桜の花びらは風に舞い、窓の外を雪片のように流れる。
 それには風流という言葉がよく似合う。風流、それは日本人の文化の極み。
 世の中にたえて桜のなかりせば云々。
 ひさかたの光のどけき何とやら。
 ひねもすのたりのたりかな。
 散る花よ風の歌を聴け。
 全て世は事も無し。
 日本人に限らず、古来、人はこの季節を言葉をもって叙情的に表すことに、いかに腐心したことか。

 春。

 時は午後。
 うららかという言葉が一番似合う時間帯。
 陽光は燦々と降り注ぎ、ここ、第3新東京市立第壱中学校の教室にも惜しみなくその暖かさを届けていた。
 窓際の席に座る者は、みなその恵みを享受していた。
 そして廊下側に座る者には、わずかばかりの暖かな風を。それは何とも言えない春の匂い。

 昼休みはとうに終わり、今は既に6時間目の授業中。
 ぽかぽかとした心地よい暖かさが身体全体を包み込む。
 午後特有の満腹感がそこに加われば、当然の如く人間の身体はもう一つの欲求を引き起こす。

 睡眠。

 春休み明けで身体がなまりきっていれば、授業中に眠気を催すのは当たり前のこと。ましてや月曜日ともなれば。
 老教師のゆっくりとしたしゃべりは子守歌のようにさえ聞こえる。
 3年A組の教室では、3分の1の者が既にお昼寝モードに移行し、3分の1の者が意識を失いかけ、残りの3分の1の者だけが授業を聞いていた。
 その残り3分の1からも、睡魔に襲われる者が続々と出始めている。

 当然であろう。

 ノートを書いているときにふと周りを見れば、机に突っ伏して寝ている者、座ったまま舟を漕ぐ者、うつらうつらしてはハッと目覚め、慌ててノートと黒板を見比べたりする者ばかりである。
 中には目を開けたまま寝るという器用なことをしている者もいる。

 クラス中がこのような状態なのに、老教師が怒りもしないで授業を続けているのは、教育に達観した者の為せる技か、それとも単に自分の言葉に夢中で生徒を放ったらかしにしているからなのか。

 とにかく、長閑な午後の教室であった。



 春眠、黄昏ヲ覚エズ




 そしてここに一人、眠るでもなく、授業を聞くでもなく、別のことで神経を研ぎ澄ましている男がいた。
 その男、相田ケンスケ。
 彼は廊下側の席で横を向いて壁にもたれかかり、DVDビデオを使って教室の中を撮っていた。

(ああ〜、平和だねぇ……)

 もちろん、声には出さない。
 彼の見る平和な景色、それはクラスメートたちの安らかな寝顔。
 彼のクラスには、学年、いや学校、のみならず、市内の全中学をも代表する美少女がいる。
 今、彼がファインダー越しに見ているのはそのうちの一人、惣流アスカ・ラングレー。

 彼女の成績が常に学年トップだからと言って、いつも授業を真面目に受けているわけではない。
 授業をずっと聞いていなくても、断片的に聞いてそれを補完すること、それが彼女の天才たる所以。
 その彼女は、右手に愛用のシャープペンシルを握ってはいるが、左の肘を机につき、腕を立てて掌の上にその形のいい顎を載せ、心地よい憩いの時を味わっていた。

 相田ケンスケという男、別に惣流アスカに恋心を抱くが為にこのような盗撮をしているわけではない。
 なぜなら彼はビデオや写真に映らぬ彼女の一側面を知っているから。
 そして、彼はその画像の中から意図的に彼女のその一側面を外している。

 そうしないと、彼のビデオや写真の売り上げが減ってしまうのである。
 もちろん、彼女の性格を知りながらも慕い続ける者も多い。
 だが、彼女のファンである殆どの者は隠されたその側面を知らないのである。
 その側面を知れば、ある者は幻滅し、またある者は逆に興味を示すようになるのかも知れない。
 だが、相田ケンスケは彼女のその側面を公開すれば、彼女のファンのトータルが減少になるであろうと考えていたのである。
 故に彼は惣流アスカ・ラングレーの表面しかその画像に収めない。そしてそれで充分であると思っていた。

 ファインダーの中の彼女は、微動だにせず眠り続けている。
 そのサラサラの赤い髪が時折柔らかな風に揺れている。
 そんなものをずっと映し続けてどうなるのだろうか。写真で充分ではないか。
 しかし、その考えは甘いのである。
 ずっと動かないようでいても、そこにはごく稀に一瞬の表情の変化が訪れる。
 それを逃す手はない。それこそ、彼の売り上げを大いに伸ばすチャンスなのだから。

 その瞬間は来た。
 彼女がほんの僅か、微笑んだ。まさしく天使の微笑み。
 逆光が彼女の表情の変化を美しく照らし出す。
 その笑みは、彼女が心の奥底で恋心を抱く少年の顔が夢に現れたからか、それともお昼のおいしいおかずを思い出したからか。
 しかし相田ケンスケはそんなことには興味を持たず、この笑顔がいくらになるかをひたすら計算するのであった。

 しばらくそのターゲットを映し続けた後で、今度は別の人間をファインダーに入れる。
 惣流アスカ・ラングレーはこれだけの時間映しておけば充分であろう。環境ビデオとして売れるかも知れない。
 そのような物を所望する顧客はいるものである。
 そして彼のビデオは別の寝顔を捕らえた。
 鈴原トウジ。
 ジャージの男は、一番後ろの席で足を机の上に揚げ、両手で頭を後ろから支えて、堂々と眠っていた。
 男など映してもしょうがない。まあ、写真にして彼の一ファンである少女にプレゼントするとしよう。

 次に捕らえたのは、その一ファンである少女、洞木ヒカリ。
 委員長という肩書きを持つその少女は、自分が眠るわけにはいかないという確固たる意志を持って授業に望んでいた。
 しかし、春の陽気はそんな彼女からをも意識を奪い去る。
 彼女は時々目を閉じ、十秒ほどしてからハッと目覚めるという行為を何度となく繰り返していた。
 その仕草自体は可愛らしい。
 後でジャージの男にでも安価で譲ってやるか。彼はそう考えて再びファインダーを動かした。

 彼のビデオは窓際で熟睡する彼の友人の姿を捕らえた。
 机に突っ伏して寝ている。
 馬鹿者、そんなことでは売り物にならんではないか。彼は心の中で友人を罵った。
 童顔のその少年は、意外と女子からは人気があった。
 その寝顔はさぞかし女心をくすぐるであろうと思って映してやっているのに、そのザマは何だ。
 彼は心の中だけで舌打ちし、少年に対して特別割引で某美少女の写真を譲ることを止めようと決心すると、再び標的を探し始めた。

 ファインダーの中には一人の少女の姿があった。
 おそらく、この時間の最後の標的になるであろう。
 その少女は、転校生の指定席とも言われる窓際の一番後ろに座っていた。
 転校してきたのはだいぶ前のことだが、新学期早々の席替えで彼女の指定席に舞い戻ってしまったのである。
 だが、授業をそれほど熱心に聞かない彼女は、その席に座ることを非常に喜んでいた。

 彼女は両肘を机につき、立てた両手で頭を支え、安らかな寝息をたてていた。
 もちろん、寝息がここまで聞こえるわけではない。しかし、その寝顔は安らか以外の言葉で表せるようなものではない。
 そして両手で顔を支えたそのポーズを見れば、彼女が授業を受ける気がなく、初めから寝るつもりであったということが伺えようというもの。
 実際、新学期が始まって以来、彼女にとって午後の授業は無きが同然であった。

 そしてその彼女こそ、惣流アスカ・ラングレーと並ぶ美少女であり、相田ケンスケの大きな収入源の一人である。
 その名を綾波レイという。

 彼女を見る者はやはり、初めはその蒼銀の髪と紅い瞳に興味を持つ。
 そしてその透明な如く白い肌。一目見て彼女が日本人であると思う者は殆どいるまい。
 だがよくよく見れば彼女の顔立ちは純粋な日本人であり、ドイツ人とのクォーターである惣流アスカ・ラングレーとは異なった美しさを持つことに気付くであろう。
 そして蒼銀の髪と紅い瞳が彼女の美しさを引き立てていることにも。
 繊細なガラス彫刻のようなその美しさを。

 しかし、それほどまでに美しい彼女にも、残念ながら頂けない側面はある。
 いわゆる勝ち気な一面。それだけなら可愛げがあると言って許せるのだが、まだある。
 おしゃべり。考えるより先に口が動くとも言われている。
 転校初日に“あの”惣流アスカ・ラングレーを言い負かしたという事実は、その他諸々の誇張された伝説を伴って彼女の短い人生を彩っていた。

 そして、彼女の達者な口と共に手に負えないのがその積極的な行動。
 特に、惣流アスカ・ラングレーと、その幼なじみにして相田ケンスケの友人・碇シンジ、即ち先程の熟睡少年とをからかうときにその本領は発揮される。
 簡単に説明するなら、『惣流アスカ・ラングレーと碇シンジ夫婦の仲を引き裂こうとする愛人綾波レイ』と言うところか。
 もちろん、本気でやっているわけでないらしいが、綾波レイはそれを自身の『ライフワーク』と言って憚らない。
 本当は3人は三角関係ではないのかと穿つ者もいたが、その真相は謎である。

 ともあれ、『しゃべってなければいい女』綾波レイを、相田ケンスケはずっと録り続けていた。
 顔を支える手が軽く握られているおかげで、横顔を綺麗に映すことができる。
 正確には真横ではなくて少し斜め前からなのだが、この角度は最適と言っていい。
 ケンスケのファインダーの中にはまさしく春の女神が映っていた。あるいは深窓の眠り姫か。
 時折風に揺れる短い蒼銀の髪は、窓から射す日差しのためにキラキラと輝いている。
 寝癖で跳ねた部分さえも、まるでプリズムのように光を反射させていた。
 そして、白磁よりもさらに白いその頬には、暖かさのせいかうっすらと赤みが差していて、品の良い薄化粧のように彼女の表情を引き立てていた。

 だが、その美しさも、相田ケンスケという男の目には金額としてしか換算されないのだった。
 やがて授業の終わりを告げる鐘が鳴った。



「きりーつ。れい」

 委員長は最後まで眠り込んでしまうことなく、彼女の責務を全うすることができてホッとしていた。
 老教師が去ると、途端に教室が騒がしくなる。
 起きていた者は手早く帰り支度を始め、早くも教室から去って行く者もいる。
 寝ていた者は大きく伸びをし、放課後になったことを思い出すと、急に元気になる。

「さよならー」
「バイバイ」
「うん、それじゃね」
「また明日」

 少年少女の元気な声が飛び交い、教室からは少しずつ人数が減っていった。

「ああーっあ、よく寝た……」

 アスカはそう言って伸びをすると、ガタンと音をたてて椅子から立ち上がった。
 そしてテキパキと帰り支度を始める。
 後ろからヒカリが寄ってきた。

「アスカァ、また寝てたでしょ」
「うん、だってー、あの先生の授業、退屈なんだもん」
「まあ……」

 そうなんだけどさ、と言いかけて、ヒカリは言葉を飲み込んだ。
 委員長たる者、教師の批判をするべからず。
 彼女が勝手に決めた戒律であった。
 それにうっかり自分も眠りかけたのだ。迂闊なことは言えない。

「それに、まだ新学期始まったばかりで授業は簡単だし、予習復習さえきっちりしとけば大丈夫よ」
「アスカはそれでいいんでしょうけどね……」

 そう言ってヒカリは窓際に目を移す。
 アスカもつられてそちらの方向を見た。
 窓際の席ではシンジが、授業がとっくに終わったというのにまだ惰眠を貪っていた。
 アスカは寝ているシンジをキッと一睨みすると、教科書を詰め終わった鞄を持って、シンジの方にズカズカと歩み寄って行った。

「くぉらっ、バカシンジッ! いつまで寝てんのよっ!」

 そしてその声と共に少年の頭をバシッと一叩き。少年がピクリと反応してゆるゆると頭を起こす。
 辺りをキョロキョロと見回すと、彼はその視界の中で幼なじみを発見した。
 それから眠そうに目をこすりながらのたまった。

「あ、アスカ、おはよ」
「おはようじゃないわよっ! 何、寝惚けてんのよ。もう放課後なの、放課後!」

 アスカは自分も寝ていたくせに、そのことは棚に上げて言う。
 シンジより少しでも早く覚醒したことに対する自信の現れか。
 ……いや、二人の立場を考えれば、いつものことであった。

「え、あ、そうか……いやー、気持ちよかった。熟睡しちゃったよ」

 シンジはそう言いながら眠そうな目をこすり終えると、アスカの方を見てニコッと笑った。
 ほんの一瞬アスカの表情が緩んだのだが、それは彼女をよく知るヒカリでさえも判らなかった。

「熟睡なんてするんじゃないわよ。あんた、ただでさえバカなんだから、ちゃんと授業聞いてなさいよ」
「しょうがないだろ、眠かったんだから」

 シンジは少し口をとんがらせて言う。
 またまた一瞬だけアスカが表情を緩ませる。もしかしたらシンジの表情が可愛かったのかも知れない。
 しかし、アスカはそんな表情を押し隠すように、シンジを睨みつけながら言った。

「でもね、あんたがちゃんと聞いてないと、また私が家庭教師しなきゃいけなくなるじゃない」
「うん……でもそれはいつものことだし」

 シンジはすっかり開き直っている。

「ちょっとぉっ、いつまでもあたしにあんたの面倒見させるわけ?」
「別に面倒見てくれなんて頼んだ憶えは……あ」

 しまった、これは言っちゃいけないんだった。まだ頭が寝てたんだろうか。
 そう考えたのかどうか、シンジの表情が見る見るうちに曇る。
 それと対照的に、アスカの表情が見る見るうちに険しくなる。

「なぁんですってぇっ!?」

 パンッ!

 すっかり人の姿が減った教室に、乾いた音が響いた。
 きっと中庭からもはっきり聞こえただろう。
 そして少年の頬に季節外れの紅葉が咲く。

「ふわぁ〜ぁ。ああ、よう寝た」

 その音で、もう一人の眠っていた男が蘇った。

「何や、また夫婦喧嘩かいな」

 そして、起き抜けにいつものきつい冗談を一発。

「そんなんじゃないわよっ!」

 アスカが一瞬のうちにして振り返り、トウジを一喝した。
 トウジの方はバリバリと頭を掻きながら、不機嫌そうな顔をしている。
 もしかしたら、気持ちよく寝ていたのを起こされたことで気分を害していたのかも知れない。

「そやかて、いつものことや……わわっ!」

 ガッタァーン。

 椅子の前足を浮かせて後ろ足だけでバランスをとって座っていたトウジは、突然そのバランスを崩して後ろにひっくり返った。

「ハンッ! いい気味だわ」
「す、鈴原っ、大丈夫!?」

 冷めたアスカとは対照的に、ヒカリが慌ててトウジの側に駆け寄る。
 トウジは頭を掻いていたおかげで後頭部打撲を免れたが、背中をしたたかに打ち付けたようだった。

「あたたた……おお、イタ。エラい目におうたわ」
「鈴原、大丈夫だった?」

 ヒカリが心配そうにトウジを助け起こす。

「大丈夫か、トウジ?」

 トウジを待っていたケンスケも横に寄ってきて、倒れたトウジを上から覗き込んでいた。

「ああ、頭打たへんかっただけマシや……」
「あたしのせいじゃないわよ。あんたが変な座り方してたのが悪いんじゃない」

 向こうからアスカが声をかける。
 アスカがこういう言い方をするときは、少し後ろめたい気分になっている証拠だった。
 それはヒカリにもトウジにも解っている。
 それに、これ以上言い合いをするとまたこじれるだけだ。

「ああ、わかっとるて。今のは不幸な事故や、事故」

 トウジはその一言でその場を治めた。彼にしては穏便な措置だったと言えよう。
 眠さと痛さでアスカの相手ができる状態ではないのかも知れないが。

「ほら、バカシンジ、帰るわよ。さっさと支度しなさい」

 アスカはシンジの方に向き直ると、腰に手を当ててそう言った。
 まるで出来の悪い弟を持ったお姉さんのよう。

「あ、うん……」

 シンジはのろのろと鞄の中に教科書の類を詰め始める。

「でもアスカ、碇君は今日から週番よ」

 トウジを助け起こして戻ってきたヒカリがそう告げた。
 アスカは意外にあっさりとシンジを待つことを諦めた。

「あっそ。じゃ、先に帰るわ。ヒカリ、行こ」
「あ、うん。じゃ、碇君、ゴミ捨てと机並べと黒板拭きと日誌と花瓶の水換えとお願いね」
「うん、わかった」
「トウジ、俺たちも帰ろうぜ」
「そやな。ほなセンセ、お先」
「じゃあな、シンジ」
「あ、うん、バイバイ」

 シンジは手を振って4人を見送ったが、そこで重大なことに気が付いた。
 慌ててみんなの後を追いかける。

「あっ、あの、委員長!」
「えっ、何?」

 教室を出たところでヒカリが振り返ってシンジを見た。
 その向こう側からアスカもシンジを見ている。
 なぜかケンスケやトウジまで立ち止まってシンジの方を見ていた。

「もう一人の週番は誰?」
「綾波さんよ」

 シンジが訊くと、ヒカリは即答した。さすが委員長。教室のことは全て把握している。

「綾波って……」

 シンジは教室の中に目を戻し、レイが座っている席の方を見た。
 外の4人も教室のその隅の方へ目をやる。
 そして5人はそのまま固まった。
 綾波レイは、まだ悠然と自分の席で眠っているのだった。

「……まだ寝てたの、あの子」
「ワシでもうるそうて起きたのに」
「授業中からずっとあの格好で寝てたぜ、彼女」
「相田君、授業中に何見てたのよ」
「…………」

 5人は口々にしゃべった。ちなみに、最後の絶句はシンジである。

「……どうしよう」
「どうしようって、起こすしかないじゃない。シンジが起こせばいいでしょ。同じ週番なんだから」

 困った様子のシンジに、アスカはニベもなくそう言い放った。
 普段からレイにからかわれていることに対する恨みつらみか。
 ちなみに、アスカは自分をからかうからと言って、レイのことが気に入らない訳ではない。
 むしろ、シンジに対する自分の気持ちを考え直すいいきっかけになった、と密かに感謝しているのである。
 もちろん、そのことを知っているのは相談を受けたヒカリくらいであるが。

「じゃ、あたしたち先に帰るから」
「碇君、後、お願いね」
「じゃな、シンジ」
「センセ、綾波とよろしゅうやっときや」

 4人はそう言い残して去っていった。
 最後のトウジの言葉の意味はよくわからなかったが、シンジは呆然としてそこ取り残されていた。

 やがてシンジは気を取り直して教室の中に戻る。
 机並べと黒板拭きくらいは一人でもできる。
 シンジはテキパキとそれらの仕事をこなしていった。
 それから花瓶の水を換えて教室に戻ってきたが、レイはまだ起きていなかった。
 ゴミ捨てに行って帰って来ても、まだ起きていない。
 仕方なく日誌を一人で書いたが、その間にもレイは起きなかった。

 熟睡している。
 先程のシンジよりも、さらに深く。

 日誌を書き終えると、シンジはレイの横の席に座ってレイが起きるのを待った。
 ここまでは一人でもできるのだが、日誌を担任に提出に行くときは、週番2人で行かなければならない。
 それは3年A組のローカルルールであったが。

「…………」

 シンジは無言のまま、レイの寝顔を眺めていた。
 その顔は無表情であったが、まるで彫刻か絵画の中にしか登場しない美少女のようだった。
 思わず見とれてしまう。

(可愛い……)

 心の中でそう呟いてみたりもする。
 シンジは横向きに座って机に片肘をつき、手の上に顔を載せてぼやっとレイの顔に見惚れていた。
 そして、彼女と初めて会ったときからのことを回想する。

 ……あの交差点でぶつかって綾波を見たときから、何となく惹かれるものがあったんだよな。
 僕らのクラスに転校してきて、最初はあの物言いにびっくりしたけど、おかげですぐにクラスに打ち解けて……
 それにあの件以来、すっかり僕らと仲良くなってしまった。
 3年になって離ればなれになるかと思ったら、偶然にもみんな一緒のクラスになって……
 あの時は、ホントにうれしかったな。

 そしてもう一つ、シンジの心に去来する想いがあった。

 綾波には時々アスカとの仲を冷やかされたりするけど、そんなとき僕は、どういう訳かアスカのことより綾波の方を意識してしまうんだ。
 どうしてなんだろう?
 
 シンジはレイの寝顔を見ながらじっと考えていた。

 綾波……やっぱり可愛いよな。
 いいな、寝顔も……もう少しこうして見てたいな。
 あれ、でも……

 そこでシンジはハタと疑問にぶつかる。

 そう言えば、アスカの寝顔見たことないな。
 小さいときならあるかも知れないけど、最近は……
 それに、見たいって思ったことも……あれ……

 そして疑問は収束する。

(どうして綾波の寝顔は見たいのに、アスカの寝顔は見たいと思わないの?)

 シンジはレイの安らかな寝顔を見ながら考え込んだ。



 夕暮れの少し涼しい風が、レイの頬を撫でた。
 そしてそれは乙女の安息の時間に終わりを告げる。
 レイの長い睫毛が揺れ、それからゆっくりとその目が見開かれていく。
 しかしその目はもう一度閉じられてしまった。
 だがレイは目を閉じたまま身体を起こし、机の上についていた腕を高く上に伸ばすと、うんと大きく伸びをした。
 しばらくそうして背筋を伸ばす。
 それから手を下に降ろし、ようやく目をぱっちりと見開いた。

「……あー、よく寝た……」

 それから眠そうに目をこすり、窓の外を眺める。
 そして外の世界が赤く染まっているのを知った。

(え……何……夕方? ……私……どうしたんだっけ……授業中に、寝て……夕方まで寝たの?)

「どっ……」

 レイの頭の中がようやく目覚めたらしい。そして現状を分析し始める。
 そう、6時間目の授業なんて聞く気無かったから寝ちゃって、それから……それから、夕方まで?

「どうして誰も起こしてくれないの……」

 アスカもヒカリも何と友達甲斐のないことか。
 私を放ったらかしにして帰るなんて……

「ホントにもう……しょうがない、帰ろ……」

 レイは一人でブツブツと呟くと、鞄の中に荷物を詰め始めた。
 それから席を立とうとしたとき、初めてそこに人がいることに気付く。

「あれ……って、碇君?」

(どうしてここに……寝てるの?)

 レイは隣の机でシンジが寝ていることにようやく気付いた。
 どうやら彼は考え事をしているうちに寝てしまったらしい。
 そしてレイは、机の上に置かれた週番日誌に気付く。

(週番……そうか、今日は私と碇君……って、じゃあ、私が起きるまで待とうとしてたってこと?)

 起こしてくれればいいじゃない、と思ったが、そこはそれ、起こさないのが彼一流の優しさであるということにレイは気付いた。
 そして、待ちくたびれて寝てしまったのかも知れない。

(もしかして……私の寝顔、見てたのかな……)

 シンジの顔の角度からすれば、きっとそうなのに違いない。
 寝顔を見られるなんて結構恥ずかしいことだが、その時どういう訳かレイはシンジになら見られてもいいと思っていた。

(どうしてそんなこと思うのかな、私……)

 そして席を立つと、シンジの座る机の横にしゃがみ込み、その寝顔を眺める。

(うん……結構可愛いじゃない、碇君の寝顔……)

 シンジの顔は少しだけ微笑んでいた。

「……私の寝顔見て、うれしかった?」

 レイは口に出してそう言ってみたが、シンジは答える気配がない。
 それほどまでに熟睡しているのだろうか。さっきの自分のように。

「うれしかったのなら……許してあげる。だから……」

(もう少し、碇君の寝顔、見てていい?)

 そしてレイは、自分が何となく幸せな気分に浸っていることを感じていた。

 暫し、時間は流れた。

 しかし、教室に夕闇が迫っていることにもレイは気付く。
 そろそろ帰らないといけない。
 だいたい、週番日誌を提出しなければいけないのだ。
 時計を見ると、授業が終わってから既に1時間半が経過しようとしていた。
 心配して教室を見に来ない担任も担任だが……ミサト先生ではしょうがないだろう。
 きっと理科室にでも入り浸ってリツコ先生と話し込んでいるに違いない。
 ともあれ、碇君を起こさなければ……

(うーん、どうやって起こそうかな……アスカはいつもどうしてるのかしら?)

 本当かどうかは知らないが、アスカは毎朝シンジを起こしに行っているらしい。
 シンジが否定しないのでたぶん本当なのだろうが、その時はどうやって起こしているのだろう?
 まさか、新婚家庭みたいにお目覚めの……をしてるんだろうか。
 そう考えると……

(どうしてこんな複雑な気持ちになるの、私……)

 だが気を取り直して、レイはシンジの頬の辺りに顔を寄せる。

「碇君……」

 レイはシンジの耳元で小さな声でそう囁いた。
 シンジの身体が少しだけ反応を示す。

「碇君、起きて……」

 もう一度囁くと、シンジは声にならない声でうめいた。
 その表情の変化が可愛らしい。

(これって結構楽しい……)

 レイは人を起こすことの意外な面白さに目覚めていた。

「碇君、起きて……」

 もう一度囁くと、シンジは「うーん」と一言うめき、それからゆっくりと身体を起こすとパチパチと目を瞬かせた。
 そしてすぐ横で自分を見ているレイに気付くと、少しびっくりしたようだったが、すぐに微笑んでみせた。

「あ、綾波、起きた?」

 そう言ってシンジはニコニコと笑っている。

「起きた、じゃないわよ。碇君が寝てたんじゃない」

 レイは少しあきれた風に口を利いてみたが、シンジは相変わらず笑顔を崩さなかった。

「え、でも、綾波が寝てたし……」
「起こしてくれればいいじゃない」
「うん、でも、あんまり気持ちよさそうに寝てたから……」
「寝顔、見たのね?」
「え?」

 レイが悪戯っぽく笑ってそう言うと、シンジは急に驚いた表情になる。
 うん、こっちの方が碇君らしくていいな。レイはそう思った。寝顔も良かったけど……

「乙女の寝顔、見たんでしょ。ダメよ、高くつくわよ」
「高くって……」
「まあ、寝てたのは私のせいでもあるから、今日のところは甘味屋の抹茶アイスってところで許してあげるかな」
「そ、そんなのって……」
「だ・か・ら、乙女の寝顔を盗み見した罪は重いのよ」
「…………」

 シンジはあっさり降伏した。
 確かに、レイの寝顔に見とれていたのは間違いないのだから。
 しかし、それをビデオに撮っていた某など、その事実を知られたらどうなるのだろうか。

「さ、早く日誌出しに行きましょうよ。ミサト先生、待ちくたびれてるわよ」
「え、もうそんな時間?」
「何、言ってるのよ。外、見てよ、夕方よ、夕方」
「え? あーっ!」

 シンジはその時になって、初めて世界を染める夕焼けに気が付いた。

「ホントにもう、どのくらい私の寝顔に見とれてたの?」
「え、いや、その……そ、そんなに長く見てないよ。10分くらい、かな……」

(何だ、そんなに短かったの……)

 じゃあ、二人して教室で1時間以上も寝てたってことなの。何だかバカみたい。
 どうせならもっと見とれてくれてたら良かったのに……

「そのくらい見れば充分でしょ。さ、早く行こうよ。早くしないと抹茶アイス売り切れちゃう。あれ、おいしくて人気があるんだから」
「あ、うん……」

 そしてレイとシンジは日誌を持って教室を後にした。
 案の定、職員室にはミサトはいなかった。
 そこで理科室に行ったところ、思った通りミサトはコーヒーを飲みながらリツコとだべっていた。
 二人が入った瞬間、会話が途切れたのが気になったが。

「すいませーん、日誌遅くなりましたぁー」

 レイがそう言って日誌をミサトに渡す。

「あ、はいはい、ごくろーさま」

 ミサトはそれを受け取って机の上に置くと、フフンと笑いながら二人の方を見て言った。

「遅かったじゃない。何してたの?」
「え、いやその……」

 シンジが言い淀むと、レイがクスッと笑いながら軽くジョークを飛ばす。ただし、シンジにとっては軽くない。

「もぉ、先生ったらー、放課後の教室で二人っきりで愛を語り合ってたに決まってるじゃないですかぁー」
「あらー、そうだったの。ごめんなさいねー、気が利かなくて」

 そう言って二人はホホと笑いあった。
 リツコは穏やかな笑みを浮かべながらその話を聞いている。
 シンジだけが一人で焦っていた。

「そそそそんなことしてませんって……あああ綾波も何言うんだよっ」
「あら、碇君、私のこと嫌いなの? 悲しいわ、うるうる……」

 レイはシンジの方に振り返って胸の前で手を合わせ、シンジを上目遣いに見つめてみせた。
 その瞳は気のせいか本当に潤んでいるように見える。実はそれはレイの特技なのだったが。

「あっ、いやっ、そのっ、そうじゃなくて……」

 女の武器を使われてしまったシンジはオロオロとうろたえるばかり。

「いーじゃない、シンちゃん、若いってことはいいことよ」

 ミサトのその言葉は意味不明であった。

「だだだだから……」

 なおも弁解を続けようとするシンジに、ミサトはククッと笑いながら肩すかしを食らわせる。

「わーかったから、もうお帰りなさいって。はいはい、二人ともご苦労さまでしたー」
「はーい、それじゃ、失礼しまぁーす。碇君、行こ」
「…………」

 レイは元気よく挨拶すると、絶句するシンジの袖を引っ張って理科室を出た。
 ドアが閉まり、足音が消え去ったところで、リツコがミサトに声をかける。

「ホントにあなたも悪い趣味をしてるわね」
「いーじゃない、面白かったんだから。 あんまり遅いから教室見に行ったら、二人して隣どうしに座って寝てるんだもん」
「起こしてあげればいいじゃない」
「そうしないのがいいのよ……それにシンジ君ったら、レイの寝顔に見とれながら寝てるんだから。 あー、こういう時って、教師やってて良かったって思うのよねー」
「だから、覗きが悪い趣味だって言ってるのよ」
「それも教師の特権の一つよ。監視の意味も含まれてるしさ。教室で不純異性交遊されるよりはいいじゃない」
「あなたね……」

 リツコは友人の悪癖に呆れ果てたのか、少し冷めかけたコーヒーを飲み干すと、ふうっとため息をついた。
 そう言うリツコも、他人のことを言えた義理ではない。
 自分の担任する教室には、隠しカメラを仕掛けて理科室から監視しているのだから。



「碇君、ごちそうさまでしたー」
「あ、うん……」

 レイのお愛想笑いに、シンジは力無く笑って答えるしかなかった。
 甘味屋を出て歩き始めたが、足取りが重い。財布が軽くなったせいかもしれない。
 まさか、抹茶アイスのダブルにハーブティーまで付けさせられるとは思ってもみなかったのだから。
 しかし、レイの笑顔には勝てないシンジなのだった。
 ちなみに彼自身はアイス緑茶だけで我慢したのである。

「ところでさ」
「え、何?」

 しばらく歩いたところで、レイが声をかけてきた。
 今月の残りの小遣いを懐勘定していたシンジは、急に話しかけられて慌てた。

「碇君って、毎朝アスカに起こしてもらってるんでしょ?」
「あ、うん……」

 シンジはあっさりと認めた。
 今更否定してもしょうがない。仲間内には公然の秘密である。
 もっとも、他のクラスでは知らない者が殆どだったが。

「どんな風にして起こしてもらうの?」
「えっ、どんな風にって、別に……ただ、普通に、起きろって言われるだけで……」
「ふーん、じゃあ、『起きなさいよ、バカシンジ!』って感じ?」
「あ、うん、そんな感じだね」

 レイがアスカの口真似をしてみせたので、シンジは思わず笑ってしまった。
 よく似てる。そう、いつもこんな起こされ方してるよな。

「そうなの。じゃあ、お目覚めのキスとかしてるんじゃないんだ」
「えっ、ししししないよ、そんなこと……」

 シンジがまたうろたえる。
 レイはそんなシンジの表情を見るのが面白くてたまらないのだった。
 ついついからかってしまう。

「ホントに? たまにはするんじゃないの? 『あなたぁ、起きてぇ〜ん』とか……」
「ななな何てこと言うんだよ。しないよ、ホントに……」

 シンジは顔に出やすい。
 キスしてるのがホントだったら照れて真っ赤になってるだろう。
 今は顔が赤いけどそれほどでもないから、きっとキスはしてないのに違いない。

(ちょっと……ホッとした……)

「ふーん、じゃ、信用してあげる」
「う、うん……」
「ま、証拠もないしね」
「う……だから、ホントに……」
「それよりさ」
「えっ、何?」

 いつの間にか、別れ道の所まで来ていた。
 レイはピョンと飛んでシンジの前に回り込んだ。そしてシンジの方を向く。
 シンジが立ち止まる。
 レイはシンジの顔を上目遣いに見つめながら言った。
 だいぶ陽が落ちていて、表情がはっきり見えないが、きっとレイは笑っているのに違いない。

「さっきの私の起こし方、どうだった?」
「えっ、どうって……」
「だから、アスカのと比べてどう?」
「あ、うん……」

 シンジは、レイに見つめられてドキドキしていた。
 紅い瞳は、夕闇の中でも美しく輝いていた。

「アスカのよりは、いいかな……」
「ホントに?」
「う、うん……」
「……それとも、お目覚めのキスの方が良かった?」
「そ、そんな……」
「……キスされるの、いや?」

 レイの顔が、少し近づいてきた。
 その目は……笑ってない……

「そ、そうじゃなくて……」
「そう、じゃあ……」

 レイの顔が急に近づいてきたかと思うと、ふっと視界から消え、次の瞬間、シンジは左の頬に温かな感触を感じていた。

「あ、綾波……」

 レイはシンジに答えず、一歩後ろに飛び退くと、シンジの顔をじっと見つめながら言った。

「今のは……私が寝ちゃって、待たせたことのお詫び」
「え……」
「じゃ、また明日ね」

 レイはそう言うと、雲雀のように軽やかに身を翻し、シンジに手を振りながら走り去って行った。

「あ、綾波!」

 シンジが呼ぶと、レイは立ち止まってくるっと振り返り、口の前に手でメガホンを作って言った。

「今日はごちそうさま。じゃあね!」
「あ、綾波……」

 レイはそう言ってまた向こうの方に走って行った。
 シンジは、小さくなっていくレイの後ろ姿をぼーっと見ながら考えていた。

(ごちそうさま、って……それは、こっちのセリフじゃ……)



 その日、家に帰ったシンジが、遅くなった理由をアスカにさんざん追及されたのは言うまでもない……



新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

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Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions