外は春の長雨。
 ここは教室。
 窓際の一番後ろの席で、私は使徒……もとい、シトシトと降り続く雨を見ていた。
 その昔、ある辛気くさいばーさんは「長雨で物思いに耽ってる間に歳くっちまったわ」等と嘆いたらしい。
 美人も歳をとるとひがみっぽくなるのかしらね。私も気を付けないと。

『晴の日は気分良く、雨の日は憂鬱』

 そんなこと、誰も決めてないわ。
 雨の日だって、楽しいことはあるのに。
 例えば……

 …………

 …………

 ……何か無いかしら。
 私は窓の外から教室の中に視線を戻し、前の方に座ってる碇君を見た。
 今日は寝てないみたい。ま、口うるさいリツコ先生の授業だしね。
 先生が黒板の方を向いている隙に、私は真ん中に座っているアスカの方を見た。
 うーん、やっぱり真面目に授業受けてる。さすがね。やっぱり私とは違うわ。
 それから、廊下側に座ってる相田君の方へ目を向けた。
 あ、またビデオ撮ってる。
 こないだ見つかりそうになって、ビデオ取り上げられかけたのに、懲りないわねー。
 私の方を撮ってるみたいだから、Vサインをしておいた。サービスサービス。
 でも、誰が買ってるんだろ、私のビデオなんて。
 それから視線を後ろの方へ。
 あらら、珍しく鈴原君がまじめに授業聞いてる。
 ヒカリが横に座ると、こんなにも変わるものなのね。
 私も変わってみたいな。
 おっと。
 リツコ先生がまた説明を始めたので、私は前を向いて授業を聞いてるふりをした。
 こんなことだから私って、居残りになっちゃうのかしらねー。
 こないだの小テストの成績が悪かったからって、今日は再テストだって。
 ……うーん、やっぱり雨の日って、憂鬱、だわ。




 春の雨




「シンジ、帰らないの?」

 放課後。
 アスカは下足場の出口のところでぼんやりと外を眺めていたシンジに声をかけた。

「あ、うん……傘がないんだ」

 シンジは降り続く雨の方からアスカの方に視線を移しながら言った。
 土砂降りではないが、そんなに弱い雨でもない。いくら春雨だからと言っても、「濡れて行こう」という訳にはいかない。傘無しで帰るのは無謀だろう。
 しかもそのせいで風邪を引きでもしたら大変だ。この季節の風邪は長引きやすい。

「何よ、朝ちゃんと、傘持ったのって訊いてあげたじゃない。その時あんた、持ってるって言ってたでしょ」

 そう言う彼女自身は赤と白のツートンカラーの長傘を持っている。
 まるでレースクイーンのような傘だが、アスカなら似合うかも知れない。

「え、いや、折り畳みが鞄の中に入ってるはずだと思って……でも、こないだの雨の時に使って、その後で鞄に入れるの忘れちゃったみたいなんだ」
「もー、ほんとあんたって、忘れっぽいんだからー」
「しょうがないだろ。忘れっぽいっていうことを忘れちゃうんだから」
「あーもう、ほんっとバカシンジね、あんたって」

 ヒカリは二人のやり取りをアスカの後ろで聞いていた。
 この二人って、いつもこうね。
 アスカはちゃんと碇君の世話を焼いてるのにちょっと一言多くって、碇君はちゃんと感謝してるみたいなのに子供扱いされて拗ねちゃって……

「で、どうすんのよ、あんた。雨止むまで、ここで待ってるつもり?」

 アスカは傘を開きながら雨の中に出てそう言った。
 そんなこと言わなくても、傘に入れてあげればいいじゃない、一緒に帰るんだから。そのためのそんな大きい傘なんでしょ。
 相変わらず、素直じゃないのね。
 ヒカリはアスカたちに気付かれないようにため息をつきながらそう思った。
 鈴原は……理科の再テストだし。今日も一人かぁ……

「いや、トウジとケンスケが、この後遊びに行かないかって言ってたから……」
「じゃ、あいつらの再テストが終わるまで待ってるわけ? リツコ先生のテストなんて、いつ終わるかわかんないのよ」
「うん、でも、遅くなったら遅くなったで、その時には雨が止んでるかも知れないし……」
「止まなかったら?」
「あ……」

 この時のシンジの間抜け面はみなさんにも見せてあげたいくらいだった。

「どうやって帰るつもりだったのよ? 考えてなかったんでしょ。ホントあんたって、バカなんだから……」
「う……」
「で、どうすんの? 待つの? 帰るの?」

 だからそういう言い方しないで、「一緒に帰ろ!(ニコッ)」って言えば、碇君も帰るに決まってるのに。
 ヒカリはやきもきしながら二人の様子を見ていた。

「う……待つ」

 ほら、碇君も結構意地っ張りだから、こうなるに決まってるのよ。
 アスカの少々落胆した顔を見ながらヒカリは考えていた。
 他人のことが解っている割には、彼女は自分自身のことはあまり解っていないらしい。
 トウジが傘を忘れたこと知っていながら、彼女は先に帰ろうとしていた。

『だって……傘に入れてあげるなんて、言えなくて……』

 数分前、教室を去り際にその言葉を聞いたアスカはあきれかえっていた。



(はあー、終わった……)

 再テストが早めに終わった私は、ため息をつきながら靴を履き替えていた。
 出るところが解ってたら、私だってちゃんとできるのよね。
 でも、こないだの小テストは抜き打ちだったからなぁ……普段勉強してないから、こういう時に困ってしまう。
 何たって、『一夜漬け』の人だからなぁ、私って……
 それにテストの時のヤマは当たる方だから、問題ないんだけどな。
 はあ、外は雨か……何かいいこと無いかな……
 ん? あれは……
 ま、これも一つのいいことかもね。

「いっかりっくんっ!」

 私は碇君の肩を後ろからポーンと叩いてそう言った。
 碇君は下足場の出口のところで、ぼんやりと雨の降る様子を眺めていた。
 どうしたんだろ、こんなところで。アスカと一緒に帰ったんじゃなかったっけ。

「あれ、綾波……もう再テスト終わったの?」

 振り返った碇君はいつものニコニコした顔でそう言った。
 うんうん、いい顔ね。こういういい笑顔を見ると、憂鬱も飛んでっちゃいそうだわ。

「だって、ちゃんと勉強してきたもん。それより、碇君は再テスト免れたんだね」

 私と碇君と鈴原君と相田君は、いつも再テストの常連なのに。
 こないだの小テストでは珍しく碇君は合格組に入ってしまった。
 また一緒だと思って密かに喜んでたんだけどなー。

「あ、うん。その前の日に偶然、復習したんだ」
「偶然? ……ふーん、わかった。アスカの家庭教師ね」
「え、いやその……」

 ほーら、また碇君、おどおどしちゃって。
 で、またこの困った顔がいいのよ。
 これが面白くてついついからかっちゃうのよねー。
 アスカがいるときにからかうともっと面白いんだけど。

「隠さなくてもいいでしょ。公然の事実じゃない」
「うん……」
「どのくらいの割合でやってもらってるの? 週に一回くらい?」
「え、別に決まってるわけじゃないよ。 こないだは、アスカのお母さんの帰りが遅いからって、うちの母さんがアスカを夕食に呼んだんだ。 そのついでに教えてもらうことになって……」
「ふーん、そうなんだ」

 そうか、家族ぐるみのお付き合いだもんね……
 何か、うらやましい。いいな、そういうのって……

「で、何してたの? こんなところで」

 黙っていると私の家庭に事情の話になりそうだったので、私は別の話題を振った。
 この話は、禁句。その手の話が出ないようにするのも私の勤めね。

「あ、うん。トウジとケンスケを待ってたんだ」
「また遊びに行くの?」
「そのつもりだけど」
「でも、鈴原君も相田君も、まだしばらくかかりそうだったけど」

 リツコ先生の再テストは、できたと思ったら先生のところに持って行ってその場で採点してもらって、合格点を満たしてなければ何度でもやり直しさせられてしまう。
 問題数は少ないし、ちゃんと復習すればできるはずなんだけど……
 私が終わったときには鈴原君は頭を抱えてたし、相田君はシャーペンをくわえて考え込んでいた。もしかしたら諦めてたのかも。

「そうなの? あ、そう言えば……」
「二人とも、忘れてたって言ってたわよね」

 理科の授業が終わってから再テストがあったことに気付いて、二人とも大騒ぎしてたっけ。
 ヒカリも鈴原君に確認してあげるくらいすればいいのに。
 相田君は……昨日また船を見に行ってたらしくて、朝からその話ばっかりしてたから、忘れてて当然よね。
 その時、一緒に再テストを受けたクラスメートが出てきたので、私は二人の様子を聞いてみた。
 どうやら二人とも一度提出に行ったけど、玉砕したらしい。

「じゃあ、もうしばらくは……」
「無理みたいね……」

 私と碇君は思わず顔を見合わせてしまった。
 再テストは早くできた人は早く帰れるけど、できない人は延々居残りになってしまう。
 ま、最大1時間くらいしたら家に持って帰って宿題ってことになってしまうんだけど、さっき聞いたような調子じゃ二人ともそういうことになってしまいそう。
 そうすると、碇君はあと30分以上は帰れないことになる。

「どうするの? 待っててあげる?」
「あ、うん……」

 私が訊くと碇君は考え込んでしまった。
 碇君って、友達思いだからなぁ。
 でも、さすがにあと30分以上も待つ気はしないと思うんだけど。



「……帰ろうかな……」

 僕は降り続く雨を見ながらそう言った。
 待ってることは別に構わないんだけど、結局遊ぶ時間が減ることになるし。
 それに、雨の日は動き回ること自体が制限されるし。
 ま、ゲームセンターに行けば動かなくて済むんだけど、今月は小遣いの残りが少ないからな。
 それもこれも、こないだ予定外の出費があったからだ……
 僕は横目でその原因になった人物をちらっと見た。
 相変わらず脳天気に笑ってる。

「じゃ、途中まで一緒に帰ろうか」

 綾波はそう言いながらさっさと傘を開いて歩きかけていた。

「うん、でも……」

 僕がそう言って帰ろうとしないので、振り向いてこっちを見ている。

「どうしたの?」
「傘、忘れてきたんだ」

 そう、トウジとケンスケを待っていた理由はそれもある。

「え? それじゃ、どうするの?」
「……どうしよう?」
「やっぱり、鈴原君と相田君を待って傘に入れてもらう?」
「うーん……」
「でも、鈴原君、傘持ってないけど」
「え?」

 そうなの? でも、何で綾波がそんなこと知ってるの?

「ヒカリが言ってたもん」

 ……何で僕の考えてることがわかるんだ。
 それに、何で委員長が……

「ど・う・す・る・の?」

 僕の考えは綾波のその一言で中断させられた。

「どうするって……」
「相田君の傘に三人入るわけにはいかないでしょ」
「あ、うん……」

 それはもっともだ。だいたい、男が三人も一つの傘の下に入るわけがない。

「入れてあげようか?」
「え?」
「私の傘に」

 そう言って綾波は水色の傘をくるくる回しながら僕を見ていた。
 う……この笑顔には弱いんだよなぁ……
 それに、傘に入れてもらうってことは……

「いらない? いらないなら、私、先に帰るけど」

 そう言って綾波は一歩後ずさった。
 うう、どうしよう、入れてもらいたいけど……

「さあ、早く決めましょう」

 綾波はまた一歩下がった。
 何か、そんなことされると、入らなきゃいけないような気がしてくる。
 同じ誘われ方でも、この辺がアスカとの違いで……
 そう考えてる間にも綾波は一歩ずつ下がっていく。
 うーん……よし、決めた。

「じゃあ、途中まで入れてよ」
「はーい、じゃあ、行きましょうか」

 綾波は僕の方に戻ってきて傘を差し掛けてくれた。
 その笑顔が一際明るい。つい僕もつられて笑ってしまう。
 あれ、でも、待てよ。
 途中まで入れてもらって、その後はどうしよう?
 ……まあいいや、後で考えよう。



「いやー、今日はラッキーやったなぁ」
「ホントホント。いつもは1時間は居残りさせられるのに、今日は30分で終わっちゃってさ」
「にしても、あのリツコ先生が何で早帰りなんかするんやろなぁ」
「待ち合わせじゃないの、男とかさ」
「ホンマかいな。せやけど、あんなきっつい女、ワシやったら願い下げやで」
「ま、世の中にはいろいろ物好きがいることだし」
「それもそやな」
「それよりたぶん、ミサト先生と遊びにでも行くんじゃないのか」
「いかず後家二人で、仲のええこっちゃで」
「それはともかく、今日はこの雨だし、どうする? どこへ行く?」
「そやなぁ……小遣い前で財布が寂しいさかい、ゲーセンはやめといた方がええやろな」
「じゃあ、うちに来るか? こないだ言ってた新しいソフト、買ったんだけど」
「ホンマかいな。ほな、おじゃまするとしよか」
「じゃ、決まりな。ところで、碇はどこで待ってるんだ?」
「お、そやそや……おらへんがな。どこにおるんや?」
「帰ったのかな?」
「また惣流にでも連れて帰られよったんちゃうか」
「ま、そんなとこかな」
「あのセンセは相変わらず恐妻家やからのう」
「シンジの奴も苦労するよな」
「最近、綾波のツッコミがだんだんキビしゅうなってきとるしなぁ」
「全く……おい、トウジ」
「何や?」
「見ろよ、あれ」
「どれや?」
「ほら、あそこだよ」
「何や……相合い傘やないかい」
「その中の二人だよ」
「ん? ああ、あの青い頭は綾波やのぅ……もう一人は、シンジか?」
「そうみたいだな」
「何や、ワシらを待つんやのうて、綾波を待っとったんかい。あのセンセもやるのぅ」
「そうでもないみたいだぜ」
「何や? そら、どういうこっちゃ?」
「あれはたぶん、綾波の傘だな」
「それがどないしたんや?」
「だから、シンジは別に綾波を待ってたんじゃないってことだよ」
「何でや?」
「じゃあ、綾波の傘に入れてもらうために、待ってたって言うのか? それなら、惣流の傘に入れてもらえば済むことだろ」
「そらそやな」
「だから、シンジは俺たちを待ってたんだよ、きっと」
「なるほどな。そこに綾波が出てきて……」
「俺たちが遅くなりそうだからって言って、誘ったんじゃないのか」
「綾波もホンマにようシンジにちょっかい出しよるなぁ」
「ライフワークだしな」
「にしても、相合い傘とは、惣流が見とったら、タダでは済まされへんやろな……で、お前は何しとんのや、カメラ持って」
「証拠写真さ」



「あー、もう、ひどい目にあったわ」
「ほんとだね。もう肩がびしょびしょだよ」
「あたしもスカート濡れちゃった。あー、靴も買ったばっかりなのに、ひどいー」

 私と碇君は、喫茶店に入って雨宿りをしていた。
 ちょうど帰る方向が別々になるところまで来たときに、突然雨が激しくなってきて。
 私は傘持ってるからまだいいけど、碇君をこの大雨の中に放り出すわけにはいかないので、角の喫茶店に飛び込むことにした。
 実はここはアスカやヒカリとよく来ている。
 アスカたちと初めて寄り道したのがこの喫茶店で、薦められて飲んだ紅茶がすごくおいしかったので気に入ってる。
 碇君は初めて入ったらしいけど。

「とりあえず、何か飲もうよ」
「あ、うん、そうだね」
「聞いて聞いて、ここの紅茶、すっごくおいしいんだから。アスカもご推薦なの」
「そうなの? じゃ、僕それでいいよ」
「じゃ、決まりね。すいませーん」

 私は手を挙げて顔なじみのウエイトレスさんを呼んで、紅茶を二つ注文した。
 それから碇君ととりとめのないおしゃべり。

「ね、知ってる? こないだ、アスカが……」
「へー、そうなの? じゃ、あれは……」
「そうそう、それでその時ね……」
「ホントに? そうなんだ……」

 お決まりのうわさ話に花が咲く。
 紅茶が運ばれてきても碇君との話は続く。

「でさー、アスカったら……」
「えっ、そうだったの? 嘘みたい……」
「その後、ヒカリがね……」
「何だ、そうだったんだ。だから……」

 その後、テレビ番組のこと、流行ってる歌のこと、こないだの体育の授業での失敗談、エトセトラetc。
 ティーカップが空になってずいぶん経っても、おしゃべりは止まらなかった。
 雨の日も、いつもこうなら楽しいのにな。



「どしたの、綾波」

 話がちょうど一段落したとき、雨が小止みになってきたので、僕らは帰ることにした。
 このくらいの雨なら濡れても大したことないだろう。
 それにここから家までなら走ったらすぐだし。
 で、僕は綾波が店の入り口の傘立てで傘を探すのを待っていた。

「あれ、おかしいな……」

 綾波はさっきからずっと傘を探している。
 たくさん傘があるけど、あれくらい鮮やかな水色の傘ならすぐに見つかるはずなのに。
 綾波は何度も別の傘を抜いたり入れたりしている。
 そしてその動きが止まったとき、元気のない声で言った。

「……ない、みたい……」
「えっ、そうなの? ……まさか、盗られた?」
「そうかもしれない……」
「どうする?」
「どうするって言われても……しょうがないじゃない……」

 さっきまでの笑顔とは打って変わって、綾波はずいぶん残念そうな顔をしていた。
 お気に入りの傘だったのかな。それに、ずいぶん新しそうだったし。
 僕もよく忘れたりするけど、あれは母さんが買ってきてくれる安物だから。

「とりあえず、出ようか」
「うん……」

 まだちょっと諦め切れてない綾波と一緒に、僕は店の外に出た。
 外ではまだ雨が降り続いている。

「傘無しで、帰れる?」
「うん、だって、しょうがないじゃない」
「そっか……とにかく、今日はありがとう、傘入れてもらって」
「ううん、いいのいいの、これくらい」
「うん、でも、とにかく、ありがとう。それじゃ……」

 お先に、と言って僕が雨の中に走り出そうとしたとき、大きな雷の音が聞こえた。
 慌てて僕は身体を店先に引っ込める。
 春なのに、雷か。珍しいな。
 しばらく様子を見ようとしたとき、突然さっきみたいな強い雨が降り出してきた。

「うわ、これは……」
「ひどい……帰れないじゃない……」

 あっと言う間に雨は土砂降りになってしまった。地面が霞んで見えないくらい。
 おまけに風まで吹いてきて、これじゃ傘があってもなくても一緒だ。
 帰るまでに全身ずぶ濡れになること間違いなしだ。

「どうしよう……」

 綾波はそう言って空を見上げながら、呆然としている。傘が盗られたことと二重のショックなんだろうな。
 もう一度店の中に入って雨が弱まるのを待ってもいいけど、いつになるかわからない。
 夜まで降り続いたら大変だ。ここは男らしく決断しなきゃ。

「あの、じゃ、僕、家に電話してみるよ」
「えっ?」
「母さん、今日は家にいると思うから、車で迎えに来てもらうんだ。それで、綾波も家まで送って行ってもらえばいいよ」
「でも……いいの?」
「いいからいいから」

 僕はそう言いながら店の中に戻って電話を借りることにした。
 携帯は……忘れてきたみたいだから。

「変わったテレカね」

 僕が財布から出してきた赤いテレカを見て綾波がそう言った。

「あ、うん、父さんの会社のなんだ」

 赤字に銀色で会社のロゴマークが入っている。
 会社の名前と、何だか知らない葉っぱを半分にしたのを組み合わせたような変なデザインだ。

「ふーん……あれ、888って……」

 カードを公衆電話に入れると、残数がそう表示されたので綾波はびっくりしてるみたいだった。

「これ、度数無制限なんだ。父さんの会社の経費で自動引き落としされるんだって」
「へー、そうなの。いいな、それ欲しい……」

 ダイヤルしてると綾波が物欲しそうな声でそう言った。
 きっとアスカや委員長と長電話してるんだろな。
 電話代って、結構家計に響くみたいだから。

「あ、もしもし、母さん? 僕だけど……
 うん、今、学校の帰りで……
 そう、傘忘れて、今、雨宿りしてるんだけど……
 うん、だから、車で迎えに来て欲しいんだけど……
 そう、学校へ行く途中で曲がるところの喫茶店にいるから……
 それから、友達が一人いるんだけど、その子も送って行って欲しいんだけど……
 いい? じゃ、待ってるから……
 うん、わかった、それじゃ……」

 ピピー、ピピー、ピピー

「ゴメンね、私のことまで……」

 僕が電話を切ってテレカを財布に入れてると、綾波がそう言って頭を下げた。
 笑顔じゃないときの綾波って、すごく寂しそうだ。

「いや、いいよ。こういうときはお互い様だし」

 そう言いながら僕はちらっと外を見た。
 雨は全然弱くなりそうにない。雷もゴロゴロ鳴りっぱなしだ。
 雷は別に怖くないんだな、綾波って。

「でも、わざわざ碇君のお母さんに出てきてもらって……」
「いいって。5分くらいで着くから、それまで店で待たせてもらおうよ」

 店のマスターが綾波のことをよく憶えてたみたいなので(そりゃ、空色の髪だもんな)、ご厚意に甘えてテーブルに着かせてもらった。



 5分くらいしたら店の前に車が着いた。何ていう車かわからないけど、白い車で結構かっこいい。
 私と碇君はマスターにお礼を言って店を出た。
 で、車の中にいた女の人を見て私はびっくりした。

(え? これが碇君のお母さん? ウソ……)

 若い。若すぎる。どう見たって20代後半よ、この人。
 はっきり言って、ミサト先生やリツコ先生より若く見える。
 それに全然所帯じみてない。服だって流行とまではいかないけど、さっぱりした品のいいものだし……
 ホントに碇君のお母さんなの。まさか後妻じゃ……

「どうもうちのシンジがいつもお世話になって済みません」
「あ、いえ、こちらこそいつも碇君にはお世話になってて……」
「いえいえ、シンジったらいつもご迷惑ばかりかけてるみたいで……」
「いえ、そんなことは……」

 ぼんやり考えてたら突然挨拶されてしまったけど、声だって若々しい。
 どう見たって碇君の歳の離れたお姉さんよ、これじゃ。

「ほらシンジ、早く乗って」
「わかってるって。後ろでいい?」
「助手席に廻ってたら濡れちゃうでしょ。それより、レディーファーストよ」
「あ、うん……」

 こういう会話を聞いてても、別に姉弟って感じで不自然じゃないわよね。
 それからその碇君のお母さんらしき女の人は私の方を見てニコッと笑いながら言った。
 う、碇君の笑顔に似てる……

「どうぞ、乗って下さい。送って行きますから……」
「はあ、じゃ、すいません、失礼します……」

 今更遠慮してもしょうがないので、私は勧められるままに後ろの席に乗り込んだ。
 それから碇君が隣に座る。

「えーっと……綾波さん、よね?」

 車がスタートしてすぐ、碇君のお母さんが話しかけてきた。

「はあ、はい……あの、初めまして……」

 ……初対面のはずよね。どうして私のこと知ってるのかしら。
 こないだ撮ったクラス写真はまだできあがってないはずだし、去年のには写ってないし……

「こちらこそ初めまして。シンジがいつもあなたのこと言ってるから、すぐに判ったわ」

 え? 碇君が私のことを何て言ってるの?

「去年転校してきた女の子で、綺麗な空色の髪の可愛い女の子がいるんだ、って……」
「はあ、どうも……」
「シンジが女の子のこと話題にすることなんて滅多にないから、どんな子かしらって思ってたら……ふふ、これじゃシンジがあそこまで褒めるのも無理ないわね」
「はあ、恐れ入ります……」

 ……褒められてるのよね、これって。
 私はとりあえずお礼を言っておいた。
 でも、碇君って家で私のことなんて話してたんだ。
 どんな風に言ってたのかしら。
 ちらっと碇君の方を見ると、窓の外を見ていて顔が見えなかった。
 しょうがないので私は視線を前に戻す。
 ルームミラーに映った碇君のお母さんの顔をもう一度見てみたけど……うーん、やっぱり若い……
 ……で、この車、どこに向かってるのかしら。
 私、まだ自分の家の方向、碇君のお母さんに言ってないけど……
 なんてことを考えてたら、いつの間にやら車はどこかの地下に滑り込んでしまった。
 え? ここ、どこ?

「すいません、後であなたのお家にお送りしますから、少し家に寄って行って下さい」

 車が止まると碇君のお母さんが後ろを振り返ってそう言った。
 どうやらここは碇君が住むマンションの地下駐車場らしい。

「え、でも……」
「シンジが傘をお借りしたみたいだし……何か飲み物でもお出ししますから、ね?」
「はあ……」

 この人、物腰は優しいのに、何となく断りにくい雰囲気だわ。
 でも、碇君は電話で私の傘借りたなんて言ってなかったのに、何で知ってるのかしら。
 とにかく、あれよあれよという間に私は車の外に連れ出され、エレベータに乗せられて、碇君の家に行くことになってしまった。
 途中で碇君の顔を見たけど、よくわかんない中途半端な表情をしていた。
 碇君も、このお母さんのペースにうまく乗せられてるクチなのかしら。



「はい、どうぞ。お上がりになって」
「はあ、いただきます……」

 碇君の家に入ると私はキッチンに通されて、勧められるままに椅子に座ってしまった。
 で、今、目の前に出されたのはホットココア。
 うーん、香り高い紅茶もいいけど、こういうチョコレート系のあまーい匂いも好き……
 おいしい物に目がない私はついつい遠慮なくごちそうになってしまった。
 一口飲んでみたら……何、これ、すごくおいしい……私がたまにスーパーで買うのとは全然モノが違うんじゃないかしら。
 これはしっかり味わって飲まないと……
 半分ほどココアを堪能してからふと目を上げると、碇君のお母さんがテーブルの向こうに座ってニコニコ笑いながら私の方を見ていた。
 うっ、思わずうっとりしてた顔見られてしまったかしら……

「えーと、綾波さんは……」
「えっ、はい」

 目が合った途端に碇君のお母さんに話しかけられてしまった。

「どちらから引っ越して来られたのかしら」
「あ、あの、第2新東京です」
「まあ、そうなの。そちらのご出身なの?」
「いえ、生まれたのは京都なんですけど……」
「京都? あら、私も学生の頃は京都にいたのよ。京都のどの辺り?」
「えっと、左京区の……高野ってご存じですか?」
「まあ、私が住んでたマンションのすぐ近くじゃないの」
「えっ、そうなんですか?」

 ということは、碇君のお母さんって、京都大学……
 じゃあ、碇君も真面目に勉強すればできるってことかしら。

「もしかしたら、綾波さんのご両親をお見かけしたことがあるかも知れないわね。ご両親は京都の方?」
「いえ、いろいろと移り住んでまして……」

 それからしばらく、私と碇君のお母さんは話し続けてしまった。
 子供の頃から引っ越しを10回以上も繰り返してることとか、
 小学校の時にしばらくこの第3新東京にいたこととか、
 もちろん、私の両親がもういないことも。

「まあ、じゃ、ずっと一人で暮らしてるの?」
「ええ、でも、もう慣れましたから……」
「道理でしっかりしてると思ったわ。シンジとはえらい違いね」
「いえ、そんな……」

 それにしても、碇君のお母さんって、初対面なのに話しやすい。
 歳の差を感じさせないからかしら。内面も見た目と同じく若そう。
 知らない間に碇君のお母さんのしゃべり方が柔らかくなってて、すっかりうち解けちゃってる。
 それに聞き上手だし……碇君が聞き上手なのは、お母さんの遺伝なのね、きっと。
 私もこんなお母さんというか、お姉さんというか、そういう人が欲しいなあと思ってしまった。

「でも、シンジったら、ホントに頼りなくて……あなたみたいな人が一緒についていてくれると助かるのにね」

 ん? 何か話が変な方向に行ってない?
 今のって、何となく含みのある発言よね。
 どういう風に受け答えすればいいのかしら。
 ちらっと碇君を横目で見ると、ムスッとしてふてくされてるみたいだった。
 あらら、ごめんね、ほったらかしにしちゃって。



「今日はどうもありがとうございました」

 私は車で送ってくれた碇君のお母さんに深々と頭を下げてお礼を言った。
 あの後もついつい話し込んでしまって、気が付いたらすっかり遅くなっていた。
 下手に長居すると夕食まで勧められそうだったので、そうならないようにうまく話を切り上げたつもりだけど。

「いえいえ、これからもシンジと仲良くしてやってちょうだいね」
「いえそんな、こちらこそよろしくお願いします」
「また遊びにいらしてね。今度はお夕飯でもどう?」
「そんな、とんでもないです。でも、また何かでお伺いすることもあるかと思いますので、その時はよろしくお願いします」

 私がそう言ってもう一度頭を下げると、碇君のお母さんはまたあの素敵な笑顔を浮かべて言う。

「ほんとにしっかりしてるわ、綾波さんって……ふふ、やっぱりシンジにはもったいないわね」
「そんなことないですよ。私も結構がさつですから……」

 あ、いけない、これって碇君を持ち上げたことになってないわ。
 でも、碇君のお母さんは相変わらず笑顔を崩さない。

「じゃあ、シンジと添い遂げてやってくれる?」

 えっと、これってきっと冗談よね。
 うん、やっぱりこういうときは明るく冗談で返すのがいいわよね。

「はい、お義母さま、こちらこそふつつか者ですが、よろしくお願いします」

 それに碇君のお母さんって、こういう軽口も気にせず言える雰囲気。今日会ったばかりなのにね。

「ふふ、いいえ、こちらこそ。じゃあまたね、レイちゃん」
「はい、失礼します」

 碇君のお母さんは最後に私の名前を下の方で呼んでくれて、それから車に乗って帰って行った。
 うーん、茶目っ気たっぷりというか、すごくいい人だわ。もっとお話ししてたかったくらい。
 ああいう人がホントにお義母さんだったら、ワイドショーネタにならなくてすむんだろうな……
 私は車が見えなくなるまで見送ってから、マンションの階段を上がって自分の部屋に戻った。
 そして夕食の準備。買い置きのインスタント食品を温めるだけだけど。
 まあ、何はともあれ、今日は雨だったけど、いい一日だったな。
 碇君と相合い傘もできたし、お母さんにもお目にかかれたし、楽しいお話もできたし……
 やっぱり雨の日だって、楽しいことはあるわよね、こんな風に。

 ん?

 忘れてた。
 そう、傘よ。
 あーあ、あれってすごく気に入ってたのになー。それに高かったし。
 でも、あれが盗られたおかげで、碇君のお家におじゃまできて、お母さまとお知り合いになれたんだから、良しとしなきゃ。
 いいや、また今度買いに行こうっと。
 そうそう、今度買うときは、今日みたいな日のために……

「もう少し、小さい傘にしようかな……」

 そうすれば、もう少し碇君に近づけるかも……



- Fin -







おまけ



「それでね、その綾波さんって子が」

 夕食が終わり、シンジが部屋に引きこもった後で、碇夫妻はキッチンで会話していた。
 夫人の方は後片付けの皿洗いをしながら、主人の方は夕刊の記事を読みながらだったが。

「ホントに可愛い子なんですよ、写真どおりの。いえ、写真より可愛かったわ。それに、良くできたいい子で……」
「ふっ、シンジがわざわざ自分の部屋に写真を飾るわけだな。アスカ君には頼まれても一枚しか置かんかったくせに」

 そう言って主人の方はガサガサと音を立てて夕刊をめくった。
 その唇の端が『ニヤリ』と歪んでいたのは言うまでもない。

「あらでも、写真はあの一枚だけじゃないんですよ」
「ん?」
「シンジったら、机の引き出しにアルバム入れてるんですよ。綾波さんの写真ばっかり集めて。それに、ビデオまで」

 この夫人、優しい顔に似合わず、しっかり自分の息子のプライバシーまでチェックしているらしい。

「それだけではない」
「え? 何です?」

 主人のふてぶてしい声に、夫人が皿を洗いながら振り返った。

「シンジのパソコンには、その子のフォトファイルがごっそり詰まっている。わざわざディレクトリにパスワードまでかけてな」

 するとそのパスワードを破ったというのか。この親父、恐るべし。
 息子がこの場で聞いていたら泣いて抗議したであろう。
 もっとも、最後はいつも言いくるめられて終わりなのだが。

「そこまで見たんですか、あなたも……」
「子供の成長を管理するのは親の仕事だ。そうしなければ我々に未来はない」

 夫人の方はあきれていたが、主人の方はさも当然のようにそう言い放った。
 そして夕刊を畳むと、家の中でもはずさないサングラスを右手の中指でくいっと押し上げ、それから腕を組んで宙を見上げながら誰に言うともなく嘯いた。

「ふっ、しかしシンジも10年以上も連れ添ったアスカ君を袖にするとは……いい度胸だな。これから苦労するぞ(ニヤリ)」

 碇家は今日も平和だった。



- Fin -







おまけ(2)



「昔のあなたと同じですね」
「む、それは……」
「何なら、みなさんに聞いていただきましょうか?」
「ま、待ってくれ、ユイィッ」



今度こそ本当に
- Fin -




新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

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Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions