どこにあるの?
私の絆。
私の過去。
私が、私でいるための
過ぎ去った時間の証。

私の時間。
未来へ続く、時間。
私にあるのは、未来。
過去は、置いていくもの。
でも、
確かめたい。
過去の私。
過去に私がいた、証。

それが絆。
目に見えないもの。
目に見えるもの。
目に見える絆。
それが、証。

どこにあるの?
私の証。
もう無いの?
消えてしまったの?
過去の私と共に。

過去の絆。
私が生きてきた証。
未来の絆。
私が生きていく証。
それをつなぐもの。
もう、無いの?
私のたどった、道……




後日談 其の弐

二つの絆




 陽は高く昇りつつあった。
 かつては光の届かない地底だったその場所も、今や陽光が燦々と降り注ぐ処となっている。
 天空から吹き抜ける風によって漣立つ湖は、太陽の光線を反射して水面をキラキラと輝やかせている。
 鬱蒼と繁る森は少し荒らされて所々に土の色を見せながらも、以前と変わらぬ緑を湛えている。
 そしてその中央には四角錐の形をした建物が、さながら4000年の時を経て倒壊寸前のピラミッドのような姿で建っていた。

 ジオフロント。
 かつて人類最後の砦と言われた地はその役目を終え、朽ち果てたかのように見える。
 そしてその中心となるピラミッド状の建物。NERV本部。
 壁は落ち、礎は崩れ、まるで本当に遺跡になってしまったかのようだ。
 しかし、表層だけが真の姿ではない。その地の底の更に下の方では、人々は再び動き始めていた。
 守られた平和を、未来へと受け継いで行くために。

 カートレインは地上へと向かっていた。
 3人の人間を乗せた一台の車を運ぶために。
 フロントグラスを通して陽が直射し、少し暑くなった車内で、彼らは思い思いに地上までの短い時間を過ごしていた。
 サングラスをかけた女性は、シートに深く腰掛けながらじっと前を見ていた。
 時折バックミラーに目を遣る。後部座席の様子を窺っているらしい。
 その後部座席には少年と少女が並んで座っていた。

 少年は窓の外の景色をぼんやりと眺めていた。湖と、森と、そして建物を。
 彼はここから去っていく今になって、初めてここに来たときのことを思い出していた。
 『すごい、本物のジオフロントだ!……』
 あれはたった半年ほど前のことだった。あの時は、この景色を見て素直に感動した。
 今は……今は、どうなんだろう。景色は違うけど……

 長かったように思えたけど、たった半年間だけだったのか。
 ここでの生活。地上とジオフロントを毎日のように往復する生活。
 実験と、戦闘の繰り返し。逃げ出したこともあったっけ。
 それに父さんとの再会。褒めらり、反抗したり……
 ここは、僕にとってどういうところだったんだろう。
 いいところだったんだろうか。悪いところだったんだろうか。
 どっちにしてももう見ることはないのかもしれない。目に焼き付けておいた方がいいのかな……

 少女は、窓の外を見る少年を眺めていた。
 どこか寂しげに、景色を眺める少年の横顔を。
 いや、顔は窓の外に向いていて、ほとんど見ることができない。
 少し男らしくなったが、まだあどけなさを残す顔の輪郭が見えるだけ。
 彼が彼女の近くにいても彼女を見てくれないときは、彼女は黙って彼の方を見ていることが多かった。
 そして考える。あなたは、私にとって、どんな人? まだ言葉で表せない。

 それから視線を遠くに移す。
 そこは彼女が生を受けた場所。そしてこれまでの短い人生のほとんどを過ごしたところ。
 彼女が地上に出ていたのはほんのわずか。慣れない他人との付き合い、即ち学校生活のため。
 その経験も、今の彼女にとっては不完全に受け継がれた記憶の一部でしかない。
 私、誰? 今ここにいる、私。生きている私。
 また視線を近くに戻す。この景色、あまり見たくない。もう、いらないから。

 不意に彼らの視界が閉ざされた。
 カートレインはトンネルのようなところに入っていく。
 車内がネオンランプのオレンジ色の光に包まれた。
 少年は景色を断ち切られて、窓の外を見ていた視線を前に向けた。
 少女は少年の横顔を一瞬だけ見てから、同じように前を向く。
 少年は少女の方をちらっと見たが、黙って前を向いていたので再び視線を戻す。
 サングラスの女性はそれをバックミラーで確認してから、自分も前を見る。
 車内には会話はなく、トンネルの中をリニアが走る轟音だけが響いていた。
 地上が近付いていた。



 外は風が強かった。
 砂煙の中を、一台の青いスポーツカーが走っていた。
 吹き上げられた細かい砂が、視界をぼやけさせる。
 フロントグラスも砂でいっぱいだ。ワイパーの通った跡の扇形がくっきりと描き出されていた。
 ミサトは車を運転しながら少々不機嫌な顔をしていた。

 砂埃を巻き上げながら走ってるから、車体もきっと砂まみれだわ。
 洗車したら傷だらけになっちゃうわね、これじゃ。
 ったく、この道はあれ以来誰も通ってないのかしら。
 ま、峠を抜けるトンネルのところしか復旧してないのかもね。
 どのみち、この辺は最初っから放置地区みたいなもんだし……
 そして彼女はスピードが出せないことにいらついていた。

「あの……ミサトさん?」
「んー、何?」

 ミサトがサングラスの奥で不機嫌な目をしながら考え事をしていると、後ろからシンジが話しかけてきた。
 バックミラーの端っこに、少しだけ顔が映っている。
 少々不満げな顔つきだ。

「どこに行くんです? トンネルに行く道、過ぎちゃいましたよ」

 最初にここに来たとき、そうだった。
 箱根の方からミサトさんの車に乗って、峠の長いトンネルを抜けて、またトンネル……と思ったらそれがリニアトレインの入り口。
 だからあの時来た太い道の方に行けばいいはずなのに、逆の方に曲がって何やら道無き道のようなところをさっきから走っている。
 寄り道でもするのかと思ったけど、ミサトさんのマンションは逆の方だし……
 さっきのことと言い、どうも今日のミサトさんの行動は読めない。いつものことかもしれないけど。

「んー、ちょっちね。寄り道」

 ミサトは少しめんどくさそうに答えた。
 ちょっと考えれば解るじゃない。そう言いたそうな声の調子で。

「寄り道って……」
「ま、着けばわかるわよ」
「…………」

 そう言われてはシンジは引き下がらざるを得ない。
 でも、寄り道って言ったって……
 ここから第2東京って、車で結構かかるはずだけど、寄り道してて大丈夫なんだろうか。
 本部を出るときもさんざん時間食ったのに……

 でも……あれは偶然じゃないよな、きっと。
 ミサトさんが、わざと……だよな。
 連れて行かないって言ってたのに、どうしてなんだろう。
 ケイジを出たときにきこうとしたら、無視して歩き始めちゃったし……
 ……今、お礼言っといた方がいいのかな?

「あの……ミサトさん?」

 シンジはシートから少し伸び上がるようにしてもう一度ミサトの方に声をかけた。
 左側に座ってたら話しかけやすかったんだけど……
 綾波が真ん中寄りに座ってるから、前を覗き込みにくい。
 バックミラーの右端にミサトの顔がちらっと映ったとき、ミサトが声を返してきた。

「だから、着けばわかるって」
「あ、いや、あの、そうじゃなくて……」
「後で、後で」
「後でって、でも……」
「舌、噛むわよ」
「!……」

 ミサトがそう言ったときにはもう遅かった。
 車が小さな窪みにはまって大きく弾んだのだ。
 元々道が悪い上に、例の爆弾の爆風で砂が一面に道路を覆い、見にくくなっていたらしい。
 シンジは見事に舌を噛んでしまった。
 先をほんの少しだけ噛む方が、大きく噛むよりずっと痛いのだ。

(いてて……)

 あまりの痛さに涙が出そうだ。
 もしかしたらうっすらと涙ぐんでるかもしれない。
 最悪だ……そう思っていたとき、不意に視線を感じた。
 慌てて左の方を見る。
 レイが不思議そうな表情でシンジの方をじっと見ているのだった。

「いや、あの……」

 この目を見ると、どうして何か言わなきゃって思うんだろう。
 綾波の目を見ると、最近そんなことをよく思う。
 何だか、心の中を見通されているというか、何というか……
 とにかく、この目には嘘がつけないような気がする。
 もちろん、嘘をつく気なんて無いけど……

「舌……かんじゃって……揺れた拍子に……」
「…………」

 別に何もきかれたわけじゃないのに……
 何でこんなこと言ってしまうんだろう?
 わからないけど、ただ、何となく……

「その……綾波は大丈夫だった?」
「……何が?……」

 相変わらずレイはシンジの目を真っ直ぐ見ながら言う。
 言葉は少ないけど、以前と違う、温かい感じがする。
 僕の方を見ながら話してくれるようになったからだろう、きっと。

「舌、かまなかった?」
「……いいえ……」
「そう、よかっ……!」

 シンジがそう言おうとした瞬間、また車が揺れた。
 今度は舌は噛まなかったが、レイの方を見て半身になっていたせいで、倒れかかりそうになってしまった。
 肩で押してしまっただけだけど……そう言えば、前にもこんなことが……

「あの……ごめん……」
「……何が?……」
「いや、その……」

 謝るようなことじゃないのかもしれない、とシンジは思った。
 車が揺れて、肩がぶつかったくらいじゃ……
 それに、もう少し離れて座れば問題ないじゃないか。
 綾波はずいぶん真ん中の方に座ってるんだけど……
 でも、とにかく……とシンジは考え直した。
 一度謝りかけたんだから、一応ちゃんと言っておかないと……

「あの……肩、ぶつかったから……」
「……そう……」
「うん……車、揺れたよね、だから……」

 なるべく自嘲気味にならないように、とシンジは考えながら言った。
 この性格は、そのうち直さなきゃいけない。
 人の顔色ばかり、うかがってちゃだめなんだ。
 それに、謝るときも、はっきりと言わなきゃ。今みたいなのじゃ、まだ……
 そんな風に考えるシンジの目を見つめながら、レイは小さな声で言った。

「……なら、構わないのに……」
「えっ?」
「……あなたのせいじゃないのに……なぜ謝るの?……」
「うん、でも……ぶつかったのは、僕だから……」
「…………」

 シンジがそう答えると、レイは黙ってシンジの顔を見ていたが、やがて視線を下に落とした。
 それから前に向き直る。
 そのままじっと下の方を見つめていたが、ゆっくりと顔を上げ、前に目を遣る。
 シンジはそんなレイの目の動きをぼんやりと見つめていたが、レイが前を見たときに同じように前に目を戻した。
 フロントグラスの向こうには、古い高層アパートがいくつも建ち並んでいた。

(……? ここは……)

 前にも見たことがあるような気がする。
 しかし、爆風で崩れている建物が多いせいか、今一つはっきりしない。
 道路標識や信号なども吹き飛んでしまってるので、思い出す手掛かりに欠けていた。
 でも、この感じ……そう、もしかしたら……でも、どうして……

 気になってシンジはミサトに訊こうとした。
 だが、『着けばわかる』と言われたことを思い出して、やめた。
 それでも気になって、レイの方を見てみる。
 レイは少し斜め上の方を見上げるようにして、高層アパート群に見入っていた。

(やっぱり……そうなのかも……)

「えーっと……何号棟だったかしら……でもこれじゃ、番号がわかっても見分けつかないわねー」

 シンジが考えていると、ミサトが大きな声で独り言を言った。
 じゃあ、やっぱりそうなんだ。
 一番最近ここに来たのは夜が多かったから、気が付かなかった。
 それに、車で来たのも、この道から来たのも初めてだし……
 シンジがそう思い直したとき、ぼんやりとアパートを見つめていたレイが小さな声を漏らした。

「……あと、6つ先です……」
「あら、そう。同じようなのばっかなのに、よくわかるわねー」
「……はい……」

 ミサトとレイのその受け答えを聞きながら、シンジは自分の考えが正しいことを再確認した。
 やっぱり、あそこに寄り道するんだ。
 でも……どうして?



Extra Episode #2

wear and tear




 車の外に出ると、砂埃が舞い立った。
 見れば辺り一面、見事に砂に覆われている。もちろん、爆風が湖の辺りから運んできた砂だ。
 目の前のアパートは崩壊寸前。爆風に晒された側の壁が一部崩れている。
 しかし、アパート自体は爆風に逆らわない向きに建っていたため、倒壊は免れていた。
 端の方の部屋は壊れているものもあるが、爆心地から遠い方の部屋は何ともない。
 そして、あの部屋もたぶん、壊れずに残っているはずだ。
 シンジはその部屋の方をちらっと見遣った。
 レイも同じ方向を見ている。

「さーて」

 車から降りたミサトが、トランクを開けながら言った。
 シンジとレイはそれぞれ近い方のドアから降りて、トランクの方を見た。
 ミサトが取り出したのは、籐で編んだ衣装ケースだった。
 しかし、まるでピクニックの弁当を入れていく大きなバスケットのようだった。
 そんな物取り出して、何をしようって言うんだろう?
 ここでお昼でも食べるつもり? まさか……
 シンジが不審そうな顔をしているのを見て、ミサトはへらへらと笑いながら言った。

「これで足りるかしら。足りるわよね?」
「……何がですか?」

 不機嫌にも聞こえるシンジの声を聞き流して、さも楽しそうにミサトは言う。

「何って……レイの荷物、取りに来たんじゃない」
「綾波の……荷物って……」
「着替えとかに決まってるでしょ」
「…………」

 そう言えば、出る前に着替えがどうのって言われたっけ……
 でも、それならそうと先に言えばいいのに。
 着いたらわかるわよ、なんて言わなくても……
 シンジがブツブツと口の中で呟いていると、ミサトはレイの方を見ながら言った。

「持ってる服、そんなに多くなかったはずよね。これに全部入る?」
「……入ると思います……」

 レイは少し考えてからそう答えた。
 小型のスーツケースくらいの大きさはあるから、充分だと思ったのだろう。

「一応、もう一つ持ってきたから、もし入らなかったらこれ使えばいいわ」

 ミサトはケースをレイに手渡すと、トランクから同じ型のケースをもう一つ取り出しながら言った。
 レイはケースを胸に抱えるようにして持ちながら、ミサトの方を見て答えた。

「……はい……」
「じゃ、行きましょうか」
「……はい……」
「シンちゃんも、行くわよ」
「あ、はい……」

 ミサトは歩き出しかけたが、不意に振り返ってシンジの方にケースを突き出しながら言った。

「ほら、これ持って」
「はい……」

 シンジはミサトに渡されたケースを手に提げて、二人の横について歩き始めた。
 ミサトをレイとの間に挟むようにして。
 籐のケースは、大きさの割には軽かった。

 歩きながらマンションの上の方を見上げる。
 ところどころ、ガラスが割れている。
 直撃ではないにせよ、やはり爆風の力というのは凄まじい。
 部屋の中もいくらかかき回されてるだろう。
 もちろん、建物がこうして倒れずに残っていたこと自体、幸いと言わなければならない。
 爆心地からかなり離れていることもあったが。
 それにしても……

「あの、ミサトさん」
「んー?」

 シンジは歩きながら、さっきから少し気になったことを訊いてみた。

「ミサトさんは綾波の部屋、知ってたんですか?」
「当ったり前でしょ。大事なチルドレンの住んでる場所くらい知らなくて、どうするのよ」

 シンジの質問に、ミサトは間髪入れずに答えた。相変わらずの笑顔のままで。

「じゃ、その……部屋の中も、見たんですか?」
「んー、まあね」

 今度はミサトは少し複雑な表情になって言った。
 3人は並んで階段を昇っていった。
 昼間にもかかわらず、やはりここはいつも薄暗い感じがする。
 たぶん、もう電気など点きはしないだろう。
 月の出ていない夜なら何も見えないに違いない……
 踊り場を回るとき、一番左を昇っていたレイが遅れた。
 レイは黙ってシンジとミサトの後から付いて来る。
 
「驚きました? こんなところに……」
「少しはね。でも、レイ本人が何も問題ないって言うし、私の管轄じゃないから引き下がらなきゃしょうがないじゃない」

 2階を過ぎ、3階にさしかかろうとしていた。
 相変わらずレイは二人の後から付いて来る。

「その割には、僕の時は……」
「あれは、あの場に居合わせたからよ。レイは、私が来る前からここに住んでたもの」
「そうなん……ですか……」

 そうか、思い出した。
 ミサトさんがここに来たのは、僕よりちょっと前だって言ってた。
 綾波は、ずっと前からここにいたんだ。いつからかは知らないけど……
 学校に転校してきたって言ってたから、その時からかもしれない。
 じゃあ、それまでは、どこに……

 402号室。その部屋の前に、3人は来ていた。

 見たところ、何も変わってはいない。
 違うのは廊下の前が、砂だらけだということくらいだ。
 だが、誰も部屋に入ろうとしなかった。

「あの……どうしたんです?」

 シンジが当惑した声を出すと、ミサトがドアの方を見たままで言った。

「レディーのためにドアを開けるのは、男の子の仕事でしょ」
「あ……はい……」

 シンジは横の二人を見ていた。
 ミサトは澄ました顔でそう言ったまま立っている。
 レイは相変わらず無表情なままだ。
 ……でも、たぶん、綾波はミサトさんが言ったようなことを思ってるわけじゃないよな。
 シンジはそんなことを考えながら、空いている左手でドアを開けた。
 ドアノブも砂にまみれていた。もちろん鍵はかかっていなかった。
 しばらく聞いていなかった、軋んだ音を立ててドアは開いた。

「……あの……」
「レイ」
「…………」

 シンジがドアを開けたまま持っていると、ミサトはレイを入るように促した。
 レイは黙って開けられたドアに入っていく。
 しかし二、三歩進んだところでレイは立ち止まっていた。
 ミサトは一歩だけ前に進んで、レイが動くのを待っていた。
 シンジはずっとドアを持ったままだ。
 どうしたのかな……

「レイ、もうそのまま土足で上がっちゃったら?」
「……はい……」

 そんなやり取りの後、ややあって、レイと、そしてミサトが部屋の中に入っていった。
 シンジも後からついて入る。
 ドアから手を離したが、勝手に閉まろうとしない。
 どこか引っかかっているのだろうか。それとも、建物が傾いてしまったのかもしれない。
 まあ、いいや、開けたままでも。どうせすぐに出るんだし……
 そのうち、風で閉まるかもしれないな。
 そう思いながらシンジは玄関を入っていった。

 つい靴を脱ぎそうになって、シンジは一人で苦笑した。
 そうだ、これがあったんだよ。
 シンジの目の前には、スリッパが二足並べて置いてあった。
 やや古びた紺のスリッパと、まだ新しい緑のスリッパ。
 これも持っていった方がいいかな。うん。
 シンジは屈んでスリッパを拾い上げた。
 あ、そう言えば……
 シンジはふと思い出し、床を見回した。それから右側に目を遣る。
 あれ、ない……

「えーっと、服が入ってるのはこれだけ?」

 奥からミサトの声が聞こえてきたので、シンジは前に目を戻した。
 チェストの中身をケースに移し始めているのかと思ったら、違った。
 ミサトはチェストがあった場所のずっと手前のところに立って、下の方を覗き込んでいる。
 その影に隠れるようにして、レイがしゃがんでいた。

「あの……どうしたんです?」

 シンジはそう言いながら自分も部屋の中に入っていった。
 中は相変わらずの殺風景な部屋だった。
 いや、以前より少し荒れていた。床が砂だらけだ。
 窓ガラスが割れ、吹き込んでくる風が、黒いビニールのようなカーテンを翻している。
 爆風のせいだろうか、ベッドは元あったところから部屋の中の方にずれ込んでいて、斜めになっていた。
 それに、チェストがない。……いや、あった。倒れているのだ。
 ミサトとレイの向こう側にチェストは倒れていた。引き出しの面を下にして。

「あの……」

 シンジはそう言いながら、ミサトの左横に回り込んだ。
 同時に、レイが立ち上がった。手に何かを持っている。
 シンジはそれを見て思わず声を出した。

「それは……」
「…………」

 レイは黙って手の上のそれを見ていた。
 もちろん、シンジにも見覚えのあるものだった。

「父さんの、眼鏡……」
「…………」

 シンジの呟きに、レイが黙ったまま頷いた。
 黄色いフレームのその眼鏡は、チェストが倒れたときに落ちた衝撃からか、片方のレンズが粉々に割れていた。
 床にガラスの破片が散らばっている。
 もう片方のレンズも端から放射状にひびが入っている。
 フレーム自体はプラスチック製なので折れも曲がりもせずに……少し歪んだままで……原形を保っていた。

「壊れちゃったね……」
「…………」

 シンジの言葉に、レイはただ頷くのみだった。
 綾波の目……寂しそうだな。シンジはうつむき加減になったレイの顔を見ていた。
 父さんの眼鏡、やっぱり大事だったんだ……

「眼鏡ケースに入れてなかったの?」
「……ええ……」

 やっとレイが小さな声を出した。
 慰めた方が、いいのかな……

「そうか……でも、レンズ、入れ替えたら……」
「……いいえ……」

 しかし、シンジの言葉を遮って、レイがさっきより少し大きな声を出した。
 顔を上げ、シンジの方を見ながらゆっくりと話し出す。

「……もう……いいの……」
「いいのって……」
「……もう……いらないから……」
「いらないって……」

 シンジはただレイの言葉尻を繰り返すだけだった。
 ミサトは二人の言葉のやり取りを、目だけで追っていた。
 まるで、テニスのラリーを見るかのように。

「……私には……これは、もう……必要ないから……だから、いいの……」
「そうなの……」

 でも、綾波……綾波? ……笑ってるの?
 シンジには、レイの目が少しだけ微笑んだように見えた。

「……これは……ここに、置いていくものだから……」

 レイはそういいながら、すぐ脇にあった冷蔵庫の上に壊れた眼鏡をそっと載せた。
 フレームが歪んだ眼鏡は据わりが悪く、微かに揺れている。
 その横のビーカーの水も揺れていた。
 だがレイの視線がその眼鏡からしばらく離れることはなかった。

「えーっと」

 沈黙を破るようにして、ミサトが妙に元気な声をあげた。

「持っていくのは、このチェストの中に全部あるの?」
「……いえ……これと、あと……」

 振り返ったレイはミサトを見てそう言いかけたが、急に口をつぐむと、鋭い視線でミサトを睨んだ。
 いや、睨んだのはミサトではなかった。その奥の……
 レイは突然歩き出した。早足で。
 ミサトの脇をすり抜けるようにして歩いていく。視線の先へと。
 他に何も見えないかのように。

 立ち止まる。その前には扉があった。
 白い二つの扉。レイは両の指先をその扉の取っ手にかけ、一呼吸置いてから両側にすっと開いた。
 ミサトもシンジも、レイのその行動をあっけにとられたように見ていた。
 レイの目の前には、ハンガーに掛けられた白い服があった。
 ほの暗い部屋の中でも、一際白く輝いているように見える。
 そっと手を伸ばし、服を手に取る。
 そしてただじっとその服を眺めていた。

「綾波……」
「…………」

 後ろからシンジが呼びかけても、レイは微動だにせず目の前の服に見入っていた。
 まるで時が止まったかのように。
 シンジは一歩レイの方に近付き、もう一度声をかけてみた。

「あの……綾波?」
「……いかり、くん……」

 シンジは、ドキッとした。
 綾波……どうしたんだろう、声が……
 レイのその声を、シンジは前にも聞いたことがあるような気がした。
 前にも……そうだ、あそこで……
 じゃあ、綾波、もしかして……

「……碇君……」

 レイは震える声でそう言いながら振り返った。
 その胸に、しっかりと白い服を抱きしめて。
 その瞳に、うっすらと銀色の露を浮かべて。
 綾波……やっぱり、泣いてたんだ……どうして……
 
「あの……綾波?」
「……碇君……これは……この服は……」
「えっ?」
「……これは……持っていくの……これだけは……」
「あ……」

 綾波……笑ってるの?
 泣きながら、笑ってる……
 いつもと同じ、ぎこちない微笑みがレイの顔に浮かんでいた。
 濡れた深紅の瞳が輝いている。
 レイは目を閉じてうつむくと、小さな声で呟いた。

「……これだけは……」

 まるで、自分に言い聞かせるように。

「そうよね。それを取りに来たようなもんだから」

 黙って成り行きを見守っていたミサトが突然口を開いた。
 シンジがミサトの方を見ると、ミサトは穏やかな笑みを浮かべていた。レイの方を見ながら。

「あの……じゃあ、このためにわざわざ?」

 シンジがそう聞くと、ミサトはちらっとシンジの方を見て、腕を組みながら言った。

「もちろんじゃない。他に理由なんてある?」
「いえ……」
「そりゃ、他の服も持っていけるだけ持っていくけど」
「はあ……」

 収納棚には他にもブラウスやスカートがいくつか吊り下がっている。
 それに、あのTシャツやキュロットも。
 しかし、チェストの中身を全部入れても、確かに籐のケース二つで充分足りそうだ。

「とりあえず、それとお揃いの靴も一緒に持って行かなきゃね」
「えっ、靴? あっ!」

 ミサトの声に、シンジは慌てて棚の方に振り返った。
 あの靴……ここにあったんだ……

「綾波……あの、靴……」
「…………」

 確か玄関に置いてあったはずなのに……
 シンジの言葉に、レイは閉じていた目を開き、シンジの顔を上目遣いに見てからゆっくりと棚の方に振り返った。
 そして、棚の下の方を見つめる。
 ボール紙でできた箱の上に、あの白い靴がきちんと並べて置かれていた。

「どうして、こっちに置いてあるの?」
「…………」

 シンジがそう聞いても、レイはしばらく答えなかった。
 靴を見ながら、ただひたすらに考えているようにも見える。
 数十秒の間を置いてから、レイがポツリと言葉を漏らした。

「……わからない……でも、しまっておきたかったから……」
「わからないって……」

 シンジが聞き返しかけたとき、ミサトのうれしそうな声が部屋中に響いた。

「何しろ、レイの一番大切なものだもんねー。大事にしまいたくなるわよ」
「えっ?」

 シンジは思わず振り返ってミサトの方を見た。
 ミサトは腕を組んでニコニコと笑いながらレイの方を見ている。
 シンジはもう一度レイの方を見直した。
 レイはいつの間にか振り返ってミサトの方を見ている。
 そして涙目のままミサトの顔を見上げていた。無表情に。
 だがやがて表情が和む。口元に戸惑うような笑みが広がった。
 それから小さく口を開く。何か言いかけて、一度口を閉じ、静かに息を吸ってから、レイは答えた。

「……はい……」

 透き通るような、はっきりとした声だった。
 ミサトはそれを聞いて満足げに頷くと、組んでいた腕を解いて人差し指を顔の横に立てながら言った。

「さ、それじゃ、荷物詰めましょうか」
「あ、はい」
「……はい……」

 ミサトの言葉に、呆然としていたシンジは我に返った。
 しかし、まだ頭の中は少し混乱している。
 ……そんなに大事なのかな、あの服って。
 でも、綾波の笑顔を見てると……やっぱり、そうなのかな。
 とにかく、良かった。気に入ってくれて。また一緒に買いに行こうかな。
 シンジの顔にも、少し笑顔が戻った。



 彼らの作業は始まった。
 レイが収納棚の服を籐のケースの一つに詰めている間に、ミサトとシンジは倒れていたチェストを起こす。
 途中で引き出しが開いてしまい、中の物がこぼれたので、シンジは動揺して手を離しそうになってしまった。

『ほら、女の子の下着をジロジロ見ない!』

 ミサトのその一言で、シンジは部屋の外に行く羽目になってしまった。
 開いたドアの横でシンジは手持ち無沙汰に立っているのみだった。
 緑色と紺色のスリッパを手に持っただけで。
 部屋の中からミサトとレイの会話が二言三言、聞こえた。

 やがて、籐のケースを手に持ったミサトとレイが部屋から出てきた。
 レイはケースを大事そうに胸に抱えている。
 ほんのわずか、笑顔を浮かべながら。
 そして彼らはその場を後にした。

 しばらくして、スポーツカーのモーター音が辺りに鳴り響いた。
 それからその車は、来たときと同じように砂煙を巻き上げながら走り去っていった。

 開いていたドアが、強い風に煽られ、大きな音を立てて閉まった。
 人気のない部屋の中では、ただ虚しくカーテンが揺れていた。
 この部屋にもう人が来ることはないだろう。
 床に散らばったガラスのかけらも片付けられることはないに違いない。
 壊れた眼鏡も、その他に残されたいくつかの品物も。

 そこを訪れるのは、夏の乾いた風だけになった。



絆。
還って来た、私の絆。
まだあった、私の絆。
前と同じところに。
私が遺したままに。

絆。
大切な絆。
二つの絆。
絆があるから、
私はここにいられる。
絆があるから、
これからも生きていける。

過去の絆。
私を作った絆。
でも、もういいの。
思い出は、心の中に。
未来への絆。
私を作っていく絆。
それがあれば。
それさえあれば。

でも、忘れてはだめ。
最初の絆。
私を未来へと導いた、
一番大切な絆。
ありがとう。
私の絆。
ありがとう。
『お父さん』……



新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

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Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions