出逢い。
そして、
別れ。

出逢いがあるから、
別れがある。
出逢いは、
別れの最初の一歩。

でも、
別れたくない。
今の私の、出逢い。

でも、
いつか、別れる。
望んでいないのに。

でも、せめて、
その時まで、
出逢った時の、
思い出を、
大切にしたい……




後日談 其の壱

架け橋




 窓の外に人工的な朝日が現れ、仮想的な夜明けが部屋を包み込む。
 地下の病室にも、無味乾燥ながら朝は訪れる。
 だが、それでも朝が清々しいと思うようになった。
 そう、目を覚ましさえすれば、生きていることが感じられるから。

 彼女は病室のベッドの上に座っていた。
 起きたのはずいぶん前だった。
 乾いた音が、部屋の片隅で響いた。
 自動ドアが開く音……この音を、もう何度聞いたことだろう。
 今朝も変わらず、その音がした。
 そう、いつもと同じ時間。面会時間の始まりと同時に。

 そして、そこにある、いつもと同じ笑顔。
 なのに、いつも見たくなる。
 いつまでも見ていたくなる、その笑顔……

「おはよう、綾波」
「……おはよう、碇君……」

 毎朝こうして挨拶を交わせることが、こんなにうれしいなんて。
 彼らはいつもにも増して楽しげに微笑みあった。
 そして少年は少女に語りかける。

「よかったね、退院できるようになって」
「……ええ……」

 レイが入院してから、はや3週間が経っていた。
 ようやく日常生活が送れるまでに回復し、本日退院の運びとなった。
 そう、今日はこれから二人とも、第2新東京に行くことになっているのだ。

 シンジは持ってきた鞄を床に置くと、いつものようにベッドの横の椅子に座った。
 それから再びレイに話しかける。

「ミサトさんが、送ってくれることになってるんだけど……」
「……そう……」
「朝は早く来るって言ってたのに、まだかな。そうだ、綾波、朝食は?」
「……まだ……」
「じゃ、取ってくるよ」

 シンジがそう言って立ち上がり、部屋を出ようとしたとき、自動ドアが開いてミサトが入ってきた。
 手に鞄やら紙袋やらをいっぱい持って。
 そしてシンジとレイにいつもの屈託のない笑いを投げかける。

「おはよー、シンちゃん、レイ」
「あ、おはようございます」
「……おはようございます……」

 ミサトは外に遊びに出掛けるときのような、ラフな服装だった。
 だが、この服はシンジは一度も見たことがない。
 大方、地下の非常用物資倉庫からかっぱらってきたのだろう。
 ミサトは持ってきた荷物をベッドの足元に置きながら言った。

「レイが朝食摂ったらすぐに出るってことでいい?」
「あ、はい」

 シンジはベッドのところまで戻ってきてそう答えた。
 しかしミサトはシンジを見ずにレイの方やベッドの周りを見回していた。
 シンジの鞄を見つけたが、中に物がほとんど入っていない様子を見て渋い顔になる。

「……どうしたんです?」

 ミサトがしばらく考えるような顔をしてからため息をついたので、シンジは恐る恐る訊いてみた。

「もー、シンちゃんったら、レイの退院だっていうのに、気が利かないんだからー」
「え? な、何のことです?」

 ミサトがしょうがないというような顔をしてそんなことを言ったので、今度はシンジが考え込んでしまった。
 ……退院祝いとか、いったんだっけ?
 花くらい持ってくればよかったかな。
 でも、退院するんだし、邪魔になるかと思って……
 シンジが本当にわからなそうな顔をしているのを見かねて、ミサトが言葉を続けた。

「あのねー、レイの着替えくらい、持ってきてあげなさいよー」
「え? あっ!」

 すっかり忘れていた。
 自分の着替えは取りに行ったのに……
 1週間ちょっと前、ミサトに地上に連れてもらってだったが。
 廃墟同然のマンションの押し入れからいろいろと回収してきた。
 何着かの衣類と、鞄。元々持ち物が少なかったから、まともに残っている物はほとんどなかった。
 物置には段ボール箱がいくつも捨ててあった。
 たぶん、アスカの要らなくなった荷物だろう。
 そしてシンジは持ってきた服をローテーションで着替えながらクリーニングに出していたのだった。
 レイの今の着替えは、病院の方で用意してくれていたので、考えが回らなかったのだ。

「で、でも、ミサトさん、綾波の部屋まで取りに行けませんよ。遠いし……」

 そう、確かにそれはそうだが……
 ミサトは呆れたような顔をしてシンジに言った。

「昨日言えばいいじゃない。連れて行ってあげたのに」
「あ、はい……」

 シンジは消沈してしまった。
 おかげで、シンジは気付かなかった。
 ミサトも今朝になるまでレイの着替えのことを忘れていたのを。

「レイ、悪いけど、これで我慢して。前に本部に着て来た服を、クリーニングに出しておいたから」

 ミサトはそう言って持ってきた紙袋の中からビニールに包まれた服を取り出し、ベッドの上に置いた。
 それはレイの制服だった。見慣れた、第壱中学校の制服。
 それに、靴も出してきてベッドの下に並べる。
 たぶん、あの日に着てきた服なのだろう。

「……はい、いえ……構いません……」

 レイはそう言って服を手に取ると、ビニールを破り、制服を取り出して広げた。
 ブラウスは真っ白に洗われ、スカートには綺麗にプリーツが付けられている。
 レイはしばらくそれを眺めていた。

(でもやっぱり、新しい門出には新しい服を着せてあげたかったわね)

 ミサトは腕を組んでレイを見ながら思った。
 残念ながら、倉庫には子供用の服が置いていなかったのだった。

「ほら、シンちゃん、朝食取ってきてあげて!」

 レイがパジャマのボタンに手をかけたのを見て、ミサトはシンジに言った。

「あ、はい!」

 同じくレイを見ていて動揺したシンジも、一目散にドアの外へ駆けて行った。
 ミサトは振り向いてシンジの後ろ姿を見送っていたが、ドアが閉まるとレイの方に向き直ってため息をつきながら言った。

「……レイ」
「……はい……」

 レイは着替えの手を止めてミサトの方を見ている。
 シンジがいなくなったので、少し笑顔の量が減ったようだ。
 ミサトはなるべく優しい口調になるようにして言った。

「シンちゃんがいるときには、着替えはしないようにね」
「…………」

 レイは不思議そうな顔をしながらも頷くと、再び着替え始めた。
 ミサトは紙袋から下着や靴下を取り出してレイに渡してやる。
 レイは病院のパジャマから何から一旦全部脱いでから、下着、そして制服と身に着けていった。

(まだ羞恥心ってものが足りないのね……やっぱ、シンちゃんと二人にするのはマズイか……)

 ミサトはシンジが座っていた椅子を占領しながら、そんなことをあれこれと考えていた。
 レイはリボンを綺麗に結び終えると、パジャマをきちんと畳んで枕元に置き、考え込んでいるミサトの顔をぼんやりと眺めていた。



 シンジが朝食の置かれたワゴンを押して戻ってきたのは、レイが着替え終わってすぐだった。
 そしてレイがベッドに腰掛けたまま食事を摂っている間に、シンジはミサトに話しかけた。
 座っていた椅子はミサトに横取りされてしまったので、立ったままで。

「あの……ミサトさん」
「んー? 何?」
「ちょっとお願いがあるんですけど……」
「お願い……何を?」

 内ポケットから書類を出して何やら内容を確かめていたミサトが、シンジの方に顔だけ向けて聞き返した。
 シンジは食事中のレイの方をちらっと見てから、口を開いた。
 そう、昨日、綾波と相談してたこと、言わなきゃ……

「あの……出る前に、ケイジに行きたいんですけど……ダメですか?」

 シンジの言葉にミサトは一瞬手の動きを止めたが、すぐに持っていた書類の束を揃えてから言った。

「ケイジに?」
「はい……ダメですか?」

 シンジの再度の問いかけにミサトはすぐに答えずに、揃えた書類を内ポケットに戻すと、シンジの方に身体ごと向き直って言った。

「あのね、シンちゃん」
「あ、はい……」

 ミサトの表情がいささか渋い。
 やっぱりダメなのか……
 シンジが思ったとおり、ミサトの口から出たのは否定の言葉だった。

「シンちゃんはもうNERVの関係者じゃないの。だから、施設内を自由に動き回ることはできないの。わかる?」
「あ……はい……」
「非公開組織じゃなくなる予定だけど、一応、守秘項目っていうのがまだいっぱい生きてるのよね」

 残念そうな表情のシンジに向かって、ミサトは言葉をさらに続けた。

「それにね、シンちゃんは1週間以上前にここを出て第2新東京に行ってなきゃならないはずなの。それなのに、なぜまだここにいられるのか、わかってる?」
「え? あ……」

 そう言えばそうだ。新しい行き先を指定されたのは2週間も前だ。
 現に、アスカは2週間前にドイツに戻っていった。
 地上に服を取りに行ったときも、本当ならもうここを出なきゃいけないみたいなことをミサトさんがちらっと言っていたような気がする。
 なのに僕がここにいられるのは、僕が綾波の看病をできるように、ミサトさんが特別に取り計らってくれてたからなんだ。
 自分の部屋とこの病室以外の所に行かないという約束で。
 綾波が外の病院に移されなかったのは、それも守秘事項からで……
 それなのに僕は、これ以上まだ無理なお願いしようとしていた。
 僕はまだ周りが見えてない……

「……すいません……」

 シンジは謝っていた。
 あまりにも申し訳なくて。
 食事を終えたレイが、じっと二人の様子を眺めていた。
 ミサトはうなだれたシンジを見てため息をついたが、椅子に座ったまま足を組むと、あらぬ方向を見つめたまま、誰に言うでもなく言葉を走らせていた。

「ま、シンちゃんの気持ちも解るけどね。守秘義務がある以上、こっそり連れてってあげるなんてことは私も迂闊に言えない訳よ」
「…………」

 ミサトは黙ったままのシンジを片目でちらっと見ながら言葉を続けた。

「解ってくれる?」
「あっ、はい」

 ミサトが呼んだような気がしたので、シンジは顔を上げてミサトを見た。
 レイも黙って視線をミサトに向けている。
 ミサトはなぜか嬉しそうに笑っていた。

「ま、途中で変なところに迷い込んだりしないでね」
「…………」

 シンジにはその笑顔の意味が解らなかった。
 ただ、黙っているだけだった。
 レイは不思議そうな顔で二人の表情を見比べていた。

「じゃー、そろそろ出ましょうか」

 あっけにとられたシンジに、ミサトは元気な声で言った。
 そして組んでいた足を解くと、立ち上がって荷物を手に取る。

「あ、はい……綾波」

 ベッドを降りて靴を履こうとしたレイに、シンジはそっと手を差し延べた。
 レイはしばらく動きを止めてシンジの手を見ていたが、やがて穏やかに微笑んで、シンジの手を取って立ち上がった。
 ミサトは二人の様子を見ながら、気付かれないようにニヤッと笑うと、先に立って部屋を出ていった。
 シンジとレイは、その後に続いた。



「えーっと……ここじゃなかったっけ?」

 ミサトはブツブツと独り言を言いながら歩いていた。
 シンジは後ろについて行きながら考えていた。
 ……いったいどこを歩いてるんだろう?
 何だか出口と関係ない方向に行ってるような……
 ミサトさん、方向音痴だからな。
 最初にここに来たときも迷ってたけど、まだ憶えてなかったのか……
 さっきの角を曲がってればエレベータの方に行けたはずなんだけど、こっちの方が近そうとか言って真っ直ぐ行ってみたり……
 おまけに、どこなんだ、この細い通路……
 全く、早く出ようって言ったのは、何だったんだろうな。
 シンジは気付かれないようにため息をつくと、横を歩いているレイの顔をちらっと見た。
 レイは無表情に前を見つめながら歩いている。

「っかしーわねー。やっぱり迷っちゃったみたいねー」

 やっぱりってのは何なんだよ、やっぱりって。
 ミサトが廊下の真ん中で立ち止まったので、シンジは訊いてみた。

「ミサトさん、ここ、どこなんです?」
「さーね」

 ミサトは無責任にそう言いながら、キョロキョロと辺りを見回していた。
 レイのいた地下病棟は、安全のため、セントラルドグマの最深層に近いところに設けられている。
 シンジの記憶によれば、そこから出口へいく道は2、3通りくらいしかなくて、しかも途中で一度エレベータを乗り換えなけれなならなかったはずだ。
 そしてエレベータにはまだ一度しか乗っていない。
 どうやら出口はまだまだ上の階のようだ。
 ここはどの辺りなんだろう。いったい、いつになったら出られるんだ……
 シンジが呆れてミサトを見ていると、ミサトはごそごそと内ポケットをまさぐり始めた。

「ちょっち、聞いてみるわ。あ、そこのドア入ったところで待ってて」

 そして携帯電話を取り出しながら、シンジとレイに指示を出す。
 シンジは振り返って後ろにあるドアを見た。

「ドア? ここですか?」

 どことなく見憶えがあるようなないような……
 だが、ここのドアはどれも似ている。きっと気のせいだろう。
 シンジは言われるままに壁のボタンを押した。
 軽いエアの音がしてドアが開く。
 中は……

「……真っ暗ですよ」

 通路から光が射し込んでいるのに、中がほとんど見えない。かなり広いようだ。
 それに、何となく湿気臭い。
 ……何の部屋だろう?

「こんな所に入っても……」
「いーから、入って、入って。ほら、レイも……」

 時間の無駄、とシンジが文句を言おうとすると、ミサトは二人の背中を押すようにしてドアの中に押し込んだ。

「ちょ、ちょっと、ミサトさん……」

 レイが後ろから入ってくるので、はねのけて外に出ることもできない。
 シンジは押されるままにドアの中に入って行くしかなかった。

「それじゃ、ごゆっくり」
「え? ちょっと、ミサトさん!」

 閉まるドアに向かってシンジは叫んだが、ミサトは素早くボタンを押し、ドアを閉めてしまっていた。
 どうしよう、真っ暗だ……
 何も見えない。後ろにいるはずのレイの影さえも。
 だが、ドアを叩こうかと思った瞬間、いきなりライトが明るく点灯した。

「わっ……」

 さっきまで明るいところにいたから、目が慣れるのにそう時間はかからなかった。

「……ここは?」
「…………」

 自分たちの置かれた状況を前に、シンジとレイはしばらく黙って立ち尽くしていた。



Extra Episode #1

the Destinies




 ミサトは腕を組んで、シンジたちを押し込めたドアにもたれかかっていた。
 そして天井をぼんやりと眺める。
 その顔には薄笑いが浮かんでいた。

(ちょっち演出がわざとらしかったかしら?)

 でも、病室では誰に聞かれてるか解らないし、迂闊なことは言えないじゃない。
 それに、最後だから驚かせてやりたかったし……
 そんなことを考えていると、カツカツという高い靴音が近付いてきた。
 視線を下げ、足音のする方に目を遣る。
 廊下の向こうから、一人の白衣の女性がこちらに歩いてきていた。

「リツコ……」

 金髪の女性はミサトの前まで来ると、かけていたサングラスを外した。
 白衣の下には青いシャツ。そして黒いタイトスカートにタイツ。
 そして彼女は優雅に微笑んで見せた。
 ミサトもそれに笑顔で応える。

 あの後……全てが終わった後で、監禁されていたリツコを冬月の指示によりミサトが解放した。
 リツコは衰弱していたが、2、3日入院しただけで、すぐに職場に復帰することができた。
 そして今はエヴァの生体解明にいそしんでいるはずだった。
 今後、NERVが再移行すべき、人工進化研究所の基礎研究として。
 だが……

「何しに来たのよ、こんな所まで」

 ミサトはリツコの顔を見ながら言った。

(ちっ、リツコ……病室の中、モニターしてたのね……)

 そう考えて悪戯っぽい笑いに表情を変えながら。

「それはこっちのセリフよ。こんなところで何やってるの? 葛城一佐」

 リツコは飄々とした顔で言う。少し、薄笑いを浮かべながら。
 昔のままの彼女だった。

「何って、シンちゃんたちを送って行く途中よ」
「あら、それにしては、全然関係ないところに来てるのね」
「んー、ちょっち、道に迷ってね」
「無様ね……で、あの子たちは?」

 ミサトはそれに答えずに、もたれかかったドアの方を黙って目で指し示した。

「どういうことかしら? 部外者をこんな所に入れるなんて」

 そう言いながらもリツコは笑顔を崩さない。
 ミサトはわざと視線を外して天井を見ながら言った。

「単に空き部屋と勘違いしただけよ」
「確信犯じゃないの?」
「あら、何のこと?」

 そう話す二人は、心からその茶番を楽しんでいるように見えた。
 そしてリツコの笑顔が少しくだけた感じになったのを見てミサトは言う。

「で、何の用? まさかあんたも、偶然通りがかっただけじゃないんでしょ?」
「まあね。これを渡しておこうと思って」

 リツコはそう言いながら脇の下に挟んでいたハトロン紙の大きな封筒を差し出した。
 ミサトは封筒を受け取り、中をちらっと覗き込んだ。

「んー、何これ、ひょっとして……」

 中の紙束は、何やら難しい記号やグラフで埋まっていた。
 しかしミサトは急に表情を崩して言葉を続けた。

「例の、検査結果報告? 今日に間に合ったの?」
「まあね」

 少々興奮気味のミサトとは対照的に、リツコはあっさりと答えた。

「相変わらず約束は守ってくれるのねー」
「それが仕事だからよ」
「へっへー、見ていい?」
「止めても見るんでしょ?」

 表情が緩みっぱなしのミサト相手に、リツコは少々うんざりした顔で言った。
 現にミサトは、言うが早いが封筒の中身を取り出している。リツコの答えを聞く前に。
 そしてそこに描かれたグラフの群に目を走らせていた。

「何よ、これ、ややこしいわね……で、肝心なのはどれよ?」

 どの紙にも難しい外国語が並んでいるのを見て、多少いらつき気味にミサトがぼやいた。
 リツコは腰に手を当ててミサトを見ながら言う。

「一番後ろ」
「大事なのは一番前の方にしときなさいよ……で、えーっと……」

 そこには何かの対照表のような物が書かれていた。
 ミサトは目を左右に走らせながら、そこに書かれた数字を追っていく。
 しかし笑顔はみるみる真剣な表情に変わっていった。

「まさか……本当なの? これ……」

 顔を上げ、驚きの表情を隠せないミサトに、リツコは軽く言い放つ。

「あら、そんなにこの結果が信用できないかしら?」

 そう言いながらサングラスを手で弄ぶリツコ。
 そして白衣のポケットからハンカチを取り出してレンズを磨く。

「そうじゃないけど……でも、ねえ……」

 そう言った言葉は渋いのに、ミサトは少し微笑んでいた。
 リツコは天井を見上げ、ライトにサングラスを透かしながら言う。

「いいんじゃない? あの二人にとっては」
「まあねー、でも、戸籍上は……」
「あら、特に問題ないはずよ。どっちに転がってもいいようにしてと言ったのはあなたでしょう?」

 リツコはサングラスを胸ポケットに挿すと、ミサトの方を見ながらそう言った。
 ミサトは再びグラフに目を落とし、ニヤニヤしながらそれを眺めている。
 しかし、ふっと顔を上げ、リツコの方を見ると口を開いた。
 緩んだ表情を少し引き締めながら。

「それより、リツコ」

 今度はリツコが目を逸らす。
 ミサトはリツコの少しうつむいた顔を見ながら言葉を続けた。

「レイやシンちゃんに、何か言わなくていいの?」

 ミサトの目はもう笑ってはいない。
 リツコはしばらく黙っていたが、やがて顔を上げてゆっくりと言葉を漏らした。

「私には……何も言う資格はないわ」
「…………」

 それを聞いたミサトもしばらく無言だったが、一つ小さくため息をつきながら言った。

「一生背負って生きる気?」

 リツコはそれには答えず、胸ポケットに挿したサングラスを取り出した。
 そしてそのテンプルを広げて両手で持ち、レンズ越しに床をじっと眺める。
 それから、おもむろにそれをかけ直すと、ミサトの方をちらっと見て言った。

「……資格ができたら……その時は、言うわ……『ごめんなさい』とね……」

 それを聞いたミサトの表情が、少し緩んだ。
 そしてリツコの横顔を見ながら口を開く。

「相変わらず、不器用ね、リツコも」
「まあね」

 リツコはそう言って踵を返すと、今来た方に向かってゆっくりと歩き始めた。
 ミサトの声がその後を追いかける。

「早く立ち直んなさいよ、あんたも……」
「……そうね……」

 リツコは歩きながらちょっとだけ振り返ると、横目でミサトを見て言った。

「……あの子たちを、見習わなきゃ、ね……」

 そしてまた正面に向き直ると、靴音を響かせて去っていった。
 ミサトはその音が小さくなるまで、リツコの後ろ姿をじっと見つめていた。
 穏やかな笑顔を浮かべながら。



 シンジは黙ったまま前を見つめていた。
 目の前にあるのは広い空間だった。
 むき出しの鉄骨。壁を這い回るパイプ。天井から垂れ下がるワイヤー。
 そして視界の左端には、紫色の影が見える。

「ここは……」

 シンジは改めてその場の光景を眺め直した。
 だが何度も確かめる必要もない。
 そこはあまりにも見慣れた場所だった。

「……ケイジじゃないか……」

 シンジはそう呟いていた。
 そう、ケイジだ……そして、そこにあるのは、初号機……
 でも、どうして……どうして、こんな所にいるんだろう、僕らは?

「あの……」

 シンジは後ろに立っているレイの方に振り返った。
 レイもケイジの中をぼんやりと眺めていたが、振り向いたシンジに視線を合わせる。
 そして黙ってシンジの顔を見ていた。

(えっと……何だっけ……そう、ここに来ようと思ったのは……)

 理由を……話さなければいけない。
 ケイジに来たかった、理由を。

『ここを出る前に、ケイジを見ておきたいんだ』
『……どうして?……』

 昨日、レイには話さなかったその理由を。
 だが、なぜこんな所に自分たちがいるのかが頭に引っかかって、考えに集中できない。
 ここには来られないと言ってたじゃないか。
 ミサトさん……何考えてるんだ? まさか……

「えっと、その……とにかく、もう少し向こうに行こうよ」
「…………」

 シンジはレイにそう言って、前に歩き出した。
 レイは無言で後から付いて来る。
 シンジは歩きながら考えていた。
 ここに来ることができた理由は何となく解る気がする。
 しかし、ここに来たかった理由は……

 シンジはアンビリカルブリッジの真ん中で立ち止まった。初号機の正面で。
 ターミナルドグマから回収された初号機は、以前と同じようにそこに係留されていた。
 だが、もう動くことはないだろう。何でも、コアが変質してしまっているとか。
 そして今後は研究用の資料として使われるらしい。
 シンジはちらりと初号機の方を見てからレイの方に振り返る。
 レイは黙ってシンジの顔を見ていた。

「そう、ここに来ようと思ったのは、えっと、その……」

 言わなきゃ……ここに来たかった、理由は……

「もう一度、見ておきたかったんだ。その……僕と綾波が、初めて会った場所を……」

 だがシンジがそう言っても、レイは表情を変えずにシンジの方を見たままだった。
 まるで、何も思い当たることがないかのように。
 そんな、まさか、綾波……

「……憶えてないの?……」

 やはり少し心配だった。
 今、目の前にいるレイは、あの時のレイではない。
 記憶を受け継いだ、もう一人のレイ。いや、更に違うレイかもしれない。
 だから、もしかしたら、全てを憶えているわけではないかもしれない……

「……いつ?……」

 しばらく間があって、レイが口を開いた。
 シンジの目を真っ直ぐに見つめながら。
 やっぱり、憶えてないのか……

「……僕が初めてここに来た日。使徒が来た日。僕はあっちの方から入ってきて……」
「…………」
「父さんにエヴァに乗れって言われて……いやだって言ったら、綾波が運ばれてきて……」
「…………」
「綾波は、そう、今入ってきたところから……ベッドで運ばれてきたんだ……」
「…………」

 シンジは夢中でしゃべっていた。
 そうしていないと不安になりそうだったから。
 レイは黙ってそれを聞いていた。

「……急にここが揺れて……綾波はベッドから落ちちゃって……僕が、その、抱き上げたら、手に血が……」
「……そう……あなただったの……」
「えっ?」

 シンジの言葉を遮るようにして、レイが言葉を漏らした。
 それがシンジには何だか意外な気がした。
 憶えてるの? でも、どうしてさっきは何も言ってくれなかったの?
 シンジが黙っていると、しばらくしてレイが口を開いた。

「……知ってる……いえ、憶えてる、その時のこと……でも……そう、あなただったの……」
「あの……」

 憶えてるみたいだけど……憶えてないのか……僕のことを……

「あの……どういうこと?」

 シンジは訊いてみた。
 レイは黙って初号機の方に目を遣った。
 シンジもつられてそちらを見遣る。

「……私はあの時……あなたのこと、見ていなかったから……」

 初号機を見上げながら、レイは呟いた。
 シンジは黙ってそれを聞いていた。
 そうか……あの時はまだ、僕を……

「……私は、私の周りのことを、何も見ていなかったから……」

 シンジは視線を感じてレイの方に顔を戻した。
 レイはいつの間にかシンジを見ていた。
 紅い瞳はまるでシンジの心を射抜くかのように……

「……なぜ?……」
「えっ?」

 レイはシンジの目を見つめながら言った。
 だが、その視線は責めるようなものではない。
 何を訴えようと……何が、なぜ、なの?
 何を訊かれたのか……何を訊いていいのか……解らなくて、シンジは黙っていた。
 レイが再び口を開く。

「……なぜ、私を……護ってくれたの?……」
「えっ……なぜって……」
「……初めて会ったのに、なぜ?……」
「…………」

 そうだ……なぜなんだろう……
 シンジは考えた。
 今、言われて、初めて気が付いた……
 なぜ僕は、綾波を助けようとしたんだろう……
 なぜ僕は、あの後エヴァに乗ったんだろう……

 ……綾波を助けたかったから?
 なぜ……

「……わからない……」

 シンジは呟くように言った。
 本当に、なぜだか自分でもわからない……
 レイは口を閉ざしてシンジの方を見ていた。
 シンジは言葉を続けた。

「どうしてだか、わからないけど……」
「…………」
「綾波を見てるうちに、その……」
「…………」
「助けたくなって……エヴァに乗る気になって……」
「…………」

 シンジはたどたどしく言葉を紡ぎ、レイは黙ってそれを聞いていた。
 レイの瞳の色が、優しい……
 シンジは話しながらそれに気付いていた。

「でも、どうしてか、わからないんだ……」
「……そう……」

 シンジが話し終わると、レイがやっと小さな声を出した。
 そしてまた初号機の方を見る。
 シンジはしばらくその横顔を見ていたが、やがて初号機の方に目を遣った。

(……なぜ?……)

 レイは一人、考えていた。

(……なぜ、出逢ったの? 碇君と……)

 レイは初号機を見つめ続けた。
 まるで何かを問いかけるかのように。
 だが初号機がそれに答えることはなかった。

(……なぜ、ここで……)
(……運命だから?……)
(……ここは……そう、ブリッジ……)

 そしてレイの頭の中で想いは収束した。

(……そう、ここは……運命の、架け橋……私と……)

 レイは黙ってシンジの方に顔を向けたが、シンジはまだ初号機を見たままだった。

「……運命……」

 レイがポツリと声を漏らした。
 初号機の方に視線を戻しながら。

「えっ?」

 聞こえたはずなのに、シンジは聞き返していた。
 本当にレイがそう言ったのかと思って。
 あるいは自分の気のせいかも知れないと思って。
 レイの方を見た。だがレイは自分を見てはいない。
 シンジも初号機の方に顔を戻す。
 レイの声が続いた。

「……運命……私がここにいるのも、運命……あなたが、ここに来たのも……」
「あ……」
「……あなたが、私を護ってくれたのも?……」

 運命……それはレイの存在を司るものだった。
 あまりにも不自然な運命によって、自分はここにいる。
 そして出逢いも別れも、全て作られた運命なのかもしれない。
 だが……

 レイは視線をシンジの方に戻した。
 シンジはまだ初号機の方を見ていた。
 レイは考えていた。
 ……作られた運命でもいい……私は、ここにいたい……私は……
 ……私は、あなたに逢うために……生まれてきたのかも知れないから……

「運命か……そうかもしれないね……」

 シンジはレイの言葉を受けるようにして言った。
 運命……父さんがここに僕を呼んだのも、綾波やみんなと逢ったのも、エヴァに乗ったのも、全ては……
 その運命を恨んだこともあったけど、今は……どうなんだろう。
 まだわからない。これから……わかるのかもしれない……
 運命か……

「母さんが……作ってくれたのかな、その運命を……」
「…………」

 シンジの呟きを、レイは黙って聞いていた。
 そして初号機の方に目を向ける。
 初号機は黙って二人を見守るかのようにそこにあった。
 レイは、心の中で問いかけた。

(……あなたなの?……)
(……私の心を、見ていてくれた……)
(……消えた私の望みを、もう一度叶えてくれた……)
(……そう、あなたなのね……)

 それからもう一度シンジの方を横目でちらっと見た。
 そして初号機の方を見て目を閉じ、胸の中でそっと呟いた。
 感謝の言葉を。



運命。
定めによって、私は生きる。
誰が決めたの?
私の運命を。
誰が作ったの?
私を。

なぜ私、ここにいるの?
作られた私。
誰に?
人によって。
魂は、碇司令によって。
身体は……

この魂は誰のもの?
この魂は、私。
今ここにいる、私。
この身体は誰のもの?
リリスの身体。
そして……

ありがとう。
私に運命をくれた人。
ありがとう。
私に出逢いをくれた人。
ありがとう。
私に私をくれた人。
ありがとう。
『お母さん』……



新世紀エヴァンゲリオンは(c)GAINAXの作品です。

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Written by A.S.A.I. in the site Artificial Soul: Ayanamic Illusions