存在って、何?

私がここにいること。
なぜ私、ここにいるの?
ここにいたいから。
ここにいて、いいの?
わからないの。

なぜ、わからないの?
わからないはず、ないもの。
私が願ったから。
私が望んで、ここにいるから。
そのはずだから。

けれど、不安。
ぼんやりとした、不安。
心は、まるで闇の中のよう。
闇が怖い。
なぜ、不安なの?
なぜ、怖いの?

知らないの。
この気持ち、初めてだから。

何もかも、不安。
心と身体が離れていくみたい。
誰に言えばいいの?
私の中の不安。

いいえ、違う。
不安じゃないわ。
何か、別の気持ち。
これは何?
一人になりたくない気持ち……




後日談 其の伍

闇に抱かれて




「そうそう」

 買い物の最中、マヤが振り返ってシンジに訊いた。

「こっちは2週間になるけど、もう慣れた?」

 棚の野菜に目を走らせていたシンジは、マヤの方を見て答えた。
 そう、案外……慣れるの、早かったよな。

「ええ、まあ、何とか」

 マヤとシンジとレイは、いつものように近くのデパートに買い物に来ていた。
 いつものように、と言っても、まだ5回目だ。
 ここに来て2日目と、先週の土日、そして昨日と今日。
 土曜日の昼前にマヤが来て、あり合わせのもので昼食を作ってから、掃除、洗濯、買い物。そして夕食。
 そして日曜日の午前中はゆっくり過ごし、昼過ぎから散歩がてら買い物に。
 夕食が済むと、マヤは慌ただしく帰っていく、というのが先週の週末だった。
 おそらく、このパターンがしばらく続くのだろう。

 買い物が多いのは、生活が始まったばかりで物が揃っていないせいでもある。
 日用品の足りないものなどはシンジたちも自分で買えるのだが、家具や電化製品などは買うことができない。
 お金の問題。未成年の間は銀行からの引き出し金額が制限されていて、大金が扱えないのだ。
 クレジットカードでも大きな支払いをするときは、保護者の承認が必要になっている。
 第3新東京市のように、NERVカードが通用しない世界なのだ。
 マヤのような保護者役が必要なのには、そういう事情もあった。

「そう。レイちゃんは?」

 マヤはシンジのすぐ後ろにいるレイに声をかけた。
 レイは買い物に来るといつもシンジの真似をするようにして棚の商品を覗き込んでいる。
 それはもしかしたら常にシンジと共にありたいという心の表れかもしれない。
 レイはマヤの方を見ると、少し間を置くようにしてから答えた。

「……はい、だいぶ……」
「そう、よかった」

 マヤはそう言って嬉しそうに微笑んだ。
 レイもぎこちないながらも微笑みを返す。
 マヤはそれを見てから、前に顔を戻してカートを押して歩き始めた。
 そして心の中で密かに満足する。レイが自分に笑顔を見せてくれるようになったことに。

 NERVでは見たことがなかったレイの笑顔。
 それがシンジにごく自然に向けられているのを知ったのは、ここに来てからだった。
 最初に一緒に夕食を摂った日、マヤの方から何度と無く笑顔を見せても、レイの表情は堅いままだった。もちろん、その次の日も。
 それが、先週来たときには、表情が穏やかになっていたのだ。
 そして、マヤが微笑むと、それを真似するように表情を和らげようとする。

 いったい何があったのだろう?
 少しは私のこと、信頼してくれるようになったのかしら?
 マヤは不思議に思いながらも、笑顔で接することを続けた。
 笑顔を生み出すものは、笑顔しかないのだから。

「ところで、今日の夕食、何にするんです?」

 シンジは棚に並んだ野菜の値段を確かめながらマヤに話しかけた。
「そうね、あんまり考えてないけど……今週はどんなの作ったの?」
「ええと、昨日は炊き込みご飯と野菜の煮付け、一昨日はトマトソースのスパゲティで、その前は……」
「ふーん、いろいろできるのね、シンジ君って。私より多いじゃない」
「そんなことないですよ。マヤさんだって……」

 平日は忙しくて料理をする暇もない、と言っていたわりには、マヤの腕前はなかなかのものだとシンジは思っていた。
 学生の時や社会人になりたての頃は暇だったから、というのがマヤの答えだったが。

「うーん、何がいいかな。あまり同じ物ばかりでも飽きるわよね」
「でも、味付けを変えるとかすれば……」

 マヤは立ち止まって、顎に人差し指を当てながら考え込むようにして少し上を見上げた。
 その時、ふと別のことに気付く。
 そう、意見を聞くべき人が、もう一人いるじゃない……

「レイちゃんは、何か食べたい物、ない?」

 マヤは顔だけでなく、身体をくるりと振り向かせてレイの方を見た。
 レイは相変わらず黙ってシンジの後ろに付いて来ていたが、呼びかけられて顔を上げた。
 シンジ君と話したりしてると、つい注意が逸れちゃうのよね。保護者としてはまだまだかな、私って。
 マヤはレイの目を見ながら、返事を待った。

「……特に、希望はありません……」
「じゃあ、何か好きな食べ物は? 今までに食べた物の中でとか……」

 マヤがそう訊いても、レイはしばらく黙ったままだった。
 考えてみれば、レイの嗜好についてはほとんどわかっていない。
 ただ一つわかっているのが、肉が嫌いなこと。
 だから作る料理は肉を使うのを避けているのだが、それ以外の好み、例えば甘い方が好きとか辛い方が好きとか、薄い味と濃い味のどちらが好みかとかは、まだ知らないも同然だ。
 その理由は、何を食べてもレイが『おいしい』以外の言葉を言わないからなのだが。
 マヤが根気よく待っていると、やがてレイがぼそっと呟いた。

「……何でも……」
「え、でも……」
「……碇君の作った物なら……」
「え……」
「あ……」

 レイの答えを聞いて、マヤとシンジは同時に声をあげ、そのまま絶句した。
 顔を赤くしたのも同時だった。
 マヤは慌てて、棚の方を見ているふりをした。

(……弱ったな、アテられちゃった……)

 視線は彷徨うばかりだった。

「あ、綾波、あの、マ、マヤさんがきいたのは、そういう意味じゃなくて、その……」

 少々慌て気味にレイに説明するシンジと、それを不思議そうに眺めるレイを横目で見ながら、マヤは料理とは全く別のことを考えていた。
 いいな……私も、もう少し若い時に……



 買い物が終わり、後はバスで帰るだけとなったが、マヤの頭にはまだ何か引っかかっている物があった。
 何だったかしら? 昨日から気になってたような気がするんだけど。

「どうしたんですか?」

 買った物を袋に詰めたと思ったら突然固まってしまったマヤに、シンジが声をかけた。

「え? うん、ちょっとね。何か、忘れてるみたいな気がして……」
「……何かありましたっけ……」

 シンジは両手に荷物を持ちながら、少し呆れたように答えた。
 マヤさんって、どうしていつもこう、たくさん買いたがるんだろ……いくら安いからって……
 『特売品』という表示に弱いらしく、目に付いたものをポンポンと籠に放り込んでいく。
 そして大量に買い込んだ挙げ句、シンジが荷物持ちになるのだった。
 横に立っているレイは、調味料が入った小さな袋を持っているだけだ。
 そんなシンジの心配を余所に、マヤは二人の方を見ながら、まだ考えていた。
 レイちゃんに関係あった気がするのよね。何だっけ……

 ……あ、そうだ。

「シンジ君?」

 ようやく思い出したマヤは、シンジの方を見て声をかけた。
 そうそう、レイちゃんは私と同じくらいだったはずだから……

「あ、はい」
「悪いけど、ちょっとここで待ってて」
「……まだ何か買うんですか?」

 シンジは少しうんざりしたような声でそう言った。
 昨日も買い物袋を持ったまま、洋服売場をうろうろしたし……
 女の人って、どうしてこんなにいろいろ買いたがるんだろう?

「うん、ちょっとね。レイちゃん?」

 しかしマヤはシンジの様子に気付かず、ニコニコと笑いながらレイに呼びかけた。

「……はい……」
「一緒に来てくれる?」
「……はい……」

 レイは答えるときにちらっとシンジの方を見たが、素直にマヤの言葉に従った。
 やっぱり、私のこと少しは信用してくれるようになったのかしら。マヤは思った。
 2週間前は、私と二人でいるときでもシンジ君のことばかり気にしているみたいだったけど……

「じゃ、シンジ君、荷物見ててね」

 マヤはそう言い残すと、レイと一緒にどこかへ消えていった。
 一人、取り残されたシンジは、荷物に囲まれながら昨日のことを思い出していた。

 昨日は、食料品を買った後で、洋服売場を引っ張り回されたんだっけ。綾波の服を買うとか言って。
 でも、マヤさんが綾波を着せ替えして喜んでただけみたいだったけど……
 そういえば、綾波は毎日違う服着てる。あれ全部、マヤさんが買ったんだろうか?
 他にもたくさん買ってるんだろうな。今日着てるブラウスとスカートとか。

 それに、服を選んでいる間は僕はほったらかしにされるんだけど、時々見立てをやらされるんだよな。
 僕が見たって、わかるわけないのに……
 それをはっきり言うのも悪いから、適当に答えてるんだけど。
 あと、一緒に自分の服まで買うから、また時間がかかって……

 シンジがそんなことを考えていると、向こうの方から二人が歩いてきた。
 時間にして約5分ばかり。予想以上に早かった。
 シンジの前に戻ってきたレイは、小さな紙袋を手に提げていた。

「早かったですね。何買ったんですか?」
「うん、ちょっとね」

 マヤはシンジの質問には答えず、置いてあった荷物を一つ手に持った。
 シンジはまだレイが手に持った紙袋を見ていた。
 薬局? 何だろう。風邪でも引いたのかな。

「じゃあ、帰りましょうか。早く帰って夕食作らないと、最終の特急に間に合わなくなるわ」

 マヤはそう言って出口の方に歩き始めた。

(遅くなってるのはマヤさんがゆっくりしてるからなんですけど……)

 シンジはその言葉を飲み込むと、荷物を両手に持ってマヤの後に続いた。
 レイは黙ってシンジの後に付いて来る。
 時折、手にした紙袋の方に目を落としながら。



 この日の夕食の場はシンジの部屋のダイニング。
 そしてキッチンエリアに立っているのはシンジとレイだった。
 マヤは椅子に腰掛けて、二人の様子を見守っていた。

「綾波、じゃあこれを、食べやすい大きさに切って……」
「……これくらい?……」
「そう、そんな感じ……じゃあ、切ったら僕が炒めるから、綾波はこれをかき混ぜながら、ミルクを少しずつ足していって……」
「……こう?……」
「うん、もう少し早くてもいいかな。あ、ミルクは一度にたくさん入れすぎないように……」

 今日のメニューはほうれん草とモヤシの卵炒め、コーンスープ、マッシュポテトのサラダ。それに食後にシャーベット。
 デザートが付いているのは、マヤがメニューを考えたからだ。
 だが今日はマヤは調理には手を出さないことになっていた。
 シンジはレイにいろいろと教え、時には手助けしながら、料理を進めていった。
 何と言っても、レイはついこの前まで料理をする機会がなかったから、一から教えなければいけない。
 包丁捌きもまだままならないし、調理の手順を憶えることから始めているところだった。
 それでも、少しずつ手際が良くなってきてはいるのだが。

 マヤはテーブルに頬杖をついて、二人の後ろ姿を眺めていた。
 顔には穏やかな表情が浮かんでいる。
 ……いい感じね、この二人。まるで、兄妹みたい。
 シンジ君が優しいお兄さんで、レイちゃんが大人しい妹さんか……
 とにかく、雰囲気がよく似てるわ。そんなことをマヤは考えていた。
 そして、もちろん気付いていた。レイが時折シンジの方に走らせる視線を。

 ……今日は、特に気になってるみたいね、シンジ君のこと。
 やっぱり、少し情緒不安定になってるのかしら?
 シンジ君は全然気付いてないみたいだけど……
 この辺り、シンジ君ももう少しわかってあげないと。
 でも、私の口から言うのも、何だか……え?

 その時マヤは、自分が不思議な感情を抱いていることに気が付いた。
 何だろう? この気持ち……これって……

(……まさか、ヤキモチかしら?)

 マヤは少し上を向くようにして考えていたが、もう一度まじまじと二人の姿を眺める。
 そして目を閉じ、冷静に自分の気持ちを整理してみた。
 私、もしかしてレイちゃんに嫉妬してるのかしら。
 もしかして私、シンジ君のことを……

 ……違うわ。

 頭の中で、マヤは自分の考えを否定した。
 私、嫉妬なんてしてない。
 きっと、仲睦まじい二人の様子に憧れてるのよ。
 私にはこんな清い交際なんて、できないから。
 だって、私は……

「……ヤさん?」
「えっ!?」

 考え事の途中で声をかけられて、マヤは我に返った。
 慌てて目を開けると、シンジが皿を持って立っていた。

「あの……料理、できましたけど……」
「あ……ごめんなさい、気付かなくて。ちょっと考え事を……」
「……そうですか。じゃあ、これ、マヤさんの分……」
「あ、ありがと……」
「飲み物は、いつもどおりウーロン茶でいいですか?」
「う、うん……ありがとう」

 マヤはそう言ってぎこちなく笑った。
 だがシンジはマヤのおかしな様子に気付くことなく、皿をマヤの前に置くと冷蔵庫を開けた。
 その間に、レイが残りの皿を並べる。
 それから食器戸棚からコップを3つ取り出し、テーブルの上に置いた。
 そしてウーロン茶のペットボトルを持ってきたシンジと同時に席に着く。
 マヤは黙って二人の動きを眺めていた。

「じゃあ……いただきます」
「……いただきます……」
「今日はありがとう……じゃ、いただきます……」

 今はあんまり、深く考えない方がいいわよね。
 マヤはそう思いながら黙々と料理を食べ続けた。
 だが、ゆっくり味わうほどの心の余裕は生まれなかった。



 夕食が済んでしばらくすると、マヤは帰途に着く。
 シンジとレイは玄関でそれを見送った。

「じゃあ、今日はこれで……」
「あ、はい、どうもありがとうございました」
「ごめんなさい、いつもバタバタしてて。金曜日の晩から来られればゆっくりできるんだけど、まだ仕事で遅くなることが多いから……」
「いえ、そこまでしてもらわなくても……ほんとに、すいません、いろいろと……」
「ううん、ごめんなさい、至らないことばっかりで。それじゃ、また週末に……」
「あ、はい、それじゃ……」
「……お気をつけて……」

 マヤはまたいつものようにニコッと笑ってシンジとレイに手を振ると、足早にエレベータの方に向かった。
 手には大きなボストンバッグ。
 着替えが入っているのではない。着替えはレイの部屋に数着置いてある。
 バッグの中身は、洗濯物だった。平日は洗濯する暇がないのか、こちらに来てするのがパターンになってしまっている。
 もちろん、シンジが洗濯を手伝うようなことはない。
 一度、取り込むのを手伝おうとしただけで、マヤが真っ赤になって恥ずかしがったこともあったくらいだから。

 後片付けが終わると、レイは自分の部屋に戻り、シンジも寝室のベッドに寝ころんで音楽に耳を傾ける。
 夜のこの時間は取り立ててすることがない。
 宿題は済ませてあるし、テレビも見たいとは思わない。
 何をしようか困るくらい時間が余っている。
 結局、シンジには音楽を聴くことくらいしかすることがないのだった。

 だが、シンジはこの時間が好きだった。
 何もないことが『平和』だと感じられるようになった気がするから。
 以前の自分からは考えられない気持ちだった。

(……これも、幸せなのかな……)

 シンジはそう考えながら目を閉じ、寝返りを打った。
 ふと、頭にある一つの考えが浮かぶ。
 僕は自由なのか?

 今の自分の生活……誰にも命令されることがない……
 ……そう、これが自由……

 ここに来てから、何度かその考えが頭をよぎった。
 そしてそれを考えると、もう音楽は耳に入ってこない。

 でも、自由も楽じゃない……
 だって、全ての行動は自分の責任になるから……
 だから時には、命令されることも楽だ。自分の責任じゃないから……

 そして考えはいつもの終着点に到達する。

 なぜ僕は、ここにいるんだろう?
 そう、確かに、望んで来たんだけれど。
 でも、もしかしたら僕は、前のところに帰りたがってるんじゃないのか?
 前の生活に……
 あそこはいやだったけれど、逃げてばかりだったけど……
 それに、ここは……

 シンジは目を開き、天井を真っ直ぐに見上げた。
 だがそれは、もう2週間前の風景ではなかった。
 ……そうか……もう知らない天井じゃないんだ……



Extra Episode #5

she mooned




 11時を少し回った頃だった。
 シンジは風呂から上がり、ダイニングでコップ一杯のウーロン茶を飲んでいた。

「ふぅーっ……」

 飲み干した後で、大きく一息つく。
 渇いた喉に冷たいウーロン茶が心地よい。
 風呂上がりのビールを飲むミサトはきっとこんな気分だったのだろう。
 『風呂は命の洗濯』か。確かにそうかもしれない。最近そう思うようになったけど。
 風呂に入っていやな考えは忘れて、風呂上がりに冷たい物を飲んだら、本当にいい気分になれるな。
 明日から頑張る気力が湧いてくるみたいだ。

 シンジはコップをさっと水でゆすぐと、洗い物入れに逆さまにして置いた。
 それからまた洗面所に戻って、髪を乾かす。
 後は戸締まりを確かめて……シンジがそう思いながら洗面所から出てくると、玄関のチャイムが鳴った。

「あれ……」

 誰だろう、こんな時間に。
 まさか、マヤさんが忘れ物でもしたんじゃ……
 でも、それなら先に電話くらいかけてくるだろうし。
 それじゃ、もしかして……

 シンジがそう考えながら玄関に行き、ロックを開けようとすると、その前に扉が開いた。
 やっぱり……だって、この部屋の暗証番号を知ってるのは……
 シンジが開けられたドアの前に行くと、果たしてそこにはレイが立っていた。
 薄紫のパジャマに身を包み、うつむき加減に、両手で胸の前に枕を抱えて。

「綾波……どうしたの……」
「…………」

 シンジの言葉に、レイは何も答えなかった。
 ただ、伏し目がちにしていた目を一瞬上げてシンジの方を見ただけだった。
 だが、シンジにはその瞳の色が、やけに寂しそうに見えた。
 少し湿り気を帯びたような髪も、その印象を強くしているのかもしれない。
 どうしたんだろう、いったい……

 見れば、レイの足元はスリッパのままだった。
 慌てて外に出てきたように見える。
 まさか、部屋にいるのが怖くなって出てきたとか? 何か怪しい物音でもするんだろうか。
 でも、何か言ってくれないとわからないんだけど……

「あの……とにかく、入ってよ……そこに立ったままでいるのも、何だから……」

 シンジがそう言うと、レイは頭をピクリと震わせた。
 それからゆっくりと頷き、敷居をまたぐ。
 その背中の後ろで、ドアが閉まった。
 だが、レイは玄関に立ったままだった。

(どうしたんだろう……でも、何か話をしなきゃ……綾波は、僕が支えないといけないんだから……)

 シンジはそう考えては見たものの、気ばかりが焦るのみだった。
 何をすればいいんだ、僕は……



「あの……何か、飲む?」

 ダイニングの椅子にレイを座らせてから、シンジは訊いた。
 まだ枕を抱きかかえたままのレイは、しかし何も反応を示さなかった。
 弱ったな……何か言ってくれないと、何もしようがない……
 だが、レイが不安そうにしているのは確かだった。枕を抱えているのはそのせいだろう。
 何があったか知らないけど、とにかく落ち着かせなきゃ。
 落ち着かせるには……やっぱり、何か飲ませた方が……

 シンジはいろいろと考えた挙げ句、冷蔵庫を開けた。
 そしてミルクを取り出し、小さな鍋に注いで火にかける。
 ホットミルク……シンジに思いついたものがこれだった。
 先生の家にいる頃、泣かされて帰って来たときにはこれをよく飲まされた。
 そして何だか落ち着いたような気がするから。
 理由は特にないけど、今できることはこれくらいしか……

 熱くなりすぎない程度に温めたら、あらかじめお湯で温めておいたマグカップに注ぐ。
 そしてそれをレイの前にそっと差し出した。

「あの……これ、飲んでよ……」
「…………」

 レイはちらりとホットミルクの方を見たが、何も言わずにじっとしていた。
 しかし、甘い匂いに誘われたのか、そっとカップに手を伸ばした。
 熱さを感じて一瞬手を引っ込めたが、持てないほどではないとわかると、両手で持って引き寄せる。
 そして枕を器用に胸の前に抱えたまま両手でカップを口元に運ぶと、ミルクを一口すすった。
 シンジはその細い喉が動くのを、前に座ってじっと見ていた。
 レイはカップの中を見つめていたが、やがてそれをコクコクと飲み始めた。

 喉を鳴らしてホットミルクを飲み干すと、レイはカップをテーブルの上に戻した。
 胸の前の枕を抱く力が、幾分弱まったように見える。
 少しは安心したのかも……シンジはそう思ってまたレイに話しかけた。

「あの、綾波……いったい、どうしたの?」
「…………」
「部屋で、何か変な音がしたとか?」

 シンジのその問いかけに、レイは無言のままかぶりを振った。

「じゃあ、何が……」
「……不安なの……」

 シンジがもう一度問いかけようとしたとき、レイが小さな声で呟いた。
 不安? 不安って……

「あの……不安って、何が……」
「……わからない……」
「わからない?」

 レイの返事にシンジが聞き返すと、レイは小さく頷いた。

「わからないって、でも……」
「…………」
「……一人でいるのが、不安とか?」

 シンジがそう訊くと、レイはまた頷いた。
 だが、わからなくなったのはシンジの方だった。
 一人でいるのが不安? どうして、急に……
 今まで2週間、何でもなかったのに……
 それに、前はずっと一人だったのに……
 いったい、何があって……
 それより、どうしたら……
 でも、何とかするしか……

「あの……じゃあ、とりあえず、もうしばらくここにいたら……」

 シンジがそう言うと、レイは一瞬だけシンジの方を見て頷いた。
 とにかく、今はここにいさせるしか……
 もう少し落ち着いたら、またきいてみることにしよう。
 シンジはそう考え、レイの前でじっと座っていた。
 今日のレイは、何だかいつもより小さく見えた。



 時計の針はゆっくりと確実に動いていく。
 だが、レイは椅子から動こうとしなかった。
 枕を大事そうに抱えたまま。
 そしてシンジも、レイの前の椅子に座り、レイの様子を見るともなく見ていた。
 レイを残したまま一人眠る気にはとてもなれなかった。
 しかし先程から会話のないままもう30分以上も経っている。
 このままずっと起きているわけにもいかない。
 ついにシンジは決断して、レイに声をかけることにした。

「あの……」

 30分ぶりに破られた静寂に、レイはシンジの方を見た。
 心持ち、上目遣いに。
 紅い瞳が宿す光は頼りなさげに揺れていた。

「もうそろそろ、寝ないと……明日、学校だし……」

 シンジがそう言うと、レイはまた目を逸らしたが、ゆっくりと頷いた。
 良かった。やっと落ち着いたかな。
 シンジはそう思って席を立った。
 同じようにレイも立ち上がる。
 しかし、その場を立ち去ろうとはしなかった。
 ただ黙ってシンジの方を見ている。

「あの……僕ももう寝るから……綾波も、部屋に戻って……」

 シンジはそう言ったが、レイは無言で首を振っただけだった。
 まだ、だめなのか……どうしてなんだろう?

「まだ不安なの?」
「…………」

 頷くレイ。そして考え込むシンジ。
 不安って言われても、どうしたら……
 一人でいたくないみたいだけど……
 こんな時、マヤさんがいてくれたら……

 だが、マヤは既に帰ってしまっている。
 ならば、シンジにできることは、レイをここに泊めてやることくらいだろう。
 それくらいなら、何とか……

「じゃあ、こっちのリビングに布団敷いてあげるから……今日はここで寝るといいよ」

 レイがまた頷いたのを見て、シンジは寝室の押し入れに布団を取りに行った。
 予備の布団は2週間前に一度干しただけだったが、この際仕方ないだろう。
 それを押し入れから引っぱり出すと、リビングに持って行って広げる。
 シンジが布団を敷く間、レイはリビングのドアのところでその様子をじっと見ていた。

「あの、布団敷いたから、綾波はここで……」

 シンジが布団を敷き終えて顔を上げると、レイは既に枕元のところに立っていた。
 そうだ、枕いらなかったかも。
 そんなことを考えながら、シンジは立ち上がった。
 レイは黙ってシンジの方を見ている。

「それじゃ、僕は自分の部屋で……」

 シンジがそう言いかけると、レイの手がすっと伸びた。
 そしてシンジのパジャマの上着の裾を掴む。
 予期せぬレイの行動に、シンジは思わず声を上げていた。

「あ、綾波……」
「……一人はいや……」

 そう言ったレイの声は今にも消え入りそうだった。
 そのあまりの弱々しさに、シンジはレイが本当に消えてしまうのではと錯覚しそうになる。
 しかし、改めてレイの言葉の意味を理解したとき、シンジは動揺を抑えきれなくなりそうだった。
 一人がいやって言うことは……それは、つまり……

「あの……」

 シンジの声は震えていた。
 一人がいやって……じゃあ、まさか、一緒に……

 確かに、以前はアスカと同じ部屋で寝たこともある。
 しかし、その時にはミサトが一緒にいた。
 だが、ミサトがいないときに自分は何をしようとした?
 そのことを思い出さずにはいられない。
 あの時はいろんな理由で自分を抑えることができたけど、でも、今度は……

「……どうしても?」
「…………」

 無言のまま、レイが頷く。
 瞳の紅い色がシンジの心に沁み通っていくようだ。
 そのすがるような視線に、シンジは折れるしかなかった。

(……逃げ、ちゃ、だめ、なの、かな……)

 シンジは右手を固く握りしめた。



 家中の明かりは既に消えていた。
 リビングには布団が二組、並べて敷かれている。
 シンジはそのうちの一つの布団に潜っていた。
 そしてその左側には、レイが。
 ようやく昇り始めた月が、カーテン越しに部屋の中を薄明るく照らしていた。

 シンジは天井を見上げていた。
 先程布団に入ったときは、懸命に目を閉じようとした。
 しかし、しばらくすると目が冴えてしまう。
 もちろん、隣を強く意識していたからだ。
 そして今置かれてる自分の状況を再認識する。

 ……僕は、どうしてここにいるんだろう……

 ゆっくりと左側を見てみる。
 1メートルほど向こうに、レイの寝顔が見えた。
 身体ごとシンジの方に向くようにして寝ている。
 持ってきた枕をしっかり抱きかかえて。
 その微かに眉根を寄せた表情を見ながら、シンジは以前のことを思い出していた。

 綾波の寝顔……どうしていつも、こんなに弱々しく見えるんだろう?
 最初は、病院で……事故の後だった。
 綾波の目が覚めたとき、ホッとしたのを憶えてる。
 その次も病院……拒絶されたときだ。
 あの時だって、もう目が覚めないのかと思った。
 その次が、ターミナルドグマで……

 その時の表情は、シンジの両の目に焼き付いている。

 僕の目の前から消えた後、もう一度還って来てくれた綾波は……そのまままた消えてしまいそうだった。
 綾波が目を閉じた瞬間、ひどく不安になった。
 でも、あのときは、そうだ……

 シンジはまた天井の方を向き、目を閉じた。
 そして瞼の裏に一人の少年の姿を思い浮かべる。

 ……カヲル君に、言われたんだ。
 綾波は、僕が支えないとだめだって……
 だから僕もその時に決めたんだ。
 綾波と一緒にいなきゃいけないって……

 また、目を開き、左に顔を向ける。
 レイの表情は先程から少しも変わりない。
 まるで息さえしていないかのように、静かに眠っている。
 柔らかな月の光が、白磁のような肌をほんのりと蒼く照らしていた。
 そして僅かに顰みを浮かべた表情が映し出されている。
 それが儚い印象を一層強めていた。
 シンジはしばらくレイの妙なる造形を見つめていたが、また天井に目を戻した。

 綾波が不安になったのは、僕のせいかもしれない……

 シンジは天井を見つめたまま考えていた。
 ……僕が、頼りないからなんだろうか。
 いつももっとしっかりしていたら、綾波は不安にならなくて済んだんじゃないだろうか。
 一人はいや、なんて……僕が支えきれてないっていうことなんじゃないだろうか。
 シンジは布団の中の右手に、何かを掴むように力を込めた。
 ……そうだ、明日から……いや、今から……

 シンジはもう一度レイの方を見たが、また天井を向くと無理矢理目を閉じて布団に潜り込んだ。

 ……もっとちゃんと、綾波を支えられるようにならなきゃ……
 そして、今日のこんな時にも、しっかりした態度で望めるように、ならなきゃ……



 月は少しずつ高く昇り始めていた。
 レイは薄く目を開き、右側の人影を見つめていた。
 そして考えていた。

 なぜ私、ここにいるの……
 何のために……
 誰のために……

 心に隙間が空いたような、何とも言えない不安感。
 それを埋めてくれる何かを探している自分。
 何かって、何?

 何も知らないから不安?
 そう、それもある。
 けれど、今のこの不安は、何か違う。
 今までに知らない種類の不安。
 そもそも、これは不安なの?

 『情緒不安定』
 今日、買い物から帰って来てから、伊吹さんに指摘された。
 身体の変調に伴って、精神が乱れるから、と。
 他にもいろいろ教えてもらった……

 だから、知らないことじゃない。
 心がこんな変な状態になる理由は知っている。
 けれど、今までこうなったことはなかった。
 だから、不安。自分の身体なのに、知らないから。

 どうすれば不安じゃなくなるの?
 わからない。ただ、何かが足りない。
 私は何かを求めている。それは何?
 そう、一人にされないこと。
 碇君と一緒にいること。

 レイは暗がりの中で眸を凝らした。
 視線の先にあるのはシンジの横顔。
 優しい面影が月明かりに映し出されている。
 それはレイの心の中の不安を少し和らげるような気がした。

 ……私は碇君を求めている。
 碇君の存在を求めている。
 一緒にいると、心を満たしてくれるから。
 でも、今は……何かが足りない……
 何が足りないの?

 レイはシンジの横顔を見つめ続けた。
 無論、シンジは何も答えてくれない。
 それでもレイはシンジを見ていた。
 そこに答えがあるような気がするから。

 何が……
 笑顔? 今の碇君には、笑顔がない……
 でも、笑顔があればどうなるの?
 碇君の笑顔は……私の心を温かくしてくれる……

 ……そう、私、温かさが欲しいのね……

 紅茶の温かさでそれを思い出そうとしたこともあった。
 先程ミルクを飲んだときも、少し心が落ち着いた気がした。
 でも、今は……

 レイは枕を掻き抱く手に力を込めた。
 しかし、そこから温かさは伝わってこない。
 ただ、今ある温かさが逃げていかないだけ。
 もっと温かさを感じるには……

(……どうすればいいの、私……)

 レイは考え続けていた。
 温かさを感じる方法を。
 温かさを教えてくれたシンジの横顔を見つめながら。

 ふと何かに気付き、レイは起き上がった。
 身体に掛けていた薄手の掛け布団がはらりとめくれ落ちる。
 そして、布団の上に座ったまま、シンジの顔をじっと眺めた。
 シンジは穏やかな表情で眠りに就いている。
 レイはシンジの布団にすり寄ると、シンジの顔を覗き込んだ。

(…………)

 そのまましばらくシンジの顔を眺め続ける。
 近くで見ると、先程よりもう少し心が温まる気がした。
 ……そう、近くにいれば……もっと近付きたい……
 レイはおもむろにシンジの掛け布団を持ち上げ、その中にするりと滑り込んだ。

(…………)

 持っていた枕を頭の下に敷き、代わりにシンジの腕を胸に抱く。
 そしてさらに身を寄せていった。
 シンジの顔がもうすぐそこにあった。
 息遣いがはっきりと聞こえる程近くに……

「う……ん……」

 シンジは小さくうめくと、天井に向けていた顔を僅かにレイの方に向けた。
 それだけでレイの心臓が敏感に反応した。
 どうしたの、私……動悸が早まっていく……

(…………)

 肌で感じる温かさが少し。
 それよりも、心に感じられる温かさがあった。
 心が満たされ、安心感がみるみるうちに広がっていく。
 ……これは、何……

(……これが、人の温もり……)

 言葉にできない柔らかな感覚が、レイを包み込んでいた。
 ……そう、私、これを求めていたのね……

 しばらくシンジの表情を見つめた後で、レイはそっと目を閉じた。
 心地よい温かさがレイを眠りの世界へといざなう。
 そして幾ばくもなく、部屋には二つめの安らかな息遣いが響き始めた。



 夜明けと共にレイは目を覚まし、ひとしきりシンジの顔を眺めてから、自分の布団に戻った。
 一人で寝るレイの顔には、穏やかな笑顔が浮かんでいた。

 そして、
 約4週間後には、この日と同じ光景が繰り返された。



私、何を求めるの?
心の安らぎ。
それはどこにあるの?
人の中に。

私の不安。
いいえ、違う。
一人になりたくない気持ち。
それは、温かさを求める心。
人の側にいたい。
人を感じたい。
人の温もりを。

心があるから、
人を求める。
心があるから、
温かさを求める。
なら、
心がなければ、
何もいらない?

いいえ、違うの。
心があるから、
求められるの。
心があるから、
感じられるの。
人の温かさを。
そして、安らぎを。

求めていいの? 私。
人を。
温かさを。
わからないの。
それだけが不安。

でも、
求めたいの。
これからも、
ずっとずっと、
あなたの側で……


新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

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Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions