本日は彼女の休日である。
 だが彼女は今日もいつもと同じように目を覚ました。
 なぜなら、今日は平日だからである。
 従って、彼女の夫と息子の朝食及び弁当を作らなければならないからだ。

「…………」

 彼女は無言で伸びをすると、隣の布団で寝ている夫を起こさないように、そっと起き上がった。
 前夜どんなに遅く寝ようとも、彼女は実にすがすがしく目覚める。
 多少、低血圧気味だというのに。
 毎朝起きることが楽しくて仕方がないかのように。

 枕元に脱ぎ捨ててあったナイトガウンを羽織り、音がしないようにそっと戸を開けて、リビングに出る。
 それから再び音も無く戸を閉める。
 リビングとダイニングを通り抜け、洗面所へ。
 そこで着ていたものを脱ぎ、浴室に入ると、シャワーを浴びる。
 もちろん、24時間給湯だ。ただし、彼女はぬるめのシャワーが好みである。

 彼女は平日に休みをもらっているが、土日に働くわけではない。
 休みは週に4日ある。
 研究所勤めではあるが、データ採取が主な仕事であるため、それほど忙しくないからだ。
 実験などに特に支障がない限り、彼女は水曜と金曜を休むことにしている。
 週の中日と週末をゆっくり過ごしたい、というわけだ。
 そして今日は金曜日だった。

 シャワーを終えるとバスタオルで身体を綺麗に拭い、あらかじめ脱衣場に用意してあった部屋着に着替える。
 濡れた髪はタオルで包んでおく。ドライヤーは髪を傷めるからだ。
 それからダイニングに戻り、朝食の準備。
 もっとも、彼女の息子は寝坊が多いので彼の分は休日以外用意したことがない。
 間に合うように起きてきたところで、パンを焼いて食べるだけだ。
 作るのは夫の分の、純和風朝食だった。ご飯、みそ汁、焼き魚、卵焼き、それに漬け物。

 こうして彼女の朝は始まる。



 彼女の休日




 魚を焼く音、みそ汁の煮える音、ご飯の炊ける匂い。
 いつの時代も変わらぬ日本の朝の風景がそこにはあった。
 割烹着こそ着てはいないが、彼女は昔ながらの日本の母ように見えた。

「♪〜♪〜♪〜♪♪ ♪♪♪♪♪♪♪〜」

 ただ、ハミングしているのは最近流行りのポップスのようだ。
 彼女は外見も若々しいが、心の中も若々しい。
 自分の息子の友達などと、それこそ同年代のように話ができる。
 そうかと思うと、夫やその同僚など、一つ上の世代の話題にも付き合える。
 彼女が職場でもてるのも道理であった。

 みそ汁は煮立てすぎて不味くならないように、火加減を調節する。
 魚も焼きすぎて固くならないように、さっと火を止めて後は余熱で焼き上げる。
 ご飯が炊けたら炊飯器の蓋を開けてしゃもじでかき回し、保温を切る。

 次に弁当のおかず。フライパンを出し、弁当用の卵焼きを焼き、ウインナーを炒める。
 冷蔵庫からレタスを出してきて2、3枚はぎ取り、さっと水で洗う。
 トマトも洗って適当な大きさに切る。
 それらを昨日の残りの煮物などと一緒に弁当箱に詰めていく。2人分。
 そして棚から食器を出してテーブルの上に並べる。
 とその時、寝室の戸が開いて夫がのっそりと姿を現した。

 夫がリビングとダイニングの敷居をまたぐタイミングで、いつも彼女は挨拶をする。

「おはようございます、あなた」
「ああ、おはよう、ユイ」

 …………

 夫の姿は洗面所に消えた。
 顔を洗っている音がする。
 彼女の方はまた鼻歌混じりに朝食と弁当の用意を続けていた。
 洗面所から現れた夫は、なぜかサングラスを掛けていた。
 それから夫は玄関へ。

 玄関の電子ロックを外し、外に出て郵便受けから新聞を取り出す。
 ほとんどの文書が電子化されるこの時代になっても、新聞というメディアは生き残っていた。
 持ち運びにおける利便性、あるいは大きく広げられることによる見やすさなどの利点がいろいろとあるからだ。
 新聞に限らず、電子文書をわざわざプリントアウトしてから見る人も多い。
 おそらく、これから先もずっと人間は紙という優れた発明品から離れることはできないだろう。

 夫はゆっくりと戻ってきてダイニングの椅子に腰掛け、ガサガサと音を立てて新聞を開く。
 経済新聞であるが、一面から読まずに中の方から読み始めた。
 そして夫が新聞を読んでいる間に、彼女は夫の前に食べ物の皿を並べていく。
 それらが全て並べ終えられても、夫はまだ悠々と新聞を読んでいる。
 彼女が2人分の弁当を作り終わり、袋に入れてテーブルに置き、湯呑みにお茶を入れて夫の前に差し出したところで、夫はようやく新聞を閉じた。

「ああ、ありがとう、ユイ……いただきます」
「はい、どうぞ」

 夫が食べ始めると、彼女は自分の茶碗にご飯を装い、汁碗にみそ汁を注いで、夫の前に座って食べ始めた。
 彼女は朝は少食で、これだけしか食べないのだった。
 その彼女の目の前で、夫は美味いとも不味いとも言わず、ただ黙々と箸を運んでいるのみだった。
 しばらくして夫が無言で茶碗を差し出す。
 だが彼女はその時にはタイミングを読んで既に立ち上がっており、炊飯器からご飯を茶碗に盛って、夫の手に戻した。

「ああ、ありがとう、ユイ」
「はい」

 夫の言葉に、彼女は短くそう答えると、再び座って自身の朝食を続けた。

 やがて食事が終わる。

「……ごちそうさま」
「はい、ごちそうさま」

 彼女は夫より先に食事を終えており、食後の挨拶と共に食器を片付ける。
 夫は再び新聞を開き、彼女は流しで洗い物を始める。
 その日も、いつもと全く同じ朝が碇家に来ていた。

 玄関のドアが開く。
 夫がさっきロックをかけなかったのは、外から開けられることが解っていたからだ。
 碇家には毎朝訪れる人がある。

「おはようございます、おばさま、おじさま」
「おはよう、アスカちゃん」
「ああ、おはよう……」
「シンジ、まだ起きてませんよね」
「そうなのよ。さっき目覚まし鳴ったはずなのに……しょうがない子ねぇ」
「じゃ、私、起こしてきますから」
「いつも申し訳ないわね」
「いえ、いいんですよ。いつものことですから」

 入ってきた赤い髪の少女はそう言うと、勝手知ったる家の中の、彼女の息子の部屋へと小走りで入っていった。

「…………!」
「…………」

 息子の部屋から少女と息子のやり取りが微かに響いてくる。
 それは彼らが小学校低学年頃からずっと続けられている朝の風景の一つだった。
 そう、その昔は息子も早起きしたものだったが……

「きゃああぁぁーっ!!! #△$@*∴○&%☆※!!!」

 この悲鳴も、毎日のように聞こえてくる。それに乾いた音。
 つまり、彼女の息子は布団を引き剥がされないと起きない、ということだ。
 もっとも、それは息子が元気な証拠でもある。

「もう、シンジったら、しょうがない子ねー」

 その日も変わりなく、碇家の朝は過ぎていった。



「じゃ、おばさま、いってきま〜す」
「……いってきます」
「はい、いってらっしゃい。……ほら、あなたも、もう時間ですよ」
「ああ、解ってるよ、ユイ……」



「じゃ、あなた、いってらっしゃい」
「ああ、いってくるよ、ユイ……」

 …………

 こうして碇家の朝は終わる。



「♪〜♪♪♪〜♪〜 ♪♪♪〜 ♪〜♪♪♪〜♪〜」

 彼女は懐かしいバラードのナンバーを口ずさみながら、掃除に勤しんでいた。
 リビング、そして彼女と夫の寝室に掃除機をかけ終えると、彼女は息子の部屋に入ってきた。
 まずさっと一通り部屋を見回す。
 昨日と変わったところがないか、チェックしているのか。
 彼女の記憶力は素晴らしいらしいから、多分そうだろう。

 壁に掛けられたリュックサック。洗いたてでまだ畳まれていないカッターシャツ。
 天井近くに貼られた、横綱が小結時代にもらった手形の色紙。
 本棚には無造作に本が並べられ、置物がブックエンド代わりに立てられている。
 押し入れの前には小さな戸棚。その棚にもまた本。そして、カセットテープ。戸棚の上にSDAT/DVDコンポ。
 その横にはチェロ。これでは押し入れはどうやって開けたらいいのか。
 ベッドの上の掛け布団はくしゃくしゃに丸まったままだ。
 勉強机の上には時計とペンギンの人形。それに真新しい写真立てが。
 しかし、床や机の上に物が散らばっていないだけ、そこそこ綺麗に整理された印象がある。

「う〜ん」

 彼女は小さな声で唸ると、おもむろに掃除機をかけ始めた。
 カーペットを綺麗にし、それから掃除機のノズルを外して机の上のゴミを吸い取る。
 無論、小物を吸い取ってしまわないように、ノズルの先には『スーパーはぼき』を取り付けて。
 それから机の上の棚をチェック。教科書など忘れていないかを見ているらしい。
 実際、息子の忘れ物に気付いて彼女が届けるのは年に2、3度ある。
 今日は大丈夫だったようだ。

 机の次は本棚。埃を吸い取りながら、本の並びを見ているらしい。
 もしかしたらその恐るべき記憶力で、本の並び方までも憶えているのだろうか。
 増えた本、入れ替えた本はおろか、無くなった本さえも。
 それどころか、本が僅かに手前に置いてあるかどうかさえも。
 おかげでたまに、本の後ろに隠してあった有害図書も見つかる。
 彼女はそれを笑顔で見逃しているのだが……

 掃除機を止めて、部屋を出るのかと思ったら、再び机の前へ。
 引き出しに手をかける。しかし、鍵がかかっていて開かない。
 だが彼女は笑顔のまま、ポケットから何やら細長いものを取り出した。
 針金だろうか。それを引き出しの鍵穴に差し込んで、探るように動かす。
 そして3つ数える間もなく、鍵は音を立てて外れた。

 針金をポケットにしまいながら、左手で引き出しを開ける。
 一番上に載せられたノートには手を着けずに、その下の小冊子を取り出した。
 どうやらそれはアルバムらしい。一冊だけではなく、何冊も入っているようだ。
 広げてパラパラとページをめくっていく。
 写真が入れられた最後のページで手を止め、そのページをめくり戻したりながら、彼女は写真を眺めていた。

「増えたのは、3枚か……相変わらず、良く撮れてるわねー」

 彼女は独り言を言いながら、今度はその3枚の写真を丹念に見ていく。
 ほとんどが学校内の光景を写したものだった。
 ページを遡れば他にもシーンがいくつかあるだろうが、彼女が見ているのは最新の所だけだった。
 その写真にはどれも青い髪の可愛らしい少女が映っていた。
 笑顔が2枚、すました横顔が1枚。
 そのうちの1枚には彼女の息子や毎朝来る赤い髪の少女も一緒に映っている。

「構図もいいし……いい写真家になるわね、彼……」

 彼女はそう呟きながらアルバムを閉じ、それを元あった場所に戻す。
 ノートの下の、始めに置いてあったところと寸分違わぬ位置に。
 それから引き出しを閉め、ポケットから針金を取り出すと、瞬く間に鍵を掛けてしまった。開けたときと同じように。
 そしてこの一連の作業の間、彼女はその魅力的な大人の笑顔を一瞬たりとも崩すことはなかった。



 昼食がすむと、彼女は眠る。眠る眠る。
 それこそ、スペインのシエスタのように。
 朝まで寝ていた布団とは別の布団をリビングに持ち出して、眠る。
 ただひたすらに眠る。
 エアコンの設定温度を28度にして、軽いタオルケット一枚を身体に掛けて。

 その安らかな寝顔は、まるで20歳そこそこの若い女性のようだ。
 軽く笑顔を浮かべながら、彼女は眠り続ける。
 まるで眠ることが仕事のように。
 そう、彼女は研究所でも昼に2時間ほどの睡眠時間を与えられている。
 そして眠ることも彼女の仕事の一つであった。

 彼女は眠る。まるで、時が止まったかのように。
 もしかしたら、眠ることで彼女は自分の中の時を止めているのかもしれない。
 その不思議なまでに若々しい容姿を保つためにか。



 夕方、彼女は買い物に出掛けていた。
 もちろん、今夜の夕食、そして明日の昼食のためである。
 だが彼女の白い愛車は、とあるマンションの前の木陰にひっそりと停まっていた。
 彼女はなぜか助手席に座り、マンションの方を伺い見ていた。
 その顔は無表情だったが、心なしか目だけが笑っているように見える。

 やがて、マンションの中から一人の少女が出てきた。
 青い髪と紅い瞳が印象的な、可愛らしい少女だ。そう、彼女の息子のアルバムの中の少女である。
 階段を飛ぶように降りてくる姿が、活発さを感じさせる。
 少女は自転車置き場に向かったようで、車の中の彼女の目から一瞬だけ姿を消した。
 そして青い髪の少女が自転車に乗って出てきたのを見て、彼女は穏やかにクスッと笑った。
 何か曰くありげな微笑みだった。

 光の加減かガラスのせいか、少女の方からは車の中は見えないらしい。
 彼女はそれをいいことに、少女の姿を悠然と観察していた。
 少女の自転車が道の先の角を曲がるのを見てから、彼女は愛車をゆっくりとスタートさせた。
 後に付いていくのだろうか。それとも、行き先を知っているのかもしれない。
 果たして、彼女は少女が曲がったところを真っ直ぐに走り、広い道路に出てから左折した。

 5分とかからないところに、その巨大なスーパーマーケットはあった。
 彼女が車を駐車場に滑り込ませたとき、ちょうど後ろを青い髪の少女が自転車で駆け抜けた。
 もちろん、車の中から彼女はバックミラーでそれを確認していた。
 到着する時間まで計算どおりだったと言うことか。
 エンジンを切り、鍵を抜いて車の外に出ると、青い髪の少女がスーパーに入ろうとしているところだった。

 少女は地下の食料品売場に降りた。
 彼女は気付かれないように後ろから付いていく。
 少女は初めに野菜売場の方に回り込んだ。
 通路をさっさと歩いていたが、急に立ち止まると、キョロキョロと辺りを見回し始めた。
 その辺りに目的の品があることは解っているらしい。
 少女の視野に入ってしまわないように、彼女は売場の入り口辺りからじっと少女を眺めていた。

 やがて少女が目的の品……赤いニンジンを一つ手に取った。
 袋入りではなく、バラで売っていて一つずつ選べるところがこのスーパーの特徴だ。
 少女は棚の奥の方からもう一つのニンジンを手に取ると、二つを見比べていた。
 『お手上げ』のポーズで重さを量るように手を小刻みに動かしていたが、やがて本当にお手上げになったような顔になると、最初に取った一つを手に提げていたかごの中に放り込んだ。
 彼女は少女のそんな姿を見て、またクスッと微笑んだ。

 次に少女が手に取ったのはタマネギ。
 これも2、3個手にとって、ためつすがめつしてから一つをかごに入れる。
 そして少女が通路を曲がったのを見て、彼女はゆっくりと売場の中に入っていった。

 彼女は少女と違い、一目見ただけで野菜を選ぶと、かごに入れていく。
 その選ぶ目はどうやら一級品のようだ。
 少女よりはだいぶ多くの数と種類の野菜をかごに入れ、彼女は通路を右に曲がった。
 しかしそこに少女はいなかった。
 彼女は右手の人差し指を立てて顎に軽く触れ、少し上の方を見ながら考えていたが、やがて歩き出す。
 その通路からは何本かの通路が食料品の種類別に横に分かれていたが、彼女はその一つをそっと覗き込んだ。
 そして微笑む。そこに探している少女はいた。

 少女は小麦粉の入った紙袋を手に取ろうとしているところだった。
 そして何事かブツブツと呟いている。
 薄力粉、中力粉、強力粉と順番に手に取り、その裏の表示をじっと読んでは棚に戻すことを繰り返していた。
 たぶん、どの種類の粉を使っていいか、解らなかったのだろう。
 メモがどうのこうのという呟きが、売場のBGMに混じって聞こえてきた。

 少女はいろいろなメーカーの小麦粉の袋を手に取りながらその裏の表示を読んでいたが、やがて小さくため息をつくと、安心したような表情になって袋を一つかごに入れた。
 おそらく、何の料理に使う粉か、という説明が書かれているのを探していたのではないだろうか。
 それを見ていた彼女の方も、ちょっと安心したような表情になった。

 少女は通路をレジの方に向かって歩いていったが、途中の通路を左の方に折れた。
 彼女は少女に付いていくことなく、今いる通路を真っ直ぐ進むと、別の通路を覗き込んだ。
 やはりそこに少女はいた。そして袋を一つかごに入れ、今度こそレジの方に向かった。
 何を手に取ったのかは彼女からはよく見えなかったが、それでも彼女は少女が何を買ったか解っていた。
 少女の姿を見送った後で、彼女は自分の買い物を再開しながら呟いた。

「マカロニグラタン、か……ふふ、新しいレパートリーね」

 そんなことを言いながら食料品を選ぶ彼女の笑顔は、あまりにも楽しそうだった。



「♪♪〜♪♪ ♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜〜 ♪♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜♪〜〜」

 碇家のダイニングでは夕食の準備を進める彼女の姿があった。
 今日のおかずはビーフコロッケだった。
 もちろん、冷凍食品を温めるのでも、出来合いを買ってきたのでもない。
 全て彼女の手作り。ジャガイモを茹でて潰し、挽肉と混ぜて中身にする。
 小麦粉をはたきつけ、溶き卵を塗り、パン粉をまぶす。
 台所仕事をしているとは信じられないほどみずみずしい彼女の手によって、均等で美しい形のコロッケが作り上げられていった。

 コロッケを揚げている間にレタスを剥き、キャベツを千切りにし、トマトの皮を剥いて八つ切りにする。
 食器棚から手頃な大きさの皿を出し、レタスと千切りを敷き詰め、切ったトマトを添える。
 おいしそうな狐色に揚がったコロッケを、油を切るための紙に載せていると、玄関のチャイムが鳴った。
 彼女はちらっと玄関の方を振り向いたが、構わずコロッケを油の中から次々と上げていく。
 ドアが開く音がして、家の中に入ってきたのは彼女の夫だった。
 夫がダイニングに現れる直前に彼女はコロッケを上げ終えると、玄関の方に振り返る。

「おかえりなさい、あなた」
「ああ、ただいま、ユイ」

 …………

 帰ってきた夫は家の中でもサングラスをはずすことなく、着替えのために寝室に入っていった。
 彼女はその後ろ姿を見届けながら、電話に歩み寄る。
 そして受話器を取りながらダイヤルする。
 桁数が少ないから、もしかしたら館内電話だったろうか。
 碇家が住んでいるマンションでは、ホテルのように他の部屋の呼び出しができるのだ。
 彼女は電話の前でも微笑みを絶やすことなく、相手が出るのを待った。

「……もしもし……あ、アスカちゃん?
 シンジ、そっちに行ってるかしら……
 そう、じゃ、夕食だから、帰ってくるように言ってくれる?……
 アスカちゃんは、今日は?……
 あら、そう、キョウコ、今日は早いの……
 じゃ、また今度ね。それじゃ……」

 そして彼女が電話を切った途端に、炊飯器からご飯が炊けたことを告げる電子音が鳴り響いた。
 彼女は朝と同じように、炊飯器の中のご飯を混ぜた。そして蓋を開けたまま布巾を掛けておく。
 それから油を切っておいたコロッケを皿の上に置いていく。
 着替えた夫が部屋から出てきて、ダイニングの自分の席に着くと、テーブルの片隅に置いてあった夕刊を広げた。

「あなた、今日は?」
「ああ、お茶でいいよ」

 彼女はその言葉を聞いて、食器棚から夫専用の湯呑みを取り出しながら言った。

「こんなに暑い日でも飲まないんですね、あなたは」
「ああ、君とは違って、弱いからな」

 湯呑みには達筆な文字でなにがしかの俳句が書かれていた。

「ただいま」

 ドアが開く音がして、息子の声が聞こえた。
 トタトタと足音を響かせながらダイニングに現れた息子に、彼女は言った。

「お帰りなさい。すぐに夕食にするから、手を洗ってきなさい」
「わかってるよ、いちいちうるさいな」

 息子は少しムッとした顔でそういうと、洗面所の方に消えた。
 彼女はその間に夫の茶碗にご飯を装う。
 そして洗面所から戻ってきて椅子に座った息子の前にも、ご飯を盛った茶碗を置いた。
 それから自分のご飯を少な目に盛って、茶碗を持ったままテーブルに着いた。

「それじゃ、いただきましょうか」
「ああ」
「いただきます」

 こうして碇家の夕食が始まった。
 よく見ると、彼女の皿だけコロッケが一つ少なかった。



 夕食も終わり、後片付けも終わり、彼女はリビングに座り、本に目を落としていた。何やら難しい数式が書かれている。仕事関係の本だろうか。
 息子はテレビの前でゴロリと寝そべり、マンガ雑誌を読んでいる。
 テレビは点いていたが、誰も見ている者はいなかった。
 ただ、BGM代わりの音楽番組が映っている。

 そこに、風呂上がりの夫がパジャマ姿で入ってきた。青地に白いストライプが入った、普通のパジャマだ。
 首からタオルをぶら下げている。それに風呂上がりだというのになぜかサングラス。家の中でも素顔を見せないのか。
 手にはいつも愛飲しているドリンク剤の小瓶が握られていた。
 そして夫が指定席である座椅子にかけたとき、彼女は息子に声をかけた。

「シンジ、先に入りなさい」
「あ、うん」

 息子は素直に返事をし、読んでいたマンガをパタンと閉じると、起き上がって自分の部屋に戻っていった。
 彼は母親が『勉強しなさい』という言葉を言わない代わりに、普段の生活態度について口うるさいことを知っていたからだ。
 礼儀作法やきびきびした行動、部屋の整理整頓など、躾という点では彼女はその優しい顔に似合わず厳しい。
 ただ、息子は最近、彼女の言葉によく反発してくる。反抗期だろうか。
 しかし、友人の母親のように勉強のことを口に出さないだけマシであることには気付いていないようだった。

 息子が着替えを持ってリビングを通り抜けるとき、夫がドリンク剤のキャップを開け、一気に飲み干した。
 ダイニングの方からアコーディオンカーテンを開け閉めする音がする。
 夫はそれを聞いて瓶を机の上に置くと、おもむろに立ち上がり、息子の部屋に向かった。
 部屋の入り口は襖だから、鍵を掛けることはできない。
 息子は常々それについて文句を言っていたが、無論夫も彼女も鍵など無用といって受け付けなかった。
 その代わりとして息子は掃除の時以外勝手に入らないことを両親に約束させたが、彼の父親はそれを全く守っていないようだった。

 夫が息子の部屋に入って襖を閉めた。しばらくして、浴室の方からシャワーの音が聞こえてきた。
 彼女は夫が息子の部屋で何をやっているかを知っていたが、黙って本を読み続けていた。
 5分ばかりして夫が息子の部屋から出てきた。
 彼女が視線を上げて夫の方を見ると、夫は不敵にニヤリと笑った。
 そして夫がまた座椅子に腰掛けたのを見て、彼女は話しかけた。

「どうでした?」
「今日は増えていないようだ」
「そうですか。写真は3枚増えてましたけど」
「そうか」

 夫は目の前の机に肘を衝き、口元を手で隠すようにしていた。
 彼女は本に目を戻しながら言った。

「写真立てはご覧になりました?」
「ああ……無難な写真を飾っているな」
「せっかくレイちゃんが写真も一緒にくれたのにねぇ」
「まだアスカ君に気を使っているのか……」
「苦労しそうね」
「ああ」
「あなたみたいに」
「む……」

 彼女と夫のそんな会話を、呑気に風呂に浸かっている息子が知るはずもなかった。



 風呂上がりの彼女は、ピンクに白い水玉のパジャマを着てダイニングの椅子に座っていた。
 天井の電気は消されていて、キッチンの所の蛍光灯だけが点けられている。
 ダイニングの灯も消えていて、夫も息子も自分の部屋に戻っていた。
 彼女はその栗色のショートヘアを、バスタオルで挟むようにして丁寧に水気を吸い取っていた。
 それから洗面所に入って、鏡の前に立ってドライヤーで髪を乾かす。
 と言うよりは、緩やかな温風で髪型を適当に整えているようなものだった。

 ダイニングに戻り、冷蔵庫から薬瓶のようなものを取り出す。
 それをコップにワンフィンガーだけ注ぐ。青い色をしたその液体を、彼女は3回に分けて飲み干した。
 コップをさっと水で洗って食器入れに。
 それから蛍光灯を消して寝室へ向かう。
 彼女の一日が終わろうとしていた。
 夫の隣の布団に潜り込み、目を閉じる。

 …………

 だが彼女の一日は、この後もうしばらく続いたようだった。



- Fin -







おまけ



「ごちそーさまでした」

 食後の挨拶、とはいうものの、部屋の中には私一人。
 いつもながらちょっと虚しい。でも、つい言ってしまう。
 一息ついてから、私は立ち上がってお皿をキッチンのシンクに置いた。
 そしてお皿にお湯を張っておく。こうしておいた方が後で洗うのが楽になる。
 今日の夕食はマカロニグラタン。
 初めて挑戦したんだけど、小麦粉を炒めながらルウを作っていたら腕が疲れてしまった。
 おいしかったんだけど、疲れるからグラタンを作るのはしばらく凍結しておこう……

 それにしても、けっこうたくさん作ったつもりなのに、残った量が少ない。
 そんなに食べたつもりはないんだけどなぁ。確かにお代わりはしたけど……
 明日も食べられるくらいは残ってるだろうけど、明後日はどうしよう?
 また買い物行かなきゃなー。

(でも……)

 最近どうも買い物中に視線を感じるのよね。誰かに見られてる気がする。
 ひょっとして……碇君のおばさま?
 でも、あのおばさまなら、黙って見てないで声かけてきそうだし……
 それともやっぱり、ストーカーか何かかしら。
 もしそうだとしたら、暗くなったら歩くのに注意しなきゃ。

 碇君のおばさまと言えば、あの人、料理を作るのが楽しいって言ってたな。
 でも、私は未だに、料理を作るのはめんどくさいとしか思わない……
 自分のためにしか作らないからよね、きっと。
 もし私に彼ができて、その彼のために料理を作るとしたら、どうなるのかしら?

『今日はグラタン?』
『うん。あなたのために、一生懸命作ったの』
『おいしそうだね』
『でも、うまくできたかどうか、自信ないわ』
『綾波の作ったものなら、僕は何でもおいしいと思うよ』
『あ、ありがと……(ぽっ)』

 なーんてことに……

 ……そんなにうまくいくかしら?
 そもそも、彼はどうするのよ、彼は……

 彼、か……

 ……やっぱり、料理習いに行こうかな、碇君のおばさまに。
 そうでもしないと、『彼』の好みとか、わからないし……



- Fin -




新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions