラス中の女子がざわめきだした。
 小さく悲鳴を上げる者もいる。
 シンジたちもその転校生の顔を見て呆然となった。

「あ、あれ……」
「おいおい……」
「何でや……」
「どうして?」
「ホントに?」
「ウソ……」

 ミサトが黒板に名前を大書している前で、その転校生は爽やかな声で自己紹介を始めた。

「渚カヲルです。よろしく……」



- Fin -







おまけ



 その朝、シンジたちが出ていった後の碇家では、

「じゃあ、本当にシンジたちのクラスに入れちゃったんですか?」
「ああ、全て計画通りだ」

 妻が半ば呆れた顔で夫の顔を見ていた。

「でも、政府の指定特別交換留学生を横取りするなんて、そんな……」
「構わん。優秀な人材を引き抜くのは我々の務めだ。教育委員会にも話を付けてある。今さら法律を改正しても、間に合わんよ」

 夫はそう言ってニヤリと笑うと、湯呑みの茶をすすった。
 夫人はため息をつきながら、自分の湯呑みに茶を注いだ。

「そのためにわざわざ偽の資料まで作るなんて……」
「ふっ、騙される方が悪い。老人たちにはいい薬だ」

 夫はそう言ってまたも不敵な笑いを浮かべた。
 頬杖をついて夫の方を見ていた妻がゆっくりと口を開く。

「でも、本当にそれだけなんですか?」
「む?」
「その子を、どうして海でシンジたちに引き合わせたりしたんです?」

 妻の疑惑の声に、夫は悠然と答えた。

「顔見知りなら友人になりやすい。優秀な人間と友人になれば、あれのためにもなる」
「また、もう……じゃ、どうしてわざわざ監視なんて……」
「第一印象を損なうことがあっては逆効果だ。そのための用心に過ぎん」
「じゃ、それだけのために、今回の旅行を組んだんですか?」
「ああ」
「本当に本当なんですね?」
「無論だ」

 妻の念押しに、夫は腕を組んで自信たっぷりに答えた。
 妻はまたため息をつくと、お茶を飲み、急須から注ぎ足す。
 そして姿勢を正すと、夫の方に向き直って言った。

「あなた」
「む?」

 妻の悪戯っぽい笑顔に、夫の顔が僅かに曇った。
 最後の切り札を出されることを予感したのか。

「本当のことを言ってくれないと、今晩はお預けですからね」
「ユ、ユイ、それだけは……」

 その後、夫が涙ながらに語る真実を、妻は呆れ顔で聞いていた。

「……全てシンジがはっきりせんから悪い」

 夫は最後にそう呟いたらしい……



- Fin -







おまけ2



「でも、あなた」
「む?」
「そうなったら、もう一人いないといけないんじゃありません?」
「…………」



- Fin -




新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions