『何を恐れるの?』

あなた、誰?

心。
ヒトの持つ感情。
形のないもの。
目に見えないもの。
私の心。
私という容れ物。

心が揺れる。
心が騒ぐ。
心が不安になる。
何? この気持ち。
何か、近付いてくる。

ぼんやりしたもの。
言葉で表せないもの。
でも、
私の知っている何か。
私の知っているもの。

心。
ヒトの心。
私と違う心。
私と違うヒト。
私の知っているヒト。
あなた、誰?

『何を恐れるの?』

私の知らない心……




後日談 其の六

視線、彷徨う時




 かつてはこの国にも四季があった。
 そして今頃の季節にはこの国を象徴する花が咲いていた。
 人はその花が咲くを眺めては飲み、散るを嘆いては飲んだ。
 散り行く姿さえ愛でられ、数々の歌にまで詠まれた花は他にない。

 桜。
 この国の心を映す花。
 だが、その花がこの地で咲くことはもはやないだろう。
 春という時が失われた今となっては。

 だが、かつての慣習が、未だ暦どおりに行われていることも多い。
 4月は未だに年度の始まりになっていた。
 学校の春休みは進学準備休暇と名を変えたが、3月の終わりから4月の初めにかけて休みになる制度はまだ残っていた。
 まるでかつてあった季節の名残をとどめ、忘れないでおこうとするかのように。
 マヤがシンジたちに一通の手紙を持って来たのは、その休みに入って一週間ほど経った日のことだった。

「明後日……ですか? ずいぶん急ですね」
「そう? その手紙が来たのは3日ほど前だったけど、準備には2日もあれば充分だと思って……ごめんなさい、一言電話しておくべきだったかしら」
「あ、いえ、そうじゃなくて……もう日本には戻ってこないと思ってたから……」

 レイの部屋のダイニングで昼食を摂った後、3人はマヤが持ってきた手紙を見ながら話し合っていた。
 手紙、といっても、文章らしいことは書いていなくて、日付と時間らしき数字、『TX3』という暗号のような3文字、それに『Komm!』と走り書きしてあるだけだった。
 エアメールで、発信地はドイツのハンブルク、差出人は……『S.A.Langley』。
 今は総務課にいるミサトを経由してマヤに手渡され、シンジのところに着いたのだった。

「これとは別に電話連絡があったらしいわ。向こうは手続きが遅れていて、ようやく出国許可が降りたから、早速来てみたくなったんだって。学校はお休みだから、迎えに行けるわよね?」
「あ、はい……綾波も、いいよね?」

 シンジは横に座っているレイの方を見ながら訊いてみた。
 レイは先程からずっと黙ってシンジとマヤの話を聞いていたが、問いかけられてシンジの方を見ると、しばらく考えてから小さく頷いた。
 それからまた口を閉ざし、テーブルの上の皿を見つめていた。
 マヤはレイの方をちらりと見てから、またシンジに話しかけた。

「こっちを朝出ても間に合うと思うけど、早起きするのが大変なら前の日に来て私のマンションに泊めてあげてもいいわよ。引っ越ししたばかりで、ちらかってるけど」
「あ、いえ、別にそこまでしてもらわなくても……休みに入ってからもいつもどおり起きてますから、間に合いますよ。大丈夫です」
「そう? 別に気を使う必要なんて、ないのに」

 マヤはそう言ってシンジとレイを見ながらニコニコ笑っている。
 つい最近、地上の仮設宿舎を出て強羅の新築マンションに引っ越したマヤとしては、2DKの新居を他人に見せるのが嬉しかったのかもしれない。
 先週来たときもその話ばかりしていたくらいだったから。
 特にお気に入りなのはバスルームで、湯船が広くてゆったりしていて、毎日入るのが楽しみなくらい、などとさかんに自慢していた。

「いえ、別に気を使ってるわけじゃ……それに、着替えを持っていくと荷物になりますから」
「そういえば、そうね。じゃあ、また次の機会にでも……」
「はあ……」

 NERVの内規では同僚以外を極力自宅に入れないこと、となっているはずだが……
 シンジたちが既に関係者ではないことを、マヤはすっかり忘れているらしい。

「じゃあ、そういうことで、よろしくお願いね。こっちの方にも来たいって言ってたらしいし」
「わかりました」
「それじゃ、後片付けしましょうか」
「あ、はい」
「そうそう、レイちゃん、マッシュポテトとニンジンのサラダ、美味しかったわよ。ドレッシング作るの、上手になったわね」
「……はい……」

 マヤに呼びかけられたレイはふと顔を上げて短く答えたが、表情に変化はなかった。
 何かを憂うようなその表情に、シンジは皿を片付けるのも忘れてぼんやりと眺めいっていた。



 その日、シンジとレイは新横須賀方面へ向かう列車に乗っていた。
 通路側に座ったシンジはSDATから流れてくる音楽に耳を傾けながら、時折レイの方を見遣っていた。
 レイは持ってきた本を読みもせず手に持ったまま、ただ窓の外を眺めていた。
 その横顔には、一昨日見た物憂げな表情が浮かんでいる。
 窓ガラスに映った瞳の色は、どこか寂しげだった。

(どうしたんだろう……綾波……)

 手紙の話をした時からレイの様子が少し変わったのを、シンジは何となく感じていた。
 何か、気になることがあるんだろうか。
 もしかして、まだ……

「あの……綾波?」

 シンジはSDATのイヤホンを外すと、レイに話しかけた。
 レイはシンジの方にすっと顔を向けると、小さな声で答えた。

「……何?……」
「あの……心配なの?」
「……何が?……」
「その……今日のこと」

 シンジが訊くと、レイは一瞬視線を下げ、再びシンジの方を見上げながら答えた。

「……いいえ……」
「そう……でも、一昨日から何だか変だよ、綾波……」

 シンジは思ったままを言ってみた。
 レイの表情がどことなくはっきりしない。
 まるで、夢を見ているかのようだ。
 レイは目を伏せて黙っていたが、しばらくして呟くように言った。

「……彼女……」
「えっ?」
「……あの人……なぜ、帰ってくるの?」
「さあ、それは……」

 シンジはそう言いかけたまま黙ってしまった。
 なぜ帰ってくるのか僕に訊かれても……
 そんなこと、僕だって訊きたいくらいだ。
 でも、綾波はそのことで何かを気にしてるんだ。
 ……何か、不安なのかな。
 確かに、あれはあんまりいい別れ方じゃなかったからかもしれないけど……

「それは……僕にもわからないけど、でも……」
「…………」

 レイは無言のまま顔を上げてシンジの方を見た。
 その瞳は言葉にならない何かを訴えているような気がした。
 でも、わかる気がするから……
 アスカが来ることで、何かが変わることを心配してる、そんな気がするから……

「……僕は、綾波と一緒にいるから……」
「…………」

 自分にできることはそれくらいだけど、でも……
 ……綾波がそのことを気にしている感じがするから……
 それに僕は、そうするって決めたんだから……
 レイはじっとシンジの方を見ていたが、やがて黙って頷いた。
 表情は変わらないものの、その雰囲気が何か少し変わったような気が、シンジにはした。

「大丈夫だよ。きっと……」
「……うん……」

 レイが微かな声でそう答えた。
 僅かに、表情が緩んだように見えた。



 『TX3』とは第3新東京国際空港のことだと、マヤが教えてくれた。
 シンジとレイは、その到着ロビーに来ていた。
 空港は新横須賀の沖合を埋め立てた人工島にある。
 第3新東京市の壊滅のあおりを受けて民間便の発着が激減し、貨物便がほとんどになったせいもあって、ロビーは閑散としていて人影も少ない。
 殺風景なその景色は、病院の待合室をシンジに思い起こさせた。
 店もあらかた閉まっているとあらかじめ聞いていたので、昼食は駅の近くで済ませてきてある。
 二人は待合所のレザーの長椅子に並んで座り、シンジは相変わらずSDATを、レイは本を読みふけり、ただ静かに約束の時間を待っていた。

「……あれかな?」

 シンジの声に、レイも窓の外を見上げた。
 今では週に一便しか飛んでいないというルフトハンザ機が上空を旋回している。
 定刻よりやや遅れているようだ。

「……来たね」
「……ええ……」

 上空の飛行機を見つめるレイを、シンジは見ていた。
 そしてその瞳に、何かの思いが秘められているのを感じていた。
 ……やっぱり、僕のせいだ。
 あの時、怒って帰らせたことを、気にしてるんだろうな。
 何とかしなきゃ……

「綾波、その……」
「……何?……」

 レイはシンジの方を見たが、すぐに視線を下に落とした。
 そして……じっと見ていた。膝に置いた自分の手に、シンジの手が重ねられているのを。
 それからまた視線をシンジの方に戻す。
 シンジの言葉を待つように、シンジの目をじっと見つめた。

「大丈夫だから……」
「……うん……」

 レイがぎこちなく微笑もうとしているのが、シンジにはわかった。



「……遅いね」
「……ええ……」

 飛行機が到着してから、もう20分以上経っている。
 荷物待ちや入国手続きの時間を考えても、そろそろ出てきてもいいはずだった。
 現に、その後に到着した国内線の客が既に出てきているのだから……

 ひょっとして、乗っていなかったのだろうか?
 しかし、そうなればマヤから連絡くらい入るはずだ。
 ちゃんと携帯電話も持ってきているのだが、鳴りそうな気配もない。
 何か行き違いでもあったのかも……
 シンジが立ち上がって到着口の方を見に行こうとした、その時だった。

「バカシンジ!」
「えっ!」

 かつてよく聞いた声が、広いロビーに響いた。
 振り返ると、そこにかつてよく見た赤毛の少女が立っていた。
 丸い襟の付いたノースリーブのブラウスと、藤色のフレアスカート。
 スカートと揃いの色のブレザーを腕に掛け、その腕を腰に当てて。
 目つきも鋭く、明らかに『怒るわよ』のパフォーマンスだ。
 その剣幕に、シンジはたじたじとなりながらも声を発した。

「ア、アスカ、もう来てたんだ……」
「来てたんだ、じゃないわよ! 何やってんのよ、こんなところで」
「何って……ここで出迎えろっていうことじゃなかったの?」

 そうじゃないのなら、もっとわかりやすい手紙書いてくれればいいのに……
 『バカ』と言われたのは久しぶりなのに、シンジは少しうんざりしていた。

「出迎えに来たのは褒めてあげるわ」
「じゃ、何がいけないんだよ」
「ああ、もう、そこがバカシンジだって言うのよ。抜けてると言うか何と言うか……」
「……そんなにバカバカ言わなくても……」
「バカだから、バカって言ってんのよ!」
「だから、何が……」

 シンジがムッとしながらそう言いかけると、アスカはキッとシンジを睨みながら言い放った。

「もう、バカシンジ! ここは『国内線』の到着ロビーよ!」
「……え?」



「やあ、シンジ君、僕を迎えに来てくれたのかい」
「カヲル君!」

 アスカにさんざん罵倒されながらシンジが一つ上の階の国際線到着ロビーに来てみると、そこには銀色の髪の少年が立っていた。
 以前のようににこやかに微笑みながら。
 シンジが歩み寄ると、カヲルは鷹揚に両手を広げて見せた。

「カヲル君も来てたの?」
「ああ、彼女の随伴でね」
「えっ、じゃあ、ドイツから?」
「そうだ、シンジ君には言ってなかったね。僕はドイツ支部の所属ということになってるんだ」

 そういえば……とシンジは思い出していた。
 人類補完委員会とか、ゼーレとかの話を、ミサトから聞いたことがあった。
 それらの本部はドイツにあるということだったので、『委員会から送られてきた少年』であるカヲルはドイツ支部の所属なのかもしれない。
 しかし、カヲル君も一緒に来るとは意外だったな……

「アスカ、どうして言ってくれなかったの?」

 シンジが訊くと、アスカはそっぽを向きながら言った。

「……どうでもいいじゃない、そんなこと。それより、荷物運んで」
「何で僕が……」
「長旅してきた客に、荷物運ばせるつもり?」
「……わかったよ」
「カートに乗ってるんだから、軽いもんでしょ。それに、そこの宅配便カウンターまででいいんだから、楽勝じゃない」
「…………」

 楽じゃないよ、これは……
 カートに山と積み上げられたバッグを見ながら、シンジは絶句していた。
 よくこれだけ飛行機に積み込めたな……
 一体、何日間滞在するつもりなの?

「シンジ君、僕が手伝うよ」
「あ、う、うん、ありがとう……」
「お安い御用さ。いつものことだからね」
「カヲル君もこんなことさせられてるの?」
「ああ、まあね。彼女は、病人だったから」

 そう言ってカヲルは、カートの左側に手をかけた。
 シンジは右側に立って、カヲルと共にカートを押し始めた。
 その二人を後ろから見ながら、アスカはレイと並んで歩いていた。
 だが、視線は合わさない。無論、レイも。
 しばらくしてから、アスカはちらりとレイを横目で見た後で話しかけた。

「珍しいわね、あんたがそんな服着るなんて」
「…………」
「誰に買ってもらったの? シンジ?」
「…………」

 レイが着ていたのは、セーラーカラーの付いた薄い青のブラウス。
 それに裾が広めの紺のキュロット。
 先週、マヤが見立てて買ったものだ。

「違うわよね。シンジがこんなセンスあるわけないもん」
「…………」
「どう、シンジとはうまくいってる?」
「……何が?……」
「何がって……相変わらず、話しにくい子ね、あんたって」

 アスカはレイの返事を聞いて、ハアッとため息をついた。
 ちょっとは変わったかと思ったら、全然前のまんまじゃない。
 シンジと一緒に第2東京で暮らしてるって聞いたけど、何にも教育してないのかしら、シンジの奴。
 アスカは少しレイの方に顔を向けるようにして言った。

「そういう返事をするところを見ると、ちっとも進んでないみたいね」
「……何が?……」
「わからなけりゃ、いいわよ。答えなくて」

 アスカはまた顔を正面に向けると、黙々と歩き続けた。
 ……あんたに訊いたって、どうせ要領を得ない答えしか返ってこないもの。
 いいわよ、後でシンジに訊くから……



「アスカ、どこに行くつもりなの?」

 空港連絡線から降りて、箱根リニアに乗り換えようとしたアスカに、シンジは訊いた。
 先程、荷物を第2東京に送るようなことを言っていたから、このままそちらに向かうかと思ったのに……

「ちょっとね、第3新東京を見に行こうと思って」
「第3新東京?」

 どうして? 何のために?
 シンジは不思議に思って聞き返したが、アスカは振り返ろうともせずにずんずんと歩いていく。

「そ。あんたも、付き合いなさい」
「……でも、第3新東京市はもう無いよ」
「わかってるわよ! その跡地がどうなったか、見に行くだけじゃない」
「じゃ、そのためにこっちの空港に来たの?」
「そうよ」

 アスカはそう言いながらさっさとリニアに乗り込んでしまった。
 第2新東京の空港を使わなかったのは、そのせいか……
 シンジはそんなことを考えながらアスカの背中を黙って見送っていたが、ふと後ろを振り返る。
 そこには、カヲルがいつもの優しい微笑みをたたえて立っていた。
 そして、その後ろにはレイが、幾分複雑な表情を浮かべてシンジを見ている。

「僕も、見に行ってみたいな。いいだろう? シンジ君も一緒に」
「あ、う、うん……別に、僕は構わないけど……」

 カヲルの言葉にシンジは頷くと、レイの方をちらりと見た。
 だが、レイは表情を変えることなくシンジを見つめたままだった。
 いや、正確には、その視線はシンジを通り越して……その先を見ていた。
 綾波……どうしよう?

「あの、綾波……」

 シンジが声をかけると、レイはふっと我に返ったように、シンジの方に焦点を合わせた。
 別に、嫌じゃないよな、綾波も……

「ちょっとだけ……僕らも、見て行こうよ」

 シンジの言葉に、レイは素直に頷いた。
 と、ホームに発車ベルが鳴り響いた。

「じゃ……行こうか」

 そう言ってシンジが歩き出すと、すぐ後ろにカヲルが続いた。
 レイはまだそこに立ち止まっていたが、シンジの姿が列車の中に消えるのを見てから、後を追って列車に乗り込んだ。
 間髪を入れず扉が閉まり、リニアは箱根に向けて滑り出した。



 リニアの路線が復旧しているのはまだ強羅までだった。
 そこから先、旧第3新東京まではバスに乗らなければ行けない。
 だが、アスカはここからロープウェーに乗ることを提案した。
 山の上から跡地を見渡そうと言い出したのだ。
 見に行きたいと言ったのはアスカだから、シンジたちが積極的に反対する理由もなかった。
 所要時間にしてわずか10分ほどで、ロープウェーは山頂に着いた。
 芦ノ湖畔にぽっかりと空いた巨大な穴を見ようと、一時は観光客が押し寄せたらしいが、今はそれほどでもないようだ。

「へえー、穴、ふさがりかけてるじゃない」
「ほんとだ。あんなに小さくなってる」

 展望台の柵にもたれて遙か眼下に広がる光景を見ながら、アスカとシンジは口々に言い合った。
 ジオフロントの天蓋に当たる部分に空いた穴は、以前と比べてかなりその口径を縮めていた。
 穴の周りを大型のクレーンが囲んでいるのが見える。
 もう一度、地下空間を作り出そうということなのだろうか。
 カヲルとレイも、黙ってその様子を見下ろしていた。
 下界よりも少し冷たい風が4人の周りを吹き抜けていく。

「また上に街も作るのかしら」
「さあ……それは知らないけど」
「でも、NERV自体は何か別の組織になって残るんでしょ」
「うん、そうみたいだね」
「じゃあ、疎開してる人が帰ってくるための街が要るじゃない」
「……そうかも」

 シンジはアスカの言葉を聞きながらぼんやりと考え込んでいた。
 そうか、みんなここに街ができたら帰って来るかもしれないんだ……
 トウジも、ケンスケも、委員長も……
 けど、僕らは……
 ……帰れないんだろうな、やっぱり。

 でも、帰ってどうするんだ?
 シンジは思った。
 ここに帰って来たって、僕は何もすることがないじゃないか。
 もうここには僕を必要としている人はいない。
 だから、僕はここに帰れない……

 いや、違う。

 帰らなくていいんだ。
 僕はここにいなくてもいい。
 他のどこにいてもいい。どこにでもいられるんだ。
 僕のいたいところが、僕の居場所だから……

 ふと、横に目を遣る。
 アスカが柵に頬杖をつくようにして第3新東京市跡を見つめていた。
 赤い髪が、風になびいて揺れている。
 その青い瞳は、どこか愁いを帯びていた。

 反対側を見ると、レイが立っていた。
 レイもまた柵に手をかけ、湖の方を見下ろしている。
 その視線はかつて自分が住んでいた辺りを見ているのだろうか。
 吹き付ける風が蒼い髪を揺らし、柔らかな毛先が頬を撫でていた。
 そしてレイもまた、何かを想う赤い瞳で戦禍の跡を見ていた。

 シンジも再びジオフロントの方に目を戻す。
 ……やっぱりみんな、何となく懐かしいのかな……
 僕らが住んでいた町。僕らが戦った街。僕らが守った街。
 その街はもう無いけれど、何も残ってないけれど、でもやっぱり何か……
 何かを僕らに与えてくれたんだ、この街は……

「さぁーて、そろそろ降りよっか」

 アスカが頬杖をやめ、両手で柵を握って身体を伸ばしながら言った。

「もう降りるの?」
「もう充分見たじゃない。このまま見続けてても、仕方ないでしょ」
「それはそうだけど……」
「さて、行くわよ」

 アスカはそういうと先頭に立ってロープウェーの駅の方に歩き始めた。
 シンジがカヲルの方を見ると、カヲルは肩をすくめて見せた。
 レイも下を見るのをやめて、シンジの方を見ている。
 シンジが頷いて見せると、レイも頷き、3人はアスカに続いて歩き始めた。
 しかし、ロープウェーの駅に入りかけたところでアスカは立ち止まって振り返った。

「どうしたの? アスカ」
「シンジ、ちょっと来て」
「えっ、どうして?」
「いいから、来なさいよっ!」

 アスカはそう言いながらシンジの手をむんずと掴み、また展望台の方へ歩き始めた。
 それから振り返ってレイとカヲルの方を見ながら言った。

「渚、あんたそこで待ってなさい。それから、ファーストも」
「ああ、わかったよ」
「……なぜ?……」

 カヲルは平然として答えたが、レイは僅かに気色ばんで言葉を放った。
 そして連れ去られるシンジを見て追いかけようとしたレイの手を、カヲルが掴んで止めた。
 レイはさっと振り返り、カヲルの方を冷たい視線で見ている。

「シンジ君のことが心配かい?」
「…………」

 カヲルのその質問に、レイは答えなかった。
 レイの瞳をじっと見つめるようにして、カヲルは言葉を続けた。

「大丈夫さ。シンジ君を信用していればいいんだよ」
「…………」

 レイはまた無言だった。
 それからまた振り返ると、展望台に向かうシンジとアスカをじっと目で追っていた。
 カヲルが手を離しても、レイはその場を動こうとはしなかった。



Extra Episode #6

first's first & third's third




(前にもこんなことがあったな……)

 シンジは思い出していた。
 病院で、無理矢理アスカに部屋から連れ出された。
 そして、あの時は……
 まさか、またあんなことされるんじゃ……
 展望台に着くと、アスカがようやくシンジの腕を放した。

「ファーストとは、うまくいってるの?」

 不安そうな顔をしているシンジに言ったアスカの最初の言葉がこれだった。
 シンジはその真意をはかりかねて、二度ほど瞬きをした。

「うまくって……何が?」
「……ったく、あんたたちはこれだから……」

 シンジの答えにアスカは横を向きながらぶつぶつと言うと、ハアッとため息をついた。
 そして腕を組んで身を乗り出すようにして言った。

「ちゃんと仲良くできてるのかって話よ」
「ああ、それなら……何とかうまくやってるよ」
「ふーん、同じ部屋に住んでるからかしらねー」
「ち、違うよ!」

 思わず大きな声になってしまうシンジ。
 慌てて声の音量を絞り、ボソボソと口ごもるようにして言った。

「……その、同じマンションの隣の部屋だってだけで……」

 ……きっと、ミサトさんだな。アスカにも同じようにしてあのこと言ったんだ。まったく、もう……
 シンジがそんなことを考えている間に、アスカはうつむき加減になって、シンジを斜め上に見上げながらぶつぶつと独り言を言っていた。

「……何よ、話が違うじゃない。それなら……」
「え? 何?」
「ううん、何でもないわ」

 アスカはそう言うと組んでいた腕を解き、また柵にもたれて芦ノ湖の方を見た。
 ……もう見飽きたんじゃなかったっけ。シンジは思った。
 そんなことより……ここに何しに来たんだろう?

「あの、アスカ、話って……」
「ねえ、シンジ」

 シンジが話しかけようとすると、アスカがそれを遮るようにして言った。
 顔は芦ノ湖の方に向けたままで。
 アスカの後ろ姿を見ながら、シンジは聞き返した。
 少し不安そうな声で。

「……何?」
「横に来て」
「う、うん……」
「こっち向いて」
「うん……」

 シンジは自分でもわからないままに、アスカの横に立ち、アスカの方に顔を向けていた。
 アスカはしばらく黙っていたが、つと顔を上げてくる。
 そのシンジを見る目は……いつか見たように、優しい目だった。
 その時のこと思い出して、シンジは鼓動が早くなるのが自分でわかった。
 そしてアスカの口がゆっくり開く。

「……キス、しよっか」
「……え?」

 シンジは自分の耳を疑った。
 ……ど、どうしてそういうことになるんだよ。
 これじゃ、あの時と一緒じゃないか……

「あ、あの、で、でも、どうして……」
「挨拶よ、挨拶。お別れの時にもしたじゃない。だから再会の挨拶」
「あ、挨拶って……で、でも、ここじゃ……」

 シンジは慌てて辺りをキョロキョロと見回した。
 しかし、次のロープウェーの発車が近付いていたせいか、さっきより人が減っているようだ。
 しかも、いつの間にか周りはカップルばかりになっている。
 ど、どうしよう……

「じゃ、行くわよ……」

 シンジが何もできないでいると、アスカの顔が近付いてきた。
 思わず目を閉じてしまう。
 頬に息がかかったような気がして、背筋が震えた。
 心臓が早鐘を打つように動いている。
 ダメだ、またキスしてしまう……

「……ファーストとは……」
「……えっ……」

 いよいよ唇が触れるかと思われたとき、アスカが囁くように言った。

「……もう何回したの?」
「そ、そんな……してないよ、キスなんて……」
「……はあ!?」

 途端に、アスカの声が急に大きくなった。
 耳の近くで大声を出されて、シンジは思わず目を開けた。
 目の前には呆れたように目を丸くしているアスカの顔があった。

「……シンジ、あんた……」
「えっ……」
「ほんとにまだなの?」
「まだって……」

 ……キス……だよな……

「……し、したことないよ、そんなの……だって、綾波とは……」
「……何よそれ、バッカみたい」

 しかし、アスカはシンジの言い分を聞き終わる前にそう言うと、くるりと振り返り、スタスタと歩き始めた。

「ちょ、ちょっと、アスカ……」

 シンジは慌ててアスカの後を追いかけた。
 しかし、今のはいったいどういうことなんだろう?
 ……なんで僕がバカみたいなんだ?
 考えれば考えるほど解らない。
 と、とにかく……
 シンジは歩きながら大きく息をついた。
 ……よかった……何もなくて……

「やあ、お帰り」

 ロープウェーの駅に戻ってくると、入り口のところに立っていたカヲルがそう声をかけてきた。
 アスカは知らん顔をして駅の中に入っていこうとしたが、すれ違いざま、カヲルが小さな声で言った。

「気は済んだかい?」
「ふーんだ」

 だがアスカは一言そう答えただけで、さっさとベンチに座ってしまう。
 一方のシンジは、レイの顔を見て、思わず視線を逸らしてしまった。
 まともにレイの顔を見ることができない。
 ロープウェーで山を降りていく間も、第2新東京に向かう列車の中でも、シンジはレイと視線を合わさなかった。
 レイはただ、シンジの横顔だけを見ていた。



「さあ、今夜はぱーっとやるわよ!」

 第2新東京に着くと、アスカは高らかにそう宣言した。
 列車の中でずっと寝ていたと思ったら、急に元気になったな……
 シンジは呆れながら訊いてみた。

「何を?」
「決まってんじゃん。アタシたちの歓迎パーティーよ」
「……どこで?」
「もっちろん、シンジの家よ」
「…………」
「ほら、ボケボケッとしてないで、案内しなさいよ」
「……はいはい」

 シンジはやれやれといった風に返事をすると、バス乗り場に向かって歩き始めた。
 手にはアスカのバッグを持っている。
 列車を降りるなり、無理矢理持たされたのだ。
 シンジが手ぶらだったのが理由らしい。

「済まないね、シンジ君。僕が持とうか?」

 カヲルが斜め後ろから話しかけてくる。
 シンジは首だけ振り返ると、笑顔を見せながら言った。

「いいよ。カヲル君だって、自分の荷物持ってるし。これくらいなら、軽いから……」

 カヲルは右肩にナップサックを背負っていた。
 持ってきた荷物のほとんどは空港から即日宅配便で送ってある。
 今日の宿泊先にはもう着いている頃だろう。
 そして、ふと気になって訊いてみた。

「カヲル君、今日はどこに泊まるの?」

 カヲルはシンジのすぐ横に並びかけると、ニコニコと笑いながら言った。

「どこがいいと思う?」
「え? 決めてないの?」
「シンジ君のところに、泊めてくれるかな?」
「いや、その……」

 部屋に泊めるのは別に問題ない。
 シンジも、カヲルの部屋に泊めてもらったことがあるのだから。
 お返し、というではなくても、シンジはカヲルなら泊めてもいいと思った。
 しかし……

「……あの……ほんとに、泊まるところ、決まってないの?」

 まさか、日本に来るのに、泊めるところを決めていないなんてことが……
 シンジがそう思って聞き返すと、カヲルは笑顔を崩すことなく答えた。

「冗談だよ、シンジ君。ちゃんと決まっているさ」

 それを聞いて、シンジはホッとしながらカヲルに話しかけた。

「びっくりさせないでよ。ほんとに決まってないのかと思った」
「ははは、済まないね。シンジ君の家に泊めてもらうのも悪くないんだけど、あんまり長くお世話になるのもまずいしね」

 カヲルはそう言ってまた嬉しそうに笑った。
 シンジも笑顔になりながら言葉を返す。

「結構長くこっちにいるの?」
「ああ、そうだね」
「どれくらい? 一週間?」
「うーん、まだはっきり決めてないんだ」
「そうなんだ。なるべく長くいられるといいね」
「ああ、そうだね。僕もできるだけ長くシンジ君といたいよ」

 そう言って屈託無く笑うカヲルを見ながら、シンジは何かしら安心感に包まれていた。
 いっそ、カヲル君もこっちに住めばいいのに……
 バスを待ちながら、シンジはそんなことを考えていた。



 途中で買い物を済ませ、マンションの前に帰ってきたのはちょうど日が暮れようとする頃だった。
 4人の子供たちの影が、長く地面に伸びている。
 アスカのバッグはいつのまに彼女の手に戻っていて、シンジの両手には買い物袋が提げられていた。
 袋には今日の『パーティー』の食材が詰め込まれている。
 アスカが肉ばかり選ぶので、シンジがレイのために野菜を買っておいたら、大荷物になってしまったのだ。

 マンションの入り口でレイがオートロックを外すと、自動ドアが開いた。
 住人以外がむやみに入れないための仕掛けだ。
 アスカ、カヲル、レイとドアをくぐり、最後にシンジが入ると、ちょうどドアが閉まった。
 エレベータに乗り、アスカが行き先階のボタンを押す。

「アスカ、4階だよ」

 アスカが5階のボタンを押したのを見て、シンジが声をかけた。

「あら、そう」

 アスカは素っ気なくそう言いながら、一つ下の階数ボタンを押す。
 エレベータのドアが閉まり、動き始めたと思うと、あっと言う間に4階に到着する。
 高速で揺れも少ない、リニアエレベータが採用されているおかげだ。
 ドアが開き、シンジとレイが降りても、アスカとカヲルはまだエレベータに乗ったままだった。
 不思議に思い、シンジは尋ねてみた。

「あの……僕の部屋、この階なんだけど……」
「そんなの、さっき聞いたわよ」

 しかし、アスカはそう言って平然としている。
 カヲルも相変わらず微笑みを絶やすことなく立っているだけだ。
 シンジはますますわからなくなりばかりだった。

「降りないの?」
「着替えてからまた来るわ」
「……着替えて?」

 閉まっていくドアの向こうで、アスカはさも当然とばかりに言い放った。

「アタシの部屋、この上の階だから」
「へっ!?」

 シンジは思わず声をあげていた。
 だがその時には既にドアは閉まり、エレベータは上に向かって動き始めていた。
 シンジはしばらく、閉まったドアを見つめたまま立ち尽くしていた。
 両手にビニール袋を提げながら。

「…………」

 シンジはまだ考えていた。
 この上の階だから……ということは、上にアスカとカヲル君の部屋がある。
 部屋があるということは、もしかして……
 しかし、今一つ納得がいかない。
 いったい、どういうことなんだろう?

(……どうも何か……話がずれてるような……)

 シンジは土曜日のマヤの言葉を思い出そうとしたが、はっきり思い出せなかった。
 確か、アスカは日本に遊びに来る、と言ったのではなかったのか?
 それとも、僕が早合点しただけ?

(……たぶん、そうなんだろうな……)

 ここに来るときのミサトさんの言葉といい、どうも僕は言葉にだまされやすい……
 もしかしたら今回のことも、ミサトさんの差し金だったんだろうか。
 まあ、どうでもいいや……
 あれこれと考えた後でゆっくりと振り返り、部屋の方に歩き出そうとしたとき、レイと目が合った。
 先程からずっとシンジを見つめていたようだ。
 昼のあの一件以来、初めて目を合わせたので、シンジは少し動揺していた。
 さすがに視線を外すこともできず、少し口ごもりながらレイに声をかける。

「あ、あの……部屋に、戻ろうよ……」
「…………」

 レイはシンジを見つめたまま黙って頷くと、踵を返して歩き始めた。
 シンジはレイの後ろについて歩きながら考えていた。
 ……このまま黙ってちゃ、ダメだ。
 言わなきゃ……昼間のこと。
 帰りに綾波のことをまともに見られなかったのは、そのせいなんだ。
 そう、僕の……僕のせいだから……

「あの……綾波……」

 自分の部屋の前まで来たとき、シンジはうつむき加減だった顔を上げ、意を決してレイに声をかけた。
 レイは3歩ほど先で立ち止まり、振り返ってシンジの方を見た。
 その瞳に、表情はなかった。

「あの……昼間のことなんだけど……」

 シンジは買い物袋をドアのところに置くと、レイの方に歩み寄っていった。
 昔は同じくらいだった背丈が、今はシンジの方が少し大きくなり、レイはシンジを見上げるように、シンジはレイを見下ろすようにして向かい合っていた。
 シンジは右手をぎゅっと握りしめると、レイの目を見ながら口を開いた。
 言わなきゃ……

「昼間の……アスカに呼ばれたときの、ことだけど……」
「…………」

 ……どうして昼間、アスカとキスなんてしそうになったんだろう。
 綾波は、アスカと最後に別れたときのことを思って、不安だったんじゃないか。
 僕が綾波を支えなきゃいけないのに、その僕が……アスカと二人きりで話しなんかして。
 綾波を放っておいた挙げ句にあんなことになって……その後綾波に声もかけず……
 ……ダメだ、こんなことじゃ。

「あの時は、その……」
「…………」
「少し、話をしただけで……」
「…………」
「別に、何も……」
「…………」

 シンジの言葉を、レイは黙って聞いていた。
 しかしシンジは、だんだんと責められているような気になりつつあった。
 無言の圧力……いや、違う
 これはたぶん、自分で自分を責める気持ちだ。
 例え、あれが『未遂』に終わったとしても、僕は責められなきゃならない。
 そう、綾波に何もしてあげられなかったから。
 けじめを……何か、けじめをつけなきゃ……
 綾波が、安心できるように……
 どうすれば……何か言葉を……それより、他に何か……

「……何も、なかったから……」
「……そう……」

 レイの唇が微かに動き、言葉が発せられた。
 その瞬間、シンジの視線はレイの口元に吸い寄せられていた。
 昼間の光景がフラッシュバックする。
 近付いてくるアスカの唇……そのイメージは、目の前にあるレイの唇へと入れ替わった。
 そこから目を離すことができない。
 優美なカーブを描くその形……遠い記憶にある花のように美しいその色……
 そして、しっとりと艶やかに輝いていて……
 シンジは息を飲んだ。
 くちびる……綾波の、唇……アスカの、唇……アスカとは……でも、まだ、綾波とは……

『ファーストとは、もう何回……』

 まだ……
 そうだ、だから、これから……
 それが……けじめ……

「綾波……」

 シンジは無意識のうちに声を出していた。
 そして、レイの両肩にそっと手を添える。
 レイの身体がピクリと震えた。
 シンジの目を見つめながら、囁くように声を出す。

「……何?……」

 シンジも、目の前のレイ以外誰も聞こえないような小さな声で言葉を返した。

「目、閉じて……」
「…………」

 なぜ? と訊かれるかと思ったのに……



 レイはまだ、シンジの部屋のドアの前に佇んでいた。
 シンジは既にドアの向こうに消えている。
 二人の顔が離れた後で、あわてふためいたように何やら口走りながら。

『ごっ、ごめんっ! そのっ……』
『…………』
『いやっ、だから、僕は、あ、あの……』
『…………』
『べ、別に、変な気持ちとかじゃなくて、その……』
『…………』
『あ、後で……後で、あの、せ、説明するから、あの……』
『…………』
『だ、だから、着替えたら……着替えたら、僕の部屋で……その、夕食……』
『…………』
『ご、ごめんっ! また後で!』

 そしてドアの側に置いてあった買い物袋をひっつかむと、転がるように部屋の中に駆け込んでいった。
 レイはただ無言でシンジを見送っていた。
 なぜシンジが、あんなに慌てているのかわからなかったから。

(……何?……今の……)

 そして、自分に何が起こったのかもわからなかった。
 いったい、何をされたのだろう?
 碇君に言われたとおりに目を閉じたら、何か柔らかい物で唇を塞がれた。
 どういうわけか……息ができなくなった。息をすることはできたはずなのに。
 苦しくなって目を開けたら、碇君の顔が目の前にあって……
 そうしたら碇君は慌てて飛び退いて……

 人工呼吸……いえ、違う……必要、ないもの。
 それなら、なぜ……それより……
 目を閉じるように言われたとき、少しも疑問に思わなかったのは、なぜ?
 唇を塞がれて息が苦しかったのに、不安にならなかったのは、なぜ?
 ……あの時、体温より温かい何かを感じたのは……なぜ?

(……何?……今の……)

 レイは手を口元に寄せ、人差し指で唇に触れてみた。
 先程の温かさが蘇ってくる。
 それから手を離し、唇に触れた指先をじっと見つめた。

(……何……この、温かさ……)

 また目を閉じて、指先で唇に触れてみる。
 そして先程の感覚を思い出してみる。
 温かくて、心地よい感じ……優しい感じ……そう、これはきっと……

 暫しの間、レイは何かを感じながらその場に立ち尽くしていた。
 やがて目を開け、シンジが消えたドアの方をちらりと見ると、振り返って自分の部屋に戻っていった。
 ドアを開け、中に滑り込むと、閉めたドアにもたれて目を閉じる。
 それから、両手を胸の上に置いてそっと重ねる。
 そしていつまでもそうして立っていた。
 先程感じた何かを、心に刻み込むように。
 満ち足りた笑顔を浮かべながら。



『何を恐れるの?』

心。
不安な心。
私の中の曖昧な部分。
それを知ること。
知ってしまうこと。

なぜ、それを知るの?
私ではない、他の誰かが、
私に、私の気持ちを
気付かせてしまうから。
本当の私を見せてしまうから。
私自身を知らせてしまうから。

わからないことは、不安。
今まで知らなかったことを
知るのもまた、不安。
変わってしまうかも
しれないから。
知ることで、私の気持ち、
変わるかもしれないから。

今日、初めて知った
私の心。
これが、私?
これが、あなたの中の私?
これが、私の中の私?
新しい私。

いいえ、前と同じ私。
変わらない私。
ずっと知っていた私。
あなたを信じていた私。

『何を恐れるの?』

いいえ、何もないの。
私を、信じていられるから……



ありがとう、碇君……


新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

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Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions