見つかった? 私の絆。
見つかった。大切な絆。
過去を置いてきて、
未来だけを持って、
私は進む。
私の未来へ。

見つかった? 私の言葉。
見つからない、言葉。
私の心を表す言葉。
私の気持ち。
大切な言葉。

言葉にしなくても、
気持ち、伝えられるの?
私の態度で。
いいえ、
心、伝えたい。
私の気持ちを、
言葉にして。
あなたに、伝えたい。

私の心。
あなたを望む気持ち。
一緒にいたい。
いつも、あなたと。
何て言うの?
この気持ち。

私の心を知っている人。
私の言葉を知っている人。
どこにいるの?
教えて欲しい。
ただ一言、
私の心を、伝える言葉を。




後日談 其の参

新しい扉




 陽は、真上を過ぎて、西へと傾きかけていた。
 熱く焦げた地面からは陽炎が立ち昇り、行く先の風景を歪ませる。
 道路に貼り付く逃げ水は、まるで溶けたアスファルトのようだ。
 一日のうちで一番暑いひと時。
 車は走り続けていた。第2新東京、少年と少女の新天地へ向けて。

 車内にはこれと言って会話はなかった。ハンドルを握る彼女はずっと押し黙っている。
 後部座席の二人が眠っているわけではない。途中で昼食休憩を取った後も、二人はずっと起きていた。
 ただ、少年は話しかけるべき話題を持っていなかったし、少女もまた同じだった。
 少年は専ら車窓の景色を眺めていて、たまに隣に座っている少女の方をちらっと見たりしている。
 少女は胸の前に大事そうに籐のケースを抱きかかえながら、うつむき加減にじっと座っていた。
 その表情は、眠っている赤ん坊を抱く母親のように優しかった。

 シンジはまたちらっとレイの方を見た。
 レイは相変わらずの無表情のようだったが、その目元が幾分優しげだ。
 口元も僅かにほころんでいるように見える。
 そして、身体全体から醸し出す雰囲気は、以前のような冷たさを一切感じさせなかった。
 もっとも、レイのこんな微かな変化がわかるのは、ずっとレイと一緒にいたシンジだけであろうことを、シンジは気付いていなかった。

 シンジはまた窓の外に目を遣ったが、景色を見てはいなかった。
 頭の中では、先程休憩したサービスエリアでのレイのことを考えていた。

(鞄……ずっと持ったままだったな……)

 休憩がてら昼食をとりに入ったSAでのことだった。
 車の中にケースを置いていったら、とミサトがレイに進言したのだが、レイはそれを拒んだ。

『……嫌です……』

 その冷たくも悲しげなレイの声の響きは、まだシンジの耳に残っている。
 レイはそこに着くまでもずっとケースを抱いたままだったのだ。
 昼食のサラダを食べるときも、レイはケースを膝の上に置いていた。
 おかげでテーブルから身体が離れてしまい、食べにくそうだった。
 それでもケースを床に置こうとしない。

(服が入ってるだけなのに……)

 誰も取ったりしないのに。
 シンジはずっとそのことが気になっていた。
 あの服が、そんなに大事だなんて。
 一瞬でも目を離したくないほど、大切に思ってるんだろうか。
 どうしてだろう?

 ……僕は綾波のこと、まだ何もわかってないのかもしれない。
 シンジはまだ考え続けていた。

 車は中央自動車道を降り、一般道へと入っていった。
 旧松本市・第2新東京市の町並みが近づいてきた。



 そこは街の中でもたぶん郊外にあたるところだろう。
 山肌を削って作られた新興住宅地と言うところか。
 広い道路が整備されているが、通る車もまばらだ。
 辺りには程良く自然が残り、長閑な風景が広がっている。
 そんな中に、そのマンションは建っていた。

 車が駐車場に滑り込んだ。
 ミサトが運転席から降りると、シンジもレイもその後に続いて降りる。
 籐のケースを抱えたレイは、2ドアの前扉から降りるのにちょっと苦労しているようだ。
 助手席を前に倒しても、ケースがつかえてなかなか降りられない。先程のSAでもそうだった。
 ミサトはさっさと車の後ろに回り込んで、トランクを開けている。
 やっぱり、綾波が降りるの手伝ってあげた方がいいかな。シンジは思った。
 ミサトさんは全然手伝おうとしてないし……

「綾波、あの……鞄、持とうか?」

 シンジは運転席の扉から降りて反対側に回り込み、レイに声をかけた。
 レイは降りるのをやめて、上目遣いにシンジを見ている。そしてしばらく動こうとしない。
 荷物、持たせてくれないのかな。シンジは一瞬そう考えた。
 あれほど大事そうにしてたし……
 だが、レイはケースだけをすっとシンジの前に差し出していった。

「……ありがとう……」
「あ……うん」

 シンジは少し戸惑いながらもレイからケースを受け取った。
 一歩引くと、レイが助手席の後ろをすり抜けて出てきた。
 また手を取ってあげようかと思ったけど、間に合わなかったな。
 シンジはそう考えながら、レイが車から降りたのを見て、助手席のドアを閉めた。
 顔を上げると、レイがシンジの方をじっと見ていた。
 シンジはケースの方に目を落としてから、レイの方に顔を戻して言った。

「あの……部屋まで、僕が持っていくよ」
「…………」

 レイは無言でシンジの方を見つめている。
 何かを考えているようだ。
 やがてレイは口を開き、小さな声を漏らした。

「……持たせて……」
「えっ……でも」

 こんな鞄くらい、僕が持つよ。
 シンジがそう言おうとしたとき、レイが呟くように言った。

「……持ちたいの……持たせて……」

 そしてシンジの方にすっと両手を出す。
 シンジはつられたようにレイの方に籐のケースを差し出した。
 まるで催眠術にかけられたかのように。
 レイはシンジからケースを受け取ると、また胸の前で大事そうに抱えた。
 そしてシンジの方を見ながら、控えめな笑顔を見せた。

「シンジ君、レイ、こっちよ」
「あっ、はい……」

 一瞬、レイの顔に見とれていたシンジは、ミサトの言葉に慌てて我に返った。
 ミサトの方に返事をしてから、もう一度レイの方を見て頷く。
 レイも頷いたのを見て、シンジはミサトの後を追いかけた。
 後ろからレイが早足で付いて来る。

「シンちゃん、はい、鞄」

 ミサトはシンジが追いついてきたのを見て、シンジの鞄を差し出した。
 トランクに入れておいたものだ。

「あっ、はい……あの、ミサトさん、そっちも持ちますよ」

 シンジはミサトのもう一方の手に籐のケースが握られているのを見て言った。
 綾波の持ってたのは持たせてもらえなかったから、代わりにこっちを持とう。
 ミサトさんに持たせるのは悪いし……
 だがミサトはケースをちょっと持ち上げるようにしながら言葉を返す。

「ああ、これ? いいわよ、私が持つから」
「いや、でも……」

 どうして僕は鞄さえ持たせてもらえないんだ。
 シンジは少し情けない気分になってきた。
 ……そんなに頼りないのかな、僕って……

 マンションの入り口のところで、ミサトがカードキーでオートロックを解除する。
 自動ドアが開いて、三人はそこをくぐり抜けた。
 廊下の突き当たりでエレベータの到着を待っている間に、シンジはもう一度ミサトに言葉をかけた。

「ミサトさん、その、鞄、やっぱり僕が……」
「いいって、私が持つから……」

 ミサトはシンジの顔を見ようともしないでそう答えた。
 シンジはあきらめきれずに食い下がる。

「いや、でも……」
「そんなにレイの下着が持ちたいの?」
「…………」

 ミサトがニヤッと笑いながらそう言ったので、シンジは黙り込んでしまった。
 どうやらミサトが持っている方のケースには、チェストの中に詰めてあった下着類が入っているらしい。
 実際は学校の制服なども詰まっていたのだが、シンジはそこまでは知らなかった。

「シンちゃんが持ち逃げするといけないしぃ」
「そ、そんなことしませんよっ!」

 ミサトがへらへらと笑いながら言った軽口に、シンジは思わずむきになって反応してしまった。
 そんなことするわけないじゃないか。だいたい、ミサトさんの下着を洗ってたのは僕なのに……
 洗濯したのを干して、取り込んで、畳むところまで僕がやってたのに。
 それに、逃げるって言ったって、どこに……
 シンジはブツブツと呟きながら考えていた。

 ……アスカは自分で洗ってたみたいだけど。
 そう言えばあれもさわるなって言われたんだっけ。
 同い年の女の子って、みんなそう思ってるんだろうか。
 エレベータに乗り込むときに、シンジはちらっとレイの顔を見た。

 ……綾波はそんなこと思ってないよな、きっと。
 だって、ああいう性格だし……
 シンジの頭の中で、かつて見たレイの羞じらいのない姿がフラッシュバックする。
 何も着ていないところを見られても、顔色一つ変えなかった姿が。

 結局、シンジはケースのことはあきらめることにした。
 あそこまで言われてまだ持ちたいなんて言ったら、ミサトさんに何を言われるかわからない……
 シンジは小さくため息をつくと、エレベータが止まるまで黙っていることにした。



(あれ……)

 エレベータを降りた途端、シンジは妙な錯覚に襲われた。
 ここ……どこ?
 これってもしかして、ミサトさんのあのマンションにそっくりじゃ……
 外観は全く違っていたので何とも思わなかった。
 だが、部屋の扉の形、廊下周りの塗装、中庭と吹き抜け……コンフォート17に驚くほどよく似ている。
 その廊下の突き当たりのドアの前に立ったとき、シンジはそこに『葛城』と書かれた表札があるのではないかと思ったほどだ。
 だが、違った。そこにはまだ何も書かれていなかった。

 カードキーを使ってミサトがロックを外す。
 ドアが開くときのエアの音も同じ……入って目の前に壁があるのも同じだった。
 ミサトの後から、シンジは部屋に入っていった。その後にレイが続く。
 短い廊下の先を曲がるとダイニングになっているところまで、全くそっくりだ。

「あの……ミサトさん、ここって……」
「ん? ああ、似てるでしょ。びっくりした?」
「あ、はい、その……」

 シンジはそう言ってからダイニングをまじまじと眺め直した。
 フローリングの張り方から、システムキッチンのデザイン、壁紙に至るまでまるっきり同じだ。
 それに、テーブルと冷蔵庫と電子レンジ……これはきっと、ミサトさんがわざと同じ物を用意したんだな。
 でも、サイドボードがない。観葉植物もない。食器と調理器具の数が少ない……違うのはそれくらいかな。
 ……冷蔵庫の中がビールで埋まってたらどうしよう。シンジは一瞬そう考えてヒヤッとした。

「施工業者が同じなのよ。NERVの関係業者のマンションを探せばそうなるみたいだけど」
「……そうなんですか」
「さすがに、ちょっち違いはあるわよ。こっちとか」

 ミサトは籐のケースをダイニングの椅子の上に置くと、リビングの方に入っていった。
 シンジはその後から付いて行く。
 レイはミサトが置いた籐のケースをちらっと眺めたが、黙ってシンジの後ろからリビングに入った。
 広いリビングの真ん中にはラグが敷かれ、小さなテーブルが置いてあった。
 部屋の隅には大きな画面のワイドテレビがでんと居座っている。これも前の部屋にあったのと同じメーカーだ。
 何だか、新しい部屋に来た気がしない……

「……ミサトさんの部屋がないですね」

 だが、リビングに入った瞬間、シンジはそのことに気付いていた。
 ベランダに続く窓のサッシの形まで同じなのだが……左手に部屋がない。壁だった。
 前のマンションにはあった、ミサトの万年床が敷いてある和室がなかった。
 ミサトはシンジの方を振り返って、ニッと笑って見せた。

「あったりー。ま、大きな違いはそれくらいね……じゃ、次はこっち」

 そう言って右手の方に進んでいく。
 そこには『僕の部屋』があるはずだ。
 たぶん……そうだ。シンジは無意識のうちにそう考えていた。

「で、ここがシンちゃんのお部屋よ」

 ミサトはそう言いながら襖を開けた。
 さすがに、襖にそう書かれたプレートがかかってないのを見て、シンジは少しだけホッとした。
 だが、それも束の間だった。
 シンジは部屋の中を見て呆れ返ってしまった。

「あの……」

 思わず声を出し、そして言葉を失う。目の錯覚ではないかと思った。
 ……これじゃ、何から何まで一緒じゃないか。
 机も、ベッドも、それに絨毯まで……わざわざ同じのにしたんだろうか。
 色々な小物がないことを除けば、まるっきり前のままだ……

「……同じにしたんですね」

 しばらくの沈黙の後、シンジはやっとそれだけを口にした。

「そうよ。びっくりした?」

 ミサトはそう言いながらニコニコと笑っている。
 シンジはもう一度部屋の中を見回してから言った。

「何だか、引っ越しした気がしませんね」
「その方が落ち着くでしょ?」

 ミサトが腰に手を当てながらそう答えた。

「……そうですね」

 確かにそうだな。シンジは考えた。
 全てが終わったときは、また前の生活に戻れたらいいなと思ってた。
 それはやはり無理というもので、結局ここへ来ることになってしまったんだけど……
 シンジはふと上を見上げながら思った。
 知らない天井じゃないだけ、いいかもしれない。
 気苦労が一つ減るような気がするから……

 ……でも。
 綾波は、どうなんだろう?
 あの部屋からなら、どこに行ったって、環境が大きく違うことに……

(……?)

 その時になって、シンジはようやく気付いた。
 ……どうして綾波も一緒に僕の部屋に入ってきてるの?
 綾波の部屋はどこなんだろう? 隣?

「あの……ミサトさん?」

 シンジはミサトに話しかけた。
 ミサトは胸の前で腕を組んでちらりとシンジの方を振り返った。

「ん、何? やっぱ別の部屋がいい?」
「いえ、あの、そうじゃなくて……」

 シンジも振り返ってレイの方を見る。
 レイはまだ籐のケースを抱えたまま、黙って部屋の中を見るともなく見ていた。
 ミサトの方に顔を戻しながらシンジは訊いた。

「あの、綾波の部屋は……」
「んー、そうねぇ、もう一部屋あればよかったんだけど……」
「……?」

 そのミサトの物言いに、シンジの頭の中で何かが引っかかった。
 マンションに空いてる部屋がないってこと?
 それにしては、何か違うニュアンスのような気が……
 シンジがそう考えてたのはわずか一瞬のことで、ミサトは言葉を続けていく。

「まあ、寝るだけならリビングに布団を敷いてもいいし……」
「え?」

 ミサトは顎に指先を当てながら、シンジの目を見ずに話していた。
 シンジはミサトの言葉の意味を完全に見失っていた。
 それはどういう……

「何なら、ここで一緒に寝るっていうのも……」
「ちょ、ちょっと、ミサトさん!」

 シンジはやっとミサトの言っていることが理解できた。
 慌ててミサトの言葉を遮って声を出す。

「ん? 何か問題ある?」
「何かって……綾波もここに住むんですか?」
「そうよ。同じところって言わなかったっけ?」
「いや、その……」

 そう言ったきり、シンジは絶句した。
 同じところというのは、同じマンションとか、同じ町内くらいにしか考えてなかったのだ。
 それがまさか、同じ部屋だなんて……
 ど……どうしよう?

「どーしたのよシンちゃん、ぼやーっとしちゃって」
「…………」

 ミサトから話しかけられても、シンジは返事が出来なかった。
 顔の前でミサトが手を振っているのにも気付かなかった。
 ミサトは呆けたような表情のシンジを楽しそうに観察していたが、おもむろにレイに声をかけた。

「レイ」
「……はい……」
「何か問題ある?」
「……ありません……」
「!」

 その時になって、ようやくシンジは我に返った。

「ミッ、ミサトさん!」
「何よ」

 シンジが大声を出しても、ミサトは平然とした顔で答える。

「問題ありますよ!」
「何が?」
「だって……ミサトさんは、一緒に住むんじゃないんでしょう?」
「そうよ」

 そうだ。僕だって、そう聞いた。
 ミサトさんはまだNERVにいなきゃいけないから、僕らと一緒に住めないって。
 だからここにミサトさんの部屋がなかったのも納得できるし……でも……

「じゃあ……保護者もいないのに……子供二人で住むんですか?」
「そうよ。レイは元々独りで住んでたし、シンちゃんだって第3新東京に来たときは独りで住むって言ってたじゃない。今度は二人になるんだから、全く問題ないでしょ」
「そっ、そうじゃなくて! 僕は男で……綾波は女で……それが二人一緒になんて……その……」
「前はアスカと一緒に住んでたじゃない。それで何も不都合なかったでしょ」
「だから、不都合とかじゃなくて……何て言うか、その……」
「レイは問題ないって言ってるけど?」
「それは……」

 シンジはまたレイの方を振り返った。
 レイはただぼんやりとシンジとミサトの会話を聞いていたようだった。
 一瞬、視線が交錯した。シンジは慌てて目を逸らした。

 ……ほんとに一緒に住むんだろうか?
 アスカと一緒に住んでたって言うけど、あれはミサトさんも一緒だったし……
 あの時だって、アスカと二人きりになった夜には、どんな気分になったことか。
 それなのに、これから先、綾波と一緒っていうことは……
 今はまだ……でも、その、僕だってそのうち……

 シンジはまたちらっとレイの方を見た。
 レイはまだシンジの方をじっと見つめているままだった。
 シンジはまた視線を逸らし、うつむいて考え込んだ……
 ……逃げちゃダメだ……でも、逃げたい……

「くっ……」

 その時、何か声が聞こえた。
 シンジが目を上げた。声はミサトの方からだった。
 ミサトはシンジから顔を逸らし、腕を組んで部屋の中を向いている。
 だが、その肩が微かに震えていた。
 それが次第に大きくなってくる。

「ど……」

 どうしたんですか、とシンジがミサトに声をかけようとした、その時だった。

「ぷくくっ……ぷふっ……ぐくくっ……」

 ミサトは前屈みになって悶え始めた。
 シンジは呆然としてミサトの方を見ていた。
 どうしたんだろう……まさか……

「ぷははっ! あはははっ! あーっはっはっはっはーっ! あー、おっかしー! 涙出ちゃうわ……」

 やっぱり……笑ってる……
 シンジはその時、真実を理解した。
 だましたな……僕をだましたんだ……
 ミサトの盛大な笑い声を聞きながら、シンジはぼんやりとそう考えていた。

「あー、もう、シンちゃんったら、真剣になっちゃってー、ぷっくくくっ!」

 ひとしきり笑い終わったミサトは、手で涙を拭いながらシンジの方に振り返った。
 その顔はいたずらが大成功して喜んでいる子供そのものだった。
 僕をだまして、楽しむなんて……やっぱりミサトさんって……

「……嘘なんですね」

 まだ笑い足りなさそうな顔をしているミサトに、シンジは憮然とした顔で言った。
 だましたミサトさんも大人げないけど、取り乱した僕も情けない……

「何が?」
「……綾波と、一緒に住むって……」
「なーに言ってんのよ。あたし、そんなこと言ったっけ?」
「え?」

 またシンジは混乱した。
 それは……いったい、どういう……

「だから、レイと一緒に住むなんて、あたし一言でも言った?」
「えっ、でも……」

 そうは言ってないけど、それを匂わせるようなことをさんざん言って……

「同じところっていうのは、同じマンションっていう意味で、同じ部屋っていうことじゃないわよ。それをシンちゃんったら勘違いしちゃってー、くくっ!」
「…………」

 シンジは黙るより無かったが、せめてもの抵抗に不機嫌な表情を露わにして見せた。
 やっぱり、言葉のあやで僕をだましてたんだ……
 さっきも、うまく勘違いするように言葉を選んだり……
 ……そうか、『部屋』と『家』を混同して使ったのが悪いんだ……

「レイ」
「……はい……」

 シンジの拗ねた顔を見て見ぬ振りをしながら、ミサトはレイに声をかけた。

「あなたの部屋は隣よ」
「……はい……」
「それじゃ、シンちゃん、ごゆっくり」

 ミサトはそう言い残して部屋を出ていった。
 レイはその後に付いていく。
 去り際にちらっとシンジの方を見て、振り返ったシンジと視線を合わせた。
 レイが視線を外して歩き出そうとしたのを、シンジは慌てて呼び止めた。

「あ、あの!」
「……何?……」

 レイはまた立ち止まって、シンジの方を振り返った。
 赤い視線がシンジに突き刺さる。
 何だか、冷たい……シンジは冷や汗が出る思いだった。

「あの……さっきのこと……」
「……何?……」

 謝らなきゃ……シンジはただそう考えていたが、言葉が出なかった。
 さんざん考えた挙げ句、出たのはたった一言だった。

「その……ごめん……」
「……そう……」

 レイは小さくそう答えただけで、部屋を出ていった。
 一人残されたシンジは、ため息をついた後で、ベッドに腰を下ろした。
 そして前屈みになって、もう一度大きくため息をついた。

 ……綾波、怒ったかな……
 シンジは床を見ながらじっと考えていた。
 あれじゃ、綾波と一緒は嫌だって言ったみたいじゃないか。
 綾波は、僕と一緒にいたいって言ってくれたのに……
 でも、僕だって……

 シンジはベッドの上に仰向けになった。
 以前と同じ天井に、一瞬気持ちが落ち着く。だが、心は重かった。
 僕だって、一緒にいたくないわけじゃないんだ。ただ……

 ……ただ、今はまだ、自信がないだけなんだ……



Extra Episode #3

knock, and it shall be opened unto you




「部屋の配置はシンジ君のところと対称になってるから、わかりやすいでしょ。で、ここが、寝室」
「…………」

 ミサトが部屋を案内して回るのを、レイは黙って付いて歩いていた。
 内装から調度品まで、シンジの部屋とほぼ同じ物を揃えてあるようだ。
 違いといえば、敷物などの色が少し違うくらいだった。
 そしてミサトが最後にレイを連れてきたのは寝室だった。
 ベッドや机は同じ物だったが、絨毯の色が違った。
 クリーム色と薄青のツートンカラー。
 ことさら、部屋を明るい雰囲気にしようというミサトの計らいだろうか。
 たぶん、窓が一つ足りないことを気にしてのことなのだろう。
 
「それと、その服なんだけど」
「……はい……」

 ミサトがレイの抱えた籐のケースを見ながら言うと、レイは小さな声で返事をした。
 そして一際強くそのケースを抱きしめる。
 まるで、取られるのを恐れるかのように。
 ミサトは苦笑いをしながら口を開いた。誰も取りゃしないって……

「クロゼットを買おうかと思ったんだけど、納戸が空いてるから、そこを使うことにするわ。こっちの……」

 ミサトはそう言って寝室の入り口で振り返った。そこには納戸の扉がある。
 ここをウォークインクロゼットのように使おうというのがミサトの考えだった。
 その扉を開きながら、ミサトは言った。

「荷物も少ないから、いいでしょ。服も少ないし……そうそう、マヤちゃんが適当に服を買い揃えてくれてる……らしい……から……」

 言いながら納戸の中に目を移したミサトは、唖然として言葉を失った。
 あの子ったら……せいぜい10着くらいだと思ったのに……

 納戸の中の洋服掛けには、30に及ぼうかという数の洋服が吊り下げられていた。
 その横には収納ケースが3つほど積み上げられてある。……これは下着よね。そう信じたいわ。
 更に奥にはボール紙で出来た靴箱が5〜6個並べられていた。
 全く、他人のお金だと思って、遠慮なく使ってくれたわね……
 ミサトの頭の中には、洋服売場で喜々としてレイの服を選んでいるマヤの姿が浮かんでいた。
 リツコが帰ってきたと思ったら、急に元気になっちゃって……
 ま、いいか、私の懐が痛んだわけじゃないし。

「とりあえず、その服もここに置くことにしない?」
「……はい……」

 ミサトがそう言うと、レイは小さな声で答えて、ケースを足下に置いた。
 そして服を取り出して洋服掛けに吊り下げていく。
 ミサトは自分で持っていたケースの中身を収納棚に入れていった。

 ……他のと一緒にしたくないとか言うかと思ったけど……
 ま、置き場所にはこだわらないのね。要は気持ちってことがわかってるのかしら。
 今までだって、古い服と一緒に置いてたし……あれはスペースがないのもあったけど。
 ちらっとレイの方を見ると、レイは服を一つ一つゆっくりと眺めながら吊り下げていた。
 シンジ君に買ってもらった服、か。それがこの子の命を繋ぎ止めた絆……
 ……大事にしなさいね。その絆を。

「そうそう、レイ」
「……はい……」

 服を掛け終わり、納戸から出てきたところで、ミサトはレイに声をかけた。
 誤解のないようにしておかなきゃ。全く、シンジ君ったら、あんな態度とっちゃって……
 ミサトはその一部は自分の責任であることを頭の中から除外しているらしい。

「さっきシンジ君が言ったことだけど」
「……はい……」
「あれは、レイと一緒に住みたくないってことじゃないのよ。わかってあげてね」
「……はい……」
「シンジ君はね、その、何て言うか……女の子と一緒にいるのが恥ずかしい年頃なのよ」
「…………」

 レイは顔を上げてじっとミサトの方を見ていた。
 ミサトはその目を真っ直ぐ見据えながら話し続けた。
 この子も、他人の気持ちが解るようになってもらわないと……
 でも、まだ私がこの子の気持ちを解っていない。シンジ君を想ってること以外は……

「でも、そのうち……」
「……構いません……」
「え?」

 そのうち、シンジ君の方から……と言いかけて、ミサトはレイに言葉を遮られた。
 構わないって、何が?
 だいたい、レイが私の言葉を遮ったなんて、初めて……
 この子も少し変わったのかしら。
 ミサトはそんなことを考えながら、レイの言葉を待っていた。

「……今でも、一緒ですから……」
「あ……うん」

 ミサトはレイの言葉を聞いて、思わず納得してしまった。
 そう。そういうことなの。一緒になりたいっていうのは……
 今はまだ、シンジ君の近くにいるだけでいいのね、この子は。

 でも、一生そういうつもりでいるなら……ねえ。
 そう考えてミサトは想いを巡らす。

 シンジ君はこのこと解ってるのかしら?
 たまに鋭いんだけど、だいたいにおいてニブいからあの子は……
 でも、レイの方からははっきりそういうのは言わないだろうし……
 そのうち、ちゃんと気付いてレイを迎えに来てあげないと……

 ミサトがそう考えたとき、呼び鈴が鳴った。
 え? まさか……

「誰かしら? シンジ君?」

 ミサトはそう言いながら玄関に向かった。レイが黙って後からついてくる。
 来て早々に来客があるわけないから、シンジ君以外考えられないけど……
 ひょっとして、もう気付いたとか?
 ミサトがインターホンのスイッチを入れると、果たしてシンジの声が聞こえた。

『ミサトさん?』
「何、シンジ君、どしたの?」
『いえ、その……』

 シンジの口調が、何となく歯切れが悪い。
 これはますますもってまさか……
 ミサトは少し緊張した。
 後ろではレイがじっと立ってシンジの声を聞いていた。

『……マヤさんが来たんですけど』
「え? あ、そなの?」

 ミサトは思わずガクッとした。
 来たには来たけど……そういうこと。それにしても……
 ミサトは玄関のドアを開けた。
 鍵掛かってないのに、何を遠慮してんのかしら、シンジ君は……
 少々はぐらかされて、余計なところでミサトはシンジに当たっていた。

「こんにちはー」

 シンジの後ろには、マヤが元気な笑顔を見せて立っていた。
 アパレルメーカのロゴの入ったTシャツに、バミューダショーツというラフな格好だった。
 タイミング悪いわよ、マヤちゃん……

「あら、いらっしゃい、結構早かったわねー」
「そうなんですよ。駅に着いたらちょうど電車が出るところで……乗り換えがうまくいったから、一本前の特急で来ちゃいました」
「そう……あら、買い物もしてきてくれたの?」

 ミサトはマヤが手に提げているビニール袋を見て言った。
 ジャガイモやトマト、レタスなどの野菜が詰まっていた。長ネギが袋から顔をのぞかせている。
 マヤはそれを少しだけ持ち上げるようにして答えた。

「ええ、そこの前のスーパーで買ってきました」
「そうなの。周りを憶えるのにちょうどいいから、後でみんなで出掛けようと思ってたんだけど」
「あっ、そうなんですか? それは……」

 マヤが少し申し訳なさそうな顔をしたので、ミサトは慌てて笑顔を作り、顔の前で手を振りながら言った。

「あー、いいからいいから。明日また、ね」
「あ、はい。わかりました」
「じゃ、そーゆうことで、シンジ君、レイ」
「……何がそういうことなんですか?」
「…………」

 ミサトとマヤの間で交わされた謎の会話を聞かされて、シンジはきょとんとした顔で言った。
 ……まだ何か聞いてないことがあるんじゃないだろうか。
 レイは相変わらず押し黙っている。
 ミサトは三人の顔を見回しながら言葉を続けた。

「ちょっと早いけど、今から夕食にするわ」
「あ……はい」
「場所は、そうね、シンジ君の部屋に行きましょう。レイ、みんなで食べるから」
「……はい……」

 レイがそう答えて玄関に出かけたとき、ミサトがそれを手でやんわりと制した。
 片足を靴の上に置いたまま、レイはミサトの顔を見上げている。
 ミサトはレイの着ている制服を指差しながら言った。

「その服じゃなんだから……適当に着替えてきなさい。Tシャツでも何でもいいから」
「……はい……」

 レイは小さな声で答えると、部屋の中に戻っていった。
 ミサトはそれを見送ってから、シンジとマヤの方に向き直った。
 その顔がすでに緩んでいる。

「じゃ、シンジ君はマヤちゃんと一緒に食事作っといて。私はちょっち買い物してくるから」
「えっ、材料は全部買ってありますけど?」

 マヤは不思議そうな顔をしてそう言った。
 シンジはミサトの表情から、何をしようとしているのかだいたい感づいていた。
 ミサトさんだからな、たぶん……

「んー、ちょっち、飲み物をね……」
「飲み物なら、お茶を……まさか、ビールですか?」

 驚いた顔のマヤの前に、ミサトはVサインをかざした。

「あったりー! それじゃ、二人とも料理お願いねん」

 ミサトはそう言うと廊下を小走りにエレベータの方へ向かった。

「ちょ、ちょっと、葛城さん!」

 マヤが呼び止めても、ミサトは手を振るばかりで振り向きもしない。
 やがてその姿はエレベータの中に消えていった。

「……しょうがないですよ、ミサトさんだから……」

 シンジはまだエレベータの方を見ているマヤに向かって悟ったようにそう言った。
 振り返ったマヤの表情は、はっきりと呆れ顔だった。

「でも、葛城さん、夕食の後、NERVへ戻るのよ」
「あっ、そう言えば……」

 車の中で、今日は送っただけですぐに帰る、とミサトが言っていたのをシンジは思い出した。
 それでも飲むつもりなのか、ミサトさんは……

「ビールなんて飲んだら、飲酒運転になっちゃうのに……」

 マヤはそう言ってため息をつきながらシンジの部屋に向かって歩き始めた。
 ミサトさんのことだから、1本じゃ済まないだろうな……シンジの心配はマヤよりも少し奥が深かった。



 シンジの部屋に入ると、マヤはテーブルの上に買ってきた品物を並べていく。
 それを見ながら夕食に何を作ろうとしているのかシンジは考えていたが、突然先程からの疑問を思い出した。
 そうだ、まだ聞いてないことがあったんだ……

「あの……ところで、マヤさん」
「何?」

 マヤはすでに機嫌を直してニコニコと微笑んでいる。

「今日は、どうしてここに来たんです?」
「えっ? 葛城さんから聞いてないの?」

 品物を全てテーブルの上に置いて、空になったビニール袋をきちんと畳みながらマヤは言った。
 少し驚いた顔をしているが、笑顔は消えていない。

「何も聞いてませんけど……」
「そうなの。葛城さん、ちゃんと言ってくれてると思ってたのに」
「…………」

 どうやらミサトとマヤの間で何か打ち合わせが行われていたらしい。
 どうして何も言ってくれなかったんだろう。
 今日の部屋のことだって、そうだし……

「あのね、シンジ君」
「あ、はい」
「シンジ君とレイちゃんがここに住むに当たって、葛城さんや司令代理といろいろ相談したんだけど」
「…………」

 司令代理って……冬月さんのことだっけ。
 どうして冬月さんの名前がここに出て来るんだろう?

「そうそう、葛城さんが部署を移って忙しくなったのは聞いてる?」
「あ、はい。作戦部はなくなったからって……」

 病院で聞いたような気がする。
 どこに移ったんだっけ。総務のどこかって言ってたような……

「そうなの。で、最初は葛城さんが週末だけこっちに来てシンジ君たちのお世話をすることになってたの」
「えっ、じゃあ……代わりにマヤさんが?」
「そう。他に適当な人がいなくて。私もまだ仕事がいろいろとあるから、週末しか来られないんだけど」
「そうなんですか……」

 ……これって結構大事なことじゃないか。
 どうしてミサトさんは何も言ってくれないんだ……
 シンジが複雑な表情をしているのに構わず、マヤは楽しそうに言った。
 まるで、弟や妹の面倒を見る姉のように。

「それでいいかしら?」
「あっ、はい……僕は、別に……」
「こっちに来たときはレイちゃんのお部屋に泊らせてもらうことにするから」
「はい……」
「それじゃ、これからよろしくね」
「あ、はい……よろしくお願いします」

 そうか、普段は学校に行ってるから……保護者って言ったって、ずっといてもらう必要はないんだ。
 週末だけか……寮のある学校に入って、週末だけ家に帰ってる感じになるのかな。
 シンジはぼんやりとそんなことを考えていた。
 これも、家族みたいなものかもしれない。
 ミサトさんは半分お母さんで半分お姉さんだったけど、マヤさんなら少し年の離れたお姉さんかな……
 そんなことをシンジが考えていると、マヤがどこから取り出したのかエプロンを着けながら言った。

「それじゃあ、夕食を作りましょう」
「あ、はい……手伝いますよ」
「うん、お願いね。えっと、まず……」

 マヤがシンジに料理の説明を始めかけたとき、ドアが開いて、着替え終わったレイが入ってきた。
 シンジに買ってもらったTシャツとキュロットを着ている。
 マヤは何か言いかけたが、口をつぐんでレイの服装を見つめている。
 上から下まで眺めてから、シンジの方を見ておもむろに口を開いた。

「これが、シンジ君が買ってあげた服?」
「えっ、あ……はい」

 どうして知ってるんだろう……ミサトさんが言ったのかな。
 シンジの思いをよそに、マヤはもう一度レイの方に視線を戻し、嬉しそうに微笑みながら言った。

「うん、よく似合ってるわよ、レイちゃん」
「…………」

 レイは褒められたというのに、無言だった。
 マヤはそれを気にすることなく、またシンジの方を見て言う。

「シンジ君も、いいセンスしてるじゃない」
「そ、そうですか?」

 適当に選んだだけなのに……シンジはまた複雑な気分になった。
 どうして褒められたのに、嬉しくないんだろう……綾波も、そうみたいだけど……

「じゃ、夕食作るから、レイちゃんはそこに座って待っててね」
「……はい……」
「ええーっと、じゃあ、シンジ君、今日作ろうと思うのは……」

 それからマヤはシンジに今日作る料理を細かく説明し始めた。
 レイが肉を嫌いなことも心得ているらしい。
 シンジとマヤが料理を作っている間、レイは椅子に座り、二人の姿を後ろからじっと見つめていた。
 そのうちにミサトも帰ってきて、ビールを飲みながら三人の様子を眺めていた。
 特にレイの、シンジとマヤを見つめる食い入るような視線を。



 夕食が終わってしばらくすると、ミサトは車で帰っていった。
 結局、食事の前後に缶ビールを5本も空けて、シンジやマヤを呆れさせて。
 酔いが醒めるまでしばらく休憩したら、というマヤの忠告も聞かずに。
 『だーいじょうぶよ、慣れてるから』という言葉に、マヤは絶句し、シンジは納得していた。

 新しい学校のことや、これからの生活のことを三人で相談しているうちに、夜は更けた。
 レイとマヤはシンジの部屋を出て、レイの寝室に戻っていた。
 すでにシャワーを浴びて、二人ともパジャマに着替えている。
 レイの着ている薄紫のシンプルなパジャマはマヤが買ってきた服の一つだ。
 そしてレイはベッドに、マヤは押し入れに用意してあった布団を持ち出して、床に敷いて寝ている。
 部屋の電気は消えていた。

「……レイちゃん?」

 窓から漏れ入ってくる星明かりの中、マヤがレイに言葉をかけた。

「……はい……」
「何か、私に訊きたいこと、ない?」
「…………」

 マヤは少し寝返りを打って、ベッドの上のレイの方を見た。
 薄暗くてよく見えない。微かに顔の輪郭らしきものが判る程度だ。

「さっき、相談してるとき、私のこと見てたから……」
「…………」

 シンジの部屋のリビングで話をしているとき、マヤはレイの視線に気付いていた。
 人の話を聞くときにレイは真っ直ぐに目を見るのだが、それが少しいつもと違うような感じだったのだ。
 かと言って、現状に何か不満があるようにも見えなかった。
 それでも何かある。マヤは何となくそう思って訊いてみた。
 だがレイは何も答えなかった。

「……無理にとは言わないけど……」
「…………」

 やっぱり、勘違いだったかしら。
 それとも、私にはまだ言いたくないのかも。
 こんな時、どうしたらいいのかな……

「今言えないなら、また今度……」
「……伊吹二尉……」

 マヤが訊くのをやめかけたとき、レイが小さな声を出した。
 話してくれるのかな。でも……
 マヤはクスッと笑って答える。

「昇進したから、伊吹一尉になったわ……でも、そんなの堅苦しいから、階級なしで呼んで。下の名前でもいいけど……」

 レイの動く気配がした。

「……伊吹……さん……」

 レイは思い出していた。ミサトにも同じようなことを言われたのを。
 その時レイは『葛城さん』と呼ぶことを選択した。
 そして今も同じ選択をした。

「何?」
「……さっき……夕食の時……」
「うん……」

 レイは切れ切れに言葉を漏らす。
 マヤは急かすことなく、レイの言葉をゆっくりと待った。

「……夕食……碇君と、伊吹さんが……作っている時……」
「あの時……何?」

 そう言えば、とマヤは思い出していた。
 あの時も後ろからの視線を感じたような……

「……少し……変な気持ちになりました……」

 レイはそういって言葉を止めた。
 マヤはそれがどういうことか解らずに聞き直す。

「変な気持ちって?」
「……わかりません……言葉にならない、気持ち……」
「そう……」

 マヤはレイの言葉をじっくりと考えてみた。
 自分には、保護者役なんて、まだ無理だと思う。
 でも、年長者として子供たちの理解者になることは出来るかもしれない。
 そう思ってここに来ることを承諾したのだから。

(……だから、これは最初の一歩。レイちゃんの気持ちを理解することが……)

 今まではレイとは仕事上の交流しかなかった。
 その時は感情のかけらさえレイは見せたことがなかった。
 だがこうして今は心の内を見せようとしている……

 ふと、マヤは思い出す。
 シンジ君……そう、シンジ君と一緒に料理してたんだった。
 そう、今のレイちゃんには、シンジ君が……

「レイちゃん?」
「……はい……」
「料理、したい?」
「…………」
「シンジ君と一緒に……」
「…………」

 またレイの動く気配がした。
 だが、暗くて何も見えない。
 しかしマヤは、レイの視線を感じていた。
 そう、この視線……

「シンジ君と私が、一緒に料理してたのが、気になったのね……」
「…………」
「私とシンジ君が仲良くしてるように見えたのね……」
「…………」
「それで、変な気持ちになった……」
「…………」

 暗闇の中、マヤはレイに語り続けた。
 レイは終始無言だった。
 だが、マヤはレイがちゃんと聞いているのが解っていた。
 視線を感じるから……

「レイちゃん、それはね……」

 マヤは少しだけレイの方に身を乗り出した。

「それは、嫉妬っていう感情なの……」

 マヤは笑顔でそう言った。
 暗くてそれはレイには見えないに違いない。
 だが、その表情は言葉に乗って伝わって行くはずだ。
 マヤはそう信じていた。

「レイちゃんは、シンジ君のことが気になるから……そういう気持ちになるの」
「…………」

 レイはまだ無言だった。
 暫しの時間が過ぎていく。
 レイの静かな息遣いだけが聞こえた。
 マヤは再び口を開いた。

「的を外してたらごめんなさい。でも……」
「……いえ……」

 レイの答えを聞いて、マヤは口をつぐんだ。
 当たってたのかな、これで……

「もう、いいの?」
「……はい……」

 そう答えたレイの声は、少し感情がこもっているような気がした。
 ほんとに、良かったのかな……マヤはしばらくの間考えていた。
 でも、これ以上は私にはできない……

「そう、それじゃ……おやすみなさい」
「……おやすみなさい……」

 二人はそう言葉を交わし、後は沈黙した。

 レイはまた真っ直ぐに上を向いていた。
 そして先程のマヤの言葉を頭の中で繰り返す。

(嫉妬……これが嫉妬という感情……)

 ……そしてそれは私が碇君のことを気にするから……

 レイはもう一度、横を向いた。
 マヤがその気配に気付いた様子はない。
 ぼんやりとその姿だけが闇に浮かぶだけだった。
 レイはじっとマヤの方を見ながら考えていた。

(……この人も……私の気持ちを知っている……)

 葛城さんも知っていた……

(私の気持ちを表す言葉も……)

 私が碇君を想う気持ちも……
 それなのに……

(知らないのは、私だけ……)

 レイは再び天井を見つめた。
 それから目を閉じた。
 瞼の裏に今までの光景が蘇る。
 その中の自分は、いつも言葉を失ってばかり……

(……何も知らない、私……)

 自分と他人の関係を感じていなかった私。
 でも、これからはそうじゃないのに。
 他人を意識していかなきゃならないのに。
 他人との関係を創り出さなきゃいけないのに。
 それなのに……

(……自分の気持ちが、言葉にならない……)

 ただそのことを考えながら、レイは次第に眠りの中に落ちていく自分を感じていた。



言葉。
人の心を伝えるもの。
言葉。
人の気持ちを表すもの。
言葉。
手段に過ぎないのに、
道具でしかないのに、
とても大切なもの。

言葉。
私に足りないもの。
いいえ、言葉は知ってる。
でも、いろんな言葉を知っていても、
それが心と結び付かない。
それがどんな気持ちか知らない。
私に足りないもの。
それは、感情。

いいえ、感情も知ってる。
嫉妬という気持ちも。
その他の気持ちも。
私に足りないもの。
それは、感情を表す言葉。
どんな気持ちになっても、
それを言葉にできないだけ。

どうすればいいの?
感情を表す、言葉を知るには。
誰にきけばいいの?
私の心を伝えるには。

感情。
今日知った感情。
それは、嫉妬。
なぜ、嫉妬するの?
碇君のために。
私は、碇君のことを、
どう思っているの?
どんな言葉で、表せばいいの……



新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

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Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions